澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

解散しようかな。それとも解散よそうかな。

こんなはずではなかったんだ。あ?あ、アタマが痛い。

どうせこの先、国民の信頼に応えて人気の出るようなことが出来るはずはない。私にそんな知恵はない。アベノミクスもメッキがはがれてきた。どうせジリ貧なんだから、選挙は早い方がいいに決まっている。でも、このまま選挙に突っ込んでも、ホントに勝てるか自信はない。

有利なタイミングを選んで解散権を行使できるのが私の強み。「国民に大きな負担をかけるだけの、大義のない解散はありえない」なんて意見もあるようだが、そんなバカげた妄言に耳を傾けるほど、私も甘くはない。

大義にこだわってタイミングを失すれば選挙は惨敗だ。大義があろうとなかろうと、選挙は勝つことだけが重要だ。解散の大義なんて取り巻き連中にひねり出させればよいだけのこと。私だって、そのくらいのことは分かっている。

太平洋戦争が絶望的な局面になっても、昭和天皇はもう一度戦果を挙げてからでないと」とおっしゃった。国民がどんどん死んでいくあの時に、国体護持という大目標のために、きちんとこう言えるのだから、さすがにご立派な態度。私も真似をしなくてはと思う。「もう一度の戦果」を挙げてから解散して、総選挙に打って出なければならない。

「もう一度の戦果」は、内政ではボロばっかりだから、外交で点を稼ぐしかない。「さすが、外交のアベ」と国民を唸らせる成果が欲しい。それなくしては、解散もできない。憲法改正だってできないことになる。

「外交のアベ」のもくろみは、二つあった。一つは、北朝鮮との交渉による拉致事件の解決。もう一つは、ロシアとの平和条約を締結して、北方領土問題に道筋を付けること。どちらも、できたら素晴らしいのだが、できそうでできない。だんだんと、その難しさが国民の目に分かるようになってきた。だから、アタマが痛い。

前回の解散は一昨年(2017年)の9月、10月22日に総選挙だった。国難突破解散」なんちゃって。北朝鮮の危機を煽りに煽って、そこそこ勝たせてもらった。今思い返すと、あんなに大袈裟に危機を煽って噴飯物だが、あのときは本当に北朝鮮様々だった。金正恩には足を向けて寝られないと思った。拉致問題なんて、アタマの片隅にもなかったが、今度はそうは行かないから難しい。

しょうがないから、今度は拉致問題で成果を出さなきゃならない。これまでは、戦略も戦術もなく、やみくもに制裁強化だ、圧力だと言って済ませてきた。しかし、現実に成果を出さなきゃならないとなると、これまでの無為無策が足枷になる。まあ、考えてみればあたりまえのことだがね。

で、しょうがない。みっともないけど、方針を変えた。「前提条件なしに、私自身が金正恩との会談を目指す」とね。自分でも、すこし態度が大きいかなとは思ったが、北朝鮮側の反応は予想以上に、嵩にかかったものとなった。厚かましい」と言うんだ。厚かましい」だよ。こう言われて、どうすりゃいいんだ。こりゃ、お手上げだ。あわよくば参院選との「同日選」とも思っていたが、とても間に合いそうもない。

6月28、29日に大阪で開かれるG20サミットではプーチンとの首脳会談が予定されている。これで、北方領土問題での起死回生のホームランが出なければ、「もう一度の戦果」はゼロだ。ずるずると、無条件降伏まで行ってしまった、1945年悪夢の再来ではないか。

ところが、これがまた難しくなった。プーチンが、「日露平和条約の締結問題について、『ロシアは条約締結を望んでいるが、日本と米国の軍事協力が締結を難しくしている』との認識を改めて示した」「沖縄の米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題を念頭に『地元住民や知事が反対しているのに建設が進んでいる』と指摘。日本の他の地域でも米軍施設が建設され、ロシアの安全保障に影響する恐れがあるとの懸念を示した」「難しいプロセスだ。すぐには解決できない」と言うんだ。何を今さら、とは思うけど、本当のことだから、反論できない。いや、困った。

結局、こういうことなんだろうな。

北方の4島でも、あるいは2島でも、日本に返還したとする。すると、直ちにアメリカの軍事基地が置かれることににもなりかねない。そういう懸念を払拭できない、と言うんだな。沖縄を見ろ、地元があんなに反対していても、辺野古の基地建設は、有無を言わせず強行されているではないか。日米安保条約は、全土基地方式と言うじゃない。「日米の軍事協力」が、北方領土問題解決のネックなんだ。沖縄で基地建設を強行したことが裏目に出てるんだ。

どうすればいいのだろう。いっちょう、戦争でもやってみるか」なんてことは、維新の議員じゃあるまいし、口にできっこない。韓国とも、中国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、外交みんなダメじゃん。化けの皮が剥がれつつあるのが、一番こたえる。

破れかぶれで、実はもう一つの試みがある。トランプの使いっ走りになって、イランへ行くっていうあれ。あんまり、大きなイベントではないけど、「外交みんなダメじゃん」の中で、一つくらいは成功させたい。トランプもイランも困り切っているようだから、もしかしたら、瓢箪から駒が出て来るかも知れない。そうすれば、大義があうがなかろうが、解散できるかも。いや、無理かな。

解散風、一度は吹かせてみたけれど、やっぱりダメかな。でも、この先、どうせジリ貧なんだから、やった方がいいのかな。グルグルと空回りするばかり。
あ?あ、アタマが痛い。
(2019年6月7日)

どうして? いつのまに、日本が民主主義後進国に?

デモとストとは、民主主義社会の健全性をはかるバロメータである。デモは政治的言論の自由を象徴し、ストライキは経済的要求活動の活性度を表す。デモもなくストもない社会は、抑圧された社会であるか、 活力を失って零落しつつある社会でしかない。当然に、民主主義後進国ということにもなる。どうも、日本がそれに当たるようなのだ。

ドナルド・トランプという粗野で我が儘な人物がいる。「人種差別主義者で戦争屋で女性蔑視者で環境破壊者」なのだ。アメリカの民主主義は、こんな人物に権力を預けた。それゆえトランプは、粗野で我が儘だけでなく、最も危険な人物となった。

この男が今年(2019年)の5月25日から28日まで日本にやって来たとき、政権と皇室と相撲協会とゴルフ場と炉端焼きが、それぞれの思惑をもって最大限のオモテナシをした。これは、粗野で我が儘で危険な人物への対応としてあるまじき、明らかに異常な事態。一方、トランプの訪日に抗議する真っ当な民衆のデモは、まことに小規模なものでしかなかった。残念ながら、日本の社会が抑圧されて活力を失っていることを如実に示す結果となった。

そのトランプが、6月3日から訪欧し、まずは4日イギリス・ロンドンで市民運動の大規模なデモに迎えられた。ロンドン発時事によれば、「トランプ米大統領の国賓訪英に反対する大規模デモが4日、ロンドンで行われた。米英首脳会談に合わせたもので、全国各地から推定で約25万人が参加。『共にトランプに対抗しよう』をスローガンに、人種差別的とされるトランプ氏の政策に抗議の意を示した。デモは反戦・女性団体、環境保護団体など複数の市民グループが共同で主催。市中心部のトラファルガー広場から、会談会場の首相官邸に近い議会議事堂前広場に向け、参加者らは『人種差別にノー』『トランプ(の政策)を捨てよう』などと書かれたプラカードを掲げて練り歩いた。野党労働党のコービン党首も参加し、集会で『(デモは)トランプ氏に攻撃を受けた人々を支援する機会だ』と演説した。
議事堂前広場には抗議の一環として、トランプ氏をおむつ姿の赤ちゃんに見立てた巨大風船『トランプベビー』が掲げられた。ロイター通信によると、企画した一人は『大統領に対し、いかにこの国で歓迎されていないか想起させたい』とコメント。デモは、バーミンガムやグラスゴーなど国内各地でも企画された。」

イギリス社会は、おむつ姿の巨大風船『トランプベビー』を掲げることによって、その知性も理性も、そして活力も失っていないことを世界に示したのだ。

ところで、日本での反トランプのデモは極めて小さい規模のものだったが、新天皇の就位をめぐっての提灯行列は大規模に行われた。シンガポール陥落を祝っての昔の話ではなく、21世紀の今の実話。けっして作り話ではない。

