澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

浮き足立つことなく、こんなときこそ憲法9条。

私は怒りに震えている。北朝鮮が4度目の核実験をしたという、その報せにである。原爆・水爆・放射能・被曝などという言葉は、私にとって生理的に受け容れがたいもの。

少し気持ちを落ち着けて、北朝鮮政府の声明文を読んでみた。
やや長文だが、以下のくだりに留意せざるを得ない。対決すべき思考の構造が見えている。

「わが共和国が行った水爆実験は、米国をはじめとする敵対勢力の日を追って増大する核脅威と恐喝から国の自主権と民族の生存権を徹底的に守り、朝鮮半島の平和と地域の安全を頼もしく保証するための自衛的措置である。

思想と制度が異なり、自分らの侵略野望に屈従しないとして千秋に許せない前代未聞の政治的孤立と経済的封鎖、軍事的圧迫を加えたあげく、核惨禍まで浴びせようと狂奔する残虐な白昼強盗の群れがまさに、米国である。

米帝侵略軍の原子力空母打撃集団と核戦略飛行隊を含むすべての核打撃手段が絶え間なく投入されている朝鮮半島とその周辺は、世界最大のホットスポット、核戦争の発火点になっている。

米国は、敵対勢力を糾合して各種の対朝鮮経済制裁と謀略的な「人権」騒動に執着してわれわれの強盛国家の建設と人民の生活向上を阻み、「体制崩壊」を実現しようとやっきになって狂奔している。

膨大な各種の核殺人兵器でわが共和国を虎視眈々と狙っている侵略の元凶である米国と立ち向かっているわが共和国が正義の水爆を保有したのは、主権国家の合法的な自衛的権利であり、誰もけなせない正々堂々たる措置となる。

真の平和と安全は、いかなる屈辱的な請託や妥協的な会談のテーブルで成し遂げられない。こんにちの厳しい現実は、自分の運命はもっぱら自力で守らなければならないという鉄の真理を再度明白に実証している。恐ろしく襲いかかるオオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はないであろう。

朝鮮民主主義人民共和国は米国の凶悪な核戦争の企図を粉砕し、朝鮮半島の平和と地域の安全を保障するために努力の限りを尽くしている真の平和愛護国家である。

わが共和国は、責任ある核保有国として侵略的な敵対勢力がわれわれの自主権を侵害しない限り、すでに闡明した通りに先に核兵器を使用しないであろうし、いかなる場合にも関連手段と技術を移転することはないであろう。

米国の極悪非道な対朝鮮敵視政策が根絶されない限り、われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない。」(朝鮮中央通信配信記事からの抜粋)

つまりは、水爆を保有することが「自国と国民の平和と安全を邪悪な敵から防衛するための正義の自衛的措置」だというのだ。その前提として、「自国こそが平和愛好国家であり、他は虎視眈々と自国を脅かす凶悪な敵」との断定がある。抑止論者にこれを嗤う資格はない。北朝鮮こそは、抑止有効の論理が自国の軍事力の際限の無い拡大要求に帰結する見本ではないか。

「我が国に対する中国や北朝鮮の脅威が根絶されない限り、日本の自衛力の質的・量的な拡大を中断することはあり得ない。日米軍事同盟の強化を継続し続ける以外の方策はない。」これが、安倍政権の危険なホンネではないか。

さらに、「日本の平和と安全を確保するための軍事的抑止力は、可及的に質的・量的に強力であることが望ましい。通常兵器を有するだけでなく、核兵器を持つことがより我が国の安全を高める。また、現実に敵の侵略が生じてからの自衛の措置では遅きに失することが明らかなのだから、先制的な自衛の措置が執れるだけの攻撃力を完備する必要がある」となり、究極的には「われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない」に至ることになるのだ。

改めて、憲法9条の理念を思い起こそう。浮き足だって、我が国にも軍事的対抗措置が必要だなどと言う愚論を制しなければならない。問われているのは、「オオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はない」との行動原理と、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理念に立つかの選択である。愚かな抑止力拡大競争の連鎖を絶対に阻止しなければならない。

そのために、まずは北朝鮮に今回の核実験に踏み切ったことを、大きな間違いだったと悟らせなければならない。国際的威信を確立するどころか、結局は国際的孤立化を深め、経済的な窮乏化を招き、国の存立すら危うくする愚挙であることを思い知らねばならない。

この日の北朝鮮は、1941年12月8日の日本に似ている。あの太平洋戦争開戦の日、日本の指導者もメディアも国民も、これが希望の幕開けだと錯覚させた奇襲の成功に熱狂した。しかし、実はあの日こそ、破局への幕開けの日だったのだ。この教訓を思い起こそう。北朝鮮に、核実験の成功体験をさせてはならない。日本国内の抑止論者を勢いづけさせないためにも、である。
(2016年1月7日)

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なお、3度目の核実験(2013年2月12日)の当時には、私の「憲法日記」はまだ日民協のホームページに間借りしていたが、当日と翌日にブログの記事にした。今読み返して、今の私の気持ちと変わらない。これを再録しておきたい。

朝鮮の核実験に抗議する 2013年02月12日(火)

北朝鮮が3度目の地下核実験を行った。昨日には、米・中両国への事前通告があったとのことだから間違いなかろう。満身の怒りをもって抗議する。

私の抗議は、「北朝鮮の核実験だから」ではない。米・露・英・仏・中の5大国にも、印・パ両国にも、そして核を外交カードに使おうとするイラン・イスラエルにも、改めて抗議する。人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。

かつて、「いかなる国の・論争」があった。私には、そのような論争の存在自体が信じがたく、「いかなる国の核実験にも反対」は自明だと思っていた。その私を、理論派の友人が説得にかかった。

「いかなる国の核実験にも反対という論法は、問題を核兵器と人類との対立という誤った構造に陥らせる」「戦争も核兵器も、人がつくり出す。社会の構造が生み出すものだという社会科学的な視点が必要だ」「戦争や核兵器廃絶のためには、それを生み出す体制の矛盾をこそ見据えなければならない」「世界の情勢を体制間の対抗関係として見れば、問題の本質が核そのものではなく、核の背後にある体制の問題であることが見えてくるはず」「いかなる国の核実験にも反対というのは、そのような問題の根本を見誤らせる間違ったスローガンだ」

理論派ならざる私は上手に反論できなかったが、この「理論」には胡散臭さを感じて、結局説得はされなかった。いまにして私の方が正しかったと思う。どこの国の核であろうとも、米国に対する「自衛的核抑止力」であろうとも、核保有国が増え、核技術が拡散することは絶対に容認し得ない。

アメリカとの間にオスプレイ問題があり、中国とは尖閣問題、韓国とは竹島、ロシアとは北方4島、そして北朝鮮とは拉致問題に核実験。日本は、周囲の各国と軋んだ関係を余儀なくされている。このようなときこそ、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。冷静で賢い対応が求められている。武力による威嚇のエスカレートを許してはならない。

