澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

本郷三丁目ご近所の皆様、少しの間、耳をお貸しください。

(2020年10月13日)

今年2020年は、後世どのように振り返られることになるでしょうか。私は3点で、歴史に刻まれる年になると思います。
 第1点は、コロナ蔓延の年として。
 第2点は、「アベ改憲願望政権」崩壊の年として。
 そして第3点が、スガ政権による学術会議人事介入事件の年として。

新型コロナの蔓延とその対策のありかたは、この社会と政治構造の脆弱さと矛盾をあぶり出しました。とりわけ、この社会の経済的な格差や貧困を明るみに出し、危機に弱い政権の実態を明るみに出しました。もしかしたら、コロナ禍が大きな社会的変化への転換点になるかも知れません。

アベ前首相は、保守改憲勢力のエースとしての存在でした。しかし、改憲勢力の与望を担って登場したアベ政権は、結局のところ、政治を私物化し国政を私物化した、みっともない政権として終わりました。日本国民は、アベ改憲とたたかって憲法を守ったことによって、日本国憲法をさらに血肉化する体験を重ねたのです。

そして、今進行中なのが、スガ新政権による学術会議人事介入事件です。日本学術会議とは、自然科学・人文科学・社会科学などの学術の振興を図るだけでなく、これを国策に活かそうという特別の国家機関です。学術会議法は、「行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」と定めています。

言うまでもなく、学問や科学は、多数決原理に馴染むものではありません。政権から独立し、政権に耳を痛いことを提言できてこそ存在意義があります。政権の意向を忖度した発言しかしない学術会議などなんの役にも立たないもの。政府は、自分に耳の痛いことを言ってもらうために、このような機関をつくったのです。政府が金を出しているのだから、政府に不都合なことを言う組織の存在は許さない、などという理屈は、ものの道理を弁えないにもほどがあると言わねばなりません。

これは大きな事件です。スガ新政権の日本学術会議に対する強権的な人事介入は、学問の自由の侵害であり、学術会議の独立の破壊です。さらにその先にあるものは、軍事研究に反対し、軍産学複合体制の確立に抵抗してきた学術会議への権力的介入なのです。学問の自由侵害の問題というに留まらず、民主主義や平和主義の仕組みを崩してしまうことにもなりかねません。

1933年には京大・滝川事件が起こり、35年東大・天皇機関説事件で大学の自治は奪われました。こうして、国民精神の総動員体制はほぼ完成し、国家総動員法の成立、大政翼賛体制の確立を経て、太平洋戦争突入となります。

今、右翼が学術会議の独立性を攻撃しています。国家から運営の資金を得ている以上、学術会議の独立はあり得ないという理屈。万が一にも、これを許せば、同じ理屈で国立大学の自治が攻撃されます。私学も、補助金による助成を受けていれば、同様になります。大学だけでなく、中等教育機関の教育にも国家が介入できることになります。これは危険な瀬戸際と言わざるを得ません。

しかし、今はピンチであるだけではなく、チャンスかも知れません。多くの学術団体、市民団体が、スガ政権の学術会議の人事介入に抗議の声を上げています。

3年前の秋を思い出します。当時得意の絶頂にあった、希望の党の代表・小池百合子は、民進党からの議員の受け入れについて、改憲問題や安保で意見の合わない入党希望者は「排除します」と明言しました。希望の党は、小池百合子のこの一言で、完全にポシャってしまいました。

今、その事態とよく似ています。「不都合な6人は排除します」「政権批判者は任命しません」と言った、スガ首相を、国民の側で完全にポシャらせてしまおうではありませんか。

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 「本郷・湯島九条の会」石井 彰

秋風が心地よく流れる本郷三丁目・かねやす前の昼街宣になりました。
きょうは10人の参加者で賑やかな雰囲気で活動し、プラスターを持つひと、マイクで九条改憲反対を訴える人、元気よく昼のひとときを活動しました。

プラスター:「ケイタイ料金ちょっぴり下げて、公費はバッサリ」「たっぷりと歳費もらって叫ぶ自助」「苦労人冷たい人もいるんだな」「杉田副長官ってだあれ。アベ官僚がそのままスガ官僚、6人任命拒否」「敵基地攻撃よりコロナワクチン治療薬」「イージス・アショアの失敗、虫の良すぎる敵基地攻撃準備、憲法9条違反」

マイクでは:日本学術会議推薦の105人のうち99人任命し6人を任命拒否したことを告発しました。後に菅義偉首相は「推薦者名簿を見ていなかった」と発言。こんな首相はこれまでいなかった。日本学術会議法施行以来71年の間、推薦者を任命拒否したことはなかったこと、法解釈変更権は内閣にはないこと、戦前の滝川事件、天皇機関説事件によって学者が大学を追放され、学者が戦争に協力させられた、その反省にたって日本学術会議ができたこと、などを訴えました。近く予想される総選挙で、立憲野党連合政権をつくるためには多くの方々が国会議員を後押しし、投票所に足を運ぶことが決定的に大事だ、と訴えました。
さらに「敵基地攻撃能力保有論」に訴えは続きます。米中、北朝鮮をはじめ世界情勢が緊迫してきた今日、核兵器あるいは武力などによってこの情勢は解決できない、とりわけ中国の戦力は格段と上がっており、わたしたちが認識しているようなあまいものではないこと、太平洋戦争で日米開戦の失敗を未だに総括していないこと、日本は多くの国々と国交を結んでおり、王国のサウジアラビアとも国交を結んでいる、国際情勢をしっかり見極めながら、国際関係の中で平和なアジア、世界を創造するうえで憲法9条を持つ日本の果たす役割は大きい、と訴えました。

