5月3日・憲法記念日に何紙かの紙面に目を通した。その中で、神奈川新聞の投書欄の記事が目についた。
■信頼できる首相が欲しい 中村祐一 74 (厚木市)
緊急事態宣言を先月7日発令した安倍首相は会見で「どうか正しい情報に基づいて冷静な行動を心よりお願いする」と国民に呼び掛けた。おやっ!? と思った。
森友・加計に財務省の文書改ざん、「桜を見る会」、東京高検検事長の定年延長問題。選挙演説中に聴衆をののしり、国会審議中に答弁席から下劣なやじを飛ばす。国のトップとして責任感も品位もない首相に呼び掛けられても素直に「はい、分かりました」と受け入れる気持ちにはなれない。
緊急経済対策で国民に「一律10万円給付」との会見では、プロンプターに映る官僚の作文を棒読み。これでは国民の胸には響かない。現金給付を巡る政治的混乱について 「私自身の責任であり、国民に心からおわびを申し上げたい」と陳謝。なぜ「おわび申し上げる」と言わないのか、私には理解できない。
新型コロナウイルス対策で、ドイツのメルケル首相の国民に語りかける誠実で説得力のある言葉に、私は同国民がうらやましい。つくづく心から尊敬し信頼できる首相が欲しい。
なるほど、まったくそのとおりと思いつつも、反面、軽々に同意してはならないとの思いもある。国家の主人公は、飽くまで国民であって、政治的なリーダーではない、と考えるからである。
私も、ドイツ国民を羨ましいと思う。が、それは真っ当な国民の代表者を選任する能力を備えている点において、である。
「安倍晋三 その存在こそが国難だ」という認識が国民の一定部分に定着して久しい。それでもの長期政権である。この人には、その能力にも、資質にも、品性にも、政治姿勢にも、とるべきところはない。文化的素養は乏しく、なによりも政治家としてのビジョンにもパッションにも欠ける。
この人が一番生き生きし、はつらつとしているのは、「ニッキョーソ!」とか、「キョーサントー」と、大臣席に着席して野次を飛ばしているとき。神妙に国民に語りかけるときは、投書子の指摘のとおり、プロンプターに映る官僚の作文を棒読み。学級委員が作文を読んでいる風情で、国民の胸に響くものがない。
安倍晋三を支える右翼勢力の好みは、儒教にいう「徳治」であろう。しかし、安倍晋三に、民を感化する「徳」の一片もあろうはずはない。近年これほど政治の私物化が目に余る政治家はいない。
「修身斉家治国平天下」こそが、天皇制教育が拠って立つイデオロギーであった。この視点から安倍晋三はどうであろうか。「嘘つきは、安倍の始まり」と囁かれているほどなのだから修身失格である。だから、「あきれ夫人」の暴走を押さえての斉家は望むべくもない。その結果、国は治まらず、天下は乱れているのだ。
尊敬される人物とは、真・善・美を語ることができなければならない。敬愛される政治家とは、正義と友愛を体現していなければならない。安倍晋三ほど、この条件に真逆な人物も少ない。安倍晋三ほど尊敬や敬愛とは無縁な政治家もいない。
それゆえ、良識ある国民からは、疎まれ蔑まれているのが安倍晋三である。にもかかわらず、有権者の総体は、この「ミスター国難」「ミスター不徳」を是認し、政権の座に留めている。だから、引きずり降ろすことができない。
もっとも、政権トップの資質という点では、トランプと安倍晋三は、兄たりがたく弟たりがたし。価値観だけでなく、嗜好も品性も政治姿勢もよく似ている。アメリカ国民もお気の毒ではないか。いや、サウジアラビヤも、ハンガリーも、ポーランドも、トルコも、ブラジルも、実はお気の毒な国民は、全世界に目白押しだ。ロシアも、中国も、北朝鮮も大同小異。
他国の国民には「お気の毒」というしかないが、自国のリーダーは、私たちの手で変えることができる。「信頼できる首相が欲しい」ではなく、「安倍晋三には退陣願って、信頼できる真っ当な首相に変更しよう」。多くの人と力を合わせて、そのための算段を工夫しよう。
(2020年5月6日)
安倍晋三には、とうの昔に見切りを付けている。この人物を信頼してはならない。現下の国民的な災厄に適切に対応する適性も能力も誠実さもない。しかし、チームとして事に当たる、官僚諸君や医療人は信頼に足りるのではないか。その期待は捨てていない。頑張っていただきたいと願っている。
問題は専門家会議(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議)に対する信頼の可否である。当初は、その分野での日本の最高知が集められているのだと思いこんでいた。だから政治性とは無関係に、無能な官邸にも適切なアドバイスができるだろうと期待は高かった。が、どうもそうではないらしい。次第に馬脚が現れてきた。そして、昨日(5月4日)の「緊急事態延長宣言」首相記者会見に陪席した尾身茂の発言は、国民の前に、「これはダメだ」「到底信頼しえない」ことをさらけ出した。
率直に申しあげよう。こんなにも注目された場で、こんなにも能力を期待される人の、こんなにもわけのわからぬ記者会見発言は前代未聞のことではないか。私が浅はかだった。思い起こせば、政権にくっついた「専門家」の不甲斐なさは、3・11原発事故でよく分かっていたはずではないか。安倍政権にくっついている「専門家」には、国民からの厳しい批判が必要なのだ。
官邸のホームページから当該部分を抜粋してみる。以下の質問は要約で、回答は全文である。原文は下記URLを参照されたい。
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0504kaiken.html
質問 ビデオニュースの神保(哲生)です。
PCR検査の話、総理は御自分もどこに目詰まりがあるのかをいろいろ聞いてみたというお話がありました。PCR検査は感染状況を知る上でも、自分が感染していることを知らないで人にうつしてしまうケースがあるという意味でも非常に重要だと思うので伺うのですが、内閣総理大臣がPCR検査が少ないので増やせと指示をしても、今の日本は実力的にPCR検査を増やすことができないと総理はおっしゃっているのでしょうか。それとも、まだ、これまでは本気で増やすことをしてこなかったということなのか。そして、なぜ民間を使うという選択肢が出てこないのか。詳しくお話しください。
(安倍総理)
これはもちろん本気でやる気がなかったというわけでは全くありません。私は何回も、とにかく能力を上げていくと。実際、能力は上がってきているわけであります。国としてできることは、予算をつけて能力を上げるということでありまして、1万5000。しかし、1万5000、能力を上げたら、1万5000人分行くかといったら残念ながらそうなっていないのでありますが、多く見て、多くは東京に集中をしているわけであります。ですから、先ほど申し上げましたように、PCRセンターを20か所増やす中、東京に集中的に12か所増やしました。医師会にも御協力を頂く。言わばそういう体制をつくっても、なぜかと言えば、これはまず、それをPCRをやる方を迎えなければいけなかったわけでありますが、それをやる、言わば人的な目詰まりもあったわけでありまして、医師会の皆さんにも御協力を頂き、また、歯科医師会の皆さんにも御協力を頂くことになったわけでありまして、そういう意味において、全力を挙げていきたいと思っています。
