委員長…静粛に願います。
定刻になりましたので開会し、「テロ等準備罪法案」の審議を始めます。
質問者、福手ゆう子君。
Q 日本共産党の福手ゆう子でございます。
本日は、今、国民の関心が最も高い「共謀罪法案」。その基本構造について、法務大臣の見解をお尋ねします。
大臣。なぜ、今、共謀罪の新設が必要なのでしょうか。
この共謀罪法案が成立すれば、広範な犯罪について、実行行為がなくとも共謀あるいは準備行為の段階で刑罰を科すことが可能になります。当然に、捜査も可能となります。つまりは犯罪の着手がなくとも、常に一般の市民に逮捕や捜索の危険が生じることになります。私たちの生活が、常に捜査機関の監視のもとにおかれることにもなりかねません。
とりわけ、政府が好ましくないとする団体の行動については、恣意的に監視し取り締まることができるようになってしまいます。つまり、治安立法として、また弾圧法規として利用される危険な法案ではありませんか。だから、国民の強い反対を受けて、過去に3度も提案されながら、その都度廃案に追い込まれてきたではありませんか。
にもかかわらず、今回、4度目の法案提出となったその理由を明確に述べていただきたい。
委員長…澤藤大河法務大臣。
A 答弁のまえに、一言申しあげます。
今、委員のご質問に「共謀罪法案」という法案名が出てきました。しかし、「共謀罪法案」ではございません。正確には「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」でありまして、これを提案者である内閣は「テロ等準備罪法案」と略称しているわけでございます。
法律の名称は、正確におっしゃっていただきたい。あなた方は、すぐにレッテルを貼りたがるが、これまで3度廃案となった「共謀罪」と今回提案の「テロ等準備罪法案」とはまったく違うものであることを最初に申しあげておきます。
委員長…福手ゆう子君、どうぞ。あとはお二人で、時間まで適宜質疑と答弁を。
Q 今の答弁聞き捨てなりません。これまで3度廃案となった「共謀罪」と、今回提案の内閣が「テロ等準備罪法案」という法案が、どう違うのか。そこから、ご説明をいただきましょう。
A まず、分かり易いところでは、テロ等準備罪の対象となる犯罪の数が違います。
共謀罪法案では、実行行為への着手がなくても共謀の段階で処罰される犯罪の数は、676もあったのです。今回は、これをわずか91の法律の、たった277罪に絞り込んだのです。どうです。676を277ですよ。全然違うでしょう。
Q 大した違いではありません。これこそ現代版「五十歩百歩」というべきでしょう。刑法や憲法の大原則を崩していることが問題なのではありませんか。
A それだけではありません。何が犯罪で、何が犯罪ではないかが、大変明瞭になったのです。今ある組織的犯罪処罰法に、6条の2という、分かり易い条文を新設することにしました。どんなに分かり易くなったか、新しい条文を読み上げてみましょう。
「次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。
一 別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの 五年以下の懲役又は禁錮
二 別表第四に掲げる罪のうち、長期四年以上十年以下の懲役又は禁錮の刑が定められているもの 二年以下の懲役又は禁錮」
どうです。分かり易いでしょう。あとは、別表四と、別表三に書いてある277の罪のリストを探し、条文をよく読めばよいのです。しかも、捜査機関が濫用しないよう、厳格にいくつもの縛りがかけられていることがよくお分かりでしょう。
Q ちっとも、分かり易くないじゃないですか。
分かり易いというのは、「人を殺す」「人を傷つける」「財物を窃取(せっしゅ)する」という条文のことをいうのです。ことさらに分かりにくく作られているこんな条文がどう使われるのか、不安でなりません。
本筋に戻って、いったいなぜ、いま4度目の法案提出となったのかその理由をお聞かせいただきたい。
A これは、国際組織犯罪防止条約の批准のために必要な法案であると考えております。
この法案が成立すれば、条約の批准ができます。そうすることで、効果的に国際的な組織犯罪を防止し、テロをも防止することができます。
この条約は平成15年9月に発効しています。この条約については、同年5月にその締結について国会の承認を得ておりますが、我が国としても、早期に批准することが必要です。我が国も、国際社会の一員として、この条約を早期に批准し、国際社会と協力して、一層効果的に国際的な組織犯罪を防止するため、この条約が義務付けるところに従い、「テロ等準備罪」を新設する必要があることをご理解ください。
Q 国際組織犯罪防止条約、これはテロ対策とは無関係でしょう。だいたい何年に締結された条約ですか。
A 平成12年です。
Q 西暦2000年ですね。2001年の9・11事件の前年じゃないですか。テロが国際的な関心事になる前の条約ですよ。この条約はパレルモという都市で締結されて、パレルモ条約とも呼ばれているわけですが、パレルモとは、イタリア、シチリア島の最大都市でマフィアの本拠地といわれているところ。マフィアやヤクザ、そういう組織犯罪を対象にした条約ではありませんか。経済的なマネーロンダリングを防止することを主たる目的とした条約であって、政治的なテロを対象にした条約ではないことをお認めいただきたい。
A 委員は、よく勉強なさっているようですが、組織的な犯罪に対する対応は、経済的なマネーロンダリング防止だけではなく、この際、今や待ったなしのテロ対策を盛りこんだ方がよいに決まっていると考えています。
Q 新たな刑罰法規を作ろうというのですから、立法事実つまり差し迫った必要性がなくてはならないわけです。我が国に、テロの危険が差し迫っているというのでしようか。日本がテロの脅威にさらされているという具体的な根拠をお示しください。
A 世界中で、不安定な地域がたくさんあります。これだけ安全保障体制が揺らいでおるわけでありまして、先進諸国、たとえばアメリカでの9・11事件、イギリス・ロンドンでの連続爆破テロ、フランス・パリでの出版社襲撃事件などが起こっているわけです。
日本だけが、これらの事件に目を背けていていいのでしょうか。自由と民主主義・人権という共通の価値を守るために、憎むべきテロリストとの戦いに、日本だけが安穏としていることはできないのです。
Q 世界の情勢を聞いているのではありません。立法事実として、つまり、新たな法律を作らなければならない根拠として、日本にテロの具体的な危険があるかとお聞きしています。
A それはいろいろな考え方がありえます。日本人が、イラクやシリアで誘拐され、殺害される事件も起こっている。
Q 日本でテロの危険が差し迫っているのか。
A 我々は、テロの脅威から、国民を守るべき責務を負っております。常に備えなければならないのです。オリンピックも迫っております。安全なオリンピックを開催するためにも、どうしてもテロ等準備罪は必要なのです。
Q 日本にテロが迫っていると、あなたですら言えないような状態で、どうして包括的な共謀罪が必要と言えるでしょうか。
個別的なテロ対策としては、国連のテロ防止関連条約は13件あり、日本はすべてその批准を終え、それに対応した国内法の整備もできているではありませんか。たとえば、「テロリズム資金供与防止条約」「プラスチック爆薬探知条約」「核物質の防護に関する条約」「空港不法行為防止議定書」「海洋航行不法行為防止条約」「爆弾テロ防止条約」などなど。テロ対策の法整備はきちんとされており、共謀罪法案が成立しなければテロ対策がされていない訳ではありません。
どうして、屋上屋を重ねるような、「共謀罪」の新設が必要でしょうか。
A 政府といたしましては、国民をテロから守る責務を負うものです。屋の上に何重に屋を重ねても、念には念を入れて、国民の安全を守る法律を作ろうとしているわけでございます。
Q 問題は、不必要な法律というだけのものではなく、国民の人権を侵害する有害な法律であるということなのです。この共謀罪法案、もし成立してしまったら、犯罪を実行することなどなく、ただ話し合っただけで処罰されてしまうのではありませんか。
A そういう印象操作はやめていただきたい。絶対にそんなことは、ないのであります。先ほど読み上げた条文に書いてあったとおり、まずは、組織的犯罪集団の団体の活動でなければ、処罰されることはありません。しかも、共謀が成立しただけ、つまり計画しただけでは犯罪が成立しないことは、法文上明らかであります。「準備行為」が必要なのです。一般の方が話しているだけで犯罪者になるなど、絶対にあり得ません。
Q では「組織的犯罪集団」から、お伺いしましょう。労働組合や、市民団体が組織的犯罪集団に当たることはないのでしょうか。
A 組織的犯罪集団だけしか、対象とならないことは、明文で規定しております。