「愛知県を訪れている天皇皇后両陛下は1日夜、名古屋市内の宿泊先のホテルで、ちょうちんを手に集まった大勢の住民の歓迎にこたえられました。
両陛下は全国植樹祭に出席するため、1日から2日間の日程で愛知県を訪問していて、… そして1日夜、名古屋市内の宿泊先のホテルの前にある公園には、大勢の人たちがちょうちんを手に集まり、両陛下も午後8時半すぎ、ホテルの17階にある明かりが消えた部屋の窓辺にちょうちんを持って立たれました。
住民たちがちょうちんを振ったり万歳三唱をしたりして歓迎の気持ちをあらわすと、両陛下は、上下左右にちょうちんを振ってこたえられました。最後に部屋の明かりがついて両陛下の姿が見えると住民から歓声があがり、両陛下は、何度も手を振ってこたえられていました。」(NHK)

いうまでもなく、「提灯を持つ」とは、頼まれもしないのに進んで他人の手先として働くこと。あるいは、へつらってその人をひたすら褒めて宣伝することをいう。引用したNHKの報道を「提灯記事」というのだ。戦前の国家主義教育を受けて滅私奉公を叩き込まれた臣民は、こぞって天皇に提灯を持ち、群をなして提灯を掲げた。嗚呼、日本国憲法下の今にしてなお、その臣民根性が抜けやらぬのだ。

提灯から、火袋を外すと、ろうそくとなる。韓国の民主化運動では大規模なろうそくデモが繰り返された。朴槿恵政権を退陣に追い込んだのは、光化門広場を埋めつくし溢れ出た100万を遙かに超す人々のろうそくデモだった。提灯行列と、ろうそくデモ。ちょっと似ているが、まるっきり違う。権威や権力に操られた人々のへつらいと、主権者としての自覚に基づく権力打倒の政治行動。

こんなはずはなかった。戦後の日本は、思想・良心の自由も、表現の自由も、民主主義も手にしたはずではないか。食糧メーデーも、血のメーデーも、安保闘争も、スト権ストも、公害闘争も、原水禁運動も積み重ねてきた。アベのような戦前回帰主義者に抗して、改憲だって阻止し続けてきたではないか。

それが、どうも最近調子がおかしくはないか。デモもストも、規模が小さい。元気がない。日本はいつから民主主義後進国になってしまったのだろうか。
(2019年6月6日)

「天皇の存在は、民主的な改革に障害とはならないのか」 ― 象徴天皇制についての徹底した議論を

昨日(6月5日)の「しんぶん赤旗」を開いて驚いた。
一面トップに、「天皇の制度と日本共産党の立場」「志位委員長に聞く」というインタビュー記事である。聞き手は、小木曽陽司・赤旗編集局長。なんだか、とても物々しい。これは、共産党にとっての重大テーマだというシグナル。しかも、このインタビュー記事は、第1面だけでは終わらない。第6面から第9面のほぼ全頁を費やした、5面にわたっての長大記事なのだ。

「政権と闘おう。」「資本の横暴を許すな。」「アメリカの覇権主義に抵抗を。」「沖縄の運動と連帯しよう。」「平和や民主主義を擁護しよう。」「格差や貧困をなくそう。」「理不尽な差別や不平等をゆるさない。」などという、共産党ならではの呼びかけではない。天皇制についての共産党の立場の説明に、これだけの大きなスペースが必要ということなのだ。

もしかしたら、「私のブログでの批判を意識しての弁明なのかな」「私のように共産党の立場や政策の転換を批判する多くの人の意見を無視し得ないのだな」などと思いつつ目を通した。論文と違ってこのインタビュー記事は読み易い。共産党が何を考えているのか率直で分かり易いとは思う。しかし、「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」という、「大本」についてどうも納得はしかねる。最後まで、違和感を払拭できない。

赤旗をお読みでない人のために、インタビュー全体の構成をご紹介しておきたい。
下記の赤い太字が章立てで、青字が小見出しである。章立ての番号は、便宜わたしが付けたもの。

1 「この機会に大本から考えたい――日本国憲法と改定党綱領を指針に」
2 なぜ「君主制の廃止」という課題を削除したか
 日本国憲法の天皇条項をより分析的に吟味した結果
 根本的な性格の変化――主権者・国民のコントロールのもとにおく
 改定綱領で「天皇の制度」という言い方をしていることについて
 社会進歩の事業とのかかわりでも、戦前のような障害にはなりえない
 前の綱領の規定には歴史的背景もあった

3 天皇の制度の現在と将来にどのような態度をとるか
 「制限規定の厳格な実施」「憲法の条項と精神からの逸脱の是正」が中心課題
 「民主共和制の政治体制の実現」―日本共産党の「立場」の表明
 どうやって解決をはかるか―主権者である「国民の総意」にゆだねる

4 天皇の制度についての綱領改定がもたらした積極的意義について
 現行憲法の「全条項をまもる」とスッキリと打ち出せるようになった
 「制限規定の厳格な実施」をより強い立場で打ち出せるようになった

5 制限規定を厳格に実施し、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する
 天皇の政治利用を許さない―憲法違反の無法ぶりを示した「主権回復の日」式典
 天皇の「公的行為」―憲法からの逸脱、問題点はないかを、きちんと吟味を
 国会での「賀詞」決議について― 二つの原則を堅持して対応してきた

6 元号について―どう考え、どう対応するか
 元号に対する日本共産党の基本的態度について
 慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対する
 元号が変われば世の中が変わるか―社会を変えるのは主権者である国民のたたかい

7 「皇室典範」にかかわる問題―天皇の退位、女性・女系天皇について
 憲法の条項と精神に適合する改正には賛成する
 天皇の退位―「個人の尊厳」という憲法の最も根本の精神にてらして賛成した
 女性・女系天皇について―憲法にてらして認めることに賛成する

8 憲法9条改定への天皇の政治利用を許してはならない

この小見出しはよくできている。この問題にいささかの関心をもってきた人であれば、上記の章立てと小見出しを読むだけで、大方は共産党の主張の内容を理解できるだろう。最近の同党の意見を集大成したものなのだ。

インタビューの冒頭にこうある。
小木曽 天皇の制度については、議論を避けるという傾向も強いですね。
志 位 そう思います。でも思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います。

「議論していくことが大切」という志位意見に大賛成だ。明確になった共産党の立場に対して、私も自分の意見を述べていこうと思う。

もちろん、このインタビュー記事のすべてがおかしいとか、全部が間違っているなどと極論するつもりはない。しかし、重要なところで納得しがたいのだ。

問題の発端は、天皇の代替わりに伴う国会の「賀詞決議」に共産党が賛成したことだった。反対でも棄権でもない賛成。多くの人が「まさか共産党が、新天皇就位に賀詞を表明するなどあり得ない」という思いをもっている中でのこと。当然に、納得し得ない人々からの批判が集中し、その結果共産党の象徴天皇制に対する基本姿勢を釈明するものが今回のインタビュー記事である。問題は二層にわたってある。まず、政策としての「賀詞決議」賛否の問題。そして、さらに重要なのが、象徴天皇制に対する基本姿勢の問題である。

本年(2019年)5月10日のブログで、衆院で成立した賀詞決議に共産党議員までが賛成したことを私は批判した。共産党の支持者としての、共産党批判である。

「賀詞」とは、慶事に対する祝意の表明ではないか。象徴天皇が憲法上の存在であることは自明の前提として、新天皇の就位をどんな理由で慶事というのだろうか。為政者やその追随者にとっての演出された慶事ではあっても、国民主権や民主主義の大義から見ての慶事ではあり得ない。少なくとも、私にとっての慶事ではなく、共産党とその支持者にとっての慶事でもありえない。国会は、「国民を代表して」賀詞を述べることはできない。また、国民誰にも、新天皇への祝意を強制される筋合いはない。

この点についての私の意見は、5月10日付ブログで尽きている。ぜひ、再度お読みいただきたい。象徴天皇制に対する基本姿勢の問題も、多少は触れている。

おそるべし天皇制。衆院全会一致の阿諛追従決議。
https://article9.jp/wordpress/?p=12582

このブログに付け加えれば、インタビュー記事には、体系としての憲法の把握のありかたに違和感があるということだ。象徴天皇制の位置づけや、天皇制の民主主義への危険性について、私は下記の志位見解のような楽観論には立てない。新元号や新天皇即位に伴う、社会的なフィーバーと、その政権の利用を見せつけられた直後であるだけに一入である。

