澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。

(2020年10月4日)
たまたま、「花に水 人に心」と表題するあなたのホームページに、「ムネオ日記」というブログを拝見しました。昨日(10月3日)16:19のものです。

https://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12629162336.html

そこには、あなたのご意見として、次のような記事が掲載されていました。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

 一読して、あまりに一面的で乱暴な内容に、これが国会議員の議論かと驚かざるを得ません。おそらく、あなたには、このような分かり易く単純化し、そして結論を明確にした立論が、選挙民からの支持に繋がるのだという計算があるのだと思います。しかし、この問題は、国家の命運にもかかわるといって大仰ではなく、軽々しく扱うには危険に過ぎるテーマではありませんか。是非、再考をお願いいたします。

あなたは、永く「自由・民主」党の政治家でした。現在所属しておられる「日本維新の会」の綱領・基本方針の中にも、依拠する価値観として「自由主義」「民主主義」の理念が書き込まれています。「権力からの国民の自由」と「権力を構成する手続としての民主主義」とは、あなたにとっても、何よりも大切な政治信条となっているものと拝察します。

しかもあなたは、「国策捜査」「国策起訴」によって、あっせん収賄罪など4つの罪で懲役2年の実刑判決を言い渡され、議員資格を剥奪された無念の経験をお持ちの方です。あなたの未決勾留日数は437日の長きを数えています。あなたは権力の集中の弊害や、権力の横暴の恐ろしさを身をもって体験しておられるではありませんか。強力な権力の危険性について、もっと警戒心を持って然るべきと思うのですが、いかがでしょうか。

18世紀末葉のフランス人権宣言(第16条)が、「人権の保障と権力分立の関係」について、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と定式化して以来、「自由主義」「民主主義」の理念からは、全てが集中される強力な権力は危険極まりないものとして、その存在自体が許されません。少なくとも、司法部は独立していなければなりません。形式的には法務省に所属する検察官も、法務大臣の指揮権発動という政治的非難を覚悟することなしには、政権の意のままになってはならないのです。司法だけでなく、学問も教育もメディアも、権力の集中や介入・統制から「自由」でなくてはなりません。

今問題は、学問(学術・研究)に公権力が介入してはならないという大原則が揺らいでいるということです。憲法23条は、「学問の自由はこれを保障する」と定めています。国家に真理を定める権限はなく、政府に不都合な研究やその成果の発表を抑制したり、否定的な評価を加えるようなことはしてはなりません。もちろん、政府に不都合な発言をした研究者を差別したり、不利益を課することは決して許されません。

政権は、いかなる手段によっても、学問の自由に干渉し、影響を及ぼしてはなりません。これまで、学問の自由は、大学の自治に支えられるものとして、公権力が大学の自治を侵害してはならないという文脈で語られてきました。日本学術会議法の第3条は、「日本学術会議は、独立して左の職務を行う。」と明記しています。大学の教員人事に、政府が介入してはならないのと同様に、政府は日本学術会議の運営や人事の独立性を尊重し、介入してはならないのです。以上の観点からは、あなたのご意見には、以下のとおりの問題があるものと指摘せざるを得ません。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 「一部新聞、報道機関」が「ことさら大きく取り上げ」という評価は不正確ではありませんか。学術会議人事への報道は、決して「一部報道機関」だけのものではありません。客観的に見れば、この問題を「ことさらに取り上げない」報道機関があるとすれば、「何らかの意図をもって、ことさらに無視しているもの」と指摘せざるを得ません。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 決して「任命側の判断があって当然」ではないことから、問題が噴出しているのです。とうてい、「当然である」などと一言で切り捨てられる事態ではありません。そのような問答無用の姿勢は、「花に水 人に心」を標榜する政治家にふさわしいとは思えません。

 また、あなたの仰る「規則」とは、法規範の全体像を意味しているものと思われます。それは、憲法(23条)→日本学術会議法(3条、7条2項、17条)→法制定経過や立法提案者の国会説明・これまでの前例・慣行、を総合的に勘案しなければなりません。少なくもこれまでは、科学者の自主性や独立性を尊重して、新規会員人事は、学術会議自身が決定し、内閣総理大臣の関与は形式的なものあると、誰もが「規則」を理解していたのです。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 「『学問の自由』が問われる」という報道は至極当然ではありませんか。「任命されないことと、学問の自由とは全く別次元」と仰ることこそ、意味不明で理解不能です。権力を持つ者が、自らに不都合な発言をする研究者を、不利益に差別し、学術会議から排除しようとしているのです。学問的良心に忠実で、政府に不都合な発言をする研究者を権力者が排斥するのですから、まさしく学問の自由の保障が問われている事態なのです。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

少なくとも、これまでは、「学術会議が推薦した人を必ず任命すべきである」ということが当然の「規則、ルール」であると理解され、そのように運用されてきました。1983年5月12日の参院文教委。現行改正法の枠組みができたときの国会答弁は、中曽根康弘首相自身がこう答弁しています。
 「これ(学術会議会員の任命)は、学会やらあるいは学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております」

「形式上の任命権者」が、密室で非民主的に突然に解釈を変えたのが、今回の菅義偉政権のやり方なのです。本来、尊重さるべき学術会議の推薦名簿に、政権が「一方的にクレームを付け、まことに唯我独尊、自分中心の身勝手な人事介入をした」のです。このようなムチャクチャは、止めて戴きたいとお願いするしかありません。

ご賛同いただけないでしょうか、鈴木宗男さん。

学術会議人事介入を重大問題と受けとめる感性を

(2020年10月3日)
スガ政権による、日本学術会議会員人事への介入事件。その第一報は、10月1日赤旗一面のトップ記事だった。「菅首相、学術会議人事に介入」「推薦候補を任命せず」「安保法批判者ら数人」「前例ない推薦者外し」というもの。

これに目をやって、なんともイヤーな気持ちになった。日本は、こんなところまで落ちてしまったのか、いったいこれからどうなるのか、という失望と焦慮との入りまじった感情。ともかく、たいへんなことになったというのが「第一感」。

本日(10月3日)の毎日朝刊コラム「土記」に、専門編集委員の青野由里が、こう述べている。「(学術会議に)菅義偉政権が人事介入したと知って、背すじがざわっとした。理屈以前に、『民主国家でやってはならないこと』と直感的に信じてきたからだ。」とある。

青野さんの言うとおり、《理屈以前の直感》において「背すじがざわっとした」という感性・感覚が大切だと思う。この種の問題については、憲法感覚、人権感覚、歴史感覚、主権者感覚…が重要なのだ。理論的な思考を経て到達する以前に、事態の適否と重要性を受けとめる直感や感性がなくてはならない。

その感性の出所は、歴史の読み方や、社会の見方の積み重ねによって培われるもので説明はしにくいが、この件を平然と「それがナニカ?」「政権の何が問題?」という人とは、付き合いたくない。

