日米支配層からの日本国憲法虐待に ストップを
本日は、66回目の憲法記念日である。
この国に、奇跡のごとく珠玉の日本国憲法が生まれ、また奇跡のごとく66年間改憲を阻止し得たことをまずは喜びたい。同時に、この憲法がこれまでの激しい攻撃に曝された歴史を省み、この日を、この憲法を守り生かし輝かせる覚悟の日としたい。
日本国憲法は官民の盛大な祝賀の中で誕生した。戦争の惨禍を2度と繰り返してはならないとする国民感情は国中に満ち満ちていた。なによりも平和が歓迎され、平和を保障する手段としての国民主権と人権の尊重は国民が遍く積極的に支持するところであった。国民注視の中で、帝国議会での「憲法改正」審議が進行して新憲法制定に至ったとき、国民は歓呼をもってこれを祝福した。賑やかに花電車が走り、憲法音頭が踊られた。官製副読本でも新憲法の意義が強調され、国民主権・人権・そして戦力の不保持は、新生日本の明るい未来を指し示すものであった。
しかし、その官民共同の新憲法への祝福は3年ともたなかった。東西冷戦構造下における占領政策の転換以降、日米の支配層にとって日本国憲法は政策遂行の桎梏となった。憲法がようやく3歳になったばかりの1950年6月、朝鮮戦争勃発を機に「警察予備隊」が発足、これが52年保安隊、54年自衛隊となった。憲法9条、とりわけその2項の受難の歴史が始まった。他の憲法理念についても同様と言ってよい。
以来、日本国憲法は日米支配層がこれを攻撃し、日本の民衆がこれを擁護する関係の図式となって今日に至っている。憲法「改正」は、アメリカがこれに従属する日本の保守政権に押し付けたものであり、日本の民衆はこの「押し付け」を跳ねのけて、今日まで憲法を擁護した。そのことを通じて日本国憲法は、次第に民衆の血肉として定着した。日本国憲法は、保守政権からは虐待児とされたが、日本の民衆にとってはいつくしみ育てた愛児となった。
とはいえ、日本国憲法は単なる庇護の対象ではない。実定憲法として、日本の民衆の平和・人権・民主々義の具体化の鋭利な武器となり得るものである。この憲法を使いこなさねば宝の持ち腐れ、改憲を阻止してきた意味も薄れる。政治の場で、生活の場で、社会的な運動のあらゆる場面で、そして法廷で、憲法を輝かせることを心掛けたい。
なにゆえにかくも憲法にこだわるのか。憲法に盛り込まれている理念と統治の構造が、国民の未来を直接に左右するものだから。人間が生きていくための行動の自由、精神の自由、経済活動の自由はどうなるのか。権力を構成する仕組みやそのチェックはどのようにされるのか。侵害された権利を救済する裁判所はどのように設計されているのか。そして、平和はどう保たれるのか。民主々義はどう生かされるのか、教育はどうなるのか、報道の自由の運命は、宗教は‥。それらすべての問題の根底に憲法が関わっている。
そのような観点からすれば、改憲を阻止するそのこと自体が問題であるよりは、改憲阻止のせめぎ合いを通じて、憲法の理念を擁護しあるいは現実化できるかが主要な問題点である。明文改憲を阻止しえたとしても、徹底した解釈改憲や立法改憲によって憲法理念が圧殺されれば、民衆の側の敗北と言わざるを得ない。
いま、憲法問題として、何が実質的にせめぎあいのテーマとなっているのだろうか。
もっとも鋭い対立点は防衛問題である。自衛隊の行動についての解釈改憲の限界が見えてきて、明文改憲なしでは、海外での戦闘行為ができない、自衛力を超える武装もできない。自衛権行使の限界を取っ払った国防軍にすることによって、世界のどこでも武力行使のための派兵が可能になり、盟主アメリカの手下としての働きが可能となる。この軍事力の整備と海外展開志向の動機は目上の同盟国アメリカの「押しつけ」によるものだが、海外展開する日本企業の強い要求に沿うものでもある。
防衛問題と並んで突出しているのが、極端なまでのナショナリズムの昂揚である。天皇、国柄、国旗・国歌、元号、歴史・伝統・文化、政教分離の緩和‥。そして、家族の尊重である。一見、時代錯誤、精神の退化のごとくであるが、おそらくそうではあるまい。
背景に大企業の要請としての新自由主義政策がある。メガコンペティションの時代に大企業が勝ち抜くためには、経済的強者の自由こそが尊重されなければならない。経済弱者には最大限の自助努力が要請され、財政を通じての所得再分配機能は抑制されて、大企業の負担の軽減が追求される。その結果、格差は拡がり貧困が蔓延する。そのままでは社会の不満が鬱積し社会が壊れる。そのような社会の再統合をしなければ安定した社会の持続が困難となる。再統合のシンボルとして天皇や国柄、伝統・文化・歴史、民族的アイデンテティが利用される。政策が生み出した貧困層を反体制化させずに、日本国民であることのありがたさに満足させることができれば、こんなにうまい手はない。
軍事大国化は大きな政府、新自由主義は小さな政府を指向する。矛盾はするが、徹底して国民には自助努力を求めて福祉や教育の予算を削る一方、国防予算だけを肥大化する国家が目指される。直接税中心主義から間接税中心主義になり、長期的には累進課税のさらなるフラット化が目指されている。要するに、弱肉強食の市場原理が横行する社会の到来が間近であり、それに対応する憲法「改正」が目指されている。
そしていま、憲法への虐待が本格化されようとしている。まず憲法96条に改憲の矢を立て、ここに穴がこじ開けられようとしている。全力でこれを阻止しなければならない。
本日の憲法記念日は、そのように自覚して、日米支配層から虐待されている日本国憲法を守り励まし、一層その真価を発揮すべく運動する覚悟を新たにすべき日としたい。