対立する当事者との意見の食い違いがあるとき、何よりも必要なことは、相手の言い分をよく聞くことだ。対北朝鮮、対韓国、対中国の諸問題では、圧倒的なメディア・ナショナリズムが、相手側の言い分を掻き消している感がある。慰安婦問題に関する2015年日韓合意でも、その印象が深い。
一昨日(2月11日)の毎日新聞朝刊第7面(国際面)「世界の見方」欄に、南基正(ソウル大日本研究所副教授)が、「10億円の意味 確認を」というタイトルの寄稿が掲載されている。達意の文章で、説得力に富む。読後、「なるほど、韓国世論はこう考えているのか」と蒙を啓かれた思いがある。目立たない隅っこの記事でネットにもアップされていないが、貴重な意見として紹介したい。
「平昌五輪開会式に安倍音三首相が出席し、文在寅大統領と首脳会談を行ったことはひとまず良かった。2015年の慰安婦問題に関する日韓両政府合意をめぐる意見の隔たりにもかかわらず、未来志向を確認したことは、大人の外交の可能性を示した。
合意直後から日本側は日本政府が拠出する10億円は日本政府の責任認定と関係ないかのように説明し、安倍首相は元慰安婦たちにおわびの手紙を送ることは『毛頭考えていない』と切り捨てた。首相のこの言葉は韓国国民に衝撃を与え、元慰安婦たちの心の傷口を広げた。
合意の基本精神は、慰安婦問題について日本政府が責任を認め、謝罪し、元慰安婦の心の傷を癒やすための措置をとることだったはずだ。その基本精神を否定されて渡される金銭的措置に何の意味があるのか。10億円の意味を確認することは、事業継続と合意履行のために不可欠だ。
合意には、日本政府の予算で拠出した資金で、『全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う』ために韓国政府と協力することが明記されている。韓国が求めているのはこの範囲内でのことである。さらに合意は、日本政府の取るべきこの行動を前提に、問題が最終的に不可逆的に解決『される』ことを確認している。条件を伴った未来形であるので、条件が満たされない限り、問題が解決「した」ことにはならない。
合意と関連し、韓国はゴールポストを動かしてはいない。ゴールのなかにボールをいれる方法を示したのである。10億円の意味に対する疑心こそ、合意完成への道をふさぐ最大の障害だ。日本がその疑心を晴らすのは合意の枠内で日本がしなければならない責務である。その責任を果たす真摯な態度が合意を拒む元慰安婦たちの心に届く時、合意は完成に向かって動き出すだろう。(日本語で寄稿)」
眼目は、「合意の基本精神は、慰安婦問題について日本政府が責任を認め、謝罪し、元慰安婦の心の傷を癒やすための措置をとることだったはずだ。その基本精神を否定されて渡される金銭的措置に何の意味があるのか。10億円の意味を確認することは、事業継続と合意履行のために不可欠だ。」というところにある。
安倍政権側は、「カネで解決できるのなら10億を出そう。形だけ謝って済むのなら謝罪の表明もしよう。しかし、これっかぎりだ。この合意で、『最終的かつ不可逆的に解決』なのだから、これ以上は1ミリも譲歩はしない。元慰安婦に謝罪の手紙を書くなんて約束していないことをすることは『毛頭考えていない』」というわけだ。
韓国側は、安倍政権に「その責任を果たす真摯な態度」を要求し、安倍政権側は、「そんな約束はしていない。カネで解決の約束のはずだ」「それ以上の要求は筋違い」とすれ違っている。
あらためて、日韓慰安婦合意の内容を確認しておこう。以下は、外務省のホームページからの転載である。これ以外に密約があるとも言われるが、密約の存在もその内容も気にする必要はない。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html
2015(平成27)年12月28日
1 岸田外務大臣
日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。
(1)慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。
安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。
(2)日本政府は,これまでも本問題に真摯に取り組んできたところ,その経験に立って,今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。具体的には,韓国政府が,元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し,これに日本政府の予算で資金を一括で拠出し,日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行うこととする。
(3)日本政府は上記を表明するとともに,上記(2)の措置を着実に実施するとの前提で,今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。
あわせて,日本政府は,韓国政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
2 尹(ユン)外交部長官
韓日間の日本軍慰安婦被害者問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,韓国政府として,以下を申し述べる。
(1)韓国政府は,日本政府の表明と今回の発表に至るまでの取組を評価し,日本政府が上記1.(2)で表明した措置が着実に実施されるとの前提で,今回の発表により,日本政府と共に,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。韓国政府は,日本政府の実施する措置に協力する。
(2)韓国政府は,日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し,公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し,韓国政府としても,可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて,適切に解決されるよう努力する。
(3)韓国政府は,今般日本政府の表明した措置が着実に実施されるとの前提で,日本政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
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なるほど、よく読めば、南氏のいうとおりではないか。安倍政権には、韓国政府とともに、「日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行う」義務を負うのだ。「10億出したから終わり」と逃げることは許されない。明らかに、韓国側の言い分に分がある。
(2018年2月13日)
石牟礼道子が亡くなって、各紙に追悼記事が満載である。昨日(2月11日)には毎日が、本日(2月12日)は朝日が社説で取り上げた。
毎日の社説は、「石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ」というもの。
