本日(7月28日)午前。大阪地裁の門前に二つの幡(はた)が躍った。一つは「勝訴」。そしてもう一つは、「行政の差別を司法が糺す!」。大阪地裁は、司法本来の使命をよくぞ果たした。裁判所にも、この裁判を支えた原告側の関係者にも敬意を表したい。
この裁判は、2013年1月24日の提訴。原告は、東大阪市で大阪朝鮮高級学校などを運営する学校法人「大阪朝鮮学園」。被告は、国。朝鮮学校を無償化の対象から外した国の「不指定処分」の取消を求める取消請求と、指定の義務付け請求の訴訟。今月19日の、同種訴訟での広島地裁判決が原告敗訴だっただけに、本日の判決はとりわけの感動をもって受けとめられた。原告弁護団の丹羽雅雄団長は、「裁判所は良心と法の支配のもとで適正な事実認定、判断を下した。我々の全面勝訴だ」とコメントしている。
高校の授業料の無償化(就学支援金支給)制度は2010年、民主党政権時代に導入された。この制度から、朝鮮学校だけを対象から外したのが、第2次安倍政権。ブラジル学校、中華学校、韓国学校、インターナショナルスクールなど、39校の外国人学校が文部科学大臣の指定を受けているが、朝鮮学校10校だけが除外されているという。「拉致問題の進展がない」「朝鮮総連との密接な関係から国民の理解を得られない」ことを理由とするもの。高校生に何の責任もないこと。
この制度で、外国人学校が無償化(就学支援金支給)の対象となるには文部科学大臣の指定を受ける必要があり、すべての朝鮮学校がその申請をしたが、2013年2月に申請拒否の処分となった。本日の判決は、原告の請求を認容して、国の「就学支援金の不支給処分を取り消す」とともに、被告国に対して「就学支援金の支給処分をせよ」と命じた。これは、安倍内閣の民族差別政策に対する断罪でもある。
同種訴訟は全国5地裁に係属している。請求内容は、「不支給処分取消」「支給処分義務付」、そして「国家賠償」の各請求である。提訴順に以下のとおり。
2013年1月24日
大阪地裁 原告 大阪朝鮮学園 処分取消・支給義務付
2013年1月24日
名古屋地裁 原告 生徒・卒業生10名 国家賠償
2013年8月1日
広島地裁 原告 広島朝鮮学園 処分取消・支給義務付
? 原告 生徒・卒業生110名 国家賠償
2013年12月19日
福岡地裁 原告 生徒・卒業生68名 国家賠償
2014年2月17日
東京地裁 原告 生徒・卒業生62名 国家賠償
このうち、広島と大阪が判決に至った。残る3件が審理続行中だが、東京訴訟が結審し、9月13日判決の予定である。
この種の訴訟は、行政裁量との闘いである。裁判所は民主的な手続で運営されている(はずの)行政の裁量を大幅に認める。法の趣旨や理念から大きく外れる場合に限って、処分が違法となる。裁判所は民主的な手続によって構成されない。その裁判所の行政への介入は最小限度であるべきという司法消極主義が、わが国の伝統となっているのだ。広島地裁判決は、このハードルを越えられないものだった。
しかし、本日の判決は、軽々とこのハードルを越えた。原告側の主張は、「北朝鮮との外交問題を理由に不利益を与えるのは差別意識を助長し違法」という平等権(憲法14条)を骨子とするもの。本日の大阪地裁(西田隆裕裁判長)判決は、「無償化に関する法律を朝鮮学校に適用することは、『拉致問題の解決の妨げになり、国民の理解が得られない』という外交的、政治的意見に基づいて対象から排除したと認められ」「教育の機会均等とは無関係の外交的、政治的意見に基づく処分で違法、無効」と指摘して、国の処分を取り消し、無償化の対象に指定するよう命じた、と報じられている。
いま、安倍内閣が揺らいでいる。安倍内閣の憲法無視の姿勢がようやくににして批判の対象になってきているということであり、近隣諸国民や在日に対する敵意涵養政策が揺らいでいるということでもある。民族差別や憎悪を助長する政策頓挫の意味は大きい。次は、9月13日の東京地裁判決に注目するとともに、支援の声を送りつつ期待したい。
(2017年7月28日)
当たり前のことですが、嘘つきはいけません。ね、稲田朋美さん。
「嘘つきは泥棒の始まり」と言いますよね。多分、「嘘をつくような人物は遵法精神に乏しく、そのため泥棒だってしかねない」という意味なのでしょう。「嘘つきは信用することができない。泥棒同然だ」ということでもあるでしょう。
ともかく、嘘つきは信用できないのですから、泥棒同様の取り扱いを受けなければなりません。社会的な信用を必要とする仕事をまかせるわけにはいかないのです。「民信なくば立たず」なんて2500年も前から言われていること。政治とは、国民からの信頼あって初めて成り立つものですから、政治家が「嘘つき」と言われるようになったら、もうオシマイです。
ところで、稲田朋美さん。あなたはたいへんに評判の悪い政治家でした。無知、無能、不誠実。やる気なく、信頼なく、実績なしの三拍子。トラブルメーカーとして政権の厄介者。右翼思想が右翼総理に気に入られただけの空っぽ政治家。政治家なんてこんなレベルでやっていけるという見本でしたが、さすがに「嘘つき」と呼ばれるようになったら、もういけません。あなたも、ようやく「自分はもうオシマイ」と気付いたようですね。
防衛大臣辞意表明と言われていますが、「国会議員ならできる」と勘違いしてはなりません。「福井1区の有権者なら、こんな無能で嘘つきの私でも、きっと許してくれるでしょう。」などと、なめてはなりません。潔く、謝罪のうえ政治の世界から身をお引きなさい。それが、あなたのためであり、国民のためであり、あなたの所属する政党のためでも、福井県民のプライドのためでもあることは間違いありません。
もっとも、人には思い違いというものがあります。だから、一概に人を「嘘つき」と決めつけることは難しいし、すべきでもありません。現に、あなたも「私の思い違いでした。その点は訂正して謝罪します」なんて、何度も言ってきましたね。つまり、「私は嘘つきではない。記憶違いをしていただけ」「悪いのは私ではなく、私の記憶力に過ぎない」という言い訳ですね。
でも、一連のその人の言動から、これは「嘘つき」と呼ばれても仕方がないということがありえます。むしろ、「嘘つき」と批判しなければならないことさえも。あなたの南スーダンPKO陸自日報隠し問題については、積極的な批判が必要なケースなんですよ。ことは、憲法や平和に関わる重大事なのですから。
しかも、興味深いのは、あなたの嘘を暴いた報道は産経グループにおいて、厳しいことです。思想的には、あなたやあなたを抜擢した安倍晋三と同じ、右翼のメディアがですよ。
