澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

スガ政権による学問の自由侵害の、その先にあるもの

(2020年10月8日)

スガ新政権の日本学術会議への強権的な人事介入。この報に接して以来、首筋に薄ら寒さが消えない。秋風のせいばかりではない。あの、戦前のイヤーな歴史の記憶が、甦るからだ。

思い出されるのは、1933年の京都帝大・「滝川幸辰」事件、35年の東京帝大・美濃部達吉に対する「天皇機関説」事件である。政府の強権と右翼の暴力とが学問の独立や自由を蹂躙した後に、全体主義の国家と社会が完成した。そして、38年の国家総動員法から40年大政翼賛体制確立を経て、41年の太平洋戦争開戦へとつながっていく。

苛酷な戦争の惨禍を体験した戦後日本は、以下の「日本学術会議法」前文のとおりに科学を位置づけて学術会議を設立した。

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。

科学の使命は、「わが国の平和的復興と人類社会の福祉への貢献」だというのである。日本学術会議の主要な役割は、平和憲法と軌を一にして、再び科学が戦争の惨禍をもたらすことのないようにすることであった。今、国の産学官一体となっての防衛産業興隆策に、学術会議は科学者の良心を結集してよく抵抗してきた。

下記の「軍学共同反対連絡会」(共同代表、池内了・香山リカ・野田隆三郎)による「菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める」声明の、下記抜粋に全面的に賛意を表する。

http://no-military-research.jp/

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2020年10月5日

菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める

軍学共同反対連絡会
共同代表 池内 了 (名古屋大学名誉教授)
同    香山 リカ  (立教大学教授)
同    野田隆三郎(岡山大学名誉教授)

 私たち軍学共同反対連絡会は、戦前の日本の科学者たちが軍国主義政府に追随して侵略戦争に加担した歴史を反省して、科学者が軍事研究に手を染めることに反対する活動を続けてきた。その際に、日本学術会議が発した「軍事研究には絶対に従わない」との二度の決議と、それを継承する2017年の声明が大いなる導きとなってきた。今回の(菅首相による会員候補)任命拒否には、日本学術会議声明が大学における軍事研究を抑制している現状を変えようとする狙いも込められていると報じられており、その点でも私たちは断じて許すことはできない。

 日本学術会議は、単に日本の学術を代表する機関であるにとどまらず、科学者に対して自らの学問的良心と科学者としての倫理を想起させるとともに、広く学問の在り方を点検するための重要な機関である。私たちは、日本学術会議が任命拒否に怯むことなく、また学問の論理を追求することを怠らず、これまで通り学術の独立性を保つ姿勢を毅然として持ち続けることを強く期待している。

スガ新政権の日本学術会議に対する強権的な人事介入は、学術会議の独立の破壊であり、学問の自由の侵害である。さらにその先にあるものは、軍事研究に反対し、軍産学複合体制の確立に抵抗する学術会議への権力的掣肘なのだ。そのことが、首筋の薄ら寒さが消えない理由である。

学術会議会員任命拒否 ー スガ政権の『真の意図』と『表向きの理由』と。

(2020年10月7日)
政権は、思うとおりにならない科学者・研究者が目障りでならないのだ。世論を二分する重大な政治問題で、有力な学者たちが、反政府側の世論の先頭に立つ。理性や良識をもつ国民に影響力をもつこの人たちを何とか統制したい。その思惑での、菅政権による学術会議会員候補者の任命拒否である。反政府的言動を理由とする学術会議からの排斥であることが明らかと言ってよい。

真の意図を隠して、この度の6人の任命拒否を正当化する理由は、二つに絞られている。一つは、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》という論法。そしてもう一つは、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》というもの。いずれも、ほとんど説得力をもたない。

権力というものは、なんでも意のままにやりたいという危険な衝動をもっている。この衝動が暴走に至らぬよう幾重もの歯止めの装置が必要なのだ。そもそも法の支配や立憲主義が、そのためのものである。権力の分立による相互の牽制も、人権という法技術も、野党の存在も、教育やメディアに権力の介入を禁じる原則も、権力の暴走への歯止めとなっている。

日本学術会議とは、その政策に学術を活用するために設けられた国家の一機関ではあるが、自ずから「独立性」を第一義とするものである。学術というものが、時の政権の思惑から当然に独立している存在であって、忖度のない立論や提言がなければ、そもそも存在価値はない。また、国家は、学者集団の叡智が発する時の政権への苦言に耳を傾けることによって、暴走の誤りを避けることが可能となる。学術会議とは、宿命的に政権に耳の痛い発言をする組織なのだ。

そのような機関の新会員任命権を内閣総理大臣が実質的に握っているというのは、憲法や日本学術会議法の解釈として明らかに妥当でない。学術会議の推薦のとおりに、内閣総理大臣が形式的な任命手続をすべきと解するのが正しい解釈というべきである。仮に、内閣総理大臣の任命権をまったくの形式とは解せないとしても、学術会議の推薦が常識を逸したものであった場合に限定されざるを得ない。そのような例外的な任命拒否について、総理側に厳格な説明責任が課せられるべきは当然である。

果たして、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》と言えるだろうか。法は、明らかに、学術会議の独立性を認めて、時の政府におもねることのない活動や提言を期待しているのである。政府に批判の言動あった者を任命拒否するなど、あってはならないのだ。

また、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》などと言ってよいものだろうか。その性質上、国家は国費を投じても、これに介入すべきではない部門はいくつもある。教育・研究機関はその典型である。この論理を認めると、国費が投じられている国立大学・国立研究機関(独立行政法人も)は、時の政権からの介入を受けない「大学の自治」「学の独立」が根底から崩れてしまう。理は政権側にはない。

10月2日、学術会議は、菅首相に対し、
?任命されない理由を説明していただきたい、
?任命されていない方について速やかに任命していただきたい、
の2点を要望する「要望書」を提出した。

この学術会議の要望を支持する国民の意思を積み重ねていく運動の展開が必要となっている。スガ強権政治を許してはならない。

「総合的、俯瞰的活動を確保する観点」って、わかるかな? わからないだろうな。言ってる自分もわからないんだ。

(2020年10月6日)