「石牟礼さんの代表作『苦海浄土』は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす『人間と共同体の破壊』を告発した。1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。」
この解説はそのとおりではあろうが、言葉の足りなさがもどかしい。この社説が「苦海浄土」から引用する下記の一節がすべてを語って余りある。これを引用した社説子に敬意を表したい。
「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。
『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』
天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。」
この漁師の述懐の中に見えるものは、公害行政への批判とか資本主義経済構造の矛盾の指摘などというものではない。それをそれをはるかに超えた、文明そのものへの批判や人の生き方についての省察である。
朝日は「石牟礼さん 『近代』を問い続けて」というタイトル。
「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。
運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。『東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ』(苦海浄土 第2部)
権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。
…………
「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った。明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」
こちらは、文明論というよりは国家論となっている。
「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」は、沖縄の思いでもあろう。「本土に復帰すりゃあ、祖国の存(あ)るち思うとったが、そんなものはなかったなあ」と。
昨日(2月11日)の毎日社会面に、石牟礼道子語録があり、そのなかに、「水俣だって補償金は勝ち取りましたけれども、(魂の対話)という本質はつぶされていますから」という一節が見える。73年の荒畑寒村との対談中の言葉だというから、「水俣だって」とは、「足尾鉱毒事件ばかりではなく…」という意味だろう。しかし、同じことはあらゆる公害闘争でも、原発被害でも、戦後補償問題でも、冤罪事件でも、言えることだろう。被害者が求めているものは、「(魂の対話)」を通じての、人間としての尊厳の回復である。カネの補償で済む問題ではないのだ。
慰安婦問題をめぐる日韓合意も、石牟礼のいう「(魂の対話)という本質はつぶされている」事態の典型だろう。加害者側が、「最終的かつ不可逆的な合意」などとうそぶいている限り、被害者の人間としての尊厳の回復はあり得ない。いま、この問題解決のゴールは遠のくばかりだ。
(2018年2月12日)
本日(2月11日)は「建国記念の日」。盛岡で開かれた「2018 『建国記念の日』について考える県民のつどい」に招かれての講演。『岩手靖国違憲訴訟と安倍改憲』というのが演題。故郷・盛岡に、この日、このテーマで招いていただいたことがありがたい。
『建国記念の日』とは、まことに怪しい祝日。「国民の祝日に関する法律」それ自体が、まず怪しい。その第1条は、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける。」とある。読むだに気恥ずかしくなる文章ではないか。
取って付けたかのごとき、「自由と平和を求めてやまない日本国民」「美しい風習」「よりよき社会」「より豊かな生活」の美辞麗句。自由・平和といったいどんな関係があるのか、わけの分からない祝日の主旨説明が並ぶ。そのなかに、次の一節。
「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」
「建国記念の日」を2月11日と定めたのは、国会ではない。内閣が政令で定めたのだ。それにしても、「建国をしのび、国を愛する心を養う」ための祝日とは、いったいそりゃ何だ。「建国」「国を愛する」の国とはいったい何だ。本日は、日本という国家について思いをめぐらし、国の来し方行く末を考える日とすべきであろう。
国家とは、突然作られるものでも、できあがるものでもない。しかし、その存立の原理なり理念が転換することはある。アンシャンレジームを廃して自由・平等・友愛を基本理念とする市民革命勃発の日であれば「建国の日」にふさわしい。毛沢東が、「中華人民共和国成立了!」と宣言した、1949年10月1日も、まさしく「建国の日」あるいは「建国記念の日」であろう。
今の日本の「建国の日」にふさわしいのは、法的に戦前の旧天皇制国家からの訣別の日としてのポツダム宣言受諾の8月14日か、敗戦記念の日とされている8月15日、あるいは降伏文書調印の9月2日であろう。あるいは、新国家建設の、新たな原理と理念を確認した日本国憲法公布の11月3日か、憲法施行の5月3日。
あくまで、現行の国の仕組みと理念ができあがったことが「建国」でなくてはならない。だから、「建国をしのび」とは、天皇制国家の不合理と理不尽を清算するために、いかに過大な犠牲を必要としたかを思いめぐらせることなのだ。だから、「国を愛する」の国とは日本国憲法が定める国民主権原理に基づいて作られ、平和と人権をこよなく大切にする「国」のことである。その国を「愛する」とは、決して再び天皇主権や天皇を傀儡にして国政の壟断を許した旧体制に戻してはならない、富国強兵のスローガンで、軍国主義・侵略主義を謳歌した過去と厳しく訣別することと決意することだ。
2月11日は、神話の上の天皇制起源の日。しかも、神なる天皇が、神勅によってこの国の統治者となり、国民を臣民に宿命づけた日である。「建国記念の日」として、かくもふさわしからぬ日はない。12月8日よりも、7月7日よりも、9月18日よりも「悪い日」というほかはない。
「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」、建国記念の日には、「明治150年」のデマゴギーを語らねばならない。「明治150年」の始まりの明治維新とは王政復古による天皇制再構築であった。それによって、軍国主義・侵略主義の国家が作りあげられたのではないか。今ある、「国民主権の日本」とはまったく別物の、「神なる天皇の国」の「建国」を、「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、記念」してはならない。
かの「神なる天皇のしろしめす国」は、主権者天皇と臣民からできていた。国民は、民草でしかなかった。臣民一人ひとりに価値はなく、天皇に随順し、天皇のために死ぬことでその価値が認められるという、恐るべき靖国の思想が臣民に植えつけられた。我々は、今自立した主権者として、このようなマインドコントロールを排斥し得ているだろうか。臣民根性を捨て切れていないのではなかろうか。
だから、今日「建国記念の日」には、天皇制のマインドコントロールの恐ろしさを再確認して、「再び権力者に欺されない」「マインドコントロールを許さない」「天皇や天皇制の権威に恐れ入らない」「天皇や天皇制を批判する言論に萎縮しない」「奴隷根性も、臣民根性も払拭して自立した主権者となる」ことを確認し決意すべきなのだ。それこそが、「自由と平和を求めてやまない日本国民として、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」必要なことではないか。