フジ産経グループのFNNが、2017年2月13日「17時15分大臣室」に防衛省の幹部が協議した内容を記した直筆のメモを報道しました。これが生々しい。
南スーダンでのPKO活動の日報をめぐる問題について、このメモには、陸自の日報データが削除されずに残っていたこと、その報告を受けた上で、稲田さん、あなたが陸自の日報データが残っていたことを認識しながら自らが隠蔽に関与したことが記載されています。あなたの発言メモ。これは、ごまかしようがない。
辰己統幕総括官「破棄漏れがある」
稲田防衛相「7月7日から12日のもあったということ」
湯浅陸幕副長「紙はないかとしか確認しなかった。データはあったかというと、あった。今あったのは1件のみ」
稲田防衛相「明日(14日の予算委員会審議で)なんて答えよう」
稲田防衛相「今までは、両方破棄したと答えているのか」
米山大臣秘書官「データも破棄したと答えた」
このメモがあなたが、陸自の日報データが実際には存在していたことを知っていたことの動かぬ証拠。にもかかわらず、このあとあなたは、ヌケヌケと「私は一貫して情報公開を推進し事実解明に取り組んできた。非公表や隠蔽を了承する行動はこれまでの私の姿勢と真逆で相いれない」などと繰りかえし言っています。だから、「嘘つき」としか言いようがないのです。
確かに、世に言われているとおり、このメモの情報源は陸自の幹部以外にはなく、意を決しての彼らの大臣への叛乱なのでしょう。事態は容易ならざるものですが、こんな事態に至らしめたあなたの責任は重大であることをご認識いただきたい。
なぜ、総理はもっとすみやかに、あなたのクビを切れなかったのか。数々の無能ぶり、不祥事を見逃してきたのか。明らかに、自らが任命責任の追及を受けることをおそれ、自らに人を見る目のないことを暴露する結果になることを恐れたからにほかなりません。
政治家には、国民の安全と安心を守る責任がある。あなたを抜擢した安倍首相の口癖です。あなたには、自分と首相の保身しか頭になく、上の空で政治をもてあそんでいたにすぎません。そんなあなたに、国民はとうに見限っていたのです。辞任は遅きに失したとはいえ、恋々とその地位にしがみついている安倍首相よりは、ちょっとマシと言っておきましょう。
さあ、あなたを抜擢し任命し持ち上げ、数々の不祥事のあとにも重用し続けて事態を深刻な混乱に陥らせたもうひとりの責任者、そしてもうひとりの「嘘つき」でもあるこの人にも、きちんと責任をとってもらいましょうよ。ね、稲田朋美さん。
(2017年7月27日)
昨日と一昨日(7月24日・25日)、衆参両院での予算委員会閉会中審査が行われた。国家戦略特区制度を隠れみのにした、総理の友人への利益供与という加計学園疑惑。その疑惑が解明に至ったと白々しく言う者はないだろう。疑惑の核心に手が届いていないというもどかしさが残るばかり。新たな疑惑の深まりもある。この問題に幕を引くことはできない。幕引きを許してはならない。
「公正であるべき行政がゆがめられたのではないか」「その理由は、認可を申請する事業者が総理のオトモダチだったからではないか」。具体的な問題点を整理して、適切な証人を選定して、再度の追及が必要である。「どうせこれ以上は水掛け論」と、追及の手を緩めてしまえば、民主主義の敗北となる。
そもそもこの閉会中審査は、安倍晋三のイニシャチブで実現した。政権側の思惑としては、支持率低下に慌てて「行政私物化疑惑」「えこひいき疑惑」を払拭して国民の信頼をつなぎ止めようという舞台だった。政権延命のために、プライドを捨てて低姿勢に徹した安倍晋三だったが、所詮は形だけ。疑惑の払拭にも解明にも至らなかった。思惑外れであり、期待の内閣支持率回復はありえない。
次の注目舞台は、横浜市長選と、閉会中審査の安保委員会となる。選挙は民意の動向を表す場であり、安保委員会は政権の綻びを解明する場となる。後者は、稲田朋美防衛相による陸自日報隠し了承疑惑が焦点。稲田が居座ろうとも罷免されようとも、安倍政権に大きな打撃となることは必至である。
安倍内閣は既にアウトだ。少なくとも、レームダック。何かをなし得る力は既にない。9条改憲などもってのほかだ。安倍失脚後の安倍改憲政策の生き残りは、常識的にはないだろう。
安倍内閣のアウトは、岡山理科大学獣医学部設置認可の目は完全になくなったことも意味する。この2日間の質疑で明らかになった杜撰な関係省庁の審査は、新学部設置準備の杜撰をも物語っている。これで、新学部設置認可が可能とはとうてい考え難い。8月末日までに結論を出すという文科省の大学設置審議会が、まさか認可相当の判断をするとは考えられない。森友学園と同様、設立認可が得られないまま、校舎は取り壊しに至る公算が高い。
国家戦略特区における獣医学部の新設「4条件」(石破4条件)の充足すら具体的に検討されていない。加計問題として話題にならず、総理のご意向や忖度が幅を利かせた昨日までならともかく、今や国民の目が光っている。メデイアも手ぐすね引いている。ハードルは俄然高くなっているのだ。
「獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討課題」は次の4要件である。
1.現在の提案主体による既存獣医師養成でない構想が具体化し、
2.ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき具体的需要が明らかになり、
3.既存の大学・学部では対応困難な場合には、
4.近年の獣医師需要動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。
だから、加計学園による、既存獣医師養成ではない独創的な獣医学部設立構想が具体化していなければならないが、そのような構想の説明も、審査の発表もない。
また、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき具体的需要が明らかにされなければならないが、そのような調査も説明もなされていない。
さらに、上述の構想が、既存の大学・学部では対応困難でなくてはならないが、そのような調査が行われていないことが明確になっている。
最後に、「近年の獣医師需要動向も考慮しつつ、検討を行わねばならない」ところ、むしろ近年の獣医師需要は減少し続けているというのが、所轄の農水省の現状認識である。
