(2023年2月25日)
プーチンとは唾棄すべき人物である。いずれ、ヒトラー・スターリンとならぶ悪名を歴史に残すことになるだろう。習近平も、チベット・ウイグル・モンゴル・香港の大規模人権弾圧で名を馳せた人物。これに加えて、将来台湾を侵略するようなことがあれば、堂々プーチンと肩を並べてヒトラー・スターリン級の悪名を轟かすことになる資格は十分である。
ウクライナ戦争開戦1週年となった今、プーチンの戦争に、習近平が「対話と停戦」を呼び掛けている。なんとなく釈然としない。釈然としないながらも、停戦が実現するのなら、誰が呼び掛けたものであれ結構なことだと考えなければならない。
習近平提案が成功するか否かは定かではない。むしろ欧米では非観的な見方が圧倒的だというが、ロシアもウクライナも関心を寄せていることは間違いない。プーチン・王毅会談は既に済み、ゼレンスキーは習近平との会談を望んでいるという。習近平、嫌な奴ではあるが、戦争をやめさせることができるのなら、応援の声を惜しんではならない。
中国政府が発表したのは、「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」と題する文章。「ロシアとウクライナが互いに歩み寄り、早期に直接対話を再開し、最終的には全面的停戦で合意することを支持する」と表明した。「対話はウクライナ危機を解決する唯一の道だ」と訴え、国際社会にも協力を求めている。
ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆するなか、「核兵器の使用や威嚇に反対」「原子力発電所などの核施設の攻撃に反対」とも記した。「主権や独立、領土保全は尊重されるべきだ」とする原則的な立場も盛り込んだ。
この方針説明書は、以下の12項目の提案となつている。
?各国の主権の尊重
?冷戦思考の放棄
?停戦
?和平交渉の開始
?人道的危機の解消
?民間人や捕虜の保護
?原子力発電所の安全確保
?戦略的リスクの提言
?食糧の外国への輸送の保障
?一方的制裁の停止
?産業・サプライチェーンの安定確保
?戦後復興の推進
これだけではよく分からない。主要な項目の要旨は次のとおりとされている。
?「各国の主権の尊重。国連憲章の趣旨と原則を含む、広く認められた国際法は厳格に遵守されるべきであり、各国の主権、独立、及び領土的一体性はいずれも適切に保障されるべきだ」
?「冷戦思考の放棄。一国の安全が他国の安全を損なうことを代償とすることがあってはならず、地域の安全が軍事ブロックの強化、さらには拡張によって保障されることはない。各国の安全保障上の理にかなった利益と懸念は、いずれも重視され、適切に解決されるべきだ」
?「停戦。各国は理性と自制を保ち、火に油を注がず、対立を激化させず、ウクライナ危機の一層の悪化、さらには制御不能化を回避し、ロシアとウクライナが向き合って進み、早急に直接対話を再開し、情勢の緩和を一歩一歩推し進め、最終的に全面的な停戦を達成することを支持するべきだ」
戦争当事国の両者に呑ませようという提案が玉虫色のものになることは避けがたい。一項目ずつ、細かくあげつらえば、けっしてできのよい提案ではない。しかしそれでも、仲裁は時の氏神。赤い氏神でも黒い氏神でも、役に立つならなんでもよい。せめて停戦のための対話実現の、その糸口にでもなることを期待したい。
戦争が長引けば、取り返しのつかない惨禍が拡大することになるのだから。
(2023年2月24日)
先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。
ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。
美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。
人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。
1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。
だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。
どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。
この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。
そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。
いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。
(2023年2月23日)
天皇誕生日である。もちろん、目出度い日ではない。国民の権威主義的社会心理涵養を意図したマインドコントロール装置に警戒を自覚すべき日である。人を生まれながらに貴賤の別あるとする唾棄すべき思想や、血に対する信仰や世襲制度の愚かさを確認すべき日でもある。
