澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

校長、お言葉ではございますが、批判のない真面目さは悪をなします。

(2023年3月4日)
本日は、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の原告団会議。遠慮のない意見交換の場でありながら、和気藹々たる雰囲気が心地よい。訴訟進行に伴っての、こまごまとした打合せのあとに、メインの議題として、訴訟に提出する各原告の陳述書の内容の検討がされた。

最初の検討対象が、Sさんの第2稿。第1稿に対する意見を反映したものだが、私の第一印象は「よくできてはいるが、長い」ということ。ワープロソフトで字数を数えると、3万0673字、400字詰原稿用紙換算で77枚、裁判所提出用の標準書式では35ページとなる。ミニ卒論並みではないか。しかし、大方の意見は「長いが、よくできている」という評価。

「裁判官が読む気になってくれるだろうか」というのが、私の危惧だったが、反論が相次いだ。「いや、流れるような文章で読み易い」「どこかをカットして短くするのは難しいのでは」「野球部の顧問としての活動に相当のスペースが割かれているが、省くとすればここかも」「いや、日の丸・君が代にこだわる教員が、実はごく普通の教員だということを理解してもらうためには省かない方がよいと思う」「第1次訴訟では100ページを越す陳述書もあった。それにくらべて、異常に長いというほどではない」。結局は、これ以上長くはせぬよう、更に本人の推敲を期待するという結論に。

次いで、Kさんの第4稿。これはほぼ完成稿だが、結構な長文である。2万5722字、400字詰めで65枚分。この人特有の問題があって長文とならざるを得ないことで了解。この陳述書のなかの「校長が教員に卒業式の(起立・斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が『かしこまりました。しっかり務めます』と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました」という個所がひとしきり話題となった。

「昔の都立高では考えられない風景」「上司からの指示や命令には服従すべきが、当然と思っている雰囲気」「自分の頭でものを考えることを教員が放棄している」「教育現場も、まるで警察や軍隊と同じ上命下服の世界だと思わされている様子だ」「それにしても、最近若い教員が『かしこまりました』というのが気になる」「そう、教員たるもの、かしこまってはいかんのじゃないか」「研修マニュアルで教え込まれているようだが、反射的にこういう言葉が出て来る」「やはり、異議を述べる言葉を準備して、とっさの場合に言えるようにしておかねば」

どういう言葉を準備して、なんと言えばよいだろうか。
まずは、「校長、お言葉ではございますが…」と切りかえそう。
「この職務命令、まさか校長の本心とは思えません」
「すこし、考えさせてください」
「まだ納得いたしかねます」
「せっかくですが、お請けいたしかねます」
「教師を志した私の良心が、起立斉唱を許しません」
「ご了解ください。生徒を裏切ることはできません」
「主体的に生きよ、大勢順応に陥るな、と教えている自分です。到底、この命令に承服できません」

以下に、陳述書の話題提供の個所を抜粋する。やや長文だが、分かり易い。よくお読みいただくようお願いしたい。
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ロシアでは以前から卒業式などで国歌を流していましたが、義務ではありませんでした。けれど、ウクライナ侵攻を背景に、愛国心教育が強化され、2022年9月から小学校で週の初めの授業前に国旗掲揚と国歌斉唱が義務化されました。民主派への弾圧が続く香港では、中国式愛国教育を徹底して浸透させるため、2022年から国旗掲揚が授業日に義務化されました。ロシアや香港で起こったことは、国旗国歌の強制が、国民の愛国心を強化して戦争に向かわせようとすることや、民主主義の弾圧につながることをはっきり示しています。
先日、職員室で、校長が教職員に卒業式の(起立斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が「かしこまりました。しっかり務めます。」と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました。職務命令書が渡されることに何の疑問も感じていない様子でした。
沖縄修学旅行の際、元ひめゆり学徒の方や沖縄平和ネットワークの方が繰り返し言っていたのは、「真実を見極めてほしい。情報を鵜呑みにしないで、自分の頭で考えて、自分の考えを持ってほしい。」ということでした。それが平和を守るために一番重要なことなのです。しかし、今の都立高校で、真実を見極める力や批判力を身に付けさせることは出来るのでしょうか。評論家・吉武輝子の女学校の教員は戦後彼女に「批判のない真面目さは悪をなします。」と語ったそうです。最近の若い教員はとても真面目です。上司の命令には、どんなことでも素直に従いますし、従わなければならないと考えているようです。けれど、これはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。
私は上司の命令が良心に照らして間違っていると判断された場合は良心に従うべきだと考えます。ドイツでは、過去の戦争において、上司の命令の下に非人道的な行為が繰り返されホロコーストの悲劇が起こったことの反省にたって、軍隊でも「上司の命令が自分の良心に照らして間違っていると判断される時は、命令に従ってはならない」と教育されるそうです。軍隊においてすらそうなのですから、ましてや人間を育てるという崇高な目的を持った教育現場において、教員はたとえ上司の命令であっても良心に照らして間違った命令には従ってはいけないと私は考えます。公教育に携わる者として、自分の未来よりも、この国の未来を考えなければならない、未来に責任を持てる行動をとらなければならないと考えた時、私はとうてい起立することができなかったのです。

統一教会と地方保守勢力、再びの癒着を許してはならない。

(2023年3月3日)
統一地方選が間近である。これまで、あまり話題にならなかったが、地方政治の保守勢力と統一教会との連携は、中央以上に緊密な模様である。さすがに、中央政界では、どの政党も統一教会との関係は断絶しなければならないと姿勢を正している。しかし、地方でその姿勢を貫いくことは至難の業なのだ。再びの蜜月の関係を求めて、地方の統一教会と保守勢力とが、蠢動しているようだ。