本日、そのような視点から、岩手靖国違憲訴訟を語りたい。以下はそのレジメ。
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第1 岩手靖国違憲訴訟とその判決
1 岩手靖国違憲訴訟とは二つの(住民)訴訟
☆岩手靖国公式参拝違憲訴訟
天皇と内閣総理大臣の靖国公式参拝を求める県議会決議の違憲を問題に
原告(牧師・元教師) 被告(議長・県議40人)県が補助参加
☆岩手玉串料訴訟(県費からの玉串料支出違憲訴訟)
原告住民(多彩な市民) 被告(知事・福祉部長・厚生援護課長)県
(提訴の日が愛媛玉串料訴訟と同日)
2 政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めである。
国家に対して「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」
利用を許さないとする命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)
との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみていない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
3 運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
4 政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で)
5 岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆政教分離国家賠償訴訟の経験は、戦争法違憲訴訟に受け継がれている。
6 1983年夏の陣
原告側証人 村上重良・大江志乃夫・高柳信一
被告側証人 神野藤重申(靖国神社禰宜)
7 「最低・最悪」完敗の一審判決(1987年3月5日)から
「完勝」の仙台高裁控訴審判決(1991年1月10日)へ
☆ 天皇・首相の靖国公式参拝は違憲
☆ 県費からの玉串料支出は違憲
いずれも、目的効果基準に拠りつつ、これを厳格に適用しての違憲判断。
☆ 上告却下 特別抗告却下
第2 政教分離問題の本質をどうとらえたか
1 信教の自由の制度的保障規定⇒基本的人権(精神的自由権)に関わる問題
2 天皇を再び神にしてはならないとする規定⇒国民主権原理に関わる問題
3 軍国神社靖国と政権との癒着を禁じる規定⇒恒久平和主義に関わる問題
4? 政教分離の「教」とは、「国家神道の残滓」であり、
「天皇の神聖性」鼓吹であり、国民精神を戦争に動員した「軍事的擬似宗教」 である。
5 政教分離は、憲法の根幹に関わる大原則。
自衛隊の海外派兵や自民党改憲論にからんで、
ますますその重要性を高めている。
第3 自民党改憲草案第20条との関わり
1項 信教の自由は、保障する。
国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを
強制されない。
3項 国及び地方自治体その他の公共団体は、
特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。
ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、
この限りでない。
☆自民党のホンネは、「社会的儀礼」又は「習俗的行為」として、
国や自治体の神道的行事を認めさせようというところにある。
自民党の憲法なし崩し策動に、一歩の譲歩もあってはならない。
第4 天皇退位と明治150年
否定されたはずの、天皇の権力や権威が、今旧に復そうとしている。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。
「日の丸・君が代」、元号、祝日、勲章・褒賞は、今の世に払拭しきれない神権天皇制の残滓である。天皇の権威にひれ伏す臣民根性を払拭して、主権者意識を確立しよう。
(2018年2月11日)
まずは、下記DHC・吉田側の準備書面をご一読いただきたい。文字通り、ペラ1枚のものだが、これが2月9日付で正式に裁判所に提出された書面である。
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平成29年(ワ)第38149号 同損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
?反訴被告ら準備書面1
?平成30年2月9日
東京地方裁判所民事第1部合議孫 御中
?反訴被告ら訴訟代理人弁護士 今 村 憲
?反訴原告準備書面(1)の求釈明に対する回答
(1)多数あった。
(2)回答の必要性なし。
(3)多数あった。
(4)悪辣とは,反訴原告の記述のようなものである。
(5)反訴被告ら代理人が相当の時間をかけて検討の結果,確実に勝訴の見込みがあると判断したものであり,事前交渉したものも複数あった。
(6)検討に加わった顧問弁護士全員の判断である。
(7)10件のみである。訴状や判決等を開示する必要性はなく,反訴原告らにおいて必要なら記録の閲覧をされたい。
(8)反訴原告らにおいて記録の閲覧をされたい。金額算定の根拠は,反訴被告ら及び代理人が各事件において相当と思料した慰謝料額である。
以 上
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これはいったい何なのだ。これだけでは分りようがない。何を言っているのかという内容についてだけではなく、DHC・吉田側の訴訟に取り組む真摯さの欠如についても、だ。下記の反訴原告・澤藤側の求釈明準備書面と併せて読むことで、はじめて、DHC・吉田の応訴態度がよく見えてくる。
平成29年(ワ)第30018号 債務不存在確認請求事件
平成29年(ワ)第38149号 同損害賠償請求反訴事件
反訴原告(本訴被告) 澤藤 統一郎
反訴被告(本訴原告) 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
?準備書面(1)
?2018年(平成30年)2月1日
?東京地方裁判所民事第1部合議係 御中
反訴原告(本訴被告)訴訟代理人弁護士 55名
反訴被告らの答弁書に反論するにあたり、反訴被告らに対し、以下の点を明らかにするよう求める。
1 反訴原告は、反訴被告らの前件訴訟提起が違法であることを、最高裁昭和63年1月26日判決に基づき主張しているが(反訴状7頁)、同判決は、訴訟提起が違法になる場合として、「・・当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる場合に限られるものと解するのが相当である。」と判示している。
同判決は、その事案に即し、訴訟提起が違法(著しく相当性を欠く)となる場合の一例として、「提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえた場合」を挙げているが、もとより、違法提訴がこれに限定されるわけではなく、違法性の判断指標は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる」か否かにあり、この指標に基づき、当該訴訟提起の違法性を、主観、客観の両面から検討し、時代に即した判例法の発展(言論、評論の自由と個人の名誉という対向する権利の困難な調整)が期待されている。