おそらくは、個人対国家、人権対秩序、自由対集権…という社会を語る基本枠組みにおいて、強権的国家主義秩序の側に立つことを容認するか否かの「感性の試金石」が問われているのだ。

いかなる権力も、腐敗・暴走を免れない。いかなる権力も危険を内包している。過度に集中し、過度に強力な権力は、過度に危険な権力でもある。権力機構は分散させ、権力には批判が必要である。

そのために、司法は権力から独立していなければならない。検察官の独立も必要である。地方自治も不可欠である。そして、学問も、教育も、メディアも、宗教も、権力から独立していなければならない。それが、健全な政府と社会のありかたであり、個人の尊厳や自由を擁護するための鉄則である。政府批判は、許容されねばならない。批判を封じる権力は、実は脆弱なのだ。

日本学術会議の創設は、学術・科学を国家の恣意的な支配に任せることは危険であるという基本発想になるものである。政府に建言する専門家の叡智の結集の在り方を、専門家の自治と自主性に任せ、独立を保障した組織としている。権力の、学問・教育への介入の愚かさと、その帰結がもたらす悲惨とは、全国民が骨の髄まで身に沁みたことではないか。あの愚をまたまた繰り返そうというのか

ともかく、事態は深刻である。以下に、目についた記事や論稿を採録しておきたい。このような無数の批判の論稿が発表されることを期待したい。

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第25期新規会員任命に関する要望書

令和2年10月2日

内閣総理大臣 菅 義偉 殿

日本学術会議第181回総会第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。
1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。
2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。

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日本学術会議会長殿

要請書 日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向け総力であたることを求めます

私たちは、2020年8月、第25-26期日本学術会議会員候補者として推薦されました。小澤は2008年10月から12年にわたり、岡田と松宮は2011年10月から9年にわたり、連携会員として日本学術会議の活動に誠心誠意参画してきました。私たちはこうした参画とこの度の推薦を栄誉なことと思い、会員候補者としての諸手続きを済ませ、事務局からの総会、部会等への出欠の問い合わせにも応じて、10月1日からの総会等への参加を準備していました。ところが、9月29日、突如として、内閣総理大臣による任命がされない旨伝えられました。日本学術会議としても前代未聞の事態と聞きます。
私たちの日本学術会議会員への任命を拒むにあたり、内閣総理大臣からは理由など一切の説明がありません。これは、日本学術会議の推薦と同会議の活動への私たちの尽力をまったく顧慮しないものとして、到底承服できないものです。もしも私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、日本国憲法第23条が保障する学問の自由の重大な侵害として断固抗議の意を表します。
また、今回の事態は、私たちだけの問題ではなく、日本学術会議の存立をも脅かすものです。日本学術会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」(日本学術会議法第2条)として、「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」などの職務を「独立して」行い(同法第3条)、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策、科学を行政に反映させる方策」などについて、「政府に勧告することができる」(同法第5条)とされています。こうした日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになれば、すべて否定されてしまい、学問の自由は、この点においても深刻に侵されます。
貴職におかれては、このような重大問題をはらむ私たちに対する日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向けて、会議の総力を挙げてあたることを求めます。
2020年10月1日

小澤隆一 東京慈恵会医科大学教授 憲法学
第21-24期日本学術会議連携会員
岡田正則 早稲田大学法学学術院教授 行政法学
第22-24期日本学術会議連携会員
松宮孝明 立命館大学大学院法務研究科教授 刑事法学
第22-24期日本学術会議連携会員

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前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)@brahmslover?10月1日

菅首相が学術会議の推薦した会員候補者を任命しなかったのは、
憲法が保障する学問の自由を踏みにじる行為だ。
日本会議会議法にも反する行為だ。
糾弾されるべき行為だ。
国民はこの行為の問題性をはっきり認識するべきだ。
メディアはしっかり追及するべきだ。
なぜ任命を拒否したのか、菅首相は説明せよ。

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菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、
撤回を求める声明

菅首相は、2020年10月1日から任期が始まる日本学術会議の新会員について、同会議が推薦した105名の候補のうち6名の任命を拒否した。

日本学術会議は日本の科学者を内外に代表する機関で首相所轄であるが、政府から独立して政策提言等をし、会員は特別職の非常勤国家公務員である。日本学術会議法は、会員(210名)を同会議の推薦に基づいて、首相が任命すると定め、会員の任期は6年間で3年ごとに半数が交代する。

日本学術会議が推薦した候補が任命されなかった例は過去になく、過去の国会答弁によれば、首相の任命権は形式的なものに過ぎない。任命を拒否された6名は安保法制や共謀罪、沖縄の新基地建設等に反対を表明する等してきた。本件任命拒否は、安倍政治の継承をうたう菅首相によって、6名の候補の研究活動を理由としてなされたものであることは明らかであり、日本学術会議法に違反するとともに憲法23条が保障する学問の自由に対する重大な侵害である。

日本学術会議の2020年10月1日の総会においても、退任した山極寿一前会長(京都大学前総長)と選出された梶田隆新会長(東京大学教授、ノーベル物理学賞受賞者)は本件任命拒否を重大な問題である旨述べている。
菅首相は、自民党総裁選の際、政治的な決定に反対する官僚がいた場合、異動させる旨述べる等していたが、本件任命拒否は政権に批判的な研究活動は許さないという菅首相による宣言である。こうした菅首相の姿勢は学問の分野以外にも当然及び得るのであり、さらなる人権侵害、委縮効果を引き起こすこと確実である。

自由法曹団東京支部は、菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、撤回を求めるとともに、政権に批判的な活動を許さないという菅首相の姿勢自体もまた改めることを求めるものである。

2020年10月2日
自由法曹団東京支部
支部長 黒岩哲彦

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私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求める。

1.菅義偉内閣総理大臣は、10月1日、「日本学術会議法」の規定に基づいて日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかった。会員に任命されなかったのは、芦名定道・京都大教授(宗教学)、宇野重規・東京大教授(政治思想史)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、小沢隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)の6人である。

「日本学術会議法」では、「優れた研究、業績がある科学者のうちから会員候補者を選考し、首相に推薦する」と定めており、推薦に基づき首相が会員(210
人)を任命する。任期は6年で3年ごとに半数を改選している。会員210人の日本学術会議は3年に1回、半数の105人を改選する。

日本学術会議は2020年9月末で会員の半数が任期満了を迎えることから、学術研究団体などから提出された推薦書をもとに、2020年2月から学術会議の選考委員会で選考が進められ、7月9日の臨時総会で候補者105人が承認された。8月31日、安倍晋三首相(当時)あてに、8月31日に6人を含む計105人の推薦書を提出した。9月末に学術会議事務局に示された任命者名簿には6人を除く99人の名前しかなかったという。