昨日の毎日新聞朝刊トップに、「特定宗教の遮断回避を 101地方議会に陳情書」という調査報道。そして、社会面の関連記事に「陳情 保守系との断絶危惧」という見出し。

「特定の宗教との関係を遮断する決議や宣言をしないことや、特定の宗教と議員らとの関係を調査しないことを求める陳情書や要望書が、少なくとも30都道府県の101議会に提出されていたことが、毎日新聞のアンケート調査で判明した。提出者が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)や関連団体の関係者と確認できたのは18議会だったが、他の陳情書や要望書も文面が酷似しており、教団との関係を断つ動きが地方議会で進むことに対抗しようと提出された可能性がある」

これは分かりやすい。調査対象とされた全国の主要な330自治体中の101議会である。組織的な動きであることに疑問の余地はない。これまで保守勢力と連携していた統一教会は、議会決議の蔓延を恐れている、「保守系との断絶を危惧」しているのだ。

毎日は、「国政と同様に地方でも、保守系政治家との気脈が断たれかねない現状への危惧や不満が背景にある」としているが、実は「保守勢力の側も統一教会との断絶を危惧している」というのが、毎日報道から読みとるべきところ。当然のことながら、反転攻勢の意図も読みとらねばならない。

以下の毎日の関連記事に注目せざるを得ない。

「2022年11月中旬。栃木県議会や県内全市町の計26議会宛てに、同じ内容の陳情があった。『議会が特定の宗教や関連団体との関係を遮断することは、思想・良心の自由や請願権の侵害』と訴え、そうした決議をしないよう求めていた。提出したのは『基本的人権を守る栃木県民の会』。代表の増渕賢一(としかず)氏(76)は県議通算9期で県議会議長や自民党県連幹事長も務め、15年に引退した地元保守政界の重鎮だ」

言うまでなく、陳情書の「特定の宗教」は、旧統一教会を指す。彼は、統一教会と地元政界のつながりについて、「互いに利があって近づくんだろう」と言う。自身は信者ではないが、「国際勝共連合栃木県本部」の幹事長を長く務めている。「教団関連とは分かっていた。入ったのは反共という理念が一致したから」。教団信者の選挙支援も受けた。「ビラのポスティングを黙々とやってくれて助かった」。「県内で政治家と教団の窓口になったのは、全部私。教団は存在をアピールして理念を広めるため、政治家は票になるため、お互いに近づく」。

この人物の行動は、統一教会の指示であるよりは、保守陣営の要求によるものと言うべきだろう。むしろ、両者がここまで密着し一体化していることに愕然とする。今さら、切っても切れぬ仲になっているのだ。

これまで、この両者がどれほど密接な関係にあったか。その一端を、本日の毎日記事が教えてくれる。「旧統一教会系イベントに地方議員170人参加か 旅費負担も」というもの。

「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体が2020年2月に韓国で主催したイベントに、日本から多くの地方議員らが参加していたことが議員らへの取材で判明した。参加した元市議は「関係者から約170人が参加したと聞いた」と証言。議員らは教団側に旅費を負担してもらったり、公費の政務活動費(政活費)で処理したりしていた。取材に対し、政治活動に対する教団の影響を否定したが、専門家は不適切だと指摘している。」

このイベントは、UPF(天宙平和連合)が主催「ワールドサミット2020」。教団の創始者・文鮮明の生誕100年を記念する行事。170か国から政治家や宗教指導者、学者ら6000人以上が参加したという。教団トップの韓鶴子総裁が「全ての国家が天の父母様の子女になればこれ以上の戦争と葛藤はあり得ません」とあいさつする場面もあったという。

毎日は、参加した議員の多くに取材しているが、その中に兵庫県西宮市の市議会議長のコメントがある。「UPFの旅費負担で参加。国会議員秘書時代から付き合っているUPFの知人に誘われた。5万?6万円とされた旅費を「今回は結構です」と言われて受け入れたという。問題発覚後、費用を精査して9万7200円を返還。取材に「軽率だった」と釈明する一方、個人的な行動で「違法ではない」と強調した」との記事になっている。

また、政務活動費で処理しあとで返還したというケースもある。これに関して、政治資金の問題に詳しい神戸学院大の上脇博之教授(憲法学)が「教団側の費用負担により議員は教団への弱みができる。持ちつ持たれつの関係になりかねず不適切だ。また、政活費は議会活動の調査などに支払われるものだが、イベント参加はそのためのものではない。違法支出の可能性が高い」とコメントしている。

統一教会と保守勢力、反共という理念で結ばれているのか、あるいは「互いに利があって近づいた」のか。いずれにしても相当に深みに陥っている腐れ縁。国民の監視の目を光らせておかなければ、たちまちにして再度の癒着を許すこととなる。

「アベノマスク訴訟判決」を手掛かりに、アベ政治の負のレガシーを総括しよう。

(2023年3月2日)
権力者はレガシーを欲する。その地位を退いたとき、あるいは棺を覆ったとき、そのレガシーが定まる。立派なレガシーもあれば、とんでもない負のレガシーもある。承継するにせよ、批判し反省材料にするにせよ、まずはこれを正確に見定めるべきが国民の責務である。