参加なさっていただいた各位にその奮闘を讃えたいと思います。今度の菅義偉政権はアベ政権を上回るファッショ的な危険性が浮かび上がってきました。長きに渡ってかねやす前で街宣をおこなってきましたが、手を緩めるわけにはいきません。これからいっそう魂を込めて活動を展開したいと思います。わたしたの子や孫、曾孫のためにも。そしてアジア・世界平和のためにも。

河野太郎よ、悪代官スガの腰巾着となって歴史に悪名を残そうというのか。

(2020年10月12日)

今、我々の眼前で進行しているスガ政権の日本学術会議人事への介入事件。もっと正確に言えば、スガ政権の学術会議人事介入を切っ掛けに生じた、民主主義の枠組みを擁護しようという勢力と破壊しようという勢力との壮大なせめぎ合い。これからの状況進展如何にかかわらず、歴史に刻まれることになる。

昨日(10月11日)の報道では、理工系93学会が共同で、「政権の任命拒否を憂慮する」緊急声明を発表したという。

 声明は日本地球惑星科学連合、日本数学会、日本物理学会のほか、生物科学学会連合と自然史学会連合の傘下学会が共同で出した。政府が理由を示さずに会員候補の任命を拒否した事態を憂慮し、対話による早期解決を求めた。
 任命を拒否された6人は人文・社会科学系の学者だが、日本地球惑星科学連合の田近英一会長(東京大教授)は記者会見で、「理系でも起こり得る話。学術に基づいた自由な言動が制限されることは学問の自由の制限につながる」と述べた。
 日本物理学会の永江知文会長(京都大教授)は、拒否の理由が説明されない点を問題視し、「忖度しないとならない世界は、科学者から見れば変な世の中だ」と批判した。

私の所属している日本民主法律家協会も声明を出した。一昨日地元文京区で行われた、「今なぜ敵基地攻撃なのか」緊急学習会(講師・澤藤大河)でも、参加者一同の名で抗議の声明を採択し、官邸に送ることとした。今後、続々と、抗議声明が積み重ねられることになるだろう。問題の大きさにふさわしい、大きな運動が盛り上がりつつある。

https://jdla.jp/shiryou/seimei/201009_seimei.pdf

アベ・スガの両名が、学問の自由破壊のみならず、民主主義の基本枠組みの破壊をたくらんだ頭目として歴史に悪名を残すことになろう。このときに、喜々として政権の走狗の役割を買って出ようというのが、情けなや河野太郎だ。スガは、文字どおり狷介な悪代官、河野太郎よ、その悪代官スガの腰巾着となって歴史に悪名を残そうというのか。キミは、そんな情けない人物だったのか。

河野太郎よ、キミは、「行政改革担当相として、日本学術会議を行革の対象として検証する」と言った。「(自民)党の方から行政改革の観点からも見てほしい、という要請があった」「私のところで年度末に向け予算あるいは機構、定員については聖域なく、例外なく見ることにしているので、その中でしっかり見ていきたい」とも述べたという。これは、メディアの言うとおり、「政府のまさかの逆ギレ検証」「任命拒否問題を学術会議の機構・定員問題にすり替え」ではないか。自民党内からも「このタイミングで検証するのは目くらましだ」と疑問の声が上がっている。その先頭に立たされているのがキミなのだ。

河野太郎よ。行革の対象を「聖域なくしっかり見ていきたい」と語るのなら、真っ当な優先順位というものがあろう。まず何よりも、不要不急な武器の爆買いを強いられている防衛費支出のメカニズムにメスを入れよ。アメリカの言い値のとおりに、一機100億円を超すF-35A、さらに高価なF-35Bを購入せざるを得ないというこの事態を何とかしたらどうだ。思いやり予算の計上も同罪だ。政党助成金も、皇室費も、官房機密費も、大いに見直すがよかろう。

踏み込むべきところには踏み込まず、切り込むべきところに切り込まず、日本学術会議の名を特に上げて行革の対象とし、「年度末に向けて予算、機構、定員について聖域なく見るので、しっかり見ていきたい」と述べている。明らかに、政権に楯突くと予算で締め上げるぞ、という悪辣ぶり。

しかしだ、河野太郎よ。考え時ではないか。スガが沈むとき一緒に沈もうというのは愚かなことだ。姑息にスガの腰巾着になるよりは、民主主義の大道を歩むべきだと思うのだが。

「思想・良心の自由」のためにたたかう人の存在意義

(2020年10月11日)

昨日(10月10日)の毎日新聞夕刊社会面左肩の記事で、「栃木税政連訴訟」が、先月末に有意義な控訴審和解に至ったことを初めて知った。毎日記事はかなりの長文で、訴訟と和解の意義を踏まえたものになっている。その書き出しは下記のとおり。

 「税理士会への加入に伴って政治団体『栃木県税理士政治連盟』の会員とされたのは、憲法が保障する思想・信条の自由の侵害にあたるとして、宇都宮市の税理士、秋元照夫氏(66)=関東信越税理士会栃木県連所属=が損害賠償などを求めた訴訟の控訴審は、東京高裁(村田渉裁判長)で和解が成立した。和解条項には栃木税政連が会員に関する規約の改正も含め協議することも盛り込まれており、他の税政連の動向にも影響する可能性がある。」

 税理士資格をもっているだけでは税理士業務はできない。税理士会に加入してその監督を受けなければならない。だから、税理士の秋元さんは、関東信越税理士会(宇都宮支部)に加入した。ところが、その強制加入の税理士会に加入したら、自分の意に反して自動的に政治団体「栃木県税理士政治連盟(栃税政)」に加入させられた。その会費の負担もある。自分の政治信条とは異なる政治活動に加担させられることにもなる。これは到底納得できることではない。

