澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

言論の自由は、権力と権威を批判するためにこそある。

本日は、「ちきゅう座」第14回総会にお招きいただき、冒頭発言の機会を得ました。「ちきゅう座」には、私の拙いブログを、毎日掲載していただいていることに感謝申し上げ、そのブログに関連して、短い時間ですが、私流のブログ作法のようなものをお話しさせていただきます。

私がブログを書く基本姿勢は、「当たり障りのないことは書かない」「すべからく、当たり障りのあることだけを書く」ということに尽きます。「当たり障りのあること」とは、誰かを傷つけると言うこと。誰かを傷つけることを自覚しながら、敢えて書くということです。

「誰かを傷つける」言論は、当然にその「誰か」との間に、軋轢を生じます。それは、面倒を背負い込むことであり、けっして快いことではありません。場合によっては「裁判沙汰」にさえなります。それでも書かねばならないことがあります。

近代憲法を学ぶ人は、典型的な近代市民革命の成果としてのフランス人権宣言(「人および市民の諸権利の宣言」・1789年8月)に目を通します。その第4条に、有名な「自由の定義」が記載されています。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることである。」という有名な一文。私は、これにたいへん不満です。えっ? たった、それだけ? 自由ってそんな程度もの?

「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうること」という文言では、論理的に「誰も、他人を害する自由を持たない」「他人を害することは、自由の範囲を越えている」ことになります。私には、到底納得できない「中途半端な人権宣言」でしかありません。

他人を害しない、当たり障りのない言論には、「自由」や「権利」として保護を与える必要はありません。「当たり障りのある言論」であってはじめて、保護しなければならないことになる。戦前、國體と私有財産制を擁護し、富国強兵や滅私奉公を鼓吹する言論は誰憚ることなく垂れ流されました。当時は、これが「権力に従順で、他人を害しない、当たり障りのない言論」でした。その反対の、天皇の権威を傷つけ、生産手段の私有制を非難して資本家を排撃し、軍部・軍人を揶揄し、侵略戦争や植民地主義の国策を批判する言論は、多くの国民の耳に心地よいものではなく、当たり障りのある言論として徹底的に取り締まられました。

いま横行している、天皇を賛美し、アベノミクスを礼賛する言論。人をほめるだけの「当たり障りのない言論」は、ことさらに自由や権利として保護する必要はありません。他人を批判し、他人を傷つけ、他人との間に軋轢を生じる言論の有用性を認めることが、文明の到達した、表現の自由を筆頭とする自由や人権の具体的内容でなければなりません。

もっと端的に言えば、表現の自由とは、権力と権威を批判するためにあります。いうまでもなく、権力は批判されなけれ腐敗します。権力を担う者は、いかに不愉快でも、傷つけられても、批判の言論を甘受しなければなりません。批判さるべきは政治権力に限らず、社会的な強者、経済的な強者として君臨する者も同様。付け加えるなら、社会的多数者もです。

そして、今問題とすべきは権威です。あらゆる権威が、批判に晒されなければなりません。とりわけ、批判が大切なのは、権力と癒着する恐れある権威です。そのような権威が今われわれの眼前にあって、それに対する批判が極めて弱い。表現の自由の危うさを危惧せざるを得ません。

表現の自由とは、多様に根拠付けすることができるかと思いますが、究極のところ、権力と権威の批判の手段として有用であり必要なのです。すべての権力は血塗られた実力で獲得されますが、これを維持するためには権威の調達が必要となります。宗教的権威であったり、文化的権威であったり、神話であったり、いずれウソとゴマカシで練り上げられた権威。

戦前、天皇は権力と権威を兼ねていました。荒唐無稽な神話に基づく国家神道が、天皇を神とし教祖ともしたのです。その天皇の宗教的権威が、天皇の統治権の総覧者としての権力を支えていました。

日本国憲法は、天皇から権力を剥奪しましたが、象徴天皇というかたちで、天皇制自体は残存し、その権威の払拭は不徹底のまま現在に至っています。日本国憲法の政教分離は、天皇を再び神とすることを阻止するための歯止めですが、これさえ十分には働いていません。しかも、天皇の権威とは、必ずしも宗教的権威にとどまらない、文化的、社会心理学的なものがあると考えざるをえません。