報道によれば、加計学園の教員確保も、教育条件整備も困難であろうというのが実情を知る者の見解である。総理のオトモダチに、不当な利益を享受させてはならない。大学設置審は、総理の意向の忖度などすることなく、岡山理科大学獣医学部設置認可申請に対して、「認可不相当」の断固たる答申をせよ。
(2017年7月26日)
昨日(7月24日)、閉会中審査の衆院予算委員会において、安倍晋三はこう述べたという。
「『李下に冠を正さず』という言葉がある。私の友人が関わることで、国民から疑念の目が向けられることはもっともなことだ。私の今までの答弁ではその観点が欠けており、足らざる点があったことは率直に認めなければならない。常に国民目線に立ち、丁寧なうえにも丁寧に説明を重ねる努力を続けていきたい」
殊勝な言葉のつもりなのかも知れないが、なんとも軽く歯が浮く。責任の重さの観点が決定的に欠けている。
「李下に冠を正さず」の成語の出典は、『古楽府』の「君子行」だという。デンデン総理が、「ボクだってこれくらいのことは知っている」とひけらかして見せたわけだ。
出典の原文は、以下の短い文章。
「君子防未然、不處嫌疑間。瓜田不納履、李下不正冠。」
《君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處(お)らず。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず》と読み下すようだ。君子たる者、嫌疑をかけられちゃおしまいよ、ということ。
また、調べて見ると、前漢の「列女伝」に、「経瓜田不納履、過李園不整冠」という成句があるという。
《瓜田を経るも履を納れず、李園をよぎるも冠を整さず》と読むのだろうか。これも同じ意味。
李園に実がたわわに成るころ、なにゆえ、その実の下において冠を正してはならないのか。答は自ずと明らかである。そんなことをする輩は、十中八九は李泥棒だからである。もう少し正確に言えば、「李下に冠を正す」行為は、李泥棒が嫌疑をごまかすための所作と相場が決まっているからである。収穫期の瓜田に入り込めばウリ泥棒。もっとも、必ずそうだと決めつけることは危険で例外の存在を否定できない。しかし、「李下に冠を正す」行為あれば明らかに嫌疑濃厚なのだ。
だから、原典も《君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處らず》と言って、「李下に冠を正す」行為を厳にいましめ、嫌疑の間に陥った場合には言及していない。瓜田でも李園でも、嫌疑をかけられた君子たる身には、みっともない言い訳はそれ自体見苦しい。「いったん疑われたらアウト」ということなのだ。
安倍晋三の言葉は軽すぎる。まだ、自分が国民からアウトの宣告を受けていることに気付いていないようなのだ。彼は、自分に「李下に冠」の行為があったから反省するという。しかし、「李下に冠」の行為を見咎められることは、窃盗の嫌疑をかけられること。そのような恥辱は君子には耐えがたいことのだ。ましてや一国の総理。「李下に冠」の疑惑を自覚すれば、潔く身を引く以外にはない。
安倍晋三は言う。「私の友人が関わることで、国民から疑念の目が向けられることはもっともなことだ」と。しかし、これではごまかしの域を出ない。国民目線に立つというのなら、もっと率直に誠実にこう言うべきなのだ。
「私・安倍晋三は、腹心の友のために、友が経営する学校法人の獣医学部新設の認可に関し、国家戦略特区諮問会議委員長の任にあることを奇貨として、公正であるべき行政をゆがめ、本来認可すべきではない特区認定をしたのではないかと、国民の皆様から重大な疑惑を招きました。
この「えこひいき疑惑」「政治の私物化疑惑」は、信なくば立たない政治の信頼に癒すべくもない深刻な損傷をもたらしたもので、民主主義社会における政治家として万死に値する深い罪を自覚し、自ら相応の責任を取らねばならないと覚悟を固めました。
私は、この責任を取って国会議員としての職を辞すことにいたします。当然に内閣総理大臣としての欠格事由にあたりますので、内閣は総辞職をし、総選挙をしなければなりません。国民の皆様には、再び政治の私物化などという疑惑を招く国会議員や内閣が誕生することのないよう投票にはくれぐれもご注意いただきたく、ふつつかながらせめてもの希望を申しあげます。
また、加計孝太郎さんには、私の不徳によってご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申しあげ、新学部設立は諦めていただくようお願いいたします。そして、今後は慎重に友を選ばれるよう、《己に如かざる者を友とするなかれ》という論語の一節を贈らせていただきます。
以上のとおり、『李下に冠を正してしまった』政治家としての責任をとることを表明する次第です。」
(2017年7月25日)
「自民惨敗の都議選」(7月2日)に続く大型地方選挙として、民意の動向を占う機会と注目されていた仙台市長選。昨日(7月23日)投開票の結果、郡和子候補の勝利となった。同候補は、民・共・社・由の4野党共闘候補。「市民と野党」の共闘が結実したことになる。安倍内閣の支持率が急落するさなかでのこの結果、政権への影響は不可避である。それだけではなく、今後の野党共闘選挙のモデルとして大きな意義がある。
都議選は、部分的な野党共闘はあったものの基本は各政党の選挙戦。特殊な事情として、都民ファーストの会という本来保守でありながらヌエのごとき政治勢力の存在があった。反自民票の主たる受け皿の地位は、この政治勢力にさらわれた。しかも都議選では、「都ファ+公明」の選挙協力が成立し、自民は公明に離反されて孤立してもいた。
それと比較して仙台市長選は、与党勢力対野党勢力が四つに組んでの総力戦となった。「自・公の与党」対「民・共・社・由の野党」の闘い。極めて普遍性の高い選挙状況。いずれ迎える「天下分け目の」次の総選挙の小選挙区共闘のモデルケースである。地元紙「河北新報」の出口調査が、「無党派層の投票先は、自公候補28.1%、野党共闘候補45.2%」となっているのが象徴的である。野党共闘陣営が、無党派票(≒浮動票)獲得に成功し、ここで勝敗が決まった。票差は、16万5000票対14万9000票である。
河北新報の以下の記事も紹介しておきたい。
「(敗れた)菅原さんは自民、公明の政権与党に加え、盟友の村井氏(宮城県知事)、奥山氏(前仙台市長)が支える盤石の態勢だった。『だからこそ負けるわけにはいかない』と訴えたが、知名度不足を最後まで覆せなかった。