この点において、反訴被告らが、反訴答弁書において、ことさら同判決の例示部分のみを引用する論述は(反訴答弁書5頁)、軽挙な前件訴訟提起の一因を示している。
2 本件において反訴原告は、前件訴訟提起の違法性について、敗訴の客観的予見可能性とともに、反訴被告らの訴訟提起の意図、目的が、裁判による権利回復よりも、意に沿わない公共事項に関する公益目的の言論を封殺することにあったと考え、これを裏付ける事実の一つとして、反訴原告が知りえたものだけでも、反訴被告らが10件の類似の高額名誉毀損訴訟を一括提起し、多数の敗訴を受けているという事実を主張している。
3 これに対し、反訴被告らは、10件の訴訟提起の事実を認め、その一部につき和解調書(甲A17?18)と判決書(甲A19)を提出し、また、反訴被告吉田は、反訴被告会社のブログ(乙9の2)で、多数の訴訟提起に至った経緯について、「渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹謗中傷をインターネットに書き散らかされました。当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に検討した上で、特に悪辣な10件ほどを選んで提訴したものです。やみくもに誰も彼もと提訴したわけではありません。」と述べている。
4 そこで、反訴被告らに対し、以下の各点を明らかにするよう求める。
(1)反訴被告吉田が週刊新潮に告白した事実に関し、反訴被告らを批判(事実無根の誹謗、中傷)する記事やブログは合計何件あったのか。
(2)批判する記事やブログはすべて「反日の徒」なる当事者からのものであったのか。「反日の徒」とはいかなる概念か。
(3)反訴被告吉田が反日と評する当事者以外の者からも、反訴被告らを批判する記事やブログは存在したか否か、存在した場合はその合計件数。
(4)提訴基準とした「特に悪辣なもの」とは、具体的にどのようなものか。「悪辣」の要素に、「反日」なるものが含まれているのか。
(5)「確実に勝訴の見込みがある」ことの慎重な判断には、どの程度の時間と労力を費やし、どのような判断基準を採用したのか。その際、相手方との事前交渉を考慮したことはなかったのか。事前交渉をしたものがあるとすれば、その件数と内容。
(6)必ず勝てるとの判断は、検討に加わった顧問弁護士を含めた全員一致の結論か、それとも、顧問弁護士らの意見を踏まえた上での反訴被告吉田の判断か。
(7)提訴件数は、反訴原告が知り得た10件のみか。提訴した事件の内容とその結末(提訴した全事件の訴状と、結末が分かる判決書もしくは和解調書を提出されたい)。
(8)提訴事件の各損害賠償額と全事件の請求合計額、金額算定の根拠。
以上
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念のため、澤藤側の求釈明事項と吉田嘉明の釈明、つまりは問と答を並べてみよう。
(1)反訴被告吉田が週刊新潮に告白した事実に関し、反訴被告らを批判(事実無根の誹謗、中傷)する記事やブログは合計何件あったのか。
《(1)多数あった。》
(2)批判する記事やブログはすべて「反日の徒」なる当事者からのものであったのか。「反日の徒」とはいかなる概念か。
《(2)回答の必要性なし。》
(3)反訴被告吉田が反日と評する当事者以外の者からも、反訴被告らを批判する記事やブログは存在したか否か、存在した場合はその合計件数。
《(3)多数あった。》
(4)提訴基準とした「特に悪辣なもの」とは、具体的にどのようなものか。「悪辣」の要素に、「反日」なるものが含まれているのか。
《(4)悪辣とは,反訴原告の記述のようなものである。》
(5)「確実に勝訴の見込みがある」ことの慎重な判断には、どの程度の時間と労力を費やし、どのような判断基準を採用したのか。その際、相手方との事前交渉を考慮したことはなかったのか。事前交渉をしたものがあるとすれば、その件数と内容。
《(5)反訴被告ら代理人が相当の時間をかけて検討の結果,確実に勝訴の見込みがあると判断したものであり,事前交渉したものも複数あった。》
(6)必ず勝てるとの判断は、検討に加わった顧問弁護士を含めた全員一致の結論か、それとも、顧問弁護士らの意見を踏まえた上での反訴被告吉田の判断か。
《(6)検討に加わった顧問弁護士全員の判断である。》
(7)提訴件数は、反訴原告が知り得た10件のみか。提訴した事件の内容とその結末(提訴した全事件の訴状と、結末が分かる判決書もしくは和解調書を提出されたい)。
《(7)10件のみである。訴状や判決等を開示する必要性はなく,反訴原告らにおいて必要なら記録の閲覧をされたい。》
(8)提訴事件の各損害賠償額と全事件の請求合計額、金額算定の根拠。
《(8)反訴原告らにおいて記録の閲覧をされたい。金額算定の根拠は,反訴被告ら及び代理人が各事件において相当と思料した慰謝料額である。》
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求釈明の意図や必要性については、十分に伝わっている。にもかかわらず、「合計何件あったのか」という問に「多数あった」という回答の類は、不真面目きわまる。
また、「『反日の徒』とはいかなる概念か。」という質問に対して、「回答の必要性なし」は、普通は「まずいことを言ってしまった。失点は認めるからこれ以上の追求は勘弁してください」という含意と理解することになる。
しかし、今回に関しては、どうにも私は納得しがたい。世に「愛国者」「国士」「憂国の士」などを気取って自らを飾り、他を貶める輩は星の数ほどいる。その悪罵の常套句が「反日」である。私は「国士」だの「大和魂」などという言葉は大嫌いだが、自らをホンモノの「国士」や「憂国の士」を任じる人物の気骨や正直さには敬意を払うにやぶさかではない。
私が相手をしている吉田嘉明なる人物は、「渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹謗中傷をインターネットに書き散らかされました」と明言したのだ。吉田嘉明は、自分の言葉に責任をもたなければならない。いったい、私(澤藤)を指して「反日の徒」と言ったのは、いかなる意味なのか。何を根拠にしているのか。「回答の必要なし」ではなく、己の信ずるところを堂々と開陳してしかるべきではないか。
私の理解するところでは、「国士」とは卑怯、未練、逃げ隠れを恥と心得ている人物像である。責任を回避せず、逃げも隠れもしない態度を示してこそ、「似非日本人」を批判しうるのではないか。自分の言葉に対する責任を放棄して、「『反日の徒』とはいかなる概念であるか回答の必要性はない」は、卑怯というしかない。それこそ、「似非者」と罵られても甘受せざるを得ない、と指摘しておこう。
こうした、吉田嘉明の投げやりで真摯さを欠く応訴態度は、私のみならず、この裁判を注視している、多くのディーエイチシー製品の顧客たちをも落胆させることになるだろう。
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なお、次回口頭弁論期日は、2月16日(金)午後1時?