一連の天皇代替わり儀式において、国民主権原理違反、政教分離原則違反が明らかになりつつありますが、これは象徴天皇制そのものが内在的にもつ矛盾であり、「権力と癒着する権威」という天皇制の本質の表れというほかはありません。

権力と権威に対する仮借ない批判の言論が今こそ必要な時期だと思います。「ちきゅう座」が、そのような立場で大きな役割を果たされるよう期待の言葉を述べて、「当たり障りのないご挨拶」といたします。
(2019年5月25日)

今通常国会の衆院・憲法審査会(木)予定日はあと4回

両院の憲法審査会は、「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する機関」とされている。国会による憲法改正案の発議に先だって、各院で憲法改案を実質審議するのが憲法審査会の役割。

その衆議院の憲法審査会は毎週木曜日が開催予定の日程となっている。しかし、最近はこの審査会が開かれることは希となっている。今通常国会(1月28日?6月26日)において、これまで開催されたのは3回のみ。しかも、実質審議はたった1回だけ。昨日(5月23日・木曜日)の開催も見送られた。

その結果、会期末の6月26日(水)まで、木曜日はあと4日を残すのみ。これを乗り切れば、さあ、日本国憲法の命運を決める2019年参院選となる。改憲派議席を3分の2以下に減らすことで、日本国憲法は生き延びる。いや、「生き延びる」は不正確だ。憲法を大切に思う自覚的な国民が、右派の策動から日本国憲法を守り抜き、さらに深く自らの血肉とするのだ。

積極改憲派にとっては、明らかに憂うべき事態。この間の事情を産経は、こう伝えている。
「与野党は22日、衆院憲法審査会の幹事懇談会を断続的に開き、継続審議になっている国民投票法改正案の取り扱いについて21日に続いて協議した。与党側は質疑、採決を23日に行う日程を重ねて提案したが、立憲民主党など主要野党が反対し、23日は憲法審の開催自体が見送られた。
 28日に改めて幹事懇を開くが、改憲議論を阻止したい立民は審議拒否の姿勢を変えない見通しで、採決のめどは立っていない。」

本日の読売社説は、こうなっている。
「憲法審査会 駆け引き排して役割を果たせ
 今国会でも憲法に関する議論を見送るのか。事態打開に向けて与野党は真摯しんしに協議すべきだ。
 衆院憲法審査会ではこの1年半の間、憲法論議が行われていない。継続審議となっている国民投票法改正案の処理を巡り、与野党が対立する。」
 「自民党は、自衛隊の根拠規定の明記や、緊急事態条項の創設など4項目からなる案をまとめている。野党は党内論議を急ぎ、この案に対する賛否や、自らの考え方を示さねばならない。」

要するに、産経も読売も焦っているのだ。今が改憲派にとっては、千載一遇のチャンス。何しろ、憲法変えたくてしょうがない右翼・好戦派の安倍晋三が首相の地位にある。しかも、衆参両院とも、改憲派が3分の2を上回る議席を確保しているではないか。滅多にないこのチャンスを生かし切れずにウカウカ過ごすと、選挙に負けてこの千載一遇のチャンスが潰えてしまう。そうなっては、半永久的に改憲のチャンスはめぐってこない…かも知れない。

憲法審査会の審議が進行しないのは、結構なことだ。これを批判する世論などない。国民の大多数が明文改憲の必要など感じていないからだ。国政における喫緊の課題はいくらでもある。あらゆる世論調査が、性急な改憲を望んではいない。とりわけ、安倍晋三が首相在任中の改憲には反対」が圧倒的多数なのだ。

本日(5月24日)の読売社説は、悔しそうに、「(憲法審査会の審議が進行しなくなったのは)立民党が誕生した17年の秋以降だ。安倍政権下での憲法改正には反対するという一部野党の方針が影響していよう。」という。

憲法改正は、もちろん公権力を有する政府の任務ではない。主権者国民の権限に属するものである。その中間にある議員にとっても、積極的な義務ではない。主権者国民の憲法改正の要求が澎湃と巻きおこったときに、議員がこれを感得して議論をすればよいだけのこと。