告示直前の都議選で自民が大敗し、学校法人「加計学園」問題などで安倍政権の支持率が下落する中での選挙戦。『国政どうこうという話は私の頭の中には全くない』と述べたが、支援した市議は『アゲンストの風が吹いた』と悔やんだ。」
けっして、野党が勝って当たり前の選挙ではなかった。
与党側候補には、自民公明の政権与党が付き、宮城県知事も前市長も推しているのだ。負けるはずのない「盤石の態勢」と言ってもよい。それでも投票率が上がり、野党共闘に票が流れた。『アゲンストの風が吹いた』のだ。
河北新報は次のようにも伝えている。
「村井氏(知事)との近さを前面に出したことで、他候補から『お友達政治は許されない』『市は県の支店ではない』との批判も招いた。落選が確実となり、事務所では吹っ切れた表情で敗戦の弁を述べ、支持者らに頭を下げた。村井氏と奥山氏は姿を見せなかった。」
こんな風にはならないだろうか。
「首相との近さを前面に出したことで、国民から『お友達政治は許されない』『行政は総理のご意向や忖度で動くべきではない』との批判も招いた。文科省の設置不認可が確実となり、愛媛県も今治市も、吹っ切れた表情で敗戦の弁を述べ、地元民に頭を下げた。しかし、加計学園も安倍晋三首相も姿を見せなかった。」
これも、河北新報記事。
「郡氏は民進、社民両党の宮城県連が支持し、共産党県委員会と自由党が支援。衆院議員を四期務めた知名度を生かし、幅広く支持を集めた。自民党県連と公明党県本部、日本のこころが支持した菅原氏は、政権への逆風の余波を避けようと党幹部らの応援を控え、地元市議や県議が組織戦を展開したが、及ばなかった。」
全体状況と経過が簡潔にまとめられている。弱小ながらも極右の「日本のこころ」が、与党勢力にくっついていることにも触れられている。与党や自民が何者であるかを考えるうえで貴重な役割を果たしている。
ところで、衆議院議員総選挙宮城県第1区の最近の総選挙開票結果を確認しておこう。
2014年第47回衆議院議員総選挙
土井 亨 56 自・公 前 93,345票 46.8%
郡和 子 57 民主党 前 81,113票 40.6%
松井秀明 46 共産党 新 25,063票 12.6%
2012年第46回衆議院議員総選挙
土井 亨 54 自民党 元 87,482票 39.2%
郡 和子 55 民主党 前 60,916票 27.3%
林 宙紀 35 み・維 新 38,316票 17.2%
角野達也 53 共産党 新 13,454票? 6.0%
桑島崇史 33 社民党 新 6,547票? 2.9%
宮城1区に限らない。共闘ができずに野党乱立すれば、確実に共倒れ。野党共闘ができれば、今回市長選のように十分な勝機がある。ということは、野党共闘ができずに乱立すれば確実に改憲発議を許してしまう。野党共闘ができれば、今回市長選のように改憲を阻止する勝機があるのだ。
(2017年7月24日)
ワタシは憂鬱だ。「弱り目に祟り目」なのだ。いや「泣きっ面に蜂」だ。しかも、蜂は一匹だけじゃない何匹も何匹も数え切れない。おかしいぞ。安倍一強体制安泰のはずだったじゃないか。それが、かくも脆くも崩れるとは…。いったいどういうことなんだ。
議会でも、記者会見でも、講演でも、街頭演説でも。ワタシは好きなことを好きなように言ってりゃよかった。遠慮する必要なんかなかった。なんと言っても一強なのだから。面と向かってのワタシの悪口など、誰も言える雰囲気ではなかったじゃないか。それがどうだ。手のひらを反したようなこの針を刺すような冷たい空気。みんなワタシの悪口を言い合って楽しげだ。記者の態度も豹変した。突っ込みにトゲがあって、遠慮がない。「安倍首相の国会答弁 あまりに下品で不誠実で幼稚」なんて、コラムが大新聞の表題に躍っている。
驚いたのは、都議選が始まったときだ。候補者からの応援演説の依頼がない。「むしろ、不人気だから総理は来ない方がよい」と言われたあのときが、青天の霹靂。無理に無理を重ねた共謀罪国会で、既に潮目が変わっていたのだ。
なによりも都議選の惨敗は痛かった。それまで、不戦敗は別として、ワタシは選挙に勝ち続けてきた。対抗野党勢力の弱体という僥倖に恵まれていたとはいえ、選挙に強い安倍晋三のイメージが、一強体制をかたち作ってきた。それが、都議選では前回59議席からの、自民23議席への大凋落だ。だから、この都議選の結果が「安倍政権の終わりの始まり」と言われてもしょうがない。都連の会長は引責辞任したが、この大敗は明らかに安倍政権への批判だ。ワタシが惨敗の原因を作り、しっかりと足を引っ張った。それにしても、こんなにみごとに負けるとは思わなんだ。これが「弱り目」。
それだけではない。これを潮に、あらゆる世論調査による内閣支持率の極端な墜落。ついには30%を割る調査結果も。不支持率が支持率を上回り、その差が20%に近い。これが、「祟り目」。今日の新たな報道では、毎日新聞全国世論調査が、安倍内閣の支持率26%で、不支持率56%と発表された。「安倍晋三自民党総裁3期目は、『代わった方がよい』62%、『総裁を続けた方がよい』23%」。これは厳しい。
さらに、悪いことは重なる。無能で不人気な防衛大臣や地方創生担当大臣が、思いっきりワタシの足を引っ張る。これが「泣きっ面に蜂」、さらに大きなスズメバチの攻撃も出てきた。仙台市長選の敗北だ。これも痛い。負けただけでなく、負け方が悪い。タイミングは最悪だ。
仙台市長選は、東京都議選に続く大型地方選挙として注目されていた。国政の与野党対決構図、「自・公」対「民・社・共・自」がそのまま持ち込まれた選挙戦だった。言わば、ミニ国政選挙シミュレーションでもあったわけだ。朝日が「野党共闘候補が自公系破る」と見出しを打った。そのとおりだから、タチが悪い。「野党四党は緊密に連携し、安倍批判票を取り込んで勝利した」。このパターンの定着が最も痛い。この選挙でも、中央からの大物自民党議員は表に顔を出せなかった。「与党側の敗北で安倍政権への影響は避けられそうにない」と多くのメディアが愉快そうに報じている。ワタシは不愉快だ。
こんな事態だから追い込まれる。野党の閉会中審査など2か月前なら、無視して押し通せた。しかし、今は説明責任放棄を世論が許さない。針のムシロが、槍ぶすまになる。致命傷になるのだ。だから、明日と明後日(7月24・25日)には、閉会中審査の予算委員会で、「丁寧に説明」をしなければならない。これが憂鬱の原因なのだ。
