澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

原敬とアベ晋三、100年間の進歩はあったか。

昨日(12月27日)は盛岡だった。少し時間に余裕があったので、原敬記念館に足を運んでみた。初めての見学。年末だからであろうか、閑散として見学者は他になかった。

館自身の案内はこうなっている。

 「大正時代に平民宰相として活躍した原敬(はらたかし)の生家に隣接して建設された記念館です。
 原敬はわが国最初の本格的政党内閣を実現し民主政治の確立に命をかけて活躍しました。記念館には、原敬の業績をたたえ政界の貴重な資料や原敬日記(はらけいにっき)、遭難時の衣服、遺品、遺墨等を展示しています。」

 郷土の有名人を顕彰したいという気持はよくわかる。できるだけ偉人として讃えたいのだ。そのキャッチフレーズが、終生爵位を受けなかったところからの「平民宰相」だ。が、「民主政治の確立に命をかけて活躍し」は本当だろうか。さて、讃えるほどの業績として、いったい何があるのだろうか。

盛岡出身の私だが、地元に原敬人気というものを感じたことはない。盛岡ゆかりの人として啄木や賢治を熱く語る人は無数にいる。しかし、「原敬を慕う」「尊敬する」などという風変わりな人物の存在は寡聞にして知らない。むしろ、「利益誘導型保守政治家の原型」「徹底して普通選挙に反対した宰相」というイメージが強い。アベ政治の原型を作った政治家と言ってもおかしくはない。展示物の中には、「民衆からの人気はない」という辛口の記事もあった。

記念館のリーフレットにある原についての解説は次のとおりである。

安政3年(1856)に生まれる。15歳の時、戊辰戦争の敗戦の屈辱を心に秘めて上京し勉学に励んだ。新聞記者を経て主として外務省を中心に明治政府の役人となり、井上馨や陸奥宗光にその才能を認められて活躍し外務次官にまで昇進した。
 明治30年(1897)外務省を退官して再び言論界に戻り、大阪毎日新聞社長として論説及び経営に腕を振るった。明治33年立憲政友会の創設に関わり、政治家の道に入って、明治憲法のもとで政党政治の確立につとめた。明治35年、衆議院議員に立候補して以来故郷の盛岡より連続8回当選し、また中央政界では立憲政友会の幹事長から総裁となり、大正7年(1918)9月首相となった。
 新聞社時代には署名論文に筆をとる一方、数々の著書を残した。
 満19歳から、65歳の兇刃に倒れた当日までの記録「原敬日記」83冊は、学術上の貴重な文献となっている。
 趣味として俳句をたしなみ、「一山」や「逸山」の号でその時々の心境を託したすぐれた作品が数多く残されている。

「勉学に励んだ」「役人となり活躍」「外務次官にまで昇進」「新聞社長として腕を振るった」「政党政治の確立につとめた」「数々の著書を残した」「『原敬日記』は、学術上の貴重な文献」が、褒め言葉なのだろうが、具体的に何をしたのかさっぱり分からない。丹念に展示品を見て回ったがやっぱり分からない。

分かったことは、ちょうど100年前の1918年に原敬が初めて本格的な政党内閣を組織したこと。1921年に彼は暗殺され、早くも政党政治は揺らぐ。そして、政党内閣時代は1932年の5・15事件で終焉を迎える。わずかに15年たらずのこと。

本日になって、ネットで検索をしてみた。ウィキペディアが肯ける内容の解説をしている。興味深いところだけを引用しておきたい。

原は政友会の結党前と直後の2度、貴族院議員になろうとして井上(馨)に推薦を要請している。…また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。

この人、ジャーナリスティックな感覚に優れていたのだろう。「平民宰相」のネーミングを有効に活用したのだ。しかし、「平民」は彼にとってそれ以上のものではなかったようだ。所詮は無産階級や無産政党とは異世界に住み、実のところ、「ポーズだけの平民政治家」「普通選挙に反対しとおした平民宰相」であった。

また、つぎの一文が目についた。

首相就任前の民衆の原への期待は大きいものだったが、就任後の積極政策とされるもののうち、ほとんどが政商、財閥向けのものであった。また、度重なる疑獄事件の発生や民衆の大望である普通選挙法の施行に否定的であったことなど、就任前後の評価は少なからず差がある。普通選挙法の施行は、憲政会を率いた加藤高明内閣を待つこととなる。

100年後のアベ政権はこうなるだろうか。

首相就任前の安倍への期待は右翼や改憲勢力や歴史修正主義者において大きく、国民の大半は民主党政権への失望からの消極的支持に過ぎなかった。就任後の積極政策とされるもののうち、ほとんどが大企業や金持ち階級、そして歴史修正主義派向けのものであった。また、森友事件や加計学園問題など、度重なる政治の私物化事件の発生や、公文書の隠匿・捏造・改竄を特徴として、民意の失望を招いた。さらに、立憲主義を理解することなく、首相自らが明文改憲を提唱し、解釈の変更による壊憲に奔走して、平和と民主主義の衰退をきたす元凶と指弾された。

この100年、議会制民主主義に進歩はあるのだろうか。そして、アベ政治後の議会制民主主義の危機を心配しなくてもよいのだろうか。

ところで、同館のリーフに、みごとな筆の「遺墨」が掲載されている。盛岡での戊辰戦争殉難50周年慰霊祭のあとの書だという。

  焚く香の煙のみだれや秋の風

という句に添え書きがあり、「余は、戊辰戦争は政見の異同のみ、誰か朝廷に弓をひく者あらんやと云って、その冤を雪げり」と読める。

「冤を雪ぐ」(えんをそそぐ)は、「冤罪」を晴らして無実を明らかにすること。賊軍とされた南部藩の死者について、「官軍側と政治的見解の相違はあったが、どこにも天皇に刃向かう者などいるはずはない」と弁護してその無実を晴らした、という一文。

時代の制約と言えばそれまでだが、この人どっぷりと天皇制に浸りきった生涯を送った。それが、安全な時代だった。今の時代には恥ずかしい天皇を敬する歌や句を遺している。たとえば次のような。

  大君の御面にかへて御かたみを 年のはじめにをがみつるかな

  はれ衣着て御幸拝むや秋日和

同じくフランス語とフランス文化を学びながら、中江兆民と原敬との天と地ほどの落差はどこからきたのだろうか。肝に銘じたい。原敬なる勿れ、中江兆民たれと。

それでも、議会制民主主義にもとづく政党政治は大切だ。薩長藩閥政治よりも、軍閥政治よりも、よっぽどマシなのだ。今、原敬とアベ晋三とを比較して、この100年間の進歩のなさを確認しなければならないことが哀しい。
(2018年12月28日・連続更新2098日)

金子みすゞは獲られた鯨の子を想い、アベ晋三は鯨をエサに票を獲る。

「金子みすゞ」。何という清澄な響き。その名を耳にすれば、心が洗われる。
「安倍晋三」。何という汚濁にまみれた響き。その名を聞くだに心がきしむ。

みすゞと晋三。およそかけ離れた、対照的な存在。住む世界が根本的に異なるのだ。聖なるものと俗なるもの。清らかなるものと穢れたもの。真実と嘘。善きこととと悪しきこと。そして、美しいものと醜いもの。

ところが、この両者に接点がないではない。繋ぐものは、出身地と鯨である。
よく知られているとおり、みすゞの生地は山口県大津郡仙崎村。今は、長門市の一部。長じてからは下関に出て、そこで幸薄い短い生涯を終えた。