いま、国民から議会・議員への憲法改正の要求はない。アベ改憲反対」こそが国民の声ではないか。今通常国会での憲法審査会開催なしには、十分な合理的理由があるというべきなのだ。
(2019年5月24日)

丸山穂高と斎藤隆夫。泉南と但馬、その有権者が問われている。

一躍勇名を馳せて《超有名政治家》となった維新公認当選の丸山穂高。なかなかユニークなお人のようだ。

北方領土返還実現のためには戦争が必要で、「戦争なんて言葉を使いたくない」などと生温いことを言っているようでは、「でも(そんなことでは)取り返せないですよね」「戦争をしないとどうしようもなくないですか」と言ってのけた。酔余の妄言か、幼児性の発露か、はたまた戦争賛美の確信に基づいた素面の発言か。いずれにしても、この上なく危険で、国会議員としてふさわしくない。

それだけではない。昨日(5月22日)には、丸山議員 ロシア女性紹介しろ」「大声で卑猥な言葉繰り返す(北海道新聞)と見出しを打たれる醜態も明らかとなっている。

ビザなし交流訪問団の一員として訪れた国後島で、戦争による北方領土の奪回に言及し、日本維新の会を除名された丸山穂高衆院議員(大阪19区)が、同島の宿泊施設「友好の家」に滞在中、団員に対し「ロシア人女性の店に行こう」という趣旨の発言をし、単独行動が認められていないにもかかわらず何度も外出しようとして政府関係者らに止められていたことが22日、分かった。」

「丸山氏は11日夜、友好の家の食堂で団員10人程度が懇談していた際、大声で卑猥な言葉を数回繰り返した。その後、丸山氏は食堂の端で同行記者2人の取材を受けていた大塚小彌太団長(90)に対し、『戦争でこの島を取り返すのは賛成か反対か』と語りかけた。」

週刊文春報道での丸山の言動は、さらにえげつない。
「丸山氏は“戦争暴言”の後、『俺は女を買いたいんだ』と禁じられている外出を試み、事務局スタッフや政府関係者ともみ合いになったという。売買春は日露両国で共に違法行為である。」

丸山穂高、その行為や恐るべし。もしかしたら、単なる常習泥酔者の「うっかり本音」なのかも知れないが、それならなおのこと、こんな人物が議員となっている現実が恐ろしい。

丸山穂高は、大阪19区選出の35歳だという。大阪19区とは、貝塚市・泉佐野市・泉南市・阪南市・熊取町・田尻町・岬町の、泉南地域4市3町。今や、泉南の恥である。こんな人物を当選させたことを地元有権者は真剣に反省しなければならない。もっとも、丸山だけではなく、維新の幹部・議員や候補者には問題人物山積である。維新の責任重にして、かつ大なるは、指摘するまでもない。

想起するのは、よく似ているようで真反対の事例。「反軍演説」で帝国議会を除名になった立憲民政党の斎藤隆夫のこと。1940年2月2日、帝国議会衆議院本会議において彼が行った演説は、日中戦争に対する根本的な疑問提起と、軍部批判を内容とする「反軍演説」として知られる。彼は、聖戦を冒涜したとして、同年3月7日の本会議決議によって議員除名となる。除名決議の票決内容は、賛成296、棄権121で、反対はわずか7票であったという。

しかし、彼の選挙区である兵庫県5区(但馬選挙区)の有権者は、反軍演説で除名の斎藤隆夫を誇りとした。次の1942年の翼賛選挙に斎藤は非推薦で立候補してダントツのトップ当選(当時は中選挙区・定員4名)を果たしている。当局や右翼の妨害をはねのけてのこと。

いま、有権者の質が問われている。丸山穂高を議会に送ったのも、斎藤隆夫を再び議員に押し上げたのも、地元選挙区の有権者である。泉南と但馬、いま国民の目は、雲泥の差ありとして両地域を見ている。
(2019年5月23日)

皆の衆、天皇制という妖怪を主権者の通力で押さえ込もうではないか。

元号が変更になって、3週間が経過した。まったく慣れない。馴染めない。新元号での文書に接すると、心穏やかでなくなる。やがて、動悸が激しくなる。血圧が上がる。呼吸が窮迫する。頭が痛くなる。発疹が出そうだ。