学術会議の新会員任命拒否問題というやつ。思いがけなく大きな問題になって、まずかったかなって頭抱えてるんだが、弱気なところを見せるわけにもいかないだろう。マスコミから会見やれってうるさい。逃げてばかりというのもみっともないから、昨日(10月5日)は、3紙だけ「内閣記者会の共通インタビュー」というのをやってみた。ペーパー読みながらのしゃべりだから楽なものだったが、評判はよくない。確実に支持率は下がることになる。憂鬱でならない。

 ― 日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命を拒否した理由は? 政府は1983年、学術会議の推薦を受けて形式的に任命するとの立場を示したが、法解釈を変更したのか。

 えらくストレートな質問だが、私は「ご飯論法」の継承者として、決してまともに答えるようなまぬけたことはしない。そんな答弁では、ほんとのことがバレバレになるじゃないか。「拒否した理由」も、「法解釈を変更したか否か」も、決して答えない。聞かれていることには答えず、聞かれていないことにだけ答える。これが安倍継承の菅流。

 「法に基づいて、内閣法制局にも確認の上、学術会議の推薦者の中から首相として任命している。個別の人事に関するコメントは差し控えたい」

 質問は、「本当に法に基づいての任命拒否行為なのかを知りたい。そのため、まずは拒否理由を明確にしていただきたい」と問い質しているのだが、「法に基づいての任命行為」と、結論だけを強引に言っちゃう。で、「内閣法制局にも確認の上」と権威付けたのだが、アベ政権以来、「首相に忖度の内閣法制局」と権威失墜だからあまり意味はないか。そして、「学術会議の推薦者の中から任命を拒否した者」について聞かれているのだが、「学術会議の推薦者の中から首相として任命している」とはぐらかす。最後は、「個別の人事に関するコメントは差し控えたい」と、断固として答弁を拒否。どうせ食い下がる記者なんかいない。もし、そんな記者がいたら、情報をやらなくすればよい。しかも時間を限ってのものだ。この程度の答弁で十分だろう。

もう少し、聞かれていない余計なことを付け加えておいた。こうしておけば、政権に近い学者や、会食を重ねている報道関係者が、忖度の記事を書いてくれるだろう。

 「学術会議は政府の機関で、年間約10億円の予算を使って活動し、任命される会員は公務員の立場になる。現在の会員が自分の後任を指名することも可能。推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた。会議は、省庁再編の際に必要性を含めて相当議論が行われ、総合的、俯瞰的な活動を求めることになった。総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から、今回の任命についても判断した」

 締めの言葉が、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から、今回の任命についても判断した」と言うんだ。きっと、この原稿起案した官僚もなに言ってるのかわからんだろうな。読んでる私も、さっぱりわからない。聞かされている記者も国民も、わかるはずはないんだが、それでもいいのさ。後になれば、「これまで、丁寧にご説明してまいりましたとおり」という材料になるんだね、これが。

 「過去の国会答弁は承知しているが、それぞれの時代の制度の中で、法律に基づいて任命を行っている」

 「法解釈を変更したのか」という問に対する回答個所だが、これも分からない。上手に分からぬよう書くものだと、起案者を褒めるしかないね。

 ― 学問の自由を侵害するとの指摘をどう考えるか。6人が(安全保障関連法など)政府提出法案に反対の立場だったこととの関係は。

 これも、あまりにストレートな質問。「学問の自由を侵害するとの指摘はごもっとも」なんて答えるわけにはいかないだろう。「政権が学問の自由を侵害しているのでないかとの疑義は払拭しなければならない」とも言えない。結局は、「学問の自由とは全く関係ない。」と言わざるを得ないじゃないか。聞いた人が信じるはずもないにせよだ。

そして、みんな知っているとおり、政権は、自分に対する批判者を排除したいのだよ。当たり前じゃないか。法的にできるかどうかではなく、力関係を量っての排除できるかどうかの判断なんだ。国民の反感を買って支持率が大きく下がり、次の選挙に響くと思えば、無理はできない。しかし、大きく選挙に響かないのなら、強引にやるだけなのさ。

質問者だけでなく、国民ももうよくわかっている。安倍政権の憲法改正の方針や、反憲法的な強引な政策に、科学者や研究者と言われる人たちの多くが、先頭に立って異議を唱えてきた。その影響力は無視できない。だから、反政府的な発言をする学者に対しては、「黙っておれ」というメッセージを送らなければならない。6人は、そのような影響力を持った学者として、「黙っておれ」というメッセージとして、任命を拒否されたのだ。そんなこと、常識的にわかることさ。この6人が、学術会議の会員になれなかったから、政府批判を遠慮するようにはならないだろう。しかし、その周囲に対する萎縮効果は十分に期待できるはずだ。世の中、「長いものには巻かれろ」と考える人々が多いのさ。

もちろん、そんなホンネを口にできるはずはない。しかし、まったく否定してしまっては、十分な萎縮効果を期待できなくなる。そこで、こんな風に、否定しつつも、匂わすわけだ。「6人についていろんなことがあったが、そういうことは一切関係ない。総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した。これに尽きる」 

「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断」って、なかなかのものじゃなかろうか。以後、私のことを、「総合おじさん」とか、「俯瞰おじさん」と呼んでくれたまえ。

スガ政権の学術会議人事介入問題、論点をすり替えてはならない。

(2020年10月5日)

スガ政権は、日本学術会議が推薦した新会員候補6名の採用を拒否した。これは、一大事件である。個々の被推薦者にしてみれば、「研究内容による思想差別」であり「政府批判発言による差別」であるが、大局を見れば「学術会議の独立性の侵害」であり、とりもなおさず「学問の自由の侵害」にほかならない。その本質は「権力による科学や研究の統制」なのだ。こういう権力の動きには敏感に反応し反撃しないと、少しずつ「自由の陣地」が狭められて、気が付いたときには取り返しのつかないことになる。いつか来た道のように、である。

こういうときには、必ず親体制派・親政権派のデマゴーグが頭をもたげる。「過剰反応だ」「騒ぐほどのことはない」と言い、さらに必死になって「論点すりかえ」を試みる。

1970年のあのときを思い出す。札幌地裁の平賀健太所長が、憲法9条の解釈に関わる長沼ナイキ基地訴訟を担当していた福島重雄裁判長に、執拗に判決を誘導する「助言」を行った。いわゆる「平賀書簡問題」である。平賀の所為は、明らかに「裁判(官)の独立」への侵害である。札幌地裁の裁判官会議は平賀所長を厳重注意とした。

