澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

突然の安倍退陣 ー 負のレガシー払拭の課題は今後も続く

(2020年8月28日)
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠く異朝を訪ひ近く本朝を窺ふに、猛き者も奢れる者もとりどりにこそあれ、諫めをも思ひ入れず天下の乱れん事を悟らずして民間の嘆く所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者少なからず。間近くは、安倍晋三内閣総理大臣と申しける人の有様、憲法の定めにも従わず、政権を私物化し、嘘とごまかしで固め、数々の不祥事を重ねて、コロナ禍の裡に民の憂ふる所を知らざりしかば、何の誇り得る業績もないままに、再度にわたる政権投げ出しに至りしとぞ伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。

本日(8月28日)午後2時頃、ネットのニュース速報で、「安倍晋三辞意表明」を知った。さしたる感慨はない。間もなくの3時前ころに、東京新聞の記者から電話がかかってきた。「安倍辞任の感想を聞きたい」と言う。まとまりなく、次のようなことを、話した…はずである。

長すぎた政権でした。そして、国民にとっては迷惑な政権国政を私物化し、嘘とごまかしと忖度の、負のレガシーで固められた政権。この政権の終焉はもちろん歓迎しますが、本来は選挙による国民の審判でこの政権に国民からの縁切り状を突きつけるべきところ。それがきちんとできなかったことが残念と言わざるを得ません。

しかし、彼が必死の執念を燃やした憲法改正は、国民の改憲阻止の世論と運動が阻止し得た。このことは、まことに喜ばしいと思います。おそらくは、「安倍のいるうちが、千載一遇の改憲のチャンス」。改憲派はそう思っていたはずです。その与望を担った安倍政権が改憲の糸口にも至らずに崩壊したことの意味は大きい。ここしばらくは、改憲の見通しは立たないでしょう。

それにしても、不祥事続きの腐敗政権でした。モリ・カケ・サクラ、カジノに河井。忖度文化の醸成、公文書管理の意識的放棄。説明責任のネグレクト、食言の数々は、長すぎた政権の腐敗の典型でもあり、安倍晋三自身の品性の問題でもあったと思います。

あらためて、この政権には何の業績もなかったことに愕然とします。この政権が存続していた間に、日本の経済力も、国際的なプレステージも、科学的な競争力も軒並み下がってしまった。北方領土問題を解決して日露間の関係改善を実現することも、拉致問題を解決して北東アジアに平和な国際関係を築くこともできなかった。ウソをついてまでして東京五輪を招致したけれどコロナによって開催の実現を阻まれた。

また、何としても歴史的な汚点は、集団的自衛権行使容認の戦争法(安保法制)を強行成立させたこと。その法律の廃止を含めて、数々の負のレガシーを払拭する努力をこれからも続けていかなくてはなりません。誰が後継首相となったとしても。

中国の圧力による香港教科書の改悪ー「愛国教育」とは政権に従順たれと教え込むこと

(2020年8月27日)

 香港教育当局が「愛国教育」を重視する中国の習近平指導部の意向を受け、学校で使う教科書への管理を強化している。今年の検定では複数の出版社が当局の修正要求を受け、香港に「三権分立」の仕組みがあるとの記述や、民主化運動に関する写真などを削除した。香港各紙が18日に報じた。民主派は「教科書を通じて『親中国政府』の考え方を浸透させる狙いだ」と強く反発している。(毎日)

人民支配の鉄則は「アメとムチ」…だが、それだけでは十分でない。全人民にムチすることは現実には不可能であり何より非効率で愚策である。ムチよりはアメが先行するが、アメの量は常に限られている。のみならず、人民は必ずしもアメのみにて生きるものではない。アメとムチ以外に、人民の精神を自発的服従に仕向ける工夫が必要なのだ。

それを「マインドコントロール」と言っても、「洗脳」と言ってもよい。あるいは、端的にダマシとか、イデオロギー支配、共同幻想、ナショナリズム喚起とでも。その結果としての、国家ないし権力への忠誠心の醸成、少なくとも意識的な抵抗心の放棄がなければ、安定した人民支配はできない。そのために、手垢のついた愛国心が持ち出される。

国家の経営者は、国民に経済的利益を与えることに腐心し、権力にまつろわぬ者には刑罰を与えるだけでなく、当該の国家や権力を正義とするマインドコントロールに知恵を絞る。その知恵の働かせどころは、まずは教育であり、次いでメディアである。情報と考え方をコントロールして、権力に好都合なことだけにバルブを開き、不都合なことはシャットアウトするのだ。

だから、国家や権力に絡めとられぬように、教育もメディアも、権力から独立して自由でなければならない。これが、市民革命を経た近代社会の常識であり、約束ごとである。もちろん、前近代の天皇制国家は、教育にもメディアにも徹底して介入を試みた。今なお日本の現実は、この弊風を払拭しきれていない。

が、中国の香港教育への介入のこの露骨さは驚くべきものだ。あらためて、中国には、民主主義思想も人権思想もなく、一党独裁あるのみと確認するほかはない。「党は正しい方針を持っている。だから近視眼的な批判は慎むべきだ」という思想と対決しなければならないと思う。

香港は、中国とはまったく別のリベラルな教育制度を運用してきた。その象徴が、「通識」という科目だという。日本の公民に近いものだろうか。日本でも一時流行った「リベラルアーツ」教育のようでもある。《幅広い社会問題を学んで批判的精神や多様な見方を育てる》というのが科目の目標で、高校の必修科目となっている。これが、中国から危険視の対象となった。

この「通識」が、香港の若者の民主的な思考や態度を養ってきたと言われ、2019年6月に本格化した政府への抗議デモでは、高校生らが校舎前で手をつないで政府に抗議の意思を示す「人間の鎖」が各地で繰り返し見られた。

中国にしてみれば、これを何とかしなければならない。《絶対であるべき党のものの見方を相対化して、幅広く社会問題を学び、批判的精神や多様な見方を育てる》ことは危険視されるのだ。中国政府は昨年来、この通識を「愛国心ではなく、批判的思考を育んでいる」として非難してきた経緯があるという。

中国政府はよく分かっている。《批判的な精神》と《愛国の精神》とは、真っ向から対立する理念なのだ。香港に対する統制を強化する「香港国家安全維持法」(国安法)が6月に施行されたことを踏まえ、香港当局は中国の意を受けて愛国教育を徹底する方針を打ち出した。まずやり玉に上げられたのが、通識教育である。

「通識」の教科書の書き換えが要求された。「香港教育図書社」の教科書の例では、「香港の法制度の特徴として『三権分立の原則に従い、個人の自由と権利、財産の保障を極めて重視する』との記述があった。だが検定後は削除され、代わりに『デモで違法行為をした場合、関連の刑事責任を負う』との記述が加えられた。」(香港明報)という。他の三つの出版社でも「香港では三権分立の制度が取られている」との表記が削除された。