これは、明らかに「令和アレルギー」「令和不適応症候群」である。花粉症の人が、この世に杉の木あることを呪う気持ちがよく分かる。元号よ、この世から消えよ。天皇制とともに、飛んで行ってしまえー。

人権や民主主義を大切にすると看板を掲げている弁護士までが、無神経に元号を使って書面を書いていることが腹ただしい。もっとも、裁判所は不効率極まりない元号の世界。天皇への服属を当然としている不見識。自分の書く書面からはすべて元号を駆逐し得ても、裁判所は無神経に元号を押し通す。何とかならないか。

皆の衆、これを機に元号を駆逐しようではないか。

時も時。春の叙勲である。勲章だの褒賞だの、上から目線でくれてやろうというその姿勢に腹が立たないか。あんな物を、ありがたく頂戴しようという臣民根性を目にすると腹が立つ。不愉快極まる。眩暈をもよおす。これは、明らかに「勲章アレルギー」「褒賞不適応症候群」である。

皆の衆よ、これを機会に、勲章など駆逐しようではないか。

で、折も折、亀卜によって主基田(すきでん)と悠紀田(ゆきでん)が選定された。これが、新天皇を神とする怪しげな儀式、大嘗祭の準備なのだ。そのバカバカしさに腹が立つ。腹が立つだけではない。手足が震える。目も霞む。これは、明らかに「大嘗祭アレルギー」「政教分離違反不適応症候群」である。

皆の衆、これを機会に、大嘗祭をこの世から駆逐しようではないか。

私の「アレルギー」「不適応症候群」の元兇は、明らかに天皇制だ。国民主権に敵対し、差別の根源となっている天皇制。それが、この日本を大手を振って徘徊している。

嗚呼、醜悪なる妖怪が日本国をわがもの顔に徘徊している。象徴天皇制という妖怪が…。敗戦当時気息奄々だったはずのこの妖怪、今また代替わりで、息を吹き返しているごとくである。この妖怪が撒き散らす、毒気と妖気と臭気がアレルゲンとなって、「アレルギー」「不適応症候群」を引き起こしている。

皆の衆や、皆の衆。これを機に、天皇制という妖怪を主権者の力で、押さえ込もうではないか。でないと、民主主義や人権の、被侵害症状はますます増悪して、重篤化するばかり。
(2019年5月22日)

「5・18光州民主化運動39周年記念式典」での文在寅大統領演説

5月18日、私は小雨ふる光州にいた。1980年5月の光州は夏の暑さだったと聞かされたが、あの事件以後、光州の5月18日には雨がふさわしい。国立5・18民主墓地での「5・18光州民主化運動39周年記念式典」に参加して、文在寅大統領のかなり長い演説を聴いた。有能な通訳のおかげでほぼ内容は把握でき、立派なものだと感心した。

通訳を通じての言葉として印象に残ったのは、「光州の5月はけっして悲劇の5月に終わらせない。これからは希望の5月にしよう」という呼びかけだった。

ハンギョレ新聞によると、「大統領の演説は、メッセージ自体よりも、演説途中に20秒間近く続いた“言葉の空白”が話題になった」とされている。その沈黙は、「人権弁護士であると同時に民主化運動家として、光州に対して持ち続けた負債意識の表れであり、国政責任者として光州が再び侮辱される状況を目にしなければならない惨憺たる思いの表現だ」という。

「負債意識」とは、こなれない日本語だが、「負い目」「疚しさ」「呵責」ということなのだろう。ともに闘うべくして闘わず、友人を見殺しにしてしまった、という後ろめたさ。文在寅は、自分の立場が、常に民主主義や自由のために闘った人々の側にあるということを明確にしている。そして、野蛮な暴力と虐殺とで民主主義や自由を蹂躙した公権力の非道を、今や全国民を代表して謝罪しているのだ。

ハンギョレ紙は、こう続けている。
「沈黙の末に再開された記念演説は『1980年、光州が血を流して死んで行く時に、光州と共に(行動)できず、その時代を共に生きた市民の一人として、本当に申し訳なく思っている。公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に、大統領として国民を代表し、もう一度深くお詫び申し上げる』という、より具体的な謝罪につながった。」

