昨日(12月4日)、東京「君が代」裁判・第3次訴訟での控訴審判決があった。
この控訴事件は、本年(15年)1月16日東京地裁判決(佐々木宗啓裁判長)を不服として、原告教員側と被告都教委側の双方が控訴していたもの。東京高裁第21民事部(中西茂裁判長)は、一審原告一審被告双方の控訴を棄却した。つまりは一審判決のとおりとしたのだ。その内容と、獲得した成果・問題点を確認しておきたい。
石原慎太郎都政第2期の2003年、悪名高い「10・23通達」が発令された。以来、都内の都立校・区立校では、卒業式・入学式などの学校儀式において、起立しての「君が代」斉唱職務命令が発せられ、これに違反すると懲戒処分となる。既に、その処分件数は474件に達している。
懲戒処分を受けた都立高校・都立特別支援学校の教職員が、東京都教育委員会を被告として処分の取り消しを求めた一連の訴訟が、東京「君が代」裁判。その第3次訴訟は、2007?09年の処分取り消しを求めて10年3月に提訴。都立校教職員50人の集団訴訟で、処分の取り消しと精神的苦痛に対する慰謝料(各55万円)の支払いを求めたもの。
一審判決は、最も軽い戒告処分については取消請求を棄却したが、26人31件の減給(29件)・停職(2件)の処分をいずれも重きに失するとして懲戒権を逸脱・濫用した違法を認め、これを取り消した。但し、慰謝料請求はすべて棄却となっている。
26人31件の処分取消という被告都教委の敗訴は大失態であるが、都教委が控訴したのは敗訴した29件の敗訴処分の内の5件についてのみ。残る24件の処分については控訴しても勝ち目ないとして一審の取消判決を確定させた。都教委は、都教委の目から見て特に職務命令違反の態様が悪いとする5件について未練がましく控訴をしてみたということなのだ。
昨日の判決は、その5件全部について控訴の理由なしとして一蹴した。この都教委の控訴がすべて棄却されたことの意味は大きい。都教委は足掻いて恥の上塗りをしたのだ。都教委よ、大いに反省をせよ。そして、責任の所在を明確にせよ。敗訴について謝罪せよ。同様の誤りを繰り返さぬよう再発防止策を講じよ。
一方、一審原告教職員側は戒告処分も違憲・違法だと控訴をしたのだが、これは斥けられた。国家賠償法に基づく慰謝料の請求棄却を不服とした控訴も棄却された。
3次訴訟では、一審判決と控訴審判決ともに、結論は1次訴訟(12年1月)、2次訴訟(13年9月)の最高裁判決を踏襲する形となった。建前として経済的不利益を伴わない(現実には不利益が伴う)戒告の限度で懲戒を合法とし、経済的不利益を伴う減給以上の処分は原則として違法という線引き。予想されたところではあるが、大いに不満が残る。
まずは、合違憲の判断についてである。原告側は、本件では憲法19条、20条、23条、26条を根拠とした違憲論、教育基本法違反を主とする違法論を展開したが、判決の容れるところとはならなかった。最高裁判決の枠組みに忠実であろうとするに性急で、違憲論の主張に真摯に耳を傾ける姿勢に乏しいと言わざるを得ない。
次いで、裁量権濫用と慰謝料の問題。
東京「君が代」裁判・第1次訴訟の控訴審判決(11年3月10日)は、裁判長の名をとって「大橋寛明判決」と呼ばれている。この判決は、戒告処分を含めて173人全員の処分を懲戒権の逸脱濫用として取り消したのだ。
この判決は、教職員の不起立・不斉唱の動機を、自己の思想と教員としての良心に忠実であろうとした真摯なものと認め、やむにやまれずの行為と評価した。ところが、3次訴訟の、佐々木判決も中西判決も、「不起立行為が軽微な非違行為とは言えない」との立場をとっている。これでは、最高裁の判断を乗り越えようがない。憲法が想定する裁判官像に照らして、頼りないこと甚だしい。
裁判官は公権力の立場から意識的に離れ、社会の多数派の常識からも自由に、憲法の理念に忠実でなくてはならない。何よりも、真摯に苦悶し憲法に期待した原告に共感する資質を持ってもらいたい。少なくとも、原告ら教員の苦悩や煩悶を理解しようとする姿勢をもたねばならない。
本日の赤旗に、原告団事務局長の近藤徹さんのコメントが載っている。「都教委は思想・良心の自由を生徒に説明したなどと減給・停職を(正当化する理由として)主張したが、それが間違っていたことがはっきりした」というもの。裁判で勝ち取った成果は、着実に教育現場に生きることになるだろう。
国旗・国歌、「日の丸・君が代」に不服従を貫く人の思いはさまざまである。もちろん、弁護団員も思想はさまざまだ。統一する必要などさらさらない。私個人は、ナショナリズムを正当化する教育の統制が、再びの軍国主義や戦時の時代を準備することを恐れる気持ちが強い。集団的自衛権行使容認決議に続く、戦争法の成立は、私の危惧を杞憂ではないものとしているのではないか。
ことあるごとに、想い起こしたい。戦後教育を担った教師集団の原点は、「再び教え子を戦場には送らない」という決意だった。
逝いて還らぬ教え子よ
私のこの手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
「東京『日の丸・君が代』処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団」の声明の末尾は次のとおりとなっている。
「私たちは、今後も「国旗・国歌」の強制を許さず、学校現場での思想統制や教育支配を撤廃させて、児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための取組を続ける決意であることを改めてここに宣言する」
「学校現場での思想統制や教育支配」それ自身も恐ろしいが、その先にあるものこそが真に恐ろしい。「日の丸・君が代」強制はその象徴である。これに抗して闘っている教員集団は、実は歴史的な大事業を担っているのかも知れない。
(2015年12月5日・978回)
本日の毎日朝刊に、次の見出しの記事。
「籾井・NHK会長:与党聴取『圧力と捉えず』 やらせ疑惑巡り」
「NHKの籾井勝人会長は3日の定例記者会見で、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を巡り自民党が局幹部から事情聴取したことについて、『圧力と捉えるのは考えすぎだ』と述べた。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は11月6日、自民党の聴取を『政権党による圧力』と批判する意見書を出している。
籾井会長は意見書の指摘には『コメントを控える』としたうえで、『(クローズアップ現代の報道に関する)我々の中間報告書が出た時点の話だから、説明に行っただけ』と主張。さらに『自民であろうが野党であろうが、説明に来いと言われれば行くが、そこで《この番組はどうだ》と(内容について)言われても、我々は《聞けません》という話だ』と述べた。」