「天皇の制度の性格と役割が憲法によって根本的に変わりました。この制度をなくさないと、私たちが掲げる民主的な改革――日米安保条約の廃棄や「ルールある経済社会」をつくるといった改革ができないということはありません。」

また、憲法に書いてあることが、目的や理想ではなく、既に実現しているごとき認識にも違和感を禁じえない。志位インタビューでは、憲法本来の理念体系に、天皇の存在が背反した存在となっているというとらえ方が希薄なのが気にかかる。

なお、2004年改定の新綱領は、こう述べているという。
「党は、一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」

この第1文に異論はない。ところが、第2文には大いに違和感がある。これは、積極的に社会を変革していこうとする立場ではない。この第1文に述べられた基本理念から論理的に演繹される方針としての第2文は、こうでなくてはならない。
「天皇の制度が憲法上の制度である以上、その廃止には国民の総意によって憲法改正を要することになるが、党は漫然と情勢が熟したときに解決されるという待機主義の立場を採らず、天皇制を美化するあらゆる策動に反対し、民主共和制の政治体制の実現をはかるべく可能な努力を重ねる」

ところで、「思考停止、議論停止になってはいけません。タブーをもうけず、この制度について、この機会に大本から考え、議論していくことが大切だと思います」という志位見解を歓迎して、ぜひとも実践していただきたいと願う。ついては、提案を申し上げたい。この機会に、赤旗を舞台に、「タブーをもうけず、天皇制について、大本から考える議論」を巻き起こすための、企画を練っていただけないだろうか。

たとえば、共産党自身の公式見解をもタブーとすることなく、それへの賛否両論の言論を歓迎するという姿勢での「天皇制議論のコーナー」の創設。タブーのない赤旗ならではの言論空間の設定は、有益なものと思うのだが。

なお、やや古いが、2015年12月25日付の下記ブログも、併せてお読みいただきたい。

共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け

https://article9.jp/wordpress/?p=6112
(2019年6月5日)

天安門事件と光州事件 ? 軍は躊躇することなく国民に発砲する

6月4日である。あの天安門事件から30年が経った。この事件は私の胸に突き刺さるトゲだ。これに触れられるたびに胸が痛む。

学生の頃、中国革命を輝かしい歴史の到達点と評価していた。ここにこそ人類の未来があると信じていた。それが、次第に色褪せて、トドメを刺されたのが天安門事件だった。

今年(2019年)は、「三一独立運動」「五四運動」の両事件から100年でもある。朝鮮でも中国でも民主主義・民族主義運動の先頭には、100年前から立ち上がった学生の姿があった。純粋な理想と情熱をもって体制に抵抗し、社会を改革しようと行動することは若者の特権である。

以来脈々と学生運動の灯は受け継がれてきた。1980年韓国「光州事件」(光州民主化運動)と、1989年中国「天安門事件」の対比が、なんとも痛々しい。

光州事件を舞台にした、映画「タクシー運転手」の中に、印象に残る主人公のセリフがある。戒厳令下の光州で軍が市民に発砲しているという噂を打ち消そうとしてこう言う。

「ボクも、兵役で軍隊にいたからよく分かる。軍隊は国民を守るためにある。軍人が自分の国の市民を撃つことなんてあり得ない。」

やがて、光州に入ったタクシー運転手は、軍隊が躊躇することなく市民を攻撃するという、あり得ない光景を目撃して驚愕する。

それでも光州事件の犠牲者は、今その事件に光が当てられ、国民が記憶し、韓国民主化の礎とその名誉を讃えられている。もちろん、加害の責任追求にも怠りがない。一方、天安門事件の犠牲者は、その対極にある。

中国の民主化を求める天安門広場のデモ隊は、一時は100万人に達して、あの広大な広場を埋めつくしたという。このデモ隊に、軍からの解散命令が出た。引くか、抵抗を続けるか、デモ参加者の賛否は割れたという。このときまで、「解放軍が人民に武力を行使することはあり得ない」と信じられていた。

しかし、鄧小平をトップとする人民解放軍は、武器を持たない平穏なデモ隊に発砲した。躊躇なく徹底して。ここ中国の首都でも、あり得ないことが起こったのだ。光州より遙かに大きな規模で。しかも、軍の武力が民主化を求める民衆の運動を押さえ込むことに成功している。少なくとも、この30年は。犠牲になった人々の名誉はさらに傷つけられ、事件を闇に葬ろうという圧力は弱まることがない。

民主化をなし遂げた韓国と、民主化運動弾圧に成功した中国。その落差は大きい。
そして、思うのだ。軍隊とは、常に国民を守るというものではない。これは、皇軍だけの特殊事情ではない。ある局面では、容赦なく国民を殺す存在なのだ。政権や、資本や、宗主国や、特定の指導者を擁護するために。この教訓を忘れてはならない。
(2019年6月4日)

「怖い絵」よりもずっと怖い、実人生の闇。

中野京子「怖い絵(角川文庫)を読んでいる。22の「怖い」絵画それぞれに、みごとな解説が付けられている。中で出色に「怖い」のが、作品10のゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス(プラド美術館)。これは、解説不要で、視覚的にこの上なく怖い。

ローマ神話のサトゥルヌスは、ギリシア神話ではクローノス。父ウラノスを殺して、神々の上に君臨するが、父ウラノスの最期の言葉が、「おまえもまた自分の子どもに殺されるだろう」という呪いだった。サトゥルヌスは、この呪いを恐れて次々と自分の子供を喰らうのだが、結局はウラノスの予言のとおり、6番目の子ユピテル(=ゼウス)に殺されることになる。

この「親が子を食うという衝撃的なテーマは、絵画における恰好の題材となり、多くの画家たちに取りあげられることになった」という。同書では、同名のルーベンスの作品が紹介されている。これも怖い。

著者は、「我が子を喰らうという極限のこの姿は、地獄を見た者にしか描けないと思わせる」という。その上で、さながら地獄の現実を見たゴヤの体験を解説する。あらためてこの絵を見直すと、怖さは一入である。143cm×81cmという原画の怖さはいかほどであろうか。

この絵の解説の最後が、こう締めくくられている。
「作今、親の子殺しがマスコミをにぎわしている。ふと思ったのだが、彼らはこのサトゥルヌスの絵を知らないのだろうか。もし、一度でもこの絵を見たならば、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスに重ねずにはいられないはずだし、ひとつの抑止力にはなるような気がするのだが…」

この解説の初出は、2007年7月のようである。たまたま、一昨日(6月1日)元農水省事務次官(76)の長男殺害事件が胸に突き刺さる。彼は、生きたまま地獄に身を投じたのだ。

「怖い絵」(角川文庫)には、もう一つの子殺しの作品が紹介されている。作品19のレービン「イワン雷帝とその息子(トレチャコフ美術館)である。1885年に描かれた200cm×254cmの大作。これは、解説がとても興味深い。

雷帝と恐れられたロマノフ王朝の皇帝イワン4世は、暴君として知られた人。妊娠中の皇太子妃を打擲して流産させてしまい、これに意見をこころみた皇太子を、逆上のあまり打ち殺してしまう。問題の絵は、その直後我に返って後悔の念で瀕死の息子を抱きかかえる皇帝の姿を劇的に描いたもの。

中野は、「これは、歴史画の装いを凝らした現体制批判の絵画なのだ」という。もはや統治能力を失った老人の愚行。その愚は、今なお繰り返されているのではないか。それが、ロシアの現実に果敢な抗議を続けたレービンの芸術における目的であったという。

なるほど、洋の東西を問わず、やんごとなき家柄も権力者も、愚行を重ねるものなのだ。愚行の狂気が醒めたあとでなければ、愚行の愚行たる所以は顕れてこない。

それはともかく、自らの手で息子を殺害せざるを得ない立場に追い込まれた元次官の切羽詰まった心情を思いやらざるを得ない。人知れぬ親子関係や家族の悩みは、やんごとなき家柄でも高級官僚でも、庶民と変わるところはない。

今、殺人罪で勾留されている元次官は、サトゥルヌスの絵を知らなかっただろうか。知っていて、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスな重ねたのだろうか。あるいは、自らの浅ましい姿を自覚しつつも犯行に及んだのだろうか。

「狂気に捉われるのは怖ろしいことだが、狂気から覚めて自分のしたことを突きつけられるのは、さらに一層怖ろしいことではないだろうか。ツァーリの両の眼がそれを如実に物語っている」

「レービンが伝えようとしたのは若者の痛ましい死だったはずなのに、強烈なインパクトを持って迫ってくるのは、自らの取り返しのつかない愚行に愕然とする老人の方である。彼の絶望、彼が感じる恐怖の、圧倒的なまでの大きさの方である」

元次官も、自らの取り返しのつかない愚行に愕然としたのだろうか。あるいは、こうなる以外に策はなかったと諦念しているのだろうか。またあるいは、圧倒的な絶望のうちにあるのだろうか。軽々に、批評も批判もできかねる人生の闇の深淵。絵画も怖いが、実人生の怖さは、底が知れない。

司法が向き合っているのは、絵画でもバーチャルでもない。リアルな実人生の、深刻な闇の部分なのだ。
(2019年6月3日)

「この学校敷地には鉛やヒ素が含まれ、たとえ浄化後でも公開されると事業経営に支障をきたすことになる。だから、当然秘密にしておかなくてはならない」 ー これって、裁判所が言うべきことだろうか?