 なるほど、中国には権力分立の観念はない。立法・行政・司法の各権力の上に、党という「権威兼権力」が君臨している構造なのだ。あたかも、大日本帝国憲法において、議会と内閣と司法の上に、天皇という「権威兼権力」が君臨していたごとくに。

 この他にも教科書の検定では、14年の民主化要求デモ「雨傘運動」の現場や政府への抗議メッセージを記した付箋が貼られた壁を撮影した写真や、19年の政府への抗議デモに関して「警察がデモを禁止したことで市民の自由が侵害された」「政府が経済、政治、生活に関する市民の要求に応じなかったことも一因」などの記述が削除された。いずれも民主派の抑え込みを図る当局の意向が反映されたとみられる。(毎日)

 香港では19年、抗議活動に関連して18歳以下の学生約1600人や19歳以上の学生約2000人、教職員100人以上が拘束された。中国政府は教育現場への締め付けを強めるため、国安法で学校に対して「宣伝、指導、監督および管理を強化する」と明記し「国家安全教育」を進めると盛り込んだ。香港当局は6月、教育現場で国歌斉唱などを義務づける「国歌条例」も施行。教育現場への締め付けは着実に強まっている。(毎日)

1989年の天安門事件や2014年の雨傘運動など民主化デモに関する記述の削除・削減が加速した。教師ら学校関係者は21日、「洗脳教育を断固拒否する」との声明を発表、反発を強めている。(産経)

 また、ある教科書では「私は香港人だ」と記された旗を持つデモ参加者のイラストが、「中国の経済発展の成果を享受できて、私は中国人であることが誇らしい」と説明されたイラストなどに差し替えられた。(産経)

 中国国営新華社通信は21日、「通識科の『消毒』は、香港の教育が正しい道に進む第一歩だ」と題する論評を配信し、教科書改訂を歓迎しました。ある在日香港人は本紙に「今回の改訂は、政権に従順な新しい世代をつくり出すための第一歩だ」と警戒感を示しました。(赤旗)

これは一陣の涼風。教科書採択にアベ政権没落のご託宣。

(2020年8月26日)
今年の夏は常の夏ではない。コロナの夏であり、異常な猛暑の夏。そして首相引きこもりのなんとも冴えない鬱陶しい夏である。そこに、思いがけない一陣の涼風が吹き込んできた。教科書採択の成果である。端的に言えば、全国的規模での、育鵬社教科書(歴史・公民)不採択の涼風なのだ。

育鵬社教科書とは何であるか。2015年9月17日付けで、「★育鵬社教科書採択570校一覧(9月17日現在)」という、勇ましいネット記事が残されている。冒頭にこうある。

「正統保守の敵『つくる会』一部首脳を追撃します。『新しい歴史教科書をつくる会』が自由社から出した教科書は反日自虐。」「教科書改善の会のメンバーが執筆した フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です。」

継続採択も含め私立中の採択は24校です。公立中は約550校(特別支援学校で該当生徒のいる校数が確定しないため、正確な数はまだ分かりません)で、合計約570校の生徒が育鵬社の教科書で学ぶことになりました。
 
採択冊数は、歴史が7万2000?7万3000冊(シェア6.2?6.3%)、公民が6万6000?6万7000冊(シェア5.7%前後)と推定されます。

つまり、「フジサンケイグループ育鵬社(扶桑社の100%子会社)の教科書こそが、正統保守教科書です。」というのだ。ここでいう「正統保守」とは、歴史修正主義・国家主義・排外主義・権威主義を指す。まさしく、安倍晋三を行政トップに押し上げた勢力の歴史観・政治観をいう。その立場は明らかに、《反日本国憲法》であり、同時に《親大日本帝国憲法》でもある。

そんな教科書で、毎年7万2000?7万3000人もの中学生が歴史を学んできた。これが今年度(2020年度)までの現実である。

今年は、通常4年ごとに行われる教科書採択の年。「つくる会」系教科書採択の消長は、わが国の民主主義度のバロメータともなっている。「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択状況に衆目が集まる。そして、ほぼその結果が出てきた。まさしく、一陣の涼風である。日本の民主主義勢力決して先細りではない。

「子どもと教科書全国ネット21」の集計では、公立学校での育鵬社の歴史教科書採択冊数を71,510冊、公民教科書冊数を65,480冊と報告している。

それが今回の採択では、注目すべき大型採択地域で軒並み育鵬社は敗退した。前回育鵬社を採択して、今回は逆転不採択となったのは、確認できる範囲で以下のとおりである。
 横浜市(146校) 歴史2万7000冊、公民2万7000冊
 大阪市(130校) 歴史1万8500冊、公民1万8500冊
 東大阪市(26校)            公民4200冊
 松山市(29校)   歴史4200冊
 藤沢市(19校)   歴史3500冊、  公民3500冊
 呉市(26校)    歴史1900冊、  公民1900冊
 東京都立中(10校) 歴史1400冊、  公民1400冊
 新居浜市(11校)  歴史1100冊
 四国中央市(7校)  歴史 800冊、  公民 800冊
 泉佐野市(5校)   歴史1000冊、  
 河内長野市(7校)            公民 900冊
 武蔵村山市(5校)  歴史 700冊、  公民 700冊
 四條畷市(4校)   歴史 600冊、  公民 600冊
 愛媛県立中(3校)  歴史 480冊、  公民 480冊
 東京都立特別支援学校(10校)歴史100冊、公民100冊

以上で、歴史教科書の削減冊数は61,000冊を超え、公民は60,000冊を超える。来年(2021年)度からの育鵬社版教科書の使用冊数は、歴史は1万冊を割り、公民は5000冊に届かない。

この成果を切り拓いたものは何か。もちろん、自然にこうなったわけではない。右翼の運動に抗して各地で起こった市民運動の成果なのだ。歴史修正主義や憲法を軽んじる歴史や公民の教科書を我が子には使わせないという地道な市民運動が結実したものである。その具体的な運動のあり方は、追々語られることになるだろう。横浜・大阪だけではなく、全国至るところで教育運動が盛り上がったことの意味は大きい。

もう一つの感想がある。5年前育鵬社教科書が採択数で伸びた時期は、安倍政権の勢いがまだ安泰だった。右翼も威勢を張っていたということである。森友学園事件は、まだ世に明るみに出ていない。安倍政権をバックとして、「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択は順調だったと言えよう。しかし、今年の夏、安倍政権のたそがれが誰の目にも明らかだ。右派勢力がアベ晋三に期待した憲法改正などできっこないと認めざるを得ない。