ところが、その直後に、鹿児島地裁所長の飯守重任が「非は平賀にではなく、反体制的組織である青法協に加入している福島裁判官にある」との発言が大きな転換点となった。これを機に「裁判(官)の独立侵害」問題が、「裁判官の政治的中立性」や「青法協の政治性の有無」へと問題がすり替えられた。

同様に、23期司法修習生7名の裁判官任官志望者に対する任官拒否も、「差別」「統制」「裁判官人事を手段とする「司法の独立の侵害」という本質を、裁判官の資質としての「公正らしさ論」に問題がすり替えられ、世論への一定の影響を与えた。

学術会議に対する人事介入問題については、メディアは問題を「批判を嫌う政権が、批判の発言をした研究者を排除した」「尊重すべき学術会議の独立性を、政権が侵害した」と捉えている。この「学問の自由」侵害という本質の論点をすり替えてはならない。

すり替え論の典型例が、「学術会議こそ新規会員推薦基準を明確化せよ」「そもそも政府内の機関が独立性を保てるのか」「政府から予算をもらって政府批判を繰り返しているのが学術会議ではないか」という類い。このような「論点ずらし」に引っかけられて、本質の論点を見失うようなことがあってはならない。

なお有益な資料一点(抜粋・一部分かり易く表現を変えている)をご紹介する。日本天文学会が発行する月刊誌「天文月報」2019年7月号に、「日本学術会議と日本の天文学」という記事があり、下記アドレスで読める。筆者は、著名な天文学者だった故海部宣男さん。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2019_112_07/112-7_494.pdf

「…よく知られていないこともあるようなので,日本学術会議の変遷を直接経験した世代として,「歴史的解説」をしてみる.」との前書きがあって、その一節に下記の記事がある。

運営費を国から貰う事と意見する事について

 日本学術会議は,法律で「政府から独立して」提言や勧告等をすることができると定められている.これは第二次世界大戦前の大学や学問への政治介入への反省から来ていて,世界的にも先進諸国ではそのように社会的な了解が得られている.実際,かつての原子力発電の日本導入時に米英からの直接輸入を唱えた政権に対して,湯川秀樹氏・朝永振一郎氏たちが日本での基礎・開発研究を重視し,まず日本で実証炉段階くらいまでやるべきと主張した.時の政権はこれを無視し,結果として日本の原子力利用研究が極めて脆弱なものになってしまった.福島原発事故とその対応,数々の原子力政策のお粗末さなどで,それが露呈している.

 国から運営費を貰っているから政府と対峙できないということにはならない.《時の「政府」》と《国民全体が支える「国」》とは異なることをはっきりさせる必要がある.時の政府に対しては,運営費をもらっている大学であろうが研究費をもらっている研究者であろうが,批判することはもちろん,「対峙」することもあり得る.例えばトップダウンの大学改革に対しては,ほとんどの研究者が批判的なのではなかろうか.大学に改善すべき点が多々あることは認めるとして.

 学会とともに様々な課題の克服に向けて働く私自身はこの問題について,科学の自律の大切さを理解しない日本の政治の未成熟さと,科学者自身の自分の分野を守ろうとする狭さとの,両方の克服が必要と考えている.

国家から予算の配分を受けていても、国家におもねって批判すべきを躊躇してはならない。それが、研究者・研究機関としての当然のありかたであり、時の政権ではなく、国民の利益にかなうことである、ということなのだ。海部さんは、このことを「科学の自律の大切さ」と表現し、これが十分に理解されない現状を、「日本の政治の未成熟さ」と嘆いている。

今、スガ政権は「日本の政治の未成熟さ」を露わにしたどころではない。「日本の政治反動の恐怖」を露呈しているというべきであろう。

鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。

(2020年10月4日)
たまたま、「花に水 人に心」と表題するあなたのホームページに、「ムネオ日記」というブログを拝見しました。昨日(10月3日)16:19のものです。

https://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12629162336.html

そこには、あなたのご意見として、次のような記事が掲載されていました。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

 一読して、あまりに一面的で乱暴な内容に、これが国会議員の議論かと驚かざるを得ません。おそらく、あなたには、このような分かり易く単純化し、そして結論を明確にした立論が、選挙民からの支持に繋がるのだという計算があるのだと思います。しかし、この問題は、国家の命運にもかかわるといって大仰ではなく、軽々しく扱うには危険に過ぎるテーマではありませんか。是非、再考をお願いいたします。

あなたは、永く「自由・民主」党の政治家でした。現在所属しておられる「日本維新の会」の綱領・基本方針の中にも、依拠する価値観として「自由主義」「民主主義」の理念が書き込まれています。「権力からの国民の自由」と「権力を構成する手続としての民主主義」とは、あなたにとっても、何よりも大切な政治信条となっているものと拝察します。

しかもあなたは、「国策捜査」「国策起訴」によって、あっせん収賄罪など4つの罪で懲役2年の実刑判決を言い渡され、議員資格を剥奪された無念の経験をお持ちの方です。あなたの未決勾留日数は437日の長きを数えています。あなたは権力の集中の弊害や、権力の横暴の恐ろしさを身をもって体験しておられるではありませんか。強力な権力の危険性について、もっと警戒心を持って然るべきと思うのですが、いかがでしょうか。

18世紀末葉のフランス人権宣言(第16条)が、「人権の保障と権力分立の関係」について、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と定式化して以来、「自由主義」「民主主義」の理念からは、全てが集中される強力な権力は危険極まりないものとして、その存在自体が許されません。少なくとも、司法部は独立していなければなりません。形式的には法務省に所属する検察官も、法務大臣の指揮権発動という政治的非難を覚悟することなしには、政権の意のままになってはならないのです。司法だけでなく、学問も教育もメディアも、権力の集中や介入・統制から「自由」でなくてはなりません。