補足的にもまた尾身先生に御説明を頂きたいと思います。
予てから、安倍は「PCR検査能力を上げていく」「1日2万件」と表明しながら、現実にはその半分にも到達せず、他人事のように「目詰まり」云々と言ってきた。質問の眼目は、この「目詰まり」にある。安倍晋三よ、本気でやる気があるのか、という問いかけなのだ。これに対する安倍答弁は、かろうじて最初の一文だけが理解可能であるが、それ以下は何を言っているのか分からない。忖度すれば、「これからは全力を挙げていきたい」というものだが、質問者の意図に的確に応えるなどという芸当は望むべくもない。この人、プロンプターやメモがなければ、この程度にしか語れないのだ。これが、わが国の行政府のトップの「能力」なのだ。
ここで尾身茂にバトンが渡される。以下、5パラグラフに分けて感想を述べる。
(尾身会長)
実は、もう民間の方は、先ほども申し上げましたように、3月6日から保険の適用が始まって、少しずつ増えております。今、いろいろ統計を我々は始めて、いわゆる感染研とか地方研でやられていることは分かっています。それと、民間の検査会社でやっているのも分かっていますが、実はこれはなかなか複雑でして、病院でやったものを、今、医師会なんかの御協力で保健所を通さないで行くというシステムができたのは皆さん御存じですけれども、入院されている患者さんは退院するまでに数回やることがありますよね。退院のために2回。そうすると、そのことが全部報告されてきてしまうと、分母、やっている件数が増えますよね。だから、我々、今、非常にジレンマで、今、大変難しいと思って、何とか解決しようと思っているのは、一つの報告、分母は感染研とか公的機関だけのものと、それから民間を入れると今度は増え過ぎてしまって、そこはオーバーになっているということが今、現実ですけれども、しかし、確かにトータルとしては、今日の専門家会議の方で見せましたけれども、検査件数が全く上がっています。
こりゃまったくダメだ。発言の意味が分からん。とても科学者の言葉ではない。少なくも、新しいウィルス禍と闘おうという高度な知力を要するプロジェクトのチームリーダーの言とは思えない。この人の属するチーム内でのコミュニケーションが成立しているとは思えない。
「今、いろいろ統計を我々は始めて、…実はこれはなかなか複雑でして」という文理からは、「保健所を通す検査」に、「保健所を通さない検査」が加わったから、「実はなかなかPCR検査の統計が複雑でして」、「非常にジレンマで、今、大変難しいと思って、何とか解決しようと思っている」というように読める。この程度の統計処理を難しいというこの人の正直さは憎めないが、到底大事を託することはできない。
あるいは、「民間を入れると今度は増え過ぎてしまって、そこはオーバーになっているということが今、現実です」との意味は、こうであろうか。「これまでは、保健所を通した検査に限定することで、自分たちの対応できる範囲での陽性患者数に抑制してきたが、検査に民間が入ってくるとその意図が崩れてしまって、事態は大変難しい」 これも、バカげた話。PCR検査増加の必要についてまったく理解していないと言うことだ。
発言の趣旨が分からない。何が言いたいんだか理解し難い。問われているのは、これまでどうしてPCR検査に民間活用をしてこなかったのかということ。あなたは、民間の検査や報告を歓迎しているのか、「増え過ぎてしまって、そこはオーバー」だから邪魔で反対というのか。
それと、先ほど、そういう中でも実は日本の死亡率は、これは一番の我々の目標、全ての感染を知っているわけ、これはなかなか難しいですね。分かりませんが、死亡率という意味で、今のあれでも死亡のことはピックアップして、その死亡の数は、これはヨーロッパのほうに比べても10分の1以下ということですから、必ずしもPCR、私自身はPCRはもう少し、総理がこの前2万件と。そのぐらいまでは行ったほうがいい。それに今、努力をしています。ただ、それと同時に、私は専門家として、一応事実としては、PCRは日本は最も少ない国の一つですけれども、人口当たりの死亡率、それから絶対数もヨーロッパの国の10分の1以下であるということは、これは事実です。しかし、だからといって、今のPCR体制がこのままでいいというように申し上げているのでは。
これも、いったい何を言っているのか。何を言いたいのか分からない。分かるのは、PCR検査不足の言い訳をしようという魂胆だけ。聞かれているのは、PCR検査の実数が伸びない「目詰まり」の実態。安倍得意の論法ずらしと同様に、問題を死亡率にすり替える。類は友を呼ぶというが、なるほど尾身も安倍流なのだ。
もう一つは実は、PCRというのは、もう皆さんも御承知のように、やるのはそう簡単ではなくて、今、我々が、先ほど治療薬の話が出ましたけれども、私自身は治療薬の研究に直接は関わっていませんが、この5月あるいは6月で臨床治験の結果が出る。
これも、すりかえ論法である。しかし、PCRという検査を話題としているのに、唐突に治療薬の話。いったい、質問とどんな関係があるのか。質問に答える場での、このトンチンカンさは、この人には対話の能力のないことを表している。この人が臨床医であればインフォームドコンセントはできない。この人が教官であれば、生徒は不幸だ。そして、もしかしたら、今日本国民を不幸にすることにもなるのだ。
それともう一つ、今のPCR関係で非常に重要なのは迅速診断キットです。抗原。これが、まだ最終的な結果はありませんけれども、これは簡単です。唾液を取ってできますから、実は、これは日本がインフルエンザでずっとやってきた、あれなのです。それで、私はこのPCRはこれからも、PCRとこれは補完的な関係ですから、この迅速診断キットというのが私はかなり期待をしています。もちろん早計に簡単なことは言えませんけれども、今、私たちの入っているところでは、比較的、特にウイルスの排出の多い、これが一番感染をしやすいケースですよね。この人たちを探知するのは十分。もちろんPCRの方が感度はいいですよ。だけれども、感染の症状の始まる前、2日ぐらいが一番多いんですね。
このレベルのウイルスだと引っかける可能性があるということで、私自身はPCRはもちろん、これから様々な困難がありますけれども、努力して、2万件のところまでとりあえず行く。と同時に、迅速診断キットができると、かなり今の状況は変わるということがあるので、この2つを見ながら、また死亡率を、死亡率はだんだん今、死亡者は上がっていますから、死亡者をこのまま他の国に比べて少ないという維持をするためには様々な努力が必要だと思います。
この記者会見発言は一般国民に向けのもので、医療従事者向けでもジャーナリスト向けでもない。拙劣な日本語解説で、一定の知識なくしては内容を推察しえない。 迅速診断キットとは、「新型コロナウイルス検出PCR検査キット」のことではない。過日、楽天が「検査キット(COVID-19 PCR Testing Kit)」を販売するとして話題になったが、結局は販売は中止となった。尾身発言が言及したのは、そのPCR検査キットではない。そして今注目度の高い血清抗体検出キットのことでもなく、「抗原簡易検査キット」のことである。