「つくる会」系の右翼偏向教科書の採択状況は、右翼勢力の力量消長のバロメータでもあり、右翼を背景とするアベ政権の盛衰のバロメータでもある。この真夏に、そのバロメーターが示したアベ没落のご託宣はまことに目出度い。まさしく、猛暑のなかの一陣の涼風である。

天皇批判言論についての「法的自由」と「現実の不自由」の落差

(2020年8月25日)
一昨日(8月23日)、私のブログに醍醐聰さんから、「苦言」をいただいた。私のブログに目を通していただき、わざわざコメントをいただいたことをありがたいと思う。が、一言釈明をしておかねばならないし、敷衍して述べておきたいこともある。

当ブログは8月22日付で伊藤詩織さんの民事訴訟提起を肯定的に取りあげ、「『リツィート』も『いいね』も法的責任追及の対象となる。ネトウヨ諸君、中傷誹謗は慎まれよ。」と表題する記事を掲載した。私は、その末尾にこう書いた。

 匿名に隠れて誹謗中傷をこととするネトウヨ界の住人諸君。他人の人格の侵害には、責任が問われることを知らねばならない。たとえ、「リツィート」であっても、「いいね」でさえも。
 もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については自由度が高い。しかし、弱い立場にある者への寄ってたかっての攻撃は許される余地がない。心していただきたい。

醍醐さんのツィッターでの「苦言」は、以下のとおりである。

私も澤藤統一郎さんと同様、泣き寝入りを拒否して2次、3次被害の加害者の責任も追及するために提訴した伊藤詩織さんに敬意を表する。
ただし、「天皇などの社会的権威に対する批判の言論については自由度が高い」という澤藤さんの意見には賛同しない。自由度は極めて低い。

醍醐さんがこういうのだから、私の表現が意を尽くしていない。意とするところが正確に伝わるように、文章を練らなければならないと思う。私は、最近この種の「苦言」を受けることが多い。心しなければならないと思う。

確かに、天皇批判の言論に対しては、この社会は非寛容である。自由にのびのびと、気軽に気楽に、天皇批判を展開できる状況にはない。むしろ、天皇を語る際には敬称と敬語が必要との思い込みは社会に浸透している。そのようにすることが無難という一般常識がある。なかには、舌を噛みそうな慣れない敬語を使う滑稽な人々もいる。そんな社会においては、天皇批判はまことに口にしにくい。顕名で天皇批判の文章を残すなど、敢えて面倒のタネを播いて育てることに等しい。確かに、社会的な圧力が人々に天皇についての批判を控えさせている。醍醐さんの言われるとおり、現実には「天皇批判の自由度は極めて低い」。まったく同感である。

しかし、私は天皇批判言論の難易に関する社会の現実を「自由度が高い」と言ったのではない。当該のブログ記事は、言論に対する法的責任追及の可否を論じるものである。「他人の人格を侵害する表現は、法的責任が問われる」「もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については、自由度が高い。」という文脈は、表現の法的責任の有無・程度について述べたもの。

一般人を対象にその人格を否定し侵害する言論は、刑事民事の法的責任が問われる。これにくらべて、天皇や安倍晋三など、権威や権力者を対象とする批判の言論については、格段に「批判の言論の自由度が高い」。即ち法的に免責される可能性が高い。端的に言えば、天皇批判の言論には、手厚い法の保護が与えられるのだ。

言論の自由は、高い憲法価値をもつ。ということは、他の憲法価値と衝突する局面で優越する地位を獲得しうることを意味する。典型的には、言論が他人の名誉や信用を傷つけることが許容されるということなのだ。

天皇賛美や政権忖度の提灯言論は、他人の人権と衝突しない。この種の言論について言論の「自由」や「権利」を論じる意味はない。「陛下おいたわしや」「総理ご立派」などの言論が自由にできることをもって、言論の自由が保障されている社会とは言わない。

言論が特定の人格と衝突して、その人の名誉や信用や名誉感情を傷つけるときに、言論の自由という憲法価値と、人格権あるいは名誉・信用という憲法価値を衡量して、言論の自由に軍配があがる場合にはじめて言論の自由は意味をもつ。とりわけ、批判しにくい天皇や首相の名誉を侵害する批判の言論を許容することにおいて言論の自由はいみをもつ。

しかし、言論の自由も無敵ではなく、当然に限界をもっている。他の人権との衝突の場面で、しかるべき調整原理に従わなければならず、場合によっては優越的地位を譲らなければならないこともある。

そのような調整原理として、日本の判例に定着しているとされるものが、「公正な論評の法理」といわれるもの。公正な論評の法理においては、言論を、「論評」と「事実の摘示」とに分類し、「論評」には「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱」しない限り大幅な自由が認められる。また、「事実の摘示」については、その言論の公共性・公然性・真実性(または真実と信じたことについての相当性)があれば、他人の名誉を毀損しても違法性はないとされる。

さらに、アメリカ合衆国連邦最高裁判所の判例は、「現実的な悪意の法理」を採用している。まずは、「公人」概念を確立し、公人に対する名誉毀損表現を最大限許容する。その表現がたとえ真実性を欠く場合であっても、公人側が、表現者の『現実的な悪意』を立証できない限り敗訴となる。『現実的な悪意』とは分かりにくい訳語だが、「表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだこと、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切ったこと」という。『自分の言論が虚偽であることを知っていたか、知らないことに重過失があった場合』と要約してよいだろう。これを批判された公人の側が証明しなければならない。アメリカの法廷では、公人が提起した名誉毀損訴訟は、ほぼ勝ち目がないと言われている。

日本の判例はそこまでは踏み切っていないが、言論の重要性が、権威や権力に対する批判を保障するところにあることには異論がない。アメリカの判例における公人とは、権威者あるいは権力者のことである。日本の判例でも、公共性や公益性の概念を通じて、権威や権力をもつ者に対する批判の言論は、違法性を阻却して法的に許容される結論に通じることになる。わが国における権威・権力のトップが、天皇と首相である。だから、「天皇に対する批判の言論については自由度が高い」のだ。

天皇も一人の人間である以上、種々の制約はありつつも人権を有している。その人権の一部である名誉や信用も、天皇や天皇制批判の言論による侵害を甘受せざるを得ないということなのだ。

なお、天皇が人権を享有していることを強調することは、ほとんど意味をもたない。むしろ、天皇の人権は一般国民以上のものではないことが強調されねばならない。ちょうど、「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」が、黒人の人権が白人以下のものではないことを強調しているごとくに。

我が家にもあった 戦地からの便り ー「軍事郵便」

(2020年8月24日)
8月の終わらぬうちに、戦争にまつわる記憶を書き留めておきたい。1943年生まれの私は、むろん直接には戦争を知らない。知っているのは、「戦後」の社会と大人たちから聞かされる戦争の辛さである。どの家族にも召集令状が届き、縁者に戦死者のない人はいなかった。