今問題は、学問(学術・研究)に公権力が介入してはならないという大原則が揺らいでいるということです。憲法23条は、「学問の自由はこれを保障する」と定めています。国家に真理を定める権限はなく、政府に不都合な研究やその成果の発表を抑制したり、否定的な評価を加えるようなことはしてはなりません。もちろん、政府に不都合な発言をした研究者を差別したり、不利益を課することは決して許されません。

政権は、いかなる手段によっても、学問の自由に干渉し、影響を及ぼしてはなりません。これまで、学問の自由は、大学の自治に支えられるものとして、公権力が大学の自治を侵害してはならないという文脈で語られてきました。日本学術会議法の第3条は、「日本学術会議は、独立して左の職務を行う。」と明記しています。大学の教員人事に、政府が介入してはならないのと同様に、政府は日本学術会議の運営や人事の独立性を尊重し、介入してはならないのです。以上の観点からは、あなたのご意見には、以下のとおりの問題があるものと指摘せざるを得ません。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 「一部新聞、報道機関」が「ことさら大きく取り上げ」という評価は不正確ではありませんか。学術会議人事への報道は、決して「一部報道機関」だけのものではありません。客観的に見れば、この問題を「ことさらに取り上げない」報道機関があるとすれば、「何らかの意図をもって、ことさらに無視しているもの」と指摘せざるを得ません。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 決して「任命側の判断があって当然」ではないことから、問題が噴出しているのです。とうてい、「当然である」などと一言で切り捨てられる事態ではありません。そのような問答無用の姿勢は、「花に水 人に心」を標榜する政治家にふさわしいとは思えません。

 また、あなたの仰る「規則」とは、法規範の全体像を意味しているものと思われます。それは、憲法(23条)→日本学術会議法(3条、7条2項、17条)→法制定経過や立法提案者の国会説明・これまでの前例・慣行、を総合的に勘案しなければなりません。少なくもこれまでは、科学者の自主性や独立性を尊重して、新規会員人事は、学術会議自身が決定し、内閣総理大臣の関与は形式的なものあると、誰もが「規則」を理解していたのです。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 「『学問の自由』が問われる」という報道は至極当然ではありませんか。「任命されないことと、学問の自由とは全く別次元」と仰ることこそ、意味不明で理解不能です。権力を持つ者が、自らに不都合な発言をする研究者を、不利益に差別し、学術会議から排除しようとしているのです。学問的良心に忠実で、政府に不都合な発言をする研究者を権力者が排斥するのですから、まさしく学問の自由の保障が問われている事態なのです。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

少なくとも、これまでは、「学術会議が推薦した人を必ず任命すべきである」ということが当然の「規則、ルール」であると理解され、そのように運用されてきました。1983年5月12日の参院文教委。現行改正法の枠組みができたときの国会答弁は、中曽根康弘首相自身がこう答弁しています。
 「これ(学術会議会員の任命)は、学会やらあるいは学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております」

「形式上の任命権者」が、密室で非民主的に突然に解釈を変えたのが、今回の菅義偉政権のやり方なのです。本来、尊重さるべき学術会議の推薦名簿に、政権が「一方的にクレームを付け、まことに唯我独尊、自分中心の身勝手な人事介入をした」のです。このようなムチャクチャは、止めて戴きたいとお願いするしかありません。

ご賛同いただけないでしょうか、鈴木宗男さん。

学術会議人事介入を重大問題と受けとめる感性を

(2020年10月3日)
スガ政権による、日本学術会議会員人事への介入事件。その第一報は、10月1日赤旗一面のトップ記事だった。「菅首相、学術会議人事に介入」「推薦候補を任命せず」「安保法批判者ら数人」「前例ない推薦者外し」というもの。

これに目をやって、なんともイヤーな気持ちになった。日本は、こんなところまで落ちてしまったのか、いったいこれからどうなるのか、という失望と焦慮との入りまじった感情。ともかく、たいへんなことになったというのが「第一感」。

本日(10月3日)の毎日朝刊コラム「土記」に、専門編集委員の青野由里が、こう述べている。「(学術会議に)菅義偉政権が人事介入したと知って、背すじがざわっとした。理屈以前に、『民主国家でやってはならないこと』と直感的に信じてきたからだ。」とある。

青野さんの言うとおり、《理屈以前の直感》において「背すじがざわっとした」という感性・感覚が大切だと思う。この種の問題については、憲法感覚、人権感覚、歴史感覚、主権者感覚…が重要なのだ。理論的な思考を経て到達する以前に、事態の適否と重要性を受けとめる直感や感性がなくてはならない。

その感性の出所は、歴史の読み方や、社会の見方の積み重ねによって培われるもので説明はしにくいが、この件を平然と「それがナニカ?」「政権の何が問題?」という人とは、付き合いたくない。

おそらくは、個人対国家、人権対秩序、自由対集権…という社会を語る基本枠組みにおいて、強権的国家主義秩序の側に立つことを容認するか否かの「感性の試金石」が問われているのだ。

いかなる権力も、腐敗・暴走を免れない。いかなる権力も危険を内包している。過度に集中し、過度に強力な権力は、過度に危険な権力でもある。権力機構は分散させ、権力には批判が必要である。

そのために、司法は権力から独立していなければならない。検察官の独立も必要である。地方自治も不可欠である。そして、学問も、教育も、メディアも、宗教も、権力から独立していなければならない。それが、健全な政府と社会のありかたであり、個人の尊厳や自由を擁護するための鉄則である。政府批判は、許容されねばならない。批判を封じる権力は、実は脆弱なのだ。

日本学術会議の創設は、学術・科学を国家の恣意的な支配に任せることは危険であるという基本発想になるものである。政府に建言する専門家の叡智の結集の在り方を、専門家の自治と自主性に任せ、独立を保障した組織としている。権力の、学問・教育への介入の愚かさと、その帰結がもたらす悲惨とは、全国民が骨の髄まで身に沁みたことではないか。あの愚をまたまた繰り返そうというのか

ともかく、事態は深刻である。以下に、目についた記事や論稿を採録しておきたい。このような無数の批判の論稿が発表されることを期待したい。

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第25期新規会員任命に関する要望書

令和2年10月2日

内閣総理大臣 菅 義偉 殿

日本学術会議第181回総会第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。
1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。
2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。