東京地裁庁舎415号法廷です。傍聴にお越しください。
(2018年2月10日)
常々思っていることだが、弁護士会は市民に開かれていなければならない。市民に支えられ市民とともに歩む姿勢を大切にしなければならない。弁護士会は権力と対峙する側にあるのだから、市民に支えられなければ権力に抗する力を持ち得ない。
弁護士会が何を考えているか。市民に対する広報も重要だが、弁護士会の役員選挙での公約を市民に知ってもらうことも大切だと思う。弁護士が、真に市民の利益のための弁護士会を作ろうとしているのか、それとももっぱら弁護士の利益を考えているのか、選挙戦はリアルに弁護士らの姿勢を映し出す。
本日(2月9日)は、日弁連会長選挙の投開票であり、各単位会の役員選挙の投開票でもあった。日弁連次期会長(任期2年)には、東京弁護士会の菊地裕太郎候補が当選した。いわゆる主流派の路線が継承されることになる。この路線の生ぬるさを批判する立場から立候補した武内更一候補は、意外と水を開けられた。得票数1万3005対2847であった。
両候補についての評価は、1月31日の当ブログ「日弁連会長選挙 保守派も革新派も『弁護士自治を堅持』」をご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=9852
最大単位会である東弁の会長選挙立候補者は2名、二大派閥の法友会と法曹親和会を地盤とした各候補。第三の派閥である期成会は、過去3人の東弁会長を出している。かつて、右翼誌が「日弁連は東弁が動かしている」「東弁は期成会がキャスティングボードを握っている。」「その期成会は共産党が牛耳っている」「だから、共産党が日弁連を動かしている」という『名言(迷言)』を語らしめた期成会である。今年は、久しぶりにその期成会から会長候補擁立をという声が高かった。
しかし、期成会からの東弁会長候補擁立は立ち消えになり、親和の冨田秀実候補を推すことになった。その冨田候補の公約のメインスローガンは、「憲法的価値を護り、法化社会を実現する」である。立派なものと言ってよい。対立する安井規雄候補のものは、「すべての市民の人権が等しく保障される社会に」というもの。これとてなかなかのものだが、冨田候補に比較すれば明らかに薄味。もっとも、濃い味が好まれるとは限らない。薄味であればこその支持・支援もあるだろう。
本日投開票の結果、2408票対2126票の僅差で、薄味派が当選した。これが現実。
破れた濃い味派冨田候補の選挙公約の一部を特に記して記憶しておきたい。公約全体は膨大だが、立憲主義と弁護士自治堅持の部分に限って。
☆立憲主義を堅持する
政治権力の恣意的な権利行使を制限する立憲主義は堅持しなければなりません。解釈によって実質的に憲法を改変した安全保障関連法に対してはその廃止を含め見直しを求め、その運用も監視すべきです。国民の権利を制約する特定秘密保護法や共謀罪の運用についてもその監視を怠ってはなりません。そのためにも、国民の知る権利の保障を充実させ、情報公開の促進と権力監視の仕組みを強化することが必要です。
憲法の基本原理である国民主権主義、平和主義、基本的人権尊重主義に反するような改正には、断固として反対します。したがって、憲法9条に自衛隊を明記しようとする加憲論については、同9条が「原理」規定である点や平和主義・立憲主義の観点から賛成することはできません。
☆憲法的秩序を護るためにも弁護士自治を堅持する
憲法は、刑事被告人に対して弁護人依頼権を保障し(37条3項)、弁護士(弁護人)が刑事被告人の人権を護る重要な役割を担うことを認め、国民には裁判を受ける権利を保障(32条)しています。刑事事件では国家と対峙することから、国家の圧力から、また、民事事件においては、外部の不当な圧力から弁護士の職務の独立性を担保するために、弁護士法によって弁護士自治が認められています。同時に、弁護士法は、弁護士の使命を「基本的人権の擁護と社会正義の実現」と定め、その使命を遂行するための活動についても、弁護士が外部から不当な干渉を受けないように弁護士自治が認められています。このように、弁護士が、その職務を遂行し、活動をするにあたって、弁護士自治は個々の弁護士の職務や活動の独立性を護るためのもので、ひいては、依頼者の人権や権利を護るための制度的な保障ともなっているのです。
ところで、近時、弁護士不祥事事件が多発し、国民の弁護士に対する信頼が揺らいでいる状況があり、その対策は喫緊です。依頼者見舞金制度や預り金□座の届出制のみならず、東弁における具体的な防止策や対策を講じ、国民の信頼を回復し、弁護士・弁護士会にとって最も重要な弁護士自治を堅持します。
冨田候補による弁護士自治堅持の語り口の熱さには脱帽であり、冨田候補の落選は残念と言わざるを得ない。敗れたとはいえ、これだけの公約を掲げた候補がこれだけの票を取ったのだ。その影響は小さいはずがない。
当選後のあいさつで、安井候補は、こう言ったそうだ。
「私は、三つのことを守ると約束する。国民の人権を守る。平和憲法を守る。そして、弁護士自治を守る」
その言やよし。
(2018年2月9日)
天皇の生前退位表明以来、皇室報道が過剰だ。天皇の代替わりをめぐる議論がかまびすしい。最近思うことは、「反天皇制」という視座を据えると、新たにいろんなことが見えてくるということ。
「反天皇制」における「天皇制」とは二重の意味が込められている。ひとつは旧体制における神権天皇制である。神聖にして侵すべからずとされた万世一系の皇統の末裔にして現人神なる天皇という、荒唐無稽な神話に支えられた天皇制。「反天皇制」とは、そのばかばかしさを、ばかばかしいと素直に言うことだ。神秘性も権威も、権威を土台とする統治権の総覧者としての天皇の地位も認めないということ。
もう一つの「天皇制」の意味合いは、象徴として現代に生き残った「天皇制」。この意味の「反天皇制」とは象徴天皇の権威の否定、あるいは「象徴天皇制」の存在感を極小化しようという精神の自立性を指す。反権威主義であり、アンチ・ナショナリズムであり、多数派支配への懐疑でもある。
「反天皇制市民1700」誌の最新号に、知花昌一さんが、「沖縄にとっての『奉安殿』」という記事を寄せている。天皇制という負の遺産の象徴としての「ご真影と教育勅語」についての貴重な断想。戦前を回顧するだけでなく、アベ政権がもたらした9条改憲の危うさにまで触れている。
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沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。