いかなる口実をつけようとも、北朝鮮の核実験も、それへの対抗措置としての我が国の軍備の増強も、「ならぬことはならぬもの」なのだ。

北朝鮮の核実験に、再度抗議する。2013年02月13日(水)

私は、1945年8月6日午前8時15分をもって、人類史を2分する。人類が自死の能力を明確に自覚する以前と以後とにである。そう考えさせる事件後の爆心地近くで、私は小学校に入校した。広島市立幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。

1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」に戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器に対しても、被曝についても、徹底したアレルギー体質となっている。

もっとも、広島の原爆投下が核爆発の第1号ではない。悪名高いマンハッタン計画の「成果」として、人類最初の核実験(プルトニウム型)が1945年7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードで秘密裡に行なわれている。「核の時代」の幕開けはこのトリニティ実験をもって始まる。

以来、昨日の北朝鮮地下核実験は2054回目の核爆発だという。
これまで、アメリカは1030回、旧ソ連が715回、フランス210回、イギリス45回、中国45回、インド4回、パキスタン2回、そして北朝鮮3回の核実験が大気圏で、地下で行われてきた(外務省データによる。イスラエルの実験は未確認として含まれていない)。

その間、原爆は水爆となり、爆発力を示すキロトン(TNT火薬換算)はメガトンの単位となった。なによりも運搬手段の発達がその脅威を増強している。

制憲国会で、幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」

改めて、北朝鮮に抗議し要請する。いかなる理由に基づくものであろうとも、核兵器を廃棄していただきたい。文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。

新年の伊勢神宮「公式参拝」、そこで首相が祈願したこと

春はあけぼの。冬はつとめて。そして、初春は伊勢神宮だよ。ねえキミ、日本人ならそうだろう。閣僚の仕事始めが伊勢神宮詣で悪かろうはずはない。つべこべ文句を言う奴は、定めし非国民というところだな。

靖国参拝には何かとうるさいメディアだが、閣僚の伊勢詣には何にも言わなくなったから清々しい気分じゃないか。中国も韓国も問題にしていないようだし、ニッキョウソも、ゼンキョウも黙りこくっている。すっかり定着だな。各党の党首も初詣に伊勢まで来りゃあいい。まずは与党の公明党から…、あっ、こりゃ口がすべったかな。

ここはなんたって天つ神の本宗だ。皇室の祖先神。そんじょそこらの神社とは格が違う。権力の頂点にいる私が、神道の総元締めに参拝するのだから、政教分離の問題が起こらないはずはない。しかも首相が、外相やら防衛相ら9閣僚を引き連れての参拝なのだから、これが公式参拝でなかろうはずもない。しかし、それがどうしたってことだ。

三木内閣の時に、私的参拝であるための4原則の基準が打ち出されたね。
 まずは、肩書記帳だ。内閣総理大臣の肩書きを用いないこと。
 次いで、公務の随行者を伴わないこと。
 さらに、交通手段として公用車を用いないこと。
 最後に、玉ぐし料は公費から出費しないこと。

あの三木さんのことだ。律儀に、この4基準を厳守したんだろうな。でも、私はそんなことに頓着しない。昨年、あれだけの反対のあった9条の解釈改憲をやってのけた私だ。20条違反など、ものの数ではない。肩書は堂々と「内閣総理大臣」と記帳した。それで何か? 公務の随行者なくして伊勢詣などできるはずもなかろう。新幹線と近鉄線以外は公用車だよ。玉串料はどこから出したかって? そりゃノーコメントに決まっている。これで何か差し支えがあるのかね。

いまだに、新年の閣僚伊勢神宮参拝は政教分離を定めた憲法20条に違反する、などと執拗に言い続けている連中がいる。最高裁判例では、参拝の目的と効果を吟味することで、政教分離に違反するかしないかを判断するようだ。愛媛玉串料訴訟大法廷判決などではかなり厳格な基準として使われているそうで、判決が合違憲判断にまでいけば違憲となるだろうというアドバイスも受けている。でも、総理大臣の違憲行為は、訴訟では争いにくいそうじゃないか。裁判にもちこむこと自体が難しく、メディアが黙り、政党も騒がないんだから、八方丸く収まっているってことじゃないの。

伊勢神宮参拝で、何を祈願したかって。そりゃ、何よりも皇室の弥栄。そして、世界の平和と、国民の福利。もう一つ特別なのが、6月の伊勢志摩サミットの成功。このあたりが公式見解だね。

でも、ここだけの話だが、ホンネは少し別だ。私は、総理総裁のイスに少しでも長く坐り続けたいのだ。そして、念願の憲法改正をやり遂げたい。なかんずく、自衛隊を堂々の国防軍とする9条改憲を実現することこそが、私がこの世に生を受けた意味なのだ。

そのために私は神宮の祭神に祈願した。「アマテラスよ。日本の守護神よ。なにとぞ今年7月の参院選に我が党を勝利に導きたまえ。思いのとおりの憲法改正発議ができるだけの議席を与えたまえ」。これがメインの願い。

しかし、祈願はそれだけではない。アマテラスは、おそらく選挙情勢に明るくない。だから、もっと具体的なサブ祈願事項が必要だと考えて、次のようにも付け加えた。
「昨年の安保関連法案反対の国民運動が今年は終息しますように」
「あの運動の高揚感を餅を食ったら忘れますように。」「遅くとも、梅が咲く頃には忘れますように」「残った人も、桜の咲くことにはすべて忘れてしまいますように」
「野党が分裂状態を続けて、選挙共闘が成立しませんように。」
「18歳選挙権がわれわれの利益につながりますように。」
「神様、アベノミクスとは結局のところは株価のことなのです。選挙が終われば『あとは野となれ山となれ』で結構ですから、選挙までは東証の株価を維持してください。」
「そして、前哨戦としての選挙が重要です。まずは1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙です。そして4月の北海道5区補欠選挙。この二つの選挙に勝って弾みをつけさせてください。」
「けっして、我が党の政策が国民の支持を得ることまでは望みません。ともかく、議席が欲しいのです。」
「私は、神道政治連盟に加盟し、神道政治連盟国会議員懇談会でも真面目に活動しています。『国政の基礎に神道を置く』ことを目標に、日々政教分離を掘り崩し、20条改憲の実現を目指す活動に邁進しています。」
「ですから神様。私を嘉して、ご褒美をください。この私の願いを叶えてください。」

なに? 一国の首相としては次元の低過ぎる祈願だと? どうせ私は右翼の軍国主義者、しかも反知性主義で名を売った政治家だ。でもネ、よく言うだろう。国民はそれにふさわしい政府しか持てないってネ。だから、私はキミたちにふさわしい。今のキミたち国民は、私程度の首相しか持てないのさ。
(2016年1月6日)