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日本学術会議会長殿

要請書 日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向け総力であたることを求めます

私たちは、2020年8月、第25-26期日本学術会議会員候補者として推薦されました。小澤は2008年10月から12年にわたり、岡田と松宮は2011年10月から9年にわたり、連携会員として日本学術会議の活動に誠心誠意参画してきました。私たちはこうした参画とこの度の推薦を栄誉なことと思い、会員候補者としての諸手続きを済ませ、事務局からの総会、部会等への出欠の問い合わせにも応じて、10月1日からの総会等への参加を準備していました。ところが、9月29日、突如として、内閣総理大臣による任命がされない旨伝えられました。日本学術会議としても前代未聞の事態と聞きます。
私たちの日本学術会議会員への任命を拒むにあたり、内閣総理大臣からは理由など一切の説明がありません。これは、日本学術会議の推薦と同会議の活動への私たちの尽力をまったく顧慮しないものとして、到底承服できないものです。もしも私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、日本国憲法第23条が保障する学問の自由の重大な侵害として断固抗議の意を表します。
また、今回の事態は、私たちだけの問題ではなく、日本学術会議の存立をも脅かすものです。日本学術会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」(日本学術会議法第2条)として、「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」などの職務を「独立して」行い(同法第3条)、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策、科学を行政に反映させる方策」などについて、「政府に勧告することができる」(同法第5条)とされています。こうした日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになれば、すべて否定されてしまい、学問の自由は、この点においても深刻に侵されます。
貴職におかれては、このような重大問題をはらむ私たちに対する日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向けて、会議の総力を挙げてあたることを求めます。
2020年10月1日

小澤隆一 東京慈恵会医科大学教授 憲法学
第21-24期日本学術会議連携会員
岡田正則 早稲田大学法学学術院教授 行政法学
第22-24期日本学術会議連携会員
松宮孝明 立命館大学大学院法務研究科教授 刑事法学
第22-24期日本学術会議連携会員

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前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)@brahmslover?10月1日

菅首相が学術会議の推薦した会員候補者を任命しなかったのは、
憲法が保障する学問の自由を踏みにじる行為だ。
日本会議会議法にも反する行為だ。
糾弾されるべき行為だ。
国民はこの行為の問題性をはっきり認識するべきだ。
メディアはしっかり追及するべきだ。
なぜ任命を拒否したのか、菅首相は説明せよ。

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菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、
撤回を求める声明

菅首相は、2020年10月1日から任期が始まる日本学術会議の新会員について、同会議が推薦した105名の候補のうち6名の任命を拒否した。

日本学術会議は日本の科学者を内外に代表する機関で首相所轄であるが、政府から独立して政策提言等をし、会員は特別職の非常勤国家公務員である。日本学術会議法は、会員(210名)を同会議の推薦に基づいて、首相が任命すると定め、会員の任期は6年間で3年ごとに半数が交代する。

日本学術会議が推薦した候補が任命されなかった例は過去になく、過去の国会答弁によれば、首相の任命権は形式的なものに過ぎない。任命を拒否された6名は安保法制や共謀罪、沖縄の新基地建設等に反対を表明する等してきた。本件任命拒否は、安倍政治の継承をうたう菅首相によって、6名の候補の研究活動を理由としてなされたものであることは明らかであり、日本学術会議法に違反するとともに憲法23条が保障する学問の自由に対する重大な侵害である。

日本学術会議の2020年10月1日の総会においても、退任した山極寿一前会長(京都大学前総長)と選出された梶田隆新会長(東京大学教授、ノーベル物理学賞受賞者)は本件任命拒否を重大な問題である旨述べている。
菅首相は、自民党総裁選の際、政治的な決定に反対する官僚がいた場合、異動させる旨述べる等していたが、本件任命拒否は政権に批判的な研究活動は許さないという菅首相による宣言である。こうした菅首相の姿勢は学問の分野以外にも当然及び得るのであり、さらなる人権侵害、委縮効果を引き起こすこと確実である。

自由法曹団東京支部は、菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、撤回を求めるとともに、政権に批判的な活動を許さないという菅首相の姿勢自体もまた改めることを求めるものである。

2020年10月2日
自由法曹団東京支部
支部長 黒岩哲彦

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私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求める。

1.菅義偉内閣総理大臣は、10月1日、「日本学術会議法」の規定に基づいて日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかった。会員に任命されなかったのは、芦名定道・京都大教授(宗教学)、宇野重規・東京大教授(政治思想史)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、小沢隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)の6人である。

「日本学術会議法」では、「優れた研究、業績がある科学者のうちから会員候補者を選考し、首相に推薦する」と定めており、推薦に基づき首相が会員(210
人)を任命する。任期は6年で3年ごとに半数を改選している。会員210人の日本学術会議は3年に1回、半数の105人を改選する。

日本学術会議は2020年9月末で会員の半数が任期満了を迎えることから、学術研究団体などから提出された推薦書をもとに、2020年2月から学術会議の選考委員会で選考が進められ、7月9日の臨時総会で候補者105人が承認された。8月31日、安倍晋三首相(当時)あてに、8月31日に6人を含む計105人の推薦書を提出した。9月末に学術会議事務局に示された任命者名簿には6人を除く99人の名前しかなかったという。

菅義偉首相によって6人が任命されなかった理由について、政府からの説明は一切なく、学術会議事務局が任命されなかったことを事前に問い合わせたところ、政府からは「間違いや事務ミスではない」と返答があったという。任命を拒否された6人以外の新会員99人は10月1日付で菅義偉首相に任命された。

「学者の国会」と呼ばれ、高い独立性が保たれる学術会議の推薦者を首相が任命しなかったのは、現行の制度になった2004年度以降では初めてである。政府は拒否した理由を明らかにしていないが、6人の中には、安全保障関連法や「共謀罪」を創設した改正組織犯罪処罰法を批判してきた学者が複数含まれている。