果たして、どれだけの人が尾身解説を理解できたであろうか。また、知識あって、この人の言うことを推察できた人には、この発言は無用の長物である。
そして最後の「死亡率を、死亡率はだんだん今、死亡者は上がっていますから、死亡者をこのまま他の国に比べて少ないという維持をするためには様々な努力が必要だと思います。」は、ダメ押しの意味不明。
「死亡者の絶対数も、感染者に対する死亡率も、他国に比べて低く押さえるには今後の努力が必要」と言いたかったのだろうか。そんなことなら、あまりにも当然のうえ具体性がなくしゃべる価値も聞く価値もない。
これが、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議・副座長」であり、「基本的対処方針等諮問委員会・会長」の発言である。安倍の持ち上げに乗じられて、恐れ入ってはならない。目を見開き、聞き耳を立てて、よく言い分を吟味しよう。いま、国民の厳しい批判こそが必要である。遠慮などしている余裕はない。
(2020年5月5日)
表現はまことに多種多様である。社会に有用な表現もあれば無用な表現もある。人畜無害の表現もあれば、特定の人や組織を傷つける表現もある。歴史における経験が教えるところによれば、社会に有用有益な表現は、多くの場合特定の人の耳に痛いものである。そのような表現が封殺されるようなことがあってはならない。あるいは、表現が躊躇されてもならない。
表現の自由とは、有用無用・有害無害を問わず、原則として表現一般に認められる建前ではある。しかし、有用有益な内容をもちながら、権力や社会的強者に嫌われる表現こそが、表現の自由保障の対象として最もふさわしい。これこそが、表現の自由の本領である。
ときに、公権力あるいは社会的な強者から、社会的に有用な表現の削除や撤回が求められる。私(澤藤)の場合は、DHC・吉田嘉明からの6000万円請求スラップ提訴であった。
実際には提訴にまで至ることなく、訴訟提起をチラつかせて恫喝し表現の自粛を求めることが、この社会で多く行われているのだろう。DHCが組織としてこういう動きをしていたことは、DHCスラップ訴訟の中で明らかとなっている。
このコロナ禍での行政の動きは不透明のままである。とりわけ、いっこうに増えないPCR検査の実態がどうなっているのかさっぱり分からない。実際に検査を受けた人の情報は貴重なものである。そのような貴重な情報が社会に多数提供され集積されるることが、合理性ある政策決定と、決定された政策への信頼確保に不可欠だからである。「お上」が密室で拵えた、検証不能の政策の合理性に信頼がおけないのは当然ではないか。
コロナについて、とりわけ検査の実態について、もっと情報の公開を、と考えていたところに、知人からこんなメールをいただいた。「独自のドキュメンタリーを創り続けている映画監督、早川由美子さんは、新型コロナへの感染不安を感じ、PCR検査を受けた。そして、そこに至るまでのプロセスと、検査会場での観察を、自身のブログで報告した。ところが、その記事について、一部削除の「要請」圧力を、世田谷区役所から受けている。貴重な体験ルポをシェアする。」 これはありがたい。
早川さんは、こう述べている。
現在、私は世田谷に住んでいますが、世田谷区のPCR検査を受け、その記録をブログで公開したところ、世田谷区保健所から削除を求められています。あくまでも削除の「お願い」としつつも、要請に従わない場合は法的措置をとるとまで言われています。
ぜひ、以下のブログを読んでくださればと思います。
■世田谷区のPCR検査を受けました
https://www.petiteadventurefilms.com/setagaya_pcr/
■「PCR検査会場を区民に知らせるな!」世田谷区健康企画課からの電話(2020年4月27日)
https://www.petiteadventurefilms.com/20200427/
以上は世田谷区の例ですが、おそらく他の自治体も似たような状況かもしれません。
このメールやブログは転載歓迎です。問題意識を共有してくださればありがたいです。
このレポートは、一般人がPCR検査を受けようと望んでも、容易には検査を受けられない実態が、生々しく分かり易く詳細に語られている。これは貴重な情報である。早川さん夫妻は結果として、検査を受けることができた。その場所は、保健所ではない別の場所だった。そのことの詳細もブログに記載されている。
そして、4月27日世田谷区健康企画課の課長さんからのブログ削除要請に関する電話の内容が書き起こされている。区側は「どうしてものお願い」として、「ブログとツイッターを削除頂けないでしょうか」と言う。理由は、区として公開していないPCR検査の場所を、ブログなどで公開されては不都合ということ。PCR検査の場所を非公開とすることも、これを公開したら大きな不都合が生じることも、到底理解し難い。なによりも、市民の表現を削除せよという根拠が考えられない。
できるだけ文意を損なわず、当該部分を抜粋してみよう。
区:削除をお願いするというのが、私たちの立場です。
早:お願いを、今、していただいているというのは分かりました。
区:で、お願いではないです。これ、このままお願いではなくて、ずっと(ツイッターやブログを)出し続けた場合というのは、わたくしのほうも、区の弁護士のほうとご相談させていただくということになりますけど?
早:あ、そうですか。じゃあ、そのような手続きについても分かりました。
区:「わかりました」っていうのは、どういうことですか?
早:あの、「言い分について分かりました」っていうことです。
区:削除の約束は…。削除の約束はしていただけますか?
早:それは、今ここで約束することはできないです
区:なぜですか?
早:なぜですかって言われても、わたし今…
区:ここにツイートが残っていれば…必ず関係者の方が、(検査会場に)行きますよ。それによって、検査を受けられない人がまた増えるんですよ。責任取れますか? 検査に殺到した場合に、検査の体制を覆すことによって、救われる命も救われなくなるんですよ。それに対してご自身が個人で責任を取れますかって申し上げているんです。
早:私にそういう一個人のね、責任とかっていう風におっしゃる場合、例えば、電話が全くつながらないっていう間に、重症化して亡くなる方の責任も、区役所のほうは取れるんですか?
区:それは当然認識しています
早:「認識」っていっても、(責任は)取れるんですか?
区:認識はしています
早:でも全然つながらないです。
※4月30日追記
世田谷区は、「検査会場が知られてしまったら、検査を受けたい区民が殺到する」と主張していますが、本当にそうでしょうか? とあるメディアの記者の方によれば、他の自治体では、検査会場でメディアの取材対応などをしており、検査会場が事実上公となっているところもあるそうです。
果たして、それらの場所に人々が検査を求めて押し寄せているでしょうか? むしろ、感染のリスクが非常に高い場所ですから、うかつには近づきたくないと考える人の方が多いのではないでしょうか??