菅義偉首相によって6人が任命されなかった理由について、政府からの説明は一切なく、学術会議事務局が任命されなかったことを事前に問い合わせたところ、政府からは「間違いや事務ミスではない」と返答があったという。任命を拒否された6人以外の新会員99人は10月1日付で菅義偉首相に任命された。

「学者の国会」と呼ばれ、高い独立性が保たれる学術会議の推薦者を首相が任命しなかったのは、現行の制度になった2004年度以降では初めてである。政府は拒否した理由を明らかにしていないが、6人の中には、安全保障関連法や「共謀罪」を創設した改正組織犯罪処罰法を批判してきた学者が複数含まれている。

2.加藤勝信官房長官は10月1日の記者会見で、学術の立場から政策を提言する政府機関「日本学術会議」が推薦した新会員候補の一部を菅義偉首相が任命を見送ったと明らかにした。加藤勝信官房長官は、6人が任命されなかった理由について、「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」と説明を避け、「結果の違いであって、これまでの対応の姿勢に変わりはない」とし、法律に基づいた正当な判断であると主張し、「学術会議の目的において、政府側が責任を持って(人事を)行うのは当然だ」、「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「推薦を義務的に任命しなければならないというわけではない」と述べている。政治判断による人事介入は憲法が保障する「学問の自由」の侵害になるのではないかと問われると、加藤官房長官は、「直ちに学問の自由の侵害にはつながらないと考えている」と応えている。現在の任命の仕組みになった
2004年以降、推薦された候補が任命されなかったケースについても、「そうした事例があるとは承知していない」と述べている。

10月2日、閣議後の記者会見で、加藤官房長官は、「総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」、「専門領域の業績のみにとらわれない広い視野に立って、総合的、ふかん的観点からの活動を進めていただくため、累次の制度改正がなされてきた。これを踏まえ、総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」と述べた。

3.菅義偉内閣総理大臣が「日本学術会議法」の規定に基づき日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかったことに対し、学術会議会員らからは「学問の自由を保障する憲法に反する行為」と批判が相次いでいる。

10月1日の日本学術会議の総会で退任した日本学術会議前会長・山極寿一・京都大前総長は、オンラインを含め会員ら230人が出席して開かれた挨拶の冒頭で、「6人の方が新会員に任命されなかった。初めてのことで、大変驚いた。菅首相あてに文書で説明を求めたが、回答はなかった」と述べている。学術会議は8月末、政府に105人を推薦していた。しかし、6人が任命されないことを山極会長が知らされたのは9月28日の夜だという。総会後、「私たちは理由を付して新会員を推薦したのに、理由をつけずに任命しないという事実がまかり通ってしまったことは大変遺憾。学術にとって非常に重大な問題だ」と話した。

新会長に選ばれたノーベル賞受賞者の梶田隆章・東京大宇宙線研究所長は、「極めて重要な問題で、しっかり対処していく必要がある」と述べ、6人を任命しなかった理由について菅首相に説明を求めることを検討すると述べた。推薦した人が任命されなかった例は平成16年度に今の制度になって以降なく、日本学術会議は10月2日に開かれた総会で、緊急にこの件を協議した。6人が任命されなかった理由を明らかにすることと、6人の任命を改めて求める要望書をまとめることを決めた。総会のなかで、日本学術会議新会長の東京大学梶田隆章教授は「非常に重要な件だと思うので、引き続き部会で議論して、学術会議としてしっかりと対応したい」と述べた。総会後に梶田隆章会長は「学術会議は政府からある程度、独立して学問を基礎に発信するものなので、その基本が変わることがあってはならない」と話している。

4.日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員で任期は6年間。3年ごとに半数が交代する。1954年には、原子力の平和利用について「自主、民主、公開」の原子力三原則を打ち出し、55年の原子力基本法に盛り込まれた。軍事研究のあり方についても、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を1950年と1967年に発表し、2017年にも、防衛装備庁が創設した研究助成制度をめぐり、軍事研究を禁じた過去2回の声明を継承するとの声明を発表した。

5.今回任命されなかった6人のうちの一人、東京大学の加藤陽子教授(日本近代史)は「共謀罪」法案などに反対の立場を取ったことがある。加藤教授は、「首相が学術会議の推薦名簿の一部を拒否するという、前例のない決定をなぜしたのか、それを問題にすべきだ。学術会議内での推薦は早くから準備され、内閣府から首相官邸にも8月末には名簿があがっていたはずだ。それを、新組織が発足する直前に抜き打ち的に連絡してくるというのは、多くの分科会を抱え、国際会議も主催すべき学術会議会員の任務の円滑な遂行を妨害することにほかならない。欠員が生じた部会の運営が甚だしく阻害されている。この決定の背景を説明できる協議文書や決裁文書は存在するのだろうか、私は学問の自由という観点からだけでなく、この決定の経緯を知りたい。」「学術会議の担うべき任務について、首相官邸が軽んじた点も問題視している」などとコメントした。

任命されなかった小沢隆一・東京慈恵会医科大教授、岡田正則・早稲田大教授、松宮孝明・立命館大教授は1日、梶田会長に、任命拒否の撤回に向け、学術会議の総力をあげてあたることを求める要請書を手渡した。要請書で3氏は、首相から理由の説明がなく、「私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、憲法23条が保障する学問の自由の重大な侵害」、「(任命が首相の意のままになれば)日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになればすべて否定されてしまい、学問の自由はこの点においても深刻に侵されます」などとしている。小沢氏は「私は2015年、安保法制をめぐる国会での中央公聴会で『憲法違反だ』と述べた。仮に、学問上の意見を国会で述べたことが任命拒否につながっているのだとすれば、学問の自由の侵害だ」と話している。

6.私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求めるものである。

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石破 茂 です。

 日本学術会議会員の任命にあたって、推薦された候補者のうち6名を任命しなかったことが取りざたされています。総理大臣が任命権者である以上、任命権があるのなら拒否権も当然あるものと考えるのが自然でしょう。ただ、従来の内閣との関係(推薦された候補者全員をそのまま任命する)がなぜ変わったのか、ということについては、政府側が十分な説明を尽くす必要があるでしょう。

日本学術会議は文部科学省ではなく内閣府の所管ですから、その担当大臣がいます。組織のルールとして、いきなり総理大臣が任命を拒否するとは考えられず、内閣府の担当大臣の承認を経て総理に上がると考えるのが自然ですが、今回どういう手続きを踏まれたのかも明確にしておいた方がいいのではないでしょうか。

なお、この件に関連して、自民党の憲法改正草案では、国民の権利と義務の章に「国は国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」と定めています。憲法改正は第9条や緊急事態に限られるものではありません。自民党で党議決定した唯一の案であるこの草案が等閑視されているのは本当に残念なことです。