でも、「丁寧に説明する」って、どうすればいいんだろう。たくさんの人たちが、ワタシの丁寧な説明能力を疑って、聞き耳を立てている。実は、ワタシもどうすればよいのか分からない。自分で何度も「国民の皆様に、納得していただけるよう丁寧に説明してまいります」って繰り返してきた。だけど、もちろん口先だけで言ってきたこと。本当にやる気はなかったから、どうしたら「丁寧に説明」できるか、真剣に考えたことはない。実際にどうすればよいのか、さっぱりなんだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
ワタシは、論争の相手を挑発したり、野次ったり、揚げ足を取ったり、話をそらしたり、論点をずらして一般論でごまかすことは、わりと得意なんだ。逆ギレして聞かれもしないことをまくし立てたり、「印象操作だ」と決めつけて印象操作をすることや、「反省しています」と言いながら相手を攻撃することも得意技。いつもワタシは正しくて、いつも論争の相手の方が間違っているんだから、当然こうなる。
ところが、そういう私の体質に国民世論が反発をしてきた。もちろん、私に非があるのではなく、愚かな世論が間違っているに決まっている。しかし、いま世論に逆らって、さらに支持率を落とせば確実に政権は崩壊する。「泣く子と地頭」には勝てても、世論には勝てない。だから、野党の言い分も良く聞いたフリをしたうえで、「丁寧な説明」をしなければならない。そこがつらい。
今日(7月23日)は、横浜でその練習をしてきた。集会で、「論語」の一節を引用して「『60にして耳順(したが)う』と言う。私はあまり人の話を聞かないイメージがあるけど、結構人の話を聞くんです」と述べてみた。取って付けたような、ワタシに似合わぬぎこちない発言だが、やればできるのだ。
とりわけ、加計学園の問題では「丁寧に説明する努力を積み重ねたい」と言ってきた。これまでなら、「『ご意向』も『忖度』もまったくない。それを証明せよと言っても、ないことの証明は『悪魔の証明』ではありませんか。あるというあなた方の方に証明責任はあるんですよ」と息巻いておくところだが、どうもそれが通用しない。それでは丁寧な説明にならず、そんな論法が批判の対象なのだ。
だから、何とかしなければならないのだが、『ご意向』も『忖度』もまったくないことを、どうしたら丁寧に説明できるのだろうか。ワタシには、至難の業だ。ストレスが溜まる。持病がぶり返すのではないだろうか。一期目のあのみっともない政権放棄を思い出す。汗だくのイノセ君や、茫然自失のマスゾエ君の顔がチラチラする。だから、憂鬱なんだ。
(2017年7月23日)
私、ムンフバト・ダバジャルガル。通称はダヴァ。32歳。職業は日本のプロ相撲選手。こちらでは、大相撲の力士と言うんだ。力士としての登録名は、「白鵬」。「鵬」は中国の古典に出て来るとてつもなく大きな伝説の鳥だ。一昔前に「大鵬」という強い力士がいて、それにあやかったネーミング。15歳でモンゴルのウランバートルから東京に来て、心細い思いをしながらも、我ながらよく頑張った。グランドチャンピオン(横綱)に上り詰めただけでなく、とうとう昨日(7月21日)通算1048勝という大相撲史上の新記録を樹立した。名力士「大鵬」さんもできなかったことだ。これまでの苦労を思えば、感慨一入。涙も出る。
記録達成後のインタビューの様子を、メディアは、「目を閉じて数秒間の沈黙の後に、『言葉にならないね』と喜びをかみ締めた。胸に去来するのは、努力を重ねて地位を築いた土俵人生。そして、将来の夢だ。」などと報じている。「喜びをかみ締めた」は嘘ではない。しかし、思いはもう少し複雑で微妙なんだ。
私は社会人としては若いが、現役の力士としては盛りを過ぎている。引退は先のことではない。その後は、大相撲協会の役員となり、自分の経験を生かして後輩を育成したい。そう、次の舞台の人生を描いている。日本人力士にとっては、なんの問題もないことだが、私の場合には国籍という壁が立ちはだかっている。日本相撲協会の役員として残るには、日本に帰化して日本国籍を取らねばならないとされている。しかし、日本国籍を取るということは、モンゴルの国籍を捨てるということだ。これが悩みなんだ。
私の父、ムンフバト・ジジト(76才)はモンゴル相撲の大横綱で、モンゴル人初の五輪メダリスト(1968年メキシコ五輪レスリング銀メダル)という母国の国民的英雄なんだ。その子の私にも、モンゴル民族の期待は大きい。これまで熱狂的な声援を受けてきた。私も母国の声援に応えようと、努力を重ねてきた。モンゴル国籍の離脱は、母国を裏切るものととらえられかねない。だから、かねてから父は私の帰化には反対してきた。作今、その父の体調がすぐれない。日本国籍を取得して引退に備える、という気持にはなかなかなれない。
国籍問題さえクリヤーできれば実績に文句のつけようはない。「白鵬」の名のまま相撲協会に残って、後進を指導する「年寄」になれる。そう、みんなに言っていただいている。
しかし、公益財団法人日本相撲協会の規則には、「年寄名跡の襲名は日本国籍を有する者に限る」と明示されている。現在の八角理事長(元横綱・北勝海)は「白鵬だから例外ということはない」と言っているそうだ。
私は、自分に流れるモンゴル民族の血にも、栄誉ある父の子であることにも、誇りをもっている。モンゴルの人々のこれまでの恩義も大切にしたい。モンゴルの国籍を捨てるようなことはしたくない。
また、私を育ててくれた日本という国も、大相撲も大好きだ。妻も日本人で、引退後の人生は大相撲の「年寄」として、「白鵬部屋」から立派な力士を輩出する夢を描いている。
できれば帰化などせずに、モンゴルの国籍をもったまま、「白鵬部屋」の年寄りになりたい。そう願って、この問題を考え続けてきた。
問題はふたつあると思う。一つは、大相撲協会の規則。どうして、「年寄」(親方)の資格を国籍で縛ろうというのだろうか。聞くところでは、「日本の伝統文化である以上、(規定を)変えることはありません」ということのようだが、正直のところよく分からない。伝統文化を支えているのはむしろ力士ではないだろうか。力士については日本国籍であることを要求されていない。力士として日本の伝統文化を支えた人が、年寄りになろうとすると、どうして日本の国籍が必要となるのだろうか。私の、これまでの日本の伝統や文化との関わり方を見ないで、帰化するかどうかだけが「日本の伝統文化」を大切にすることの証しなのだろうか。
大相撲は、いち早く尺貫法を捨ててメートル法に切り替えたり、伝統の四本柱をなくして釣り天井にしたり。外国人力士を受け入れたり。伝統文化を大切にしながらも、合理性は取り入れてきたと聞いている。私が帰化しさえすれば、「日本の伝統文化」が保たれたことになるというのだろうか。