ところが、最低の為政者は、負のレガシーを正直に国民の目に晒してはならじと覆い隠そうとする。安倍晋三がその典型であり、今はその負のレガシーの隠滅に安倍後継政権が必死になっている。

安倍晋三という政権担当者は、自分のしていることがよほど疚しかったと見える。ウソとゴマカシと隠蔽の手口で知られた。それゆえにこそ、いったい彼が何をしたのか、正確に検証しなければならない。ところが、その隠蔽体質が、政権を退いたあとの負のレガシーの総括を困難にしている。その最たるものが、無為・無策・無能の極致と揶揄されたアベノマスク問題である。

天下の愚策アベノマスクの、製造と配布と保管と廃棄に、いったい幾らのカネがかかったのか。誰がどれだけ儲けたのか。それが正当なものなのか否か。どのような規準と経緯で業者を選定し、どう単価を設定し、どのように契約の履行を確認し、違約にはどんなペナルティを科したのか。コストに見合う成果があったのか。その検証をしようにも、基礎資料がない。

なんということだろう。すべては国民が拠出した公金である。細大漏らさず、国民には知る権利がある。怪しい安倍晋三の息のかかった公金の支出であればなおさらのことである。行政が進んで事情を明らかにしないのだから、情報公開制度の利用に頼らざるを得ない。

制度に精通した神戸学院大学の上脇博之教授が、安倍晋三の在任中から、アベノマスク問題に取り組んだ。ところが、開示請求をしても、なかなか文書が出て来ない。ようやく出てきたものも、肝心なところが墨塗りなのだ。あるいは、あるはずの資料がないとされる。やむなく弁護団を組んでの大阪地裁への行政訴訟の提起となった。

その訴訟は二つあった。
?単価や数量を不開示とする決定を争い開示を求める訴訟(「単価訴訟」、2020年9月28日提訴)
?契約締結経過に関する文書を不存在とした決定を争い開示を求める訴訟(「契約締結経過訴訟」、2021年2月22日提訴)

「単価訴訟」について、一昨日(2月28日)大阪地裁は判決を言い渡した。慰謝料を求める国家賠償請求を除いて、開示請求に関しては完勝となった。45通の文書の一部不開示をすべて違法とし、開示を命じたのだ。その意義は大きい。

この日の原告と弁護団の声明はこう言っている。

「判決は、政府の「アベノマスク」の購入単価や数量は情報公開法5条2号(法人情報)や同条6号(国の事務事業情報)の非開示情報には該当しないとし、これらを不開示とした厚生労働大臣(当時加藤勝信氏)及び文部科学大臣(当時萩生田光一氏)の各決定を違法として取り消し、同部分の開示を命じました。」

「約500億円もの巨額な税金を使用し、一部の業者にのみ随意契約で巨額の利益を与え、国民の大半が利用しなかった安倍政権のコロナ対策の典型的な失敗事例である「アベノマスク」配布事業について、キチンと全ての情報を国民に明らかにし国民的総括、反省をする機会を、政権及び中央官庁は隠蔽し奪ってきました。本判決は、司法が政権・中央省庁のこのような隠蔽体質を断罪し、これらの情報をすべからく国民に明らかにすることを命じたものであり、重要な意義があります。」

また、会見で弁護団(阪口徳雄団長)は、「500億円という巨額の税金が投じられた政策について、まずはデータがないと是非を検討すらできません。2年半かかって長いトンネルの入口にやっと立てた。これからが本丸です」と語っている。

3年前の「アベノマスク」配布を思い起こそう。当時の首相安倍晋三の思いつきで全戸配布した布マスク。汚れや虫の混入が発覚して大騒ぎになり、予定より遅延して配布したころには、既に市場に不織布マスクの供給が戻り始めていた。介護施設や妊婦向けを含め計約2億9000万枚を調達し、21年度末までに少なくとも約502億円を投じた。厚労省の調査では、検品対象の15%に当たる約1100万枚が不良品。国は22年、余った約7100万枚を希望者に配って在庫を処分した。

この巨費を無駄にした愚策の経過を徹底して明らかしなければならない。そして、こんな人物を責任ある立場に就けた国民の判断の過ちも、しっかりと確認しなければならない。

岸田文雄首相は1日の国会で「(控訴について)さまざまな観点から適切に判断する」と述べているが、控訴は止めた方がよい。その方が、内閣支持率を幾分かでも回復することになるだろう。上脇教授の言うとおり、「国民の大半が使わなかったアベノマスク事業を総括する必要がある。国は控訴しないで、まずは国民に情報を開示した上で、第三者による検証を進める」のが妥当なところ。

上脇さんの行動は、怒りをエネルギーにしているように見える。不正に対する怒り、民主主義を壊すものへの怒りである。願わくは、国民全体で、この不正な為政者に対する怒りを共有したいものと思う。アベノマスク訴訟が、アベ政治の巨大な負のレガシー総括の端緒となり、国民の怒りの口火になってもらいたいとも願う。

安倍晋三は、今なお統一教会と右翼との絆となっている。

(2023年3月1日)
1月はとっくに行き、2月も逃げて、本日から3月。「3・1ビキニデー」でもあり、「3・1独立運動記念日」でもある。例年のとおり、暖かい陽射しの中で庭の白梅がひっそりと香しい。人もかくありたいと願えども、とうてい無理なこと。せめては、落ちついて考え、発言したいと思う。

ところで、第2次安倍内閣の発足を機に、毎日更新を広言して発足した当ブログ。事情あって、現状の形式で連載を開始したのが2013年4月1日。以来、昨日までの連載が、9年と11か月。毎日の連続更新が3621回となった。あと1か月で、満10年となる。