読売もほぼ同じ内容で、見出しは「自民の事情聴取『圧力は考えすぎ』…NHK会長」。
産経(デジタル)が籾井の言葉を詳しく報道している。その一部。
「自民党の聴取については、あのとき、NHKの中間報告が出ていた。それを説明に行ったということだ。番組について、NHKがプレッシャーを受けたということはない。こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれないが、そういうことではない。NHKの中間報告が出た時点で、それを説明に行ったということ。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。こう言うと反発を食らうかもしれないが、事実はそういうことだ」
「??BPOの意見書などは、政権与党がテレビ局を呼んだことを「圧力」と指摘していた。だが、籾井会長自身は圧力ではないと受け止めているというか
はい。(そう考えてもらって?澤藤補足)結構です。言い過ぎかもしれないが。われわれは不偏不党でやっているので、自民党であろうが、野党であろうが、『説明に来い』と言われたら、説明には行く。そこで『この番組はどうだ』と(注文を)言われたら、NHKとしては聴けません、という話だ。われわれとしてはそういう認識で(説明に)行った」
「??BPOとは考え方が違うということか
BPOと考え方が違うとか、そういうことではなく、NHKとしてはそう思っているということだ」
籾井記者会見の発言は、実は大きな問題を露呈しているのだ。NHKはBPOの指摘をまったく理解していない。理解する能力をもっていない。だから、当然のことながら、BPOの指摘を真摯に受け止める姿勢に欠けている。
BPOはNHK自体の問題として、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を指摘した。さすがに籾井もこの点は理解しているようだ。しかし、BPOの指摘はこれだけでなく、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めている。これが真骨頂。
BPO意見書は、「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、BPOは、NHKの側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促したのだ。
籾井には、BPOから指摘のこの問題点の重要性が理解できない。だから自覚など生じようがないのだ。
「NHKがプレッシャーを受けたということはない。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。」というのは、おそらく彼のホンネなのだろう。
籾井は、自ら「こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれない」としている。自分では「自民党寄り」という程度の自覚なのかも知れないが、実態はとんでもない、そんなレベルではない。「寄り」ではなく安倍自民党と一体の存在なのだ。圧力とは、異質のものからの働きかけについてだけ感じられるもの。籾井は、高市や自民党から何と言われても、身内からの助言としか感じない。これを圧力と感じる能力を欠いているのだ。
言論人は、権力との距離を十分に意識し、自分が権力とは異質であることを自覚しなければならない。権力の行使のあり方には常に敏感でなくてはならない。自分に対するものだけでなく、他者に対するものについても、権力からの圧力は鋭敏なアンテナで覚知して、声を上げ抵抗する覚悟がなければならない。
籾井勝人には、そのような資質が決定的に欠けている。どっぷり浸かった権力との同質感がその妨げとなっている。戦前のメディアの多くは権力からの弾圧を感じていなかった。NHKは大本営発表に汲々とし、新聞は戦意高揚を煽って部数を伸ばした。自らを権力と同質のものとし、権力からの独立や対峙の気概をもたなかったからだ。
籾井勝人は、戦前のNHKとまったく同じ感覚ではないか。BPOの指摘をないがしろにするNHK会長は、やはり不適任。辞めてもらわねばならない。日本の民主主義のために。
(2015年12月4日・連続977回)
昨日(12月2日)が、辺野古代執行訴訟の第1回口頭弁論。冒頭、翁長知事自身が被告本人として意見陳述を行った。覚悟のほどを見せたわけである。
翁長さんは、那覇市議から、沖縄県議、そして那覇市長の経歴を保守の陣営で過ごし、その後に「オール沖縄」の支援を得て知事になった人。県民の意を体して、国と対峙して一歩も引かないその姿勢はみごとというほかはない。
もともとは保守の陣営に属しながら、辺野古新基地建設反対のスローガンで当選した翁長知事。就任の当初には、行く行くはぶれるのではないか、県民を裏切りはしまいかという心配がつきまとっていた。知事の耳にもはいるこのような懸念に対して、知事は当選直後に「裏切るなら死ぬ」と述べている。
「ボクは裏切る前に自分が死にますよ。それくらいの気持ちを言わないとね、沖縄の政治はできないですよ。今、予測不可能ななかでね、こんな言い方をされるとね。その時は死んでみせますというね、そのくらいの決意」(「荻上チキSession-22」TBSラジオ、2014年11月17日)
さらに、知事の妻・樹子さんの存在も大きい。琉球新報が、本年11月9日付で報道するところでは、
「新基地建設に反対する市民らが座り込みを続ける名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に7日、翁長雄志知事の妻・樹子さんが訪れ、基地建設に反対する市民らを激励した。
樹子さんは…市民らの歓迎を受けてマイクを握り、翁長知事との当選時の約束を披露した。『(夫は)何が何でも辺野古に基地は造らせない。万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している』と語り掛けると、市民からは拍手と歓声が沸き上がった。『まだまだ万策は尽きていない』とも付け加えた樹子さん。『世界の人も支援してくれている。これからも諦めず、心を一つに頑張ろう』と訴えた。座り込みにも参加し、市民らと握手をしながら現場の戦いにエールを送っていた。」
たとえ敗れても、県民とともに抵抗の姿勢を示そうという知事夫妻。県民世論からの絶大な支持を集めて当然であろう。県民世論だけでなく、国民全体の世論の支持も高まっている。政治的には、完全に国に勝っていると言ってよい。国が原告になって裁判に打って出たのは、傲慢なイジメの構図としか見えない。あとは、法廷での勝利を切に期待したい。