私が子どもの頃、大人とは戦争体験者であった。学校の先生も八百屋のオジさんも豆腐屋の兄さんも、男たちは皆鉄砲担いだ兵隊の経験をもっていた。なかには「敵」に実弾を発射した人もいただろうし、南方のジャングルからの帰還兵もいただろう。女性は銃後を護っていた人たち。そういう目で大人を見ていた。

私の父は招集されて関東軍の兵となり、ソ満国境の守備隊に駐屯した。愛琿の近くという以外に、その場所がどこかは正確には知らない。ノモンハン事件の前に曹長として召集解除となって帰郷し、その後2度内地で応召して、終戦は弘前で迎えている。

父は兵役にあって、好運にも「敵」との遭遇の機会はなく、まったく実戦を経験せぬまま除隊となったと言っていた。たった一度、「明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ」という通知をもらったことがあるという。中隊本部でその通知を受け、自分の兵舎に着くまでさほど遠くない帰途で、緊張の余り3度の排尿をしたという。結局、その情報は誤りで敵との遭遇はなく安堵したと繰り返し語った。

その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。父は器用な人で、絵も書もよくした。墨の濃淡を描き分けて、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。その絵には「?運壮」という落款があった。軍曹をもじってのことだが、好運を身につけたいという願望の表れであったろう。「軍事郵便」として届いたそのハガキを母は大切に保存していた。

よく記憶しているのは、隊内の演芸会で演じた自身の「ガマの油」の口上の図。袴に襷掛けの自画像を巧みに描いていた。草原で寝転ぶとその音が聞こえるという、草にとまって鳴く小さな蝉。ノロという現地の小型の鹿。荷を牽くロバ、防具を着けた銃剣術稽古の兵…。

中で忘れられないのは、自分の手と指の写生。それに、いろいろと説明を書き加えている。妻に、自分をよく知って欲しいという気持の表れだったろう。あの絵入りの便りは、いかにも古代中国風の砦を表紙にあしらった一冊のアルバムに入っていた。そのアルバムは、いま九州の次弟の許にある、はず。

父は、運良く召集解除となって満州から帰宅し、戦後を永らえた。しかし、ノモンハン事件(1939年)のあと、関東軍の主力は南進に転じ、戦友の多くは南方に送られて戦死したという。

一昨日(8月22日)の毎日新聞朝刊に、軍事郵便の記事があった。「戦後75年 家族の手元に祖父の愛400通 沖縄で戦死」「孫、足跡追う」の記事。リードは、以下のとおり。

「太平洋戦争末期、32歳の若さで沖縄で戦死した伊藤半次さんが、福岡市で暮らす家族に送った絵手紙など約400通が残っている。ほとんどは長く出征していた旧満州(現中国東北部)からで、転戦した沖縄からも3通が届いた。『祖父の最期を知りたい』。同市早良区の会社役員で孫の博文さん(51)はこの数年、家族への愛がにじむ手紙を頼りに、祖父の足跡をたどり続けてきた。」

伊藤さんが、旧満州から家族に宛てた絵手紙2点が掲載されている。職人として日本画を学んだ人の立派なもの。この絵手紙を描いた伊藤さんは、ノモンハン事件後の41年にソ満国境の警備に配属され、その後44年10月に沖縄に転戦、45年6月に糸満で戦死されたという。

その記事の最後が孫の言葉として、こう結ばれている。

「家族を残して戦地に行ったのは祖父だけではない。『会いたい』『帰りたい』と素直につづれなかった時代があったことを、祖父の手紙を通じて多くの人に伝えたい」

私の父は、好運と倶に旧満州から内地に帰還した。しかし、父の多くの戦友は南方に送られて命を失った。伊藤さんは沖縄で散った。さぞかし無念であったろう。8月、それぞれの戦争との関わりを思い起こし、戦争の悲惨と愚かを確認しよう。

「政権長きが故に貴からず」ー 無能な政権の長きを以て迷惑と為す

(2020年8月23日・連続更新1701日)

通俗道徳を説く『実語教』の冒頭に、

 山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しと為す
 人肥えたるが故に貴からず 智有るを以て貴しと為す

とある。これに、以下のように続けよう。

 政権長きが故に貴からず 実績有るを以て貴しと為す
 総理その座の故に貴からず 国民奉仕を以て貴しと為す
 総理看板の枚数故に貴からず 実行有るを以て貴しと為す
 総理原稿読む故に貴からず 意欲と能力を以て貴しと為す
 トランプとの誼故に貴からず 己に如かざる者を友とするなかれ

何の実績もなく忖度とオトモダチ優遇に明け暮れた安倍第2次政権が、2012年12月26日発足以来本日(8月23日)で2798日となるという。馬齢を重ねると言えば、馬に失礼になろう。これで佐藤栄作の連続在任日数に並び、明日には歴代最長となるそうだ。

佐藤政権も、ろくでもない印象しか残していないが、安倍政権ほどひどくはなかった。嘘つき、ゴマカシ、権力の私物化と、こうも国民から胡散臭いとおもわれる政権は希だろう。それが、歴代最長の政権になるというのだから情けない。

ところで、当ブログの連載開始は、安倍政権の改憲策動に危機感をもったことに始まり、昨日のブログが連続更新2700日となっている。日本の右翼・改憲派が、穏健保守を押しのけて作りあげたアベ政権である。アベで改憲ができなければ、近い将来に改憲の望みはない。靖国参拝も、拉致問題も、北方領土も、保守勢力の懸案解決の切り札としての政権。しかも、民主党の政権運営失敗からの揺り戻しの国民意識を背景に、なんでもできるのではないか。そんな時代の雰囲気の危うさに抗して、アベ政権を批判し、改憲を阻止する力の一端を担おうと書き始めたのだ。

「憲法日記」との標題でのブログの初回は政権発足直後の2013年1月1日である。しかし、今の形で、今のURLでの書き始めは、同年の4月1日。毎日更新を宣言して、2700回を超えた。当時、こんなにアベ政権が続くとは夢にも思わなかった。

安倍内閣は確かに長く続いたが、国民の批判は予想以上に強く、右派勢力が思うような政権運営はできなかった。ときに、突出した強行姿勢を見せても、常に揺り戻しが大きく、決して右翼勢力の期待は実を結ぶに至っていない。

アベは、レガシーを意識しているという。しかし、悲願であった憲法「改正」はもう無理だ。近い将来、改憲は不可能という情勢を作り出したという点において、アベはレガシーを残したと言えるかも知れない。拉致被害問題も、北方領土問題も、1ミリの進展もない。イラン問題での仲介もできなかった。経済の再生もできないまま、確実に格差貧困だけは拡大している。花道と考えられた東京五輪・パラリンピックもアベの在職中にはもう無理だろう。