栃税政の規約は、「関東信越税理士会栃木県連(宇都宮支部を含む8支部の連合体)に所属する会員をもって組織する」と定めているという。自ら入会手続をして会員になるのではない。税理士が、自動的に政治団体に加入させられる仕組み。明らかに、税政連は「自動加入」をテコに組織強化を図ってきた。おそらくは、提訴前に交渉が重ねられたのだろうが、この規約が障碍となって結局は訴訟となった。通称、「(栃木)税政連訴訟」。「(栃木)政治団体強制入会訴訟と表示しているメディアもある。原告が秋元さん、被告が政治団体「栃木県税理士政治連盟」、係属裁判所は宇都宮地裁である。

この件に私は関わっていない。報道によるだけだが、「税政連訴訟」の提訴時の請求は、次の3点であった。
(1) 原告が被告の会員でないことの確認請求
(2) 会費の支払い義務がないことの確認請求
(3) 政党支部への寄付を行う栃税政の会員として扱われて、思想・信条の自由を違法に害されたことに対する慰謝料など110万円の損害賠償請求

これに対して、被告は(1)(2)については、一審の審理の過程で認諾(請求を認めてその部分の訴訟を終了させること)したという。この点だけでも、秋元さんの勝利と言ってよい。残る損害賠償請求についての判決が本年(2020年)2月5日、宇都宮地裁で言い渡された。伊良原恵吾裁判長の判決は、秋元さんの請求を棄却した。

棄却判決ではあるが、判示の内容は、「原告は(税政連に)入会の意思を明らかにしたことはなく、法的には会員でない。にもかかわらず被告は事実上会員として扱った。」「税理士登録をした1983年から会費振込用紙の送付が止まった2014年まで事実上、会員として扱われたことについて『思想・良心の自由を害すると言えないわけではない』」としつつも、強制や不利益を伴うとまでは言えない」「強制や不利益の付与を伴うものでない限り、他者の行為を許容すべき」と、よくわからないものだった。

秋元さんは判決後に記者会見を開いて「大筋では勝った。ただ、この判決では政治団体が会員でない人を会員とみなしてもいいとなってしまうのは納得がいかない」とし、東京高裁に控訴。そしてこのほど、高裁の和解提案を受け、9月29日付で双方が和解に合意したという。秋元さんが、栃木税政連会員ではないと確認し、栃木税政連が「県連に所属する会員をもって組織する」との規約について改正を含め協議することも和解条項に盛り込まれ、秋元さんは「規約が改正されるなら第一歩だ」と話しているという。

人が人であるために、自分が自分であるためには、「思想・良心の自由」の保障が絶対に必要である。まことに、人はパンのみにて生くる存在ではないのだ。

しかし、この「思想・良心の自由」は、自然に実現するものではない。常に、「思想・良心の自由」を阻むものとの闘いによって、勝ち取り続けねばならない。それが、歴史の教えるところである。「思想・良心の自由」を阻むものの筆頭は、言うまでもなく、国家である。

戦前の天皇制国家は、「臣民」に対して、操り人形に過ぎない天皇を神聖なものと信じ込ませようとした。壮大なマインドコントロールである。驚くべきことに、この荒唐無稽な企ては、半ば成功した。理性をもった少数の人々は、天皇の神聖性をバカげたものとして苛酷な弾圧を受けたが、多くの人々が神なる天皇のしろしめすこの神国に命を捧げてもよいとまで、思うようになった。つまり、国民の思想・良心の自由は蹂躙されて精神の内奥まで支配された。いまだに、天皇や皇室の存在をありがたいもの、神聖なものとする残滓が拭えない。

「思想・良心の自由」を阻むものは、ひとり国家だけではない。相対的な社会的強者は弱者の思想・良心の自由を侵害する。企業・諸団体・政党・労組・学校・地域・町内会等々の「中間組織」は、往々にして成員の思想・良心の自由を侵害する。栃木税政連事件はその典型ではあるが決して稀有な事例ではない。

誰かが常に問題を提起し、果敢にたたかうことによってのみ、この社会における「個人の尊厳」も「思想・良心の自由」も、社会に確固たるものとして根付き、拡大していくことになる。

そのような問題提起をし果敢にたたかって、立派に志を貫かれた秋元照夫さんに、敬意を表したい。

支離滅裂スガ発言の中での、大きなオウンゴール。

(2020年10月10日)
本日各紙の報道によれば、スガ首相は昨日(10月9日)午後、新聞各社の2度目のインタビューに応じ、日本学術会議の人事介入問題に触れて幾つかの重大な発言をした。

最も注目さるべきは、スガが「官邸が6人を除外する前の、学術会議が推薦した105名の推薦者名簿は『見ていない』」と述べたということ。スガが名簿を確認した段階で、すでに6人は除外されていたとした。「最終的に決裁を行ったのは9月28日。会員候補のリストを拝見したのはその直前」としたうえで、「現在の会員となった(99人の)方が、そのままリストになっていたと思う」と説明した。

この記事には我が目を疑った。このことだけで事件である。日本学術会議法が、「学術会議の推薦に基づいて」新会員の任命をすべきと義務付けされている首相が、学術会議の推薦名簿を見ていないと明言したのだ。スガ義偉、正気か。これは、明らかに任命行為の違法を認めるオウンゴール発言である。

幾つかの理解が可能である。おそらくは1枚の名簿に記載された、学術会議による105名の新会員推薦行為を不可分一体の1件の行為と見れば、スガ首相がその名簿に目を通すことなく、99名を任命した手続は明らかに違法で法的瑕疵がある。つまり、任命行為に当たって、スガは何者かによってすり替えられたニセの名簿にもとづいての任命手続を行ったに過ぎないもので、学術会議による真正な新会員推薦に基づく任命を行ってはいないということのだ。