5月30日、森友学園事件の情報公開請求不開示問題で、木村真・大阪府豊中市議が国に11万円の損害賠償を求めた訴訟の判決があった。大阪地裁・松永栄治裁判長は国に3万3000円の支払いを命じる判決を言い渡した。請求の一部とはいえ、国(近畿財務局)の情報公開請求に対する不開示(後に不開示処分を撤回している)の違法を認めた判決である。歴然たる国の敗訴、木村真市議の勝訴。とは言え、原告側の顔色は冴えない。スッキリしないのだ。

朝日は、一面トップにこの記事を掲載した。裁判所による不開示違法の判断にスポットを当てて紹介している。まずは、当然の姿勢。その判決評価の垂れ幕の写真が、微妙。一本が「勝訴」、そしてもう一本が「不当判決」。勝訴はしたものの、スッキリ勝ちきっていない。判決理由中に「不当」な判断を含む、積極消極評価両様の判決ということなのだ。

以下は、朝日が掲載する判決要旨の紹介。

学校法人森友学園(大阪市)の国有地取引をめぐる問題で、学園への国有地売却額を一時不開示とされ精神的苦痛を受けたとして、学校法人森友学園(大阪市)の国有地取引をめぐり、売却額の一時不開示を違法とした30日の大阪地裁判決の要旨は次の通り。

【売却額の一時不開示は違法か】
 情報公開法は、法人や個人の情報のうち、公にすることで権利や競争上の地位、正当な利益を害するおそれがあるものを不開示情報と定める。「単に他人に知られたくない」というだけでは足りない。権利や地位を害するおそれが客観的に認められる必要がある。
 財政法の趣旨は、国有財産の適切な管理を求めることだ。当時、国有財産を公共随契などで貸したり、売ったりした場合、原則として契約金額などを財務局のホームページで公表することになっていた。法人などが国有地を買い受ける際、売却額が公表されることが想定されていた。
 そうすると、国有地の売却額は基本的に公表されるべき情報にあたり、公にされることで法人などが利益を害されるおそれがあっても、情報公開法の不開示情報には該当しない。
 国は、開示すると
 (1)値引きを必要とするいわく付きの土地だと推察されるおそれがある
 (2)小学校を運営する森友学園の信用を低下させ、小学校経営における経営上の地位や事業運営上の利益を侵害する恐れがある――などと主張する。
 だが、土地価格の開示によってなぜ森友学園の信用が害されるのか、国の主張は論理があいまいで、十分な根拠は見いだしがたい。
 2013?16年度に公共随契の方法で国有地の売り払いがされた契約104件のうち、契約金額が非公表とされた事例は本件だけだった。近畿財務局が職務上の注意義務を尽くしていれば、売却額が不開示情報に該当しないことは容易に判断できた。漫然と不開示の判断をしたことは、国家賠償法上、違法だ。

【ごみなどにかかわる特約条項の一時不開示は違法か】
 特約条項には、《森友学園が小学校敷地として取得した土地に、地下数十センチから3メートルまでの間に廃材やごみなどがあり、鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている》。開示されると、これらを了承して買ったことが具体的に明らかになる。
 土壌汚染があった土地の小学校という印象を保護者に与え、有害物質で健康を害する懸念を生じさせるおそれがある。浄化後でも強い心理的嫌悪感を与える。小学校経営における競争上の地位や、事業運営上の利益を害するおそれがある。
 不開示情報とした判断には合理的な根拠があり、違法とは認められない。

【損害額】
 原告は、不開示処分を受けたことで、処分取り消しを求める訴えを起こさざるを得なかった。その後に国や報道機関を通じて不開示処分が公開され、新たに開示処分を受けたことを考慮しても、適正な開示決定を受けるという人格的な利益が違法に侵害された。事案の内容や性質、経緯などに照らせば、損害額は3万円、弁護士費用は3千円と認めるのが相当だ。

不開示の違法性については、《売却額の一時不開示》と、《ごみなどにかかわる特約条項についての一時不開示》の2点が争われた。判決は、前者については原告の主張のとおり違法と認定したが、後者については「不開示情報とした判断には合理的な根拠があり、違法とは認められない」というのだ。おかしいよ。どうしたって納得できるはずがない。

判決によれば、特約条項には、《小学校敷地として取得した土地に、地下数十センチから3メートルまでの間に廃材やごみなどがあり、鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている》のだという。そんなことを隠しておいていいのか。判決は、「鉛やヒ素が含まれることが具体的に記されている土地であることが公開されると、たとえ、浄化後であっても事業運営上の利益を害するおそれがある」。だから、公開しないことに合理的な理由があるというのだ。

判決の言うのはこういうこと。「せっかく臭い物に蓋をしたのだ。何があるのか分からぬよう、しっかりと蓋を閉めて秘密にしておくべきことには合理性がある」。いや、この比喩では足りない。「売買の対象は、毒性のある物質を含む危険な土地で、子どもたちの健康を損なうおそれがある。たとえ浄化後といえども、子どもの親などに知られては買い主の事業経営に支障をきたすことになる。だから、秘密にすべきものである。」

裁判所は「校舎の敷地に鉛やヒ素が含まれること(あるいは、含まれていたこと)は、親も世間も知らなくてもよい。知らせなくてもよい」と言っているのだ。これでよいはずがないではないか。

もちろん、スッキリしないのはそれだけの理由ではない。相澤冬樹記者(大阪日日新聞・元NHK)は、次のように報じている。

判決後、裁判所内の記者クラブで会見を行った木村さんは、納得できない思いを訴えた。
「判決は『相当量のごみがあった』と言ってるけど、違うでしょ。あの国有地には第1のごみと第2のごみがあるんです。こんなの森友問題の基本中の基本だから。あの国有地には元々ごみがあったけど、それは浅いところにあるごみで、前からわかっていて問題にならない(=第1のごみ)。ところが地中深くから新たなごみが出てきたということになって、それが値引きの根拠にされた(=第2のごみ)。でも、そんな深いところのごみはないんですよ。それはあらゆる証拠が示している。なのにこの裁判長はこの2つをいっしょくたにして『相当量のごみがあった』なんて言っている。全く納得できない。こんな判決あり得ません」

もう一つ、私は問題としたい。「弁護士費用3000円」とはいったい何だ。いつまでも、こんな浮き世離れの賠償額でよいのだろうか。少なくとも、国家賠償請求訴訟の場合、もう少し常識的な認容額であってしかるべきではないか。

朝日のトップを飾るだけの意義のある判決。原告の木村市議は、情報公開請求も、国家賠償訴訟(提訴時は、開示処分を求める請求)の提起も、私益のために行ったのではない。勝訴をしても認容額が3万3000円では、行政を糺そうというモチべーションに欠けることになりはしないか。弁護士なしでは事実上できない訴訟だが、その「弁護士費用は3千円と認めるのが相当」はあまりに、情けない。対等・平等のはずの国側には、指定代理人も弁護士もカネの心配なく、配置することができるのだ。
(2019年6月2日)

自分自身の思想と良心を守り抜いた原告の皆さまに敬意を表します。

東京「君が代裁判」4次訴訟の終了報告集会にご挨拶申し上げます。
提訴から最高裁決定で確定するまでの、事件の経過や各審級の判決内容は、平松真二郎弁護団事務局長から報告があったとおりですので、私は別の角度からのお話しをさせていただきます。