我が国の民主主義も個人の自立も、天皇制との抗いの中で生まれ、育ち、挫け、またせめぎ合いを続けている。普遍的な近代思想を徹底できなかった日本国憲法は「象徴天皇制」を認めている。これは、コアな憲法体系の外に、憲法の中核的な理念の邪魔にならない限りのものとして存在が許容されているに過ぎない。その役割と存在感と維持のコストを可能な限り最小化し、漸次消滅させていくことが望ましい。
ところで、天皇や皇族という公務員職にある人もその家族も、気苦労は多いようだ。最近は、あからさまなメディアのイジメにも遭っている。自分の生まれ落ちたところの宿命を、この上ない不幸と呪っているに違いなく、時に同情を禁じえない。もっとも、この人たちに、いささかの知性があればの話だが。
私は、国語の授業で教えられた「竹の園生」という言葉を、長く「竹製の檻」のイメージで捉えていた。中国古代の、なんとかいう皇帝の庭に竹林があったという故事からの成語だとは聞いた覚えがあるが、最初のイメージは覆らない。「編んだ竹でしつらえた頑丈な檻」に閉じ込められた、形だけ名ばかりの王。鉄の檻でも、木製の檻でもなく、しなやかな美しい竹で作られた檻の中の、自由を奪われた「籠の鳥」。
高校一年で徒然草を習ったと思う。その第1段の冒頭は次のとおりである。
「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かめれ。帝の御位はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやむごとなき」
私は、この第一段で、長く吉田兼好とは知性に欠けた人だと思っていた。が、今は必ずしもそうでもない。「面従腹背」という言葉の積極的意味合いを呑み込んで以来のことである。反語とか逆説などという技法を知って、多少は文章の陰影を読むことができるようになったということでもある。兼好はこう言ったのではなかろうか。
はてさて、たった一度の人生である。もし、願いがかなうとなれば、いったい何になって何ができれば、最も幸せだろうか。まず思いつくのは天皇である。その血筋に生まれて天皇になれたとしたら、これに勝る幸せはないのではなかろうか。とは一応は思っても、あれは万世一系、子々孫々に至るまで人間とは血筋が別物とされている。読者諸君よ、人間として生きたいか、人間じゃないものになりたいか。天皇なんてものは、奉って『いともかしこし』『やむごとなし』とだけ言っておけばよい。敬して遠ざけるに限るのさ。実際あんなものになってしまったら、人としての喜びなんて、無縁のものになってしまう。
おそらく、今の天皇・皇室・皇族の多くが、そう思っているに違いない。はやりの言葉を使えば、「最悪の親ガチャ」である。皇室・皇族の人権など、憲法上の大きなテーマではないが、あらためて思う。天皇制は誰をも幸せにしない。
(2023年2月22日)
もうすぐ、ロシア軍がウクライナに軍事侵略を開始して1年になる。昨21日、プーチン大統領は、戦争開始後初めての年次教書演説をした。
そこで彼はこう語ったと報道されている。
「彼らが戦争を始めたのだ。ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側にある。そしてもちろん、キエフ(キーウ)の現政権にも」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りのことをした」「戦争を引き起こしたのは彼らであり、私たちはそれを止めるために武力を行使し続けている」
これは、逆説でも隠喩でもない。プーチンは、ためらいなく国民に語りかけ、ロシア国民の多くは違和感なくこの言に耳を傾けて共感し、受容している。これは奇妙なことなのだろうか。
戦前の日本人の多くが、同じ意識構造ではなかったか。まさか自国が非道徳的な不義を働き、皇軍が不当な侵略戦争を行うとは考えたくもないのだ。だから、自国の外に軍隊を侵攻させ、遠い他国の地で戦闘を開始しても、これを侵略とは思わない。不逞鮮人を掃討し、暴支を膺懲する正義の武力行使だと信じて疑わなかった。自国の武力行使は正義で、これに抵抗する「敵」の武力行使は不正義だった。この信念を否定する情報も意見も、意識的に受け付けなかったのだ。
ロシア国民も同じ心理なのだろう。昨年2月24日、ロシア軍の戦車隊が国境を越えてウクライナ領土に進軍したことは紛れもない事実である。しかし、それを「自国軍隊の侵略」とは認めたくない。「彼らが戦争を始めたのだ」と言ってもらいたいし、そう信じたいのだ。
「ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側とゼレンスキーにある」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りを尽くした」「今も、私たちは戦争を止めるために、やむなく武力を行使し続けている」というのは耳に心地よい。そう言う指導者の演説を聞きたいし、信じたいのだ。