私がブログに掲載した、検査会場内部の写真をご覧になった方からは、「感染対策がほとんどされていないようで、検査を受けに行くことで二次感染してしまいそう」という意見を頂きました。世田谷区が、検査会場の場所や内部の写真を削除せよと私に求める背景には、「検査件数を増やしたくない」「感染防止策の緩さを指摘されたくない」という思惑もあるのかもしれません。
上記のブログをたいへん興味深く読んだ。そして驚いた。今どき、行政がこんなにも軽々しく、市民の表現を削除しようとするものだろうか。これではまるで、区がDHCや吉田嘉明なみではないか。しかも、世田谷と言えば、革新区長ではなかったか。行政が「どうしてものお願い」といえば、市民は当然に削除に応じるだろうという思い上がりが見え見えである。そして、一転して「お願いではないです。これ、……区の弁護士のほうとご相談させていただくということになりますけど?」となる。法的手続ともなれば、市民にとってはたいへん荷が重い話となる。要請ではなく、恫喝と言っても差し支えなかろう。
早川ブログに虚偽や不正確な記述があるからこれを是正せよというのではない。正確な記述の内容が不都合だというのだ。さて、健康企画課の課長さんは、既に「区の弁護士のほうとご相談」を終えていることだろう。その結果を知りたいものである。名誉毀損訴訟なら、どんな弁護士もさらさらと訴状だけは書ける。こんな簡単な訴訟はない。しかし、このケースは違う。早川ブログは、誰の名誉を毀損してもいない。そもそも、違法の要素は微塵もない。にもかかわらず、行政が憲法に保障された市民の表現の自由を奪おうというのだ。所詮は無理なはなしというほかはない。
市民の権利や自由は、常に試練に曝されている。早川さんが区からの削除の要請に応じれば、せっかくの憲法上の基本権も眠り込んでしまう。そうすれば、国民の知る権利も知らぬうちに眠り込まされるのだ。早川さんが、くじけることなく、区の要請を拒否し、ブログの掲載を継続しておられることに敬意を表したい。
(2020年5月4日)
例年のごとく、はつなつの風薫る季節に憲法記念日である。しかし、今日吹く風にはコロナの臭気が混じっている。そのコロナ風のおかげで、メーデーも改憲反対大集会も「オンライン集会」となった。
正式な集会名は、「平和といのちと人権を!5.3憲法集会2020」。当初は有明公園での大集会を予定していたが、本日13時からの国会前集会をネット中継することに。主催者の御苦労と無念は察するが、気勢を殺がれること甚だしい。
今年も、憲法の受難を意識しながらの憲法記念日である。現行の日本国憲法を理想の憲法と持ち上げるつもりはさらさらないが、その根幹が人類の叡智の結実であることに疑いはない。天皇教の教典である大日本帝国憲法などとは、比較すべくもない。
本来なら、この根幹を大事にしつつも、より良い憲法を求めて正しい意味での「憲法改正」運動が展開されてしかるべきなのだが、如何せん革新陣営にはその力量に欠ける。保守勢力の「憲法改悪」の策動を阻止する運動を積み重ねて、ようやく日本国民はいま日本国憲法を自らのものとしつつある。
憲法の危機が叫ばれる都度、日本国民は、日本国憲法が想定する主権者として鍛えられてきた。いままた、その危機のさなかにある。考えてみれば、日本国憲法の基本精神は権力者性悪説である。もとより、近代立憲主義が権力を危険視し、危険な権力を規制しようとするものである。権力は、常に腐敗の危険を内包してというだけではなく、腐敗せぬ健全な権力も危険なのだ。
権力者から嫌われ、疎まれ、煙たがれ、何とか「改正」しようとの標的とされる憲法であってこそ、まともな近代憲法として存在価値がある。改悪阻止運動の高揚も必然となる。
治者としての権力と、被治者としての国民とは、常に緊張関係にある。憲法をはさんで、両者は対峙しているのだ。権力は憲法によって与えられた権限を最大限活用し、あわよくば暴走をしてでも国民を押さえ込もうとする。国民は憲法を武器として、危険な権力に対峙し規制しようとする。この対立の関係は永久運動である。
しかも、今権力を握っているのは、政治と行政を私物化し、嘘とごまかしの正真正銘の性悪政権、安倍内閣である。この安倍を権力に押し上げている勢力が、改憲をねらっている。日本国民が、こぞって危険な改憲阻止に立ち上がって当然なのだ。
そして、今や「新型コロナ感染対策」という「緊急事態」にあって、憲法の有効性が攻撃を受けている。もとより、感染症蔓延を阻止するための、合理的な私権の制約はありうることである。しかし、例外的な私権の制約は、合理性が確認された最低限のものでなくてはならず、国民の納得と同意がなくてはならない。また、厳密に時限的な措置でなければならず、事後の検証も不可欠である。これらは、すべて現行「日本国憲法」が当然とするところである。
特措法に基づく緊急事態宣言の効果として行政権力がなし得ることは万能ではなく限定的ではある。しかし、非常時において行政権が立法権の干渉を排し権力を行使して私権を制約し得るという「緊急事態条項」の基本形の具備は明確である。この事態での政府や自治体の暴走に対する警戒を軽視してはならない。
この事態に、「非常の事態なのだから政府の権限を強化すべきだ」「いまは権力批判のときではなく、一致して政府の施策を支持すべきだ」という類いの言論に与してはならない。非常時における国民の同調圧力に迎合してもならない。
考えてもみよ。合理的な「新型コロナ感染対策」が、強権から生まれることはあり得ない。強権の発動は施策の合理性を阻害するものでしかない。明らかに、専門家の知見を含む国民の意見の総意のみが、最も合理的な対策を形作る。そして、常に施策実行の過程は徹底した透明性を確保された検証にさらされなければならない。不十分であれば直ちに変更するためである。最も合理的な施策が、私権を制限することになることはありうる。国民が民主的に参加して合理性を確認した施策であればこそ納得が可能であり、スムーズな実行が可能となる。また、当然のことながら、全体のために個人の利益が犠牲になるときには、適正な補償が必要となる。
「現行憲法の立場でも、十分に新型コロナ蔓延の事態に対処できる」のではない。「現行憲法の立場を十分に活かすことによってこそ、新型コロナ蔓延の事態に対処できる」「信頼できない政権にお任せしたら、国民の命と家計は取り返しのつかないこととなる」のだ。この事態を改憲へのステップとして利用しようなどとは、見当違いも甚だしい、とんでもないこと。しっかりと眼を見開いて、危険な政権の暴走と、改憲策動に歯止めを掛ける言論が必要である。
2020年の憲法記念日。薫風心地よけれども、風波は高い。
(2020年5月3日)
青年法律家協会議長の北村栄さん(名古屋)のご紹介。「絶対おもろい!新型コロナいろは川柳」。「(青法協)あいち支部の平松清志弁護士が、コロナに関しての「いろは川柳」を作り、あいちのMLに流してくれました。会員も多士済々ですね。本当に笑え、気分転換にうってつけ」という触れ込み。
平松清志です。
地元の9条の会(野田・荒子9条の会)の定例街宣も世情に鑑みて中止となったので、代わりにブログで宣伝しようと、暇に任せて いろは川柳を作ってみました。
い いつまでも続く「瀬戸際」「正念場」
ろ ロックダウン街が死んでるオレも死ぬ
は 橋下は微熱だけでも検査受け
に ニッポンはもはや先進国じゃない
ほ 防護服足りずに代用?雨合羽
へ 変だよね 検察人事と 安倍政権
と トランプと安倍が愚かさ競ってる
ち ちょっと待て 不要不急の 悪法案
り 理屈なし その場限りのやったふり
ぬ 布マスク400億の無駄遣い
る 留守番の子どもを襲う侵入者
を ヲタクらはランサーズからの回し者?