この演説の日本語訳をネットで探してようやく見つけた。青瓦台から配布されたテキストを、ソウル在住のジャーナリスト・徐台教氏が翻訳したもの。以下は、飽くまでも私流の、抜粋・要約である。

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「5.18民主化運動 39周年記念式典式辞」

尊敬する国民の皆さま、光州市民と全羅南道道民の皆さま。今年もまた五月がやってきました。悲しみが勇気として咲きほこる五月です。

決して忘れることができない五月の民主の英霊たちを悼むとともに、厳しい歳月を生き抜いてこられた負傷者と遺家族の皆様の御苦労に心からのお見舞いを申し上げます。

来年は5.18民主化運動40周年になります。そのため、大統領がその時に記念式に参加する方がよいという意見がありました。しかし、私は今年の記念式に必ず参加したかったのです。光州の市民たちに対する、あまりに申し訳なく恥ずかしいという私の思いを、皆さまに訴えたかったのです。

80年5月、光州が血を流し死んでいくその時を私は光州と共にすることができませんでした。そのことが、その時代を生きた市民の一人として、本当に申し訳ない気持でいっぱいなのです。…… あの時、公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に対し、大統領として国民を代表する立場で、もう一度深く謝罪いたします。

今も5.18民主化運動を否定し侮辱する妄言が、はばかりなく大きな声で叫ばれている現実を、国民の一人としてあまりにも恥ずかしく思います。個人的には、憲法前文に5.18精神を書き込むとした約束を今日までに果たすことができていないことをお詫びいたします。

国民の皆さま、1980年5月、私たちは光州を見ていました。民主主義を叫ぶ光州を見、徹底して孤立した光州を見、孤独に死んでいく光州を見ました。全南道庁を死守した市民軍の最後の悲鳴と共に光州の五月は私たちに深い負い目を残しました。五月の光州と共に行動できなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました。そうして私たちは光州の痛みを共に経験しました。

その負い目と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな恩恵を受けました。大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験した者であれば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきた者ならば、誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。

光州が守ろうとした価値こそがまさに「自由」であり「民主主義」でした。独裁者の後裔でない限り、5.18を別の目で見ることはできません。「光州事態」と侮蔑的に呼ばれた5.18が、「光州民主化運動」として公式に呼称されるようになったのは1988年の盧泰愚政府の時でした。金泳三政府は1995年、特別法により5.18を「光州民主化運動」と規定し、ついに1997年に5.18を「国家記念日」に制定しました。大法院もやはり新軍部の12.12クーデターから5.18民主化運動に対する鎮圧過程を、軍事反乱と内乱罪と判決し、光州虐殺の主犯を司法的に断罪しました。

国民の皆さま、こうして私たちはすでに20年も前に光州5.18の歴史的意味と性格について国民的な合意を成し遂げ、法律的な整理まで終えました。もうこの問題についてこれ以上の議論は必要ではありません。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです。
そうしてこそ私たちはより良い大韓民国に向けて互いに競争しながらも統合する社会に近づいていけるでしょう。

しかし、虐殺の責任者、秘密埋葬と性暴力の問題、ヘリからの射撃など明かすべき真実は依然として多くあり、この真実を明らかにすることが今、私たちに求められています。そのようにして、光州が担った重い歴史の荷を下ろし、悲劇の五月を希望の五月に変えていきましょう。

私たちは五月が守った民主主義の土台の上で共に歩んで行かなければなりません。光州に受けた恩義を大韓民国の発展で返さなければなりません。

わが政府は国防部独自の5.18特別調査委員会の活動を通じ戒厳軍によるヘリ射撃と性暴力、性的暴行、性拷問など女性の人権への侵害行為を確認し、国防部長官が公式に謝罪しました。政府は特別法による真相調査究明委員会が発足すればその役割を果たせるように全ての資料を提供し、積極的に支援することを約束します。

光州市民と全羅南道の皆さん、5.18民主化運動39周年の今日、光州は平穏な人生と平穏な幸福を夢見ています。

その年に生まれて39回の五月を過ごした光州の子どもたちは中年の大人になりました。結婚もしたでしょうし、親になってもいるでしょう。真実が常識になる世の中で光州の子どもたちが共に良く暮らすことを私は心から望みます。