適法な活動をしている労働組合や、その他の団体は、その目的が犯罪はないのですから、当然対象とはなりません。繰り返しますが、この法律はテロリズム集団その他の組織的犯罪集団を取り締まるのが目的で、一般の方には無関係なのです。
Q 更にお尋ねします。既に存在する適法な団体の目的が、ある時点から犯罪目的に変化したと認定することはあり得ないのですか。
A 一般論としてお答えすると、この法律は組織的犯罪集団の組織的行為だけを処罰対象とし、一般人は対象とならないことは申しあげたとおりです。しかし、もしこれまでは合法的な活動をしていた団体が、ある時点から犯罪を企む集団となったとすれば、すでにその集団の構成員は一般人ではないのです。適法な団体の目的が、ある時点から犯罪目的に変化することがないとは言えません。
Q 今、大変な答弁が出た。つまり、「この法律が罰するのは、一般国民ではない」という意味は、「この法律が罰するときには、既に一般人ではないからだ」と、こういうことではないか。これでは、何の縛りにもならないではありませんか。
A 委員の解釈は、あまりに一方的で偏っているのではないでしょうか。重大犯罪を目的とする団体に、それと知って属しているということは、一般国民の目から見て、一般人とは呼べないことは通常の感覚ではないですか。
Q 企業でも、市民団体・労働組合、サークルでも、適法な通常の団体が、ある時点から犯罪目的だと認定されることはありうるのだから、国民誰でも、共謀罪の犯罪者になり得るということじゃないですか。
A 重大な犯罪を計画している団体に属して、具体的な重大犯罪を計画していたらできるだけ早期に、処罰せられるべきは当然ではありませんか。
Q ついに、国民の誰もが共謀罪適用の対象になりうることがよく分かりました。しかも、犯罪目的があるかどうか、計画があるかどうか、捜査段階では、判断するのは、裁判所ではなく、捜査機関。つまりは警察になるわけです。その結果、警察が、国民生活に監視の目を光らせ、あらゆる団体が犯罪目的をもっていないかを調べる。これは、まさに現在の治安維持法ではないか。
A 全くそうではございません。
治安維持法は、私有財産制を否定し、国体を変革しようとするという、思想そのもの、つまり、犯罪とは切り離して、特定思想を有する団体を結成すること、加入することを処罰する法律でございます。
今回の、テロ等準備罪は、思想のみを処罰するのものではありません。準備行為という外に表れた具体的行為の存在を要求しています。
また、団体も重大犯罪を目的とするという、犯罪集団に限って対象とするものですから、ご指摘はあたりません。
捜査についても、捜査機関は、刑事訴訟法、その他関連法令を遵守し、裁判所の令状審査を経て、適法な捜査を行うことになりますので、委員のご指摘はあたらないものと思います。
Q 結局は捜査機関が、最初の判断をする。政府に批判的な活動をしていると、犯罪を行っているとして、捜査の対象とされかねない。しかも、計画と準備で犯罪が成立するのだから、団体監視を常に行うことが主たる捜査方法になることは明白ではないか。団体に対する警察の監視、団体内部でも密告を恐れて活動が萎縮する。これこそ治安維持法そのものではないですか。
A 委員は、少し感情的になっておられる。お答えしたとおり、一般人が処罰されることはないのです。
治安維持法だって、一般人は処罰されることはなかったわけですよ。天皇制を否定したり、革命をたくらむような、当時の言葉でいえば、国賊・非国民を取り締まったわけで、けっして善良な一般人が取り締まりの対象となったわけではないのです。
Q 「共謀罪が現代の治安維持法」といわれているいみが、とてもよく分かりました。
処罰範囲拡大の危険性について、以下の具体例を想定してお聞きします。次の設例で、共謀罪は成立するのでしょうか。
米軍基地の建設に反対している沖縄の市民団体。ついに本格的工事着手が3日後に迫ってきた。市民団体幹部メンバーのXYZは、今度は工事現場のゲート前に座り込んででも、美しい自然を守ろうと話し合った。
翌日、Xはゴザを購入した。2日後、台風のせいで海が荒れ、結局工事は延期となり、座り込みは中止された。
どうですか。これで、一網打尽にXYZを、組織的威力妨害罪の共謀罪で逮捕し有罪にできますか。
A 細かい点がわからないため、具体的な事案ではお答えしかねる。
Q どこがわからないというのですか。
A 市民団体が団体の活動として多人数でゲート前に座り込んで現実に工事を妨害すれば、組織的威力業務妨害罪が成立することになります。問題は、この場合座り込みはないのですから、「テロ等準備罪」の要件としての共謀が成立したといえるのかは議論の様子を調べなければならない。準備行為があったと言えるためには、ゴザの購入目的なども検討しなくてはならない。犯罪の成否は軽々に答えられない。
Q つまり、犯罪が成立しうるから検討が必要だということですね。
A それはそのとおり。犯罪が成立するか否かは、常に微妙な事実の問題を含んでいるのであります。
最終的には裁判官が判断するわけでありまして、今、この事例についてどうかということは、大変難しく、諸般の事情をよく調べなければならない。
Q この例はどうでしようか。
「認可保育所の設置を求める文京ママの会」の会合で、区の保育所認可設置の問題も老人対策もいっこうに進展せず、もう我慢できない。みんなで区庁舎に押しかけて区長をカンヅメにして徹夜になっても徹底して談判しよう、同時に世論に訴えようという相談をした。決行の日を決めてその前日に、区長室を下見に行くまではしたが、決行予定の日が子どもたちの行事と重なることが分かってやっぱりやめた。
これも、組織的監禁罪の共謀罪ということになりませんか。
A 乱暴なママさんたちですね。日常的な監視対象とすることが必要だとは思いますが、「テロ等準備罪」として処罰可能かどうか、なんともお答えのしようがない。
Q つまり、犯罪は成立しうるから検討が必要だということですね。
A それはそのとおり。現実的に犯罪が成立するか否かは、常に微妙な事実の問題を含んで諸般の事情をよく調べなければなりません。
Q 諸般の事情をよく調べるとは、つまり、とりあえず逮捕や家宅捜査をしなければならないと言うことではありませんか。
A それは、そのとおりであることもあれば、そうではないこともある。一概には申しあげられないところです。
Q 結局、どちらの事案も共謀罪が成立しうること、少なくとも、絶対に共謀罪が成立しないわけではないという答弁であることを確認しました。
共謀罪は、国民の自由な団体活動のみならず、表現の大幅な萎縮を生み出し、思想・信条の自由を侵害する、違憲なものであることが明白になりました。けっして成立させるわけにはいきません。
治安維持法で大弾圧を受けた経験をもつ日本共産党は、絶対にこのような弾圧法規の成立を許さない。この法案の廃案を求める国民運動の先頭に立つ覚悟を述べて、私の質問を終わります。
(2017年4月15日)
人の命の値打ちは紙くずみたいなものじゃった。模様を描いた布きれが人の命よりも大切でな、この布きれを敵に奪われると本当に腹を切ったということじゃ。で、当時の世の中がおかしくってな。「腹を切るとは立派なものだ」と褒めそやしたということだ。バカげた話よのう。
またな、人の顔を映した写真が国中の学校にあってな。この写真が校長の命よりもはるかに大事だとされていたんじゃと。それでな、火事だの地震だの、台風だのというときに、この写真を守ろうとして命を失った校長が何人もいたんだそうな。写真は何枚でも同じものが作れるだろう。何枚でもある写真の値打ちって、所詮は紙っぺら一枚よ。紙っぺら一枚のために、かけがえのない人の命を捨てることはあるまいに。バカげた話よのう。
一人ひとりの人間を大切にしない世の中ではな、所詮は布きれの旗やら、所詮は紙一枚の写真やらが、人の命やプライドよりも、大事だとされることになるわけじゃな。ホンにバカげた話よのう。
もう少し聞け。今度はむかしのことじゃない。昨日(4月13日)のことじゃ。
あの、産経新聞が騒いでおる。NHKがな、日の丸の位置をば下に、中国の五星紅旗を上にした画面構成で放送をしたんだと。これが大きな問題なんじゃそうだ。
産経はこう言っておる。
「NHKが3日に放送した番組『ニュースウオッチ9』の中で、日本の国旗を中国の国旗の真下に表示していたことが13日、わかった。岸信夫外務副大臣は同日の参院内閣委員会で、独立国の国旗を上下に位置させることについて『下の国旗は下位、服従、敵への降参などを意味し、外交儀礼上、適切ではなく、あってはならない』と答えた。
自民党の有村治子参院議員の質問に答えた。映像は航空自衛隊の戦闘機の緊急発進(スクランブル)急増に関する特集の中で使用された。有村氏は『NHKはどこの国の公共放送か』と述べて批判した。