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三浦瑠麗さんは、「業績の中身を知りもしない人間(官邸)が新聞記事程度の情報をもとに、こういうつまらない口出し(人事介入)をやり出したとき、社会は劣化する」と批判。
今回の人事介入は、学術界だけに留まらないという指摘も。東京大の佐倉統教授は「これは政治信条が右翼か左翼かとか、学者かそうでないかとか関係なく、とても危険な問題だ。首相の意に沿うかどうかという基準だけで選抜されるのだから、権力者におもねる者だけが生き残るという恐怖政治への第一歩だ。右か左かではなく自由か不自由かの問題だ。」(10月2日・東京新聞)

中国・国慶節に思う今昔の感。

(2020年10月2日)
昨10月1日が国慶節であった。1949年10月1日、毛沢東が天安門で「中華人民共和国成立了!」と高らかに宣言したとき、北京の空は飽くまでも高く、飽くまでも青く澄みわたり、多くの人々が新しい歴史が始まると胸を躍らせた。ここから本当の「人民の国」ができるのだ、と考えたのだ。

それから70年余、曲折を経ながらも中国は経済的な発展を遂げた。しかし、偉大な「人民の国家」にはなっていない。強大な権力を握る党幹部と、強盛な大資本の支配する国になっているのが現実の姿だ。私も、かつては「人民中国」を人類の希望と考えていた。今思うことは、この大国はいつまで人権や民主主義の理念をを排斥し続けるのだろうか、という無念でしかない。

中国とは何であるか、香港の現状がこれをよく映しよく物語っている。昨日(10月1日)も香港でのデモが弾圧されている。おそらくは、ウィグルも、チベットも、内モンゴルも同様なのだろうが、あまりにも情報が少ない。下記は、6年前(2014年10月2日)の当ブログの一節である。むろん香港の事態は、当時に比較して遙かに深刻になっている。

香港は、1997年英国から中国に「返還」された。その際に50年間の「1国2制度」(一个国家两?制度)による高度の自治を保障された。99年にポルトガルから返還されたマカオ(澳門)がこれに続いている。

两?制度(2種類の制度)とは、建前としては「社会主義」と「資本主義」の両制度ということであったろう。しかし、1978年以来の改革開放路線突き進む中国を「社会主義」と理解する者は、当時既になかったと思われる。「市場的社会主義」とか「社会主義市場経済」とか意味不明の言葉だけは残ったにせよ、社会主義の理想は崩壊していたというほかはない。

結局のところ、「1国2制度」とは、「社会主義か資本主義か」ではなく、政治的な次元での制度選択の問題であった。一党独裁下にある人口12億の大国が、自由と民主々義を知った700万人の小国を飲み込むまでの猶予期間における暫定措置。それが「1国2制度」の常識的理解であったろう。

しかし、今や事態はこの常識を覆そうとしているのではないか。一国2制度は、大国にとってのやっかいな棘となっている。少なくとも、小国の側の意気込みに大国の側が慌てふためいているのではないか。「この小国、飲み込むにはチト骨っぽい。とはいえ放置していたのでは、この小国の『民主とか自由という害毒』が大国のあちこちに感染しはしまいか」。大国にとっても深刻な事態となっているのだ。

がんばれ香港。がんばれ若者たち。君たちの未来を決めるのは、君たち自身なのだから。

なお、中国の考え方については、浅井基文さんのブログが参考になる。ここに紹介されている、中国の独善と強権の論調には寒気を感じざるにはおられない。

https://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/index.html

浅井さんは、たとえばこう言う。

「社会主義市場経済」とは何ものであるかについて、(2019年)9月21日付の「求是網」は、南開大学マルクス主義学院教授の劉鳳義教授署名文章「社会主義市場経済の制度的優位性」を掲載しました。この文章は、「社会主義市場経済」とは何ものであるかに関する説明を行っており、私のような経済にずぶの素人でもそれなりに理解できる内容となっています。
私が刮目するのは、改革開放初期の中国は鄧小平流の「黒猫白猫」論のレベルにとどまっていましたが、今や理論的思想的に自らを定位しようとする高みを目指しているということです。もちろん、ケチをつけることは簡単です。しかし、社会主義市場経済の優位性に関する7点にわたる理論的主張を先入主なく吟味する価値はあるのではないでしょうか。

私には、とうてい「それなりに理解できる内容」とは思えないが、7点にわたる理論的主張の各項目と、7点目「中国共産党の領導」の全文を転載させていただく。なお、「ケチをつけることは簡単です」ということには、浅井さんに深く同意する。どこの国にも、権力におべんちゃらを惜しまない「学者」という者が存在するのだ。

<社会主義市場経済のメリットと優位性>
?人民の良好な生活に対する要求を満足することを社会主義的生産の根本目的とすること。
?公有制を主体とし、多種類の所有制経済の共同発展という基本的経済制度。
?労働に応じた分配を主体とし、多種類の分配方式を併存するという基本的分配制度。
?発展の理念を分かち合い、ともに豊かになる道。
?「効率的な市場」と「有能な政府」という両面における優位性の発揮。
?開放拡大と人類運命共同体構築推進。

?中国共産党の領導が社会主義市場経済の制度的優位性であること。
中国共産党の領導は中国の特色ある社会主義のもっとも本質的な特徴であり、また、社会主義市場経済の制度的な優位性でもある。中国共産党は一貫してもっとも広範な人民大衆の根本的利益を代表し、人民を中心とする発展思想を堅持し、人民の福祉の増進、人の全面的発展の促進、共同富裕に向かっての着実な前進をもって経済発展の出発点及び着地点としている。経済工作に対する党の集中統一領導を堅持することは、経済と政治の有機的統一を実現するのに有利であり、市場の活力を刺激し、経済の効率を高めることができるとともに、社会主義制度の優位性を発揮し、各方面の積極的要素を十分に引き出し、社会の公正正義を促進することができる。改革開放以来、我が国の経済及び社会が衆目の認める偉大な成果を実現し、人民の生活水準が大幅に向上することができたのは、我々が確固として党の領導を堅持し、各レベルの党組織及び党員全体の役割を十分に発揮させたことと不可分である。

強権・スガ政権の正体が見えた。

(2020年10月1日)
スガ政権とは何か。その正体露呈の事態である。意に染まない官僚は切ると宣言した政権。そして、「それは当たらない」の一言で説明責任を拒絶してきた人物の率いる政権。その政権による「日本学術会議推薦の6人、任命されず」という報道に大きな衝撃を受けている。これは、大事件だ。あの、アベ政権ですらやらなかったことを、新米総理のスガがやったのだ。

50年ほどの昔のことだ。私は、23期(戦後の法曹養成制度が発足以来23年目)の司法修習生だった。1971年4月に、2年間の修習を終えた500人の同期生は、弁護士・裁判官・検察官それぞれの道に進んだ。ところが、裁判官希望者の内7人が採用を拒否された。最高裁当局は、「人事に関わる問題だから」として、その理由を一切開示しなかったが、明らかに思想差別であった。