世界の首脳の中でたったひとりトランプとは良好な関係を結んでいるようだが、それはアメリカとの関係良好を意味しない。大胆な無法者と臆病な無法者との誼に過ぎないが、果たしてそれが我が国民の利益となるのかどうか。

負のレガシーはいくらでもある。見えるものとして国民の記憶に新しいのは、466億円を投じてのアベノマスク配布である。これこそ政権の無能と無為無策の象徴、アベの愚策として永遠に歴史と国民の記憶に残るだろう。

直接には見えないが、最大のものは公務員の忖度文化の育成であろうか。安倍政権時代の7年で、公務員は、国民のためにではなく、上を眺めて上にへつらうことで出世競争をするようになった。そして、適正な公文書管理の忌避。検察の独立性への不信。総理の国会発言の言葉の軽さ。上の責任を下に下ろして、末端職員を自殺にまで追い込む行政組織のありかた。

さらに、絶えず何かに取り組んでいる振りの「やってる感」演出文化。思い出してみれば、「デフレ脱却」「三本の矢」「女性活躍」「地方創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人生100年構想」「人づくり革命」等々。掛け替えた看板の数だけは、比類のないもの。

アベとアベ政権が引き起こした数々の醜聞も忘れまい。モリ・カケ・桜、カジノに河井。情報隠して、格差を広げ、政治も行政もウソをつく。

いま、既にアベ政権はレームダック状態である。改憲の旗振りなんぞ今ごろできるわけがない。首相の体調の異変も報じられている。首相がいなくても行政は動くのだ。「悪さ」や「おいた」をすることなく、アベが黙っているだなら、もうしばらくアベ政権が続いてもよい。

アベは原稿読むだけの総理でよい。改憲発議せぬだけを以て貴しと為す。

当ブログは、安倍晋三の在任が続く限り、改憲問題・改憲阻止をメインテーマに書き続ける。ご愛読をお願いしたい。

「リツィート」も「いいね」も法的責任追及の対象となる。ネトウヨ諸君、中傷誹謗は慎まれよ。

(2020年8月22日)
伊藤詩織さんの大逆襲が始まった。私は、その勇気を称え、その行動を強く支持する。

弱い立場の者が被害に遭ったとき、泣き寝入りをしてはならない。泣き寝入りは破廉恥な加害者を図に乗らせることになる。社会に同種の被害を繰り返させることにもなる。被害者は泣くよりも怒りもて立ち上がらねばならない。

とは言うものの、実はそれはたいへんに困難なことなのだ。被害を受けた者に冷酷なのがこの社会の現実である。被害者の「落ち度」を意識的にあげつらう心ない言葉が、2次被害、3次被害を生み出す。ネット社会では、その被害がたちまちにして巨大なものにふくれあがる。被害者は、直接の加害者に対する責任追及だけでなく、2次被害、3次被害の加害者の責任をも追及しなければならない。その困難を覚悟で、泣き寝入りを拒否して、立ち上がる人に敬意を表せざるを得ない。

伊藤詩織さんは、明らかに刑事事件の被害者である。しかし、官邸に近いとされる加害者は、逮捕もされず起訴も免れた。その不自然な経緯は、官邸の守護神たちが加害者を擁護したとの説を大いに頷けるところとしている。そこで、やむを得ず民事的な手続による反撃を選択せざるを得なくなった。

2017年9月、加害者山口敬之を被告として1100万円の損害賠償を求める民事訴訟を提起したのに対して、山口は2019年2月慰謝料1億3000万円を求める反訴を提起した。

東京地裁〈鈴木昭洋裁判長〉は2019年12月18日、伊藤側主張のとおりの事実認定にもとづき、本訴請求を330万円の限度で認容。山口の反訴請求を全部棄却した。認容額には不満はあっても、紛れもなく伊藤側の勝訴である。山口側からの控訴があって、現在その控訴審が東京高裁に係属中である。

続いて、伊藤詩織さんは2次被害の克服にも着手した。実名で被害を名乗り出て以来、ネットの書き込みによる中傷は目に余る事態となっている。伊藤弁護団からの依頼で、荻上チキをリーダーとするチームが調査したところ、この件に関わる書き込み総件数は70万件に上っていたという。そのうち、名誉毀損相当のものだけでも3万件と報告されている。

最初に手を付けたのが、今年(2020年)6月8日に、漫画家はすみとしこに対する東京地裁への提訴である。虚偽の内容のイラストと文言で違法に名誉を毀損したという請求原因。損害賠償請求額は330万円である。

注目すべきは、同時に、はすみの名誉毀損表現を「リツイート」(転載)したとして男性2人を被告とする訴訟を併せて提起していることである。うち、1人は医師であるという。はすみとしこの名誉毀損行為を2次被害とすれば、この2人のリツィートは3次被害を生じたこととなる。こちらの請求額は、各110万円である。

そして一昨日(8月20日)、自民党の杉田水脈衆院議員に対する220万円の損害賠償請求訴訟の東京地裁への提訴となった。今度は、中傷ツイートに「いいね」ボタンを押すことの法的責任を問うている。弁護団は「何とか誹謗中傷の連鎖を止めたいと思って起こしたアクション」と説明しているという。

杉田が相次いで「いいね」を押したという第三者による中傷ツイートは下記のようなものである。

「枕営業の失敗ですよね。」
「娘いますが、顔を出して告発する時点で胡散臭いです。」
「自称#伊藤詩織は、そもそもレイプの事実関係が怪しすぎる。」
「お前は本当のキチガイか?」
「こいつ詩織が被害者だってマジで思ってんのかな?馬鹿じゃねえの?」
「なんだこいつ 品性ねえのはあんただ」
「確信犯…彼女がハニートラップを仕掛けて、結果が伴わなかったから被害者として考え変えて、そこにマスコミがつけこんだ!」
「ニコニコ顔で自分のレイプ体験を語るヤツが被害者って変だと思わないのかなぁ!?」

ほかにも、伊藤擁護のツイッターアカウントに対する「キチガイ」「見苦しい」「品性ねーよ」などのリプライ(返信)にも「いいね」を押していたという。

表現の自由の限界をめぐっては、常に論争が生じる。「いいね」といえども表現の一態様であって言論の自由の保護を受けてしかるべきだという立論は当然にあり得よう。しかし、そんな一般論ではなく、具体的な場と文言を見なければならない。杉田が「いいね」を押した表現の内容が、明らかに犯罪被害者の心情を傷つけるものであり、国会議員としての影響力をもっ杉田が「いいね」ボタンを押して中傷に同意することで、傷口を広げ深くして痛みを大きくしているのだ。「リツィート」のみならず、「いいね」もまた、2次被害、3次被害を生じさせていることが明らかではないか。