学術会議は105名の新会員推薦名簿を作成して、これを内閣府に提出している。内閣府は、学術会議から受領した105名の推薦名簿を、そのまま官邸にまわしたと言っている。すると、名簿は官邸が受領して首相の目に入るまでの間に、何者かがすり替えたことになる。この官邸官僚の責任は重大である。もちろん、スガの監督責任も免れない。

適法な手続が未了なのだから、改めての任命手続が必要となる。但し、両名簿に重複掲載されている99名については、手続き的瑕疵が治癒されるとして取り扱うことは可能であろう。

また、学術会議による105名の新会員推薦行為を、各人毎に各別の105個の行為とみれば、99人については、適法な任命行為がなされたことになる。しかし、残る6人については学術会議の推薦が首相に到達していないのだから、任命行為が不存在というほかはない。首相は、改めてこの6人についての任命をしなければならない。もちろん、憲法と日本学術会議法に則っての任命でなければならず、スガ自身がこのインタビューで、推薦者の思想信条が任命の是非に影響することは「ありません」と否定しているところなのだから、6人の全員任命以外に採るべき途はあり得ない。

以上の発言を含め、スガの言うことは、支離滅裂で牽強付会というほかはない。今後の学術会議のあり方の見直しに向けた政府内での検討についてはこう語っている。「学術会議が良い方向に進むなら歓迎したい。私が指示することは考えていないが、行政改革の中で取り上げるということではないか」

スガの言う「よい方向」とは何か。言うまでもなく「『学問の自由』とか、専門家集団の『独立』などと生意気なことを言わせず」、「政権の意に染まない学者を、政権の意をもって排除することを可能とする」方向のことだ。各メデイアから、自らの違法を棚上げにしての「論点ずらし」と強い批判を受けている。

しかもスガは、6人を除外した理由について問われると、またまた「総合的・俯瞰的な活動、すなわち広い視野に立ってバランスのとれた行動をすること、国民に理解される存在であるべきことを念頭に全員を判断している」「一連の流れの中で判断した」などと、わけのわからぬことを述べてはぐらかし続けている。

さらに、首相の任命を「形式的にすぎない」とした1983年の政府答弁から「解釈変更を行っているものではない」と繰り返してもいる。

改めて思う。日本国民は、アベを脱してスガのトンデモ政権と対峙しているのだ。この支離滅裂な強権体質の政権と、本気になって対決しなければならない。

スガ新政権、どう考えてもおかしくて危険だよ。

(2020年10月9日)
 不思議でならない。スガ新内閣の支持率が70%にもなっている。10月5日発表のJNN調査の結果が、支持70.7%で、不支持はたった24.2%だという。いったいこの国の国民はどうなってしまったんだ。

 別に驚くには当たらないだろう。みんな安倍さんの政治には飽きていたんだよ。新たなキャラクター登場で、その新味への期待感が支持率アップとなったと思う。それに、ケイタイ電話料金値下げ、既得権益を許さない行政改革断行なんて、悪くないんじゃじゃないか。

 でもね。スガは、アベ政権の継承を謳って総裁選に勝っている。これまではアベの皮を被ってきたスガが、アベの皮を脱ぎ捨て正体を現したのがスガ政権だろう。スガ自身にも、閣僚の人選にも、政策にも、新味なんてなにもない。ケイタイ料金値下げなんて、やる気さえあれば、今までだってできたことではないか。

 とは言っても、トップとナンバー2とでは、やっぱり大きく違うんじゃないか。スガさんは2世の坊ちゃんじゃない、雪深い秋田の出で、これまで苦労してきた人だというし、国民の利益になる身近なことをやってくれるというんだから、国民の期待は高いよ。

 JNNの世論調査では、学術会議の6名に対する任命拒否についても、質問している。「あなたは、政府の対応について妥当だと思いますか? 妥当ではないと思いますか?」という問に、「妥当だ」との回答は24%に過ぎない。妥当ではないは51%だ。にもかかわらず、内閣支持率70%とはどういうことだろう。

 簡単なことさ。学問の自由の侵害なんて、学者や大学の問題だろう。多くの人にとっては、自分に関わることではないんだ。学問の自由よりは、ケイタイ料金引き下げの方が、遙かに重大事なんだよ。

 ケイタイ料金値下げ程度のエサに釣られて、スガの強権政治を見過ごしていると、社会全体の自由がなくなってしまう。そんなことでよいはずはないだろう。

 そんなことになるだろうか。確かに、安倍さんには「9条改憲」の危険な匂いがつきまとっていた。それに、モリ・カケ・桜と、政治の私物化というイメージも強かった。しかし、スガさんには、そんな強烈なものは感じられない。ケイタイ料金値下げをやってくれるのなら、ありがたいじゃないか。

 アベ内閣の官房長官だったスガはアベと同罪だろう。それに、スガ官房長官がこれまで記者会見で語ってきたことを思い出してみろよ。「そういう見方は当たらない」、「担当部局は適切に処理していると聞いている」、という一方的な説明拒否、説明打ち切りの連発。こんな人物を信用してはいけない。

 そう言われればそうかも知れない。でも、日本には憲法もある、選挙もある、報道の自由もある。そんなに簡単に、自由のない社会になるという実感が湧かない。

 第2次アベ政権ができて以来、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の廃棄、安保関連法による集団的自衛権容認、共謀罪法の強行、黒川検事長の定年延長等々、実質的に憲法が壊され、自由が蹂躙されてきた。これを実務面で支えてきたのがスガではないか。NHKをはじめとするメディアを統制して、選挙をも支配してきたのだ。