晋三の生地は東京だが、本籍地は山口県大津郡油谷町。これも、現長門市である。その選挙地盤は、長門市と下関市からなる山口4区。

みすゞの詩には漁をうたったものが少なくない。仙崎が漁師町だったからだ。また仙崎は、捕鯨で知られた漁港でもあった。地元では、近代捕鯨の発祥の地と言っているようだ。みすゞの詩のなかには、鯨をテーマにしたものが見える。よく知られているのが、「鯨法会」だろう。

   鯨 法 会

 鯨法会は春のくれ、
 海に飛魚採れるころ。

 浜のお寺で鳴る鐘が、
 ゆれて水面をわたるとき、

 村の漁夫が羽織着て、
 浜のお寺へいそぐとき、

 沖で鯨の子がひとり、
 その鳴る鐘をききながら、

 死んだ父さま、母さまを、
 こいし、こいしと泣いています。

 海のおもてを、鐘の音は、
 海のどこまで、ひびくやら。

念のため、法会は「ほうえ」と読む。鯨の死を悼み供養する仏事が詩の題材になっている。みすゞの、獲られる側を思いやる気持が心に沁みて、何とももの悲しい。

もの悲しさとは異なる『鯨捕り』という詩も知られている。以下は、その一部。

 むかし、むかしの鯨捕り、
 ここのこの海、紫津が浦。

 海は荒海、時季は冬、
 風に狂うは雪の花、
 雪と飛び交う銛の縄。

 岩もこ礫もむらさきの、
 常は水さへむらさきの、
 岸さへ朱に染むという。

 厚いどてらの重ね着で、
 舟の舳に見て立って、
 鯨弱ればたちまちに、
 ぱっと脱ぎすて素っ裸
 さかまく波におどり込む、
 むかし、むかしの漁夫たち。

晋三には、引用すべき句も歌も詩もない。心に沁みるスピーチも、人を感動させるフレーズも皆無である。あるのは、ウソ、ごまかし、隠蔽、捏造、デンデン…。

しかし、選挙区の自分の支援者の声を聞くことには熱心なのだ。長門市と下関市からなる山口4区は、和歌山の太地と並ぶ捕鯨の拠点だという。なるほど、それがIWCを脱退して、商業捕鯨を始めようという理由と聞かされれば、合点がゆく。何とも唐突で、理解し難い政府の決定の、これか舞台裏であったか。

来年(2019年)7月開始が宣言された商業捕鯨は、沿岸捕鯨と沖合捕鯨(EEZ内)の2種があるという。沿岸捕鯨の中心地が、和歌山県の太地で、沖合捕鯨の基地は下関だという。つまりは、二階幹事長とアベ晋三の選挙区。たいへん分かり易い。

本日(12月28日)の「日刊ゲンダイ」が次の記事を掲載している。

「約30年ぶりの商業捕鯨再開に踏み切ったキーマンに、政府関係者は『山口と和歌山の政権ツートップ』を挙げ、安倍首相と二階幹事長の関与を示唆。太地町を選挙区に抱える二階幹事長は、この日も三軒町長に『(捕鯨を)徹底的にやれ』とハッパをかけたというが、日本の国際機関からの脱退は極めて異例だ。戦前に孤立化を深めた国際連盟脱退すら想起させる。

また、読売も、「自民推進派 脱退を主導」のタイトルの記事で、「二階氏中心的役割」をメインとしつつ、アベ晋三についても、こう書いている。

「安倍首相も、捕鯨の拠点がある山口県下関市を地盤としている。10月29日の本会議では、『一日も早い商業捕鯨の再開のため、あらゆる可能性を追求していく』と表明した」

今度は、鯨疑惑か。アベ晋三よ。鯨が泣いているぞ。

沖で鯨の子がひとり、その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしと泣いています。
海のおもてを、鐘の音は、海のどこまで、ひびくやら。

この鐘は、議会制民主主義の弔鐘に聞こえる。鯨の子だけではない。みすゞも泣くだろう。民主主義も泣かざるを得ない。
(2018年12月27日・連続更新2097日)

あたらしい憲法のはなし 『主権在民主義』を読む

「あたらしい憲法のはなし」は、青空文庫で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

その第1章から15章までの各章は、出来のよしあしの落差が甚だしい。「第6章 戰爭の放棄」「第3章 民主主義」の出来が比較的よく、最悪なのが「第5章 天皇陛下」。本日紹介する『第4章 主権在民主義』は、最悪の部類ではないが、なんとも出来が悪い。まずは、さして長くない全文に目を通していただきたい。

四 主権在民主義
みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろいろきめかたがあってむずかしいことです。
國では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし國の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、みないちばんえらいことになります。もし國民ぜんたいの考えできまるならば、國民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、國民ぜんたいの考えで國を治めてゆきます。そうすると、國民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
國を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が國民ぜんたいにあれば、これを「主権は國民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権は、とうぜん日本國民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一條にも、「主権が國民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が國民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
みなさんは、日本國民のひとりです。主権をもっている日本國民のひとりです。しかし、主権は日本國民ぜんたいにあるのです。ひとりひとりが、べつべつにもっているのではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本國民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい國民でなければなりません。

なんだ、このお説教口調は。「よいこどもであるとともに、よい國民でなければなりません」が、主権在民の論理的帰結だというのか。この文章が説くところは、主権在民の解説ではなく、主権在民の「履き違え弊害」防止説教なのだ。主権在民の世となったのだから、「民」である自分がエライと勘違いしてはいけない。そのことが著者の言いたいことなのだ。「じぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。…責任を感じなければなりません。」というのだ。およそバカげている。

この解説を読んで胸のつかえが治まらないのは、主権在「民」とは、主権在「君」の対立概念であることの説明がないからだ。天皇主権から国民主権への大転換の意義こそが熱く語られなければならない。天皇が主権者だった大日本帝国はなくなり、国民が主権を獲得した日本国が新たに生まれたことを、どうしてきちんと説明しないのか。こう言うべきのだ。

これまで天皇は、じぶんがいちばんえらいのだから、なにをしてもゆるされると思ってきました。そのような天皇を利用しようという人々にあやつられてもきました。国民は、いちばんえらい天皇が命じることに逆らってはいけないと教えられ、天皇に命令されれば、外国に出かけて行って天皇のために外国の人々を殺したり、天皇陛下万歳と言って死んだりしなければなりませんでした。これからは、そんなバカなことはいっさいない世の中に変わったのです。国民が主権者なのですから、天皇を認めるかどうか、国民の考え方次第で決めることができるようになったのです。

また、この解説には権力の概念がない。この解説の著者には、立憲主義の理解がないと言うべきなのだろう。「みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいか」という発題が、「國を治めてゆく力のことを「主権」といいます」と、どう結びつくのか、極めて分かりにくい。主権とは、「だれがいちばんえらいか」ではなく、政治権力の淵源がどこにあるか、である。「新しい憲法のはなし」では、端的にこう言うべきなのだ。

「これまでは、天皇を主権者と認めて、天皇には国民を治めていく力があるとしてきました。しかし、新しい憲法はこれを逆転しました。天皇を除いた国民に、国を治めていく力があり、天皇は国民にしたがわなければならないことになったのです」

(2018年12月25日)

ダウと日経平均に大型のクリスマスプレゼント

クリスマスである。私自身はキリストに対する信仰とは縁もゆかりもなく、キリストの誕生を祝う気持は皆無である。釈迦やマホメットや天皇の誕生を祝う気持がないのと変わらない。