「米欧はロシア国境付近に軍事基地や秘密の生物研究所をつくっている」「欧米の包囲網は第2次大戦のナチスドイツの攻撃そのものだ」「西側は19世紀から、今ではウクライナと呼ばれる歴史的な領土を我々から引きはがそうとしてきた」「西側の目的は、ロシアを戦略的に敗北させることにある。我が国の存続がかかっている」
こういうプーチンの根拠の乏しい演説にも、聴衆は何度も立ち上がって拍手を送った。問題は、演説内容の真実性ではない。自国の正義を信じたい国民への慰めの言葉が欲しいのだ。
一方のバイデンも、21日ポーランドで演説した。ウクライナへの侵攻の正当化を試みるプーチンに対抗して、その主張は虚構にすぎないと切り捨てた。彼の描く図式は、「ロシアの専制から自由や民主主義を守る戦い」である。
バイデンはこう言った。「プーチンが今日話したような『西側がロシアへの攻撃をたくらんでいる』などということはありえない」「今夜はもう一度、ロシア国民に語りかけたい。米国と欧州各国は、ロシアを支配しようとも破壊しようとも思っていない。隣国との平和な暮らしを望むだけの何百万人ものロシア国民は敵ではない」「プーチンはいま、1年前には起きえないと思っていたことに直面している。世界の民主主義は強くなり、独裁者たちは弱くなった」
また、プーチンを「専制君主」「独裁者」と呼び、その予測や期待がことごとく外れてきたことを列挙した。戦争が続くのはプーチンが選んだ結果だとして、「彼は一言で戦争を終わらせられる。単純だ」とも語った。
バイデンの演説の聴衆は3万人とされている。ポーランドやウクライナ、米国の国旗を持った人たちが時折歓声を上げながら耳を傾けたという。
両人の演説は、いずれも100%の嘘ではない。誇張や願望のいりまじった内容。しかし、どう考えても、プーチンの側に分が悪い。相対的にバイデンが真実を語っている。かつては、世界の紛争の元兇であったアメリカである。いったいいつから、アメリカが正義面して、民主主義や人権を語れるようになったのだろうか。中国やロシアにおける「専制君主」「独裁者」の「功績」というほかはない。
そしてもう一点強調しておきたい。真実ではなく、心地よい言葉を聞きたいという国民の心理は、ロシア国民や戦前の臣民に限らない。少なからぬ現在の日本人も同様なのだ。今なお、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦の存在もデマだ」「関東震災後の朝鮮人虐殺も嘘だ」という類いの言説の基礎にあるものとして無視し得ない。
(2023年2月21日)
BBCと共同が伝える記事に驚いた。スペイン議会は、今月16日に「16歳以上の国民が法律上の性別変更の手続きをする際に診断書を不要とする法案を賛成多数で可決した。表決は191対60だった」という。
つまり、16歳になれば、スペイン国民は自由に自分の性を選択できるのだ。診断書は不要。未成年者も両親の同意は不要。スペインの事情はよく分からぬながら、これで社会的混乱は生じないのかと訝る自分の感覚に自信が持てない。
私がよく知らなかっただけで、この種法案の成立はけっしてスペイン独特のものではないという。1972年にスウェーデンが初めて性別変更を合法化し、2014年デンマークが初めて自己申告のみでの性別変更を可能としたという。現在では9か国が同様の制度を採用しており、スペインは10番目の性別選択自由化国なのだとか。
スペインでは、これまで法律上の性別変更手続きには「性別違和(生物学的な性別と性自認に違和感がある状態)の診断書」に加え、「2年間のホルモン治療」が必要とされてきた。新法成立後は、「診断書」も「治療」も不要となる。なお、対象者が12?13歳の場合は裁判所の関与が、14?15歳の場合は保護者の同意が必要となるという。
「性別変更 16歳から自由に スペインで法案可決」との見出しでの報道のとおり、今後スペインでは16歳以上の国民だれもが、裁判所の手続も医師の診断も必要なく、自分の意思だけで性別の変更が可能になる。国民全てに、性別の自己決定権を認めたということなのだ。もっとも、性別変更回数制限の有無についての報道はない。
スペイン新法は、人の性別とその登録の制度を残してはいる。自分で「男性」「女性」のどちらか一方の性を選択することとしているわけだ。しかし、自由に性別を変えることができるとすれば、結局のところ、性別を無意味とし法から性別の概念を取り払うことにつながることになるのではないだろうか。
同性婚の制度が違和感なく確立している社会では、人の性別は限りなく必要性の小さなものとなるのだろう。スペイン新法のさらに先には、どちらの性に属することも拒否するという権利を認める社会が開けるのかも知れない。十分に成熟した社会が実現しての未来のことではあろうが。
ところで、日本の事情は相当に立ち後れている。戸籍の性別変更は、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(2003年成立・04年施行、通称・「性同一性障害特例法」)が定める要件と手続による。
この法の名称にある「障害者」という語が目に痛い。この法案提案の趣旨には、冒頭以下の一文がある。「性同一性障害は、生物学的な性と性の自己意識が一致しない疾患であり…」。 「性同一性障害」は、明確に「疾患」として捉えられている。