 確かに、安倍政権の末期には支持率が下がって行き詰まったよ。しかし、菅さんだって、バカじゃないだろうから、簡単に支持率が下がるようなことはしないように思うがね。

 日本学術会議が推薦した新会員候補者6名の任命拒否問題。これは、大きな問題だ。政権が、臆面もなく、自分の気に入らない人物や思想を選別して排除すると宣言したのだ。それでも支持率は下がるまいと、国民を侮っての仕業だ。この国の、学問の自由侵害というだけではなく、自由や人権、民主主義という基本的な枠組みを逸脱した行為といってよい。こんな政権をのさばらせてはいけない。

 「ケイタイ料金くらいでダマされるな」「政権に侮られるな」ということくらいはわかったが、菅内閣がそんなに危険なものだということにまだ納得できない。もう少し、新政権のやり方を見たいと思う。

 くれぐれも、手遅れと後悔するようなことのないようにね。

スガ政権による学問の自由侵害の、その先にあるもの

(2020年10月8日)

スガ新政権の日本学術会議への強権的な人事介入。この報に接して以来、首筋に薄ら寒さが消えない。秋風のせいばかりではない。あの、戦前のイヤーな歴史の記憶が、甦るからだ。

思い出されるのは、1933年の京都帝大・「滝川幸辰」事件、35年の東京帝大・美濃部達吉に対する「天皇機関説」事件である。政府の強権と右翼の暴力とが学問の独立や自由を蹂躙した後に、全体主義の国家と社会が完成した。そして、38年の国家総動員法から40年大政翼賛体制確立を経て、41年の太平洋戦争開戦へとつながっていく。

苛酷な戦争の惨禍を体験した戦後日本は、以下の「日本学術会議法」前文のとおりに科学を位置づけて学術会議を設立した。

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。

科学の使命は、「わが国の平和的復興と人類社会の福祉への貢献」だというのである。日本学術会議の主要な役割は、平和憲法と軌を一にして、再び科学が戦争の惨禍をもたらすことのないようにすることであった。今、国の産学官一体となっての防衛産業興隆策に、学術会議は科学者の良心を結集してよく抵抗してきた。

下記の「軍学共同反対連絡会」(共同代表、池内了・香山リカ・野田隆三郎)による「菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める」声明の、下記抜粋に全面的に賛意を表する。

http://no-military-research.jp/

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2020年10月5日

菅首相による日本学術会議会員の任命拒否に抗議し、撤回を求める

軍学共同反対連絡会
共同代表 池内 了 (名古屋大学名誉教授)
同    香山 リカ  (立教大学教授)
同    野田隆三郎(岡山大学名誉教授)

 私たち軍学共同反対連絡会は、戦前の日本の科学者たちが軍国主義政府に追随して侵略戦争に加担した歴史を反省して、科学者が軍事研究に手を染めることに反対する活動を続けてきた。その際に、日本学術会議が発した「軍事研究には絶対に従わない」との二度の決議と、それを継承する2017年の声明が大いなる導きとなってきた。今回の(菅首相による会員候補)任命拒否には、日本学術会議声明が大学における軍事研究を抑制している現状を変えようとする狙いも込められていると報じられており、その点でも私たちは断じて許すことはできない。

 日本学術会議は、単に日本の学術を代表する機関であるにとどまらず、科学者に対して自らの学問的良心と科学者としての倫理を想起させるとともに、広く学問の在り方を点検するための重要な機関である。私たちは、日本学術会議が任命拒否に怯むことなく、また学問の論理を追求することを怠らず、これまで通り学術の独立性を保つ姿勢を毅然として持ち続けることを強く期待している。

スガ新政権の日本学術会議に対する強権的な人事介入は、学術会議の独立の破壊であり、学問の自由の侵害である。さらにその先にあるものは、軍事研究に反対し、軍産学複合体制の確立に抵抗する学術会議への権力的掣肘なのだ。そのことが、首筋の薄ら寒さが消えない理由である。

学術会議会員任命拒否 ー スガ政権の『真の意図』と『表向きの理由』と。

(2020年10月7日)
政権は、思うとおりにならない科学者・研究者が目障りでならないのだ。世論を二分する重大な政治問題で、有力な学者たちが、反政府側の世論の先頭に立つ。理性や良識をもつ国民に影響力をもつこの人たちを何とか統制したい。その思惑での、菅政権による学術会議会員候補者の任命拒否である。反政府的言動を理由とする学術会議からの排斥であることが明らかと言ってよい。

真の意図を隠して、この度の6人の任命拒否を正当化する理由は、二つに絞られている。一つは、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》という論法。そしてもう一つは、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》というもの。いずれも、ほとんど説得力をもたない。

権力というものは、なんでも意のままにやりたいという危険な衝動をもっている。この衝動が暴走に至らぬよう幾重もの歯止めの装置が必要なのだ。そもそも法の支配や立憲主義が、そのためのものである。権力の分立による相互の牽制も、人権という法技術も、野党の存在も、教育やメディアに権力の介入を禁じる原則も、権力の暴走への歯止めとなっている。

日本学術会議とは、その政策に学術を活用するために設けられた国家の一機関ではあるが、自ずから「独立性」を第一義とするものである。学術というものが、時の政権の思惑から当然に独立している存在であって、忖度のない立論や提言がなければ、そもそも存在価値はない。また、国家は、学者集団の叡智が発する時の政権への苦言に耳を傾けることによって、暴走の誤りを避けることが可能となる。学術会議とは、宿命的に政権に耳の痛い発言をする組織なのだ。