評論家の大宅荘一氏が1959年に沖縄戦の調査に来て、多くの悲惨な犠牲の原因は天皇及び天皇制に「あまりにも動物的なまでの忠誠を尽くしたこと、家畜化され盲従した結果だ」と動物的忠誠心という造語を創った。その動物的忠誠心を植え付けた装置が教育勅語と天皇・皇后の写真=「御真影」と忠魂碑である。
沖縄では、琉球処分の8年後1887年には他県に先駆けて「御真影」が下賜されている。「他県に先駆けた」ことは、明治政府としては沖縄が天皇に関心がない「化外の民」「まつろわぬ民」であることで、皇民化を急いだのだろう。
教育勅語と「御真影」の多くは校長室に奉安庫を創り納められているようであるが、火事などで焼失すると校長の責任が厳しく問われ、懲戒免職にされた例などがある。奉安殿は下賜された教育勅語と「御真影」を納める建物で、関係者がが大金を集め、当時としては高価で豪華な鉄筋コンクリート造りのものが多かったようである。
戦時中、「御真影」は米軍に蹂躙されないように名護市オオシッタイに集められ山奥の洞窟に秘匿され、戦後焼却されたといわれている。
今、沖縄には四つの奉安殿が残っている。その一つが1935?6年に沖縄市美里尋常小学校跡に建立された写真のものである。数発の弾丸の跡が残っている。
日本本土では戦後GHQが1945年に発令した「神道指令」によって全国の奉安殿や忠魂碑はほぼ解体された。沖縄でも1946年に群島政府知事により解体通達が出され、民政府(軍政府)の指示によって破壊されたが、指示など行きとどかなかった宮古、八重山、本部町に残ったのだろう。沖縄市美里に残っているのは米軍のキャンプ・へーグ基地にあり、物入れに使われていて奉安殿の存在がわからなかったのだろうと言われている。現在では沖縄市の文化財に指定され、修復がなされ、「負の遺産」として平和学習などに活用されている。
何時の時代も権力者・為政者は民衆を畜生にしたいもので、そのためには教育と暴力装置=軍隊を意のままに操るものである。安倍政権もすでに教育基本法を改悪し、自衛隊=軍事を強化し、集団的自衛権行使できる体制をととのえている。それに加え9条改悪を明言している。
最後に、知花さんは、こう訴えている。
「危ない時代が来ています。それに抗するのは、民衆自ら考え、学習することです。そして闘うことです。」
(2018年2月8日)
東京「君が代」裁判・第4次訴訟控訴審の始まりに際して、一審原告らの代理人澤藤から、一言申しあげます。
本件は、公権力が教育者である公務員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制し、これに服することができない者を懲戒処分にしたという乱暴きわまる事案です。
一審原告ら各教員は、公権力によるこのような強制も処分も、日本国憲法の許すところではないと確信して、何よりも違憲の判断を裁判所に求めてまいりました。裁判官のみなさまには、この原告らの思いを、つまりは日本国憲法と日本国憲法の砦である裁判所への信頼を裏切ることのないように、ぜひよろしくお願いします。
あまりに大きな問題を引き起こした都教委の「10・23通達」の発出が2003年10月です。この通達に基づく職務命令に従う義務のないことの確認を求める通称「予防訴訟」、国歌斉唱義務不存在確認請求訴訟と事件名を付した400人の大型無名抗告訴訟の第1陣提訴が2004年の1月でした。以来、14年にもなります。この14年間多くの教員が良心を鞭打たれる立場に立たされ、良心を貫いたことに対する苛酷な制裁を受け続けてまいりました。この14年間の法廷で、教員らは何を主張し何を争ってきたのか、その概要をご理解いただきたいと思います。
いうまでもなく国旗・国歌は、国家の象徴です。ですから、国民は国旗国歌を通して実は国家と向きあうのです。国旗国歌への敬意表明の強制とは、とりもなおさず、国民と国家が向きあう関係において、国家が国民に対して、国家の価値的優越を認めよと強制している構図なのです。近代立憲主義に則って制定されている日本国憲法の大原則は、個人主義・自由主義にほかなりません。個人の尊厳こそが、国家に優越する根源的価値であることは自明ではありませんか。そもそも、公権力には、いかなる国民に対しても、国家に敬意を払えと命令し強制する権限などないのです。
また、「日の丸・君が代」とは、戦前の神権天皇制の国家体制とあまりに深く結びついた歴史を背負っている旗と歌です。この否定しえない歴史的事実の記憶はまだ生々しくこの社会に生きています。世代を超えた、その記憶承継の努力も続けられています。そして日本国憲法は、「日の丸・君が代」が象徴する旧体制に対する深刻な反省から、その理念における対立物として生まれました。
「日の丸・君が代」が深く結びついていた国家体制の理念とは、国家至上主義・天皇主権・皇統の神聖・天皇崇敬・軍国主義・侵略主義・植民地主義・人権の軽視・差別主義・全体主義・家制度と女性差別・中央集権…等々であって、いわば日本国憲法の価値的対立物の象徴と見うるものと言わざるを得ません。さらに、「日の丸・君が代」は、国家神道の宗教的シンボルでもありました。「日の丸」とは天皇の祖先神アマテラスの象形であり、「君が代」とは神なる皇統の永遠を願う祝祭歌でした。ですから、日本国憲法をこよなく大切に思う立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制には応じがたいとする原告ら教員の思想・信条・信仰・良心には、大いに理解すべきところがあるといわねばなりません。憲法19条・20条がこのような精神的自由を保障していることは明らかではありませんか。
にもかかわらず、処分の違憲性を認めなかった原判決と一連の最高裁判決にどうしても納得できません。とりわけ、なんの根拠を示すこともなく、卒業式等の儀式における国歌の起立斉唱行為について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」と断定して、それゆえに、「かかる行為を強制することが思想良心の自由を直ちに制約するものではない」という非論理的な結論には、なんの説得力もありません。
儀式的行事における儀礼的所作とは、宗教にその典型を見ることができるものです。また、戦前の国家神道と密接に結びついた天皇崇敬行事もこれにあたるものなのです。さらに、宗教的にはまったく無色でも、集団的な儀式的行事における儀礼的所作の強制が、特定の思想を成員に刷り込む効果をもつことはよく知られているところです。国民精神の統一のために、集団的な儀式や儀礼を意図的に活用したのは、第三帝国のナチスだったではありませんか。