私は心の底から思うのだが、私にモンゴル籍のまま力士として活躍の場を与えてくれた相撲協会のあり方こそが「日本の伝統文化」というものではないだろうか。年寄籍問題についても、もっと大らかで解放的に考えていただくことこそが「日本の伝統文化」の立場ではないだろうか。
もう一つは、法律の問題だ。私は、モンゴルの国民でありたい。しかし、場合によっては日本の国籍を取得しなければならない。そのとき、どうしてモンゴルの国籍を捨てなければならないのだろうか。どうして、両方の国籍を取得してはならないのだろうか。必ず、どちらか一つだけを選ばなければならないというのは、私の場合とても難しくつらいことだ。日本とモンゴル、どちらか一方を捨てろという選択を強いられることは、私の心を裂くに等しい。本当に何とかならないものだろうか。
(2017年7月22日)
アツイ。あつい。暑い。熱い。いふまいとおもへどけふのあつさかな。「暑い」という以外に言葉はなく、話題もない。
3年後の夏、この暴力的な猛暑の東京で、オリンピック・パラリンピックが開催されるという。マラソンの日程は男女とも8月上旬だとか。恐るべき炎熱下の試練。愚かしくも非人道的な「地獄の釜」の中の苦役。東京の夏に五輪を誘致した諸君よ。キミたちはクーラーの効いた部屋で、剣闘士たちの酷暑の中の死闘を眺めようというのか。アスリート諸君よ、奴隷の身に甘んじることなかれ。
オリンピックといえば、国威発揚であり、ナショナリズムの鼓吹である。あたかも当然のごとくに国旗国歌が大きな顔をして鼻につく。どこの国の国旗国歌も愉快なものではないが、とりわけ日の丸・君が代は不愉快極まる。わが国の天皇制支配や軍国主義や侵略や植民地支配の負の歴史を背負って、歪んだ保守派ナショナリズムのシンボルとなっている。天皇教によるマインドコントロール下の大日本帝国とあまりに深く結びついたその旗と歌。今なお、日本人が無邪気にこの旗を振り、この歌を唱う感性が信じがたい。
ところで、最近こんな文章にお目にかかった。筆者を伏せて、ご一読願いたい。
《優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめようというブランデージ(当時のIOC会長)提案に私は賛成である。(略)私は以前、日本人に稀薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるがその以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい》
民族意識や祖国意識よりも、「真の感動」、「人間的感動」をこそ重視すべきだという。「真の感動」、「人間的感動」の何たるかはこの短い文章に盛りこまれてはいないが、国威発揚やナショナリズム鼓吹の対立物としてとらえられている。だから、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」という提案に賛成だというのだ。真っ当な見解ではないか。
この一文は、1964年10月11日付読売新聞に「人間自身の祝典」との標題で掲載されたものだという。筆者は、何と石原慎太郎。スポーツライターの玉木正之さんのサイトに紹介されていたもの。石原慎太郎とは、その40年後に東京都知事として、公立学校の教職員に、国旗国歌を強制する「10・23通達」を発出した張本人である。
石原に倣って、私はこう言いたい。
《学校の卒業式に国旗掲揚や国歌斉唱をとりやめようという良識ある教員たちの提案に私は賛成である。少なくとも、天皇(明仁)が米長邦雄に語ったとおり「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」というべきだろう。
私は以前、日本人に稀薄な民族意識や祖国意識、そして秩序感覚をとり戻すのに卒業式の国歌斉唱は良き機会であるというようなことを思ったことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も愛国心も秩序感覚も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、自立した人格の形成、精神的な自由の確立、斉一的な集団行動の強制ではなく、国家や集団に絡めとられない個の確立、そして教育の場での真の感動、人間的感動というものを確認する卒業式であることこそが希ましい》
オリンピックであろうと、卒業式であろうと、国旗・国歌は個人と対峙し、個人を呑み込む。アスリートよ、国の栄光のために競うな。自分のために輝け。それこそが、真の感動ではないか。卒業式の若者よ、国歌を歌うな。自分自身の魂の詩を語れ。それこそが人間的感動を確認する手段ではないか。
国威発揚の五輪に成功したのがヒトラーだった。そのドイツ民族を主役とする大祭典は第2次大戦を準備するものでもあった。2020年東京五輪が、その亜流であってはならない。国旗国歌の氾濫する20年夏は暑苦しく息苦しい。せめて、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」くらいの五輪であって欲しい。日の丸・君が代抜きの東京五輪であれば爽やかとなろうし、少しは涼やかな東京の夏となるだろう。
(2017年7月21日)
「加計3悪人」(萩生田・菅・下村)や、「『THIS』(豊田・萩生田・稲田・下村)IS敗因」だけではない。自民の都議選惨敗や、安倍内閣支持率凋落には、数々の立役者が活躍した。安倍昭恵、金田法相、二階幹事長、河村健夫…。そしてなによりも安倍晋三本人である。
オウンゴールとは、めったにあるものではない。にもかかわらずそれを繰り返すプレーヤーは、オウンゴールの名手と褒め称えなければならない。その筆頭は、もちろん稲田朋美を措いてない。単なる無能の域を超えて、意図的に獅子身中の虫たらんと精進を重ねているに違いないのだ。
またまた、やらかした。昨日(7月19日)各紙朝刊が一面トップで報じた「南スーダンPKO日報隠蔽了承」疑惑だ。同日の夕刊では、新たな関連記事で追い打ち。この人らしいのは、それでも否認し続けていること。蛙の面になんとやらなのだ。
事実を確認しておこう。19日新たな報道がなされる以前に知られていた経過は以下のとおりである。