はからずも安倍政権が長期政権となって、当ブログの連載も長期となった。それでも、さすがに2020年9月にはこの悪名高い政権も終焉を迎えた。ところが、その後もなおアベ政治は継続して今日に至っている。そして安倍晋三銃撃死事件である。なんとなく、当ブログの終わりのメドが付かないままに、満10年になろうとしている。このあたりで区切りを付けなくてはならない。

当ブログの連載は今月末で閉める予定。その後のことは、まだ考えていない。今日から31日間の毎日、心して書き続けたい。取りあげたいテーマはいくつもあるが、まずは、統一教会問題である。
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「世界日報」と言えば、統一教会の広報担当紙。その2月25日号に、「旧統一教会叩きと違憲訴訟」という記事が掲載されている。地方議会に広がった教団との「断絶決議」を対象として起こされた「違憲訴訟」に言及するもの。これは、興味深い。興味深いという理由は、統一教会と右翼の縁の深さの確認というだけではない。その両者を結ぶものが、安倍晋三であるということの再確認ということである。この記事に付されている、二つの小見出しの一つが、「『安倍氏の名誉挽回』図る原告代理人」というのだ。

この「断絶決議」に関しては、昨年12月24日付の当ブログで記事にした。「富田林市議会の統一教会との関係根絶決議にイチャモン提訴」という標題でのこと。

富田林市議会の統一教会との関係根絶決議にイチャモン提訴


その事件の第1回口頭弁論が本年2月22日に大阪地裁で開かれた。

原告・UPF大阪側は、訴状で「議会請願に必要な議員の紹介を得られなくなって、請願が著しく困難になった」「特定の宗教団体の信仰を理由にした差別的な決議で、信教の自由や法の下の平等にも反する」と主張した。これは、メディアの報道だが、原告はメディアにこれ上のことを説明していない。率直な感想だが、本人訴訟であればともかく、よくもまあ、弁護士が就いていてこんな提訴をしたものだと思わざるをえない。

大阪市と富田林市は、型のとおり「議会の意思を示す決議に法的拘束力はなく、取り消し訴訟の対象とはならない」「請願に賛成し、橋渡しをする紹介議員になるかどうかは各議員の判断である」「決議は信仰の自由を規制するものではなく、憲法違反ではない」とした。極めて常識的な反論。判決も、常識的にこうなるに決まっている。むしろ問題は、こんな敗訴確実の訴訟を意識的に提起して、自治体の決議の拡がりを阻止しようとしたUPF大阪と原告代理人の責任にある。

その3日後の世界日報記事によると、月刊「正論」3月号に、「旧統一教会信者なら人権侵害していいのか」と題した論考が載った。執筆者は弁護士の徳永信一。この標題が、「断絶決議が旧統一教会信者の人権を侵害している」という無理筋の主張を物語っている。「憲法の保障する信教の自由と請願権を侵害され差別的扱いを受けたとして、決議取り消しと自治体に損害賠償を求め提訴したのである」のだという。その誤謬は、間もなく判決で明確になる。

なぜ、右翼弁護士がこんな事件を引き受けたか。世界日報記事は、「徳永氏は、教団関連団体と『深い関係を築いてきた』市議たちが行った『断絶決議』が憲法違反であることを法廷で示すことで、…『旧統一教会との繋がりを揶揄された安倍元首相の名誉挽回』を図ろうとしているのである」という。なるほど。

統一教会と右翼とは、理念の上では反共という黒い糸で強く結びついている。その黒い糸を操っていたのが、岸・安倍の三代であることが知られている。いまなお、統一教会と右翼とを、亡き安倍晋三がつなげているのだ。

右翼としては亡き安倍晋三の名誉挽回のための提訴であり、統一教会としては市議会や世論を牽制する意図での提訴である。勝ち目のない訴訟と分かっていながらの、原告本人と代理人にはそれぞれ別の動機を持っての提訴。まさしく「イチャモン訴訟」である。

ところで、本日東京地裁が注目すべき判決を言い渡した。説明がやや複雑になるが、関連する訴訟が二つある。まず先行訴訟があって原告の請求が全部棄却となって終わった。次いで攻守ところを替えた反撃訴訟が提起され、本日、反撃訴訟の一審判決で先行訴訟の提訴自体が不法行為として認められたという経過である。

アイドルグループのメンバーだった16歳の女性が自死したことについて、遺族が原告になって、所属会社と代表取締役を被告として、自死の原因を作った責任を問う損害賠償請求訴訟を提起した。これが先行訴訟。しかし、遺族の請求は全部棄却となって確定した。

次いで、攻守ところを替えた反撃訴訟が提起された。今度は会社と代表取締役が原告となって、遺族らに違法な提訴をしたことの責任を問う損害賠償請求訴訟。これが、反撃訴訟。そして本日東京地裁は計567万円の支払いを命じた。

注目すべきは、先行訴訟の代理人となり記者会見で発言した弁護士も被告とされて、不法行為責任が認められたということである。UPF大阪と大阪市・富田林市の事件になぞらえれば、両市が原告になっての「反撃訴訟」で、UPF大阪とその代理人弁護士を訴えて勝訴したことになる。

両市の市民は、統一教会側によって市が被告とされたことによって応訴の費用を負担しなければならない。この損害の補填を求める方法はあるのだ。

自民党総裁岸田文雄、党大会でかく語りき。

(2023年2月28日)
 自由民主党総裁、岸田文雄です。本日、2月26日という特別に意義の深い日を選んでの第90回党大会であります。まずは、我が党が依拠する国民の代表として経団連十倉会長のご臨席を賜っていることをご報告し、しっかりと丁寧に、御挨拶を申し上げます。