その知事が覚悟のほどを見せた法廷の模様は、本日各紙のトップを飾っている。
県と国の双方の主張を手際よくまとめた本日の東京新聞報道を引用したい。
「翁長氏は、住民を巻き込んだ沖縄戦や、米軍に土地を強制接収され、戦後七十年続く基地負担の実態を説明した。『政府は辺野古移設反対の民意にもかかわらず移設を強行している。米軍施政権下と何ら変わりない』と批判し『(争点は)承認取り消しの是非だけではない。日本に地方自治や民主主義はあるのか。沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常か。国民に問いたい』と訴えかけた。」
「国側は主張の要旨を読み上げ、まず『基地のありようにはさまざまな意見があるが、(法廷は)議論の場ではない』と指摘。『行政処分の安定性は保護する必要があり、例外的な場合しか取り消せない』と強調した。移設が実現しなければ普天間飛行場の危険性が除去されず、日米関係が崩壊しかねないなどの大きな不利益が生じるため、取り消しは違法と訴えた。」
朝日も同様に、県と国との主張を要約している。
「翁長氏は陳述で、琉球王国の時代からの歴史をひもとき、沖縄戦後に強制的に土地が奪われて米軍基地が建設された経緯を説明。『問われているのは、埋め立ての承認取り消しの是非だけではない』と指摘。『日本に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄県にのみ負担を強いる日米安保体制は正常と言えるのか。国民すべてに問いかけたい』と訴えた。」
「一方、原告の国は法務省の定塚誠訟務局長が出席し、『澄み切った法律論を議論すべきで、沖縄の基地のありようを議論すべきではない』などと主張。埋め立て承認などの行政処分は「例外的な場合を除いて取り消せない」とし、公共の福祉に照らして著しく不当である時に限って取り消せる、と述べた。」
各紙がほぼ同様の調子で、これに翁長意見陳述の全文を掲載している。「歴史的にも、現在においても、沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされてきた」として、「魂の飢餓感」を訴えた格調の高いものだ。だがなんとなく、原告国側が法的論点を絞り込み、被告県側は論点を拡散させて背景事情ばかりを述べている、そんな報道の雰囲気がなくもない。そのことが気になる。
しかし、その気がかりは不要なのだ。朝日が要約する訴状請求原因の骨子は以下のようなもの。
(1) 公有水面埋立法の埋め立て承認は、承認を受けた者に権利が生じる『受益的処分』だ。処分した行政庁が自らの違法や不当を認めて取り消すには、維持することが公共の福祉に照らして著しく不当だと認められるときに限られる。
(2) 取り消しによって普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になるなど計り知れない不利益が生じる。埋め立てによって辺野古地区の騒音被害や自然環境の破壊などが生じるが、その不利益は極めて小さい。
(3) そもそも承認に法的瑕疵はなく取り消せない。また、米軍施設の配置場所など国の存立や安全保障に関わる国の重要事項について、知事に適否を判断する権限はない。
えっ、これが「澄み切った法律論」? ちっとも澄み切ってはいない。公共性は我にあり、という濁りきった傲慢な姿勢。
こうした国側の主張に対し、県側は「『(埋立て承認を国が知事に求めた根拠の)公有水面埋立法には、国防に関する事業を除外する規定はない』とし、知事が埋め立て承認を審査するのは当然だと訴えた」(東京)。
実はここが重大だ。裁判所がこの争点をどうとらえるかで、訴訟の様相はがらりと変わる。そもそも日本国憲法の平和主義の理念からは、軍事や国防の「公共性」を認めることができない。国は、そのホンネにおいて、「県知事の公有水面埋立承認の取消処分」(要するに、辺野古新基地建設阻止)は、「国防上重大な利益を損なう」と主張しているのだ。しかし、憲法訴訟となることを避けて、あからさまにはホンネを語れない。慎重に「普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になる」としか言えない。
本来は、軍備による平和や、軍事同盟(安保条約)の公共性を問う議論に発展しうるこの訴訟。その点では、砂川事件と同質のものをもっているのだ。「澄み切った法律論」とは、9条や安保の論議を避けた法律論を指しているのだろう。その思惑のとおりとなるかどうか、予断を許さない。
また、沖縄県側は、けっして「魂の飢餓感」を中心に、「背景事情」ばかりを主張しているのではない。原告国の方から、「公共の福祉」論や利益・不利益の「衡量論」をもちだされたのだ。背景としての歴史的経過は単なる事情にとどまらない。小さくない法的な意味をもちうる。
さらに、県側の積極的な法的主張がある。東京新聞の要約では以下のとおり。
? 辺野古移設強行は自治権の侵害で違憲
? 埋め立て承認は環境への配慮が不十分で瑕疵がある
? 代執行は他に手段がない場合の措置で、国は一方で取り消し処分の効力を停止しているため、代執行手続きを取れない
いずれも重い論点だ。裁判所は真摯に向き合わねばならない。
?は、法が知事の権限としたものを、国が軽々に取り上げてよいのか。県民の圧倒的世論を無視しての辺野古建設強行が許されるのか、という問題。
?は、訴訟の中心となる争点だが、法は「都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」として「国土利用上適正且合理的ナルコト」「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」を挙げている。つまり、「環境保全等に十分配慮されたものであることが確認されるまでは、知事は許可(国に対する場合は「承認」という)してはならないのだ。
そして?。これが一番分かり易い。国が代執行という強権手段をとることができるのは、他にとるべき手段がない場合に限られる。知事が承認を取り消して、「工事を続行するためには、代執行を申し立てる以外に他の手段がない」ことが必要なのだ。ところが、国は行政不服審査法に基づく審査請求申立をし、お手盛りで執行停止まで実現してしまった。現に工事は続行している。結局は、「他に手段がない場合に限る」という要件を欠いている、という指摘なのだ。
これだけの争点があって、証人尋問なしで結論を出せるはずはなかろう。被告の言い分を汲んで、原告の請求を棄却あるいは却下する判決なら証人尋問なしで書ける。しかし、実のある判決を書くためには、証人調べは不可欠だろう。裁判所は、真摯に対応しなければならない。国民はこの訴訟を見守っているのだから。しかも、ぶれない知事と県民の気迫に、エールをおくりつつである。