民主主義を守った光州は今や経済民主主義と共生を導く都市になりました。労使政それぞれが譲歩し分け合うことで社会的な大妥協を成し遂げ「光州型雇用」という名前で社会統合型の雇用を作り出しました。すべての地方自治体が、第2、第3の「光州型雇用」を模索しています。

五月はこれ以上、怒りと悲しみの五月になってはいけません。私たちの五月は希望の始まり、統合の土台にならなければなりません。

光州が担った歴史の荷はあまりにも重いものでした。その年の五月、光州を見て経験した国民が共に担うべき荷です。

光州により蒔かれた民主主義の種を共に育て大きくしていく事は、全国民の幸せにつながるものとなるでしょう。私たちの五月が毎年かがやき、すべての国民に未来に進む力となることを望みます。

ありがとうございました。

(2019年5月21日澤藤記)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」最終日 帰国へ

本日はツアー最終日。午前中は釜山の街を見学する観光客となった。まずは港町を一望する竜頭山公園に。

公園の広場に、巨大な李舜臣将軍像が建てられている。将軍が見はるかす先に、影島(ユンド)という島がある。ここが、豊臣政権軍先鋒の朝鮮侵略上陸地なのだという。

小西行長の軍勢が朝鮮に奇襲を掛けたとき、侵略者側は長い戦国時代を経て戦争の技術を磨き抜いた血生臭い武装集団。対する被侵略側は、李朝200年の平和を満喫していた文化国家であった。

1592年5月24日(旧暦4月13日)、早朝6時小西行長麾下の宗義智は影島から釜山の城壁に攻め寄せた。迎え撃った、朝鮮側の将軍は鄭撥。味方の軍船を自ら沈め、兵民とともに城に籠った。

いくさ経験豊富な日本兵は朝鮮側の防衛を圧倒し、鄭撥は果敢に反撃したが被弾して戦死。翌25日午前8時頃には城が落ちたという。

この戦いに参加していた吉野甚五左衛門の従軍記『吉野日記』には、朝鮮側の軍民はほとんど全て撫で斬り、隠れていた兵士も探し出し、ひれ伏した兵士も踏み殺し、「女男も犬猫もみなきりすて、きりくびは3萬ほど」と書かれており、吉野自身が「今思えば武士とは『鬼おそろしや』」と回想しているという。これが、近世における日本と朝鮮の原風景とも言うべき場面。

悪夢は300年の後に繰り返される。1894年日清戦争開戦直前の日本軍による朝鮮宮廷占領、そして95年終戦後の皇后暗殺。その後の植民地化と創氏改名、さらに日本のアジア太平洋戦争への加担の強制…。

本日最後の訪問先は、日本領事館裏の「少女像」。そして、その近くに、新設された徴用工像。朝鮮民族の日本に対する「恨」の思いを受けとめねばならないとする一日。14時発の日航機で帰途に。

5日の旅を終えて、すこしだけでも見聞は拡がった。これまでの韓国への旅では、毎回韓国に好意を積み重ねてきた。今回もそうなった。

私は、かつて中国には何度も足を運んだ。しかし、その都度、中国への好感度は薄れていったと言わざるをえない。中国旅行は漢字の世界、漢字なら読めるし、私はほんの少しだが中国語も分からないではない。それに較べて、まったく読めないハングルの世界は、勝手が違って戸惑うばかり。それでも、韓国の町と人々が作り出している雰囲気は好もしい。

中国の物質的繁栄のテンポの凄まじさには驚嘆するが、最近は韓国の方により強い親しみを感じる。韓国の民主化運動の成果には脱帽して敬意を表するしかない。中国にはそれがないのだ。

今回の旅は、「日本との関係での韓国の歴史」と「現代韓国の民主主義を学ぶ」ものだった。これは、日本の民主主義運動に携わる者にとっての、必須のテーマであるように思う。恐ろしく、多くのことを見聞したように思う。これから、整理をしなければならない。

(2019年5月20日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」4日目 ? 順天で自然と文化を満喫

本日(5月19日)は、気持が楽だ。陸路、南部の海辺に広がる広大な干潟で有名な順天へ。「順天湾自然生態公園」で干潟の自然を満喫し、その後「楽安邑城民族村」と古寺を見学の予定。その後、再び長駆釜山へ戻って、釜山市内に。2度目になるが、江戸期の日本との交流を伝える 「朝鮮通信使博物館」を見学する。