 昨年7月、安倍晋三元総裁が、選挙期間中に銃撃され、お亡くなりになるという未曽有の事件が起こりました。安倍元総裁の下「日本を取り戻す」なんて大袈裟なことを言いつつ、当時の民主党から政権の座を奪還したのは今から10年前のことです。

 この「日本を取り戻す」という訳の分からぬスローガンによれば、当時日本は誰かに奪われていたのです。奪われていた「日本」とは、安倍晋三元総裁が本来あるべきと考えた富国強兵の日本であり、軍事大国の日本であり、中国や朝鮮を侮蔑する傲慢な一等国日本であったかと思われます。少なくも、戦後民主主義に汚染される以前の、美しい帝国日本であったことには間違いありません。

 だからこそ、この10年、安倍元総裁の強力なリーダーシップの下、私たちは多くの仲間とともに「平和」や「民主主義」や「人権」と闘い、憲法改正のために死力を尽くしてまいりました。もちろん、闘う相手は「国民」です。頑迷に憲法改正に反対する勢力との闘いの道半ばで倒れた安倍元総裁のご遺志を継いで、私も憲法改正に邁進する覚悟であります。

 さて、遺憾ながら、アベノミクスの失敗は誰の目にも明らかで、この10年、日本の国力は大きく低下しました。「日本には未来がないのでは」とささやかれた時代は過ぎ、今や誰もが大っぴらに経済政策の失敗を語り合う事態を迎えています。しかし、こういうときにこそ、安倍元総裁の得意技を思い出していただきたいのです。そうです、「ご飯論法」と「嘘とゴマカシ」、「あるものもない」という安倍流政治手法です。どこかいいとこだけの統計数字を拾ってきて、あたかも全体がうまく行っているように印象操作をするあの悪徳商法まがいの得意技。虚心坦懐にこれを見習い、実行し、頑張って、統一地方選挙も、衆議院の補選も乗り切っていこうではありませんか。

 選挙での訴えの基本は二つだけ。一つは、なんでも悪いことは、あの悪夢の民主党時代の悪政の結果と決めつけることです。もう一つは、なんでも良いことは、我が党の努力による「前進の10年」の成果だと断言すること。照れたり、恥ずかしがって小さい声で言うのではなく、堂々と大声で、安倍晋三さんをお手本に、ウソでも平気で「アンダーコントロール」と自信ありげに言うことがコツなのです。

 とは言え、現実には日本が置かれている状況は厳しく、課題は満載です。コロナ後の日本経済再生、かつてないエネルギー危機、その中でのエネルギー安定供給と脱炭素の両立、変化する国際秩序の中での外交安全保障、最大の未来への投資であるこども・子育て政策。正直なところ、安倍さんの責任は重大ですが、そう言っていけません。

 われわれなら克服できる、いや、われわれにしかできない。皆さん、そう思いませんか? なぜなら、われわれ自由民主党には良き伝統があるからです。議論を尽くし、知恵を持ち寄り、そしていったん決めたなら、一致団結して成し遂げる。そう、「民主集中制」という組織運営の大原則です。この良き伝統の下、難題に一つ一つ答えを出し、着実に実行していこうではありませんか。

 真っ先に取り組まなければならないことは、アメリカの指示に従っての防衛力の抜本的強化。そして、そのための経済的な裏付けです。即ち、大軍拡・大増税。これを断固として実現しなければなりません。もちろん、財布の大きさには限りがありますから、当然のことながら、大軍拡・大増税は、福祉や教育、子育てへの予算に皺寄せを及ぼします。でも、正直にそう言ってしまっちゃあオシマイですから、「異次元の少子化対策」「教育費倍増」「子供予算倍増」などと、中身がなくてもいいのです。口先だけで吹聴してください。みんなで、口を揃えて、繰り返し言うことが大切です。そうすれば、確実に票がとれます。なに、選挙までの、短い期間のことです。これで乗り切りましょう。

 そして、物価高を乗り越え、経済成長を実現するため、新しい資本主義の柱である、「投資と改革」にも全力を挙げます。GX、DX、科学技術・イノベーション、スタートアップ等の分野に、官の投資を呼び水に、民の投資を集めてまいります。地域の未来を創る、地方創生の取り組みも加速化させていきます。何のことだかよく分からぬことを、早口で喋ることが大切です。私も中身はよく分からないのですが、この頃口だけは回るようになりました。

 そして、子供たちに「取り戻した日本」を着実に引き継ぐため、憲法改正に取り組んでまいります。自衛隊の明記、緊急事態対応、合区解消、教育の充実。いずれも先送りのできない課題ばかりです。時代は、憲法の早期改正を求めています。維新や国民は、改憲の同志的政党ですから、その力もお借りしながら、国会の場における議論を、一層積極的に行ってまいります。

 また、伝統右翼の皆様が大切だと思っていらっしゃる皇室問題も待ったなしです。このままでは、大切な皇位の絶滅を危惧しなければなりません。安定的な皇位継承を確保するための方策への対応は先送りの許されない課題であります。国会における検討を進めてまいります。