ところがこの社会には、クリスマス文化が定着している。クリスチャンならざる人々が、クリスマスソングを唱い、クリスマスツリーを飾って、クリスマギフトを交換する。同じ人が、大晦日には寺に参詣して除夜の鐘を撞き、明けては神社に初詣をする。すべてが信仰とは無縁。これが文化と割り切ってのこと。そして、商業主義がしっかりとこのシンクレティズムを支えている。

信仰心なき輩が購入するクリスマスプレゼント。その経済効果は小さくない。社会全体がクリスマスセールやクリスマスパーティによるクリスマス景気で、つかの間の活況に沸くことになる。その意味では社会が、クリスマスプレゼントをもらうのだ。

ところが、今年のクリスマスプレゼントは、皮肉なものとなった。つかの間の経済活況に沸くどころか、大幅株安の打撃である。イブの24日、ニューヨークダウが653ドル下げて21,792ドルで引けた。続いて本日(25日)、東証日経平均が連休前終値の20,166円から1010円値下がりして、大台の2万円を割った19,155円で引けた。実に、一日にして5%を超える下げ幅。特大級のクリスマスプレゼント。

株が上がるたびに手柄顔をしてきたトランプには、ずっしり重いプレゼント。例のごとく、慌てふためいて株価下落の犯人捜しだ。商務長官あたりの首を斬ろうとしているとか。

東証は深刻な様相だ。「平均株価の値下がりは5営業日連続で、1年8カ月ぶりの安値を付けた。市場関係者によると、直近の高値からの下落率は2割を超え、悲観的な見方が優勢になる『弱気相場』入りした。」(共同)

明日の相場がどうなるかは誰にも読めない。しかし、公共資金を湯水のごとく注ぎ込んで支えていた「アベノミクス相場」の崩壊を思わせる。国民生活を支えるはずの原資をバクチにまわして、「スッてしまった」では、腹を切っても治まるまい。

別の話。12月上旬のころ、某有名証券会社からのセールス電話を受けた。爽やかで自信にみちた女性の声が、「あなたの資産運用に絶好のチャンス」という。例の携帯会社「ソフトバンク」株式の新規公開に伴うセールスだった。

「NTTの株式公開以来の話題でございましょう」「たいへんな人気なんですよ」「あのとき以来のチャンスです」とのたまう。普段なら電話を切ってしまうところだが、おもむろに聞いてみた。「で、私がその新規上場株を買っておけば、必ず儲かるということでしょうか」。セールストークの滑らかさが、少し言い淀んだ口調になった。「必ず儲かるとは言えません。でも、このような大型の株式公開では、これまではほとんどが順調に推移しています」という。「やっぱり、必ず儲かるという話しではないんですね。大事なお金。バクチにはまわせませんね」「だいたい、ソフトバンクなんて会社を育てようなどとは思わない。」

ここで腰折れしていては、セールスはできない。投資勧誘とは、人に不幸を押しつけることを厭わないのが真骨頂。「リスクがないとは言いませんが、利益の出る可能性は高いんですよ。銀行預金にしておいたところで、微々たる利息でしょう」「リスクがある投資よりは、タンス預金の方がマシだと思ってますから」「ではお客様。利は薄くてもリスクのない債権の購入をお勧めしたいと思いますが、いかがでしょうか」 なるほど、立派なもんだ。

12月19日、発行価格1500円での新規上場は、初値が1463円と発行価格に満たず、その日の終値は1282円と15%も下回る低調な出だしとなった。うっかりセールストークに乗せられなくて正解だった。公開されたソフトバンク株、本日(12月25日)も順調に値を下げて終値は、1271円である。

相場は政策的につくられ得る。しかし、いつまでもは続かない。最終的には、株は誰もの思惑を裏切ることになる。悪評さくさくのアベ政権だが、株高に支えられてきた。この株高の終焉は、政権の終焉にもつながる。明日の東証がどうなるか、政権の未来をも占うものとして関心をもたざるをえない。

この株安。ならず者トランプや、嘘つきアベの政治生命の終焉につながれば、その点は本物のクリスマスプレゼントになるのだが。
(2018年12月25日)

プーチンが 安倍に諭した 民主主義

表面上は至極真っ当な発言も、発言者が誰であるかでニュアンスは大きく変わってくる。「あれが真意であるわけはない」「裏があるに違いない」と勘繰りが先に立つのだ。場合によっては、字面とは真逆の真意が忖度されることにもなる。アベが言う「丁寧な説明」や「積極的平和主義」はその典型だろう。麻生太郎が口にした「セクハラ罪はない」や、河野太郎の「次の質問をどうぞ」も同類。

しかし他方、裏があるにせよ、真っ当なことには反論なしがたい。真っ当な発言はその内容ゆえに、真意の忖度とはかかわりなく、発言の重みをもつこともある。とりわけ、発言の相手がよほど真っ当ならざる場合には。

伝えられるプーチンの沖縄辺野古問題への言及も、その真意の忖度を超えた発言の重みを認めざるを得ない。なにせ、批判の対象が安倍晋三なのだから。

「ロシアのプーチン大統領は20日に開いた年末恒例の記者会見で、ロシアが北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、『日本の決定権に疑問がある』と述べた。安倍晋三首相はプーチン氏に北方領土には米軍基地を置かない方針を伝えているが、プーチン氏は実効性に疑問を呈した形だ。」

さらにプーチンは、「(米軍基地問題について)日本が決められるのか、日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない」「平和条約の締結後に何が起こるのか。この質問への答えがないと、最終的な解決を受け入れることは難しい」と言及し、安倍晋三の言の実効性を疑問視する理由を、辺野古基地建設問題を挙げて、こう発言したという。

「(沖縄県)知事が基地拡大に反対しているが、何もできない。人々が撤去を求めているのに、基地は強化される。みなが反対しているのに計画が進んでいる」。これが、「日本の主権のレベルを疑ってしまう」につながる。だから、2島返還後米軍基地が置かれる可能性を否定できないではないか。アベの言は信を措けない、との結論となる。

毎日の記事が具体的である。

 日本が配備する米国製のミサイル防衛(MD)システムに関し、プーチン氏は「防衛目的だと(いう日本の説明)は信じていない。システムは攻撃能力を備えている」と語った。ロシアは、日本が配備予定の陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」にも懸念を表明している。

 また、沖縄県の玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、米軍普天間飛行場の移設計画に伴い同県名護市辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて日本の主権のレベルを疑ってしまう」と批判的な見解を示した。

 さて、このプーチン発言。来月(19年1月)中旬から始まる日露の北方領土返還交渉の前哨戦と解説されているが、これが改憲問題に絡むかも知れないということで注目せざるを得ない。一部の観測では、今八方ふさがりの安倍政権にとって、唯一の点数稼ぎの展望が、「日露平和条約」の締結。「2島返還+α」を「現実的成果」として、ジリ貧挽回の解散だってないではないという。

安倍政権は、いまやあれもこれもうまく行っていない。経済も、原発も、沖縄も、国会運営も行き詰まっている。何よりも、ウソとごまかしにまみれたイメージが色濃く定着し、「信なければ立たず」という政治不信のジリ貧状態。トランプとも、習近平とも、韓国ともうまくやれない。そこに、プーチンの平和条約締結の提案。これがうまく行けば、タイミングを見計らっての解散総選挙。乾坤一擲の勝負に勝てば、改憲の目がまだ残されているというのだ。