NHK広報部は産経新聞の取材に対し『上空を飛行する中国機に対し、スクランブルをかける自衛隊機のイメージをわかりやすく示すため、両国の国旗と機体の画像を使って放送した。国の上下関係を示す意図はなかった』と説明した。」
所詮は血の通わない旗と旗。布切れと布切れ。上でも下でも、右でも左でも斜めでも、たいしたことではない。騒ぐほどのことでもなかろうに。どうしてこんなことが大ごとだというのか。こんなことを国会議員が国会で議論をする、その方がよっぽど大ごとだろう。何とも、バカげた話よのう。
本当の問題は、布切れと人との関係じゃな。旗と生身の人間と、どちらが上でどちらが下か。いったいどちらが大事なのかと言うこと。
さすがに、開けた今の世じゃ。旗や写真のために、命を懸けよというバカげたことをいう者はない。ところが、「おまえの思想や良心や信仰などは投げ捨てて、いやでも起立し旗に向かって頭を下げろ」と、大真面目に命令する知事や教育委員が本当にいるんじゃ。有村治子も外務省も産経もその尻押しじゃ。
旗の上に旗を置くことが「怪しからん」「大問題だ」とは、ちゃんちゃらおかしい。主権者である人の上に、日の丸を置いて、「これを仰ぎ見よ」「頭を垂れよ」という方が、はるかに「怪しからん」「大問題」じゃな。これこそ、「下の人は、上の旗に対して下位、服従、降参などを意味し、適切ではなく、あってはならない」というべきじゃろう。ところが、こんな面妖なことが、東京でも大阪でも、訳の分からん知事の出現以来何年も続いているんじゃ。ホンにホンにバカげた話よのう。いや、腹の立つことよのう。
(2017年4月14日)
「国民は、自身にふさわしい政府をもつ」とか。情けない話だが、アベ政権が我々国民にふさわしい政府なのだろうか。さらには、共謀罪だ。これが、われわれ国民にふさわしい法律ということなのだろうか。まっぴらご免だ。何としても、この法案は廃案に追い込みたい。この法案には暗さが伴っている。アベの旧体制復古願望のもつ暗さだ。あるいは、腐臭がする。いやな時代の前兆としての腐った臭い。
私も何度か、共謀罪の講師活動を引き受けた。現在も幾つか予定を抱えている。定番のとおり、法案の内容を説明し、刑法の保障機能や罪刑法定主義、そして構成要件論をお話しすることになる。そのキモは、類推解釈を許さない厳格な構成要件の解釈こそが、権力の市民生活への介入の歯止めになるということ。権力の側は、できるだけ曖昧な構成要件がほしいのだ。必要あればいつでも、市民生活に介入できるように。
そのうえで、戦前の治安維持法や国防保安法などの実例を挙げ、今回の共謀罪法案が成立した際には、どんなことが起こるか想定例をお話ししてみる。短時間ではなかなか伝わらないもどかしさが残る。
次の機会には、どう工夫すればよいだろうか。集会やすぐれた発言に学びたいと思う。そんな問題意識で、幾つかの集会名や発言内容を拾ってみた。それぞれがどこに力点を置いているか、自ずから伝わってくるものがある。
第1 ズバリ本質をえぐるキャッチフレーズ
「現代の治安維持法・共謀罪反対!」
「話し合うことが罪になる共謀罪法案の廃案を求める大集会」
「マジありえない共謀罪」
「共謀罪創設は国民の『思想・信条の自由』を奪う」
「あなたも犯罪集団の一員に!?共謀罪を考える市民集会」
「共謀罪はいらない!?自由に考え、集まり、話がしたい?」
「『安全・安心』な社会に『監視』される??どうして監視社会が止まらないのか??」
「合意だけで処罰!??共謀罪法案を考える?」
「市民の行動が筒抜けに??高度化する捜査手法と共謀罪で社会が変わる前に?」
「?進む監視社会化について考える?」
「?あなたの想いが閉じ込められる!??」
「会話しただけで犯罪に!? 監視される社会 ?共謀罪・通信傍受法・特定秘密保護法の向かう先?」
「またも共謀罪法案が!?電話・メール・SNSが監視され、つぶやきが犯罪に!?」
「その会話で逮捕??共謀罪を考える?暗黒の社会への道を許すな」
「共謀罪を考える市民集会 あなたの会話がのぞかれる!??市民生活を脅かす共謀罪と盗聴?」
「テロ等組織犯罪準備罪?気を付けよう、そのひと言が犯罪に?」
「共謀罪は『テロ対策』に騙されるな! 国家権力の暴走を監視せよ」
「共謀罪の狙いはテロ対策ではない! スノーデンの警告に耳を傾けよ」
「話し合うことはテロ?」
「国民を監視 自由脅かす『共謀罪』」
「『共謀罪』は、憲法で保障された思想・信条、内心の自由を侵します。
『共謀罪』は、広く市民、団体を監視することになります。
『共謀罪』は、警察の日常的監視、『密告』社会を招きます。」
「国民の思想・信条や言論・表現の自由を脅かす希代の悪法」
第2 政府のウソをあばくフレーズ
「共謀罪なしで国連越境組織犯罪防止条約は批准できます」
「組織的な共謀罪を設けるのは、国際組織犯罪防止条約を締結するためではない」
「そもそも、共謀罪法案はテロ対策法案でない」
「テロ対策に必要というのも有効というのも嘘だ」
「『テロ等』というネーミングは羊頭狗肉、看板に偽りありの詐欺商法」
第3 具体例想定示タイプ
沖縄の平和運動に対する『共謀罪』弾圧シナリオ
労働組合の団体交渉のこじれが「共謀罪」に
パワハラ上司をとっちめろ
「保育問題・介護問題で区役所に押しかけよう」が、組織的威力業務妨害の共謀罪に
第4 時代の危機を語るタイプ
時代状況に敏感な作家たちの発言が身に沁みる。
4月8日の東京新聞に、日本ペンクラブ(浅田次郎会長)が7日夜に、「共謀罪は私たちの表現を奪う」と題する集会を開いたと報じた。作家や漫画家、写真家ら14人が登壇して時代への危機感を語ったという。
報道の見出しが、「『共謀罪、心の萎縮招く』『今抵抗しないと』作家ら声上げる」となっており、リードに、「平和のために言論、表現の自由を守る」「四度目の廃案を目指す」「作家や若者らから相次いで『NO!』の声」などとされている。
作家の浅田会長は「平和のために言論、表現の自由を守っていくことが使命で、共謀罪は看過できない大問題。人間には命があっていずれ死ぬが、法律は死なない。子や孫の代にこの法律がどう使われるか。今が大事なときです」と強調した。
同紙は、日本ペンクラブの声明のタイトルを、「共謀罪によってあなたの生活は監視され、共謀罪によってあなたがテロリストに仕立てられる」と紹介されている。
14人のコメントが短くまとめられているが、印象的な幾つかを転載しておきたい。
◆金平茂紀さん(テレビキャスター) まだやっていないことが取り締まりの対象になる共謀罪は特別に危ない法律だ。沖縄で基地反対運動のリーダーが逮捕されたが、これは共謀罪を先取りした予行演習だ。
◆香山リカさん(精神科医) メールやツイッターをするだけでも、もしかしたらまずいんじゃないかといちいち忖度していくと、考えることすらいけないんじゃないかとだんだんなっていく。
◆田近正樹さん(日本雑誌協会) 共謀罪によって、いつでも捜査ができるような状況が、市民を萎縮させ、社会を変えてしまう。さらに単独テロ対策のために1人で計画することも犯罪になるかもしれない。
◆ちばてつやさん(漫画家) 日本は今、ゆっくりとした大きな渦の淵にいる。戦争とかどす黒いものがたくさん入っていて、その渦に巻き込まれるかどうかの境目だと思うので、非常に危惧している。
◆長谷部恭男さん(早稲田大教授) 犯罪というのは、やり終わったものを裁くのが基本原則。それが277の大量の罪について計画段階で捜査の対象になる。市民生活に直接にかかわるもので危険性も高い。
そのときの中島京子さんの発言要旨が、本日の赤旗に写真入りで掲載されている。とても、印象的な内容。こう語れるようになりたいと思う。
理不尽に慣らされない(タイトル)
森友学園の問題と共謀罪は裏表だと思います。
権力が味方だと思えば、ありえない利益を供与するのが森友学園のケース。権力が敵だと思えば、ありえない方法で取り締まれるのが共謀罪。公文書を公表せず、破棄するような権力が共謀罪をつくる。本当に恐ろしい。
テロ対策と言われていますが、対象となる277の犯罪がテロとどう関係があるのか分からない。むしろこれは誰かを取り締まりたいときに、277の犯罪からどれかを選んで使うための法律ではないでしょうか。国会で審議されると聞いた時は、また強行採決かというあきらめの気持ちがありましたが、理不尽に慣らされることに抵抗しなくてはいけない。
安保法制の時のように反対の声を上げ続け、4度目の廃案にもっていきたいと思っています。
(2017年4月13日)
4月9日、「ユナイテッド航空機『オーバーブッキング』、警官が乗客をボコボコにして引きずり出す」(ハフィントンポスト)という米国内の事件が話題になっている。これは、明らかに消費者問題の範疇の事件なのだが、私には、沖縄の現状を彷彿させる事象として胸が痛む。
なんの落ち度もない市民が、暴虐な力によって理不尽な仕打ちを受け、ひどい目に遭っている。ああ、これはまさしく沖縄の姿だ。強者の理不尽が乱暴に弱者を圧殺している。ああ、これがアメリカだ。そして、現場で暴力に手を染めている制服の狼藉者。ああ、これがアベ政権だ。