昨年(16年)12月2日、防衛省は陸上自衛隊の南スーダンPKO現地部隊が作成した日報の情報公開請求に対し、「陸自が廃棄済みで不存在」として不開示とした。だが、後にこの資料が統合幕僚監部に電子資料として保管されていた事実が判明した。「紙」は廃棄されたが、「パソコンの中のデータ」は残されていたということだ。本当は最初から探す気さえあれば、存在した資料のはず。これが12月26日のこと。ところが、どういうわけか、そのデータ発見の事実が大臣まで報告されたのは、1か月を経た翌17年1月26日となった。これを受けて防衛省が、データの保管を認めるとともに、一部は黒塗りで情報公開したのが2月6日。
さらに3月15日、報道によって、統幕だけではなく陸自にもデータが保管されていたことが判明して、問題となった。翌3月16日には、衆院安全保障委員会で、野党が稲田を追及。稲田は「(陸自からの)報告はなかった」と明言している。そのうえで「私の責任で徹底した調査を行わせる」と述べ、防衛監察を命じたことを明らかにしている。
ところが、7月19日朝刊の新たな報道では、3月16日衆院安全保障委員会での「(陸自からの)報告はなかった」という稲田答弁は真っ赤な嘘なのだという。稲田は、「陸自の日報隠蔽を了承していた」というのだ。新たな報道の経過は以下のとおりである。
問題の日報の電子データは、今年1月17日陸自でも見つかっていた。これを受けて、防衛省の背広組と制服組の最高幹部による緊急会議が2月15日に開かれたという。廃棄してないはずなのに出てきた日報の取り扱いをめぐる会議。今さら「あった」とはいえないから、「陸上自衛隊にあった日報は隊員個人が収集していたもので、公文書にはあたらない」という理屈を付け、「保管の事実を公表する必要はない」との結論に達して会議は終了したという。
報道では、稲田防衛相、黒江哲郎事務次官、豊田硬官房長、岡部俊哉陸上幕僚長らが出席していた。当然に稲田も、「会議での隠蔽の結論を了承した」と各紙が報道した。さらに、追い打ちをかけるように、会議の2日前2月13日にも陸自の担当者は稲田大臣に報告していた、と報道されている。
このような経過がありながら、稲田は3月16日に、国会で「(陸自からの)報告はなかった」と答弁した。しかも、「私の責任で徹底した調査を行わせる」「徹底的に調査の上、防衛省、自衛隊に改めるべき隠ぺい体質があれば、私の責任で、改善していきたいと考えております」とまで述べているのだ。
なお、注意すべきは、一部ではあるが、「2月6日に統幕にあった情報の公開は(黒塗りであるにせよ)なされているのだから、重ねての陸自資料の有無や公開にこだわる実益に乏しい」と、問題を矮小化する議論が行われている。このような論点ずらしの妄論に惑わされてはならない。
最大の問題は、稲田の3月16日国会答弁が虚偽であったことである。そして、防衛省内の隠蔽体質と、これをコントロールできない大臣の無力無能である。まずは12月2日に「日報不存在」と言った虚偽。統幕がデータの存在を確認して公開まで1か月余の不申告。さらに、3月19日報道の口火を切った共同通信記事はこう伝えている。
「日報を巡っては、情報公開請求を不開示とした後、昨年12月に統合幕僚監部で発見。その後、陸自でも見つかったが、1月27日に統幕の背広組の防衛官僚が、報告に来た陸上幕僚監部(陸幕)の担当者に『今更陸自にあったとは言えない』と伝達。2月にデータは消去された。」
1月27日とは、2月6日情報公開以前のこと。統幕なら「データがあった」と言ってもよいが、「今更陸自にあったとは言えない」というのが隠蔽体質。
またまた稲田が嘘をついている公算が高い。いうまでもなく、嘘つきは泥棒のハジマリ、政治家のオシマイである。嘘つき防衛大臣の存在を許してはならない。これこそ、危険極まりない。
8月3日に内閣改造の予定だという。これだけ問題を起こし続けている稲田朋美をそれまで防衛大臣の椅子に居座らせ続けてはならない。
安倍晋三は、7月19日夜麻生太郎らとの会食の席で、「小泉政権は田中真紀子外相を更迭したときに、内閣支持率が下がった」と言及したと報じられている。これを「田中切るバカ、稲田切らぬバカ」という。
稲田は直ちに辞めろ。稲田を直ちに辞めさせろ。無傷で、任期を全うしたなどと言わせてはならない。
(2017年7月20日)
昨日(7月18日)、民進党の蓮舫代表が自身の戸籍謄本の一部を公開して、二重国籍を否定した。右翼ジャーナリズムと党内右派の悪意ある攻撃に晒されて釈明を余儀なくされてのことだ。まさかそこまですることもあるまいと思い込んでいるうちのできごと。蓮舫支持の声が弱かったことが悔やまれる。
蓮舫代表の戸籍謄本の一部公開に先だって、昨日の午前中に、民族差別問題に関わる弁護士と著名大学人の10名が、連名で「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」と表題する文書を民進党に提出して、戸籍公開に反対する申し入れを行った。この申し入れに賛意と敬意を表するとともに、その全文を紹介しておきたい。
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?2017年7月18日
?「蓮舫代表のいわゆる“国籍問題”に関する民進党への申し入れ」
民進党・蓮舫代表は、このたびの都議選を総括する党内論議の中で「代表の二重国籍問題が最大の障害」との一部の議員の指摘を受けて、台湾籍を離脱したことを証明する資料を18日に公表する方針を示しています。
蓮舫代表は、参議院選挙に立候補した時点で戸籍謄本により日本国籍を有していることが確認されており、何の違法行為も行っておりません。一部の党内議論とごく一部の報道やネット世論が問題視している「二重国籍」なる問題ですが、そもそも、本当に「二重国籍」なのか、という点をまず問われなければなりません。
日本の国籍法はかつて父系血統主義を取っていたため、台湾籍の父を持つ蓮舫代表は出生時において選択の余地もなく台湾籍を持つことになりました。ところが、その後、1972年の日中国交正常化により、日本政府は中華人民共和国政府のみを唯一の政府であると認め、今日まで台湾(中華民国)政府を承認していません。そのため、蓮舫代表も中国籍とされたのです。その後、1985年に国籍法が改正され、蓮舫代表は経過措置による届け出により日本国籍を取得しました。日本政府の、中華人民共和国を正式な唯一の中国政府とする立場からすれば、日本国籍を取得した時点で中国の国籍法により自動的に中国国籍が喪失されることになります。すると、蓮舫代表についてそもそも二重国籍という問題は生じないことになります。