興味深いのは、「沖縄県の玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、…辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて『日本の主権のレベルを疑ってしまう』」とされたこと。安倍が、民主主義や地方自治の精神について、プーチンから諭されている図。さすがに、プーチンには言われたくないが、アメリカへの過剰な義理立てが、他国には尋常でない国における尋常ならさる事態と映っているのだ。

住民の意思を蹂躙して、宗主国への思惑忖度を優先する「独立国」にあるまじき奇矯な行動。プーチンにまで、『日本の主権のレベルを疑ってしまう』と言われたことを恥辱ととらえなければならない。そうではないか。首相よ、外務大臣よ。そして防衛大臣と国交大臣よ。
(2018年12月24日)

天皇誕生日に昭和天皇の戦争責任を思う

本日は、天皇誕生日。読売の社説が、「天皇陛下85歳 平成最後の誕生日を祝いたい」とある。さて、何ゆえに「祝いたい」のだろうか。本当に目出度いのだろうか。

佛教では、人の逃れ得ぬ不幸を、生・老・病・死の「四苦」と教える。その生とは、そもそも生まれいづることなのだ。「生」は「苦」そのものというニヒリズムに徹した人生観。なるほど、生こそは、老・病・死の出発点であり、愛別離苦・怨憎会苦をはじめとする七難八苦の根源ではないか。とすれば、具眼の士には、人の誕生も誕生日も目出度くなんぞはないことになる。

しかし、凡夫の身には、人の誕生は目出度い。人の成長も目出度い。人の長寿もまた目出度い。苦が伴えども、生きていることは寿ぐべきことではないか。だから、親しい人の誕生日には、祝意が述べられる。

もっとも、赤の他人の誕生日にまで、祝意を述べてはおられない。親しい人であればこその心からの祝意であって、上辺の祝意や祝意の強制ほどいやみでやっかいなものはない。私にとって、天皇は赤の他人。面識もないし、メールのやり取りもない。世話になったことも、世話をしたこともない。多少の関係があるとすれば、私の納めた税金の幾分かが、彼の生活を支えているというくらいのこと。彼の誕生日は、彼の家族や友人には慶事であろうが、私にとっては格別に目出度いことではない。

一昨年(2016年)の今日の「日記」には、「天皇誕生日に思う」を書いた。以下は、その一節。
https://article9.jp/wordpress/?p=7870

昭和天皇(裕仁)の第1子から第4子までは女児であった。女児の誕生は「失望」と受けとめられていた。第5子にして初めての男児誕生が、「日本中が大喜び」「うれしいなありがと」と、目出度いこととされたのだ。もっとも、今退位を希望している天皇である。男児として生まれたことを自身がどう思っているかは窺い知れない。

私の母は、自分の心情として「嬉しかった」とは言わなかったが、「みんなが喜んでいた。嬉しがっていた」とは言っていた。おそらくは、お祭り同様の祝賀の雰囲気が巷に満ちていたのだろう。

天皇制は、不敬罪や治安維持法、あるいは宮城遙拝強制・徴兵制・非国民排斥・特高警察・予防拘禁・拷問などの、おどろおどろしい制度や強制装置によってのみ支えられたのではない。天皇制を内面化した民衆の心情や感性に支えられてもいたのだ。

昨年(2017年)の今日の「日記」には、12月23日・A級戦犯処刑の日に。以下は、その一節。
https://article9.jp/wordpress/?p=9654

本日、12月23日は、極東国際軍事裁判(東京裁判)において死刑の宣告を受けたA級戦犯7名が処刑された日として記憶される。69年前の今日のことだ。

判決が言い渡されたのは、同年11月12日。刑の執行の日取りについて特に定めはなかったが、皇太子明仁の誕生日を選んでの執行と伝えられている。

当時の皇太子はその後40年を経て天皇となった。本日は、その地位に就任して29回目の天皇誕生日である。今日、A級戦犯の刑死はさしたる話題にならず、もっぱら明後年(2019年)の天皇の生前退位だけが話題である。GHQと極東委員会の思惑ははずれたことになるのだろうか。しかし、今日は昭和天皇の戦争責任を考えるとともに、国民精神を戦争に動員した天皇制の危険性について、思い語り合うべき日であろう。

天皇は、本日の誕生日に記者会見用の談話を発表している。そのうちの下記の点について、最小限のコメントを付しておきたい。

昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。

戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

この人は出自の重荷を背負って生きてきた人なのだと改めて思う。端的に言えば、親のしたことの償いを自分の使命と考えて生きてきたのだろう。もちろん、昭和天皇(裕仁)の戦争責任を意識してのこと。天皇の戦争責任については、これまで何度も書いてきた。最近のものとしては、下記をご覧いただきたい。

「『あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか』」 ― 天皇(裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒(2018年8月23日)
https://article9.jp/wordpress/?p=10939
その書き出しは以下のとおりである。

人は兵士として生まれない。特殊な訓練を経て殺人ができる心身の能力を身につけて兵士となる。人は将校として生まれない。専門的訓練によって躊躇なく部下を死地に追いやる精神を身につけて将校となる。人は帝王として生まれない。「だれもが自分のために死ぬことが当然」とする人倫を大きく逸脱した帝王学によって育てられて帝王になる。

兵士は戦場で死ぬことを覚悟しなければならない。将校は作戦の失敗に責任をとらねばならない。帝王は帝国と運命をともにしなくてはなららない。革命や敗戦によって帝国が滅びるとき、当然に帝王も死すべき宿命を甘受する。が、ごくまれにだが、おめおめと生き延びる例外がないでもない。

昭和天皇(裕仁)は、沖縄地上戦で天皇の軍隊が沖縄の住民に加えた蛮行を知悉していたはず。また、「天皇メッセージ」によって、奄美・沖縄を占領軍に売り渡したことでも知られる。生前、沖縄を訪問することはできなかった。現天皇は、父に代わって贖罪の沖縄訪問を重ねたのだ。サイパンやパラオ、フィリピンの慰霊のため訪問も、贖罪の旅であった。惜しむらくは、自国民の犠牲に対する追悼が明確であったのに比して、加害責任と謝罪の意思は曖昧であった。
(2018年12月23日)

こちら特報部に、澤藤大河「『自衛隊マンガ』から見えるもの」

本日(12月22日)の「東京新聞・こちら特報部。タテの見出しに、「沢藤弁護士に聞く」とある。「沢藤弁護士」とは、私のことではない。澤藤大河のインタビュー記事。ヨコ見出しは、「『自衛隊マンガ』から見えるもの」。そして、「『空母いぶき』現実先取り?」「いじめや閉鎖体質描く作品も」「大きな顔しない自衛隊望ましい」等の中見出しが続く。最近のマンガが自衛隊をどう描いているか。そのことから、何を読みとることができるかを澤藤大河が解説している。

リードは、下記のとおり。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2018122202000151.html

「海上自衛隊の護衛艦「いずも」の空母化が新たな防衛大綱などに明記され、その現実を先取りしたかのようなマンガ「空母いぶき」が注目されている。近年自衛隊が登場するマンガには、フィクションの世界ながら、艦船などの装備や隊員生活をリアルに描く作品が多い。そこから自衛隊や社会の何が読み取れるのか。法律雑誌で作品を分析した沢藤大河弁護士に聞いた。」

この「法律雑誌」とは、「法と民主主義」(2018年7月号・№530)のこと。その特集が、「自衛隊の実像」だった。
https://www.jdla.jp/houmin/