わ ワクチンができなきゃ続くパンデミック
か 閣僚もアベノマスクは着けてない
よ 4日間待ってコロリと逝くコロナ
た 台湾と韓国 先に収束よ
れ 蓮舫や辻元disるデマ右翼
そ 葬式もまともに出せぬ感染者
つ too late too littleだよ政府案
ね ネトウヨのヘイトスピーチ許すまじ
な なんで今 オリンピックに固執する?
ら ランドセル背負うことなく夏は来ぬ
む 無理だよね 電車でソーシャルディスタンス
う ウソばかり大本営発表NHK
ゐ ヰ(ウィ)ルスに感謝捧げる安倍昭恵
の 能天気 アベは自宅で猫を抱き
お 怖ろしや院内感染続々と
く クラスター追えど探せど患者増え
や 雇い止め、首切り続くコロナ不況
ま まだ辞めぬ河井夫婦は雲隠れ
け 憲法を知らぬ首相の暴走だ
ふ ファシズムの音が聞える緊急権
こ 国難はお前だ無能安倍政権
え 依怙贔屓はびこる国は破滅する
て テレワークできぬ現場だ 俺たちは
あ 安倍辞めろ麻生も辞めろ菅辞めろ
さ 三密を避けられないよ保育所は
き 記者会見 台本ありきの朗読会
ゆ 行き場なし DV被害者 増え続け
め 目に見えぬ敵は見ぬふり「専門家」
み 身に迫る医療崩壊 無策ゆえ
し しばらくはステイホームだ ひきこもり
ゑ ヱ(ウェ)ブ会議 やりたいけれど どうやるの?
ひ PCRやらなきゃ増えぬ感染者
も モリカケも桜も辺野古も忘れない
せ 世界中物笑いだぜゴミマスク
す スシローも岩田明子も見たくない
ん んだどもさ なじょして死んだ 志村けん
なるほど、本当によくできている。なるほど、絶対に面白い。
作者の平松清志弁護士(愛知県弁護士会所属、高畑アクセス法律事務所)のプロフィルは、下記のとおり。
名古屋南部法律事務所に23年間所属し、労働事件(東海銀行差別事件、日立 製作所差別事件)、刑事冤罪事件(山中事件、名張事件)、消費者事件(原野商法事件)等を担当。これまでに担当した法律相談は6000件以上に上る。弁護士会では、人権擁護委員会両性の平等部会長、法律相談センター運営委員長を歴任、東海労働弁護団幹事。
http://www.t-access.jp/index.html
(2020年5月2日)
昨年(2019年)5月1日に天皇が交替して本日がちょうど1年目。天皇の交替にさしたる意味はない。念のために申し添えれば、誰が天皇でも天皇の個性に意味をもたせてはならないとするのが憲法の立場である。国民生活への問題として意味があるのは、天皇の交替ではなく、それにともなう元号の変更である。天皇の交替の度に変更される元号というものの厄介さが、誰の目にも明らかとなったこの1年であった。そして、この厄介さがなお続くことになるのだ。
元号の変わり目を元日にするとか、年度変わりの初日である4月1日にするとか、あるいはせめて、1年を半分に分けた後半の初日である7月1日とするなどの、国民生活の支障を減ずる配慮があって然るべきだった。しかし、全ては上から目線での密室の決定、民の思いへの気遣いを望むべくもなかった。なんとも中途半端に5月1日からの元号の変更。
昨年裁判所が取り扱った各種事件に付される事件番号は、4月30日までは「平成」の連番で付され、5月1日以後は「令和」の連番となった。何の合理性もなく連続性が失われ事務整理に繁雑この上ない。
もっぱら元号を使う人に問うてみたい。
「本日から3年前の日付は?」「5年前の日付は?」「10年前は?」
民法上の時効制度において、3年、5年、10年の経過の有無は重要な意味をもっている。西暦であれば、2010年5月1日からの3年前、5年前、10年前の日付はいとも容易に答がでる。しかし、「令和2年5月1日の3年前」、「5年前」、「10年前」は、いったい平成何年にあたるのか、すぐに分かるだろうか。天皇交替にともなう元号の変更は、かくも面倒である。これだけでも国民生活に大きな不便をもたらしている。
いま、コロナ禍の外出自粛要請の中で、これまでのビジネスや事務のありかたの合理化を求める動きが急速化している。中でも、印鑑を必要とする制度が時代遅れとして非難の的だ。印鑑登録や実印を求める諸制度、印鑑押捺の文書真正の推定力など、これまではそれなりの合理性はありながらも、批判され続けてきた。そして今、ビジネスは印鑑の使用という制度の維持に耐えがたいと悲鳴を上げつつある。
実は、元号使用の強制も同じことなのだ。ビジネスの世界が、これまで非合理で煩瑣な西暦化に徹しきれないのは官公署の頑固な抵抗に逢着しいるからである。
事務の合理化で税金の使用を最小限化することは官公署の責務である。いつまでも、不効率で繁雑な元号を使い続けることは、事務の効率を低下させ、余計な事務費用を漫然と支出している点で、官公署の責務懈怠というべきである。
ましてや、官公署が事実上民間に元号使用を強制することで、煩瑣な手続を国民全体に強要することは許されない。官公署が作成する一切の書式から元号を排除せよ。少なくも、国民が官公署に提出する書式の雛形において元号使用を誘導することは、ただちに辞めてもらいたい。
私は、昨年の4月1日に「令和」不使用を宣言をした。元号は非効率で不便だから、という理由だけではない。天皇制を支える小道具の一つとして有害な存在なのだ。当ブログの「令和不使用宣言」部分を抜粋する。
私は、けっして「令和」を使わない。令和不使用を宣言する。
https://article9.jp/wordpress/?p=12341
本日(2019年4月1日)、内閣が天皇の交替に伴う新元号(予定)を「令和」と公表した。私はこの内閣の公表に対抗して「令和不使用宣言」を公表する。主権者の一人として、厳粛にこの元号を徹底して無視し、使用しないことの決意を明確にする。
本日は、天皇制と元号の結び付きを国民に可視化する、大仰でもったいぶったパフォーマンスの一日だった。官邸とメディアによるバカ騒ぎ協奏曲。何という空疎で愚かな儀式。何という浅薄な愚民観に基づいての天皇制宣伝。
「平成」発表の際にも、ばかばかしさは感じたがそれだけのことだった。今回の「令和」には、強い嫌悪感を禁じえない。どうせ、アベ政治のやることだからというだけではない、「いやーな感じ」を拭えないのだ。
安倍は、「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」などとする談話を発表したが、これも牽強付会。
通常の言語感覚からは、「令」といえば、命令・法令・勅令・訓令の令だろう。説文解字では、ひざまづく人の象形と、人が集まるの意の要素からなる会意文字だという。原義は、「人がひざまづいて神意を聴く様から、言いつけるの意を表す」(大漢語林)とのこと。要するに、拳拳服膺を一文字にするとこうなる。権力者から民衆に、上から下への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すイヤーな漢字。