ユナイテッド航空と、引きずり出された乗客の関係は、アメリカと沖縄の関係そのものだ。ユナイテッド航空の指示で乗客の引きずり出しを実行した空港の警察は、アベ政権と配下の機動隊という役どころ。引きずり出され負傷した乗客は、沖縄の県土と県民である。その象徴的存在となって長期の勾留を余儀なくされた山城博治さんだといってもよい。
泥棒にも三分の理。この事件でもユナイテッド航空側には、三分ほどの理はあると主張するのだろう。「乗客を機から降ろしてでも、キャビンクルーを乗せなければ、翌日の便の運航に支障が出る。そうすればもっと多くの乗客に迷惑を掛けることにもなる」「しかも、乗客には現金とホテルに無料で宿泊できるとまで提案したが、誰も応じなかったのだ」「だから、実力行使もやむをえないじゃないか」
しかし、この「三分の理」は、実は「七分の非理」であり「無理」である。乗客の任意の席の譲渡を得る解決方法はいくつも考えられたのだし、キャビンクルーを別便で運べばよいだけのことではないか。あるいは、陸路の搬送でも不可能ではなかったようだ。なによりも何の落ち度もない乗客のプライドを傷つける、こんなやり方の実力行使は人権侵害行為として許されることではない。
ハフィントンポストによれば、「警察官が無理やり席から立たせようとしたとき、男性が頭をひじ掛けにぶつけ、叫び声を上げた。あおむけに倒れた男性を引きずっていく警察官を、驚いた他の乗客たちが携帯電話で撮影した」「引きずり出された男性は『唇を怪我していた』」。この事態に、「仕事に行こうとする医者にこんなことをしてはダメだ。オーバーブッキングだからって」「ああ、何てことするの? こんなの間違ってるわ!」「ひどい、何てことをしてるの! あり得ない!」と乗客の悲鳴が、録画されているという。
アメリカとアベ政権も、三分ほどの理はあるというのだ。「中国や北朝鮮などの仮想敵国に対する抑止力を構築するために、日本のどこかに米軍基地を置くことが必要である」「しかし、日本のどこも基地には反対ばかりで、任意の受け入れはあり得ない」「だから、従前の経緯で沖縄に基地を建設するしかないではないか」「しかも、沖縄には、基地の負担に相応の経済的な援助をしている」「だから、基地建設強行の実力行使はやむをえない」
しかし、この「三分の理」も、実は「七分の非理」であり「無理」なのである。
「仮想敵国に対する抑止力構築名目の米軍基地は、実は軍拡競争のスパイラルを招く、平和への敵対物でもある」「仮想敵国に対する抑止力構築のための米軍基地は、有事の際の真っ先の標的になる覚悟なしには地元との共存はできない」「日本のどこも基地には反対ばかりなのは、その存在自体が危険であるだけでなく、日常的に騒音をバラマキ、風紀の紊乱の元凶ともなるからだ」「だから、沖縄への基地建設の押しつけ反対には十分な理由がある」「しかも、経済的観点からも、基地の存在は沖縄の大きな発展阻害要因となっている」「なによりも、県民のプライドを逆撫でするような、こんな基地建設強行の実力行使が許されてはならない」
誰しもが思う。「こんな理不尽なユナイテッド航空には、今後金輪際搭乗してやるものか」と。同じように考えたい。「こんな理不尽な沖縄いじめのアベ政権には、今後金輪際、政権を支えるための投票なんかけっしてしてやるものか」と。
(2017年4月12日)
花が満開となったあと、東京の天候が不順である。アメリカや日本の政権並みの異様さだ。
昼休み時刻、降りしきる雨である。しかも冷雨だ。激しくはないが風もある。スピーカーの音が雨に消されそう。当然のことながら、ビラの受け取りは悪かろう。で、今日は街宣活動はやめようか。逡巡して私は中止を提案したが、仲間の熱意が勝って結局は雨中の街宣決行となった。参加者10名。その平均年齢は60代の半ばだろう。なんたる意欲満々。
雨の中本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元「本郷・湯島九条の会」の定例の訴えです。しばらくお耳をお貸しください。
私たちは、「憲法を守ろう」、「憲法の理念を大切しよう」、「とりわけ何にも代えがたい平和を守りぬこう」、「絶対に戦争を繰り返してはならない」、「安倍政権の危険な暴走を食い止めなければならない」。そういう思いから、訴えを続けています。雨にも、アベにも、負けてはいられません。
アメリカがシリアを巡航ミサイルで攻撃しました。明らかな国際法違反です。世界にならず者国家というものがあるとすれば、まさしく、その筆頭がトランプのアメリカではありませんか。国連憲章は、自衛権の行使を例外として、武力の行使を認めていません。今回のトランプの攻撃がいかなる意味でも自衛のためであったはずはありません。国連ではシリアの化学兵器使用の確認を調査しようという話し合いが進んでいたところに、突然の攻撃。常軌を逸しているとしか評しようがありません。
しかも、さらにはシリアから矛先を転じて対北朝鮮への恫喝であり挑発です。複数の空母を朝鮮半島の至近海域に展開して、北朝鮮を牽制しようということのようです。一触即発という言葉が頭をよぎります。「シリアも、北朝鮮も怪しからん」「だから、徹底して脅して傷めつけてやれ」などという短絡した反応であってはなりません。日本国民としては、安定した平和な朝鮮半島情勢を築くべく、外交努力を求めなければならないと思います。安倍首相のように、条件反射的に、「アメリカのやることなら、爆撃でも進攻でも、なんでも支持します」では不安でなりません。今こそ、憲法の平和主義の理念を再確認しなければならないと思います。
もうすぐ、5月3日の憲法記念日がやって来ます。「国民の祝日に関する法律」では「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」日。今年(2017年)の憲法記念日は70周年の節目。言わば、憲法が古稀を迎えます。
この日本国憲法が生まれて生きてきた70年間、日本は戦争に踏み切ることも、戦争に巻き込まれることもありませんでした。明治維新以来、日本は10年ごとに、戦争を繰り返してきました。戦後70年間、戦争のないことは、日本国憲法の貴重な功績というべきではありませんか。いま、その平和主義の理念を再確認して日本にも、関係各国にも、声を大にして平和的な問題解決を呼びかけようではありませんか。
平和憲法を守ろう、憲法の平和主義を貫徹しよう、という訴えは、70年前から一貫した切実な国民の声であって、色褪せることはありません。ご一緒に、平和を求める世論を作りあげていこうではありませんか。
風雨激しいなかでの宣伝活動だった。思いのほか、通行人の共感を呼んだのではないか、というのが、参加者の事後の感想。韓国から来た旅行者たちが、足を止めて「写真を撮らせてください」と興味を示した一幕もあった。ビラの手を休めて一人が憲法擁護の意義などを話したところ、若い韓国人旅行者が「ボクたちも同じ考えです。がんばってください」と言ったそうだ。小さな、国際連帯。
次回は、5月9日(火)のお昼休み。12時15分から13時まで。今度はきっと、青空の下の宣伝活動。共謀罪審議が本格化している頃だ。場所はいつもの、本郷三丁目交差点、かねやすの前。憲法を大切に思う方、どなたでもご参加を。
(2017年4月11日)
一昨日(4月8日)、多菊和郎さんからメールをいただいた。
「3年間続けてきたNHKの受信料支払停止を終了することにしました」とのこと。「会長の交代でNHKの現状が改善されるとは思っていませんが、支払停止は籾井会長の辞任・罷免を求めてのことであったので、この際、区切りをつけようと考えました。」という。
しかし、多菊さんは、なんの留保もなく受信料支払いを継続するつもりではないという。その意向を「多菊和郎のホームページ(http://home.a01.itscom.net/tagiku)にアップロードしました」という。これをご紹介したい。
以前にも触れたことがあるが、多菊さんは私の学生時代の同級生。1965年4月に進学の東大文学部社会学科で席を同じくした仲である。とはいえ、当時親しかった記憶はない。いや、お互いの存在すら知らなかった。わずか30人ほどのクラスでのこと。私の授業への出席率が極端に悪かったからなのだ。当時私は、もっぱら生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れていた。本郷のキャンパスは、ほとんど私の生活の場ではなかった。
多菊さんを初め、同級生のほとんどは1967年3月に卒業している。あれから、ちょうど50年だ。30人の同級生のうち、8?9人がNHKに就職したのではないだろうか。多菊さんもその一人だ。私は就職活動もせずに留年して、結局は中退となった。私も真面目に勉強しておれば、もしかしたら多菊さんのようにNHKに就職していたのかも、などと思うこともある。