初詣「欺され初め」にご用心

今年の初詣に、ちょっとした異変があったという。相当数の神社の境内で署名活動が行われていたというのだ。神社と署名活動。これだけでも不似合いだが、署名活動の内容は、「私は憲法改正に賛成します」というもの。なんとも場違いで、正月気分を殺ぐこと甚だしい。神社がこんなことをしていては、善男善女の神社離れを起こし、結局は自分の首を絞めることになるだろう。

しかも、この署名簿。「私は憲法改正に賛成します」とだけ書いてあって、どのような憲法に改正すべきかの趣旨の記載も説明もない。「憲法改正に反対します」なら、その意味は一義的に定まるが、「憲法改正に賛成」では、いかなる改正を求めているのか分からない。

何を隠そう、実はこの私も、本当のところは「憲法改正に賛成」なのだ。天皇制をなくすこと。自衛隊を憲法違反と明記すること。いかなる国とも軍事同盟を結ばないとすること。税金は累進課税とし、貧困者からはとらないこと。教育と医療はすべて無料とすること。人種や民族の差別を一切なくし外国籍の居住者にも選挙権・被選挙権を認めること。同性婚を認めること…。そんなことが「本来の憲法改正」なのだ。天皇の元首化や、人権規定の形骸化、戦争のできる国への明文化などは、「改正」ではなく「改悪」といわねばならない。

また、署名といえば、普通は「改憲反対」「憲法守れ」なのだから、「私は憲法改正に賛成します」だけの署名用紙では、護憲派の署名運動と勘違いして署名に応じた人も多いのではないだろうか。

この署名は、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」なる組織が、「1000万人賛同署名」を目標に取り組んでいるもの。署名用紙には、「私は憲法改正に賛成します」という文言だけで、目指す改正案の内容の記載がない。神社の境内では分からない。ネットの検索を丹念に続けて、いったんはあきらめかけて、ようやく見つけた。

ようやく見つけたとはいうものの、実は内容確定していないのだ。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」のホームページに、ようやく「具体的に、どのような点を改正する必要があるのですか?」という問を見つけた。このような問があるのは、改憲目標の草案がないということなのだ。改憲草案なしの憲法改正運動、ってそりゃいったいなんなのだ。なんともしまりのない「1000万人署名」。「なんといい加減な」と呆れるか、「さすがに大らか」と褒めるか、あるいは「これが神さまのすることか」と怒ってもよさそうだ。

この「問」に対する回答では、冒頭「次のような点の改正が必要だと考えられます。」といって、7点を挙げている。「前文」「元首」「9条」「環境」「家族」「緊急事態」そして「96条」である。なるほど、すべて右翼・右派が言いそうなこと。しかし、飽くまで、改正個所の指摘にとどまり、どう改正すべきかの具体案を欠いている。以下にその7点を吟味してみたい。

1.「前文」…美しい日本の文化伝統を明記すること
自らの国の安全と生存を、「平和を愛する諸国民の公正に信頼」して委ねるという、他人任せな規定を見直す必要があります。また、前文には、建国以来2千年の歴史をもつ、わが国の美しい伝統・文化を明記することや、世界平和に積極的に貢献する、国民の決意を表明することも大切です。

前文の改正具体案を作らず、「美しい日本の文化伝統を明記すること」とは、無責任でもあり、本気度を疑いたくもなる。要するに、平和主義がお嫌い。軍備増強に金をかけ軍国主義の危険を冒しても、国の政策として戦争という選択肢を作ろうとおっしゃるのだ。「わが国の美しい伝統・文化を明記」とは、なんともいじましい姿勢。「世界平和に積極的に貢献する国民の決意」は、積極的平和主義をとなえる安倍晋三の応援団。こんなのを、「お里が知れる」というのだろう。

2.「元首」…国の代表は誰かを明記すること
国際社会では、天皇は日本国の元首として扱われています。しかし、国内では、「天皇は単なる象徴にすぎない」とか、「元首は首相だ、国会議長だ」という憲法論議が絶えません。国家元首は一体誰なのか、憲法に明記する必要があります。

「天皇は単なる象徴にすぎない」からこそ、憲法での存在を認められている。これを元首にしようというのは、天皇制を危険に晒すことと知るべきである。また、天皇の元首化は一昔、二昔の話し。今はもう、流行らない。初詣に出かけて、「天皇を元首にしましょう。ぜひ署名を」ということが、笑い話ではなく、現実に起きていることの不気味さを警戒しなければならない。

3.「9条」…平和条項とともに自衛隊の規定を明記すること
自衛隊は国防の要であり、さらに世界の平和貢献活動や大規模災害支援にも大きな役割を果たしています。しかし、憲法上「違憲」の疑義があると指摘され、自衛隊の憲法上の根拠はあいまいです。9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の国軍としての位置づけを明確する必要があります。

軍事力は、他国を刺激して軍拡競争の負のスパイラルに陥る危険を常に秘めています。また、治安出動をして国民運動に対する弾圧装置としての役割も負っています。平和貢献活動は軍事に限る必要はありませんし、大規模災害支援には自衛隊ではなく専門組織を作った方が効率のよいことは明らかです。明らかに違憲の自衛隊を存続させなければならない根拠はあいまいです。少なくとも、9条改憲の必要はまったくありません。

4.「環境」…世界的規模の環境問題に対応する規定を明記すること
古来より、日本人は自然への敬意をいだき自然環境の保全に努めてきました。地球規模の環境破壊が進む中、自然との共存、環境保全は世界的課題であり、環境規定は喫緊の現代的課題です。

環境は大切。辺野古の美ら海を埋め立てて新基地を作らせてはならない。原発も、戦争も、環境の立場からも許してはならない。しかし、環境権を突破口に改憲を実現しようというのが、一貫した改憲派策動の手口。環境権規定は新設せずとも、13条が保障する新しい人権として認め、立法で対応することで十分なのだ。

5.「家族」…国家・社会の基礎となる家族保護の規定を
家族は、国家社会の基礎をなす共同体です。社会の発展、子弟の教育などを支える家族の保護育成は、世界各国でも憲法に規定されている重要な項目です。

家族には2面性がある。かつて、「家」が個人を圧迫し、とりわけ女性の自立を妨げた。家族共同体の強調は個人の自立を妨げる側面を持つ。ここでも、現行の24条が「我が国の醇風美俗を破壊している」という保守派の論理を押し通そうというものになっている。

6.「緊急事態」…大規模災害などに対応できる緊急事態対処の規定を
東日本大震災は、1,000年に一度という想定できない大惨事を招きましたが、緊急事態対処の憲法規定があれば、多くの国民を災害から守ることができました。来るべき大災害に対処しうる憲法規定が必要となっています。