(2015年12月3日・連続第976回)
最近、「スラップ訴訟とは何でしょうか」「スラップの実害はどんなものなのでしょうか」「どうしたらスラップ訴訟を防止できると思いますか」などと、メデイアから聞かれるようになってきた。いくつかの原稿依頼もある。ようやくにして、スラップ訴訟の害悪が世に知られ、問題化してきたという実感がある。
☆スラップ訴訟とは何か
私はスラップ訴訟を、「政治的・経済的な強者による、目障りな運動や言論の弾圧あるいはその萎縮効果を狙っての不当な提訴」と定義している。スラップを、「運動弾圧型」と「言論抑制型」に分類することが有益だと思う。
「運動弾圧型」は政策や企業活動に反対する運動の中心人物を狙い撃ちする訴訟であり、「言論抑制型」は自分に対する批判を嫌忌しての高額損害賠償提訴。どちらも提訴を手段として、強者の意思を貫徹しようとするもの。いやがらせと恫喝、そして萎縮効果を狙う点で共通している。
かつて、同時代社出版の「武富士の闇」の記事が名誉と信用を毀損するとして武富士が訴えた。被告にされたのは、執筆担当の消費者弁護士3名と出版社。そのとき、私は被告代理人を買って出て筆頭代理人を務めた。当時、「スラップ訴訟」という言葉がなかった。あったのかも知れないが知られていなかった。この言葉が知られていれば、訴訟実務にも、世論の理解を得るためにも非常に有益だったと思う。同種訴訟が増えてきた現在、その概念の浸透のための努力が一層必要となってきている。
損害賠償請求の形態を取るスラップは、運動や言論への恫喝と萎縮効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。
DHC・吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起した。言論封殺を目的とした高額請求訴訟、これが言論抑圧型スラップの本質である。DHC・吉田は、同じ時期に、同じ「8億円授受問題」批判で、私の事件を含めて10件の同種事件を提訴している。莫大な訴訟費用・弁護士費用の支出をまったく問題にせずに、である。被告とされたのは、私のようなブロガーや評論家、出版社など。最低請求額は2000万円から最高は2億円の巨額である。
直接に口封じをねらわれ、応訴を余儀なくされたのはこの10件の被告である。しかし、恫喝の対象はこの被告らだけではない。広く社会に、「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と警告を発して、批判の言論についての萎縮効果を狙ったのである。
このような訴権の濫用には、歯止めが必要だ。この間、スラップの被害者の何人かの経験を直接に聞いた。皆が、高額請求訴訟の被告となる心理的な負担の大きさについて異口同音に語っている。高額請求訴訟の被告とされた者に、萎縮するなと言うのが無理な話なのだ。弁護士の私でさえ自分の体験を通じて、そのことがよく理解できる。
☆スラップを防止するために
かつて、司法制度改革審議会が司法制度改革を論議した際、民事訴訟に関しての最大の論争テーマとなったのが、弁護士費用の敗訴者負担問題だった。「紛争解決の費用は、有責者としての敗訴者が負担すべきだ」というシンプルな論理に、人権派は敢然と対抗し、「弱者の提訴を萎縮させてはならない」「司法本来の役割である、弱者の裁判利用にハードルを高くしてはならない」と論陣を張った。
弱者の側が提訴する訴訟は、消費者事件にせよ公害事件にせよ、あるいは医療過誤訴訟にせよ、勝訴確実とはいえないものが多い。敗訴の場合には、自分が依頼した弁護士の費用だけでなく相手方の弁護士費用までも負担させられるという制度では、弱者の提訴に萎縮効果がもたらされる。この制度が実現すれば、最も保護されるべき弱者の権利実現が妨げられることになる、と反対運動が盛りあがり、審議会の原案を葬った。
そのときには、強者や富者が民事訴訟制度を濫用することは考慮の内になかった。いま、スラップはまさしく強者や富者が訴権を濫用している。これには、歯止めが必要だが、敗訴の場合の弁護士費用を負担させることがその歯止めとして有効と考えられる。
アメリカ各州の制度とりわけカリフォルニアの反スラップ法を参考に「スラップの抗弁」の制度を考えたい。スラップ訴訟において、被告がこの提訴はスラップであると抗弁を提出すれば、裁判所は本案審理の進行を停止して、スラップに該当するか否かの判断に専念する。裁判所が、スラップの抗弁を認めれば、その効果の一つとして立証責任の転換が行われる。そして、もう一つの効果が、原告敗訴の場合には、原告は被告側の弁護士費用を支払わねばならないということにする。
この弁護士費用の負担額は、被告の現実の負担額である必要はない。政策的な配慮からもっと高額にすることが考えられる。スラップに限っての弁護士費用の敗訴者負担、それも懲罰的にすこぶる高額のという発想である。
また、制度の策定は先のこととして、当面最も現実的で必要な対応策は、一つ一つのスラップ訴訟を勝ちきって、原告にスラップの成功体験をさせないことである。このことを通じて、スラップに対する社会的非難の世論形成をはからねばならない。スラップという用語と概念を世に知らしめなければならない。スラップ提起を薄汚いこととする社会的な批判を常識として定着させることにより、スラップ提起者のイメージに傷がつき、会社であればブランドイメージや商品イメージが低下して、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することが重要だと思う。
そのためには、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げなければならない。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC・吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。
私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「最も幸福な被告」である。しかし、多くの場合、被告の受ける法的、財政的、精神的な負担ははかりしれない。ありがたいことに恵まれた立場にある私は、そうした被告の分まで、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならない。そう思っている。
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12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。