その多菊さんと、偶然に何年か前初対面同然で巡り会った。そして、彼がNHKのOBとして籾井勝人会長の発言に怒り心頭であること、退職者有志たちで会長罷免要求の運動をしていることを知った。なによりも驚いたのは、彼がNHK退職者でありながら、受信料支払い停止を実践していることだった。しかも学ぶべきは、彼の行動が実に堂々としていることである。匿名に隠れたり、遅疑逡巡するところがない。明確な信念の行動なのだ。
彼は、NHK受信料支払いを支持する立場である。しかし、「2004年7月のNHK職員による不祥事に、多くの視聴者が受信料支払いの拒否や保留に転じたためNHKの経営が危機に瀕した」事件に関して、「NHKの側が十分に“視聴者に顔を向けた”放送局でなかったために,視聴者が『最後の手段』を行使した。その意味では、受信料制度は破綻したのではなく、設計どおりに機能したと言えよう」と、視聴者の「最後の手段」としての受信料支払い拒否を「制度の設計どおりの機能」と肯定する。
その一方で、「なお一点確認しておくべきことがある。それは、NHKの経営基盤が弱体化すれば、政治権力は間髪を容れずこのメディアヘの支配権拡大に着手することがはっきりと見えた」ともいう。
視聴者の賢い対応で、公共放送を育てていくことが必要だという意見なのだ。
ほかならぬその彼の受信料支払い停止実践の記録が、「多菊和郎のホームページ(http://home.a01.itscom.net/tagiku)に掲載されている。
このホームページには、これまで以下の4本の記事が掲載されていた。
1 籾井勝人NHK会長あて
会長職の辞任を求める書簡(2014年3月3日付)
2 浜田健一郎NHK経営委員長あて
NHK会長の罷免を求める書簡(2014年3月3日付)
3 受信料支払い停止の経緯に関する報告資料(2014年4月28日)
4 参考資料(論文)放送受信料制度の始まり
それに、今回(4月8日)、
5 NHK経営委員長・会長あて
会長交代に関する意見と対応(2017年3月17日付)
として、新たに下記の記事が付け加えられた。
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2017 年3 月17 日
日本放送協会 経営委員長 石原 進 様
日本放送協会 会 長 上田良一様
多菊和郎
NHKと受信契約を結び放送受信料を長い間支払ってきた視聴者の一人として、また三十年あまりNHKに奉職し公共放送の仕事に携わった者として、3年前の2014年3月に、籾井勝人会長(当時)に会長職の辞任を求め、浜田健一郎経営委員長(当時)に籾井会長の罷免を求める書簡をお送りしました。求めた事柄のお聞き容れが無かったため同書簡でお伝えしたとおり翌月に受信料の支払いを停止しました。
今回この書面によって、前会長の任期満了と新会長就任という事態の変化に対応する私の考えを申し述べます。
1 NHK会長としての資質を欠く前会長に3年の任期を全うさせた経営委員会は、この間に大きく損なわれたNHKへの信頼を回復するため、最大で真率の努力を傾注する責任を負っていると思います。信頼失墜の最大の原因である報道姿勢の問題について、新会長就任後2か月余りが経過した今も、変化の兆候は見えていないと感じています。
2 このように、NHKの現状に関する私の認識は昨年末までのそれと大きく変わっていませんが、3年前の書簡で求めた会長の辞任・罷免については、当該の要求事由が消滅しました。したがって、2014年4月以来支払いを停止し相当額を私的に積み立ててきた過去3年分の放送受信料を支払います。
3 本年4月以降の受信料支払いについては「口座・クレジット」による支払方法を選択せず、「継続振込等(コンビニを通じての2か月前払)」の方法によって支払います。これは、今後当分の間「猜疑の眼」を以ってNHKの放送内容と組織の実態を凝視し続けるという、私の意思を表明する手段であるとご承知ください。
4 「猜疑」の理由を述べます。私は、経営委員を含むNHKの役職員の中に、「放送に携わる者の倫理」を忘却または放擲したまま仕事を続けている人々が存在すると看ています。そこで、たとえ過去3年間の執行部責任者のような「可視化された悪役」が退場しても、《政府が「右」と言うことは「右」としか伝えない半公然のシステム》が既に機能しているのではないかという深い猜疑の念を払拭できないのです。
5 「猜疑の眼」でNHKを凝視するに当たって、次の2項を判断の基準にしていきたいと考えています。
(1) 放送番組編集方針、特にニュース・報道番組においてジャーナリズムの基本原則が堅持されているかどうか。
(2) 経営委員の任命を含むNHK役職員の人事配置において特段の公正と透明性が確保されているかどうか。
私は今、放送法第一条に謳われている「放送に携わる者の職責」という文言について、その意味するところに思いを巡らしています。
以上
「可視化された悪役」という表現が言い得て妙である。「可視化された悪役」は、運動の標的として恰好の存在ではあるが、舞台は「可視化された悪役」一人で作られたものではない。それを支えていた脇役も多数いたというべきなのだ。その悪役一人の退場後も、可視化されない悪役たちが舞台で跳梁を続けているのではないか。その可視化されていない悪役に「猜疑の眼」による凝視が必要だというのだ。当事者意識をもって事態を見つめてきた多菊さんならではの対応。学ぶところが多い。
(2017年4月10日)
産経が日弁連(日本弁護士連合会)批判のキャンペーンを始めた。「政治集団化する日弁連」というレッテルを貼ってのこと。その第1部が、4月4日から昨日(4月8日)まで。「政治闘争に走る『法曹』」というシリーズの連載。その第1回の見出しが「政治集団化する日弁連」「『安倍政権打倒』公然と」というもの。「安保法案は憲法違反です」という横断幕を掲げて行進する日弁連デモの写真が掲載されている。これが、「政治闘争に走る法曹」の図というわけだ。「安倍政権打倒」を公然と言うなどとんでもない、というトーン。
産経新聞にはほとんど目を通すことがない。得るところがないからだ。「政権=右翼」の図式が鮮明になっているいま、その両者の広報を担っているのが同紙。政権・与党の改憲路線や歴史修正主義、アメリカ追随を後押しすることが同紙の揺るがぬ基本姿勢である。ジャーナリズムの矜持を捨てて、「権力の公報紙」兼「右翼勢力の宣伝紙」としての立場を選択したのだ。政権支援とともに、さらに右寄りの政治的な立ち位置を旗幟鮮明にすることでの生き残り戦略にほかならない。
そんな産経である。現政権に膝を屈することのない勢力は、すべて攻撃の対象とせざるを得ない。それが、走狗というものの宿命なのだから。
世の中には、権力に擦り寄り、迎合してはならない組織や理念がいくつもある。本来、ジャーナリズムは権力から独立していなければならない。また、大学の自治も学問の自由も、そして教育への不当な支配排除の原則も、時の権力の介入を許さないためにある。もちろん、司法も同様なのだ。
司法の一角を担う弁護士の集団には、在野に徹し権力から独立していることが求められている。権力が憲法の理念をないがしろにすれば、これを批判すべきが権力から独立していることの実質的な意味である。安閑と権力の違憲行為を看過することは、その任務放棄にほかならない。産経の日弁連批判のキャンペーンは、「権力に抗うことをやめよ」という、政権の意図を代弁するもの。あるいは、今はやりの「忖度」なのかも知れない。
産経の論法は、「政治的課題への容喙は日弁連の目的を越える」「全員加盟の日弁連が、多数決で決議をしてはならない」という、これまで長年にわたって、弁護士会内での議論で保守派(あるいは権力迎合派というべきか)が繰り返してきたものの蒸し返しに過ぎない。その会内での一方の意見に、政府公報紙産経が公然と加担することとなったのだ。
産経が批判的に取り上げた日弁連「政治闘争」の具体的テーマは4点。「安保関連法」「慰安婦問題」「脱原発」「死刑廃止」である。消費者問題や公害問題、労働問題、教育問題、子供の権利、男女の平等、司法改革などが出てこないのは、いかがなものか。これらも、すべて政治や行政、あるいは財界や体制派との激しい対立テーマである。けっして、全員一致などにはなり得ないテーマだ。
ご留意いただきたい。日弁連はいかなる場合にも、これらの課題に「政治的に」コミットしていない。「党派的な」立場で関わることもありえない。人権の擁護と憲法原則遵守の視点から、その限りで関わっているに過ぎない。人権擁護と憲法遵守を「政治的」と言い、あるいはその影響が政治性を免れないとして、政治的課題へは一切口出しすべきでないと言うのは、日弁連に「人権擁護活動をやめよ」「憲法遵守など言うな」と沈黙を強いるに等しい。
会内合意形成に慎重な配慮をすべきは当然としても、日弁連の使命を果たすためには、討議を尽くしたうえで、採決するのはやむをえない。私の印象では、執行部の問題提案には、保守派からも革新派からも両様の異論が出て、相当の議論が行われる。国会が作る法や決議が国民の意思を反映している度合いよりは、ずっと会員の意見を反映している。