そのような機関の新会員任命権を内閣総理大臣が実質的に握っているというのは、憲法や日本学術会議法の解釈として明らかに妥当でない。学術会議の推薦のとおりに、内閣総理大臣が形式的な任命手続をすべきと解するのが正しい解釈というべきである。仮に、内閣総理大臣の任命権をまったくの形式とは解せないとしても、学術会議の推薦が常識を逸したものであった場合に限定されざるを得ない。そのような例外的な任命拒否について、総理側に厳格な説明責任が課せられるべきは当然である。

果たして、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》と言えるだろうか。法は、明らかに、学術会議の独立性を認めて、時の政府におもねることのない活動や提言を期待しているのである。政府に批判の言動あった者を任命拒否するなど、あってはならないのだ。

また、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》などと言ってよいものだろうか。その性質上、国家は国費を投じても、これに介入すべきではない部門はいくつもある。教育・研究機関はその典型である。この論理を認めると、国費が投じられている国立大学・国立研究機関(独立行政法人も)は、時の政権からの介入を受けない「大学の自治」「学の独立」が根底から崩れてしまう。理は政権側にはない。

10月2日、学術会議は、菅首相に対し、
?任命されない理由を説明していただきたい、
?任命されていない方について速やかに任命していただきたい、
の2点を要望する「要望書」を提出した。

この学術会議の要望を支持する国民の意思を積み重ねていく運動の展開が必要となっている。スガ強権政治を許してはならない。

「総合的、俯瞰的活動を確保する観点」って、わかるかな? わからないだろうな。言ってる自分もわからないんだ。

(2020年10月6日)

学術会議の新会員任命拒否問題というやつ。思いがけなく大きな問題になって、まずかったかなって頭抱えてるんだが、弱気なところを見せるわけにもいかないだろう。マスコミから会見やれってうるさい。逃げてばかりというのもみっともないから、昨日(10月5日)は、3紙だけ「内閣記者会の共通インタビュー」というのをやってみた。ペーパー読みながらのしゃべりだから楽なものだったが、評判はよくない。確実に支持率は下がることになる。憂鬱でならない。

 ― 日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命を拒否した理由は? 政府は1983年、学術会議の推薦を受けて形式的に任命するとの立場を示したが、法解釈を変更したのか。

 えらくストレートな質問だが、私は「ご飯論法」の継承者として、決してまともに答えるようなまぬけたことはしない。そんな答弁では、ほんとのことがバレバレになるじゃないか。「拒否した理由」も、「法解釈を変更したか否か」も、決して答えない。聞かれていることには答えず、聞かれていないことにだけ答える。これが安倍継承の菅流。

 「法に基づいて、内閣法制局にも確認の上、学術会議の推薦者の中から首相として任命している。個別の人事に関するコメントは差し控えたい」

 質問は、「本当に法に基づいての任命拒否行為なのかを知りたい。そのため、まずは拒否理由を明確にしていただきたい」と問い質しているのだが、「法に基づいての任命行為」と、結論だけを強引に言っちゃう。で、「内閣法制局にも確認の上」と権威付けたのだが、アベ政権以来、「首相に忖度の内閣法制局」と権威失墜だからあまり意味はないか。そして、「学術会議の推薦者の中から任命を拒否した者」について聞かれているのだが、「学術会議の推薦者の中から首相として任命している」とはぐらかす。最後は、「個別の人事に関するコメントは差し控えたい」と、断固として答弁を拒否。どうせ食い下がる記者なんかいない。もし、そんな記者がいたら、情報をやらなくすればよい。しかも時間を限ってのものだ。この程度の答弁で十分だろう。

もう少し、聞かれていない余計なことを付け加えておいた。こうしておけば、政権に近い学者や、会食を重ねている報道関係者が、忖度の記事を書いてくれるだろう。

 「学術会議は政府の機関で、年間約10億円の予算を使って活動し、任命される会員は公務員の立場になる。現在の会員が自分の後任を指名することも可能。推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた。会議は、省庁再編の際に必要性を含めて相当議論が行われ、総合的、俯瞰的な活動を求めることになった。総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から、今回の任命についても判断した」

 締めの言葉が、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から、今回の任命についても判断した」と言うんだ。きっと、この原稿起案した官僚もなに言ってるのかわからんだろうな。読んでる私も、さっぱりわからない。聞かされている記者も国民も、わかるはずはないんだが、それでもいいのさ。後になれば、「これまで、丁寧にご説明してまいりましたとおり」という材料になるんだね、これが。

 「過去の国会答弁は承知しているが、それぞれの時代の制度の中で、法律に基づいて任命を行っている」

 「法解釈を変更したのか」という問に対する回答個所だが、これも分からない。上手に分からぬよう書くものだと、起案者を褒めるしかないね。

 ― 学問の自由を侵害するとの指摘をどう考えるか。6人が(安全保障関連法など)政府提出法案に反対の立場だったこととの関係は。

 これも、あまりにストレートな質問。「学問の自由を侵害するとの指摘はごもっとも」なんて答えるわけにはいかないだろう。「政権が学問の自由を侵害しているのでないかとの疑義は払拭しなければならない」とも言えない。結局は、「学問の自由とは全く関係ない。」と言わざるを得ないじゃないか。聞いた人が信じるはずもないにせよだ。

そして、みんな知っているとおり、政権は、自分に対する批判者を排除したいのだよ。当たり前じゃないか。法的にできるかどうかではなく、力関係を量っての排除できるかどうかの判断なんだ。国民の反感を買って支持率が大きく下がり、次の選挙に響くと思えば、無理はできない。しかし、大きく選挙に響かないのなら、強引にやるだけなのさ。