その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。
恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月2日・連続第976回)
上村達男(元NHK経営委員)著の「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」(東洋経済新報社)が話題となっている。題名がよい。これに「法・ルール・規範なきガバナンスに支配される日本」という副題が付いている。帯には、「NHK経営委員長代行を務めた会社法の権威による、歴史的証言!」。著者は、人も知る「法・ルール・ガバナンス」のプロ中のプロ。その著者が、直接にはNHKのガバナンスについて報告しつつも、「規範なきガバナンスに支配される日本」を論じようというのだ。これは興味津々。
私はこの本をまだ読んでいない。11月29日(日)の赤旗と朝日の両書評を見た限りで触発されての本日のブログである。
NHKの反知性が話題になっているのは、およそ知性とかけ離れた会長のキャラクターによる。元NHKディレクターの戸崎賢二による赤旗の書評の表題が、「衝撃の告発 根源的な危機問う」と刺激的だ。NHK会長の反知性ぶりが並みではなく衝撃的だというのだ。その籾井勝人の「反知性」の言動を間近に見た著者の「衝撃の告発」「歴史的証言」にまず注目しなければならない。
「上村氏は2012年から3年間NHK経営委員を務め、籾井会長時代は経営委員長代行の職にあった。この時期に氏が体験した籾井会長の言動の記録は衝撃的である。自分に批判的な理事は更迭し、閑職に追いやる、気に入らないとすぐ怒鳴り出す、理事に対しても『お前なー』という言葉遣い、など、巨大組織のトップにふさわしい教養と知見が備わっていない人物像が描かれている。」
これは分かり易い。しかし、問題はその先にある。「反知性」の人物をNHKに送り込んだ「反知性主義者」の思惑が厳しく問われなければならない。
「著者は、こうした(籾井会長の)言動を『反知性主義』と断じているが、会長批判に終始しているわけではない。安倍政権が、謙抑的なシステムを破壊しながら、国民の反対を押し切って突き進む姿も『反知性主義』であり、政権のNHKへの介入の中で起こった会長問題もその表れであるという。」「NHK問題の底流には日本社会の根源的な危機が存在している、という主張に本書の視野の広さがある。」
朝日の方は、「著者に会いたい」というインタビュー記事。「揺らぐ『公正らしさ』への信頼」というタイトルでのものだが、さしたるインパクトはない。それでも、著者の次の指摘に目が留まった。
「公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。『健全な民主主義の発展』に支障が生じるのではないか、と懸念する。」
民主主義は「討議の政治」と位置づけられる。討議における各自の「意見」は各自が把握した「事実」に基づいて形成される。各自が「事実」とするものは、主としてメディアが提供する「情報」によって形づくられる。公共放送の使命を、国民の議論のよりどころとなる公正で正確な情報の提供と考えての上村発言である。
おそらく誰もが、「あのNHKに、何を今さら途方もない過大の期待」との感をもつだろう。政権と結びつき政権の御用放送の色濃い現実のNHKである。そのNHKに、「議論の基盤」としての公正な報道を期待しようというのだ。それを通じての「健全な民主主義の発展を」とまで。
一瞬馬鹿げた妄想と思い、直ぐに考え直した。反知性のNHKではなく、憲法の理念や放送法が想定する公共放送NHKとは、上村見解が示すとおりの役割を期待されたものではないか。その意味では、反知性主義に乗っ取られたNHKは、民主主義の危機の象徴でもあるのだ。到底このままでよいはずがない。
さて、「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」という問について考えたい。この書名を選んだ著者には、「乗っ取られた」という思いが強いのだろう。では、NHKは本来誰のもので、乗っ取ったのは誰なのだろうか。
公共放送たるNHKは、本来国民のものである。国家と対峙する意味での国民のものである以上、NHKは国家の介入を厳格に排した独立性を確立した存在でなくてはならない。しかし、安倍政権はその反知性主義の蛮勇をもってNHK支配を試みた。乱暴きわまりない手口で、まずは右翼アベトモ連中を経営委員会に順次送り込み、その上で反知性の象徴たる籾井勝人を会長として押し込んだ。NHK乗っ取り作戦である。
NHKを乗っ取った直接の加害者は、明らかに安倍政権である。解釈改憲を目指しての内閣法制局長人事乗っ取りとまったく同じ手法。そして、乗っ取られた被害者が国民である。政権が、反知性主義の立場から反知性の権化たる人物を会長に送り込む人事を通じて、国民からNHKを乗っ取った。一応、そのような図式を描くことができよう。
しかし、安倍政権はどうしてこんなだいそれたことができてしまうのか。政権を支えているのは、けっして極右勢力や軍国主義者ばかりではない。小選挙区制というマジックはあるにせよ、政権が比較多数の国民に支えられていることは否定し得ない。自・公に投票しなかった国民も、この間の政権によるNHK会長人事を傍観することで、消極的あるいは間接的に乗っ取りに加担したと言えなくもない。
とすれば、国民が国民からNHKを乗っ取ったことになる。加害者も被害者も国民という奇妙な図。両者は同一の「国民」なのか、それとも異なる国民なのか。
「反知性主義」とは、国民の知的成熟を憎悪し、無知・無関心を歓迎する政権の姿勢である。自らものを考えようとしない統治しやすい国民を意識的にはぐくみ利用しようという政権の思惑といってもよい。反知性主義者安倍晋三がNHKに送り込んだ反知性の権化は、政権の意を体して「政府が右を向けというからいつまでも右」という報道姿勢をとり続けている。今のところ、反知性主義者の思惑のとおりではないか。
ヒトラー・ナチス政権も旧天皇制政府も、実は「反知性の国民」からの熱狂的な支持によって存立し行動しえたのだ。国民は被害者であるとともに、加害者・共犯者でもあるという側面を否定できない。再びの過ちを繰り返してはならない。反知性主義に毒されてはならず、反知性に負けてはならない。
厚顔と蛮勇の前に知性は脆弱である。が、必ずしも厚顔と蛮勇に直接対峙しなければならないことはない。大きな声を出す必要もない。心の内だけででも、政権の不当を記憶に刻んで忘れないとすることで対抗できるのだ。ただ粘り強さだけは必要である。少なくとも、反知性の徒となって、安倍政権を支える愚行に加わってはならない。それは、いつか、自らが悲惨な被害者に転落する道に通じているのだから。