弁護士は、事件と依頼者によって、はじめてはたらく場が与えられます。事件と依頼者によって、弁護士としての生きがいを得、力量を育てられるものです。私は、育てられるにはやや手遅れですが、私を除く弁護団の皆が、この事件に真剣に取り組み、弁護士としての生き甲斐を得、大きく育てられたことをありがたく思っています。

人はパンのみにて生くるものにあらず。弁護士はルーチンの債務整理のみにて生くるものではありません。弁護士を志したときには人権擁護の理念に燃えていたはずです。そのような弁護士本来の活動の機会を得たことを好運に思い、魅力ある原告の人々と信頼関係を築いて交流することができたことをありがたいこととも、好運であったとも、思っています。

この訴訟では、君が代不起立に対する懲戒処分のうち、減給・停職の苛酷な処分はすべて取り消されて確定しました。そのうちの田中さんに対する、4回目・5回目の不起立に対する減給処分がいずれも取消されて確定したことが、特筆すべき成果として強調されています。原告の訴えをよく聞く耳を持っている、血の通った裁判官のお陰でもありますが、私は、一審14人の原告団全員の熱意と真面目さが裁判所を動かしたのだと思います。田中さん一人の成果ではなく、14人全員の成果であったと思います。また、その成果は、予防訴訟から、処分取消を求めた1次、2次、3次訴訟の積み上げの上に、大きな支援の輪の広がりの中で勝ち得られたのだと思います。

一方、残念ながら4次訴訟でも、戒告処分を取り消すことはできませんでした。最高裁の壁は厚かったというほかはありません。このことは、5次訴訟以後の課題として残されたことになります。私たちは、日本国憲法の理念から、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令も、その職務命令違反を理由とする懲戒処分も、本来は違憲違法なのですから、戒告処分取消の判決を得るまで、力を尽くしたいと思っています。

すこしだけ、この事件において問われているものを振り返ってみたいと思います。
最近、何度か韓国へ行く機会があります。その都度ことあるごとに、韓国では国旗国歌への敬意強制に関する問題はないのか、強制に反対の運動はないのかと聞くのですが、誰もが強制を意識することもないし、強制反対の運動もない、と言います。

よく知られているとおり、韓国の国旗は太極旗。起源は李氏朝鮮時代からと言いますが、1919年の3・1独立運動では、独立を求める行進の先頭にこの旗が立ち、独立宣言文以上に、独立を求める民衆を鼓舞する役割を果たしたと言われています。以来、抗日と民族独立運動のシンボルとなり、独立後に正式に国旗として制定されました。

韓国では、右派・左派を問わず、国旗に親近感・肯定感が強いようです。この旗に、プライドを持ち、この国旗に敬意を表することは当然のことという共通の了解があり、国旗に敬意を強制の問題も、国旗に抵抗の問題も聞いたことがない、と言うわけです。

日本では事情が違うとお話しします。日本で国旗とされている「日の丸」は、かつては富国強兵と滅私奉公をスローガンとした、天皇制軍国主義国家のシンボルでした。侵略戦争と植民地主義の象徴だったと言ってよい。敗戦後、新憲法で国の基本原則が根底から変えられたのに、「日の丸」は依然として国旗となっている。この旗を憲法理念に敵対する旧体制の残滓のシンボルと考え、敬意を表することができないという少なからぬ良質な人々がいます。私も、日の丸は嫌いだ。こう説明すると、「なるほど。分かります。そんなふうに、国旗の成り立ちや意味合いが違うのですね」ということになります。日本の事情は分かるけど、韓国は違う、というわけです。

でもね、と話は続きます。日本ではあまり知られていませんが、韓国の国歌は「愛国歌」といいます。その歌詞は、韓国の自然や国民の精神を讃え、最後がこう結ばれています。

この気性とこの心で忠誠を尽くし、辛くとも楽しくとも国を愛そう

忠誠の対象は国。愛そうという呼びかけの対象も国。私の感覚では、「国に忠誠を。国を愛そう」なんて歌は気持ちが悪くて歌えない。どんな民主的な国であろうとも、国家は権力として国民と対立する。自立した個人の尊厳を守るためには、どんな国家に対しても、批判や抵抗が必要ではないか。国旗国歌に無批判に敬意を表するということは、個人の尊厳を放棄して権力に従順であれということ。だから、「国を愛そう」などとは言うべきではないし、けっして言えない。国旗国歌に忠誠を誓ったり、敬意を表明するなんてできない。そう考えている少なからぬ良質な人々がいる。私もその一人だ。だから、「日の丸が嫌い」だけでなく「国旗」が嫌いだ。

こう言うと、韓国のたいていの人は首を捻ります。そういう理屈は分からないでもないが、現実にはそんな問題も運動も韓国にはないと思います、となる。

今年(2019年)5月18日光州民主化運動犠牲者追悼の国家式典に参加しました。この式の冒頭に韓国国歌の演奏を聴きました。ああ、韓国の国民は、国旗国歌に違和感がないのだな、と思わせられました。

日本と韓国、国旗国歌に対する国民感情がずいぶん異なります。「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする私たちは、いったい何に抗い、何を求めているのだろうか、と考えます。

問われているものは、歴史観であり、国家観であり、教育観ではありますが、その根底にあるのは、個人の尊厳を擁護する課題だと思うのです。自分を大切にしたい、自分の人生の主人公は自分自身であって、自分の生き方は自分で決める。国家に余計な口出しはさせない、ということが根本にあるように思うのです。

国家の権力や、社会の多数派が求めるとおりの生き方は、波風が立たず、案外楽なのかも知れません。しかし、自分は自分である、みんながそれぞれの個性を認め合って、生きてゆける社会を作りたい、とりわけ次代の社会の主人公を育てる立場の教員であれば、そう思うのは当然です。これを蹂躙する権力の行使は、理不尽極まるものといわねばなりません。

とは言え、この理不尽に抵抗するか、妥協するか。これは、人生観の分かれ目。敢えて、覚悟の抵抗をされた方に、私は尊敬の念を禁じえません。

そこで、不起立を貫き、この訴訟を闘い抜いた意義を確認したいと思います。まず、何よりも自分を裏切らず、自分の信念を曲げることなく、自分自身のプライドを守ったことが大きな成果ではないでしょうか。憲法を武器に、堂々と正論を述べたことを誇りにしてよいと思います。

それだけではなく、国旗国歌の強制に反対の大きな運動に参加し寄与したことも、素晴らしい成果だと思ます。原告の皆さんは、はからずも、歴史を進歩の方向に動かすか、退歩の方に動かすかの岐路に遭遇したのです。あきらめて権力に膝を屈するのではなく、敢然と力を合わせて闘ったことが、歴史を進展させるベクトルに作用したのです。日の丸・君が代強制反対運動は、人権運動であり、民主主義擁護運動であり、自由な教育を目指す運動でもあります。4次訴訟原告の皆様が、この運動に力強い刺激を与え、これを支える大きな力となって来られたことに、重ねての敬意を表明して、ご挨拶とします。
(2019年6月1日)

零細漁民に敵意を露わにする達増拓也岩手県知事よ、岩手県の水産行政は何ゆえにかくも無慈悲なのか。

三陸の沿岸漁民が、岩手県知事(達増拓也)を相手に起こした「サケ刺網漁不許可処分取消請求訴訟」。その控訴審が、そろそろ大詰めである。公平に見て、法廷の議論では漁民の側が圧倒的に優勢である。岩手県知事側の焦りからか、本日(5月31日)の法廷では、看過できない被控訴人準備書面の記述が問題となった。

裁判官が入廷して驚いた。3人の裁判官のうち、裁判長と左陪席が交替していた。明らかに、従前の訴訟の流れが途切れ法廷の雰囲気が変わった。年度末の交替ではなく、5月10日に新任裁判長の着任だという。

本日予定の各主張は、被控訴人(県知事)側第3準備書面と、控訴人(漁民)らの反論を述べた準備書面(6)。裁判長が、型どおりに「被控訴人、第3準備書面をしますか」と発言したのを、控訴人代理人が遮った。「まず、控訴人代理人の意見陳述をさせていただきたい。被控訴人第3準備書面の中には、陳述すべきでない記述がある。そのことについての意見も述べたい」。