質問者だけでなく、国民ももうよくわかっている。安倍政権の憲法改正の方針や、反憲法的な強引な政策に、科学者や研究者と言われる人たちの多くが、先頭に立って異議を唱えてきた。その影響力は無視できない。だから、反政府的な発言をする学者に対しては、「黙っておれ」というメッセージを送らなければならない。6人は、そのような影響力を持った学者として、「黙っておれ」というメッセージとして、任命を拒否されたのだ。そんなこと、常識的にわかることさ。この6人が、学術会議の会員になれなかったから、政府批判を遠慮するようにはならないだろう。しかし、その周囲に対する萎縮効果は十分に期待できるはずだ。世の中、「長いものには巻かれろ」と考える人々が多いのさ。

もちろん、そんなホンネを口にできるはずはない。しかし、まったく否定してしまっては、十分な萎縮効果を期待できなくなる。そこで、こんな風に、否定しつつも、匂わすわけだ。「6人についていろんなことがあったが、そういうことは一切関係ない。総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した。これに尽きる」 

「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断」って、なかなかのものじゃなかろうか。以後、私のことを、「総合おじさん」とか、「俯瞰おじさん」と呼んでくれたまえ。

スガ政権の学術会議人事介入問題、論点をすり替えてはならない。

(2020年10月5日)

スガ政権は、日本学術会議が推薦した新会員候補6名の採用を拒否した。これは、一大事件である。個々の被推薦者にしてみれば、「研究内容による思想差別」であり「政府批判発言による差別」であるが、大局を見れば「学術会議の独立性の侵害」であり、とりもなおさず「学問の自由の侵害」にほかならない。その本質は「権力による科学や研究の統制」なのだ。こういう権力の動きには敏感に反応し反撃しないと、少しずつ「自由の陣地」が狭められて、気が付いたときには取り返しのつかないことになる。いつか来た道のように、である。

こういうときには、必ず親体制派・親政権派のデマゴーグが頭をもたげる。「過剰反応だ」「騒ぐほどのことはない」と言い、さらに必死になって「論点すりかえ」を試みる。

1970年のあのときを思い出す。札幌地裁の平賀健太所長が、憲法9条の解釈に関わる長沼ナイキ基地訴訟を担当していた福島重雄裁判長に、執拗に判決を誘導する「助言」を行った。いわゆる「平賀書簡問題」である。平賀の所為は、明らかに「裁判(官)の独立」への侵害である。札幌地裁の裁判官会議は平賀所長を厳重注意とした。

ところが、その直後に、鹿児島地裁所長の飯守重任が「非は平賀にではなく、反体制的組織である青法協に加入している福島裁判官にある」との発言が大きな転換点となった。これを機に「裁判(官)の独立侵害」問題が、「裁判官の政治的中立性」や「青法協の政治性の有無」へと問題がすり替えられた。

同様に、23期司法修習生7名の裁判官任官志望者に対する任官拒否も、「差別」「統制」「裁判官人事を手段とする「司法の独立の侵害」という本質を、裁判官の資質としての「公正らしさ論」に問題がすり替えられ、世論への一定の影響を与えた。

学術会議に対する人事介入問題については、メディアは問題を「批判を嫌う政権が、批判の発言をした研究者を排除した」「尊重すべき学術会議の独立性を、政権が侵害した」と捉えている。この「学問の自由」侵害という本質の論点をすり替えてはならない。

すり替え論の典型例が、「学術会議こそ新規会員推薦基準を明確化せよ」「そもそも政府内の機関が独立性を保てるのか」「政府から予算をもらって政府批判を繰り返しているのが学術会議ではないか」という類い。このような「論点ずらし」に引っかけられて、本質の論点を見失うようなことがあってはならない。

なお有益な資料一点(抜粋・一部分かり易く表現を変えている)をご紹介する。日本天文学会が発行する月刊誌「天文月報」2019年7月号に、「日本学術会議と日本の天文学」という記事があり、下記アドレスで読める。筆者は、著名な天文学者だった故海部宣男さん。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2019_112_07/112-7_494.pdf

「…よく知られていないこともあるようなので,日本学術会議の変遷を直接経験した世代として,「歴史的解説」をしてみる.」との前書きがあって、その一節に下記の記事がある。

運営費を国から貰う事と意見する事について

 日本学術会議は,法律で「政府から独立して」提言や勧告等をすることができると定められている.これは第二次世界大戦前の大学や学問への政治介入への反省から来ていて,世界的にも先進諸国ではそのように社会的な了解が得られている.実際,かつての原子力発電の日本導入時に米英からの直接輸入を唱えた政権に対して,湯川秀樹氏・朝永振一郎氏たちが日本での基礎・開発研究を重視し,まず日本で実証炉段階くらいまでやるべきと主張した.時の政権はこれを無視し,結果として日本の原子力利用研究が極めて脆弱なものになってしまった.福島原発事故とその対応,数々の原子力政策のお粗末さなどで,それが露呈している.

 国から運営費を貰っているから政府と対峙できないということにはならない.《時の「政府」》と《国民全体が支える「国」》とは異なることをはっきりさせる必要がある.時の政府に対しては,運営費をもらっている大学であろうが研究費をもらっている研究者であろうが,批判することはもちろん,「対峙」することもあり得る.例えばトップダウンの大学改革に対しては,ほとんどの研究者が批判的なのではなかろうか.大学に改善すべき点が多々あることは認めるとして.

 学会とともに様々な課題の克服に向けて働く私自身はこの問題について,科学の自律の大切さを理解しない日本の政治の未成熟さと,科学者自身の自分の分野を守ろうとする狭さとの,両方の克服が必要と考えている.