日弁連の使命とは何か。弁護士法の冒頭に明記されている。
第1条1項 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
第1条2項 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。
法律専門職として、「法律制度の改善への努力」が謳われている。当然に、「法律制度の改悪阻止への努力」も弁護士の使命である。「弁護士や弁護士会は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現」しなくてはならない。我々が所与の前提とする自由主義の基本は、国家権力の暴走から人権や正義を守らねばならないという点にこそある。日弁連が、政府を批判する立場をとることになんの問題もない。むしろ、弁護士会が権力や体制批判に臆病になることを恐れなければならない。権力の僕の態度で、人権をないがしろにする政権にへつらい、もの言わぬ日弁連であってはその使命を放棄したことになるのだ。
戦前、弁護士自治のなかった時代には、弁護士も権力の僕であることを強要された。かつて、治安維持法違反被告事件の弁護を受任した弁護士が、その弁護活動を理由に、治安維持法違反(目的遂行罪)で逮捕され起訴され有罪となった。そのとき、当然のごとく司法省は裁判所構成法や旧弁護士法などに基づき、有罪となった弁護士の資格を剥奪したが、当時の大日本弁護士協会が抗議の声を上げることはなかった。
国民の人権を擁護すべき弁護士が、自らの人権も擁護できなかった時代の苦い経験に鑑みて戦後の弁護士法ができた。法は、弁護士の使命を人権の擁護と社会的正義の実現と規定しただけでなく、その実効を保障するために、弁護士自治権を確立した。弁護士資格の得喪や懲戒に、権力の介入を許すことなく、弁護士会が公的機関として自ら行うことになったのだ。
いま、弁護士も弁護士会も権力の僕ではない。日本国憲法に基づき、堂々と政権にものが言える立場である。弁護士は政府協賛機関となってはならない。政府の手によって立憲主義がないがしろにされ、政府の手によって国民の人権が損なわれるとき、「政府攻撃は政治闘争だ」「だから、控えねばならない」などという、権力の走狗の言に耳を傾けてはならない。
産経の妄言はアベ政権の代言である。日弁連が政権の立憲主義への無理解を批判したら、産経から日弁連叩きが始まったのだ。実は、今ほど日弁連の発言が重みをもった時期はない。そのことは、政権が劣化したことの証しにほかならない。しかし、劣化した政権への日弁連の真っ当な批判が真摯に省みられることはなく、「広報紙産経」を使った八つ当たりが始まったというわけだ。
私は日弁連執行部にはないし、日弁連のすべての方針に賛成する立場でもない。しかし、安倍政権を代理しての産経の妄言には、声を大にして反対する。安倍政権への貴重な対抗勢力を貶めてはならない。
これから、日弁連の存在意義を掛けて、共謀罪法案の廃案を求める大運動が起こる。これも、政治闘争ではなく、憲法と人権擁護の運動である。産経ごときの記事で、いささかなりともこの運動が鈍るようなことがあってはならない。この点で、私は日弁連執行部に、心からのエールを送りたい。
(2017年4月9日)
誰の執筆かを考えることなく、次のブログ記事を虚心にお読みいただきたい。4月6日に、アップされたものだ。
教育勅語の復活?!
4月に入り各学校では新入生が期待と不安を胸に抱き、登校する姿が目立ちはじめた。しかし未だに一連の森友問題は迷路に彷徨ったままである。異常とも言える速さの小学校許認可手続きや、大幅値引きの国有地払い下げ問題を、早期に解明することは言うまでもないが、塚本幼稚園の教育方法の異常さは、さらに深刻である。
園児たちに教育勅語を集団で暗誦させた動画は、とても衝撃的だった。私は以前の投稿で「洗脳」ではないかと述べたが、他の識者からも同様な指摘があった。善悪や価値判断の乏しい幼児に一方的な価値観を植え付けることは、明らかに洗脳である。
その後、ある閣僚からは教育勅語の内容を肯定する発言があり、また、先週末民進党議員の質問主意書に対する政府答弁書でも、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない」と述べているが、私はいささか違和感を覚える。
教育勅語に掲げた徳目として、例えば「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」などは、いつの時代にも通用する普遍的な価値であろう。しかし勅語は天皇が臣民に与えた性格を持ち、なおかつ「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」などの部分を捉えて、戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない。
だからこそ昭和23年に衆参両院において「排除」「失効確認」したのである。「憲法や教育基本法に反しない形」で教育勅語を教材に使えるのだろうか。またここに述べられている徳目は、数多くの逸話や昔話などの教材によって、既に道徳教育の中に生かされている。ことさら勅語を教材とする理由が見当たらない。
百歩譲って教材に使うとしても、解説なしで使うことは慎むべきである。戦前の軍国主義教育の象徴のように使われてしまったことや、戦後はこの反省によって失効していることをきちんと教えることは、最低限求められる。
もう、ネタバレではあるだろうが、これは自民党代議士のブログ記事。船田元の「はじめのマイオピニオン – my opinion -」というコーナーに掲載されたものだ。まことに真っ当、日本国憲法の精神をよく理解しての文章といってよい。
http://www.funada.org/funadapress/2017/04/06/%e6%95%99%e8%82%b2%e5%8b%85%e8%aa%9e%e3%81%ae%e5%be%a9%e6%b4%bb/
野党議員のものと言っても、ジャーナリストの文章と言っても通用する。自民党内にも真っ当な保守がいる、いや真っ当な保守としての発言を敢えてする人がまだいることにホッとする。アベのごとき真っ当ならざる右翼連中ばかりではないのだ。
もう一度読み直してみよう。
「未だに一連の森友問題は迷路に彷徨ったままである」「異常とも言える速さの小学校許認可手続きや、大幅値引きの国有地払い下げ問題を、早期に解明することは言うまでもない」
森友問題の幕引きを急ぐ政権に対する痛烈な批判。
「塚本幼稚園の教育方法の異常さは、さらに深刻である」
大局的見地からは、ここが最大の問題点だ。「異常」「深刻」が大袈裟でない。
「園児たちに教育勅語を集団で暗誦させた動画は、とても衝撃的だった」「善悪や価値判断の乏しい幼児に一方的な価値観を植え付けることは、明らかに洗脳である」
これが、健全で真っ当な感覚。良識と言ってもよい。あの「洗脳」の場面を見て、涙を流して感動したのが首相夫人で、妻から話を聞いて評価したのが安倍晋三。この夫婦の感覚が不健全で真っ当ならざるものなのだ。塚本幼稚園だけでなく、我が国の首相夫妻が、「異常」なことが「深刻」な問題なのだ。
「ある閣僚からは教育勅語の内容を肯定する発言があり」
名前を出せば、イナダ朋美防衛相、松野博一文科相、そして菅官房長官。その他は、アベの心中を忖度して沈黙することで、勅語肯定発言に同意を与えた。
「先週末民進党議員の質問主意書に対する政府答弁書でも、『憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない』と述べているが、私はいささか違和感を覚える」
これが、「自分は自民党議員だが、アベ一統とは、見解を異にする」という見識。
「勅語は天皇が臣民に与えた性格を持ち、なおかつ『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』などの部分を捉えて、戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない」「だからこそ昭和23年に衆参両院において『排除』『失効確認』したのである」
おっしゃるとおりだ。
「『憲法や教育基本法に反しない形』で教育勅語を教材に使えるのだろうか」
この一文が、このブログ記事の白眉だ。痛烈な勅語活用肯定派への批判となっている。もちろん、アベ政権の批判にも。
「百歩譲って教材に使うとしても、解説なしで使うことは慎むべきである。戦前の軍国主義教育の象徴のように使われてしまったことや、戦後はこの反省によって失効していることをきちんと教えることは、最低限求められる」