以下が、控訴人ら代理人の弁護士澤藤大河が意見陳述である。

 控訴人ら代理人の澤藤大河から、以下の3点について、口頭で意見を申し上げます。
 第1点は、本日陳述の控訴人準備書面(6)の内容の要約です。
 第2点は、本件の進行についての意見。
 そして、第3点が被控訴人第3準備書面の一部主張についての削除の要請です。

第1点。この間の主張の応酬によって、本件の争点が明確になってまいりました。
本日陳述の控訴人準備書面(6)の主要な内容は、「水産業協同組合法4条の理解に関して」と表題したものですが、その論述が訴訟の全体像の中で占める位置をご理解ください。
控訴人らの本件サケ刺し網漁許可申請を不許可とする要件は、2点に限られます。
その第1が「漁業調整の必要」であり、
第2が「資源の保護培養の必要」です。
この2要件が積極的に認定されない限り、申請に対しては許可がなされなければなりません。
とりわけ、「漁業調整の必要」の有無こそが本件での最重要の争点です。つまりは、サケ漁の漁利の配分をめぐる利害の調整はいかにあるベきかということが問題なのです。具体的には、岩手県内82ケ統の大規模定置網漁業者と、控訴人ら小型漁船漁業者との間のサケ漁の漁獲配分をめぐる利害の調整を意味します。《巨額の資本を有する大規模漁法の経営者》と、《一艘の小型船舶だけで操業する零細漁民》の間の、サケ漁をめぐる経済的利益の配分についての利害の調整です。
現状は、大規模定置網漁業者がサケ漁の漁獲を独占しています。もちろん各定置網に漁獲量の制限などありません。これに対して、固定式刺し網漁希望の漁民は一匹のサケも獲ってはならないとされています。獲れば最高刑6月の懲役というのです。極端な不公平・不平等。一見明白といって差し支えない、この不合理な現状を変更して、新たな漁業秩序形成の調整が必要なのです。
問題は、この82ケ統の定置網中に漁協単独経営の定置網が46ケ統、漁協・個人共同経営のものが10ケ統あることです。漁協は公益性が高いから、他の個人や会社形態の定置網漁業者はともかく、漁協の自営定置についてだけは、その漁獲量を確保するために、漁民のサケ刺し網は禁止されてもやむを得ないのだろうか。そんな疑問に徹底して詳細に反論したのが、準備書面(6)の主たる内容です。
 結論から言えば、漁協の利益のために、漁民が要望するサケ刺し網漁の許可を禁止すべき正当性はまったくあり得ません。
 漁協とは漁民の漁業経営に直接奉仕するための存在です。その漁協が、漁民と競合する漁業を経営して組合員の漁業経営を圧迫する、あるいは漁民が希望する漁業を禁じて漁協が漁業を自営するなどの事態は、明らかに漁協設立の目的を逸脱するものです。水協法4条は、漁協の目的を「組合員のために直接の奉仕をすること」と定めています。水協法11条は、漁協が行うことができる事業を限定列挙していますが、もちろん、そのなかに漁業の自営ははいっていません。本来、漁協が漁民と競合する事業を行うことは想定されていないのです。仮に、漁民と漁協が、競合する漁業において利害衝突した場合には、譲るべきは漁協であって、漁民ではありません。漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではないからです。
結局、漁協の自営定置漁の漁獲に支障を生じるおそれがあることを理由に、「漁業調整の必要有り」としてサケ刺し網の申請を不許可にすることは、違法と言わざるを得ません。

☆第2点。進行についての意見です。控訴人としては、既に当審で控訴理由書と6通の準備書面を提出し、主張の応酬は一応完結したものと考えています。
現時点まで明確になった論点について、鑑定人的証人として二平章氏、そして控訴人本人の一人を人証として採用をお願いします。既に、各陳述書を提出済みです。証拠調べ後に、最終準備書面を提出して結審とする進行を考えています。
なお、前回、裁判所から控訴人らに、主張補充の必要性の有無について意見を求められていた、岩手沿岸漁民が置かれている経済事情や、漁業の実態についての最新事情については、2018年漁業センサスが現在集計中です。その「概数値」発表は本年8月末、「確定値」については12月末と予定されています。おそらく最終準備書面作成時には、その成果を援用しての主張が可能かと思いますが、主張補充のために、特に漁業センサスの発表を待つ必要はないものと考えています。

☆第3点。被控訴人第3準備書面の不適切な一部主張について、被控訴人に当該部分の削除を求め、裁判所には、被控訴人に対する削除の勧告を要請いたします。
被控訴人は、第3準備書面の「第3・6項」において恐るべきことを述べています。
 控訴人らの内の、かつてサケの混獲を認めた時代があったと陳述した者を指して、「このような者は遵法精神を欠き『漁業に関する法令を遵守する精神を著しく欠く者(岩手県漁業調整規則24条)』にあたるので、サケ刺網規制の当否以前の問題として、固定式刺網漁業の許可はできない(同規則23条)というべきである。」というのです。これは、「サケ刺網の許可を与えない」というだけでなく、サケを除いては現在許可されている「固定式刺し網漁の許可もしない」、「許可の取り消し」もありうるという威嚇であり恫喝にほかなりません。
 もちろん、県であろうと知事であろうと、あるいは国であろうとも、法廷では一当事者に過ぎませんから、岩手県知事が法廷で精一杯その主張を尽くすこと自体になんの異議もありません。しかし、被控訴人は公権力の担い手でもあります。訴訟上の攻撃防御の必要を超えて、相手方当事者にその権限を笠に着た不利益の予告は、明らかに節度を超えた公権力の作用としての威嚇であり恫喝と指摘せざるを得ません。
 漁業で生計を立てている漁民にとって、知事は許可漁業における許可・不許可権者ですから、その限りでは生殺与奪の権を握っている権力者と言って過言ではありません。その知事が、特定の控訴人の名を具体的に挙げて、控訴人らの生計を支えている漁業について、「許可を与えない」「許可を取り消す」と言っているのです。しかもこれは、訴訟上の攻撃防御になんの必要もありません。無意味、かつ有害な主張なのです。その言動の重大性を知事は認識しければなりません。
 これは、漁民の切実なサケ刺し網漁許可を求める運動への萎縮を狙った、岩手県政の恫喝として到底看過し得ません。県民に対する福祉を増進すべき立場にある県知事が述べるべき言葉ではありません。
 被控訴人第3準備書面「第3・6項」(9頁)の、末尾9行の記述を削除されるよう強く求めます。

**************************************************************************
被控訴人第3準備書面「第3・6項」の全文が次のとおり。

6 控訴人は「事実上容認されていた刺網による混獲が、1990年頃(平成2年)から厳しく規制されるようになった」とか、「それまで容認されていた混獲が突然厳しく規制されることになった」などと主張するが(第5準備書面21頁)、事実に反する。刺網によるサケの採捕については、原審で詳細に説明したとおり(乙9等)、本県ではサケ刺網漁業を許可したことはなく、「事実上容認した」とか「混獲を容認した」ことも全くない。控訴人は、「1990年頃(平成2年)から厳しく規制されるようになった」と述べるが。正しい事実は、平成2年に気仙地区の漁船漁業者が県の規制に違反し、それ以前から禁止されていた「刺網でのサケ漁獲」を(混獲名目で)行い水揚げを強行する事件が発生したため、刺網漁業自体の操業を一定期間禁止し、漁具を規制する等の措置をとったというものである(乙9・4頁)。控訴人A(原文は実名)によれば、平成2年の事件以前から刺網にかかったサケを市場に運ぷ際白トラックを抑えられた(販売したくてもできなかった)ことがあったとか、一斉水揚げの10年ぐらい前、1980年代初頤から問題が起きていた(検挙等を受けることがあったと述べていると解される)、混獲で水揚げしたものが検挙される例が相次ぎ、流通・販売段階での規制が日増しに強くなっていた、などと述べており(甲16・9頁)、それらに照らしても、控訴人ら(の多く)は、平成2年以前から固定式刺網漁業ではサケを採捕してはならない(許可の制限又は条件となっている)ことを認識していた(その上で当時から当該規制に不満を持っていた)ことが窺える。
控訴人Bも「規制がそれほど厳しくなかった時期の前例からすれば、サケ刺網を実施できれば、それだけで年収800万円ぐらいが期待できる」と述べており(甲17・4頁)、過去に(混獲名目で)刺網によりサケを採捕して多額の収入を得ていた(者がいた)ことを認めている。
 このような控訴人らの陳述と上記の「平成2年以前は容認されていた」との主張を併せて考えれば、当時から操業していた控訴人らの中には、規制があることを知りながら、摘発が厳しくないことなどに藉口して「事実上容認されている」との勝手な認識を抱き刺網でサヶを採捕(混獲を含め)し水揚げをしていた者がいることが窺われる。このような者は遵法精神を欠き「漁業に関する法令を遵守する精神を著しく欠く者(岩手県漁業調整規則24条)」にあたるので、サケ刺網規制の当否以前の問題として、固定式刺網漁業の許可はできない(同規則23条)というべきである。