この字の熟語にろくなものはない。威令・禁令・軍令・指令・家令・号令…。
もっとも、「令」には、令名・令嬢のごとき意味もあるが、通常の言語からは、「令」とは、勅令・軍令・号令・法令の連想がまず来るのだ。これがイヤーな漢字という所以。
さらに「和」だ。この文字から連想されるイメージは、本来なら、平和・親和・調和・柔和の和として悪かろうはずはない。ところが、天皇やら政権やら自民党やらが、この字のイメージをいたく傷つけている。「十七条憲法」にいう「和」とは、「下(しも)が、上(かみ)に従順であることから成る秩序」を意味する。これは、近代憲法の国民主権原理とはまったく無縁。明らかに、近代立憲主義の理念に真逆なものなのだ。あなたもぜひ、「令和」不使用を。
(2020年5月1日)
NHK・Eテレに、「バリバラ」というユニークな番組がある。これがいま、俄然注目の的。毎週木曜夜8時からの放送。今夜の視聴率は、さぞかし跳ね上がるものと思われる。
バリアフリーの「バリ」と、多様性のバラエティの「バラ」を組み合わせたタイトルのようだ。障害者・LGBT・在日など、センシティブなマイノリティの問題を、本音を隠すことなく、明るく問題提起する。下記の番組ホームページをご覧いただきたい。そのパワーに圧倒される。
http://www6.nhk.or.jp/baribara/about/
この番組は、趣向を凝らして視聴者に次のように呼びかけた。
【招待状】バリバラ「桜を見る会?バリアフリーと多様性の宴?」
開宴:今夜8時
場所:EテレおよびNHKプラス
招待客:2019年多様性の推進に功績のあった方々(伊藤詩織さん、崔江以子さんなど)
日々多様性推進に貢献頂いている視聴者の皆さまは、密を避けるためリモート出席をお願いします。
バリバラ「桜を見る会」のその1は、4月23日に放送となった。その2が、4月30日本日放送の予定。
私は一切テレビを見ないので、これまでこの番組の存在は知らなかった。その世界では著名な番組ではあろうが、社会全体としておそらくはマイナーな存在だろう。それが、俄然注目されるに至ったのは、またまた右翼諸君の活躍のお蔭である。
いつの頃からか、私のメールアドレスにメルマガ「週刊正論」が送信されるようになった。その4月29日号が、「問題の番組内容」をこう説明している。
【再放送中止となったNHK番組『バリバラ』の内容とは】
番組冒頭、額に虻(アブ)のおもちゃをつけた内閣総理大臣アブナイゾウが「公文書 散りゆく桜と ともに消え」と詠みます。「バリバラ」では、「桜を見る会」にバリアフリーと多様性に貢献した方として、伊藤詩織氏(ジャーナリスト・ドキュメンタリー作家)、崔江以子氏(チェ・カンイヂャ、在日コリアン3世)、小林寶二・喜美子夫妻(旧優性保護法国賠償訴訟原告)を招きました。「バリバラ国、滑稽中継」と題したコーナーでは、「某国の副総理」という「無愛想太郎」が答弁に立ちます。
質問者「外国ルーツの方は生きづらい社会なんです。こんなのが美しい国と言えますか。新型コロナウイルスで、アジア人差別が増えています。どうお考えになりますか」
無愛想太郎「質問っていうのは正確を期してほしいね。ウイルスっていうのは英語圏では言わないんだ。ヴァイルス。ヴァイルスっていうの、えー。BじゃなくてVの発音ね。下唇をしっかりかんで、ヴァイルス。爆発させてヴァイルス。飛ばすの、ヴァイルス」
続いて「アブ内閣総理大臣」が登場します。
質問者「『パラサイト』という韓国映画が、今回外国映画としては初のアカデミー賞作品賞を受賞しました。これ大きいことです」
アブナイゾウ「質問通告がごじゃいませんでしたので、いずれにいたしましても、トランプ大統領と私は同盟国のトップリーダーでごじゃいまして、意見が完全に100%一致したところでごじゃいます」
質問者「100%一致、何回言えば気が済むの。まったく質問に答えていません、この人は」
アブナイゾウ「そんなあんた、いつまでもデンデンいう事じゃない」
質問者「デンデンじゃないよ。ウンヌンというんだよ」
《字幕で云々×でんでん ◎うんぬん》
司会者「なんだか日本と似たような状況もありますよね」
「週刊正論」は、以上を公共放送として問題の内容というのだが、要は「アベ批判・麻生批判が怪しからん」というだけのこと。取るに足りない。
話題になってから、私もネットで動画を拝見した。全体として、たいへん真面目な構成の問題提起番組となっている。マイノリティにとって生きづらいこの社会のあり方をえぐり出して、対等者としてマイノリティを遇しようというその心意気に共感せざるを得ない。NHKにも大した人たちがおり、大した番組を作っている。共感を通り越して、敬意を表すると言わねばならない。
この放送を快しとしない人びとがこれに噛みついた。NHKは敢然と現場を守る姿勢を取らず、予定されていた4月26日の再放送を別番組差し替えて中止してしまった。中止の決定は、放送予定の2時間半前だったという。
この番組に最初に噛みついたのは、石井孝明(Ishii Takaaki)という、その筋では良く知られた人物。下記の「訴訟・トラブル」欄を参考にされたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/石井孝明_(ジャーナリスト)
また、この人については以前このブログでも取りあげたことがある。
https://article9.jp/wordpress/?p=10068
この人は、バリバラの放送のあったその日の内に、こうツィートしている。
「NHKなめとんのか? 何これ? 反政府番組じゃないですか。健全な批判でなく。障害者の名を語って。これは抗議すべきでしょう。」
「NHKなめとんのか?」は、安倍・麻生になり代わっての不規則発言。「これは抗議すべきでしょう」は、安倍・麻生の立場からする不満の表明。そして、「なめとんのか」は、安倍・麻生の知性や品性にマッチした、まことに適切でふさわしい表現。
これも要するに「政府批判だから怪しからん」というだけの低次元。さすがに、政府批判自体を咎めることには気が引けたか、「健全な批判なら許せもするが、障害者の名を語っているから、抗議すべきだ」という文脈にした。もしかしたら、「障害者の名を語って」は、「障害者の名を騙って」のミスプリかも知れない。しかし、番組の安倍・麻生批判は、「障害者の名を語って」も、「障害者の名を騙って」もいない。