「緊急事態対処の憲法規定があれば、東日本大震災で多くの国民を災害から守ることができました。」というのは、まったくのデマ。安倍晋三ですら、そんなことを言っていない。緊急事態条項の真のねらいは、緊急事態を口実にした、人権・民主主義の制約規定を置くこと。こんな危険なことにうかうか乗せられてはならない。

7.「96条」…憲法改正へ国民参加のための条件緩和を
我が国の憲法は、国民大多数が憲法改正を求めても、国会議員の3分の1が反対すれば改正できない、世界で最も厳しい改正要件になっています。憲法改正への国民参加を実現するため、憲法改正要件の緩和が求められます。

これこそが、改憲派が欲しくて手に入れることのできない魔法の杖。第2次安倍内閣が、96条先行改憲を目論んで、世論の袋だたきに遭って引っ込めたもの。これを蒸し返そうというのだ。

初詣の善男善女の皆さま。
オレオレ詐欺みたいな、こんな署名活動に引っかかってはいけません。
初詣に出かけて、こんな署名をさせられたのでは、正月気分も目出度さもすっかり失せてしまいます。せっかくのお正月、欺され初めは避けましょう。
「残念、もう遅かった」という方は、来年からは神社への初詣をやめましょう。
そして、お口直しに「戦争法の廃止を求める2000万人統一署名」の方をどうぞ。
こちらは、各署名用紙ごとに請願の趣旨が明記されていますから。
(2016年1月5日)

公布70周年?日本国憲法の試練は続く

戦後70周年の旧年(2015年)に続いて、憲法公布70周年の新しい年(2016年)の始動である。本日、首相の年頭記者会見があり、通常国会が召集され、アベノミクスの成否を占う東証の大発会もあった。解釈改憲の旧年から明文改憲の新年となりかねない、危うさを感じる。

首相年頭記者会の全文が官邸のホームページに掲載されている。
質疑前の首相のコメントは、我田引水の他愛のないもの。「昨年は、平和安全法制が成立し、私たちの子や孫の世代に平和な日本を引き渡していく基盤を築くことができました。」などという牽強付会のトーンの一色。

質疑応答なければそれだけのこと。幹事社からの質問が2問あった。そのうち1問が選挙情勢と改憲に関わる質問。その問と回答を掲載する。

(記者)
幹事社の西日本新聞です。今年は夏に最大の政治決戦となる参議院選があります。現在は自民党が115議席、公明党の20議席を加えて過半数に達しているような状況です。これを夏の参議院選では自民党単独で過半数を目指すのか、それとも、自民・公明におおさか維新の会などを含めたいわゆる改憲勢力で3分の2を目指すのか、勝敗ラインについてはどのように考えていらっしゃいますか。
それと、改めて参議院選の争点についてはどのように考えていらっしゃいますか。
また、更に衆院解散による同日選の可能性についてもお聞かせください。

(安倍総理)
まず、自由民主党と公明党の連立政権、この連立政権は風雪に耐えた、強固な連立政権と言ってもいいと思います。この安定した政治基盤の上に、「一億総活躍」への「挑戦」を初め、内政・外交の課題に決して逃げることなく、真正面から「挑戦」し続けていきたいと考えています。
参議院選挙においては、全ての候補者の当選を目指していくことは当然のことであり、それが自由民主党総裁の責務であろうと思います。その上で、自公での連立政権の下、安定した政治を前に進めるため、参議院において自公で過半数を確保したいと考えています。その勝利を勝ち取るために全力を尽くしていく考えであります。
憲法改正については、これまで同様、参議院選挙でしっかりと訴えていくことになります。同時に、そうした訴えを通じて国民的な議論を深めていきたいと考えています。
なお、衆議院の解散については、何度も同じことを申し上げて恐縮でございますが、全く考えていないということであります。
参議院の選挙のテーマは様々でありますが、3年間の安倍政権の実績に対する評価、そして、今、私たちが進めようとしている「一億総活躍社会」について、国民の審判をいただきたいと思っております。

これにどう見出しを付けるか、各紙のセンスが問われる。
朝日は、平板に「参院選『自公で過半数確保』 安倍首相が年頭会見」>とした。読売も「参院選『自公で過半数確保』…年頭会見で首相」。両紙とも、「改憲」の文字が出て来ない。

さすが東京新聞は「年頭会見、参院選で改憲争点化 首相、自公過半数目指す」とし、毎日は「首相年頭会見 改憲 参院選で訴える『国民的議論を』」と打った。「改憲争点化」「改憲 参院選で訴える」をアピールポイントとしたのだ。

ちなみに、産経は「『未来へ挑戦する1年に』『参院選で憲法改正訴える』『同日選は考えていない』」というもの。右派の立場で、右派なりに改憲に敏感なのだ。

それにしても、幹事社の質問がこれで終わりなのがもの足りない。
「参院選でしっかりと訴えることになる改憲のテーマは、どんなものをお考えですか」「憲法9条改憲については参院選の争点としますか」「昨年9月安保関連法成立時に、総理は『国民の皆様の理解が更に得られるよう、政府としてこれからも丁寧に説明する努力を続けていきたいと考えております』と言われました。あの説明はどうなりましたか」「まず、この点についての丁寧な説明なければ、憲法に関する国民的な議論は深まらないのではありませんか」「今年の参院選で改憲賛成の議席が3分の2に達しなければ総理在任中の改憲はあきらめざるを得ないと思いますが、いったいどの勢力を改憲賛成派とお考えですか」などと、突っ込んでもらいたかった。

さて、第190回通常国会が本日開会した。会期は6月1日までの150日間。参院選の日程から、会期の延長はないと言われている。問題は山積だ。が、今日のところの私の関心は、もっぱら共産党議員団が初めて開会式に出席したこと。玉座の天皇を見上げ、他党の議員たちと同様に、おとなしく「(お)ことば」を聞いたという。

私は、「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする教員たちの訴訟を担当している。自らの思想、教員としての良心に忠実であろうとして、不利益を覚悟して起立・斉唱を命じる職務命令に毅然と不服従を貫いている尊敬すべき教員たち。その教員たちにとって、これまでは共産党こそが最も頼りになる支援の政治勢力であった。スジを通す、原則に忠実、けっしてぶれない、その姿勢を貫く共産党であればこそ、躊躇することなく懲戒処分を受けた教員の側に立って都教委を批判してきた。教員たちからの厚い信頼を勝ち得てもきた。共産党の「スタンド・バイ・ミー」の姿勢は今後も変わらないのだろうか。一抹の不安なきにしもあらずである。党勢拡大や国民連合政府構想推進のためとする大所高所に立っての天皇制やナショナリズムへの妥協。残念と言わざるを得ない。

憲法公布70周年(11月3日)を迎える今年。情勢は険しくも複雑である。その中での明文改憲をめぐるせめぎ合いは一層熾烈になるものと覚悟しなければならない。
(2016年1月4日)