これに比して、スペインの事情は大いに異なる。議会の採決前にイレーネ・モンテロ平等担当相は議員に対し、「トランスジェンダーの人々は病人ではない。ただの人間だ」と語ったと報じられている。出生時の性別と自己認識の性別が異なるトランスジェンダー問題を、当事者の人権に関わる問題と捉えての法改正なのだ。
スペインとは対照的に我が法の性別変更要件は、まことにハードルが高い。「性同一性障害特例法」第3条1項は、次のとおり定める。
「家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 二十歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。」
一読して明らかなとおり、とうてい人権を実現しあるいは擁護するための規定ではない。その憲法適合性が争われて当然である。何度か、違憲判断を求めて最高裁に特別抗告がなされたが、いずれも斥けられている。同性婚を認めない現行法制による秩序との不適合が主な理由とされている。
しかし、もしかしたらこの判例が覆るのではないかという特別抗告事件が話題となっている。昨年12月7日に、2年間寝かされていた最高裁係属事件が、大法廷に回付されたのだ。おそらくは、弁論が開かれ、これまでとは異なる判断となる公算が高い。
事案は、男性として生まれ、女性として社会生活を送る人が、戸籍の性別変更を求めたもの。性同一性障害特例法の規定は、生殖腺を取り除く手術を必要とすることになるが、「手術の強制は重大な人権侵害で憲法に違反する」と主張して、手術を受けることなく、性別変更を認めよと申し立てている。
最高裁が、人権の砦としての役割を果たすことができるのか、あるいは現行秩序の番人に過ぎないのか。注目しなければならない。
なお、2004年の特例法施行以来今日まで、司法統計に公表されている限りで、全国の家庭裁判所で性別変更が認められた審判件数は1万1000を超えているという。判例変更となれば、この数は急増することになるだろう。だが、それでもなお、全ての人に性別選択の自由を認めるスペイン型法制度には違和感を払拭し切れない。
(2023年2月20日)
90年前の今日1933年2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された。権力の憎悪を一身に集めてのことである。特高警察による野蛮極まる凄惨な殺人事件であった。母セキは多喜二の遺体にすがって、「もう一度立たねか」と泣き崩れた。29歳で殺害された多喜二と、その母の無念を忘れてはならない。そして、多喜二とセキに連なる、無数の無名の犠牲者のあることも。
一年前の当ブログにも多喜二のことを書いた。ぜひお読みいただきたい。
本日が多喜二の命日。多喜二を虐殺したのは、天皇・裕仁である。
https://article9.jp/wordpress/?p=18590
有名作家だった小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道した。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけのものであった。
そればかりか、特高は、東大・慶応・慈恵医大に圧力をかけて遺体解剖を拒絶させた。さらに、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束した。これが、天皇制権力のやりくちであった。そのような権力の妨害にも拘わらず、詳細な多喜二の死体の検案ができたのは、安田徳太郎(医学博士)や江口渙(作家)ら友人の献身があったればこそである。
時事新報記者・笹本寅が、検事局へ電話をかけて、多喜二の死因を「検事局は、単なる病死か、それとも怪死か」と問い合わせると、「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという。
「これ以上文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」という脅しは、空文句ではない。1928年改悪の治安維持法は、新たに、目的遂行罪を創設した。「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」である。平たく翻訳すれば、「何であれ、共産党の目的遂行のために力を貸すようなことをした者には、最高2年の懲役または禁錮の刑を科す」という条文。要するに、警察・検察の一存で、共産党に関わったら、誰でもしょっぴくことができるとされていた時代のことなのだ。
この天下の悪法による逮捕者数は数十万人にのぼるとされる。司法省調査によると、送検された者7万5681人、うち起訴された者は5162人に及ぶ。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人。多喜二の虐殺もそのうちの1件であった。