上記の末尾(赤字イタリック)が、削除を求める部分である。
私は、被控訴人代理人は削除要求に同意するだろうと思っていた。訴訟の場でこんなことを言ってなんの得にもならない。しかも、これは岩手県知事の言としてあるべきものではない。明らかに、知事の政治的な責任が論じられるべき内容なのだ。漁民の切実な要求に「事情があって応じられない」というのならともかく、居丈高に運動参加の漁民を敵視して、「漁業に関する法令を遵守する精神を著しく欠く者」と決めつけたのだ。述べる必要のない余計なこと、「(現状では許可されている、サケ以外の)固定式刺網漁業の許可さえできない」を言って挑発したのだ。

ところが、県の代理人弁護士は「削除の意思はありません。陳述します」と言ってしまった。控訴人代人両名こもごもの申し入れにも拘わらず、積極的に削除勧告をしようとしない裁判所の姿勢に意を得たごとくに、である。漁民としては、知事の責任を追及する覚悟を固めなければならない。知事も責任を覚悟しなければならない。

達増拓也岩手県知事に問いたい。
県の方針に異議を申し立てる者は県政の敵なのか。
零細漁民の切実な要求に、何故かくまでに耳を塞ごうというのか。
漁民の生計防衛の自主的な運動をかくまで敵視するのは、いったいいかなる理由に基づくものなのか。
岩手県政には、漁民に寄り添おうという姿勢はないのか。零細漁民は県民とは思っていないのか。

30年前のことを持ち出して、「遵法精神なき者」と本当に考えているのか。
「固定式刺網漁業の許可さえできない」は、県の方針なのか。
県民の支持を得て知事の座にある者が、どうしてかくも県民に無慈悲な言葉を発せられるのか。
きちんと回答されたい。
(2019年5月31日)

参院選野党共闘態勢成立を歓迎 ー 「政策協定」と一人区の統一候補擁立

間近に迫った参院選の野党共闘態勢が成立した。けっして、確固たるものとは言い難く、安心して見ていられるものでもないが、ようやく形ができ上がったたことを歓迎したい。あとは、この形にどう魂を吹き込むかが課題となる。

昨日(5月29日)、市民連合と5野党・会派が「共通政策」に合意した。形式は、市民連合の要望13項目に、5野党・1会派の代表が、「上記要望を受け止め、参議院選挙勝利に向けて、ともに全力で闘います」として、署名したものである。まずは、この内容に目を通していただきたい。

市民連合の要望書
来る参議院選挙において、以下の政策を掲げ、その実現に努めるよう要望します。

だれもが自分らしく暮らせる明日へ
1 安倍政権が進めようとしている憲法「改定」とりわけ第9条「改定」に反対し、改憲発議そのものをさせないために全力を尽くすこと。
2 安保法制、共謀罪法など安倍政権が成立させた立憲主義に反する諸法律を廃止すること。
3 膨張する防衛予算、防衛装備について憲法9条の理念に照らして精査し、国民生活の安全という観点から他の政策の財源に振り向けること。
4 沖縄県名護市辺野古における新基地建設を直ちに中止し、環境の回復を行うこと。さらに、普天間基地の早期返還を実現し、撤去を進めること。日米地位協定を改定し、沖縄県民の人権を守ること。また、国の補助金を使った沖縄県下の自治体に対する操作、分断を止めること。
5 東アジアにおける平和の創出と非核化の推進のために努力し、日朝平壌宣言に基づき北朝鮮との国交正常化、拉致問題解決、核・ミサイル開発阻止に向けた対話を再開すること。
6 福島第一原発事故の検証や、実効性のある避難計画の策定、地元合意などのないままの原発再稼働を認めず、再生可能エネルギーを中心とした新しいエネルギー政策の確立と地域社会再生により、原発ゼロ実現を目指すこと。
7 毎月勤労統計調査の虚偽など、行政における情報の操作、捏造(ねつぞう)の全体像を究明するとともに、高度プロフェッショナル制度など虚偽のデータに基づいて作られた法律を廃止すること。
8 2019年10月に予定されている消費税率引き上げを中止し、所得、資産、法人の各分野における総合的な税制の公平化を図ること。
9 この国のすべての子ども、若者が、健やかに育ち、学び、働くことを可能とするための保育、教育、雇用に関する予算を飛躍的に拡充すること。
10 地域間の大きな格差を是正しつつ最低賃金「1500円」を目指し、8時間働けば暮らせる働くルールを実現し、生活を底上げする経済、社会保障政策を確立し、貧困・格差を解消すること。また、これから家族を形成しようとする若い人々が安心して生活できるように公営住宅を拡充すること。
11 LGBTsに対する差別解消施策、女性に対する雇用差別や賃金格差を撤廃し、選択的夫婦別姓や議員間男女同数化(パリテ)を実現すること。
12 森友学園・加計学園及び南スーダン日報隠蔽(いんぺい)の疑惑を徹底究明し、透明性が高く公平な行政を確立すること。幹部公務員の人事に対する内閣の関与の仕方を点検し、内閣人事局の在り方を再検討すること。
13 国民の知る権利を確保するという観点から、報道の自由を徹底するため、放送事業者の監督を総務省から切り離し、独立行政委員会で行う新たな放送法制を構築すること。
?????????????????????????????????????????????????????   2019年5月29日
 私たちは、以上の政策実現のために、参議院選挙での野党勝利に向けて、各党とともに全力で闘います。
 安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合

上記要望を受け止め、参議院選挙勝利に向けて、ともに全力で闘います。
立憲民主党代表 枝野幸男
国民民主党代表 玉木雄一郎
日本共産党委員長 志位和夫
社会民主党党首 又市征治
社会保障を立て直す国民会議代表 野田佳彦

この政策協定を手放しで満点というつもりはない。しかし、ここまでの合意をまとめ上げた関係者の努力には敬意の表明を惜しまない。

なんと言っても、今回の参院選には、日本国憲法の命運がかかっている。「改憲阻止選挙」でなくてはならない。自公維の改憲勢力に、改憲阻止の野党共闘が対峙する構図がつくられなければならない。いま、その形ができたのだ。

「改憲阻止」「改憲発議阻止」「安保法制廃止」「防衛予算削減」「辺野古新基地建設中止」そして、「原発再稼働反対」「消費増税中止」がきちんとはいっている。

念のためテーマを羅列すれば、下記のとおり、アベ政治と対決する政策が網羅的に並んでいる。
「改憲阻止」「改憲発議阻止」「安保法制廃止」「共謀罪法制廃止」「防衛装備膨張見直し」「防衛予算削減」「辺野古新基地建設中止」「環境の回復」「普天間早期返還」「日米地位協定改定」「沖縄県民の人権を守れ」「国の沖縄県下自治体への地方自治権侵害をやめよ」「東アジアにおける平和の創出と非核化」「北朝鮮との国交正常化」「拉致問題解決」「核・ミサイル開発阻止に向けた対話を再開」「現状での原発再稼働を認めない」「再生エネルギーへの転換による原発ゼロ実現」「行政における情報の操作、捏造の究明」「関連法の廃止」「消費税率引き上げを中止」「総合的な税制の公平化」「保育、教育、雇用に関する予算の飛躍的拡充」「最低賃金1500円を目指す」「8時間働けば暮らせる働くルールの実現」「貧困・格差の解消」「公営住宅拡充」「LGBTsに対する差別解消施策」「女性に対する雇用差別賃金格差撤廃」「選択的夫婦別姓・議員間男女同数化(パリテ)実現」「森友学園・加計学園及び南スーダン日報隠蔽の疑惑を徹底究明」「透明・公正な行政の確立「内閣人事局の在り方を再検討」「放送事業者の監督を総務省から切り離し、独立行政委員会で行う新たな放送法制を構築する」。