2.加藤勝信官房長官は10月1日の記者会見で、学術の立場から政策を提言する政府機関「日本学術会議」が推薦した新会員候補の一部を菅義偉首相が任命を見送ったと明らかにした。加藤勝信官房長官は、6人が任命されなかった理由について、「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」と説明を避け、「結果の違いであって、これまでの対応の姿勢に変わりはない」とし、法律に基づいた正当な判断であると主張し、「学術会議の目的において、政府側が責任を持って(人事を)行うのは当然だ」、「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「推薦を義務的に任命しなければならないというわけではない」と述べている。政治判断による人事介入は憲法が保障する「学問の自由」の侵害になるのではないかと問われると、加藤官房長官は、「直ちに学問の自由の侵害にはつながらないと考えている」と応えている。現在の任命の仕組みになった
2004年以降、推薦された候補が任命されなかったケースについても、「そうした事例があるとは承知していない」と述べている。

10月2日、閣議後の記者会見で、加藤官房長官は、「総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」、「専門領域の業績のみにとらわれない広い視野に立って、総合的、ふかん的観点からの活動を進めていただくため、累次の制度改正がなされてきた。これを踏まえ、総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」と述べた。

3.菅義偉内閣総理大臣が「日本学術会議法」の規定に基づき日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかったことに対し、学術会議会員らからは「学問の自由を保障する憲法に反する行為」と批判が相次いでいる。

10月1日の日本学術会議の総会で退任した日本学術会議前会長・山極寿一・京都大前総長は、オンラインを含め会員ら230人が出席して開かれた挨拶の冒頭で、「6人の方が新会員に任命されなかった。初めてのことで、大変驚いた。菅首相あてに文書で説明を求めたが、回答はなかった」と述べている。学術会議は8月末、政府に105人を推薦していた。しかし、6人が任命されないことを山極会長が知らされたのは9月28日の夜だという。総会後、「私たちは理由を付して新会員を推薦したのに、理由をつけずに任命しないという事実がまかり通ってしまったことは大変遺憾。学術にとって非常に重大な問題だ」と話した。

新会長に選ばれたノーベル賞受賞者の梶田隆章・東京大宇宙線研究所長は、「極めて重要な問題で、しっかり対処していく必要がある」と述べ、6人を任命しなかった理由について菅首相に説明を求めることを検討すると述べた。推薦した人が任命されなかった例は平成16年度に今の制度になって以降なく、日本学術会議は10月2日に開かれた総会で、緊急にこの件を協議した。6人が任命されなかった理由を明らかにすることと、6人の任命を改めて求める要望書をまとめることを決めた。総会のなかで、日本学術会議新会長の東京大学梶田隆章教授は「非常に重要な件だと思うので、引き続き部会で議論して、学術会議としてしっかりと対応したい」と述べた。総会後に梶田隆章会長は「学術会議は政府からある程度、独立して学問を基礎に発信するものなので、その基本が変わることがあってはならない」と話している。

4.日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員で任期は6年間。3年ごとに半数が交代する。1954年には、原子力の平和利用について「自主、民主、公開」の原子力三原則を打ち出し、55年の原子力基本法に盛り込まれた。軍事研究のあり方についても、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を1950年と1967年に発表し、2017年にも、防衛装備庁が創設した研究助成制度をめぐり、軍事研究を禁じた過去2回の声明を継承するとの声明を発表した。

5.今回任命されなかった6人のうちの一人、東京大学の加藤陽子教授(日本近代史)は「共謀罪」法案などに反対の立場を取ったことがある。加藤教授は、「首相が学術会議の推薦名簿の一部を拒否するという、前例のない決定をなぜしたのか、それを問題にすべきだ。学術会議内での推薦は早くから準備され、内閣府から首相官邸にも8月末には名簿があがっていたはずだ。それを、新組織が発足する直前に抜き打ち的に連絡してくるというのは、多くの分科会を抱え、国際会議も主催すべき学術会議会員の任務の円滑な遂行を妨害することにほかならない。欠員が生じた部会の運営が甚だしく阻害されている。この決定の背景を説明できる協議文書や決裁文書は存在するのだろうか、私は学問の自由という観点からだけでなく、この決定の経緯を知りたい。」「学術会議の担うべき任務について、首相官邸が軽んじた点も問題視している」などとコメントした。

任命されなかった小沢隆一・東京慈恵会医科大教授、岡田正則・早稲田大教授、松宮孝明・立命館大教授は1日、梶田会長に、任命拒否の撤回に向け、学術会議の総力をあげてあたることを求める要請書を手渡した。要請書で3氏は、首相から理由の説明がなく、「私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、憲法23条が保障する学問の自由の重大な侵害」、「(任命が首相の意のままになれば)日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになればすべて否定されてしまい、学問の自由はこの点においても深刻に侵されます」などとしている。小沢氏は「私は2015年、安保法制をめぐる国会での中央公聴会で『憲法違反だ』と述べた。仮に、学問上の意見を国会で述べたことが任命拒否につながっているのだとすれば、学問の自由の侵害だ」と話している。

6.私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求めるものである。

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石破 茂 です。

 日本学術会議会員の任命にあたって、推薦された候補者のうち6名を任命しなかったことが取りざたされています。総理大臣が任命権者である以上、任命権があるのなら拒否権も当然あるものと考えるのが自然でしょう。ただ、従来の内閣との関係(推薦された候補者全員をそのまま任命する)がなぜ変わったのか、ということについては、政府側が十分な説明を尽くす必要があるでしょう。

日本学術会議は文部科学省ではなく内閣府の所管ですから、その担当大臣がいます。組織のルールとして、いきなり総理大臣が任命を拒否するとは考えられず、内閣府の担当大臣の承認を経て総理に上がると考えるのが自然ですが、今回どういう手続きを踏まれたのかも明確にしておいた方がいいのではないでしょうか。

なお、この件に関連して、自民党の憲法改正草案では、国民の権利と義務の章に「国は国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」と定めています。憲法改正は第9条や緊急事態に限られるものではありません。自民党で党議決定した唯一の案であるこの草案が等閑視されているのは本当に残念なことです。

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三浦瑠麗さんは、「業績の中身を知りもしない人間(官邸)が新聞記事程度の情報をもとに、こういうつまらない口出し(人事介入)をやり出したとき、社会は劣化する」と批判。
今回の人事介入は、学術界だけに留まらないという指摘も。東京大の佐倉統教授は「これは政治信条が右翼か左翼かとか、学者かそうでないかとか関係なく、とても危険な問題だ。首相の意に沿うかどうかという基準だけで選抜されるのだから、権力者におもねる者だけが生き残るという恐怖政治への第一歩だ。右か左かではなく自由か不自由かの問題だ。」(10月2日・東京新聞)