なお、前同日、伊藤詩織さんは、元東大特任准教授の大沢昇平に対しても、ツイートで名誉を傷つけられたとして110万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴している。
大沢は、「刑事裁判でレイプが認められなかったにもかかわらず、その後の民事裁判の結果をレイプを関連付けている」などと投稿。また、破産事件に関する官報の一部と思われる写真とともに「伊藤詩織って偽名じゃねーか!」とツイートした。

匿名に隠れて誹謗中傷をこととするネトウヨ界の住人諸君。他人の人格の侵害には、責任が問われることを知らねばならない。たとえ、「リツィート」であっても、「いいね」でさえも。

もっとも、天皇などの社会的権威や、安倍晋三などの政治的権力者に対する批判の言論については自由度が高い。しかし、弱い立場にある者への寄ってたかっての攻撃は許される余地がない。心していただきたい。

野党共闘の成立を恐れる産経の筆法に倣って

(2020年8月21日)
本日(8月21日)の産経社説が、「【主張】国民民主の解散 政策や理念は置き去りか」という表題。「政党とはかくも軽い存在だったのか。」「『選挙とカネ』目当てで離合集散を繰り返す野党の動きは目に余る。一体誰のために議員バッジを着けているのか。」というのが書き出しで、ポイントは次の一節。

 「共産党との協力を拒否してきたのはどこの政党か。それが、共産党との協力も厭わない立民に合流する。有権者からは、合流後の立民が左派色を強めて先祖返りするとみられるのではないか。」

https://www.sankei.com/column/news/200821/clm2008210003-n1.html

要するに、「『反共』というこの上ない重要な理念を置き去りにしてはならない」という余計なお世話である。産経が代表する右派勢力の、野党勢力結集への嫌悪感や恐れが滲み出ていて、大いに参考になる。その筆法を借りて、現政権を批判してみたい。

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【主張】臨時国会召集要求の無視 かくも露骨に憲法を無視するのか

総理とは政権とは、そして与党とは、かくも身勝手な存在だったのか。

コロナ禍のさなかダンマリを決めこむ安倍首相とこれを支える内閣。そしてこんな政権に一言の批判も発しようとしない自・公の与党。陣営にとっての利益と不利益の計算しか眼中にない、この政権の動きは目に余る。一体誰のために議員バッジを着けて、録を食んでいるのか。

7月31日、立憲民主、国民民主、共産、社民の4野党は、憲法53条の規定に基づく臨時国会召集の要求書を提出した。憲法53条後段が「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、(臨時国会の)召集を決定しなければならない」と定めている以上、内閣が臨時国会召集の義務を負うことが明らかである。にもかかわらず臨時国会召集に向けて、いっこうに動こうとしない政府与党。

自・公の与党も内閣も安倍首相も、憲法を大切にしようという考えを持ち合わせてはいないのだろうか。野党からの臨時国会召集の要求から開会まで、事務手続上の一定の時間を要することは、頭から否定しない。

だが、常識的な必要時間を超えての怠慢はとうてい評価しえない。これは、主権者たる国民に対する背信行為にほかならない。主権者国民は憲法を確定して、全ての公務員にその遵守を命じている。与党の国会議員も、内閣も、内閣総理大臣も、憲法遵守義務を負う。

内閣は、憲法53条に明示された憲法上の義務である「国会の臨時会の召集」を決定しなければならない。多くの人々からこのことを指摘されながら、ネグレクトし続けているのだ。その内閣を率いる首相の責任は重大である。この内閣の母体となっている与党の責任も免れない。主権者国民からは、総理大臣も内閣も与党議員も、そののすべてが憲法を遵守する姿勢をまったく欠いているとみられて当然ではないか。

国民からの信頼を回復し、健全な立憲主義政治を取り戻すためには、まずは、臨時国会召集を決定して、憲法をないがしろにする姿勢を清算することが先決だろう。

安倍首相のダンマリは異様である。このところの安倍政権の内政・外交政策の破綻ぶりは、目を覆わんばかりである。この臨時国会召集懈怠は、失政隠しとみられないか。

見過ごせないのは、ささやかれる解散総選挙の行方だ。自民党の敗北確実と予想されているが、野党の要求に応じて臨時国会を開けば、安倍政権の失政が追及されて次々とボロが出て来ることとなり、総選挙の大敗をきたすことを恐れているのであろうか。だとすれば、憲法遵守の大原則よりも、「選挙とカネ」を目当てで、国会を開かないとしているのだ。この利己的な姿勢は目に余る。一体誰のために議員バッジを着けているのか。

今回の首相のダンマリと政権の無為無策無能と臨時国会召集拒否が連動していることを、主権者国民はすでに見透かしている。内閣は、責任を取って、総辞職してはどうか。

証人買収容疑で秋元司逮捕。安倍晋三の、首相・総裁としての幾重もの責任。

(2020年8月20日)
カジノの建設が、アベ政権経済政策の目玉のひとつとなっている。情けない経済政策ではないか。カジノとは賭博以外の何ものでもない。賭博とは、互いに相手の金をむしり合うゲームである。ゲームに加わるのは人の不幸をもって我が利益にしようというさもしい連中。賭博は金のやり取りをするだけで何の利益も生み出さない。よい齢をした大人が目の色を変えて金のやり取りにうつつを抜かす。これこそ「生産性に欠け」、怠惰と頽廃を生み出す。そのゲームに投じられる莫大な金額が人の目を眩まし、社会を歪める。そして結局は胴元が金を吸い上げるだけの装置なのだ。歪んだ政権の歪んだ政策と言うほかはない。

もちろん賭博は刑法上の犯罪である。アベ政権は、実質的に社会に犯罪を煽り犯罪の蔓延によって経済を振興しようとしたが、カジノの建設が実現する以前に身内から収賄犯罪者を出した。秋元司である。彼は、アベ政権の「国土交通副大臣兼内閣府副大臣兼復興副大臣」だった。カジノ建設担当副大臣と言ってよい。その彼が、中国企業「500ドットコム」側から、賄賂を受け取っていたとして逮捕され起訴された。公訴事実は、衆院議員会館で300万円の現金を受け取ったほか、シンポジウムでの講演料や旅費など計約760万円相当を賄賂として受け取ったということ。

収賄の金額は760万円程度だが、これが全部かどうかは疑わしい。彼は、昨年(2019年)12月25日早朝、毎日記者の携帯電話に電話をかけ「はした金はもらわねえよ。あり得ねえよ。ほんとばかたれ」「1億、2億なら別だが俺は正面から堂々ともらうんだから」「地検ははしゃぎすぎだ。こんなことで身柄拘束しやがって。徹底して戦ってくるわ」と宣って、その日のうちに逮捕となった。760万円程度のはした金にご不満だったようなのだ。