◆特集にあたって………編集委員会・澤藤統一郎
◆旧軍と自衛隊 シビリアン・コントロールの視点から………纐纈 厚
◆「防衛計画の大綱」改定への動向………大内要三
◆現代の戦場経験から考える自衛隊の憲法明記問題………清末愛砂
◆防衛大学校の「教育」と人権侵害の実態………佐藤博文
◆自衛隊関連文献解説・文献編 読書ノート・自衛隊………小沢隆一
◆自衛隊関連文献解説・漫画編 漫画に描かれた自衛隊………澤藤大河

特集のコンセプトを要約すれば、次のようなもの。

本特集は、安倍九条改憲案が、憲法上の存在として位置づけようという自衛隊と、隊員の実像をリアルに把握するための論稿集である。これまで「専守防衛」に徹するとされてきた自衛隊の実態は安保法制下、どう変容しようとしているのか。また、実力組織としての自衛隊を統制する仕組みは、今どうなっているのか。統帥権干犯を口実に暴走を始めた旧軍の歴史の教訓はどう生かされているのだろうか。そして、にわかにクローズアップされてきた、自衛隊隊内とりわけ幹部教育における人権侵害の実態は、どうなっているのか。

その特集にふさわしい錚々たる研究者・実務家の論稿に混じって、ひとり錚々ならざる少壮弁護士が「漫画に描かれた自衛隊」を寄稿している。その紹介文が下記のとおり。

◆「漫画に描かれた自衛隊」(澤藤大河・弁護士)。こちらは漫画編。サブカルが社会の雰囲気をよく反映している側面は軽視し得ないし、社会への影響力も看過できない。漫画でもリアルにいじめやしごきの実態が描かれ、「これがあってこそ精強な軍隊を維持できるというイデオロギーが根付いている」という。また、「最近、何のてらいもなく自衛隊を絶賛する漫画が増えている」「戦争や兵器、しごきやいじめまでエンターテイメントとして消費している現状は、読者も戦争を巡る理不尽にならされてきているのではないか」という居心地の悪さが語られている。

硬い、硬すぎる法律雑誌に、異例の軟派記事。それだけで多少の話題となり、「こちら特報部」の目にとまったということなのだろう。

なお、この「漫画に描かれた自衛隊」の稿の末尾に、「この稿を書くのに、漫画評論家紙谷高雪氏の助言を得ました」とある。この人、大河の学生時代の友人だそうだが、当時は無名の人。その人が、12月3日の「ユーキャン新語流行語大賞」のトップテンに入賞した「ご飯論法」の名付け親として上西充子さんと共同受賞して、俄然有名人になった。人とのマンガつながりも面白い。

本日の「こちら特報部」、何よりも分かり易い。書き出しはこうだ。

「かっては『軍隊もの』の中で自衛隊はマイナー分野だった。専守防衛を掲げる自衛隊を扱っても、実戦が描けずドラマになりにくいためでした」

それが、今は違うという。リアリティをもった自衛隊の実戦がストーリー化されている。また、自衛隊内部のリアルなイジメやシゴキが、それなりの意味づけをほどこされて描かれてもいるという。マンガに描かれた自衛隊像・自衛隊員像は明らかに変化しているというのだ。少なからぬ人々の意識の変化を反映するものなのだろう。

その社会意識の変化に対するインタビュー記事の結びの言葉は、以下のとおりだ。同感である。

「軍事力を増強し、実力行使でものごとを解決しようという姿勢は幼稚だが、それが正しいと考える社会に向かっている。平和を語ると、理想主義だとあざける風潮もあるが、私には熱に浮かされているように見える」

(2018年12月22日)

「防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障の充実を求める声明」

本日(12月21日)、幾つかの紙面朝刊に、「おや、お久しぶり」。徳岡宏一朗さんのお顔が。日本外国特派員協会での申ヘボン(しん・へぼん)青山学院大教授と並んでの記者会見の写真。

この会見は、「防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障への優先的な公的支出を求める声明」という、やや長い標題の声明発表記者会見。いま、防衛大綱が発表され、来年度予算案の閣議決定が話題となっている。誰の目にも、青天井の防衛費によって福祉・教育の予算が圧迫され侵蝕されている構図が明らかとなっている。これを、国際人権の視点から批判したのがこの声明。「研究者・実務家有志一同」による声明だが、18人の呼びかけ人に、220人が賛同した形。私も、18人の呼びかけ人の一人となっている。

この記者会見の報道は、東京新聞が最も大きく紙幅を割いている。「防衛費増大に抗議声明 大学教授ら『人権規約に反する』」という見出し。

 米国製兵器の輸入拡大で防衛費が毎年増加している問題で、申惠ボン(しんへぼん)青山学院大教授(国際人権法)らが20日、東京・丸の内の日本外国特派員協会で会見し「政府が米国などから莫大な額の兵器を買い込む一方で、生活保護費や年金の切り下げ、貧弱な教育予算を放置することは、憲法の平和主義、人権保障だけでなく、国際人権規約に反する」との抗議声明を発表した。

 声明は申さんら18人の大学教員や弁護士が呼び掛け、東京大大学院の高橋哲哉教授(哲学)、小林節慶応大名誉教授(憲法学)、伊藤真弁護士ら約210人が賛同者に名を連ねた。
 声明では、安倍政権は史上最高規模の防衛予算を支出し、その補填として補正予算も使っているのは、憲法の財政民主主義に反すると指摘。「主要先進国で最悪の財政状況にある日本にとって、米国の赤字解消のため借金を重ねて巨額の予算を費やすのは常軌を逸している」と批判している。
 一方で「政府は生活保護費の減額で予算削減を見込んでいるが、米国からの野放図な兵器購入を抑えれば必要なかった」と指摘。「社会保障や適切な生活水準の権利の実現を後退させることは、国際人権規約に反する」とした。

 申さんは会見で「巨額の武器を米国の言い値でローンまで組んで買うのが問題。貧困・格差が広がっており、財政破綻しないように限られた予算をどれだけ防衛費に割くか、真剣に考えないと。中国が軍事力を増やすからと張り合えば、際限のない軍拡競争。十九世紀に逆戻りだ」と話した。 

 徳岡さんは、この声明の独自性を、「財政赤字の中、福祉・教育予算にしわ寄せして、防衛費だけ異常に増大させることは国際人権規約(社会権規約)に違反すると明言した」ところにあると言っている。また、この声明が「なぜ成功したか」というと、「憲法などの法律の専門家だけではなく、国際人権法、社会保障、教育、財政法など様々な専門家と実務家が結集できる内容だったから」とも言っている。人脈は貴重だ。

下記に、やや長いが、声明の全文を掲載しておきたい。呼びかけ人や賛同者たちのの危機感が伝わってくると思う。
(2018年12月21日)
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防衛費の異常な増加に抗議し、教育と社会保障への
優先的な公的支出を求める声明

2018年12月20日 研究者・実務家有志一同

声明の趣旨

世界的にも最悪の水準の債務を抱える中、巨額の兵器購入を続け、他方では生活保護や年金を引き下げ教育への公的支出を怠る日本政府の政策は、憲法と国際人権法に違反し、早急に是正されるべきである。

1.安倍政権は一般予算で史上最高規模の防衛予算を支出しているだけでなく、補填として補正予算も使い、しかも後年度予算(ローン)で米国から巨額の兵器を購入しており、これは日本国憲法の財政民主主義に反する。