アベ政権の「緊急事態条項」は、ナチスの「全権委任法」にそっくりではないか

2015年は憲法に大きな傷を負わせた解釈改憲の年だった。明けて16年は、明文改憲が話題の年となりそうな雲行きである。毎日新聞元日号のトップ記事が、「改憲へ緊急事態条項 議員任期特例 安倍政権方針」。そして2面に、「透ける『お試し改憲』 緊急事態条項 他党支持得やすく」という解説記事。見出しだけで内容がよく分かる。改憲勢力にとっても、阻止勢力にとっても、せめぎ合いの正念場が近づきつつあるという緊迫感を持たざるを得ない事態なのだ。

毎日新聞の記事は、「安倍政権は、大規模災害を想定した『緊急事態条項』の追加を憲法改正の出発点にする方針を固めた。」「安倍晋三首相は今年夏の参院選の結果、参院で改憲勢力の議席が3分の2を超えることを前提に、2018年9月までの任期中に改憲の実現を目指す」と、断定調。おそらくそのとおりなのだろう。

政権が目指す改憲の内容は、「衆院選が災害と重なった場合、国会に議員の『空白』が生じるため、特例で任期延長を認める必要があると判断した」というもの。このテーマなら、「与野党を超えて合意を得やすいという期待もある」という。

ニュースソースは「政権幹部」。その政治家が、「首相の描く改憲構想を明らかにした」「首相は在任中に9条を改正できるとは考えていない」「首相は自身が繰り返し述べてきた『国民の理解』を得やすい分野から改憲に着手するとの見通しを示した」という。

また、自民党の保岡興治衆院憲法審査会長が「今後は緊急事態条項が改憲論議の中心になる」と報告したのに対し、首相は「与野党で議論を尽くしてほしい」と応じたこともあげ、「衆院憲法審査会では、衆参両院議員の任期延長や選挙の延期を例外的に認める条項の検討が進む見通しだ」ともいう。

もっとも、毎日のこの記事、ややミスリードの気味もないわけではない。実害あって問題なのは、「一時的な私権の制限」が盛り込まれることで、「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長)だけであれば、緊急事態条項提案の合理性を当然の前提としているように読めることである。実は「お試し改憲」などと安閑とはしておられない事態なのではないか。この点、大いに警戒を要する。

毎日の報道は、「自民党の改憲推進派は『最初の改憲で失敗すれば、二度と改憲に着手できなくなる』と懸念しており、首相も国会の議論を見極めながら、改憲を提起するタイミングを慎重に計るとみられる」というもの。これは、誇張ではない常識的な情勢の見方だが、このような情勢判断を含む毎日の記事全体が、政権の観測記事であろうということ。産経や読売ではなく、毎日へのリークであることに意味がある。おそらく、政権はこのような記事への世間の反応を見ているのだろう。

毎日の記事では、緊急事態の内容を《「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長》と《「一時的な私権の制限」》とに二分し、前者であれば人畜無害の「お試し改憲」、後者なら「実質的な人権制約改憲」としている。

「政治空白の回避策」とは、衆院が解散後総選挙を経ての国会召集までの間に緊急事態が生じた場合、空っぽの衆院が緊急事態に対応できないではないか、という問題提起への対応策。なに、たいしたことではない。半数ずつ改選の参院が空っぽになることはない。二院制の存在理由の一つはここにある。憲法54条2項但し書きの「内閣は、国に緊急の必要あるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」を活用すればよいだけのこと。こんなテーマで、ことさら憲法改正の必要があるわけはない。

憲法は、硬く安定しているところに値打ちがある。現行の規定のままでは耐えがたい不都合が生じており、どうしても条文を変更しなければ不都合を解消できない場合以外には、軽々に変更をすべきではない。東日本大震災においても、事態への対応に憲法が桎梏となった事実はなかった。仮にあの事故が衆院解散中のものであったとしても、事情は変わらない。「54条だけでは大規模災害時の国会対応が不十分になる」という立論は、ためにするものとしか考えられない。要するに、改憲の立法事実が存在しないのだ。

自民党改憲の狙いは、もっと実質的な人権制約にある。「自民党改憲草案」(2012年4月)は、現行憲法にはない「第9章 緊急事態」を設けようと具体的な提案をしている。

そのさわりは、以下のとおりである。

「第98条(緊急事態の宣言)1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

第99条(緊急事態の宣言の効果)1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、…国その他公の機関の指示に従わなければならない。」

法は「要件」と「効果」で書かれている。緊急事態の要件は、戦争・内乱・政府批判の大行動・自然災害…だけではない。国会で議席の過半数を占めた与党が、「法律の定めるところ」としてどこまでも広げる可能性を残しているのだ。そして、緊急事態の効果。政府の思惑で国民の人権を制約できるのだ。政権にとって、こんなステキな魅力的な魔法のカードはない。

悪名高いヒトラー・ナチスの全権委任法(授権法)は、国会放火事件を口実とする「民族と国家防衛のための緊急大統領令」に続いて登場した、緊急事態に備えての時限立法であった。その第1条「ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる」と、アベ・自民党の「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」の近似性に驚かざるを得ない。

大江志乃夫さんはその著「戒厳令」(岩波新書)の前書きで、次の趣旨を述べている。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の48枚のカードが形づくっている整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」

日本国憲法が形づくる、人権と民主主義の整然たる秩序の体系。これを根底からひっくり返すジョーカーが緊急事態条項なのだ。こんな物騒な緊急事態条項改憲を、危険なアベ政権の手に委ねてはならない。後戻りできない、不可逆的な効果を持ちかねないのだから。

さて、明日から始まる通常国会に目を離せない。
(2016年1月3日)

「靖國神社ってなんだ」「これだ」

正月。いくつかの機関誌の新年号に目を通した。目を通したなかでは、靖國神社の広報誌「靖國(やすくに)」(全24頁)が最も興味深いものだった。

私は、靖國を語るときには襟を正さねばならない、と思っている。ことは国民皆兵の時代の夥しい兵士の戦死をどう受け止めるべきかという厳粛なテーマである。240万人の非業の死があり、その一人一人の死者につながる家族や友人の、故人を悼む気持ちが痛いほどよくわかるからだ。

だが、その襟を正さねばならないとする厳粛な気持ち故に靖國神社批判を躊躇してはならないとも考えている。むしろ、戦死者につながる家族や友人の故人を悼む純粋な気持を、靖國神社に利用させてはならない、という思いが強い。「靖國」新年号は、その私の思いを固めるものとなっている。

靖國神社とは、天皇制と軍国主義と神道との奇妙な結合体である。それは国民の宗教感情を利用するものてはあるが、むしろ宗教のかたちを借りて国家が作り出した人為的な疑似宗教施設であり、イデオロギー体系である。国民心理操作システムと言ってもよい。