このことについて、一審原告らは宗教学界の第一人者というべき島薗進氏(東大名誉教授)の意見書(甲A374)を提出し、さらにその人証の申し出をしています。現在行われている卒業式等での「国歌斉唱」の強制が、いかなる政治的宗教的意味をもっているのか、また、教員と生徒たちの精神の自由をいかに蝕んでいるのか。是非とも、証人として採用のうえ、その説示に耳を傾けていただくよう、是非よろしくお願いいたします。
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本日午前10時の高裁824号法廷。この事件の係属裁判所は、東京高等裁判所第12民事部。先日、自衛官の安保法制違憲訴訟(出動命令服従義務不存在確認請求訴訟)で、原告敗訴判決を取り消して地裁に差し戻した杉原則彦裁判長の裁判体。
当事者(現職教員)2名と代理人弁護士2名の意見陳述はなかなかに聞かせる内容だった。裁判官は3名とも、熱心に真面目に耳を傾けている風だった。ところが、思いがけないことが起こった。島薗進氏の人証申請に関しては、「意見書はよく読ましていただきました。人証の採用までの必要はないと考え申請は却下します」「これで結審…」。
「それはなかろう」「納得できる裁判をお願いしたい。納得とは、判決内容だけではない。当事者にとって、裁判所がよく耳を傾けてくれたという手続的な納得が必要だ」「もっと、主張挙証の機会をいただきたい」と意見は言ったが、裁判長は「合議します」といったん退廷。再開廷して「やはり、これで結審し、判決言い渡しは4月18日午後1時15分」とだけ言って退廷した。
それ以来、今日はモヤモヤの気分のままだ。
(2018年2月7日)
「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)
「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)
以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。
人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。
それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。
ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」
70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。
泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。
明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)
稲嶺候補敗北という名護市の選挙結果は衝撃だった。「名護ショック」症状からの早期回復が今の課題だ。この結果を選択した名護市民とは、決して異世界の住民ではない。日本国民の一部の住民であり、明らかに私たち自身なのだ。その選択は、どのようにしてなされたのか、納得できる分析がほしい。
巷間言われていることはいくつかある。稲嶺陣営は基地反対を焦点に据え、渡具知陣営は争点をそらして経済活性化を訴えた、その作戦が功を奏したというのだ。なるほど、政権が露骨に一方陣営にはムチを他方にはアメの露骨な誘導を行ったというわけだ。
また、基地反対運動の先が見えず、住民が疲れ果ててこれまでとは別の選択を強いられた結果ともいう。公明党がその存在感を示さんがために全力をあげた結果だとも、さらには、この選挙では初めての18歳・19歳の選挙権行使が影響を与えた…のだとも。
政権が地元に、基地の負担を強いたうえに、こう言っているのだ。
「おとなしく基地の建設を認めろ。そうすれば悪いようにはしない。その見返りは真剣に考えてやろう。」「しかし、言うことを聞かないのなら、徹底して経済的に締め上げるから覚悟しろ。」
こう言われて、「我々にも五分の魂がある」という派と、「魂では喰えない。背に腹は代えられない」という派が真っ二つになった。前2回の選挙は「五分の魂」派が勝ち、今回は「背に腹」派が勝ったということのように見える。
若者の動向、とりわけ初めての18歳選挙導入の効果が、「背に腹」派に有利に働いた模様なのだ。
地元OTV(沖縄テレビ)の出口調査では、年代別の投票先は次のようだったという。若者世代の保守化は著しいというほかない。
10代 稲嶺37% 渡具知63%
20代 稲嶺38% 渡具知62%
30代 稲嶺39% 渡具知61%
40代 稲嶺41% 渡具知59%
50代 稲嶺38% 渡具知62%
60代 稲嶺65% 渡具知35%
70代 稲嶺68% 渡具知32%
80代 稲嶺67% 渡具知33%
90代 稲嶺86% 渡具知14%
RBC(琉球放送)の出口調査では、
10代 稲嶺33.3% 渡具知66.6%
20代 稲嶺44.0% 渡具知56.0%
私にとって衝撃だったのは小泉進次郎の名護高校生に対する語りかけ、いや、その語りかけに対する高校生の反応だ。進次郎演説の無内容のひどさにも驚いたが、この無内容演説に対する高校生のあまりに無邪気な肯定的反応は衝撃というほかない。なるほど、アベ政権の18歳選挙権導入実現には、それだけの読みと狙いがあったのだ。
私には信じがたい。若者が政権与党の幹部にあのような、アイドルに接するような態度をとれるものだろうか。ユーチューブで見聞く限りだが、小泉には若者に地元の展望を語る何ものもない。蕎麦がうまかった。渡具知は名護高の出身だ。娘も同じ高校に通っている。地元で生まれ育った人で地元の振興を。名護湾は美しい。名護とは「なごやか」が語源ではないか。18歳の皆さんの投票で逆転できる…程度のことしか言わない。驚いたが、具体的な地域振興策さえ口にしないのだ。落語家が枕を振って、これからどんな噺が始まるかと思いきや、枕に終始してオシマイ、というあのはぐらかし。
ところが、高校生はおとなしくにこやかにこのつまらぬマクラを聞いている。「和みの名護湾に、基地を作ってよいのか」「オスプレイで、学校の騒音はどうなるのか」「ヘリが校庭に落ちてきたらどうする」などと、ヤジは飛ばない。君らの大半は、基地建設にゴーサインを出したことになる。君たちは、名護の将来を真剣に考えたのか。
名護高校生諸君に聞いてもらいたい。