 本音を言えば、何ごとも行き詰まり、うまく行きそうもありません。戦後長く続いた保守政権の無策の結果がこの事態です。そう思っても、口に出してはなりません。「この歴史の転換点に臨み、今一度、10年前の政権奪還の原点、野党転落のどん底から毅然と立ち上がった原点に立ち戻りたいと思います」と言いましょう。こうして、選挙を乗り切れば、あとは気楽な「黄金の2年」が待っています。

 支持率の低迷の岸田政権ですが、なんとかなります。統一教会問題やら、選択的夫婦別姓の問題やら、LGBT問題やら、税制の不均衡やら、原発増設やら、都合の悪いことにはできるだけ口をつぐみましょう。これまでも、我が党に投票した国民ではありませんか。大切なことを忘れっぽく、同調性が高くて体制順応の国民性を信頼しましょう。こうやって、何とか選挙と危機を乗り越えましょう。ご支援、よろしくお願いいたします。

「はだしのゲン」は、なにゆえに行政に疎まれるのか。

(2023年2月27日)
 私は、爆心地近くの広島市立幟町小学校に入学している。「原爆の子の像」のモデル佐々木禎子さんの母校。小学校一年生だった私は、原爆ドームの瓦礫の中で遊んだ。広島が被爆して4年目のこと。そして、同じ広島市内の牛田小学校に転校し、さらに三篠小学校から、宇部の小学校に転校した。どこの小学校だったか、集合写真が1枚だけ残っている。もう、70年以上も昔のこと

 私は、戦争のさなかに盛岡に生まれ、盛岡で終戦を迎えたのだから被爆の体験はない。が、原爆の爪痕の残る広島の姿は、おぼろげながらも記憶している。市民の「ピカ」に対する無念と恐怖の感情も。

 私の平和志向は、あとで聞かされた戦時中の母の苦労と、この広島での生活体験が原点となっている。原爆こそは絶対悪である。けっして人類と共存することはできない。原爆を無くさなくては、人類が滅亡する。6歳での被爆体験を持つ中沢啓治の思いも同様であったろう。そして、はるかに強烈なものであったろう。

 私は「はだしのゲン」には、思い入れが強い。感情を移入せずには読むことができない。広島市教育委員会が、平和教育の小学生向け教材から「はだしのゲン」を外す方針を決めたという報道が無念でならない。広島市よ、おまえもか。

 広島市教委は2023年度、市立の全小中高の平和教育プログラム「ひろしま平和ノート」を初めて見直す。その際、小学3年向けの教材として、これまで採用していた漫画「はだしのゲン」を削除。別の被爆者の体験を扱った内容に差し替えるという。

 「ゲン」を教材として採用した趣旨は、「被爆前後の広島でたくましく生きる少年の姿を通じて家族の絆と原爆の非人道性を伝える狙いで、家計を助けようと路上で浪曲を歌って小銭を稼いだり、栄養不足で体調を崩した身重の母親に食べさせるために池のコイを盗んだりする場面を引用している」(中国新聞)と報道されている。

 これについて、教材の改訂案を検討した大学教授や学校長の会議で「児童の生活実態に合わない」「誤解を与える恐れがある」との指摘が出たという。市教委も同調。その上で、漫画の一部では被爆の実態に迫りにくいとして、もう1カ所あった、家屋の下敷きになった父親がゲンに逃げるよう迫る場面も新教材には載せないという。

 戦争は悲惨である。原爆の被害は、その最たるもの。悲惨な場面の描写は避けて通ることができない。被爆者の団体も教材としての使用の維持を求めている。

 市教委の今回の措置は実のところ、「悲惨な描写」が理由ではあるまい。「ゲン」がもつ「反戦」の姿勢が不都合なのだ。あるいは『反日』のしせい。戦争とは、加害と被害がないまじったものである。永く続いた日本の保守政権は、過去の戦争の被害の訴えには積極的だが、加害の反省にはまことに消極的である。地方自治体も、戦争の被害者性の訴えには寛容だが、戦争における日本の加害者としての描写には極めて非寛容となる。南京大虐殺にも、シンガポールの大検証にも、三光作戦にも、平頂山事件にも、731部隊にも、従軍慰安婦にも…。

 広島・長崎への原爆投下を、それ自体としてだけ見れば、明らかなアメリカの過剰な加害行為で、日本の市民は甚大な被害者である。だから、原爆の被害を訴える展示や集会には、広島市に限らず地方自治体は寛容である。

 しかし、「はだしのゲン」は、原爆被害だけを描いていない。原爆被害を素材としながらも、侵略戦争を引き起こした日本の加害者としての戦争責任にも遠慮なく踏み込んでいる。天皇への怨嗟も、軍部の横暴も描いている。戦時下の言論統制にも異議を唱えている。そして、アメリカの戦後責任にも。これが「反戦」の基本姿勢である。そして、ある種の人々から見れば『反日』でもある。これこそが、「ゲン」が単なるマンガを超えて多くの市民から支持された理由であり、同時に右翼や政府や自治体からは疎まれ煙たがられてきた原因なのだ。真実を語ればこその受難というべきであろう。

 「はだしのゲン」を読み継ぐということは、日本の加害者としての責任を自覚し続けるということであり、反戦の思想を守り続けることでもある。「はだしのゲン」を大切に読み続けよう。

忘れてはならない。忘れさせられてはならない。ビキニも第五福竜丸の被ばくも、そして「2・26」も。

(2023年2月26日)
 昨日、公益財団法人第五福竜丸平和協会の役員懇談会。来年2024年は、ビキニ事件・第五福竜丸被ばくから70年になる。その翌々年2026年は、展示館開館50周年。どのような基本理念で、どのような企画をなすべきか。「ビキニ事件を直接知らない世代が圧倒的多数となる時代に対応する取り組み」についてのフリートーキング。