国家は、靖國神社という宗教的軍事施設を創設して、戦没兵士の死と魂を国家が独占して管理するシステムを確立した。その目的は戦没者を悼む国民の心情を国家の側に取り込むことにある。こうすることによって、戦争や戦争を推進した天皇制を美化し、戦争や天皇制批判を封じ込めることが可能だったのだ。

英霊を取り込んだ側であればこそ、「英霊を傷つけるな」「英霊を侮辱するな」「そんな弱腰では英霊が泣いているぞ」という台詞を吐くことができる。違法な戦争も、無謀な戦争も、「英霊」を傷つけるものとして批判を躊躇せざるを得なくなる。

私はかつてこう書いたことがある。
「靖國は、一見遺族の心情に寄り添っているかのように見える。死者を英霊と讃え、神として祀るのである。遺族としては、ありがたくないはずはない。こうして靖國は遺族の悲しみと怒りとを慰藉し、その悲しみや怒りの方向をコントロールする。
しかし、あの戦争では、「君のため国のため」に命を投げ出すことを強いられた。神国日本が負けるはずのない聖戦とされた。暴支膺懲と言われ、鬼畜米英との闘いとされたではないか。国民を欺して戦争を起こし、戦争に駆りたてた、国の責任、天皇への怨みを遺族の誰もが語ってもよいのだ。
靖國は、そうはさせないための遺族心情コントロール装置としての役割を担っている。死者を英霊と美称し、神として祀るとき、遺族の怒りは、戦争の断罪や、皇軍の戦争責任追及から逸らされてしまう。合祀と国家補償とが結びつく仕掛けはさらに巧妙だ。戦争を起こした者、国民を操った者の責任追求は視野から消えていく。」

「靖國」新年号は、この私の考えが、誤りでも誇張でもないことを裏付けている。いまだに、靖國神社と戦争とは強固に結びついている。靖國神社側がそのことを隠そうともしていないのだ。

新年号で注目すべきは、「やすくに活世塾」なる講座の紹介である。靖國神社そのものの思想としての記事の掲載ではないが、日の丸を背景とした講演者の写真入りでの新年号への掲載である。靖國神社が親和性をもっている思想の紹介と理解するよりほかはない。

「やすくに活世塾」で講演したのは、日本政策研究センター代表という肩書きを有する伊藤哲夫なる人物。講演内容は以下のとおり。

今回議論になった平和安保法案は常識的な内容であったが、世間では七十年代の安保闘争の思想を持つ空想的平和主義者による偏った考えがマスコミにより大きく取り上げられた。
現実に則さない平和主義は戦後日本にのみ蔓延ったのではなく、実はヨーロッパが第一次大戦後から第二次大戦までの間かぶれていた。第一次大戦の敗戦で国力の弱まったドイツにおいて大ドイツ構想を掲げて台頭したヒトラーは再軍備と徴兵制を行ったが、平和主義を唱えるイギリス、フランスは抑止力を持たない非難決議を出すに留まったため、ドイツのラインラント進駐やオーストリア併合を許してしまった。さらにはドイツの脅威を恐れたイギリス首相がチェコ大統領に圧力を掛けチェコスロバキアの一部をドイツに割譲させることで収めようとミュンヘン会議を開いたが、それが逆にドイツの勢いを増大させ、ポーランド侵略を開始、結果として第二次世界大戦へ突入した。このことをチヤーチルは、ドイツには勝利したものの、平和主義を掲げておきながら戦争をもたらしてしまった勝者の愚行であったと断じている。日本はこのような過去の【平和主義歴史】から学ばねばならない。
現在の中国の軍事進出は大ドイツ構想を掲げて進出したヒトラーと同じであり、宥和政策は通じない。憲法第九条は戦争をしない国と掲げているが、軍備を整え、他国の戦争をさせない国にならなければならない、と述べるとともに、日本人は歴史を鑑として物事を考える力をつけなければならない。

「靖國派」という言葉は、むべなるかな。靖國神社とは、このような講演会を主催してこのようなイデオローグを招いてしゃべらせ、機関誌で紹介する「宗教団体」なのだ。けっして戦没将兵をひたすらに追悼あるいは慰霊するにとどまらない。「平和主義は危険」。「憲法9条を遵守していてはならない」。「軍備を整え、他国の侵略戦争をさせない国にならなければならない」ことを喧伝しようというのだ。

また、同新年号は2面を割いて言論人からの寄稿を掲載している。東京新聞でも、毎日・朝日でも、読売ですらない。靖國神社は、産経の論説委員を選んで、寄稿を求めているのだ。産経は9条改憲に積極的で、戦争法に賛成の立場を明確にし、中国を危険視することで知られた存在。靖國神社と産経、よく似合うではないか。

「渡部裕明・産経新聞論説委員」の、「『父祖の歴史』を知ることから」と題する文章が掲載されている。

この人、祖父はシベリア出兵従軍の経歴を持ち日中戦争に応召して戦死。父親は職業軍人として「戦死こそ免れたものの、幼少時からの『人生の目的』を奪われた内面の傷は深」かった、という家系。その上で、次のように述べている。

これが、わが「ファミリーヒストリー」である。一家が戦争でこうむった被害はやはり甚大だと言わねばなるまい。だが、祖母も父親も、苫難の連続ではあったが、この国を恨んだり、だれかの責任を問うた形跡はない。父親が進んで軍人の道を選んだ以上、「意に反して兵士とされた」と、国家を弾劾するわけにもいかなかったのだ。

マイルドな言い方だが、戦争を推進した「この国」や「誰か」を免罪する論の展開である。シベリア出兵にも日中戦争にも、そして太平洋戦争にも、国としての責任を問題とする姿勢は皆無である。わざわざ「この地上から戦争がなくなるとはとても思えない」とまで書いているのだ。

また、同論説委員氏の結論めいた一節は以下のとおりである。
「戦争は悲惨なもの」と訴え、それを表明する会合やデモに参加するのも一つの行動だとは思う。しかしまずは、白分たちの父祖が戦争の時代に何を考え、どう生きたかを知るところから始めるべきではないか。主義主張やイデオロギーにとらわれない「実感できる歴史」は、そこで見つかるはずだ。

おやおや、「戦争は悲惨なもの」という考え方は、主義主張やイデオロギーにとらわれた、実感できる歴史観ではないというのだ。だから、「戦争は悲惨なもの」と訴え表明する会合やデモに参加することは勧められない。白分たちの父祖が戦争の時代に何を考え、どう生きたかを知ることだけが勧められる。そして、その先で何をなすべきかは語られない。ここにも、靖國のイデオロギーが振りまかれているのだ。

日本の戦争を語るとき、靖國を避けることはできない。靖國を語るとき、過去の靖國だけでなく、現在の靖國の批判を避けて通ることができない。わけても、今、戦争法によって日本が海外で戦争をできる国となりつつあるのだ。70年間なかった、戦争による死者が確実に出て来ようとしている。国家による戦死の意味づけや、死者の魂の管理は過去の問題ではなく現在の問題となっている。