2.米国の対日貿易赤字削減をも目的とした米国からの兵器「爆買い」で、国際的にも最悪の状態にある我が国の財政赤字はさらにひっ迫している。

3.他方で、生活保護費や年金の相次ぐ切り下げなど、福祉予算の大幅削減により、国民生活は圧迫され貧困が広がっている。

4.また、学生が多額の借金を負う奨学金問題や大学交付金削減に象徴されるように、我が国の教育予算は先進国の中でも最も貧弱なままである。

5.このように福祉を切り捨て教育予算を削減する一方で、巨額の予算を兵器購入に充てる政策は、憲法の社会権規定に反するだけでなく、国際人権社会権規約にも反する。

以下、具体的に理由を述べる。

1 莫大な防衛費増加と予算の使い込み
現在、安倍政権の下で防衛費は顕著に増加し続け(2013年度から6年連続増加)、2016年度予算からは、本予算単独でも5兆円を突破している。加えて、防衛省は、本来は自然災害や不況対策などに使われる補正予算を、本予算だけでは賄いきれない高額な米国製兵器購入の抜け道に使い、2014年度以降は毎年2,000億円前後の補正予算を計上して、戦闘機や輸送機オスプレイ、ミサイルなどを、米側の提示する法外な価格で購入している。
しかも、これには後年度負担つまり次年度以降へのつけ回しの「ローン」で買っているものが含まれ、国産兵器購入の分を合わせると、国が抱えている兵器ローンの残高は2018年度予算で約5兆800億円と、防衛予算そのものに匹敵する額に膨れ上がっている(2019年度は5兆3,000億円)。米国へのローン支払いが嵩む結果、防衛省が国内の防衛企業に対する装備品代金の支払いの延期を要請するという異例の事態まで起きている(「兵器ローン残高5兆円突破」「兵器予算 補正で穴埋め 兵器購入『第二の財布』」「膨らむ予算『裏抜』駆使」「防衛省 支払い延期要請 防衛業界 戸惑い、反発」東京新聞2018年10月29日、11月1日、24日、29日記事参照)。毎会計年度の予算は国会の議決を経なければならないとしている財政民主主義の大原則(憲法86条)を空洞化する事態である。
防衛省の試算によれば、米国から購入し又は購入を予定している5種の兵器(戦闘機「F35」42機、オスプレイ17機、イージス・アショア2基など)だけで、廃棄までの20?30年間の維持整備費は2兆7,000億円を超える(「米製兵器維持費2兆7,000億円」東京新聞11月2日)。さらに、これに輪をかけるように、政府は、「F35」を米国から100機追加取得する方向で検討しており、取得額は1機100億円超で計1兆円以上になる見込みである(2018年11月27日日本経済新聞)。

2 米国のための高額兵器購入による財政逼迫
このような防衛費の異常な膨張について、根源的な問題の一つは、米国からの高額の兵器購入が、トランプ政権の要請も受け、米国の対日貿易赤字を解消する一助として行われていることである。
歳入のうち国債依存度が約35%を占め、国と地方の抱える長期債務残高が2018年度末で1,107兆円(対GDP比196%)に途するという、「主要先進国の中で最悪の水準」(財務省「日本の財政関係資料」2018年3月)の財政状況にある日本にとって、他国の赤字解消のために、さらなる借金を重ねてまで兵器購入に巨額の予算を費やすことは、国政の基盤をなす財政の運営として常軌を逸したものと言わざるを得ない。
また、導入されている兵器の中には、最新鋭ステルス戦闘機「F35」のような攻撃型兵器が多数含まれている。戦闘機が離着陸できるよう海上自衛隊の護衛艦「いずも」を事実上「空母化」する方針も示されている。これらは専守防衛の原則を逸脱する恐れが強い。
政府は北朝鮮情勢や中国の軍備増強を防衛力増強の理由として挙げるが、朝鮮半島ではむしろ緊張緩和の動きが活発化しているし、近隣国を仮想敵国として際限なく軍拡に走ることも、武力による威嚇を禁じ紛争の平和的解決を旨とする現代の国際法の大原則に合致せず、それ自体が近隣国の警戒感を高める、かえって危険な政策というべきである。

3 福祉切り捨ての現状
このように防衛費が破格の扱いで膨張する一方、政府は、生活保護費や年金の受給額を相次いで引き下げている。
生活保護については、2013年からの大幅引き下げに続き、今年10月からは新たに、食費など生活費にあてる生活扶助を最大で5%、3年間かけて引き下げることとされ、これにより、生活保護世帯の約7割の生活扶助費が減額となる。
しかし、削減にあたってば、減額された保護費が最低限の生活保障の基準を満たすのかどうかにっいての十分な検討がされておらず、厚生労働省の生活保護基準部会の報告書がこの点で提起した疑問は反映されていない。特に大きな影響を受ける母子世帯や高齢者世帯を含め、受給当事者の意見を聴取することも一切されていない。
生活保護基準は、最低賃金や住民税非課税限度額など様々な制度の基準になっているため、引き下げによる国民生活への悪影響は多方面にわたる。
また、年金については、2013年からの老齢基礎年金・厚生年金支給額の減額に続き、長期にわたり自動的に支給額が削減される「マクロ経済スライド」が2015年から発動されており、高齢者世帯の貧困状況は悪化している。
政府は生活保護減額によって160億円の予算削減を見込んでいるが、そもそも、国家財政を全体としてみた場合、この削減は、青天井に増加している防衛費の増加、とりわけ米国からの野放図な兵器購入を抑えれば、全く必要がなかったものである。
日本の国家財政は、米国の兵器産業における雇用の剔出iと維持のために用いられるべきものではない。国民の生存権よりも同盟国からの兵器購入を優先するような財政運営は根本的に間違っている。

4 主要国で最も貧弱な日本の教育予算
日本は、GDPに占める教育への公的支出割合が、主要国の中で例年最下位である。特に、日本は「高等教育の授業料が、データのあるOECD加盟国の中で最も高い国の一つであり、過去10年、授業料は上がり続けている。「高等教育機関は多くを私費負担に頼っている。日本では、高等教育段階では68%の支出が家計によって負担されており、この割合は、OECD加盟国平均30%の2借を超える」(OECD.Educalion at a Glance 2018)。
給付型奨学金は2017年にようやく導入されたものの、対象は住民税非課税世帯に限られ、学生数は各学年わずか2万人、給付額は月2?4万円にすぎない。大学生の75%は私立大学で学んでいるが、国の私学助成が少ないため家計の負担が大きいところ、私大新入生のうち無利子奨学金を借りられるのは15%にすぎず(東京私大教連調査)、多くの卒業生は奨学金という名のローン返済に苦しんでいる。「卒業時に抱える平均負債額は32,170ドルで、返済には学士課程の学生で最大15年を要する。これは、データのあるOECD加盟国の中で最も多い負債の一つである」(OECD,supra)。2011年から2016年の5年間で延べ15,338入が、奨学金にからんで自己破産している(「奨学金破産、過去5年で延べ1万5千人 親子連鎖広がる」朝日新聞デジタル2018年2月12日)。
国立大学法人化後、その基盤経費となる運営費交付金も年々削減され(2004年から2016年までで実質1,000債円以上。文部科学省調査)、任期付き教員の増加など大学の教育・研究に支障をきたしている(「土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち これが『科学技術立国』の足元」Wedge Infinity2017年11月27日)。
高等教育だけではない。教育予算が全体としてきわめて貧弱であり人員が少ないため、公立の小・中・高等学校では半数以上の教員が過労死レベルで働いている(「過労死ライン超えの教員、公立校で半数 仕事持ち帰りも」朝日新聞デジタル2018年10月18日)。
教育に予算を支出しない国に未来はあるだろうか。納税者から託された税金を何にどう用いるかという財政政策において、教育を受ける権利の実現は最優先事項の一つでなければならない。