この政策協定成立と同時に、新たに19の参院選1人区で野党統一候補を擁立することの合意もできた。これで、全国32ある参院選1人区のうち合計30選挙区で、野党統一候補を擁立することでの合意に至ったことになる。合意に至らずに残されたのは、国民と社民党が競合する鹿児島と、擁立作業が進んでいない宮崎の2県のみ。30選挙区の公認予定者の内訳は、無所属14、立憲7、国民民主5、共産3。なお、佐賀は国民が擁立作業中という。

もっとも、この文書の性格について全党が一致というわけではなさそうである。しかし、各党の代表者が、「上記要望を受け止め、参議院選挙勝利に向けて、ともに全力で闘います」との文言を承認して、署名をしたのだ。その上での各選挙区での候補者調整である。それだけの重みは否定し得ない。そもそも、政党間の政策協定とは、法的拘束力をもつ契約書ではない。政治的、道義的なものだ。後は、反アベ・反自公の改憲阻止勢力糾合を確かなものとする努力を積み上げていくしかない。

当然に、右派勢力はこれにケチをつけようとする。たとえば、産経。「参院選候補者一本化も野党はや不協和音」という見出しでの報道。

「野党党首らは会談後、野党共闘を支援する『安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合』の代表者らと国会内で会い、『憲法9条「改定」反対』など左派色の強い13項目にわたる政策要望書にサインした。

「共産党の志位和夫委員長はその後の記者会見で『市民と野党の共通政策として調印された。野党共闘の政策的な旗印が鮮明に翻った』と歓迎。要望書で示された政策を参院選の『共通公約』と位置づけた。」

これに対し、国民民主党の幹部は『要望書を受け取ったことを示すためにサインしただけだ。共通公約ではない』と真っ向から否定した。」

との記事。「国民民主党の幹部」とは、まさか玉木代表ではあるまい。「要望書を受け取ったことを示すためにサインしただけだ。」は、誓約文言の内容に照らして、明らかにおかしい。しかし、要は「真面目に共闘に参加せず、こんな後ろ向きなことを言っていれば置き去りにされる」と、「国民民主党の幹部」にも思わせるだけの空気を作れるか否かなのだ。

朝日の報道は前向きである。「立憲の枝野幸男代表は会談後、「候補者の一本化はスタートラインだ。地域事情に応じて、各党とも最大限の努力をする」。国民の玉木雄一郎代表も「応援態勢を一つにして当選につなげる」と述べ、野党間の協力態勢の構築が必要だとの認識を示した。」としている。

また、朝日は、「改選数1の1人区で、野党は6年前に2勝29敗と惨敗。全選挙区で候補者を一本化した3年前は11勝21敗と持ち直した。複数区のように与党と議席を分け合うことがないため、野党は「1人区の趨勢(すうせい)が参院選の勝敗に大きく影響する」(立憲の福山哲郎幹事長)と重視してきた。国民幹部は「前回の11勝が最低目標だ」と語る。」

さらに朝日は、「5月の連休明けを目指した一本化の決着は大幅にずれ込んだ。さらに6年前に大敗した影響で、野党の現職の立候補予定者は国民の1人のみ。野党内では『新顔は地域への浸透に時間がかかる。一本化は遅すぎた』(閣僚経験者)との懸念が出ている。」とも報じている。なるほどそうかも知れない。

日本国憲法の命運を決する選挙戦、ここからスタートである。
(2019年5月30日)

東京「日の丸・君が代」強制拒否訴訟報告

どこの国にも国旗がある。日本には「日章旗」、韓国は「太極旗」、北朝鮮は「共和国旗」である。台湾は「青天白日旗」を国旗として、「五星紅旗」に対抗している。
国家は、その象徴として国旗を制定する。国家という抽象物は目に見えないが、国家を象徴する国旗は、国民の目の前で翻ってみせる。国民の目の前で翻る国旗は、国民のナショナリズムを刺激する。おなじ旗に集う者として国民を束ね、束ねた国民を国家に結びつけるよう作用する。
国家(より正確には国家を掌握している権力者)は、より強い国民の国家統合を求めて、国民に対して「国旗を尊重せよ」「国旗に敬意を表明せよ」と要求する。国家への忠誠を国旗に対する態度で示せということなのだ。場合によっては、国旗への敬意表明が国民の法的義務となる。わざわざ法的義務としなくても、国民多数派の社会的同調圧力が、全国民に国旗尊重を事実上強いることになる。
全国民が、無理なく受け入れられる国旗をどうデザインするかは難しい。東京朝鮮中高級学校のホームページを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、「統一旗」である。在日の皆さんが求める国家的アイデンテティをよく表している。かつての枢軸3国の内、ドイツもイタリアも敗戦後の再出発にあたっては、国旗を変えた。国家が生まれ変わったのだから、国旗も国歌も変えるのが当然なのだ。しかし、日本だけが旧態依然である。あの神権天皇制の日本。侵略戦争と植民地支配に狂奔した軍国主義日本と、あまりにも深く一体化した旗と歌とが今なおそのまま国旗となり国歌となっている。
天皇代替わりの今、あらためて、敗戦と日本国憲法制定にもかかわらず、この国の変わり方が不徹底であったことを噛みしめざるを得ない。多くの国民が、天皇の戦争責任追及をしなかった。自らの侵略戦争や植民地支配への加害責任の自覚が足りない。旧体制を支えた天皇の権威への盲従に、反省がまことに不十分なのだ。そのことが、歴史修正主義者を跋扈させ、今日に至るも近隣諸国に対する戦後補償問題が未解決な根本原因となっている。
学校での「日の丸・君が代」強制も、主には歴史認識問題である。旧体制批判に自覚的な教員の多くが、「日の丸・君が代」強制に抵抗してきた。
「日の丸・君が代」は、あまりに深く旧体制と結びついた歴史をもつ。天皇主権・天皇の神格化・富国強兵・滅私奉公・軍国主義、そして侵略戦争と植民地支配である。「日の丸に向かって起立し、君が代を唱え」と強制することは、新憲法で否定されたはずの旧価値観を押し付けることではないか。一人ひとりの思想・良心の自由を蹂躙して、国家が良しとする秩序を優先することは受容しがたい。それが、圧倒的な教員の思いであった。
しかし、国は徐々に「日の丸・君が代」強制強化に布石を打っていった。文部省は1989年に「学習指導要領」を改訂し、従前は「指導することが望ましい」とされていた表記を、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあらためた。さらに1999年8月には、国旗国歌法を制定して「日の丸・君が代」を国旗・国歌とした。
こうして、制度が整うと、強制の徹底を買って出る自治体が現れる。まずは、石原慎太郎都制下の東京都教育委員会が、2003年10月に、悪名高い「10・23通達」を発出した。以来、都内の公立学校では、式のたびに全教職員への起立斉唱の職務命令が発せられ、不起立の職員には懲戒処分が強行されることになった。今日まで、戒告・減給・停職の処分が延べ480名余に強行されてきた。これに関連するいくつもの訴訟が提起され、最高裁判決も積み重ねられている。
残念ながら、教員側は、最高裁で「いかなる処分も違憲」という判決を獲得し得ていない。しかし、最高裁は、戒告を超えて減給以上の実質的な不利益を伴う重い処分量定は苛酷に過ぎ、懲戒権の逸脱濫用にあたるとして、都教委の暴走に歯止めを掛けてきた。
今回、3月28日に最高裁は、都教委の上告受理申立を不受理として、現役教員の4回目・5回目の不起立に対する各減給処分(いずれも減給10分の1・1月)を違法とする原判決を容認した。不起立回数に関わりなく、君が代・不起立の処分は戒告にとどまることになった。
「日の丸・君が代」強制反対訴訟は、まだまだ続く。この訴訟と支援の運動は、児童・生徒のために自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いとともにある。本来が、教育とは、国家の強制や政権の思惑からは独立した自由なものでなくてはならない。教育への公権力の介入を象徴するこの訴訟への関心と、ご支援を心からお願いしたい。

(日朝協会機関誌「日本と朝鮮」東京版・2019年6月号掲載)

(2019年5月29日)

 

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.