軍事侵攻に踏み切ったプーチンに、最大限の国際世論の非難を。
(2022年2月24日)
大袈裟ではなく、仰天動地の事態である。膝が震えるような衝撃。「まさか」が、現実になった。ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻が始まった。
1941年12月8日の多くの心ある人々の衝撃もこうであったろうか。私には、朝鮮戦争の始まりについての記憶はない。ベトナム戦争は飽くまで局地戦だった。キューバ危機は記憶に鮮明だが、結局回避されてことなきを得た。ところが今回、まさかまさかの内に、軍事大国ロシアが、NATOを後ろ盾とするウクライナへの侵攻に踏み切った。これは、世界史的大事件ではないか。
この間、国連も国際世論も、強くロシアを非難し牽制してきたが、残念ながら国連にロシアを制するだけの権威はない。全世界がこぞってロシアを非難するという空気も感じられない。世界の平和の秩序とは、かくも脆弱なものであったかと見せつけられたことが、「衝撃」の真の理由なのだ。
私は、今日の朝まで、漠然と最悪の事態は避けられるのではないかと考えてきた。まさか軍事侵攻はあるまいと思っていたのは、ロシアにとって、ウクライナに対する軍事侵攻が合理的な国家政策とは考えられなかったからだ。
ロシアの対ウクライナ政策の主たる目的は、ウクライナをNATOの影響から引き離し、ウクライナを緩衝地帯として確保しておくことだということと理解していた。それなら、武力による威嚇はあっても、武力の行使にまでは踏み切ることはないだろう。
国境線を越えて侵攻し、発砲し、爆撃し、国民を殺傷すれば、憎悪の禍根を残すばかりではないか。傀儡政権をデッチ上げようとも国民の支持を得られるはずもない。ウクライナを緩衝地帯として確保するどころか、くすぶり続ける火種をのこし、西側に押しやるばかりではないか。
しかし、現実から学んだ苦い教訓は、必ずしも軍は合理的に動くものではないということ。あるいは、国家としての長期的展望に基づく合理性は、為政者の個人的な目先の合理性とは必ずしも一致しないこと。
プーチンは、偉大なソ連復活を望む国内のナショナリズムに迎合したパフォーマンスをやって見せたのではないだろうか。それが、近づく大統領選挙に有利だとの計算で。しかし、この軍事侵攻で、ウクライナ国内を掻き回して、あとをどうする成算があるというのだろうか。今後何代も、ロシアはウクライナの怨みを背負い続けなければならない。それだけでなく、ロシアは国連憲章に違反した軍事侵略国としての汚名を着て、ロシア国民は肩身の狭い思いをしなければならない。
このようなときにこそ、国際協調による平和を希求する声を上げなければならない。まずは軍事侵攻をしたロシアをけっして許さないという市民の声を上げることだ。一人ひとりの声は小さくとも、無数の声が集まって力となる。