当ブログでは、今年も、政教分離・靖國神社問題に真っ当な批判を続けていこうと思う。(2016年1月2日)

あらたまの年のはじめに

未明、久しぶりに凄味のある金星を見た。やがて薄明。みごとな朝焼けに続く初日。風はなく雲も見えない静かな元日。個人的には何の心配事もない心穏やかな年の初め。啄木の歌を思い出す。

 何となく 今年はよいことあるごとし 元日の空晴れて風なし

もっとも、啄木はこの歌を不幸の中で詠んでいる。また、正月の天気がその年の吉兆を占うものとはならない。「悲しき玩具」所収のこの歌は、2011年の正月の詠であろうが、その年の1月18日には大逆事件の判決が言い渡されている。幸徳秋水以下死刑24名。1月24日には11名の死刑が執行され、翌25日には管野スガが処刑された。「今年はよいことあるごとし」と詠った直後の天皇制の暴虐の極み。啄木が受けた衝撃は大きかった。

本日の朝刊各紙には、今年7月の参院選が総選挙とのダブル選挙となるのでないかとの観測記事が報じられている。解散・総選挙のイニシャチブは政権が握っている。勝算ありと読めば打って出る。勝算読めなければ参院選に集中ということに。もし、安倍政権がダブル選挙に打って出て勝つようなことがあれば、一挙に明文改憲の動きが加速することになろう。とても、穏やかな正月などと言ってはおられない。

1933年3月ヒトラー政権が全権委任法(授権法)を成立させるまで、8か月間に3回の国会選挙を経ている。
 1932年7月31日 ナチ党得票率 37.3%
       11月6日 ナチ党得票率 33.1%
 1933年 3月5日 ナチ党得票率 43.9%

この3度の選挙と国会放火事件の謀略とで、33年3月23日に全権委任法が成立するや、この時点で、憲法改正手続きを経ることなくワイマール憲法は死亡宣告を受けたのだ。

こうしてナチ党の一党支配が確立したあと、1933年11月の「選挙」は、既に選挙ではなかった。有権者は「指導者リスト」と呼ばれたナチ党の単一候補者名簿に賛否を記すことしかできない。投票前の官製選挙キャンペーンでは、「ひとつの民族 ひとりの指導者 ひとつのヤー!(Ja!)」がスローガンとなった(石田勇治)。

選挙は、民意反映の機会ではあるが、民衆が政権に操られたままでは、ファシズムへの手段に転化しうるのだ。

そういえば最近、安倍晋三の顔つきがヒトラーに似てきたのではなかろうか。日本国憲法に、ワイマール憲法の二の舞をさせてはならない。
(2016年1月1日) 

「戦後70周年」のこの年を送る

1945年が「忘れることのできないあの年」であり、「新しい時代の始まりの年」でもあった。2015年は、あの年から70年目。「戦後70年」の「節目」とされた今年には、70年目の記念日が目白押しとなった。

 70年目の3月10日。
 沖縄地上戦戦開始から70年。
 ドイツ降伏70周年。
 沖縄地上戦終了の日から70年。
 広島原爆投下70周年。
 長崎の悲劇から70年。
 ポツダム宣言受諾70年。
 70年目の敗戦記念の日‥‥。

それぞれの「節目」の日々には、思い起こすべきこと、語り合うべきこと、そして語り継ぐべきことが山積していた。もしかしたら、そのラストチャンスとして。

一年を振り返って、歴史は十分に思い起こされ、論議され、教訓として噛みしめられただろうか。戦争の悲惨な体験や、平和の貴重さ脆弱さは、若い世代に語り継がれただろうか。70年前に国民が共有した国の再生の初心は忘却の淵から救われただろうか。

とりわけ大事なこととして、70年前絶望的な戦況であることを十分に認識しながら、つまらぬ「國體の護持」にこだわり続けて、この上なく貴重な国民の生命を犠牲にして恥じないこの国の指導者たちの責任について、十分に語り合えただろうか。戦争の終結をもっと早く決断すべきであったのにこれを怠り、数百万の命を無駄死に追い込み、無数の悲劇をもたらした者たちの責任追求を忘れ去ってはいないだろうか。

國體の護持のために国民の命が犠牲にされた愚かな時代。国民個人よりも国家や天皇が貴重な価値とされた倒錯の時代ゆえの悲劇。今は、個人が国家や社会に優越する根源的価値であるという当たり前の常識が危うい。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」はこの時代への再逆転を指向するものではないか。

なんとも心許ない。2015年は、憲法の危機の年として明け、9月19日参議院での戦争法「成立」の日がこの1年を象徴する日となった。アベ政権の罪科であり、これを許した国民の責任でもある。

思い起こせば、今年のキーワードは次のような、なくもがなのものが目につく。
「戦争法」「日米ガイドライン」「沖縄・辺野古」、そして「反知性主義」「反立憲主義」「安倍一強」「慰安婦問題」‥。

しかし、パンドラの箱が開いても希望は残る。戦争法反対デモの群衆こそ希望ではないか。それだけではない。「アベ政治を許さない」「シールズ(SEALDs)」「民主主義って何だ」「安保関連法に反対するママの会」「自民党、感じ悪いよね」と口にした多くの人々。そして、沖縄へのこぞっての世論の支援は、来年に通じる希望である。

不安と希望とが入り交じって、2015年が暮れていく。

(2015年12月31日)

内野光子著「天皇の短歌は何を語るのか」を読む

先日(12月27日)、本欄に「万国のブロガー団結せよ」の記事を掲載した。
これに対する具体的な反応はまだ見えないが、DHCスラップ訴訟弁護団に所属している徳岡宏一朗さんが、法廷に出席したうえご自分のブログ(Everyone says I love you!)で、連続してDHCスラップ訴訟を取り上げてくれた。その圧倒的な情報量に驚かされる。是非ごらんいただきたい。そして、ブログの最後に出て来る「ブログランキング賛成票」にもクリックを。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/01835f65b846168cb7400449f6787515
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0278962f4551fe0531c2218cb9b922d4

また、内野光子さんが、「内野光子のブログ・短歌と地域の可能性を探る」で詳細な「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴記を掲載してくださった。感謝に堪えない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/dhc1-4959.html
「ことしのクリスマス・イブは?DHCスラップ訴訟控訴審(東京高裁)第1回口頭弁論傍聴と報告集会へ」

ところが、内野さんのブログは単発では終わらず、次のように続いた。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html
「ことしのクリスマス・イブは(2) ?なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった! 」

これでも終わらない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-9e69.html
「ことしのクリスマス・イブは(3)?なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その2)」

さらに続く。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html
「ことしのクリスマス・イブは(4)?歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」