他方で、台湾の国籍法は外国籍の取得に伴う台湾国籍の自動的喪失を認めないため、国籍の得喪につき台湾の国籍法を適用すれば、二重国籍の問題が生じえます。ただ、台湾当局において台湾国籍の喪失手続きを行ったとしても、その喪失の効果を認めるか否かは日本政府の行政運用の問題であって、蓮舫代表個人の問題ではありません。
日本政府は、蓮舫代表の台湾籍の国籍喪失届を不受理にする一方で、台湾籍の放棄を宣言することによって行う国籍選択を行政指導したといいます(注1)。それ自体、矛盾した態度であると言わざるを得ません。また、仮に「二重国籍」であることを前提としても、国籍選択については、あくまでも法的拘束力のない「努力義務」にとどめており、これまで法務省自身が催告を行ったことがないことを認めています。そもそも、国籍選択制度自体、今日の国際色豊かな多様な社会状況からすれば、その有用性は大きな疑問です。
このように、国籍は複数の国の法制度が絡み合えば個人の意思に関わらず複雑な問題が生じ、しかも、未承認国家の国籍については、日本政府がどのような立場、対応をとるのか、ということが問題となるのです。
さらに、重国籍者の被選挙権についてもかつて国会で議論され(注2)、その被選挙権を制限する理由はないという結論が出ています。
つまり、蓮舫代表は自身の国籍に関して戸籍を含む個人情報を公開するなんらの義務も必要もありません。それにもかかわらず蓮舫代表に個人情報の開示を求めることは、出自による差別を禁じている憲法第14条(注3)及び人種差別撤廃条約の趣旨に反する行為と考えられます。
これまで日本には、戸籍に記された個人情報が差別や排除の目的で利用されてきた歴史がありました。被差別部落に出自を持つ人たちを雇用や結婚で差別するために作られた1975年の「部落地名総鑑事件」の教訓をもとに、企業による採用選考の場で応募者に戸籍謄本の提出を求めることは禁じられるようになりましたが、同様の差別がさまざまな形で残っていることは、各種調査でも明らかです。
また、日本には多くの日本生まれの外国籍者や、外国から日本に移動してきて暮らす外国籍者がいます。1万人を超える無戸籍者もおり、非嫡出子など出自にかかわるさまざまな事情を抱えた人もおります。アイヌは、明治32年に制定された北海道旧土人保護法により、日本の戸籍に編入されながら「旧土人」と分類され続けてきました。日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。その中で、今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに上記の憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。
とりわけ近年は、路上あるいはネットでのヘイトスピーチ、沖縄での機動隊員での「土人」発言や保守を名乗る政治家による排外主義的発言の横行を見てもわかるように、特定の人種、民族、国籍などの属性に基づくマイノリティ差別が酷くなる傾向にあります。民進党はこれまで、共生社会と多様性の実現を政策理念として掲げてきました。政策集の中には、目指されるべきは「一人ひとりの基本的人権をさらに尊重する社会、多様な個性や価値観が認められる人権尊重社会」とはっきり記されています。にもかかわらず、上記の一部の風潮に同調するように党内からも蓮舫代表に「日本人であること」の証明を求める声が出るというのは、憂うべき事態と言わざるをえません。
蓮舫代表が、自身がおっしゃるように「多様性の象徴」であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。
民進党が共生社会を求める市民に支持される公党たるべく、みずからの政策理念をあらためて確認されることを願うとともに、蓮舫代表には、ご自身のルーツや生きてきた道に堂々と胸を張り、不要な個人情報の開示要求は毅然として拒み、一人ひとりが大切にされる社会の実現のために力を尽くしてくださることを願ってやみません。」
佐藤学(学習院大学)、西谷修(立教大学)、山口二郎(法政大学)、中野晃一(上智大学)、香山リカ(立教大学)、伊藤和子(NGOヒューマンライツ・ナウ)、神原元(神奈川弁護士会)、原田學植(第一東京弁護士会)、小田川綾音(第一東京弁護士会、全国難民弁護団連絡会議)、金竜介(東京弁護士会、在日コリアン弁護士協会)
注1 国籍法第14条2項
日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。
注2 昭和59年5月2日、8月2日の参議院法務委員会における飯田忠夫参議院議員(公明党)と関守・内閣法制局第二部長、枇杷田泰助・法務省民事局長らとの議論
注3 日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
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この長い文章の眼目は、「日本社会の近代化の歴史は、人権に目覚め、その尊重を訴える人たちと、差別・排除に固執する人たちとのせめぎ合いの歴史だったと言っても過言ではないでしょう。」「今回、蓮舫代表が戸籍開示を迫られ、その記載内容によって何らかの判断を下されるというのは、まさに憲法14条違反であり、日本の人権をめぐる歴史の時計の針を100年、巻き戻そうとする愚挙でしかありません。」というところにある。
そして、「蓮舫代表が、自身がおっしゃるように『多様性の象徴』であることは、肯定的に評価されこそすれ、いささかも批判されるものではないと考えます。」が、受け容れられない社会へのもどかしさが伝わってくる。
本来は被選挙権の有無だけが問題で、氏が被選挙権を有することには一点の曇りもない。二重国籍であろうとなかろうと、なんの問題があろうか。むしろ、氏は「蓮舫」という、自己の出自を表す姓名を堂々と名乗ってこれまで選挙民の審判を受けてきたではないか。
この申入書の前半はやや煩瑣にまで、二重国籍を否定する論拠に割かれている。そうせざるを得ない現実があるのだ。
つまらんことだ。国籍や人種や民族や宗教の別にこだわることはもうやめたい。愛国心や国旗や国歌をありがたがるのも、実は差別の裏返しだ。一人ひとりを、個性を持った人間として尊重すべきだけが大切なことではないか。
ヒトの年齢を聞くことが失礼な時代にはなっている。国籍を問題することも恥ずべきことなのだ。「私の国籍がどうだって? 失礼なことを聞くもんじゃないよ」「二重国籍? それがどうした?」と言える、差別否定の常識が通用する社会でなくてはならないと思う。
(2017年7月19日)