目出度さは 半分もなし 年の暮れ
(2025年12月31日)
2025年が暮れていく。振り返って、少しも良い年ではなかった。凶悪な指導者の愚行に歯がみを続けた一年だった。こんな指導者に民衆が権力を与えている。明らかに民主主義が劣化しているのだ。自由で豊かな人類の将来像を描けるか、というレベルの問題ではない。人類の存続は危ういと危惧せざるを得ない。年が明けても希望が見えるとは思えない。陰鬱な年の瀬である。
あらためて思う。人類は、自らを滅亡させる能力を獲得している。その能力を発揮して自らを滅亡させる手段は二つ。一つは戦争であり、もうひとつが環境破壊である。その両様の危険の逼迫が誰の目にも明らかになっている。
他方、人類の叡智は自らをコントロールして、一人ひとりの人権と福利を確保する技法を開発している。それが、法の支配と立憲主義・民主主義である。ところが、法の支配、立憲主義・民主主義のいずれについても、その形骸化を見せつけられるばかり。
昨年まで、人類の醜悪と愚昧を象徴する代表的人物が、プーチンとネタニヤフであった。およそ人間性に反した残忍さで、国際法を無視した侵略と殺戮をくり返してきた。今年の初頭から、これにトランプが加わった。いま、この3名が人類の暗黒面を支配しており、この暗黒面が全地球を覆わんとしている。
第2次大戦による世界的な大惨禍への反省から、人類は戦争を繰り返すまいと決意した。その決意が、国際連合憲章の前文に次のように表現されている。
われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、
正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、
一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること
並びに、このために、
寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、
国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、
共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
プーチンもネタニヤフも、そしてトランプも、この崇高な国連憲章を、鼻で嗤い、足蹴にしている。ウクライナに対する侵略と核による脅迫、パレスチナの人々に対するジェノサイドをやめない、やめさせることができない。殺人し放火し、学校も病院も破壊し食糧を奪う、こんな輩が民意に支えられて凶行を重ねている。
国内を顧みれば、今年は治安維持法制定から100年、敗戦から80年、ベトナム戦争終結から50年だった。これまで、遅い歩みにせよ、人権や民主主義、そして平和の思想は我が国に醸成されつつあると思ってきたが、今年は無念な年だった。
100年前、関東大震災が起きたとき、多くの住民が、「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」などのデマを流し、デマを信じて、大量の無辜の人を虐殺した。今、日本国民に、どれほどのこの反省ができているのか。
「外国人観光客の中に奈良の鹿を足で蹴り上げるとんでもない人がいる」とデマを発言する人物が、首相になった。その発言の根拠を問われて、「自分なりに確認した」としか説明できないみっともなさ。
もちろん、この人物には思惑があった。外国人の誹謗をすることが自分の支持の拡大につながるという計算である。民衆の排外意識がこんな劣悪な政治家を育て、民衆のレベルにふさわしい政治指導者を生み出してしまっているのである。
民主主義は、覚醒した国民の下でしか実を結ばない。劣化した国民は、形式的な民主主義がヒトラーもムソリーニもトランプも生むことになる。
明るくもない来年だが、少しでも、できることをやり続けるしかない。