その彼が起訴となり、2月12日に保釈となった。保釈保証金は3000万円と報道されている。相当な金額と言ってよい。証拠隠滅行為を疑われれば、保釈は取消され、保釈保証金は没取(業界では、ボットリと読む)される。通常、3000万円は惜しい。よもやそんなことはあるまい、と思う。ゴーンの件もそうだったが、この世界には「よもやそんなこと」が結構頻繁に起こるのだ。

本日(8月20日)、保釈されていた秋元が再逮捕されたとの報道である。被疑罪名は、組織犯罪処罰法違反(証人等買収)。当然に保釈は取り消され、3000万円は没取となるだろう。これは、落ち目のアベ政権に小さくない衝撃となる。あらためて国民は、アベ政権というものの薄汚さを再確認しなければならないからだ。

組織犯罪処罰法7条の2の「証人等買収」罪は、結構面倒な規定だが、「自己又は他人の刑事事件に関し、証言をしないこと、若しくは虚偽の証言をする…ことの報酬として、金銭その他の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」というもの。

秋元逮捕の被疑事実は、「自分の刑事事件で、贈賄側に虚偽の証言をすることの報酬として計3千万円を渡そうとした」ものと報道されている。また、贈賄側にうその証言をするよう働きかけたとして同容疑で逮捕された淡路明人が「秋元議員から証人買収を依頼され、指示を受けた」との趣旨の供述をしているという。

多くの人名が出てきて分かりにくいが整理してみよう。

(1) 主事件は贈収賄である。主役は収賄側の秋元司。脇役が、贈賄側・中国企業「500ドットコム」の紺野昌彦と仲里勝憲の二人。なお、贈賄側2被告の公判は、収賄側とは分離して8月26日に第1回が予定されている。

(2) 派生事件が証人買収で、買収を持ちかけた側が、秋元司、淡路明人、佐藤文彦、宮武和寛の4人である。いずれも逮捕されたが、実行行為は佐藤が紺野に、宮武が仲里に働き掛けたという。紺野・中里は供与された現金を受け取っておらず逮捕されていない。

秋元は、衆院解散当日の2017年9月28日、議員会館の事務所で、IR参入を目指していた中国企業「500ドットコム」元顧問の紺野と中里の2人から現金300万円を受け取ったとされる。秋元は授受を否定し、贈賄側の両被告は公判でも起訴内容を認める方針とみられている。そこで、「9月28日は秋元議員に会っていなかった」と証言の依頼をしたということなのだ。買収資金は、最初は1000万円、次いで用意した現金2000万円を見せての話となり、最終的に3000万円の約束が持ちかけられたという。

立憲民主の安住国対委員長がこう述べている。
秋元議員に対しては、「司法手続きをゆがめるようなことをやったとなると、国会議員としては絶対にあってはならないことなので、即刻、議員辞職に値する。本人がみずから辞めないのであれば、議員辞職勧告決議案を出そうと思っている」

また、「自民党は秋元氏の処分をしないまま離党を認め、安倍総理大臣は、内閣府の副大臣に任命した経緯があり、総裁と総理としての2つの責任がある」。まったく、そのとおりである。

さらに、こんな問題も派生している。証人買収を持ちかけた側の中心に位置するのが、淡路明人である。秋元議員の支援者で会社役員とされるが、マルチ企業「48(よつば)ホールディングス」の元社長。同社は2017年10月に消費者庁から特定商取引法違反で取引停止命令を受けている。以前から、赤旗の報じるところだが、安倍晋三首相や妻の昭恵と接点があり、首相と近いことをマルチの宣伝に使っていた。「安倍さんや菅さんとツーショットを撮れるような立派な人がクローバーをやっている」とのイメージは、強力な“荒稼ぎ”の武器とされた。同社は16年9月17年6月までの10カ月間で192億円以上を“荒稼ぎ”しているという。

この機会に思い起こそう。安倍政権というものの実態を。その数々の腐敗と汚れた歴史を。

「英霊」の望むところとして、首相の靖国参拝を正当化してはならない。

(2020年8月19日)
日本遺族会は、本年8月6日内閣総理大臣安倍晋三宛に、下記「靖国神社への参拝のお願い」なる要請書を提出した。その要請は実現しなかったが、靖国神社問題についての右派の言い分が良く表れている。これにコメントを付す形で、彼我の主張の対峙を確認しておきたい。

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安倍晋三内閣総理大臣の靖国神社への参拝のお願い

 安倍晋三内閣総理大臣におかれましては、戦没者遺族に係わる諸問題につきまして、平素より格別のご高配を陽り、衷心より感謝申しあげます。
 新型コロナウイルスの世界的蔓延により、未曽有の危機的状況の中、我が国においても感染拡大防止に懸命の努力が続けられております。
 さて、本年は終戦から七十五年の節目の年であります。

 安倍内閣総理大臣は平成二十五年十二月、靖国神社に参拝され、英霊に感謝の誠を捧げられました。正に信念を貫かれ、毅然とした態度で参拝されたことに対し、戦没者遺族は等しく感謝をいたしました。

澤藤コメント 仰るとおり、2013年12月26日安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。公用車で乗りつけ、「内閣総理大臣 安倍晋三」と肩書を記帳してその名義で献花し、昇殿参拝したものです。この日、首相は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対して、哀悼の誠をささげるとともに、尊崇の念を表し、み霊安らかなれとご冥福をお祈りした」との談話を発表し、「在任中参拝を続けるか」との記者の質問には「今後のことについて話をするのは差し控えたい」と答えてもいます。予想されたとおり、この首相参拝に対する内外からの批判は凄まじく、安倍首相の靖国神社参拝は後にも先にも、これ1回だけでした。安倍晋三という右派の人物にして、靖国神社参拝は一回こっきり。繰り返すことは無理なのです。敢えて繰り返せば、政権がもたないのです。)

 靖国神社には、かつての大戦で国の安泰と平和、そして家族の幸せを願って尊い生命を国家のために捧げられた二百四十六万余の御霊が祀られております。

(さあ、本当にそうでしょうか。納得し得ない2点を指摘せざるを得ません。
第1点は、靖国に祀られているとされる戦没者は、本当に「国の安泰と平和、そして家族の幸せを願って尊い生命を国家のために捧げられた」のでしょうか。そのような方もいらっしゃったことは否定しません。しかし、多くの方々は、国家によって心ならずも徴兵され、その意に反して武器を持たされ、死地に赴くことを強いられたのではないでしょうか。自ら、国家のために命を捧げた、などと簡単に言ってはならないと思います。
第2点は、招魂の儀式を経て246万余柱の戦没者の霊魂がこの神社に祀られているというのは信仰の次元のお話しです。正確には「私たちは、靖国神社には246万余柱の戦没者の御霊が祀られていると信じています」と仰るべきではないでしょうか。そのような信仰をもたない他者が口を差し挟む余地はありません。しかし、信仰の次元を超えて、世俗の世界に対して「祀られております」と断定されることには、強い違和感を禁じえません。