警察も検察も報道もグルになって多喜二の虐殺を隠した。天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲し、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じた。何という狂った時代だったのだろうか。
1933年の2月と言えば、日本が国際連盟を脱退したとき(24日)であり、ベルリンで国会放火事件が起きたとき(27日)でもある。日本も世界も、戦争とファシズムへの坂を転げ落ちていたとき。その時代のもっとも苛烈な弾圧の矢面に立ったのが、多喜二であったと言えよう。とても真似はできないが、せめて、「あの時代にも困難であったけれど、多喜二のように抵抗する生き方があったと知ることは重要」という言葉を噛みしめたい。
(参考記事・07年2月17日、09年2月18日付「しんぶん赤旗」)
(2023年2月19日)
橋下徹が、2月16日にこうツィートしている。
「首相や天皇が靖国参拝もできない国が、いざというときに自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令などしてはいけない」
やや舌足らずで稚拙な一文ではあるが、言っているのはこういうことだ。
「いざというときに、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができる国にするためには、首相や天皇の靖国参拝を実現しておかねばならない」
これは法律家の言ではない。典型的な伝統右翼扇動者の思考パターンである。こうもあからさまにものを言う人は、最近は少ない。
もう少し敷衍し忖度して、橋下ツィートの真意を解説すれば、こうでもあろうか。
「近い将来において我が国が戦争当事国になる事態はけっして絵空事ではない。その、いざというときには、国家は躊躇することなく、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができなければならない。およそ、戦争に勝利するためにはそのような苛烈な国家意思の貫徹が必要なのだ。戦時において、自衛隊員や国民の命を犠牲にする果敢な指揮命令が可能な国家にするためには、平時から首相や天皇の靖国参拝を実現して、国民の精神を『国家のために死ねる』という精神構造を培っておかねばならない。首相や天皇の靖国参拝は、そのような手段として有効なのだ」
これは、戦前の天皇制国家公定の思想であり、戦後は伝統右翼のナショナリズムや大国主義・軍国主義の願望の中に、連綿と引き継がれてきた想念である。
靖国への対応は良識ある国民に重い課題である。過去の問題であるはずが、清算されずに積み残されて、「再びの戦前」といわれる時代に、靖国神社礼賛論が必ず蒸し返される。橋下ツィートもその類いの一文。
橋下は、続くツィートでは「命を落とした兵士に尊崇の念を表すると口で言うだけの政治家たち、首相の立場ではない気楽な身分で靖国参拝して自己満足している政治家たち、もうそろそろ首相や天皇が靖国参拝できるような環境を命をかけて作れ」とけしかけている。その具体策として、「首相や天皇が靖国参拝するためには、戦争指導者を祀る施設と兵士のそれを分けることが必要不可欠だ」との提案が持論のようだが、「宗教上の分祀か否かに踏み込まなくていい。首相や天皇は戦争指導者に参拝しないというメッセージで必要にして十分。兵士のみにしっかり参拝」とも言っている。いずれにせよ、靖国神社公式参拝推進派であり、戦争推進派の言にほかならない。
靖国とは、「君のため国のために命を捧げた戦没者を神として祀る」宗教施設であった。もちろん、伝統的な神道に基づく神社ではない。明治政府が発明した「天皇教」という新興宗教の教義に基づく創建神社である。
靖国神社は、天皇の意向で創建され、天皇への忠死の軍人を顕彰する施設であり、新たな祭神を合祀する臨時大祭の招魂の儀には、必ず天皇自らが「親拝」した。徹頭徹尾、天皇の神社であった。
また、戦前靖国神社は陸海軍の共管とされ、陸軍大将と海軍大将とが交替で宮司を務めた。徹底した軍国神社であり、戦争神社であった。だから靖国神社とは、宗教的軍事施設でもあり、軍事的宗教施設でもあった。
統一教会の伝道教化活動の報道が、世論にマインドコントロールという言葉を思い出させている。オウムの報道の際も同様だった。しかし、天皇教のマインドコントロールの規模の壮大さや、その成功に較べれば、統一教会もオウムも、チャチなものではないか。権力による一億臣民のマインドコントロールに成功した天皇教体制の軍国主義的、侵略主義的側面を代表するものが、靖国の思想であり、靖国神社という宗教施設であり、国定教科書を通じて全国民(臣民)に「忠義のために死ね」と教えた教育である。マインドコントロールの極致というべきであろう。
敗戦後の日本の民主化は不十分で、天皇という有害な存在を廃絶することができなかった。しかし、憲法は天皇を人畜無害とする幾つかの制度を調えた。その一つが政教分離原則(憲法20条)にほかならない。天皇も首相も、靖国神社に関わってはならないのだ。
保守派は、かつては靖国の国家護持運動に取り組んだ。憲法上の政教分離原則から、その実現は困難と悟って、靖国神社公式参拝促進運動を本流としている。これもはかばかしい成果を上げ得ていない現状で、手を替え品を替えて、戦争準備としての靖国再利用に余念がないのだ。