この人は、慶應の教育学専攻修士課程修了とのこと。作新学院の学院長でもある。教育に携わる者としての矜持が滲み出ている。
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なお、1948年に衆参両院における教育勅語についての『排除』『失効確認』決議を挙げておこう。これが、教育を論じる際のスタンダードなのだ。
教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。
教育勅語等の失効確認に関する決議 (1948年6月19日参議院本会議)
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
右決議する。
(2017年4月8日)
本日(4月7日)複数のメディアが報じている。天皇(明仁)の生前退位と代替わりに伴う新元号について、政府は複数の学者に選考を依頼し、既に複数の元号案が提出されて「内閣官房で案を管理している」という。ただそれだけのことが、大新聞の一面トップの記事になっている。その記事の取扱いの大きさ自体がニュースというべきだろう。
なお、改めての感慨は中国文化の圧倒的な影響力である。「天皇」も「元号」も、所詮は中国文化からの借り物。古代中国文化の根幹から生じた枝葉、あるいは、中国文化本流からの末節なのだ。前回の天皇代替わりでの政府依頼の学者は、山本達郎(東洋史)、宇野精一(中国哲学)、目加田誠(中国文学)だったという。今回も、中国史、中国古典文学、日本古典文学などの学者に、「中国や日本の古典をもとに漢字2文字の組み合わせ」だとか。日本の古典も漢字文化の末裔。日本では、文化的な国粋主義は成り立ちえないことを痛感する。
元号とは、「もともと古代中国で皇帝が時を支配するという思想から生まれた」といえばもっともらしいが、なに、皇帝の政治的影響力誇示のパフォーマンスに過ぎない。本家の中国には、今こんなものはない。日本が、旧態依然にこんな不便なものをありがたがっている必要はない。せっかくの天皇(明仁)の生前退位。これで平成が終わる。元号法を廃止して、新元号などやめてはどうか。西暦表示一本に統一して、誰も困らない。
世の中は、着実に西暦表示派が優勢になりつつあるが、これに逆行して話題となったのが、「しんぶん赤旗」の題字脇の元号併記。今年の4月1日から突然に始まって、今日で1週間になる。一昨日(4月5日)の紙面、「知りたい聞きたい」欄に、読者の疑問に答えるかたちで、「『赤旗』が元号併記したのは?」という、釈明記事を載せている。私にとっては大事な問題なので、全文を引用しておきたい。
「しんぶん赤旗」が4月1日付から日付に元号を併記したことにいくつかの質問、意見が寄せられています。
今回の措置は、「西暦だけでは不便。平成に換算するのが煩わしい」「元号も入れてほしい」など読者のみなさんからの要望をうけた措置です。これらは折に触れ、手紙やファクス、メールで編集局に寄せられていました。
元号そのものについては、西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべきで、法律による使用の強制には反対するというのが、日本共産党のかねてからの主張です。1979年の元号法制化に際しては、天皇の代替わりごとに改元する「一世一元」は、主権在民の憲法下ふさわしくないとして、その法制化・固定化に反対しました。そのさい、元号の慣習的使用に反対するものではないこと、「昭和」後の元号についても慣習的使用の延長として憲法の範囲内で法的強制力をもたない適切な措置を検討する用意があることも表明していました。
なお、「赤旗」は昭和天皇が死去した1989年1月7日付まで西暦に加え「昭和」の元号を併記していました。
今回の元号併記の措置は、こうした経緯と考え方も踏まえてのものです。
残念だが、読者の疑問に真摯に答えるものとなっていない。もっと丁寧に、もっと率直に語るべきだと思う。なによりも、「西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべき」と言うだけでは、何も語っていないに等しい。「歴史と国民の選択」の是非が問われているのではなく、赤旗自身の見解が問われているのだ。元号というものを歴史的にどうとらえ、今それが国民生活や国民意識にどう関わっていると認識しているのか。ことは、明らかに天皇制の評価に関わる。同様の問題を、「日の丸」も「君が代」も、叙位叙勲も祝日も抱えている。
いったいなぜ、「1989年1月7日付まで西暦に加え元号を併記し」ていたのか、なぜ「1989年1月8日付から2017年3月31日まで元号併記をやめた」のか、そしてなぜ「2017年4月1日から元号併記を復活した」のか、赤旗の原理原則との関わりで説明が必要と考えざるを得ない。
私は本心で提案したい。この際、赤旗も「新元号は不要だ」という社説を書いてみてはどうだろうか。
元号維持派の論理というのはまことに脆弱である。霞ケ関カンツリー倶楽部の男性優位論程度のもので、いとも簡単に崩れ落ちる体のもの。
元号維持派の、まとまった論稿にはなかなかお目にかかれない。典型として、毎日新聞論説陣の保守派で、安倍晋三の寿司友の一人としても知られる山田孝男のコラム「風知草」の「元号について」(毎日新聞2017年1月16日 東京朝刊)を取り上げてみよう。山田孝男の元号維持肯定説は、驚くべき貧弱な「論理」である。
「新元号など無用、という声は出ていない。」
少なくも、私は声を出している。無視しないでいただきたい。
「天皇の戦争責任が問われた第二次大戦直後は、元号廃止論が優勢だった。元号は『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』と腐された。」
その点は、認識が一致する。
「曲折を経て元号廃止論は鳴りを潜めたが、元号が社会にどう定着したかといえば微妙だ。元号を否定しないにせよ、『なくたっていい』と考える人も少なくないのではないか。」
「元号廃止論は鳴りを潜めた」には異論がある。「元号が社会にどう定着したかといえば微妙」はそのとおり。むしろ、『なくたっていい』と考える人が優勢になりつつある、というべきだろう。
「なくたっていいか。私はそうは思わない。」
ほう。その積極理由をお聞かせいただきたい。
「元号…廃止派の論拠の一つは『日本でしか通用しない遺物』といった、今で言うグローバリズム。」
そのとおり。「日本でしか通用しない遺物」であることが「論拠の一つ」であることに異論はない。この「論拠の一つ」への反論の論拠として引っ張り出されるのは、「the保守」福田恒存を引用するだけのこと。
「それに対し、そういう議論は『明治以来、相も變(かわ)らぬ、拝外心理の現れ』に過ぎぬとかみついたのが評論家の福田恒存(12?94年)である。拝外心理=欧米コンプレックスということだろう(読売新聞76年12月6日付の寄稿「元号と西暦、両建てにすべし」)。」
福田もお粗末だが、今頃これを引用して何かを言ったつもりになっている山田も山田。グローバリズムを、「拝外心理=欧米コンプレックス」というのだ。保守が共有する劣等意識のなせるところなのだろうか、それとも福田と山田に固有のものか。いずれにしても、一顧だにする必要のない愚論というほかはない。
その愚論の具体的論拠として、福田が挙げているものが3点ある。
▽元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。たとえば元禄、天明の文化??と言えばイメージできるものも、西暦表記では分からない。
この程度のつまらぬことが元号維持論の論拠なのだ。既に、歴史は西暦で語られているではないか。元号使用以前の紀年は元号では語れない。改元は偶然の産物で長短不揃い。歴史を既述するツールとして不合理・不便この上ない。「元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす」とは、誇張も甚だしい。
なお、将来に元号を廃止することは、過去の歴史を改竄することではない。新元号がなくなった時代でも、歴史を語る際に「元禄の芭蕉、天明の蕪村」と言ってなんの差し支えがあろうか。
▽西暦一本化論は、「酒1合」と言わせず、「180ミリリットル」を強要するようなもので、情緒を奪い、世の中を窮屈にする。
今、尺貫法はほぼ駆逐された。不便だからである。メートル法と尺貫法の併用による社会的コストの負担には耐えがたいからでもある。相撲界でさえ、力士の身長や体重を尺貫法からメートル法表示に変えてなんの不都合もない。すっかり馴染んだではないか。これを、情緒を奪い窮屈になったという声は聞かない。元号も同じだ。昭和の終わり頃、天皇が病牀にあった時期に、和解調書には「昭和73年12月末日限りの履行」などと書いていた。だれの目にも不合理が明らかだったのに、である。いま、50年間の定期借地権の期間を、「平成29年から、平成79年まで」と表記するのは滑稽ではないか。そして、不便で不合理なのだ。