5 日本は社会権規約に違反している
憲法25条は国民の生存権を保障している。また、日本が批准している「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)は、社会保障についての権利(9条)、適切な生活水準についての権利(11条1項)を認め、国はこれらの権利の実現のために、利用可能な資源を最大限に用いて措置を取る義務があるとしている(2条1項)。
権利を認め、その実現に向けて措置を取る義務を負った以上は、権利の実現を後退させる措置を取ることは規約の趣旨に反する(後退禁止原則)。社会権規約の下で設置されている社会権規約委員会は「一般的意見」で、「いかなる意図的な後退的措置が取られる場合にも、国は、それがすべての選択肢を最大限慎重に検討した後に導入されたものであること、及び、国の利用可能な最大限の資源の完全な利用に照らして、規約に規定された権利全体との関連によってそれが正当化されること、を証明する責任を負う」としている。
このような観点から委員会は、日本に対する2013年の「総括所見」で、社会保障予算の大幅な削減に懸念を示している。また、日本の最低賃金の平均水準が最低生存水準及び生活保護水準を下回っていることや、無年金又は低年金の高齢者の聞で貧困が広がっていることにも懸念を表明した(外務省ウェブサイト「国際人権規約」参照)。
今年(2018年)5月には、10月からの生活保護引き下げについて、「極度の貧困に関する特別報告者」を含む国連人権理事会の特別報告者ら4名が連名で、引き下げは日本の国際法上の義務に違反するという声明を発表し政府に送る事態となった。「日本のような豊かな先進国におけるこのような措置は、貧困層の人々が尊厳をもって生きる権利を直接に掘り崩す、意図的な政治的決定を反映している。」「貧困層の人権に与える影響を慎重に検討しないで取られたこのような緊縮措置は、日本が国際的に負っている義務に違反している」。
また社会権規約は、国はすべての者に教育の権利を認め、中等教育と高等教育については、無償教育を漸進的に導入することにより、すべての人に均等に機会が与えられるようにすることと規定している。適切な奨学金制度を設立することも定めている(13条2項)。
教育に対する日本の公的支出の貧弱さはこれらを遵守したものになっていない。

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 後年度負担まで組んで莫大な額の兵器を買い込み国家財政を逼迫させる一方で、十分な検討も経ずに生活保護を引き下げることや、きわめて貧弱な教育予算を放置し又は削減することは、憲法の平和主義、人権保障及び財政上の原則のみならず、国際法上の義務である社会権規約(及び、同様の規定をもつ子どもの権利条約や障害者権利条約など)に違反している。我々は、安倍政権による防衛予算の異常な運営に抗議し反対の意を表明するとともに、教育と社会保障の分野に適切に予算を振り向けることを強く求めるものである。

<呼びかけ人>(五十音順、*発起人)
荒牧 重人(山梨学院大学教授、憲法学・子ども法)
井上 英夫(金沢大学名誉教授・佛教大学客員教授、人権論・社会保障法学)
大久保 賢一(弁護士)
小久保 哲郎(弁護士、生活保護問題対策全国会議事務局長)
今野 久子(弁護士)
澤藤 統一郎(弁護士、日本民主法律家協会元事務局長・日本弁護士連合会元消費者委員会委員長)
*申 ホンヘ(青山学院大学教授、国際人権法学会前理事長、国際人権法学)
田中 俊(弁護士)
谷口 真由美(大阪国際大学准教授、国際人権法学)
角田 由紀子(弁護士)
*徳岡 宏一朗(弁護士)
戸室 健作(千葉商科大学専任講師、社会政策論)
根森 健(神奈川大学特任教授、新潟大学・埼玉大学名誉教授、憲法学)
尾藤 廣喜(弁護士、生活保護問題対策全国会議代表幹事)
藤田 早苗(エセックス大学研究員、国際人権法学)
藤原 精吾(弁護士・日本反核法律家協会副会長・日本弁護士連合会元副会長)
吉田 雄大(弁護士)

「有権者の皆さん目覚めてください。立ち上がってください」

本日の毎日新聞第12面「オピニオン」の頁。「みんなの広場欄」の投書が目にとまった。「有権者の皆さん立ち上がろう」という、まことにストレートで、けれんみのないタイトル。投稿者は、滋賀県東近江市にお住まいの(無職・小西恵美子さん・70)。

まずは、その全文を引用させていただく。

 内容が不十分にもかかわらず、まともな審議もせずに国の方向を左右する法案の採決を強行。さらに、体を張って「美(ちゅ)ら海」を守ろうとする沖縄の人たちを排除し、埋め立て工事を強行。これが我が国の政府のやり方です。どこに良識があるのでしょうか。
 「さすがにこれでは良くない」と思っていても、長いものには巻かれろとばかりに「1強」になびき、異を唱えることさえできない与党の面々。しかし、その人たちは私たちが選んだ議員なのです。
 有権者の皆さん、目覚めてください。立ち上がってください。こんな政治を静観せず、改めさせることができるのは有権者の一票一票なのです。それを無駄にせず、「物事を正しく考えて発言できる」人に投票しましょう。
 来年は参院選が行われます。一人一人が政治に関心をもちましょう。そして、国民が安心して暮らせる平和な社会をつくるため、棄権せず、「正しい投票」をしましょう

 何とシンプルで力強い呼びかけだろうか。全面的に賛同したい。私も、「目覚めよう。立ち上がろう」と思う。そして、多くの人に、この思いを伝えたい。

この投書者は、今の政治に怒り心頭なのだ。よほど腹に据えかねている。しかし、絶望してはならないと自分に言い聞かせ、自分にできることを探して、新聞投稿という手段に訴えたのだ。まず、自らが立ち上がり、人に呼びかけることで一歩を踏み出したのだ。立派なことだと思う。

しかも、安倍や麻生を罵倒したい気持ちを抑えて、表現を抑制している。何よりも、多くの人の共感を得たいと考え抜いてのことだろう。

この投書者の現政権に対する危惧と批判は、何よりも議会制民主主義の劣化にある。誰が見ても明らかなとおり、重要法案の中身がいい加減だ。法案を必要とする根拠に関する資料は、捏造され、隠蔽され、改竄される。それでいて、まともな審議もすることなく、数を恃んでの採決強行が常套化している。議会は明らかに、形骸化させられている。恐るべき事態なのだ。これを「与党も野党もどっちもどっち」などと傍観していてはならない。真っ当な議会を、民主主義を取り戻さなければならない。

さらに、「体を張って「美(ちゅ)ら海」を守ろうとする沖縄の人たちを排除し、埋め立て工事を強行」。これは、住民の声を聞こうとしない権力の暴走以外のなにものでもない。しかも、公有水面埋立法では、海面の埋立は県知事の許可または承認が必要なのだ。その権限をもつ沖縄県知事が、国の埋立を違法と言っている。にもかかわらず、安倍政権は、問答無用で「沖縄の人たちを排除し、埋め立て工事を強行」しているのだ。誰もが納得できないことを「安倍一強」政権は強行している。いまや、安倍政権に一片の良識も見出すことはできない。

この劣化した政治の責任を負うべきは、まず「一強」と言われる安倍首相やその取り巻きにあり、次いで「長いものには巻かれろとばかりに「一強」になびき、異を唱えることさえできない与党の面々」にある。そのとおりだ。しかし、投書者の言いたいことはその先にある。