(2015年12月1日・連続第975回)
一昨日の土曜日(11月28日)に、明治大学の集会で西川伸一さん(政治学・明大政経学部教授)のレポートを聞いた。レポートというよりはレクチャーを受けた印象。「『安保法制=戦争法』の採決は正当に行われたのか? メディア報道の在り方を問う」というタイトル。これが滅法面白かった。これに続いて、私も「採決の不存在」について法的視点からのレポートをしたのだが、こちらは面白い報告とはならなくて残念。
西川さんのレポートは、事実にまつわる「記憶」と「記録」の関係についてのもの。民主主義社会における討議の前提となる事実は、「記録」によって確認するしかない。正確な「記録」こそが民主主義成立の前提として重要であることを公文書管理法などを引用して強調し、最後は「記憶に頼るな、記録に残せ」という野村克也(生涯一捕手)の言葉で締めくくられた。
その重要な「記録」が、今回の戦争法案審議ではいかに杜撰な扱いをされたか。参議院規則に照らしていかに大きな違反をし、ねじ曲げられたか。具体的で興味深いレクチャーとなった。
最も印象的だったのは、記録の改ざんをジョージ・オーウェル「1984年」の次の一文を引いて批判したこと。
「すべての記録が同じ作り話を記すことになればーーその嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンはいう。『過去をコントロールするものは、未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする』と」
西川さんのレクチャーの導入は、「1984年」の「真理省」のスローガンの紹介から。記憶を正確に記録しようとしない安倍政権とその膝下の議会とを「真理省的状況」と憂いてのことである。
「真理省」のスローガンを想い起こそう(高橋和久訳)。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
この3つのスローガンの解釈はいく通りにも可能だろう。
全体主義が完成した社会における支配者にとっては、矛盾した命題を何の疑問を提示することなく、素直に受容する国民の精神構造こそが不可欠なのだ。このスローガンは、そのような国民意識の操作道具として読むことができるだろう。その点では、旧天皇制政府やナチスのスローガンと酷似している。
もう少し、意味のあるものとしても理解できそうだ。
「戦争は平和なり」とは、あまりにも長く継続する戦争を国民に納得させるためのスローガンと読むことができる。「戦争に慣れよ。慣れ切ってしまえば、これが正常な事態で、平和と変わらない平穏な状態なのだ。戦争継続のこの状態こそを日常であり平和であると受容せよ」という思考回路の押しつけ。
「自由は隷従なり」も同様。国民が権力に抵抗するから弾圧を受けて自由でないと感じることになるのだ。国民が自由でありたいと願うなら、権力に自発的に隷従する精神を形成すればよい。そうすれば、隷従することこそ自由であって、自由は隷従となる。
「無知は力なり」は分かり易い。なまじ国民個人が知をもてば、主体を確立した個人が形成される。そうすれば、権力を批判することにもなる。それは国家の力を弱めることにほかならない。国家が欲するものは無条件に絶対服従する国民であって、それこそがつよい国家形成の礎なのだ。
一般論を離れて、この3本のスローガン。まさしく、非立憲・反知性アベ政権のスローガンそのものではないか。
「戦争は平和なり」とは、アベ政権の積極的平和主義のことである。
消極的に平和を望むことでは平和は実現できない。平和の実現のためには武力による抑止力が必要であり、その武力は想定される敵国を制圧するに足りる強力なものでなくては役立たない。しかも、抑止力としての武力は保持しているだけでは不十分。武力による威嚇も武力の行使も辞さない姿勢あって初めて平和のための抑止力となる。いや、戦争を辞さない覚悟があって、初めて平和が実現する。だから、我が国は平和の実現のための戦争をいとわない。戦争こそ平和のためのために必要なのだ。これが、積極的平和主義の真骨頂。
「自由は隷従なり」における自由の一は、権力からの自由。自由の要諦は徹底して権力に隷従することである。「日の丸・君が代」を内心において受容せよ。さすれば、その内心に従って起立し斉唱する自由が認められているではないか。なまじ権力に抵抗する精神をもつものだから、沖縄県や名護市やその支援者の如く、自由ではいられないのだ。仮にの話しだが、「久辺三区」が隷従すれば、ムチではなくアメにありつく自由を獲得することになるのだ。
もう一つの自由は、資本からの自由。企業には世界一の経営環境を確保するのが、政権の方針。実質的に企業の側には、解雇の自由も、雇い止めの自由も、サービス残業を命じる自由も保障する。ひるがえって、労働者の権利は可及的に切り捨てる。労働者の人間性の確保や労働条件の改善などを求める自由は、企業に隷従する者についてだけ、隷従の範囲において認められる。
そして、何よりも「無知は力なり」である。現政権・与党の開き直った反知性主義を象徴するスローガン。無知蒙昧で自主性自立性を欠いた操縦しやすい国民の育成こそが政権の大方針。「国民の無知」が政権の支えであり「国家の力」の源泉なのだ。このアベ政権の大方針は、教育政策とメディア政策に反映している。
小学校から大学まで、自分の頭で批判的にものを考えようとしない国民をどう作り上げるか。これが教育政策の根幹である。政府批判の世論を押さえ込む報道の姿勢をどう作り上げるか、これがメデイア政策の根幹である。教育基本法の改悪から、教育委員会制度改悪、大学の自治への介入、教科書採択介入や道徳教育の強行まで、教育政策全般が「無知は力なり」の大原則に則って進められている。そして、メディア対策の基本は、特定秘密保護法の制定とNHKの政権支配とによく表れている。
そのアベ政権の支持率が今、持ち直しているという。「無知は力なり」「自由は隷従なり」を支える国民が一定程度存在する現実があるのだ。無念の気持で、ジョージ・オーエルの慧眼と警鐘にあらためて敬意を表しなければならない。嗚呼。
(2015年11月30日・連続第974回)
「札付き」という言葉がある。「折り紙付き」の「折り紙」とはちがう、よからぬ「札」が付いている連中のこと。その札付き連中が、TBSの看板番組『NEWS 23』でアンカーを務めている岸井成格を攻撃している。これは看過できない。この攻撃を成功させてはならない。