靖国神社礼賛論や、その一端としての公式参拝促進論は、戦争への地ならしである。「戦死者をどう追悼し、どう扱うべきかを定めずにして、戦争突入はできない」「国家が、戦死者を厚く悼む施設も儀式も用意せずに、戦死を覚悟せよとは言えない」という意識が権力側にあるからである。
「戦争が近いことを覚悟せよ」「そのための準備が必要だ」との立論ではなく、「絶対に戦争を避けなければならない」という議論をしなければならない。橋下流の好戦論に惑わされてはならない。
(2023年2月18日)
旧統一教会が起こしたスラップは、今のところ5件。そのうちの1件が、ジャーナリスト有田芳生と日本テレビを被告とする「統一教会スラップ・有田事件」。係属裁判所は、東京地裁民事第7部合議B係(野村武範裁判長)である。
その第1回口頭弁論期日が、次のとおりに決まった。
5月16日(火)午後2時? 東京地裁103号法廷
この日の法廷では、訴状・答弁書・準備書面の陳述だけでなく、被告本人の有田さんと、弁護団長の光前幸一弁護士が、意見陳述を行う。
また、閉廷後の3時30分から報告集会(会場打診中)を予定している。この報告集会には、関連事件の当事者や弁護団、メディアにも参加を呼びかけ、大きな規模で行いたい。しかるべき記念講演も企画し、統一教会スラップとの共闘スタートの場とする予定。
統一教会からのスラップに、いささかの萎縮も許されない。法廷内での攻勢的な訴訟の進行だけでなく、法廷外でも大いにメディアに訴え、統一教会スラップを糾弾する大きな世論を形成しなければならない。
原告(統一教会)によるこの損害賠償請求の民事訴訟提起が、統一教会が自らに対する批判の言論の萎縮を意図した不当なスラップであることはあまりに明白である。原告(統一教会)代理人は、「紀藤(ミヤネ屋)事件」の第1回法廷で、「旧統一教会に対する多くの名誉毀損言論の中から、吟味して提訴したのが5件の訴訟になった。だから、全ての提訴はスラップ訴訟ではない」との趣旨を述べたという。
これは、DHCスラップでも耳にした弁明である。「5件を吟味して選定した」という代理人弁護士の責任は大きい。
まずは迅速に訴訟を進行させ、一刻も早く勝訴判決を獲得しなければならない。それが、被告とされた有田さんのためであるだけではなく、民主主義の基礎である表現の自由が要求するところでもある。事前の裁判所と当事者の打ち合わせでは、両被告(有田・日テレ)が2月27日(月)までに答弁書を提出、それに対する原告(統一教会)の反論の提出を経て、第1回期日を迎えることになる。
ところで、いずれも旧統一教会が原告となって起こした「統一教会スラップ」は、下記の5件である。
被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴
有田弁護団は、他の関連全事件の被告らに連携を呼び掛けることとしている。実務的には情報と法的知見を交換しながら、協力して不当な勢力の不当訴訟と闘い、全事件を完全勝利としたい。有田事件はその先陣を切ることになるだろう。
皆様のご支援をお願いいたします。下記URLを開いてみてくざい。
「有田芳生さんと共に旧統一教会のスラップ訴訟を闘う会」
https://aritashien.wixsite.com/home
《有田芳生さんと共に闘う会》に、ご支援のカンパをお願いします。
https://article9.jp/wordpress/?p=20497
(2023年2月17日)
イスラエル・ネタニヤフ政権の「司法制度改革案」が政権を揺るがす政治問題となっている。1月以来、波状的に10万人規模の市民のデモが街頭に溢れているという。三権分立の崩壊を懸念し、「民主主義を守れ」というスローガンが叫ばれている。
市民の憤りの対象となっている「ネタニヤフ流・司法制度改革」の問題点は二つ。その一は「最高裁の判断を国会が多数決で覆すことができる」という三権分立の根幹に関わる制度「改革」案。そしてもう一つは、「裁判官の任命人事への政府の関与の拡大」だという。任命時からの裁判官統制で、司法を骨抜きにしようという魂胆。
政権側は、「裁判所は民主的な組織ではない。改革案こそが民主主義の精神に合致したもの」という。言わば、三権分立を崩壊させて、ときの政権の独裁を図ろうというもの。これを「民主主義」の名のもとに断行しようというのだ。なるほど、市民が「三権分立を守れ」「民主主義を守れ」と立ち上がらざるを得ない事態である。
ネタニヤフ首相は「権力のバランスを回復する」と主張している。2022年11月の総選挙で勝利したことで、改革が有権者の信任を得ているとも訴えた。あからさまに、「国民に選ばれていない司法が力を持ちすぎている」として、最高裁による法律審査の権限を制限するというのだ。これでは、「ときの政権が絶対的な力を持ち、独裁国家になりかねない」との批判を免れない。ヒトラーの手法に似ているではないか。