しかし、与党議員も、与党議員が選出した安倍内閣も、実は私たちが選挙で選んだ議員なのです。選挙で選んだ議員であり政権なのだから、選挙で覆すことができるはず。こんな、民意から離れた、あぶなくて、薄汚い政治は、有権者の意思で変えられるはずではないか。

だから、投書者の痛切な訴えとなる。有権者の皆さん、目覚めてください。立ち上がってください。」という、声が絞り出される。改めて、その通りだと思う。「こんな政治を静観せず、改めさせることができるのは有権者の一票一票なのです。」

最近数回の国政選挙では、有権者は間違えた選択をしてしまった。自民党や公明党に多数の議席を与えてしまったのだ。残念ながらこの議員たちは、「物事を正しく考えて発言できる」人たちではなかった。この与党議員に対する投票は無駄になってしまった。いや、無駄どころか、その投票が腐敗した一強政治を育んでしまったのだ。民主主義の破壊、住民自治の破壊、憲法理念の破壊の進行をもたらしてきたのだ。今度こそ、自民党や公明党の候補者に投票することで過ちを繰り返してはならない。今度こそ、一票を無駄にすることなく、「正しい投票」をしなけれはならない。

「正しい投票」とは、一人一人が政治に関心をもち、政治を見つめ、話し合い、候補者を見極めての投票のことだ。具体的に、どの政党、どの政治勢力への投票が「正しい」投票であるかは、見解が分かれよう。しかし、今確実言えることは、諸悪の根源である安倍一強政治を生きながらえさせる投票であってはならないということだ。

来年(2019年)の4月には統一地方選挙、7月には参院選がある。現与党に大きな反省を迫る投票こそが、民主的で平和な社会を作るための「正しい投票」であると、私は確信する。

小西恵美子さん、ご活躍を。
(2018年12月20日)

アベ独白 ― 「沖縄の皆様の心に寄り添う」の真意

「沖縄県民に寄り添う」っていう、私の例のフレーズ。最近とみに評判が悪い。冗談の分からない人々が真に受けちゃって、本気になって批判しているから始末にこまる。「沖縄県民に寄り添う気持があるなら、辺野古の埋立は直ちに中止して、県民投票の結果を待つべきだ」なんてね。私がそのとき任せの口先だけでものを言っているのが、分からないんだろうかね。

「県民の皆様に寄り添う」って、私がこの頃急に言い始めたわけじゃない。一昨年(2016年)6月23日の「沖縄全戦没者追悼式典」あたりが初めてのことだったように思う。このときの式辞で、私は「沖縄県民の皆様方の気持ちに寄り添いながら、成果を上げていきたいと考えています。」と言っている。少しも具体性はないけど、なんとなく上手にその場を取り繕うフレーズとして、よくできていると思うんだ。

なにしろ沖縄は、政権にとっては完全にアウエイの雰囲気。全国どこでもたいてい私が顔を出すところは、物欲しげな物わかりよい常識人ばかりが集まってくる。だから、みんなが私をチヤホヤもし、忖度もしてくれる。それが首相たる私に対するエチケットというものだろう。ところが、広島だの長崎だの沖縄となると話しが別だ。ガチな雰囲気なんだ。誰も物欲しそうにしていないから、始末に悪い。こんなところでは、「県民の皆様に寄り添う」って、リップサービスをせざるを得ない。そのときより前にも「寄り添う」をつかったかも知れないが、もう忘れてしまった。何しろ、口先だけのことなんだから。

今年(2018年)6月23日の、「沖縄全戦没者追悼式」でも、式辞を「今後とも沖縄の皆様の心に寄り添いながら負担軽減を進めていく考えであります。」と締めくくった。

「沖縄の皆様の心に寄り添い」って何のことだか、しゃべっている私にもよく分からない。でも、分からないなりに、なんとなくそれなりの雰囲気は出ているじゃないの。それに、ちゃっかり「今後とも」と入れたから、「これまでも皆様の心に寄り添ってきた」ことになる。うまくやったと思ったんだ。だけどあのとき、翁長雄志さんから、刺すような険しい目でにらまれて、正直恐かったね。鬼気迫るオーラが漂っていた。

今年8月6日の「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の挨拶でも、「寄り添う」の使い回しをした。被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的に推進してまいります。」とね。ああ、このフレーズ便利だ。いろんなところで使える。

次は、10月9日。翁長雄志さんの県民葬。そこで、官房長官が私の弔辞を代読した。そのときの起案の中に、「県民の気持ちに寄り添いながら沖縄の振興・発展に全力を尽くす」というフレーズを入れたんだ。ところが、これに反応して怒声が飛んだ。県民参列者からの「帰れ!」「嘘つき!」「いつまで沖縄に基地負担を押しつけるんだ」などなど。葬儀の場で怒号が飛び交うのは珍しい光景だろう。県民の相当数が、翁長さんの命を縮めたのは、安倍と菅だと思い込んでいる様子なんだ。それにしても、「嘘つき」と言われるのは応える。思い当たるから、なおさらだ。

続いて10月12日官邸に玉城新知事を迎えての会談の席。変わり映えしないが、プロンプターを覗き込みながら、こう言った。
「戦後70年がたった今なお、米軍基地の多くが沖縄に集中しているという大きな負担を担っている。この現状は到底、是認できるものではない。今後とも、県民の皆さまの気持ちに寄り添いながら、基地負担の軽減に向けて一つひとつ着実に結果を出していきたい」

そして10月24日。臨時国会冒頭の所信表明演説にも、このフレーズを入れ込んだ。「今後も、抑止力を維持しながら、沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減に、一つひとつ、結果を出してまいります」とやった。

「今後も」「抑止力を維持しながら」というんだから、これまでとすこしも変わらないつもりだったんだが、「沖縄の皆さんの心に寄り添い」がひとり歩きを始めたようだ。本気で言ってるわけじゃないから、痛し痒しというところ。

こんな風に「沖縄の皆さんの心に寄り添い」と繰りかえしながら、辺野古の海を埋め立てて新基地を作る方針を変えたことはない。こういうことは、ブレてはいけないんだ。

沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減に、結果を出してまいります」と国会で演説したのが10月24日。そして、11月1日には辺野古埋立の工事再開に踏み切ったのだから、まあ、少しは早かったかもしれないな。さらに、大浦湾に土砂投入を開始したのが12月14日。「嘘つき」呼ばわりも無理はなかろう。

でも、私も「ご飯論法」のアベだ。まったく言い分がないわけでもない。

まず、私は、確かに「沖縄の皆さんの心に寄り添い」とは言ったよ。だけど、「沖縄の皆さんだけの心に寄り添い」とは言っていない。わざわざ口に出さなくても、本土の皆さんや、私の支持基盤である右翼の皆さん。あるいは、アメリカ政府の皆さんなど、「多くの方々の心にも寄り添」わなくてはならない。だから、心ならずも、沖縄の皆さんを失望させることもあるのは、やむを得ない。

それだけじゃない。「沖縄の皆さん」も一色ではない。当然に、寄り添うべき心も千差万別じゃないか。かならずしも辺野古新基地建設反対だけが、寄り添うべき心だとは思えない。自然を破壊しても、騒音や事故が頻発しても、軍事基地を作っていただきたい、という沖縄の心だって、探せばあるはず。中国や北朝鮮の脅威から我が国を防衛するための基地建設なんだから、アベ政権に協力したいという「声なき声」をよく聞かなければならない。
耳を澄ますと、ほら、そういう右側からのかすかな声が、私だけにははっきりと聞こえてくるんだ。

(2018年12月19日)

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