私は本日の赤旗「潮流」で初めて知った。11月14日産経と翌15日読売に、「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した異様な全面意見広告が掲載されている。岸井成格を攻撃して、その報道姿勢を変えようというのだ。その攻撃の理由が、「番組で岸井氏が『メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ』と発言したのは、放送法4条『政治的公平』に違反すると言うのです」。この真っ当な発言が攻撃対象とされているとは穏やかでない。戦戦争法廃止運動をつぶそうという動きの一環だ。舞台は国会の場から、平和と戦争をテーマとしたメディアの自由をめぐる論争に移された。
この異様な広告の「広告主は“視聴者の会”なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常です」
この7人とは、以下のとおり。
すぎやまこういち/代表(作曲家)
渡部昇一(上智大学名誉教授)
渡辺利夫(拓殖大学総長)
鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)
ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)
上念司(経済評論家)
小川榮太郎(文芸評論家)
この7人に付いているのは、「極右」という札だけではなく、「安倍応援団」という札だ。代表となっている、すぎやまこういち(作曲家)とは、安倍晋三の政治団体である晋和会に毎年150万円の法が許容する最高額を寄附し続けている人物。安倍晋三に、「我々日本人が直面している難局を乗り切るリーダーは安倍晋三氏しか考えられません。私達の子孫にこの素晴らしい日本国をしっかりと残して行く責任は重大です。音楽家のひとりとしても、氏の“美しい国を目指す”という宣言にも感動しております」とエールを送ってもいる。
この「安倍応援団」の札付きが、あからさまに「メデイアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という岸井の発言を攻撃のターゲットに定めている。ここが問題の核心だ。
政権と与党には目の上のコブの反戦争法(案)運動の盛り上がり。できることなら、これを弾圧し制圧したいところだが、民衆の反作用も恐ろしい。官邸や自民党が前面には出にくいところ。そこで、官邸主導で使いっ走りを集めたか、パシリの方からその役目を買って出たか、あるいはアウンの呼吸でのことであったか、その辺は定かでない。定かではないものの、官邸の言いたいこと、やりたいことを、この札付き連中が代わってやっているのだ。権力に奉仕の重宝なパシリたち。
いま、TBSという有力な電波メディアの表現の自由が攻撃を受けている。攻撃の尖兵になっているのは社会的勢力としての右翼だが、その背後には明らかにアベ政権の存在がある。さらに重大なことは、攻撃の対象とされているものが、けっしてTBS一社ではなく、我が国の表現の自由そのものであることだ。平和・戦争・安全保障・立憲主義等々のシビアなテーマにおいて、時の政権に批判の立場の言論は許さない、というシグナルが送られているのだ。事態は深刻である。
表現の自由とは、何よりも権力に対峙するものとしてその存在が保障されなければならない。権力を賛美し同調し、あるいは迎合する表現や言論に権力による制約はあり得ない。だからその自由や権利性を論じる意味はない。意味があるのは権力を批判し、権力を攻撃することによって、権力から憎まれる表現についての自由や権利だけである。
すぎやまこういち以下「権力の手先7人衆」が求めているものは、偏向のレッテルを貼り付けることでの、政権批判の自重・自制・自粛にほかならない。この攻撃に屈して、TBSに萎縮があってはならない。そのようなことがないように、全メディアが、いま、こぞって岸井成格とTBSを擁護し支援しなければならない。むしろ、局・各メディアが、より政権批判を強めることで、「権力の手先7人衆」とその背後の政権の意図を挫かなければならない。
読売と産経も同様だ。広告料収入に頬を緩めて傍観していたのでは、明日は我が身のこととなりかねないのだから。
(2015年11月29日・連続第973回)
古今を通じて、力なき者が権力と闘うための第一の武器は団結と連帯である。権力者が反抗する人民を統治する手段の第一は、分断と各個撃破である。これも、古今東西を通じてのこと。沖縄の県民はこのことを知悉してオール沖縄の団結を作ろうと努力を重ね、安倍政権もこのことをよく弁えて、県民の分断工作に余念がない。
昨日(11月27日)防衛大臣は、「再編関連特別地域支援事業補助金」制度新設を発表した。「再編」とは聞き慣れない言葉。「再編関連」もよく分からない。「特別地域」とはいったいなんぞや。そして、「支援事業補助金」とは?
辺野古新基地建設に対する地元反対闘争を分断するための「つかみ金」制度の創設と言い、その「ばらまき第一弾」と言えば分かり易い。県民に受け入れがたい政策を押しつけるための「ばらまき」も醜いが、これはまた露骨な反対運動に対する分断と各個撃破策。感じ悪いよね?、アベ政権。
この補助金支出の対象は、今話題の久辺三区。各区に1300万円、合計3900万円を上限とする補助金を交付するという。今年は、もともとの予算措置がないところを「在日米軍等の駐留関連諸費」からひねり出す。来年からはきちんと予算措置をするという。よい子にしていれば増額もあり得る、そういうイヤな含みを隠そうともしない防衛大臣会見である。
この「区」あるいは「行政区」というものの性格が分かりにくい。もちろん、特別区とはまるっきり違って公的な存在ではない。飽くまでも住民の自治組織。防衛省ブリーフィングのレジメでは、補助金支出先は「円滑な駐留軍再編に寄与する地域の地縁団体(自治会)」となっている。防衛省も各「行政区」を「地縁団体(自治会)」ととらえた。都市部での「町内会」や「自治会」に相当するものである。
沖縄では、地方自治体行政の補助組織として、集落単位の行政区を活用しているようだ。人口61,500人の名護市は、合計55の行政区をもっている。その内、久志地区(人口4400人)と言われる地域に13行政区があり、その内の久志(274世帯、611人)、豊原(189世帯、419人)、辺野古(1104世帯、1869人)の3行政区をひとかたまりに「久辺三区」と呼ぶのだそうだ。ここが、辺野古新基地建設の地元中の地元となる。(数字は本年3月末現在。名護市のホームページから)
この、400人から1800人ほどの集落の各自治会にそれぞれ、まずは1300万円ずつを注ぎ込もうというのだ。今のところ、その補助金の使途は特定の事業に限定されている。記者会見での大臣説明ではこうだ。