 戦没者遺族の大多数は肉親の死を看取ることなく、遺骨すら受領していません。戦没者はたとえ肉体はくちても己の御霊は靖国神社に還ることを固く信じて散華されました。

(「戦没者遺族の大多数は肉親の死を看取ることなく、遺骨すら受領していません。」と仰ることには強く共感いたします。戦没者は国家に理不尽な死を強制されただけでなく、死後にも不当な仕打ちを受け続けているのです。この点については、必ずや国民の大多数が戦没者遺族とともに国に対する怒りを共有することになるのだと思います。
しかし、「戦没者はたとえ肉体はくちても己の御霊は靖国神社に還ることを固く信じて散華されました」は、とうてい信じがたいことと言わざるを得ません。遠い異国で没した犠牲者は故国と故郷を偲び、暖かいご家族のもとに帰りたいと願ったに違いありません。どうして、靖国神社に還りたいなどと思うことがありましょうか。もし、本当にそんな思いを抱いた戦没者がいたとすれば、哀れな洗脳教育の被害者というほかはありません。戦後75年、いまだに戦没者を欺し続けてはならないと思います。)

 また、遺族も御霊は靖国神社に必ず還っておられると信じて今日まで慰霊追悼を行ってまいりました。故に、我々戦没者遺族は靖国神社こそが我が国唯一の戦没者と遺族を繋ぐ追悼施設であると確信しております。

(宗教は多様です。死者の霊魂が存在するという宗教もあり、否定する宗教もあります。優れた死者の霊魂が神になるという信仰も、非業な最期を遂げた死者の霊の祟りを恐れる宗教もあります。しかし、国家が戦争による死者を護国の神として祀るという、靖国の教義は特異な国家宗教と考えるべきでしょう。ご遺族が、今日なおこのような国家宗教を信仰し、「御霊は靖国神社に必ず還っておられると信じて」おられるということは常識的には信じがたいところです。)

 英霊が眠る靖国神社に、国の代表である内閣総理大臣が、靖国の御霊に敬意を表し、感謝することは極めて当然であり、自然なことであります。現に世界のいずれの国においても国家のために犠牲となられた戦没者は、その国の責任において手厚く祀られております。

(靖国神社に「英霊」が眠るということが、既に信仰の世界のお話し。これを世俗の世界に持ち出してはなりません。同じ信仰を持つお仲間で慰霊追悼をお願いいたします。「国の代表である内閣総理大臣が、靖国の御霊に敬意を表し、感謝すること」は決して、当然でも自然なことでもありません。むしろ、真っ当な条理からも憲法からも、内閣総理大臣に厳重に禁止されていることで、とうてい許されることではありません。世界のいずれの国においても国家のために犠牲となられた戦没者を特定の宗教団体が神として祀るという例は、少なくも近代国家ではあり得ないことです。)

 しかしながら我が国では、内閣総理大臣の靖国神社参拝はひとえに時の総理の決断に左右されているのが現状であります。そうした中、安倍内閣総理大臣は、堂々と靖国神社に参拝されました。また、靖国神社の春秋の例大祭には大真榊を、さらには、八月十五日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」には玉串料を泰納されておられます。我々戦没者遺族にとっても大変有難く、重ねて深謝申しあげます。

(内閣総理大臣の靖国神社参拝も、もちろん天皇の参拝も、日本国憲法の政教分離原則に反する、憲法違反の違法行為なのです。どうして日本国憲法が厳格な政教分離原則をつくったか、それはまさしく靖国の思想を否定するためと言ってよいと思います。天皇の神社靖国は、軍国神社でありました。国民を戦争に駆りたて、天皇のために戦って死ねば靖国に神として祀られる最高の栄誉を得ることができる。小学校から、そう教え込んだのです。戦死者は、侵略戦争に邁進して国民を危険に巻き込んだ国家の犠牲者ではありませんか。国民を戦争に駆りたてて犠牲を強いた「天皇の国家」は亡び、新しい「国民の国家」に生まれ変わったのです。その新しい国家の基本原則として、靖国という軍国の宗教を、完全に国家から切り離した宗教法人とし、一切の国との関わりを禁じたのです。それが、戦前の軍国主義の復活を許さず、再び日本を戦争させない国とする重要なブレーキとなっているのです。)

 国の代表である内閣総理大臣の靖国神社参拝の定着こそが、国の安寧と繁栄を願って犠牲となられた戦没者に対して応える唯一の道であり、戦没者遺族はその実現を心より願っております。

(それは、真逆なお考えです。国の代表が特定の宗教と結びつくようなことがあってはならないのです。とりわけ、国民の戦意昂揚のための軍国神社と関わるようなことは許されないのです。戦没者は、靖国に煽られて尊い命を失った、誤った国策の犠牲者ではありませんか。再びの靖国と国家との結びつきを喜ぶはずはありません)

 故に日本遺族会は、総理並びに閣僚の皆様には靖国神社に、また、知事及び遺府県議会議長には護国神社に参拝いただくよう、引き続き運動を推進してまいる所存でございます。

(それは、違憲・違法な運動を推進するということです。決して、心ある国民の賛意を得ることにはなり得ません。むしろ、過ぐる大戦で日本軍の侵略の被害を受けた近隣諸国の民衆や、民間戦争被害者と連帯して、国家の行為によって再び戦争を起こしてはならないという運動に方向を転換すべきではないでしょうか。それこそ、平和を実現する礎となり、戦没者の真に願うところではないでしょうか)

 今日の我が国の平和と繁栄のために、二百四十六万余の尊い生命が礎となられたことを決して忘れてはなりません。安倍内閣総理大臣におかれましては、外国の干渉などに屈することなく、この節目の年に、我が国を代表して、堂々と靖国神社へ参拝していただき、英霊に尊崇と感謝の誠を捧げていただきますよう心からお願い申しあげます。

(日清戦争以来、日本軍は外征して戦争を繰り返しました。外国を「日本の生命線」として、侵略戦争に明け暮れたのです。その侵略戦争が続く間、日本の軍国主義の精神的支柱となった靖国神社に、内閣総理大臣が堂々と参拝するようになったら、近隣諸国が日本を再び危険視することになるでしよう。遺族会は、かつては靖国神社国営化にこだわりましたが、今そんなことは忘れられています。公式参拝要請も止めませんか。一部の政治家の煽動に乗るだけのこと。戦没者にも遺族にも益のないことではありませんか。再びの戦争や軍国の復活を許さず、揺るがぬ平和を打ち立てることこそ、真に戦没者の犠牲を活かすことであり、確かな戦没者への追悼の在り方ではないでしょうか。)

  令和二年八月六日
                     一般財団法人 日 本 遺 族 会
                             会 長 水落敏栄
内閣総理大臣安倍晋三殿

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