番組の安倍・麻生批判は、2点ある。一つは、「散りゆく桜とともに消えた」公文書管理の杜撰さである。そして、もう一つは「マイノリティ差別」に対するあまりに鈍感な政府の姿勢である。いずれも、故あっての正当な批判である。NHKにもジャーナリズムの魂がなくてはならない。この程度の権力者批判もできないのでは、NHKはジャーナリズム失格である。再び大本営発表の伝声管に先祖返りしてしまうことを本気で恐れねばならない。
(2020年4月30日)
コロナ禍のさなか、世の人の憂いをよそに季節はめぐる。里桜も終わってツツジが咲き、蓮の浮き葉が水面を覆い始めた。少し歩くと汗ばむ陽気。天気も申し分ない本日、「昭和の日」だという。いったい、それは何だ。
1948年制定の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)は、その第1条で、「国民の祝日」の趣旨を述べる。
第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
なかなか意味深長ではないか。日本国民は、「自由と平和を求めてやまない」というのだ。自由も平和も、富国強兵の戦前にはなかった。挙国一致・滅私奉公は、臣民の自由を抹殺した。天皇の神聖性を否定する思想も信仰も言論も結社も弾圧された。そして、戦前の日本は軍国であった。侵略戦争も植民地主義も国是であった。
天皇は国民皆兵の臣民に向かって、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」などと、超上から目線でエラそうに言って、臣民には死ねと命じて、自らは生き延びた。こんな不条理に怒らずにはおられない。
「自由と平和を求めてやまない」という、この国民の祝日の趣旨は、明らかに戦前の不合理を否定した新憲法の価値を謳っている。
その祝日法は数次の改正を経て、現行法では「昭和の日」をこう定めている。
第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
これも意味深である。「激動の日々」とは、あの戦争のこと以外に考えようがない。敢えて「戦争」と言わないのは、「戦争の日々」だけではなく、「戦争を準備し、戦争に突き進んだ戦前の日々」を含むとの含意であろう。日本国憲法の言葉を借りれば、「政府の行為によって戦争の惨禍を起した」反省の対象たる日々である。
昭和の日の定めの文言は、昭和という時代を「戦前」と「戦後」に二分して対比し、戦前を否定し戦後を肯定している。しかし、戦前を「激動」としか言わず、戦後を「復興を遂げた」としか言わない。国民主権も、民主主義も、人権尊重も、天皇制も、自由も、平和も出てこない。なんとも、いいかげんで不満の募るところではある。
何よりも、どうして昭和の日が4月29日なのか。それが語られていない。戦前と戦後を対比するにふさわしい日は、8月15日であろう。あるいは、ポツダム宣言受諾の8月14日。この日を境に、日本という国の拠って立つ基本原理が大転換したのだ。
昭和を戦争の時代と顧みるならば、8月6日の広島市民の被害の日、あるいは12月13日の南京市民に対する加害の日がふさわしかろう。
昭和を戦争開始の責任反省の観点から顧みるならば、9月18日か、7月7日か、あるいは12月8日となるだろう。
なぜ、4月29日なのか。なぜ、国民を不幸に突き落とした最高戦争責任者の誕生日なのか。なぜ、戦前天長節として臣民に祝意表明を強要された日が昭和の日なのか。
コロナ禍で、外出自粛を要請されている今日の「昭和の日」である。昭和という時代をよく考えてみたい。自ずから、戦争を考え、戦争の責任を考え、とりわけ天皇の戦争責任を考え、戦後国民が手にした貴重な自由や平和の価値を考えなければならない。
(2020年4月29日)
68年前の今日1952年4月28日は、敗戦によって占領下にあった日本が「独立」したとされる日。右翼勢力の策動に乗る形で、第2次安倍政権は閣議決定でこの日を「主権回復の日」とした。右翼ナショナリズムにとって、対外的国家主権は至上の価値である。
2013年4月28日、安倍内閣は、右翼政権の本領を発揮して政府主催の「主権回復の日」祝賀式典を挙行した。当然のこととして、当時の天皇(明仁)と皇后が出席した。天皇に発言の機会はなかったが、その退席時に「テンノーヘイカ・バンザイ」の声が上がって多くの参加者がこれに呼応した。政権が、見事に天皇を利用した、あるいは活用したという図である。もっとも、その後は国家行事としての式典はない。
多くの国民国家が、国民こぞって祝うべき「建国」の日を定めている。その多くが「独立記念日」である。イギリス支配から独立したアメリカ合衆国(7月4日)がその典型。大韓民国は、日本からの独立記念の日を「光復節」(8月15日)とし、独立運動の記念日まで「三一節」としていずれも政府が国家の祝日としている。
ならば、4月28日を「主権回復の日」あるいは「独立記念日」として、祝うことがあっても良さそうだが、これには強い反発がある。とりわけ沖縄には、反発するだけの理由も資格もある。
言うまでもなく、1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約発効の日である。しかし、その日は、サ条約と抱き合わせの日米安全保障条約が発効した日でもあった。日本は、全面講和の道を捨てて、アメリカとの単独講和を選択した。こうして、その日は「ホツダム条約による占領」から脱して、「日米安保にもとづく対米従属」を開始した日となった。これは、国民こぞって祝うべき日ではありえない。
もう一つ理由がある。1952年4月28日の「独立」には、沖縄・奄美・小笠原は除外された。本土から切り離され、アメリカ高等弁務官の施政下におかれた。それ故この日は、沖縄の人々には「屈辱の日」と記憶されることとなった。
本日の琉球新報 <社説>は「4・28『屈辱の日』 自己決定権の確立急務だ」と論陣をはっている。怒りがほとばしっている。
「1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約第3条が(沖縄)分離の根拠となった。これにより米国は日本の同意の下で、他国に介入されることなく軍事基地を自由に使うようになった。米軍は『銃剣とブルドーザー』で農地を奪うなど、沖縄住民の基本的人権を無視した統治を敷いた。沖縄の地位は植民地よりひどかった。」
「72年の日本復帰後も沖縄の人々は基地の自由使用に抵抗し、抜本的な整理縮小や日米地位協定の改定を求めてきた。その意思を尊重せず「国益」や国策の名の下で沖縄を国防の道具にする日米政府の手法は植民地主義だ。県内の主要選挙や県民投票で反対の意思を示しても建設工事が強行される辺野古新基地は、沖縄の人々の自己決定権を侵害する植民地主義の象徴である。」