 最初に、奥山修平代表理事から語られたのが、「核兵器の使用も原発への攻撃も、今差し迫った問題となっており、終末時計が1分30秒前まで進行している現状。一方、ビキニ事件を直接には知らない世代が圧倒的多数となっている。こんな時代の節目の時に、どのような事業をなすべきか率直にご意見を伺いたい」という問いかけ。

 この冒頭挨拶の中に、こんなエピソードが添えられた。「ある大学の教員が、学生に三つのキーワードでの作文を求めた。『英霊』『真珠湾』『B29』。もちろん日本の戦争への加害と被害の認識を問うたものだが、期待した反応は少なかったという。中には、『英霊とは英国の幽霊』『真珠湾とは、伊勢の養殖真珠産地』『B29とは特別に濃い鉛筆』というコメントもあって、愕然としたという。大切な戦争体験の承継ができていない。ビキニ事件も、記憶を失ってはならないし、失わされてはならない」

 この冒頭発言に続く提案として、「映像世代の若者をターゲットに、動画やユーチューブサイトの活用を」「若者には、アニメが訴える力を持っている。自主作成援助の企画を」「平和の折り鶴という固定観念を打ち破るドラゴンの折り紙はできないか」「来年は辰年、ドラゴンのオブジェに、ウロコにたくさんのメッセージを書いてもらう参加型イベントはどうだろうか」「フィールドワークの充実を」と意見が飛び交う。いちいちもっともで、私なんぞが口出しのしょうもない。

 ところで、本日は2月26日。1936年の今日、雪の降る東京で陸軍の一部がクーデターを起こしている。翌2月27日「戒厳」が宣せられ、同月29日に鎮圧されている。この事件で陸軍の統制派が権力を掌握して軍部独裁を確立し、国家総動員法(38年)から大政翼賛会(40年)、そして太平洋戦争(41年)へと転げ落ちていくことになる。

 5・15事件も、2・26事件も、しっかりと記憶を新たにし、教訓を噛みしめておかねばならない。若者が『英霊』も『パールハーバー』も『B29』もよく分からないというのでは、戦前の過ちを繰り返さぬような社会を作れるのか、心もとない。2・26事件では、戒厳令の危険を知ってもらわねばならない。

 戒厳令問題は、過去の話ではない。自民党改憲草案(2012年4月27日)の緊急事態条項(「第9章」98条・99条)には、国家緊急権発動の一態様として「緊急事態宣言」が書き込まれている。戦争・内乱・大災害等の非常時に、憲法を一時停止して政権の専横を可能とするもの。自民党は、明文会見によって「戒厳令」の復活をたくらんでいるのだ。

 大江志乃夫「戒厳令」(岩波新書・1978年)は、今読み直されるべき書である。戒厳令についての詳細を理解し、自民党改憲案の危険に警鐘を鳴らすために。

 この書では、2・26事件の顛末を次のとおり、簡明にまとめている。

 「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁錮刑多数という大量の重刑者を出した。」

 この書の冒頭に、2・26事件を起こした反乱青年将校たちが自分たちの政治綱領として信ずることの厚かった『日本改造法案大綱』の第一条が紹介されている。

 「天皇ハ全日本国民ト共二国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク」

 これは、初めてクーデターの手段としての戒厳を公然と主張したものだという。天皇親政を実現するために、憲法を停止する。具体的には、「貴衆の両院を解散し、全国に戒厳令を布く」というのだ。これが、皇道派青年将校が企図したクーデターだった。

 自民党改憲草案も読み較べておきたい。
 第99条1項 「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」

 緊急事態宣言下、内閣は国会を無視して独裁者として振る舞うことができる。国民は内閣のいうことを聞かねばならなくなる。内閣は、政令を作って「集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト」ができる。もちろん、テレビの放送の停波など簡単なこと。

 広島も長崎も、ビキニも第五福竜丸も、そして5・15も2・26も、忘れぬようにしよう。国民が忘れたと見るや、為政者は欺しにかかってくるのだから。 

中国政府の「ウクライナ停戦」提案に期待を寄せる。

(2023年2月25日)
 プーチンとは唾棄すべき人物である。いずれ、ヒトラー・スターリンとならぶ悪名を歴史に残すことになるだろう。習近平も、チベット・ウイグル・モンゴル・香港の大規模人権弾圧で名を馳せた人物。これに加えて、将来台湾を侵略するようなことがあれば、堂々プーチンと肩を並べてヒトラー・スターリン級の悪名を轟かすことになる資格は十分である。

 ウクライナ戦争開戦1週年となった今、プーチンの戦争に、習近平が「対話と停戦」を呼び掛けている。なんとなく釈然としない。釈然としないながらも、停戦が実現するのなら、誰が呼び掛けたものであれ結構なことだと考えなければならない。

 習近平提案が成功するか否かは定かではない。むしろ欧米では非観的な見方が圧倒的だというが、ロシアもウクライナも関心を寄せていることは間違いない。プーチン・王毅会談は既に済み、ゼレンスキーは習近平との会談を望んでいるという。習近平、嫌な奴ではあるが、戦争をやめさせることができるのなら、応援の声を惜しんではならない。

 中国政府が発表したのは、「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」と題する文章。「ロシアとウクライナが互いに歩み寄り、早期に直接対話を再開し、最終的には全面的停戦で合意することを支持する」と表明した。「対話はウクライナ危機を解決する唯一の道だ」と訴え、国際社会にも協力を求めている。

 ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆するなか、「核兵器の使用や威嚇に反対」「原子力発電所などの核施設の攻撃に反対」とも記した。「主権や独立、領土保全は尊重されるべきだ」とする原則的な立場も盛り込んだ。

 この方針説明書は、以下の12項目の提案となつている。
?各国の主権の尊重
?冷戦思考の放棄
?停戦
?和平交渉の開始
?人道的危機の解消
?民間人や捕虜の保護
?原子力発電所の安全確保
?戦略的リスクの提言
?食糧の外国への輸送の保障
?一方的制裁の停止
?産業・サプライチェーンの安定確保
?戦後復興の推進

 これだけではよく分からない。主要な項目の要旨は次のとおりとされている。

?「各国の主権の尊重。国連憲章の趣旨と原則を含む、広く認められた国際法は厳格に遵守されるべきであり、各国の主権、独立、及び領土的一体性はいずれも適切に保障されるべきだ」

?「冷戦思考の放棄。一国の安全が他国の安全を損なうことを代償とすることがあってはならず、地域の安全が軍事ブロックの強化、さらには拡張によって保障されることはない。各国の安全保障上の理にかなった利益と懸念は、いずれも重視され、適切に解決されるべきだ」

?「停戦。各国は理性と自制を保ち、火に油を注がず、対立を激化させず、ウクライナ危機の一層の悪化、さらには制御不能化を回避し、ロシアとウクライナが向き合って進み、早急に直接対話を再開し、情勢の緩和を一歩一歩推し進め、最終的に全面的な停戦を達成することを支持するべきだ」

 戦争当事国の両者に呑ませようという提案が玉虫色のものになることは避けがたい。一項目ずつ、細かくあげつらえば、けっしてできのよい提案ではない。しかしそれでも、仲裁は時の氏神。赤い氏神でも黒い氏神でも、役に立つならなんでもよい。せめて停戦のための対話実現の、その糸口にでもなることを期待したい。

 戦争が長引けば、取り返しのつかない惨禍が拡大することになるのだから。

プーチン・ロシアのウクライナ侵略開始から1年。

(2023年2月24日)
 先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。

 ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。

 美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。

 人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。

 1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。

 だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。

 どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。

 この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。

 そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。

 いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。 

「竹の檻」に閉じ込められた気の毒な人たちを思う。

(2023年2月23日)
 天皇誕生日である。もちろん、目出度い日ではない。国民の権威主義的社会心理涵養を意図したマインドコントロール装置に警戒を自覚すべき日である。人を生まれながらに貴賤の別あるとする唾棄すべき思想や、血に対する信仰や世襲制度の愚かさを確認すべき日でもある。

 我が国の民主主義も個人の自立も、天皇制との抗いの中で生まれ、育ち、挫け、またせめぎ合いを続けている。普遍的な近代思想を徹底できなかった日本国憲法は「象徴天皇制」を認めている。これは、コアな憲法体系の外に、憲法の中核的な理念の邪魔にならない限りのものとして存在が許容されているに過ぎない。その役割と存在感と維持のコストを可能な限り最小化し、漸次消滅させていくことが望ましい。

 ところで、天皇や皇族という公務員職にある人もその家族も、気苦労は多いようだ。最近は、あからさまなメディアのイジメにも遭っている。自分の生まれ落ちたところの宿命を、この上ない不幸と呪っているに違いなく、時に同情を禁じえない。もっとも、この人たちに、いささかの知性があればの話だが。

 私は、国語の授業で教えられた「竹の園生」という言葉を、長く「竹製の檻」のイメージで捉えていた。中国古代の、なんとかいう皇帝の庭に竹林があったという故事からの成語だとは聞いた覚えがあるが、最初のイメージは覆らない。「編んだ竹でしつらえた頑丈な檻」に閉じ込められた、形だけ名ばかりの王。鉄の檻でも、木製の檻でもなく、しなやかな美しい竹で作られた檻の中の、自由を奪われた「籠の鳥」。

 高校一年で徒然草を習ったと思う。その第1段の冒頭は次のとおりである。

 「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやむごとなき」

 私は、この第一段で、長く吉田兼好とは知性に欠けた人だと思っていた。が、今は必ずしもそうでもない。「面従腹背」という言葉の積極的意味合いを呑み込んで以来のことである。反語とか逆説などという技法を知って、多少は文章の陰影を読むことができるようになったということでもある。兼好はこう言ったのではなかろうか。

 はてさて、たった一度の人生である。もし、願いがかなうとなれば、いったい何になって何ができれば、最も幸せだろうか。まず思いつくのは天皇である。その血筋に生まれて天皇になれたとしたら、これに勝る幸せはないのではなかろうか。とは一応は思っても、あれは万世一系、子々孫々に至るまで人間とは血筋が別物とされている。読者諸君よ、人間として生きたいか、人間じゃないものになりたいか。天皇なんてものは、奉って『いともかしこし』『やむごとなし』とだけ言っておけばよい。敬して遠ざけるに限るのさ。実際あんなものになってしまったら、人としての喜びなんて、無縁のものになってしまう。

 おそらく、今の天皇・皇室・皇族の多くが、そう思っているに違いない。はやりの言葉を使えば、「最悪の親ガチャ」である。皇室・皇族の人権など、憲法上の大きなテーマではないが、あらためて思う。天皇制は誰をも幸せにしない。

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