国家から予算の配分を受けていても、国家におもねって批判すべきを躊躇してはならない。それが、研究者・研究機関としての当然のありかたであり、時の政権ではなく、国民の利益にかなうことである、ということなのだ。海部さんは、このことを「科学の自律の大切さ」と表現し、これが十分に理解されない現状を、「日本の政治の未成熟さ」と嘆いている。

今、スガ政権は「日本の政治の未成熟さ」を露わにしたどころではない。「日本の政治反動の恐怖」を露呈しているというべきであろう。

鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。

(2020年10月4日)
たまたま、「花に水 人に心」と表題するあなたのホームページに、「ムネオ日記」というブログを拝見しました。昨日(10月3日)16:19のものです。

https://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12629162336.html

そこには、あなたのご意見として、次のような記事が掲載されていました。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

 一読して、あまりに一面的で乱暴な内容に、これが国会議員の議論かと驚かざるを得ません。おそらく、あなたには、このような分かり易く単純化し、そして結論を明確にした立論が、選挙民からの支持に繋がるのだという計算があるのだと思います。しかし、この問題は、国家の命運にもかかわるといって大仰ではなく、軽々しく扱うには危険に過ぎるテーマではありませんか。是非、再考をお願いいたします。

あなたは、永く「自由・民主」党の政治家でした。現在所属しておられる「日本維新の会」の綱領・基本方針の中にも、依拠する価値観として「自由主義」「民主主義」の理念が書き込まれています。「権力からの国民の自由」と「権力を構成する手続としての民主主義」とは、あなたにとっても、何よりも大切な政治信条となっているものと拝察します。

しかもあなたは、「国策捜査」「国策起訴」によって、あっせん収賄罪など4つの罪で懲役2年の実刑判決を言い渡され、議員資格を剥奪された無念の経験をお持ちの方です。あなたの未決勾留日数は437日の長きを数えています。あなたは権力の集中の弊害や、権力の横暴の恐ろしさを身をもって体験しておられるではありませんか。強力な権力の危険性について、もっと警戒心を持って然るべきと思うのですが、いかがでしょうか。

18世紀末葉のフランス人権宣言(第16条)が、「人権の保障と権力分立の関係」について、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と定式化して以来、「自由主義」「民主主義」の理念からは、全てが集中される強力な権力は危険極まりないものとして、その存在自体が許されません。少なくとも、司法部は独立していなければなりません。形式的には法務省に所属する検察官も、法務大臣の指揮権発動という政治的非難を覚悟することなしには、政権の意のままになってはならないのです。司法だけでなく、学問も教育もメディアも、権力の集中や介入・統制から「自由」でなくてはなりません。

今問題は、学問(学術・研究)に公権力が介入してはならないという大原則が揺らいでいるということです。憲法23条は、「学問の自由はこれを保障する」と定めています。国家に真理を定める権限はなく、政府に不都合な研究やその成果の発表を抑制したり、否定的な評価を加えるようなことはしてはなりません。もちろん、政府に不都合な発言をした研究者を差別したり、不利益を課することは決して許されません。

政権は、いかなる手段によっても、学問の自由に干渉し、影響を及ぼしてはなりません。これまで、学問の自由は、大学の自治に支えられるものとして、公権力が大学の自治を侵害してはならないという文脈で語られてきました。日本学術会議法の第3条は、「日本学術会議は、独立して左の職務を行う。」と明記しています。大学の教員人事に、政府が介入してはならないのと同様に、政府は日本学術会議の運営や人事の独立性を尊重し、介入してはならないのです。以上の観点からは、あなたのご意見には、以下のとおりの問題があるものと指摘せざるを得ません。

 日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。

 「一部新聞、報道機関」が「ことさら大きく取り上げ」という評価は不正確ではありませんか。学術会議人事への報道は、決して「一部報道機関」だけのものではありません。客観的に見れば、この問題を「ことさらに取り上げない」報道機関があるとすれば、「何らかの意図をもって、ことさらに無視しているもの」と指摘せざるを得ません。

 そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。

 決して「任命側の判断があって当然」ではないことから、問題が噴出しているのです。とうてい、「当然である」などと一言で切り捨てられる事態ではありません。そのような問答無用の姿勢は、「花に水 人に心」を標榜する政治家にふさわしいとは思えません。

 また、あなたの仰る「規則」とは、法規範の全体像を意味しているものと思われます。それは、憲法(23条)→日本学術会議法(3条、7条2項、17条)→法制定経過や立法提案者の国会説明・これまでの前例・慣行、を総合的に勘案しなければなりません。少なくもこれまでは、科学者の自主性や独立性を尊重して、新規会員人事は、学術会議自身が決定し、内閣総理大臣の関与は形式的なものあると、誰もが「規則」を理解していたのです。

 「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。

 「『学問の自由』が問われる」という報道は至極当然ではありませんか。「任命されないことと、学問の自由とは全く別次元」と仰ることこそ、意味不明で理解不能です。権力を持つ者が、自らに不都合な発言をする研究者を、不利益に差別し、学術会議から排除しようとしているのです。学問的良心に忠実で、政府に不都合な発言をする研究者を権力者が排斥するのですから、まさしく学問の自由の保障が問われている事態なのです。

 学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。

少なくとも、これまでは、「学術会議が推薦した人を必ず任命すべきである」ということが当然の「規則、ルール」であると理解され、そのように運用されてきました。1983年5月12日の参院文教委。現行改正法の枠組みができたときの国会答弁は、中曽根康弘首相自身がこう答弁しています。
 「これ(学術会議会員の任命)は、学会やらあるいは学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております」

「形式上の任命権者」が、密室で非民主的に突然に解釈を変えたのが、今回の菅義偉政権のやり方なのです。本来、尊重さるべき学術会議の推薦名簿に、政権が「一方的にクレームを付け、まことに唯我独尊、自分中心の身勝手な人事介入をした」のです。このようなムチャクチャは、止めて戴きたいとお願いするしかありません。

ご賛同いただけないでしょうか、鈴木宗男さん。

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