私は、弁護士になって以来、詐欺ないしは悪徳商法に欺された人々の被害救済訴訟を自分の使命として多数手がけてきた。欺された人々は例外なく、悪徳商法のセールスマンを、「自分に幸運をもたらす親切なよい人」と思い込むのだ。笑顔で、礼儀正しくて、口当たりの良い言葉を話して、こうすれば利益が確実と思い込ませるのが、悪徳商法のセールスマンなのだ。
だから、甘い言葉には、欺されぬよう気をつけなければならない。欺されぬためには、まずは徹底して疑問をぶつけることだ。それから、一セールスマンの意見を鵜呑みにせず、ライバル関係にある他の意見にも耳を傾けて、対比をしなければならない。さらに、自分一人で判断せず、周囲の人々と意見交換も大切だ。
ベネフィットだけを誇張してリスクを隠すセールストークが悪徳商法の基本だ。効能だけを語って、決して副作用を語らないサプリメントの売り方も分かり易い。選挙も同じだ。私の耳には、小泉進次郎の名護高校生諸君に対する選挙応援演説は、ソフトでスマイルいっぱいの悪徳商法トークに聞こえる。
キミたちはなめられているのだ。こんな程度で、ごまかすことのできる相手だと。キミたちを一人前の自立した有権者だと考えていたら、こんな程度の話ができるはずはない。何よりも、建設を許せば耐用年数200年という恒久基地の将来像について一言あってしかるべきではないか。もっと具体的に、今の市政に足りないもの、どうしたらそれを補うことができるのか、どうして稲嶺にはできず渡具知ならできるのか、真剣な訴えがあって当然だろう。
小泉進次郎には、まず問い質すべきだった。「どうして、選挙演説で基地のことをお話ししないの」「辺野古基地の建設は我慢しなければならないの」「基地ができたら、今普天間の学校や保育園で起こっていることが今度は名護で起こることにならないの」「オスプレイはどのくらいうるさいの」「どうして、渡具知さんが勝った場合だけ経済振興になるのですか。稲嶺さんでは応援しないと言うことですか」「あなたは私たちに、具体的に何をお約束されるのですか」「そのお約束は、稲嶺さんが市長ではできないのでしょうか」「稲嶺さんの政策のどこに間違いがあるということでしょうか」「結局あなたは、名護のためにはではなく、基地建設推進のために渡具知さんを応援しているのでではありませんか」
これに小泉がこう答えれば、はじめて議論の出発点になる。ここから論争が始まる。
「基地に反対して、平和や環境や自治を守ろうというのは単なる理想だ。それでは君たちの地元の豊かな暮らしはできないのが現実だ。海は壊されて基地ができ、治安は悪化し、騒音は酷くオスプレイの墜落の心配もあるかもしれない。それでも、アベ政権は君たちに経済の振興策を提供することができる。基地反対派には支援はしない。君たちは決断すべきなのだ。基地に反対を貫くことで理想や理念を守ろうというのか、それとも基地反対では喰えない現実を覚って賛成にまわるのか。」
なお、質問される前からこう言っておけば、詐欺商法の汚名を甘受せずともよい。これは詐欺商法とは別種の脅迫商法ないしは恫喝商法なのだから。
名護高校の諸君に、いや全県・全国の若者に、心からのお願いをしたい。これからの人生には何回もの選挙があるだろう。悪徳商法に欺されてはならないという気構えで、とくと考えて投票されよ。少なくとも、選挙運動のセールストークを鵜呑みにするようなことがあってはならない。甘い言葉には毒があるのだ。疑問点は徹底して問い質すこと。そして、相手陣営の見解もよく聞いて比較してみること。最低限これだけのことはしなければならない。これからの選挙の結果には、若者の命がかかってくることにもなりかねないのだから。
(2018年2月5日)
学生時代の同級生で記者になった友人が多い。小村滋君は朝日の記者になった。定年になってから、沖縄浸りだ。月一回のペースで、極ミニコミ紙「アジぶら通信」を送信してくれている。これが、メールマガジンというものなのだろう。カラー写真満載の、A4・6ページ。本日がその38号の配信。トップページに、辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」の写真、碑高5メートルもの偉容だそうだ。これに、碑文が掲載されている。その碑文には、「全国の そして全世界の友人へ贈る」との標題。
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
(以上は「全国の、そして全世界の友人へ贈る」の全文)
私は1966年末から、67年初頭にかけて復帰前の沖縄を見ている。貧乏学生の私に旅などできる余裕はなかった。私が在籍していた大学と朝日と沖縄の地元紙とが共同でした大規模な社会調査のアルバイト要員としての訪沖だった。仕事が終わったあと、一人で沖縄を回った。そのとき、辺戸岬にも行ってみた。
山原の地はどこも寂しかった。かやうちパンダ、万座毛、今帰仁城趾、辺戸岬…、どこも印象に深い。27度線を見はるかす辺戸岬は、大晦日には本土との海上交流の場として有名だったが、当時何のモニュメントもなかった。
本土復帰後、辺戸岬まで足を運んだことはない。復帰後4年目に建立されたというこの威容を誇る「闘争碑」を見たことはない。碑文も知らなかった。
この碑文はありきたりのものではない。
「おきなわの祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された」との明記は、本土の我々をも、打たずにはおかない。まことにそのとおりだ。いまだにそのとおりなのだ。
本土は沖縄戦で現地を捨て石にした。さらに、戦後は天皇(裕仁)によって、沖縄は米軍に売り渡され、独立後20年も占領を続けられた。そして、苦難の末の本土復帰は、核付き基地付きの返還となった。
県民の多くが願った本土復帰とは、日本国憲法の平和と国民主権が本土と同じく保障される状態の実現であったはず。その願いは今だはるか遠くにある。
「この碑は 復帰の喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない」という文章に胸が痛い。が、「闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確め合い決意を新たにし合うために」という精神を学びたいものと思う。
「日米国家権力の恣意に対する県民の平和への願いを実現すべき闘争」は、いまだに続いている。小村君は、今朝(2月4日)「今日は名護市長選です」「朗報を待とう」とだけ通信をくれた。開票結果は…まだ分からない。
(2018年2月4日)