ところで、順天楽安邑城(スンチョンナガヌプソン)」とは、李王朝時代の城と村落、市場などが原形そのままに保存された史跡だという。
 朝鮮太祖6年(1397年)に倭寇の侵入を受けるや、この地出身の襄惠公金贇吉(キム・ビンギル)将軍が土城を築き、その300年後の仁祖4年(1626年)に忠愍公 林慶業(イム・ギョンオプ)将軍が楽安郡守として赴任し、現在の石城を築いた。他の地域の城郭と異なり、広い平野地帯に1?2メートルの大きさの正方形の石を利用して高さ4メートル、幅3?4メートル、全長1,410メートル、東内、南内、西内など135,537平方メートルに及ぶ3つの村を囲み、400年以上経つ現在も途切れるところなく原形そのままに残されている。今も85世帯がこの中で生活しており、民俗学術資料としてはもちろん、歴史教育の場としても価値が認められている。

ここでも「倭寇」だ。朝鮮と倭とは、切っても切れない宿命の歴史をもっている。

なお、今回の旅も、吉田博徳さんからのお誘いを受けてのもの。2名一室での同宿相手が吉田さん。吉田さんは、先年まで日朝協会都連会長の任にあった人。韓国訪問は、50数回にも及ぶという。韓国語も達者だ。こんな便利な同宿者はほかにない。

吉田さんは、1921年6月23日生まれで、現在97才。もうすぐ98才になる。が、年齢を感じさせないその矍鑠ぶりは人間離れしている。身体も達者だし、好奇心が旺盛。4泊5日の同宿で、長寿と健康の秘密を教えていただきたいところだが、「そんなものは何もない」とおっしゃる。いや、何もないはずはない。この機会に探り当てたいものと思う。
(2019年5月19日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」3日目 ? 光州事件の日に光州に

本日(5月18日)がこの旅のメインの日。「韓国の歴史」ではなく、「現代韓国の民主主義を学ぶ」日。午前中に、事件の舞台となった光州事件ゆかりの地を見学して、政府主催の「光州民主化運動記念集会」に参加。午後には、「光州事件と韓国民主主義への影響」という、現地の講師(金龍哲氏)の3時間を予定したレクチャーを受ける。

1980年5月18日からのこの事件は、当初「光州暴動」と一方的に呼ばれた。その後立場によって、「光州事態」「光州事件」「光州抗爭」「光州民衆抗爭」「光州義擧」などと呼称されたが、1988年以降、「光州民主化運動」として定着したという。

光州事件とは何であるか。韓国の民主化にどのようにつながっているのか。文在寅大統領のドイツ紙(フランクフルター・アルゲマイネ)への寄稿の抜粋から推し量っていただきたい。ぜひ格調の高いこの全文をお読みいただきたい。日本の隣国には、これだけの見識をもつリーダーがいるのだ。

https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190505000700882

1 光州

 韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。

 1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。

 ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。

 光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。

 二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。

 残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。

 孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。

?2 ろうそく革命、再び光州

 私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。

 2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。

 ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。

 今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。

 平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。

 韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で

行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。(以下略)

民主主義とは、安閑として与えられるものではない。闘い取るべきものなのだ。韓国の民主化運動は、そう教えているようだ。

(2019年5月18日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」2日目 ー 東学農民戦争の跡地を訪ねる

本日は、全羅南道の羅州市を訪れ、東学農民戦争の跡地を訪ね、光州で宿泊する。
東学農民戦争とは、高校時代の歴史の授業では、「東学党の乱」として教えられた。「東学党」とは「西学に対抗する民衆の新興宗教組織」で、「乱」とは腐敗した李氏朝鮮に対する叛乱。大規模な、この民衆叛乱乱の鎮圧の過程で日清戦争が起き、これに勝利した日本が朝鮮を植民地化する。こんなところが、私だけではなく、日本人の多くの認識水準だったのではないか。