同時に、人事権を握る最高裁当局は、裁判所内の青年法律家協会会員に執拗な脱退勧告を繰り返し、宮本康昭判事補に対する前代未聞の再任拒否まで行った。我々は、頑迷固陋な超保守主義者・石田和外を長官とする最高裁当局の、人事を通じての思想統制であると断じた。このままでは「司法の独立」・「裁判官の独立」が崩壊する、時の権力の意のままになる司法に堕すると危機感を抱いた。

あれから50年たった今、同じことが政権の学術会議会員任命をめぐって生じている。権力によるあからさまな思想差別であり、これを通じての思想統制である。裁判官も研究者も、権力からの介入に自由でなければならない。この度のスガ政権のやり口は、やってはならないことに敢えて汚れた手を突っ込んだのだ。

日本学術会議法による学術会議の会員は210名である。任期は6年で3年ごとに半数が交代する。同法第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」と定める。つまり、日本学術会議の候補者推薦以外に、会員となる道はない。明らかに、法は、形式上の任命権者である内閣総理大臣が専門家集団としての学術会議の推薦を尊重してこれに従うべきことを想定している。現実に、これまで、推薦した候補者が任命されなかった例はないという。

8月末、学術会議は恒例のとおりに、政府に105名の推薦書を提出した。しかし、任命されたのはそのうちの99名のみ。うち6名が任命されなかった。学術会議事務局が官邸に問い合わせたところ、「間違いや事務ミスではない」と返答があった、と報道されている。

推薦されながら任命されなかった研究者6名は、全て第1部門(人文科学分野)である。小澤隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)、芦名定道・京都大院教授(キリスト教学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、宇野重規東京大教授(政治学)。

この顔ぶれは、いずれも政権に尻尾を振る似非学者ではない。一見して、政権からその学問上の毅然たる姿勢を厭われたと言ってよい。当然のこととして、「日本学術会議法解釈の誤読」「思想差別」「学問の自由への乱暴な介入」「憲法違反」と批判が出ている。

一方、加藤勝信官房長官は本日の会見で「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないと考えている」と述べたという。50年前の最高裁当局と同じだ。

「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」という、コメントがおかしい。政権は、「人事等を通じて一定の監督権を行使」したことを認めたのだ。

あからさまに言えば、こういうことだ。「この度の日本学術会議会員任命人事において、政権に不都合な学問傾向をもつ被推薦者の任命を拒否することを通じて、政権の姿勢を明確に天下に示し、政権の意向に従順ならざる者に対しては峻厳に対応することを官僚だけでなく、国民一般に知らしめることで、政権の有する監督権を適切に行使した」というのだ。これが、スガ政権の正体というしかない。

これは、ウカウカしておられない。政権に対する最大限の反論・批判が必要ではないか。

石川逸子さんの「風」が問いかけるもの

(2020年9月30日)
戦争を語らねばならない8月が過ぎ、差別を語る9月も今日で終わる。この月の半ばに、7年8か月差別政策を積み重ねてきたアベ政権は終わった。が、アベなきアベ承継政権が既に始まっている。そのような時代の初秋の月の替わり目。

一昨日(9月28日)、自由法曹団の金竜介弁護士から、メールをいただいた。金さんは、かのマルセ太郎を父とする人。金さんの発言は、いつも貴重である。

もうお読みかもしれませんが昨日の朝日のコラム。
石川逸子さんの詩が正しく使われています
ご参考までに送ります。

ここで引用されている
 遠くのできごとに
 人はうつくしく怒る
に続くのが

 近くのできごとに
 人は新聞紙と同じ声をあげる

添付されていたのは、「抗議のマスクと一編の詩」(福島申二)という、大坂なおみ選手の活躍に対する世評の在り方をテーマにしたコラム。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14637184.html

その中に、こういう一節がある。

 思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。

  遠くのできごとに
  人はうつくしく怒る

 自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

金さんは、もう一歩踏み込んで、
  近くのできごとに
  人は新聞紙と同じ声をあげる
を問題としている。改めて、石川逸子さんの「風」を抜粋して紹介しよう。

 

 風   石川逸子

遠くのできごとに
人はやさしい
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人はだまりこむ
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち

「遠くのできごとに うつくしく怒る」その人が、「近くのできごとには だまりこむ」のは、「遠くのできごとに立ち向かうのは遠くの人」だが、「近くのできごとに立ち向かうのは、自分自身」だからだというのだ。自分自身の問題として立ち向かうには、覚悟が必要なのだ。

黒人差別、アパルトヘイト、イスラム排斥、シリアの難民問題、ロヒンギャ、そして香港等々の「遠くのできごと」には、「美しく怒る」人々の多くが、在日差別、部落差別、朝鮮学校差別、ヘイトデモ、ジェンダーギャップ、天皇賛美等々の身近な出来事にはだまりこんでしまう。それでよいのか。そう問われているのだ。もちろん、私も。

新・東京オリンピック憲章 ー 金儲けと政権浮揚と国威発揚を目指して

(2020年9月29日)

東京2021オリンピズムの根本原則

1 東京オリンピズムは、金と政権浮揚と国威発揚のすべてのレベルを高めバランスよく結合させる、国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、経済と政治とに融合させ、より大きな儲け方と、より巧妙な民衆支配の方法を創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的、伝統的な秩序と権威に従順で、支配者の提示する倫理規範の尊重を基盤とするものでなければならない。

2 東京オリンピズムの目的は、時の政権と都政を安定させ、この社会の支配構造の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの経済的かつ政治的な価値に鼓舞された資本と国家とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは「ワクチンが間に合わなくとも開催可能」と語る、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは、金と不正と権力と環境破壊と反知性の5つの結び合う輪である。

4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
 すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。

5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催を実現する。必ず。

行政手続の効率化は、御璽・国璽の廃止と、元号表記の駆逐から。

(2020年9月28日)
スガ政権とは何者であるのか、何をやろうとしているのか、まだ見えて来ない。見えてくるのは、枝葉の一部だけなので、なんのために何を目指しているのか、隔靴掻痒なのだ。

スガが総論として語っていることは、アベ政権の承継でしかない。アベ政権とはいったい何であったか。政治と行政の私物化政権であり、対米従属のもとでの軍拡・改憲強行政権であり、新自由主義的格差貧困拡大経済政策政権であった。しかも、こんなにウソとゴマカシを重ねた政権も珍しい。本当に、これをまるごと承継するというのか。

携帯電話料金の値下げ、行政の縦割り弊害解消や不妊治療費助成、デジタル庁新設などの各論が、大きな全体政策の中でどう位置づけられ、互いにどう関連するのかが、見えてこない。