もちろん、この司法改革案には、政治的な動機がある。22年12月末に新たな連立政権を発足させたばかりのネタニヤフだが、収賄罪などで19年に起訴され公判中の身である。自身の有罪判決を避けるため司法の力を弱めようとしているとの臆測がくすぶる。安倍晋三が夢みた忖度司法を、ネタニヤフも望んでいる。
それだけでなく、政権と司法の緊張をいっそう高めたのが、閣僚罷免要求事件である。最高裁は1月18日、連立与党のユダヤ教政党「シャス」の党首アリエ・デリの内相兼保健相への任命が「著しく不当」とし、ネタニヤフ政権に罷免を命じた。
脱税の罪に問われたデリは22年1月、執行猶予つきの有罪判決を司法取引で受け入れた。イスラエル基本法(憲法に相当)は、有罪判決から7年間は閣僚になれないと定める。ところがネタニヤフ支持派は政権発足の直前、執行猶予つきの場合は就任できるよう国会で基本法を改正したという。
このあたりの手続の詳細はよく分からないが、デリを閣内に取り込み、連立政権を樹立するためのお手盛りとの批判は強く、最高裁の決定に至った。ネタニヤフは同月22日、止むなくデリ氏を罷免したが、連立政権運営は顕著に難しくなった。そこで、国会の議決で最高裁の決定を覆す制度「改革」を、ということなのだという。
この改革に危機感を募らせているのは、野党や法曹だけではないという。まず、地元経済界からも懸念の声が上がっているそうだ。イスラエルはIT(情報技術)などの新興企業が勃興し投資資金を集めてきたが、「知的財産や資産の保護は司法が独立した国でこそ可能だ」「国のビジネス拠点の地位に取り返しのつかない影響を与える」という声が上がっているという。
また、「政権は『ユダヤ人優位』の国家を目指し、アラブ人ら少数派を排除しようとしている。そのため、少数派の権利を守り、民主主義の基盤となってきた司法を弱めようとしているのだ」という、司法擁護論も根強いという。
司法が、真に市民のために役に立つものとなっているとの信頼と評価があれば、司法の権威を貶めようという、司法「改革」には、市民が反対運動に立ち上がることになる。
(2023年2月16日)
人事は重要である。そして、難しい。公的な機関の重要人事には、その社会の民主主義の成熟度が表れる。いま、学術会議会員の任命制度が議論になり、NHK新会長と、日銀新総裁の人事が話題となっている。その人事のありかたや人事制度の作り方に日本の民主主義の成熟度があらわれている。
学術会議も、NHKも、日銀も公共性の高い機関である。学術会議会員は内閣総理大臣が任命する。NHK会長は経営委員会の任命だが、その経営委員は両議院の同意を得ての内閣総理大臣の任命となっている。そして、日銀総裁は両議院の同意を得て内閣が任命する。とは言え、これは形だけのことで、けっして内閣や内閣総理大臣がオールマイティであってはならない。
司法や学術や報道に関する機関は、その本来的使命を貫くためには公権力からの掣肘を受けてはならない。公権力から独立した存在であるためには、人事の自律が不可欠である。権威主義的国家においては、公権力がその意のままに動く人物を任命することで、中央集権の秩序を作り出す。「国から金が出ている以上、国が選任権を持つのは当然」などという、野蛮な議論に幅を利かせてはならない。
金融政策の立案実施が政府から独立した中央銀行の専門的な判断に任せることが望ましいとされる。が、所詮は原理的に要請される独立でも自律でもない。今回は、貧乏くじとされる日銀総裁。「首相と握れる人物」が選任されることとなった。それで、格別の不都合は生じない。しかし、司法や学術や報道に関して、同様でよいことにはならない。
NHK会長は、頑固に報道の自由を墨守しなければならない。その姿勢が、国民の知る権利擁護に奉仕することになる。それにふさわしい人物を選任しなければならないのだが、その経歴から見る限り、新会長の適性はなはだ疑わしい。
そして、今国会に提案されようとしている、学術会議会員の選任方法の改悪が心配される。学術会議の存在意義は、原理的に政府からの独立と自律性にある。そしてその要は、誰を会員とするかの人事にある。それが今、危うい。日本学術会議の組織改革の法案が、学術会議の独立性を毀損しようとしている。
一昨日(2月14日)学術会議の歴代会長経験者5人(生存者の全員)が揃って、学術会議の独立性の尊重を求める声明を発表し記者会見をした。前例のないことである。
この声明の危機感は高い。岸田首相を宛先にして、「日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである」という趣旨。戦後の設立以降の学術会議の歴史を踏まえ、学術の独立性について「一国の政府が恣意的に変更して良いものではない」としている。
内閣府の方針では、会員選考の際に外部の第三者委員会が介入する仕組みを導入する。これに対し、声明では、アカデミーの世界では自律的な会員選考こそが「普遍的で国際的に相互の信認の根拠となっている」とし、「内閣府案はこれを毀損する」と批判している。この人事の手続が問題なのだ。
広渡氏は任命拒否問題に言及し、「首相は今からでも自分の判断で任命しなおすことが可能。本来は5人で首相に直接面会し、ひざを交えて話をしたかった」と話した。また、法案について「法改正の狙いは、任命拒否を正当化し、それを制度として法に組み込むことにある」と説明した。