▽第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラブ人が、なんでキリスト教紀元にのみ付き合わねばならぬのか……。
日本人が中国人のつくり出した漢字をなぜ使わねばならないか。便利だからである。西暦は世界標準歴として、これを使うことの利便性がすぐれているから使うのだ。さらに、元号との並立・両建は、反民主的で、社会生活上の不便をきたすから賛成できないのだ。
山田は、この文章の最後をこう結んでいる。
「元号はカビのはえた記号ではない。飛鳥朝以来、通算247回目の改元まであと715日。」
敢えて言おう。「元号はカビのはえた記号」だ。それも、『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』有害なカビだ。カビは、きれいさっぱりなくした方が良い。放置しておくと蔓延して人畜に害をなす。よい潮時だ。新元号の制定はやめるに越したことはない。
(2017年4月7日)
本日(4月6日)、共謀罪法案の審議入り。衆院本会議に上程されて、法案審議が始まった。もっとも、「共謀罪法」という法律があるわけではない。組織的犯罪処罰法という既にある法律の改正という形で、包括的に犯罪実行行為の着手がなくとも、共謀段階で処罰出来るようにしようというもの。
犯罪実行行為は、それぞれが犯罪としての固有の定型性を持っている。誰が見ても、「悪い」「危険な」行為。「人を殺す」「人の身体を傷害する」「他人の財物を窃取する」という実行行為に着手の有無は、それぞれ比較的明瞭だ。だから、捜査権の発動というかたちでの権力の発動は、恣意的には出来ない。ところが、「そんな悠長なことを言っていては社会の安全は保てない」「もっと早い段階で犯罪を未然に防がなくては安心できないだろう」と、犯罪の実行着手以前の「共謀」段階で処罰しようとするのが「共謀罪」。これが、権力にとっては、批判勢力を取り締まるのに便利この上ない。
しかし、権力にとっての利便は、国民にとっての危険となる。何しろ、犯罪の実行行為はまだ行われていない段階での取り締まり、それも一網打尽なのだから、国民にとってはいつなんどきなにを理由に逮捕されるか分からない。とりわけ、立憲主義も、民主主義も、人権思想も理解してないアベ政権。こんな危険なものを作らせてはならない。今国会最大の対決法案、廃案にする以外にない。
その組織的犯罪処罰法の改正案(正確な名称は「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」)のキモは、同法に新たに「6条の2」を新設しようということ。これが「共謀罪」創設の根幹部分。民主主義にとっての天敵となりかねない条文。まずは、その「問題の6条の2」の条文そのものをじっくりとお読みいただきたい。但し、読みにくい。10分以上の読解努力は精神衛生上有害と思われる。なお、本当にこんな悪文が法案になっているのだろうかとお疑いの方は、原文を法務省ホームページにアクセスしてご確認いただきたい。
http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00142.html
第六条の二(新設)
「次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。
一 別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの 五年以下の懲役又は禁錮
二 別表第四に掲げる罪のうち、長期四年以上十年以下の懲役又は禁錮の刑が定められているもの 二年以下の懲役又は禁錮
2 前項各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団に不正権益を得させ、又はテロリズム集団その他の組織的犯罪集団の不正権益を維持し、若しくは拡大する目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者も、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、同項と同様とする。」
当ブログでは、以前にも「『共謀罪』とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。」(2017年2月28日)と書いた。こんな条文を読んで、「よく分かった」という人の頭脳の構造はおかしい。読んで分からないように、書いているのだから。
https://article9.jp/wordpress/?s=%E6%82%AA%E6%96%87
ところで、刑法の条文は一般的に分かり易い。普通に読んで分からなければならないのだ。典型例は次のようなもの。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」(刑法199条)
これが条文の基本形。これならだれにでも分かる。主語(主題語)と述語が明瞭で文意明解である。何をしてはいけないかがはっきり分かることが大事で、そのことは刑罰権の発動というかたちでの権力行使の限界が明瞭ということでもある。これと比較して、「6条の2」の読みにくさ、わかりにくさが理解いただけよう。そのことは、とりもなおさず、刑罰権の発動というかたちでの権力行使の限界が不明瞭極まりないということでもある。権力にとって、使い勝手がよいということなのだ。
その分かりにくい条文を、できるだけ意味が通じるように、日本語としての文章を整えてみたい。主語と述語という、おなじみの文の構造に当て嵌めて条文を見直すと、
6条の2・第1号関係の条文の主語は、
「別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役・禁錮の刑が定められているものについて、組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者(は)」
である。
述語は、
「その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、五年以下の懲役又は禁錮に処する。」
文の構造がおぼろげながら分かっても、条文を理解したことにはならない。国民には、何が禁止されているのか、国家権力が介入できるか否か、自分に逮捕の恐れがあるのか否かが分からなければならないのだ。
具体例を挙げてみよう。刑法204条は、傷害罪を次のとおり定める。
「人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」
傷害罪は、組織的犯罪処罰法改正案の別表四に掲げられている277の罪名の一つ。したがって、今は「人の身体を傷害する」行為に着手ない限り、つまりは刃物を振り回すとか、人に殴りかかるとかする実行行為に着手のない限り、処罰対象とはならない。ところが、この法案が成立すると、傷害の実行行為なくても、一定の場合には「傷害の共謀あったとして」逮捕され、起訴され有罪になって「五年以下の懲役又は禁錮」に処せられることになる。
その要件とは、まずは、主語中の「組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画」することである。共謀を「二人以上で計画」と言っている。何を計画すると処罰対象となるか。「組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を」という。これは、分かりにくい。分かりにくいだけでなく、厳格な歯止めとはならない。
さらに、述語のなかにも要件が定められているとされる。さすがに、「共謀」や「計画」だけでの処罰規定には世論の反発が強かろうとの忖度がつくり出した要件である。
「その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは」というのだ。
つまり、共謀や計画だけでは、処罰できない。共謀や計画をした犯罪を実行するための「準備行為」のあることが必要だというのだ。その準備行為とは何か。「その計画に基づく『資金又は物品の手配』、『関係場所の下見』『その他』」と例示されている。これは、日常にありふれた普通の生活上の行為が刑罰権行使の対象となることを意味する。
「別表第四に掲げる罪」は、数えるのもたいへんだが91法律の277罪だという。従来案では676に上ったが、今回法案ではここまで絞ったと手柄顔をする向きもあるが、これを現代版「五十歩百歩」という。刑法の人権保障機能を崩していることが、大問題なのだ。
今国会に延長はない。6月18日の会期末まで。2か月半の反対運動の盛り上がりでこの法案を廃案に追い込みたい。幸い、4野党の足並みは、よく揃っている。勝機は十分にあるように思う。
(2017年4月6日)