それでも、国会論戦のないままに、河野太郎行政改革担当相が、ひとり張り切っている。「はんこをすぐにでもなくしたい」とのことだ。全省庁に対し、行政手続きで印鑑を使用しないよう要請し、使う必要がある場合は理由を今月中に回答するよう求める事務連絡を出した。この事務連絡では、年間1万件以上ある行政手続きについては月内に、それ以外は10月上旬までに回答するよう求めた。

河野は24日夜のテレビ朝日の番組で、「『どうしても使わなければいけない』と言ってこないものは、10月1日からはんこなしにする。欄があっても無視していいことにする」と述べたとか。

脱押印の前に、行政文書・公用文書の作成管理をしっかりして、隠蔽・改ざん・廃棄のないように徹底してもらいたい。アベ政権が失った、行政の透明性や説明責任の履行に対する国民の信頼を取り戻すことが、行政改革の第一歩ではないか。

それはさておき、行政文書の作成保管がしっかりしている限りにおいて、行政手続の効率化やスリム化に反対する理由はない。書類の偽造や変造を防ぐ工夫は当然として、ハンコをなくすことには賛成だ。まずは、御璽だの国璽だのから廃止せよ。これこそ、権威主義と行政遅滞の象徴なのだから。

そして、もう一つ提案したい。この際、公用文書の紀年法から元号を駆逐して、西暦に統一すべきだろう。元号使用は不便極まる。時間的にも空間的にも有限な紀年法は、欠陥品なのだ。グローバル化にともなって、民間では西暦使用が進行している。いつまでも、お役所だけが、元号固執は無理だろう。西暦表示採用、いずれはやらざるを得ないのだから、できるだけ早い方がよい。

1950年5月6日、日本学術会議が、「元号廃止 西暦採用について(申入)」の総会決議を採択し、衆参両院議長と内閣総理大臣に申し入れている。70年前のその申入書の一部を紹介する。

日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する

理   由

1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。(以下略)

レガシーは アベノマスクと 値が決まり

(2020年9月27日)
昨日(9月26日)の毎日朝刊・仲畑万能川柳欄に掲載された入選句の内の1句。

 役立たずアベノマスクと呼ぶあだ名  川崎 さくら

うまいものだ。アベ本人を「役立たず」と罵るのでは洒脱さに欠け、句にならない。アベノマスクを役立たずと言って、ペロリと舌を出すところに妙味がある。こういう秀句には、いくつも真似の句ができる。

無為無策アベノマスクと呼ぶあだ名
愚者愚物アベノマスクと呼ぶあだ名
浅知恵をアベノマスクと呼びにけり
能なしを呼んだあだ名がアベマスク
ろくでなしアベノマスクと呼ばれけり
無駄づかいアベノマスクのごとくなり
浪費癖アベノマスクのさながらに
中身なしアベノマスクのやってる感
先細りアベノマスクとあだ名され
そりゃひどいアベノマスクとイジメられ
こっそりと上司にあだ名アベマスク

もう一つ。9月18日の秀逸句。

 従順な犬を利口と人は呼び  越谷 小藤正明

これは含蓄が深い。もちろん、犬をテーマに人間や社会を語っているわけだ。従順は生きるに易く、それゆえに利口である。抵抗する人生は生きにくい。それゆえ利口とは言えないが、敢えて利口ではない生き方の選択こそが「その人らしく生きる」ということではないか。人は犬ではないのだ。おや、犬に失礼。

従順な子らを良い子と人は呼び
従順な社員を模範と会社呼び
従順な判事をヒラメと人は呼び
従順な夫を利口と妻は褒め
主権者よ従順なれと総理言い
従順は臣下の美徳と君が言う
天皇は従順な民だけを慈しみ
犬と臣民従順なるが利口なり
まつろわぬ人を過激と人は呼び
聡明な人を危険と人は呼び
従順な限りでこの世は「自由」です
従順を捨てて拾いし自由かな

自民党衆議院議員の杉田水脈さん。あなたは、ご自分に議員の資格があるとお考えでしょうか。

(2020年9月26日)
自民党衆議院議員の杉田水脈さん。本日(9月26日)の各紙朝刊に、あなたの言動についての記事が掲載されています。
お読みになっていますか。自分のことについて、このような記事にされていることに、心穏やかでいられますか。それとも、もう慣れてしまっているのでしょうか。メディアから、国会議員としての資質に欠けているという指摘を受けているとの自覚はありますか。この件について、弁明の記者会見をされる予定はありませんか。記事を書いた記者や、記者に情報を提供したという自民党議員と対決する覚悟はおありでしょうか。

これまでも、あなたの言動についての報道は、芳しいものとてありませんでした。しかし、今回の報道の内容は、あなたの議員としての資質に決定的に関わるものとお考えではありませんか。

冷静に事実を報道している代表的な記事として、共同通信配信のものを引用します。

杉田議員、女性はいくらでもうそ 自民党の合同会議で蔑視発言

 自民党の杉田水脈衆院議員は25日の党の内閣第一部会などの合同会議で、女性への暴力や性犯罪に関し「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言した。被害者を蔑視する発言で批判が出るのは必至だ。

 杉田氏は会議後、記者団に「そんなことは言っていない」と述べて発言を否定したが、会議に参加した複数の関係者から、杉田氏の発言が確認された。杉田氏は、会議で来年度予算の概算要求を受け、女性への性暴力に対する相談事業について、民間委託ではなく、警察が積極的に関与するよう主張。被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をしたという。

あなたに対する辛口の論評を含む報道としては、日刊ゲンダイのこんな記事があります。

 自民・杉田水脈また暴言 性暴力被害で「女性はウソつく」
 やはり“付ける薬”はないようだ。自民党の杉田水脈衆院議員がまたやらかした。25日の党の内閣第一部会などの合同会議で、政府側から暴力や性犯罪の女性被害者の相談事業に関して説明を受けた際に、警察が積極的に関与するよう主張。その理由として「女性はいくらでもウソをつけますから」と、あたかも被害を虚偽申告する女性が多数いると受け取れる発言をした。

 杉田氏は会議後、記者団に「そんなことは言っていない」と述べて発言を否定したが、複数の会議参加者が杉田氏の問題発言を確認した。発言に責任を持たず、往生際も悪すぎる。こんな国会議員を持つ国民は不幸だ。

また、「女性はウソつく」発言の背景事情について、こんな解説記事もあります。(リテラ)

 このとんでもない暴言が飛び出したとされるのは、本日25日におこなわれた自民党の内閣第一部会などの合同会議。女性への性暴力や性犯罪について議論するなかで、杉田議員は、来年度予算の概算要求を受け、女性への性暴力に対する相談事業について、民間委託ではなく警察が積極的に関与するよう主張。そうした議論のなか、「女性はいくらでも嘘をつけますから」などと、女性被害者が虚偽申告するというような発言したのだという。