この問題を論じた朝日の社説が、「各国の学術会議に相当する組織は、政府から独立した活動や会員選考の自主性・独立性を備える。それを歪(ゆが)め、強引に政府の意向に従わせるのでは、権威主義国家のやり方と見まごうばかりだ」と言っているのが、興味深い。「権威主義国家」とは、中国・北朝鮮・ロシア・ベラルーシ・イラン・アフガニスタン・サウジアラビヤ等々を指しているのだろう。日本の民主主義のレベルを、このような「権威主義国家」並みに落としてはならない。
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岸田文雄首相に対し日本学術会議の独立性および自主性の
尊重と擁護を求める声明
2023年2月14日
吉川弘之(日本学術会議第17?18期会長)
黒川 清(同第19?20期会長)
広渡清吾(同第21期会長)
大西 隆(同第22?23期会長)
山極壽一(同第24期会長)
私たち5名は、日本学術会議会長の職を務めた者として、現状における日本学術会議と政府の正常ならざる関係を深く憂慮し、日本学術会議が日本学術会議法に定められ、かつ、先進諸国など国際的な標準となっているナショナルアカデミーとしての独立性、自主性およびその裏付けとなる自律的な会員選考を堅持し、人類の福祉と日本社会の発展のために、科学的助言を通じてその使命をよりよく果たすことができるように、以下のように岸田文雄首相に対する要望を表明するものである。
1. 日本学術会議は、1948年日本学術会議法によって設立され、学術が戦前の轍を踏まず学問の自由と科学の独立を基礎に政府と社会に科学的助言を行う機関として位置づけられた。以来70余年、国民の負託に応える活動を進め、国際的に重要な科学者組織としてその地位を確立している。
2. 政府自民党においては、2020年10月の任命拒否問題に端を発し、日本学術会議改革問題を検討することとなり、今般、所管の内閣府による「日本学術会議の在り方についての方針」および「日本学術会議の在り方(具体化検討案)」が作成され、日本学術会議に向けて説明が行われた。これに対して、日本学術会議は、2022年12月8日および21日に第186回会員総会を開催し、審議検討のうえ、「方針」および「具体化検討案」に日本学術会議の根幹にかかわる強い懸念があるとして声明(「内閣府『日本学術会議の在り方についての方針』(令和4年12月6日)について再考を求めます」令和4年(2022年)12月21日)を採択し、政府にその再考を求めた。私たちは、これを理解することができる。
これらの懸念は、もとより日本学術会議現会員の手によって正しく解決されるべきであり、政府が真摯に対応しその懸念の払拭に努めるべきことを私たちは強く期待するが、内閣府の「方針」と「具体化検討案」(以下、内閣府案)は、科学者代表機関の独立性と自主性について歴史的かつ国際的に形成され、私たちが共有してきた基本的考え方とあまりにも隔たっており、重ねてここで指摘することが責務であると考える。
内閣府案は、政府と科学者が国の科学技術政策とその課題履行のために「問題意識や時間軸を共有」して協働することを求めているが、それはいわば、Scientist in Governmentの仕事である。しかし、科学者コミュニティの代表機関が課題とする政府への科学的助言は、そのような協働とは異なり、ときどきの政府の利害から学術的に独立に自主的に行われるべきものである。その独立性を保障することこそ科学の人類社会に対する意義を十全ならしめる必要条件であり、一国の政府が恣意的に変更してよいものではない。
また、そのような独立性は会員選考の自律性を不可欠とするが、内閣府案が企図する「第三者から構成される委員会」の介入システムは、これとまったく両立しない。2004年法改正によって自律性保障のために採用されたコ・オプテーション制(広く推薦された多数の科学者の中から日本学術会議が会員候補者を審査のうえ決定する)は、先進諸国のナショナルアカデミーに普遍的な選考方法として、国際的に相互の信認の根拠となっているものであるが、内閣府案はこれを毀損するものでしかない。
3. 私たちは、以上のべてきた理由に基づいて、岸田文雄首相に対して、日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである。また、政府と日本学術会議の間には、2020年10月の菅義偉前首相による第25?26期日本学術会議会員候補者6名の任命拒否が信頼関係を損ねる問題として存続している。これもまた私たちにとって憂慮すべき対象であり、日本学術会議の自主性に本質的に関わる問題として適切に解決されなければならない。
最後に、私たちは、政権と科学者コミュニティとの、政府と日本学術会議とのあるべき関係について、本来ならば、一部の科学者や政党プロジェクトチームのような狭い範囲でなく、より長期的視野の公平な検討の仕組みの下での議論が行われ、科学者をふくめた社会のなかの議論、そして与野党を超えた国会での議論が必要であることを表明する。