「基地があるため有事の際には標的になり命が脅かされ、平時は事件事故などで人権が侵害されている沖縄の今を方向付けた4・28を忘れてはならない。この状態を脱するには自己決定権の確立が急務だ。」
この社説のとおり、4・28は沖縄の「屈辱の日」であり、今に続く「受難の日」の始まりでもある。この日をもたらした重要人物として昭和天皇(裕仁)がいる。彼は、新憲法施行後の1947年9月、内閣の助言と承認のないまま、側近を通じてGHQ外交局長に、「アメリカ軍による沖縄の軍事占領継続を希望する」と伝えている。いわゆる「天皇の沖縄メッセージ」である。沖縄「屈辱」と「受難」は、天皇(裕仁)にも大きな責任がある。
この屈辱の日に祝賀式典を強行し、さらには「テンノーヘイカ・バンザイ」とまで声を上げるのは、右翼諸君か好んで口にする文字どおりの「売国奴」の行為と言うしかない。
(2020年4月28日)
「柳田角之進」は、志ん生の持ちネタとしてよく知られた講釈噺。たくさんのテープやCDがあるような気がするが、音源は3種だけだという。いずれも晩年の録音で、彼自身が「50年前に師匠の圓喬に教わったのではない。高座の袖で聞いて覚えた」という。円熟した年齢になってから、演じる気持になったのだろう。
円熟した話芸で聞く者を引き込み、1時間にも及ぶ語りを飽きさせない。しかし、内容はつまらない噺である。と言うよりは、なんとも馬鹿馬鹿しい噺。こんな馬鹿馬鹿しい話を、聞かせるのだから、やはり志ん生は大したものだ。
志ん生は、マクラで「落語にも、ただ笑うだけの噺ばかりではなく、学校じゃ教えない聞いてためになる話もある」という。本気でこの柳田角之進を教訓話として語っていたようなのだ。しかし、今の世にこんなものを教訓にされたのではたまらない。これは、人権軽視の極論。女性の人格を無視した話、家柄だの、武士の意地だのつまらぬものに翻弄された前時代の遺物なのだ。
落語には、体制や権威を笑い飛ばす健康さがあり、そこが現代に通じる魅力となっている。ところが、講談の主流はそうではない。どうしても忠君愛国に傾き、男尊女卑にながれ、高座からムチャクチャな教訓を垂れるという趣がある。柳田角之進も、その手のものと紙一重なのだ。
彦根藩士の柳田角之進、牛の角の曲がっているのも大嫌いという大変な堅物。「水清ければ魚住まず」、上司に煙たがられて讒言に遭い今は浪人暮らし。娘と二人、江戸浅草阿部川町の裏長屋に侘び住まいの身。やることと言えば碁会所に行くだけだが、ここでちょうどよい碁の相手が見つかる。浅草馬道の質屋、万屋源兵衛という大店の旦那である。源兵衛から誘われるままに、万屋へ行って毎日碁を打っていた。
8月15日月見の晩に、万屋で50両の金がなくなるという事件が持ち上がる。角之進と源兵衛の二人だけの密室での源兵衛の金の紛失である。当然に角之進が疑われる。翌朝番頭の徳兵衛が主人には内緒で柳田宅を訪れ、その最後の言葉が、「50両の大金です。出るべきところに出て、お届けしますので、取り調べがあるかも知れませんが、ご勘弁ください」。これを聞いて、角之進は覚悟する。「それは困る。天地神明に誓って私の知らぬことだが、しかしそこにいたのが私の不運だ。その50両、私が出そう。明日取りに来てくれ」。
50両の工面ができる当てはない。役人に取り調べを受けたら弁解は難しい。仮にも縄目の恥辱は家名を汚すことになる、それよりは切腹しようという覚悟。娘に番町の叔母のところに泊まって来いと言いつけると、父の心中を察した娘は、こう言う。「親子の縁を切ってください。自分は吉原の泥水をすすって、その50両をこしらえましょう」「その代わり、身の潔白が明らかになったときには町人二人の首をはねて、武士の意地をお示しください」。角之進はこれを承知して、50両を手にする。
こうして50両は番頭の手に渡る。その際番頭は「もし、後刻50両が出てくるようなことがあったら、私のクビに、主人のクビを添えて差し上げましょう」と約束する。この後、格之進は行方知れずとなる。
その年の12月28日煤払いの日に、万屋の離れの額の裏から50両が出て来て大騒ぎとなる。店の者も手を尽くして角之進を探すが見つからない。年も明けた正月4日。雪の降る湯島切り通しの坂で、番頭徳兵衛は、立派ななりをした武士と出会う。これが、彦根藩留守居役に返り咲いた柳田角之進。徳兵衛から事情を聞いた角之進は、「明日万屋に出向く。二人とも首筋をよく洗っておけ」。
そして明くる日、角之進は万屋へやって来る。が、主人と番頭が互いにかばい合って、自分だけを切ってくれという。それを目の当たりにした角之進は、刀を鞘から払いながらも首をはねることができない。志ん生は、「二つの首がコロリと落ちた、などと私はしない」と笑わせる。
助命された源兵衛は、角之進の娘が50両の為に苦界に身を沈めていると聞き、直ちに身請けをし、これを養女とする。角之進は、これに番頭徳兵衛を娶せる。ここで志ん生は、角之進に「忠義の番頭と、親を助けた孝女」「忠と孝との目出度い婚礼」と言わせている。この夫婦から生まれた子を柳田が引き取り、家名を継がせたという。最後にサゲはなく、「『堪忍のなる堪忍はたれもする、ならぬ堪忍するが堪忍』。柳田の堪忍袋でございます」で締めくくられる。
さて、いったいこれが教訓話になるだろうか。簡単に切腹を覚悟する柳田角之進がまずはおかしい。彼を縛っていたものは武士の意地であり家名である。角之進は、命よりも家名を重んじようという愚かな男。何よりも命を大切にすべきことを知らなければならない。
次いで、角之進の娘(きぬ)である。「父上が切腹しても相手は町人。悪事露見したから腹を切ったというでしょう。身の証しにはなりませぬ」「身の潔白が明らかになったときには町人二人の首をはねて、あかき武士の意地をお示しください」などと言う。差別意識丸出し。親のために身を売る娘を美談にしてはならない。
そしてまた、角之進である。娘の苦界への身売りを容認してしまうのだ。話では、娘は18歳、児童虐待とは言えないが、「済まぬ」などと謝りながらも50両を受け取ってしまう。たいへんな虐待親父である。
一番おかしいのは、身分が復帰して質屋の番頭が驚くほどの上等な服装をしている角之進が、娘を吉原に置いたままにしていることである。これは、ネグレクトにほかならない。
教訓というなら、「こんなひどい話が過去にはありました」「こんなひどい話を教訓としていた時代もありました」という具合でなければならない。もっとも、冤罪を晴らすことの難しさや冤罪被害者の絶望についてであれば、教訓として受けとめられるかも知れない。またあるいは、白州の時代、糾問主義刑事司法の恐ろしさとしてであれば。
(2020年4月27日)