この農民の蜂起は、いま韓国では「甲午農民戦争」とも、「東学農民革命」とも呼ばれているという。「戦争」という規模であり、「革命」という理念をもった行動であったという評価なのだ。そして、この蜂起は近代化した日本軍の残虐な大虐殺によって鎮圧される。このときの韓国民衆の怨念が、今なお、対日感情の底流をなしている。この点については、中塚明さん(奈良女子大名誉教授)のいくつもの著書で、多少なりとも蒙を啓くことになった。

以下は、ウィキペディアからの抜粋である。
 儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。また、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。

東学には、不殺生の教えが徹底していたという。戦場でなお、彼らは殺生を避けようとした。これに対する日本軍の殺戮は、仮借のないものだった。本日は、その故地を訪ねることになる。

なお、2019年の「3・1独立運動」に、東学を再興し名称を変更した「天道教」が深く関わっていることはよく知られている。現在なお、南北の朝鮮に多数の信者を有して、一勢力をなしているという。

昨日(5月16日)は、近世日本における秀吉軍の朝鮮侵略。本日(5月17日)は、近代天皇制日本による朝鮮民衆に対する大虐殺。歴史の探訪も気が重い。
(2019年5月17日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」に出発

私は、本日(5月16日・木)から5月20日(月)まで、5日間の日程で韓国を旅している。だから、このブログの原稿は予定記事の予約アップということになる。ご了解いただきたい。

私の韓国旅行は4回目。いずれも明確なテーマをもったものだ。
最初が、日民協の企画で韓国の憲法裁判所訪問だった。韓国の司法制度見学というよりは、日本軍「慰安婦」問題での憲法裁判所の判決に関心をもってのこと。これが、衝撃的だった。「日本は韓国に後れを取っている」という印象を強くもった。2度目はチェジュ島の「4・3事件」関連、3度目はソウルを中心に「3・1独立運動」。そして、今回は「5・18光州事件」である。併せて、東学農民戦争の故地を訪ねてこれについても学ぶ旅でもある。

この旅は、ユーラスツアーズが企画した。「東学農民戦争の跡地・光州事件ゆかりの地をめぐる ― 韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」と銘打っての企画。その「魅力とポイント」がこう語られている。

1 光州事件5/18に現地を訪問。映画「タクシー運転手」や光州事件ゆかりの地に
2 現地の専門家、金龍哲先生による「光州事件と韓国の民主主義への影響」についてレクチャー
3 李舜臣将軍の奮闘を偲び、「亀甲船」を見学
4 大規模な反乱のあった羅州で東学農民戦争のゆかりの地をめぐる
5 順天で有名な干潟「順天湾自然生態公園」の見学や釜山で朝鮮通信使の博物館の見学も

訪問先に、ソウル周辺はない。麗水・木浦・羅州・光州・順天・釜山などを訪問する。泊地は木浦・光州(2泊)・釜山である。飽くまで、「5月18日・光州」がメインテーマ。

さて、本日は、釜山空港からバスで長駆麗水まで移動して、その後木浦泊となる。
麗水には、「李舜臣広場」があって、李舜臣が豊臣侵略軍と闘った亀甲船の実物大復元船が展示されているという。これが本日の目玉だ。

第五福竜丸の船体を眼前にしながら、その被爆の実情に思いをめぐらせるごとく、復元船ではあっても、彼の地で亀甲船を目の前にしての説明には、趣き深いものがあるだろう。

日本は何度も朝鮮を侵略した歴史をもつ。「神功皇后の三韓征伐説話」「白村江の戦い」「豊臣政権の侵略」「江華島事件を契機とする近代天皇制政府の植民地政策」。侵略者の走狗となった人物はこれ以上はない侮蔑の対象となり、侵略者と果敢に闘った人物は、民族の英雄となる。

秀吉の侵略軍に対して、水軍を率いて戦い勝利した李舜臣は、憎むべき野蛮な敵国の毒牙から危機に瀕した国を救った「救国の英雄」である。韓国のあちこちで、その像を見ることができる。これに比すべき人物を、日本の歴史で探そうとしてもない。同様のシチュエーションが日本には乏しいからだ。侵略する側のヒーロー像はイメージしにくい。

本日は、侵略される側からの民族の記憶を、その悲劇や説話や知恵や勇気や団結のエピソードの数々に耳を傾けることにしよう。
(2019年5月16日)

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