中国・国慶節に思う今昔の感。

(2020年10月2日)
昨10月1日が国慶節であった。1949年10月1日、毛沢東が天安門で「中華人民共和国成立了!」と高らかに宣言したとき、北京の空は飽くまでも高く、飽くまでも青く澄みわたり、多くの人々が新しい歴史が始まると胸を躍らせた。ここから本当の「人民の国」ができるのだ、と考えたのだ。

それから70年余、曲折を経ながらも中国は経済的な発展を遂げた。しかし、偉大な「人民の国家」にはなっていない。強大な権力を握る党幹部と、強盛な大資本の支配する国になっているのが現実の姿だ。私も、かつては「人民中国」を人類の希望と考えていた。今思うことは、この大国はいつまで人権や民主主義の理念をを排斥し続けるのだろうか、という無念でしかない。

中国とは何であるか、香港の現状がこれをよく映しよく物語っている。昨日(10月1日)も香港でのデモが弾圧されている。おそらくは、ウィグルも、チベットも、内モンゴルも同様なのだろうが、あまりにも情報が少ない。下記は、6年前(2014年10月2日)の当ブログの一節である。むろん香港の事態は、当時に比較して遙かに深刻になっている。

香港は、1997年英国から中国に「返還」された。その際に50年間の「1国2制度」(一个国家两?制度)による高度の自治を保障された。99年にポルトガルから返還されたマカオ(澳門)がこれに続いている。

两?制度(2種類の制度)とは、建前としては「社会主義」と「資本主義」の両制度ということであったろう。しかし、1978年以来の改革開放路線突き進む中国を「社会主義」と理解する者は、当時既になかったと思われる。「市場的社会主義」とか「社会主義市場経済」とか意味不明の言葉だけは残ったにせよ、社会主義の理想は崩壊していたというほかはない。

結局のところ、「1国2制度」とは、「社会主義か資本主義か」ではなく、政治的な次元での制度選択の問題であった。一党独裁下にある人口12億の大国が、自由と民主々義を知った700万人の小国を飲み込むまでの猶予期間における暫定措置。それが「1国2制度」の常識的理解であったろう。

しかし、今や事態はこの常識を覆そうとしているのではないか。一国2制度は、大国にとってのやっかいな棘となっている。少なくとも、小国の側の意気込みに大国の側が慌てふためいているのではないか。「この小国、飲み込むにはチト骨っぽい。とはいえ放置していたのでは、この小国の『民主とか自由という害毒』が大国のあちこちに感染しはしまいか」。大国にとっても深刻な事態となっているのだ。

がんばれ香港。がんばれ若者たち。君たちの未来を決めるのは、君たち自身なのだから。

なお、中国の考え方については、浅井基文さんのブログが参考になる。ここに紹介されている、中国の独善と強権の論調には寒気を感じざるにはおられない。

https://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/index.html

浅井さんは、たとえばこう言う。

「社会主義市場経済」とは何ものであるかについて、(2019年)9月21日付の「求是網」は、南開大学マルクス主義学院教授の劉鳳義教授署名文章「社会主義市場経済の制度的優位性」を掲載しました。この文章は、「社会主義市場経済」とは何ものであるかに関する説明を行っており、私のような経済にずぶの素人でもそれなりに理解できる内容となっています。
私が刮目するのは、改革開放初期の中国は鄧小平流の「黒猫白猫」論のレベルにとどまっていましたが、今や理論的思想的に自らを定位しようとする高みを目指しているということです。もちろん、ケチをつけることは簡単です。しかし、社会主義市場経済の優位性に関する7点にわたる理論的主張を先入主なく吟味する価値はあるのではないでしょうか。

私には、とうてい「それなりに理解できる内容」とは思えないが、7点にわたる理論的主張の各項目と、7点目「中国共産党の領導」の全文を転載させていただく。なお、「ケチをつけることは簡単です」ということには、浅井さんに深く同意する。どこの国にも、権力におべんちゃらを惜しまない「学者」という者が存在するのだ。

<社会主義市場経済のメリットと優位性>
?人民の良好な生活に対する要求を満足することを社会主義的生産の根本目的とすること。
?公有制を主体とし、多種類の所有制経済の共同発展という基本的経済制度。
?労働に応じた分配を主体とし、多種類の分配方式を併存するという基本的分配制度。
?発展の理念を分かち合い、ともに豊かになる道。
?「効率的な市場」と「有能な政府」という両面における優位性の発揮。
?開放拡大と人類運命共同体構築推進。

?中国共産党の領導が社会主義市場経済の制度的優位性であること。
中国共産党の領導は中国の特色ある社会主義のもっとも本質的な特徴であり、また、社会主義市場経済の制度的な優位性でもある。中国共産党は一貫してもっとも広範な人民大衆の根本的利益を代表し、人民を中心とする発展思想を堅持し、人民の福祉の増進、人の全面的発展の促進、共同富裕に向かっての着実な前進をもって経済発展の出発点及び着地点としている。経済工作に対する党の集中統一領導を堅持することは、経済と政治の有機的統一を実現するのに有利であり、市場の活力を刺激し、経済の効率を高めることができるとともに、社会主義制度の優位性を発揮し、各方面の積極的要素を十分に引き出し、社会の公正正義を促進することができる。改革開放以来、我が国の経済及び社会が衆目の認める偉大な成果を実現し、人民の生活水準が大幅に向上することができたのは、我々が確固として党の領導を堅持し、各レベルの党組織及び党員全体の役割を十分に発揮させたことと不可分である。

強権・スガ政権の正体が見えた。

(2020年10月1日)
スガ政権とは何か。その正体露呈の事態である。意に染まない官僚は切ると宣言した政権。そして、「それは当たらない」の一言で説明責任を拒絶してきた人物の率いる政権。その政権による「日本学術会議推薦の6人、任命されず」という報道に大きな衝撃を受けている。これは、大事件だ。あの、アベ政権ですらやらなかったことを、新米総理のスガがやったのだ。