つまり、「女性はいくらでも性被害について嘘をつけますから」、民間委託の相談事業ではその嘘を見抜けず不適当なんです。犯罪捜査のプロである警察なら、女性の被害に関する嘘を見抜けるからより妥当なのです、という文脈で、あなたの発言がなされたというのです。頷ける話ではありませんか。

また、あなたの発言に、出席していた何人かの議員から失笑が漏れたという報道もあり、この失笑に違和感を感じたという議員の記者への発言もあったということです。あなたの発言についての報道は、極めて具体的で、リアリティに富み、しかも取材源は複数なのです。

しかし、この記事の報道内容が100%真実かどうか。それは、まだ私ども部外者には断定できません。報道でも、あなたは記者団に、「そんなことは言っていない」と発言を否定したそうですし、本日14時42分アップのブログでも、「一部報道における私の発言について」と題する記事を投稿して、「昨日、一部で私の発言についての報道がございましたので、ご説明いたします。まず、報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言はしていないということを強く申し上げておきたいと存じます。」と書き込んでいます。

昨日の会議が終り、記者団に囲まれた時点では、あなたには二つの選択肢がありました。
(1) 発言を肯定する。その上で、自分の信念を披瀝する。あるいは、口を滑らせての本意ではない発言として、弁明する。
(2) 記者から指摘された発言を否定する。

(1) を選択すれば、あなたが嘘つきと言われることはなかったのです。しかし、あなたは、(2)を選択しました。今さら、(1)に戻る術はありません。
(2) の選択を前提とすると、以下のいずれかということになります。
(A)あなたは、真実のところ「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言したのに、「発言していない」とウソをついた。
(B)多くのメディアが、あなたが「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言してはいないのに、虚偽の報道をした。

今、あなたは、多くのメディアから、
(1) 「嘘つき政治家」だと非難されているのです。それだけではなく、
(2) 「女性でありながら、女性を差別視し女性の性被害救済を妨害しているとんでもない政治家」だと非難されているのです。

メディアの報道は「真実らしさ」が十分です。一方、あなたの「発言否定」は、あなたのこれまでの言動や、昨日の記者に対する不十分な対応によって、「嘘らしさ」に満ちています。

私は、ネットで見かけた、以下の意見に強く賛同します。

 日本では、女性が性被害やセクハラ被害を訴えると、必ずと言っていいほど、SNSなどで「嘘だ」とか「ハニートラップだ」とか「売名行為」などと攻撃される。また、性暴力をめぐる刑法や裁判のあり方においても、男性優位目線がいまだ根強く、被害女性は性被害やセクハラ被害そのもの以上に、大きな二次被害を受けているというのが現状だ。そんななか、国会議員が「女性はいくらでも嘘をつけますから」などと発言することは、被害者攻撃をさらに助長するもので、断じて許されない暴言だ。(リテラ)

 杉田水脈衆院議員が、女性への暴力や性犯罪被害に関し、「女性はいくらでもうそをつけますから」と公的な場でセカンドレイプ発言。複数の関係者が証言しているのに、記者団には「そんなことは言っていない」と発言を否定。いくらでもうそをつくのは女性じゃなくて自分だろう。(匿名)

 国会議員として、絶対に言ってはならないことがある。人権の軽視や否定はその最たるもの。杉田水脈議員の場合、雑誌への寄稿で特定の人を「生産性がない」と書いた時点で国会議員失格だった。だがメディアは傍観した。今度こそ、この低劣な人権感覚の人物を、国会議員の地位から放逐しないといけない。(匿名)

杉田水脈さん。あなたは、今これだけの質の批判を受けているのです。しかも、その批判は今のところ十分な根拠をもつものと言わざるを得ません。あなたが、この批判を跳ね返す努力をして、それに成功しない限り、あなたは「嘘つき政治家」で、しかも「女性蔑視政治家」という汚名を甘受しなければなりません。ということは、国民の代表者である国会議員としての資格はなく、議員を辞任すべきということです。

あなたが今、直ちになすべき具体的行動は、自民党事務局に、昨日の会議の録音を公開させることです。それができなければ、記者会見を開いて、堂々と記者の追及を受けとめ、記者に情報を提供した同僚議員の「ウソ」を暴く工夫をすることです。それができなければ、あなたは「嘘つき政治家」で、しかも「女性蔑視政治家」なのですから、議員は務まりません。せめて、潔く議員の職を自ら辞することをお勧めします。

よく似ている。DHCスラップ反撃訴訟の上告理由書と、美々卯スラップ訴訟の訴状と。

(2020年9月25日)
本年(2020年)3月18日に言い渡された「DHCスラップ『反撃』訴訟」控訴審判決。DHC・吉田嘉明両名の私(澤藤)に対する損害賠償請求の提訴を違法として、165万円の支払を命じた。その判決理由において、DHC・吉田嘉明のスラップ提訴の違法を一審以上に明確に認めている点で、私にとって極めて満足度の高いものとなっている。

私の満足は、DHC・吉田嘉明の不満足。両名は、この判決を不服として上訴期限最終日の4月1日(水)に、最高裁宛の上告状兼上告受理申立書を原審裁判所(東京高裁)に提出した。6月1日付の各申立の理由書が最高裁に到着したという通知を9月15日に受け、同日副本送付の申請をして、これを同月17日に受領した。係属は第一小法廷である。その各要旨は、以下のとおりである。

上告理由要旨(R2年(オ)第995号)

 原判決は,上告人ら(DHC・吉田嘉明)の提訴を不当提訴と判示したが,その判断は,憲法32条に違反する。
 上告人ら(DHC・吉田嘉明)が,訴訟提起したのは,披上告人(澤藤)が,8億円を貸付けた動機について政治を金で買ったなどと事実無根の主張をし,それが犯罪動機についての最高裁判所の判例の考え方に従えば,事実の摘示となり,名誉毀損が成立すると考えたからであり,言論の萎縮効果を狙ったからでは毛頭ない。
 また,債務不存在確認訴訟を提起したのは,前訴において,裁判所が,不当提訴には当たらないと判断したからである。
 それにもかかわらず,裁判所が前訴と異なる判断をすることは矛盾挙動であるし,事実の摘示か意見ないし論評かの区別は,通常人が容易に判断できる事項ではない。
 いずれにせよ,原判決は,結論ありきで,上告人ら(DHC・吉田嘉明)の主張に対して全く説得力のない判示をしており,上告人らの裁判を受ける権利(憲法32条)を侵害するものであり,原判決は,すみやかに破棄されるべきである。

上告受理申立理由要旨(R2年(受)第1245号)