内野さんの「サプライズは、国会開会式出席表明の共産党!」の記事が、私の12月25日ブログ
  https://article9.jp/wordpress/?p=6112
「共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け」と関連あるのかどうかは分からない。しかし、一読すればお分かりのとおり、私よりも遙かに積極果敢に問題の本質に切り込んでいる。共産党の中央委員会に電話までして、疑問をぶつけているその真摯な姿勢には脱帽するしかない。

私の前記ブログは、私の知る限り下記のサイトで引用されているが、各サイトに内野さんのブログの引用がないのが惜しい。
 NPJオススメ【論評】http://www.news-pj.net/recommend-all/reco-ronpyo
 ちきゅう座 http://chikyuza.net/
 Blog「みずき」 http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1706.html#more

内野さんには、「短歌と天皇制」(1988年)、「現代短歌と天皇制」(2001年)、そして「天皇の短歌は何を語るのか」(2013年)の単著3部作がある。このうち、「天皇の短歌は何を語るのか」を、初めてお目にかかった際にいただいた。「2013年12月30日 内野光子」というサインが記されている大切な一冊。ちょうど2年前の今日のことだ。私が「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10」を書いた日に当たる。あれから2年が経っている。

この書は、短歌を通じての天皇・天皇制論。天皇制の本質に深く切り込んでいる書として読むに値する。現代短歌にはほとんど関心のない私にも分かり易く読める。巻末に人名索引があるが10頁に及ぶもの。たいへんな労作でもある。

この書は、下記の4章からなっている。
? 天皇の短歌は何を語るのかーその政治的メッセージ性
? 勲章が欲しい歌人たちー歌人にとって「歌会始」とは
? メディア・教科書の中の短歌
? 「ポトナム」をさかのぼる
(「ポトナム」は、戦前からの短歌同人誌)

?章の「天皇の短歌は何を語るのか」での、「護憲との矛盾のはざまで」という興味深い一節だけを紹介する。

 天皇・皇后は、…常に憲法を念頭においていることを強調する。皇后も、…「民主主義の時代に日本に君主制が存続しているということは、天皇の象徴性が国民統合のしるしとして国民に必要とされているからであり、この天皇及び皇室の象徴性というものが、私どもの公的な行動の伜を決めるとともに、少しでも自己を人間的に深め、よりよい人間として国民に奉仕したいという気持ちにさせています」と、かなり慎重な表現で、応分の役割と心情を述べている(1998年5月12日、英国など外国訪問前の記者会見)。行き届いた説明をしようとすればするほど、天皇制維持に内在する民主主義との矛盾が露呈するかのようである。護憲志向と天皇制維持の実態との間には大きな矛盾を抱えざるをえない。今や、護憲政党さえどんどん曖昧な姿勢をとり始めている。さらに、今の政府や議会は、この天皇・皇后のやや末梢的とも思える憲法擁護のためのさまざまな試みやパフォーマンスさえ無視し、憲法改正という逆行の姿勢を崩そうとはしない。やはり、この辺で、もう一度、天皇制自体を考え直す時期なのではないか。私見ながら、女帝をなどとは言わず、矛盾や「お世継ぎ」の呪縛から一家を解放し、次代からは、元貴族としてひそやかに、伝統文化の継承などに努めてもらえないだろうか。」
初出の掲載は2004年4月だという。今にして、ますますなるほどと、うなずかざるを得ない。

この書で、「勲章や選者としての地位が欲しい」歌人と、「節を曲げざる」歌人とがいることを生々しく知った。政治家・財界・官僚・学界・芸術・芸能・法曹の世界まで皆同じではないか。権威の体系である天皇制は、このような形で、文芸をも体制迎合的な存在に貶める。勲章も要らない、歌会始の選者の地位も要らない、と言い続けることは、実はそれだけで立派なことなのだ。

もうすぐ歌会始。例年冷ややかに眺めてきたが、今回はとりわけ批判のまなざしで見つめたいと思う。
(2015年12月30日)

「従軍慰安婦」問題 国家間での合意が真の解決ではない

謝罪は難しい。財産的被害に対する償いであれば、金銭の賠償で済ませることもできよう。しかし、被害者の人間としての尊厳を踏みにじった加害者が、その誠実な謝罪によって被害者の赦しを得ることは、この上ない至難の業である。至難の業ではあっても、道義を重んじる立場を世界に宣言した日本は、その国家の名誉にかけ全力をあげてこの崇高な行為を達成しなければならない。

そのような視点から昨日(12月28日)の「従軍慰安婦」問題に関する日韓外相合意を眺めて、あれが被害者・被害国民への真の謝罪となりうるとは思えない。到底これで問題解決ともならない。その理由をいくつか挙げてみよう。

まずなによりも、韓国政府がこの問題での被害当事者を代理する権限を持っているのか甚だ疑わしい。元「慰安婦」とされた当事者の意向を確認せずに、「最終的かつ不可逆的に解決する」ことなどできようはずはない。これまでも、国家間の戦争責任に関する解決合意が個人を拘束する効力を持つか否かが激しく争われてきた。今回のようなどさくさ紛れの国家間の政治決着で、被害者個人の精神的損害が慰謝されるはずもなく、人間の尊厳が修復されたとして納得できるはずもない。

謝罪には、対象の特定が必要である。何をどのように悔いて謝罪しているのか、その表明における明確さが道徳的悔悟の誠実さのバロメータとなる。今回の合意における謝罪は、そのような誠実さを表明するものにはなっていない。

「最終的かつ不可逆的に解決する」との合意内容は、日韓両国の信じがたい不誠実さの象徴というほかはない。

「これから私はあなたに謝ることにしよう。但し、これ一回限りと心得てもらいたい。二度と謝罪を要求しないという条件がついているから謝罪するんだ。私はこれ以上二度とは謝らないし、あなたの方も蒸し返すなどしてくれるな。」

そう言っているのだ。いったい、こんな謝罪のしかたがあるだろうか。こんな上から目線の謝罪を受け入れる被害者がいるだろうか。国家間の政治決着だからこそ、こんな不条理がまかりとおるのだ。

試されているのは、加害者側の誠実さである。真の宥恕を得るためには、ひたすらに被害者の心に響く誠実さを示し続け、その誠意を受容してもらうよう努力を重ねるしか方法はない。

これまで村山談話や河野談話を否定しようと画策してきた前歴を持つ安倍晋三が、「責任を痛感」「心からのおわびと反省」と口にしても、謝罪の誠意は伝わらないだろう。日本国民が、安倍のような歴史修正主義者を首相としている限りは、真の宥恕を得ることは無理ともいうべきだろう。

戦争と植民地支配とのさなかで生じた、加害・被害の歴史的事件。これは、拭っても拭っても消しようがない事実なのだ。われわれは、その事実を偽ることなく認識し、記憶し、忘却することのないよう語り継がねばならない。それこそが、不誠実な政府しか持ち得ない日本の国民として、われわれが歴史と向き合う誠実な態度だと思う。
(2015年12月29日)

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