50年ほどの昔のことだ。私は、23期(戦後の法曹養成制度が発足以来23年目)の司法修習生だった。1971年4月に、2年間の修習を終えた500人の同期生は、弁護士・裁判官・検察官それぞれの道に進んだ。ところが、裁判官希望者の内7人が採用を拒否された。最高裁当局は、「人事に関わる問題だから」として、その理由を一切開示しなかったが、明らかに思想差別であった。

同時に、人事権を握る最高裁当局は、裁判所内の青年法律家協会会員に執拗な脱退勧告を繰り返し、宮本康昭判事補に対する前代未聞の再任拒否まで行った。我々は、頑迷固陋な超保守主義者・石田和外を長官とする最高裁当局の、人事を通じての思想統制であると断じた。このままでは「司法の独立」・「裁判官の独立」が崩壊する、時の権力の意のままになる司法に堕すると危機感を抱いた。

あれから50年たった今、同じことが政権の学術会議会員任命をめぐって生じている。権力によるあからさまな思想差別であり、これを通じての思想統制である。裁判官も研究者も、権力からの介入に自由でなければならない。この度のスガ政権のやり口は、やってはならないことに敢えて汚れた手を突っ込んだのだ。

日本学術会議法による学術会議の会員は210名である。任期は6年で3年ごとに半数が交代する。同法第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」と定める。つまり、日本学術会議の候補者推薦以外に、会員となる道はない。明らかに、法は、形式上の任命権者である内閣総理大臣が専門家集団としての学術会議の推薦を尊重してこれに従うべきことを想定している。現実に、これまで、推薦した候補者が任命されなかった例はないという。

8月末、学術会議は恒例のとおりに、政府に105名の推薦書を提出した。しかし、任命されたのはそのうちの99名のみ。うち6名が任命されなかった。学術会議事務局が官邸に問い合わせたところ、「間違いや事務ミスではない」と返答があった、と報道されている。

推薦されながら任命されなかった研究者6名は、全て第1部門(人文科学分野)である。小澤隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)、芦名定道・京都大院教授(キリスト教学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、宇野重規東京大教授(政治学)。

この顔ぶれは、いずれも政権に尻尾を振る似非学者ではない。一見して、政権からその学問上の毅然たる姿勢を厭われたと言ってよい。当然のこととして、「日本学術会議法解釈の誤読」「思想差別」「学問の自由への乱暴な介入」「憲法違反」と批判が出ている。

一方、加藤勝信官房長官は本日の会見で「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないと考えている」と述べたという。50年前の最高裁当局と同じだ。

「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」という、コメントがおかしい。政権は、「人事等を通じて一定の監督権を行使」したことを認めたのだ。

あからさまに言えば、こういうことだ。「この度の日本学術会議会員任命人事において、政権に不都合な学問傾向をもつ被推薦者の任命を拒否することを通じて、政権の姿勢を明確に天下に示し、政権の意向に従順ならざる者に対しては峻厳に対応することを官僚だけでなく、国民一般に知らしめることで、政権の有する監督権を適切に行使した」というのだ。これが、スガ政権の正体というしかない。

これは、ウカウカしておられない。政権に対する最大限の反論・批判が必要ではないか。

石川逸子さんの「風」が問いかけるもの

(2020年9月30日)
戦争を語らねばならない8月が過ぎ、差別を語る9月も今日で終わる。この月の半ばに、7年8か月差別政策を積み重ねてきたアベ政権は終わった。が、アベなきアベ承継政権が既に始まっている。そのような時代の初秋の月の替わり目。

一昨日(9月28日)、自由法曹団の金竜介弁護士から、メールをいただいた。金さんは、かのマルセ太郎を父とする人。金さんの発言は、いつも貴重である。

もうお読みかもしれませんが昨日の朝日のコラム。
石川逸子さんの詩が正しく使われています
ご参考までに送ります。

ここで引用されている
 遠くのできごとに
 人はうつくしく怒る
に続くのが

 近くのできごとに
 人は新聞紙と同じ声をあげる

添付されていたのは、「抗議のマスクと一編の詩」(福島申二)という、大坂なおみ選手の活躍に対する世評の在り方をテーマにしたコラム。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14637184.html

その中に、こういう一節がある。

 思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。

  遠くのできごとに
  人はうつくしく怒る

 自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

金さんは、もう一歩踏み込んで、
  近くのできごとに
  人は新聞紙と同じ声をあげる
を問題としている。改めて、石川逸子さんの「風」を抜粋して紹介しよう。

 

 風   石川逸子

遠くのできごとに
人はやさしい
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人はだまりこむ
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち

「遠くのできごとに うつくしく怒る」その人が、「近くのできごとには だまりこむ」のは、「遠くのできごとに立ち向かうのは遠くの人」だが、「近くのできごとに立ち向かうのは、自分自身」だからだというのだ。自分自身の問題として立ち向かうには、覚悟が必要なのだ。

黒人差別、アパルトヘイト、イスラム排斥、シリアの難民問題、ロヒンギャ、そして香港等々の「遠くのできごと」には、「美しく怒る」人々の多くが、在日差別、部落差別、朝鮮学校差別、ヘイトデモ、ジェンダーギャップ、天皇賛美等々の身近な出来事にはだまりこんでしまう。それでよいのか。そう問われているのだ。もちろん、私も。

新・東京オリンピック憲章 ー 金儲けと政権浮揚と国威発揚を目指して

(2020年9月29日)

東京2021オリンピズムの根本原則

1 東京オリンピズムは、金と政権浮揚と国威発揚のすべてのレベルを高めバランスよく結合させる、国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、経済と政治とに融合させ、より大きな儲け方と、より巧妙な民衆支配の方法を創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的、伝統的な秩序と権威に従順で、支配者の提示する倫理規範の尊重を基盤とするものでなければならない。

2 東京オリンピズムの目的は、時の政権と都政を安定させ、この社会の支配構造の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの経済的かつ政治的な価値に鼓舞された資本と国家とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは「ワクチンが間に合わなくとも開催可能」と語る、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは、金と不正と権力と環境破壊と反知性の5つの結び合う輪である。

4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
 すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。

5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催を実現する。必ず。

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