 原判決は,申立人ら(DHC・吉田嘉明)の提訴を不当提訴と判示したが,その判断は,不当提訴の要件を判示した最高裁判所の判例に違反しており,民法709条の違法性について重要な法令解釈を誤った違法がある。
 また,対抗言論を経ないで訴訟提起したことを不当提訴の根拠としており,これは,東京高判平成21年12月16日(平成21年(ネ)第2519号)に違反する。
 申立人らが,訴訟提起したのは,相手方(澤藤)が,8億円を貸付けた動機について政治を金で買ったなどと事実無根の主張をし,それが犯罪動機についての最高裁判所の判例の考え方に従えば,事実の摘示となり,名誉毀損が成立すると考えたからであり,言論の萎縮効果を狙ったからでは毛頭ない。
 また,債務不存在確認訴訟を提起したのは,前訴において,裁判所が,不当提訴には当たらないと判断したからである。
 それにもかかわらず,裁判所が前訴と異なる判断をすることは矛盾挙動であるし,事実の摘示か意見ないし論評かの区別は,通常人が容易に判断できる事項ではない。
 いずれにせよ,原判決は,結論ありきで,申立人らの主張に対して全く説得力のない判示をしており,申立人ら(DHC・吉田嘉明)の裁判を受ける権利をも侵害するものであり,原判決は,すみやかに破棄されるべきである。

裁判所を説得しようという迫力はない。すべきではなかった提訴をしてしまったことについての言い訳に終始しているとしか読めない。

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ところで、本日(9月25日)配達された『週刊金曜日』の「金曜アンテナ」欄に、ジャーナリスト北健一さんの「美々卯がスラップ訴訟」「東京都内一斉閉店・従業員解雇の報道に社長が激怒」の記事。このスラップの被告が北さんご自身なのだ。同病相憐れむの強い親近感を抱かざるを得ない。

北さんには、私のDHCスラップ訴訟の公判傍聴や報告集会にも参加していただいた。勝訴判決に祝意のメールもいただいた。ジャーナリストとしての関心からか、出版労連役員としての行動なのかは分からない。この人、とても落ちついた雰囲気で、筆を滑らせるような人には見えない。それでも、スラップの被害者となっているのだ。

私のスラップ訴訟は、DHCと吉田嘉明が原告だった。北さんは、美々卯とその社長薩摩和男が原告。私は6000万円を請求された。北さんは1100万円だが、大阪地裁で応訴を強いられている。私の事件は被告は私一人。北さんは、記事を掲載したダイヤモンド社と編集長も訴えられているという。

 美々卯スラップの訴状には、薩摩社長の「平気で従業員の生活の糧を奪い、その人生を踏みにじる人物である、という仮にこれが真実であれば会社経営者として万死に値する恥ずべき汚名を着せられた」との述懐があるそうだ。

こういうことであろうか。「私・薩摩は、決して平気で従業員の生活の糧を奪い、その人生を踏みにじる人物などではない」。にもかかわらず、「平気で従業員の生活の糧を奪い、その人生を踏みにじる人物と描写されてしまった」。「仮に私が真実そのような人物であるとすれば、会社経営者として万死に値する恥ずべきことである。」しかし、それは事実と異なるので、「私は、その記事によって不実の汚名を着せられた」

これは、DHC・吉田嘉明の言い分とたいへんよく似ている。今回の上告理由書・上告受理申立理由書にも、まったく同文でこんなことが書いてある。
「真実は,脱官僚を目指して頑張っている政治家を支援するためにお金を貸したのに,これを政治を金で買ったなどの誹膀中傷がなされた」

つまりこういうことだ。「真実は,(吉田嘉明は)脱官僚を目指して頑張っている政治家(渡辺喜美)を支援するためにお金(8億円)を貸したのに,これを(澤藤から)『政治を金で買った』などの誹膀中傷がなされた」。美々卯事件の薩摩社長と同じことだ。

「私・吉田嘉明は、決して『政治を金で買う』などと考える人物ではない」。にもかかわらず、「脱官僚を目指して頑張っている政治家(渡辺喜美)を支援するためにお金(8億円)を貸したことを捉えて、あたかも私が、『政治を金で買った』人物と描写されてしまった」。「仮に私が真実『政治を金で買う』人物であるとすれば、まことに恥ずべきことである。」しかし、それは事実と異なるので、「私は、その記事によって不実の汚名を着せられた」。

問題は、吉田嘉明が、政治家(渡辺喜美)に8億円もの裏金を提供したことを、常識的にどう捉えるかということである。政治資金収支報告書にも、選挙運動費用収支報告書にもまったく記載しない、明らかに選挙のための巨額のカネの交付である。これを『政治を金で買った』と表現するに何の差し支えがあろうか。これを司法が咎めるようなことになれば、民主主義社会は崩壊する。

美々卯スラップ訴訟を知っていただくために、また、北さんを支援する意味で、金曜日の記事を紹介しておきたい。

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「東京都内一斉閉店・従業員解雇の報道に社長が激怒」
美々卯がスラップ訴訟

うどんすきの老舗として名高い美々卯(本社・大阪市)とその社長・薩摩和男氏が筆者(北)を訴えた名誉毀損訴訟が波紋を広げている。筆者が執筆した記事が対象で、原告は被告の筆者と記事を掲載したダイヤモンド社、編集長にI100万円の支払いと記事削除、謝罪を求めている。

問題の記事はウェブ媒体「ダイヤモンド・オンライン」に掲載の「『美々卯』 一斉閉店の裏に再開発利権か コロナ便乗解雇の深層」(6月26日付)。美々卯から暖簾分けした東京美々卯が今年5月20日に解散、全6店を閉鎖し約200人の従業員を退職、解雇させた事件の背景を探っている。同社は無借金で、雇用調整助成金も申請することなく解散を決めた。

訴状には薩摩氏が「平気で従業員の生活の糧を奪い、その人生を踏みにじる人物である、という仮にこれが真実であれば会社経営者として万死に値する恥ずべき汚名を着せられた」とある。薩摩氏らは他方で東京美々卯解散や退職・解雇は問題なかったと主張している。問題のないことへの関与がなぜ「汚名」になるのだろうか。

9月16日、大阪地裁で第1回目頭弁論が開かれた。新型コロナ感染防止で一人置きに座る形の傍聴席は関心を持った市民でいっぱいに。薩摩氏は法廷に姿を見せなかったが、被告側の意見を受け、金地香枝裁判長は次回以降も公開の口頭弁論とすることを決めた。

弁論後のミニ報告集会で美々卯元店長が出汁づくりの苦労にふれると、交響楽団でバイオリンを弾く音楽ユニオンの斎藤清さんは「いい味といい音とは共通する。同じ職人として解決を望む」。不当配転と闘う連帯ユニオン・十三市民病院分会の大西ゆみさんは「職人さんは素晴らしい。私も問題が解決したら美々卯に食べにいきたい」と会場を沸かせた。批判封じのスラップ訴訟に見える提訴が却って連帯の輪を広げた格好だ。

次回弁論は‥11月18日13時10分から大阪地裁807号法廷の予定。
北健一 ジャーナリスト

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