「対象事業と致しましては、まず日米交流に関する事業、例えば伝統芸能に資する事業、またスポーツ大会などであります。もう一点は住民の生活の安全に関する事業ということで、交通安全講習会、また防災・防犯教育啓発、また防犯灯設置などであります。もう一点はその他ということで、生活環境の整備に関する事業ということで、集会施設の改修・増築など、こういった対象のメニューをあげておりますが、事業につきましては今後、確定をしていく予定でございます。」
防衛大臣の、沖縄県や名護市に対する接し方とはおよそ異なる、歯の浮くような久辺三区へのサービスぶりはどうだ。これぞ、世辞の見本というところ。
「久辺三区につきましては、…移設事業の実施に当たりましては、直接最も大きな影響を受けることから、同区が実施する米軍再編の影響を緩和をし、生活環境の保全、また住民の生活の安定に資する事業に対しまして、直接補助が可能となるわけでございます。防衛省としては、今回の交付要領の制定を機に、今後とも久辺三区からの御要望につきまして、きめ細かく応えて参りたいと思っております。」
これに対する稲嶺・名護市長のコメントは次のようなものだ。
「全国でこの地域だけを対象としたものだということを考えると、公共のために使う補助金として本当に妥当なものか理解を超える」「補助金の対象事業として挙げられているものは、すべて地方自治体が地域住民に対して支援をしていく内容のものと解釈される。それからすると、当該自治体の頭越しに直接やるということは、地方自治をないがしろにするもの以外、何ものでもない。この地域だけ対象となると、分断工作というか、“アメとムチ”の最たるものだ」
沖縄タイムスは、次のように報道している。
「防衛省は3区からの事業申請を受け、早ければ年内にも交付を開始する。新基地建設に反対する名護市を介さず頭越しに支援する異例の措置。辺野古に反対する稲嶺進市長や県をけん制する狙いもあり、県内から強い反発が上がっている。
一方、辺野古区の嘉陽宗克区長と久志区の宮里武継区長は菅氏の『地元は(辺野古移設に)条件付き賛成』との認識を否定しているほか、久志区は受け取りの可否で賛否が割れているなど、3区の認識は一致していない。」
政府必死の分断工作も、その成否はまだ定かならずというところ。では、もっと餌を撒くか、あるいは恫喝という奥の手も使うことにするか。アベ政権のことだ、どんな汚い奥の手を使うことになるのか分からない。
政治家が、政策の実行のためとして有権者にカネをバラマケば、疑いもなく公選法違反の「買収」となる。金でなくても、一切の利益の供与が買収罪の犯罪行為を構成する。政府の税金を使ってのバラマキは、お咎めなしなのだろうか。法にのっとり、適正手続が確保され、平等原則が確認されて初めての補助金支出でなくてはならない。
よこしまな動機から、まず補助金支出先を久辺三区と決めておいて、久辺三区だけに支出ができるような要件を作っての補助金支出。もちろん、立法措置もないままである。政府主体の有権者買収と言われてもしかたあるまい。辺野古新基地反対運動の分断と各個撃破策だと言われても、だ。
(2015年11月28日・連続第972回)
植村さん、「韓国カトリック大学校」に招聘教授として就任とのこと、昨日の記者会見の報道で知りました。おめでとうございます。
記者会見の記事は以下のようなものです。
「慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者で北星学園大(札幌市)の非常勤講師、植村隆氏(57)が来年春にソウルのカトリック大の客員教授に就任することになった。植村氏が26日、北星学園大の田村信一学長と記者会見して明らかにした。
植村氏をめぐっては昨年、朝日新聞記者だった頃に執筆した慰安婦関連の記事について抗議が北星学園大に殺到。退職を要求し、応じなければ学生に危害を加えるとする脅迫文も届いていた。」(共同)
私は、植村さんやご家族へに対する常軌を逸した人身攻撃に胸を痛めていた者の一人です。煽動する者と煽動に乗せられる者一体となっての、植村さんへの陰湿で卑劣な攻撃の数々は、日本社会の狭量と非寛容をこの上なく明瞭に露呈しました。この国と社会がもっている、少数者に冷酷な深い暗部を見せつけられた思いです。また、この国のナショナリズムがもつ凶暴さを示しているようにも思います。残念ながら、私たちはけっして開かれた明るさをもった国に住んではいません。卑劣な匿名の攻撃やいやがらせを許容する雰囲気はこの社会の一部に確実にあるといわざるを得ません。
しかしまた、私たちの国や社会は、そのような卑劣漢だけで構成されているわけではありません。陰湿な北星学園に対する攻撃や、ご家族への攻撃を中止させ、防止しようという良心を持つ多くの人々の存在も明らかとなりました。不当な攻撃を許さないと起ち上がる人々の勇気を見ることもできました。その良心と勇気こそが未来への希望です。
昨日(26日)の記者会見が、北星学園大学の田村信一学長と植村さんとの共同で行われたことが、両者に祝意を贈るべきことを示しています。北星学園大は、右翼の卑劣な攻撃に屈することなく植村さんの雇用を護りぬき、そのことを通じて建学の理念と大学の自治とを護り抜きました。韓国カトリック大学校は、北星学園の提携大学で、植村さんの招聘には、今は韓国に在住の植村さんの教え子たちの尽力があったとのこと。すばらしいことではありませんか。
もっとも、北星学園に来年度も植村さんの雇用を継続するかどうか迷いのあったことは聞いていました。最大の問題は、警備費用の負担だとか。その額は年間3000万円とも、3500万円になるとも。右翼の直接攻撃は目に見えて減ってはきたけれど、大学としては学生の安全を守るために手を抜くことができない。そのための費用は、この規模の大学としては大きな負担になるといいます。大学の苦労はよく分かる話。
植村さんに対するいわれなき攻撃はそれ自体不当なものですが、攻撃の矛先をご家族や大学に向けるという陰湿さには、さらにやりきれない思いです。大学が経済的に追い詰められているのなら、応援団は金を集めねばなりません。
脅迫を告発した弁護士グループの仲間内では、「カンパを呼びかけなければならないようだ」「そのためには、まず自分たちが応分の負担をしなければならない」「民族差別を広言する右翼のための出費は馬鹿馬鹿しいが、これが民主主義のコストというものだろう」「卑劣な右翼に、『人身攻撃して、植村を大学からヤメさせた』という成功体験を語らせたくない」「雇用継続を可能とする程度のカンパ集めは可能ではないか」「カンパを集めること自体が差別や暴力と闘う世論を喚起する運動になるのではないか」などと話しあっていました。
暫定的にではあるにせよ、植村さんの雇用がハッピーな形で継続することを大いに喜びたいと思います。
本日(11月27日)朝日新聞が、「本紙元記者、韓国で教鞭へ」という、暖かく、希望を感じさせる見出しであることにもホッとしています。
なお、産経の報道で知りましたが、植村さんは一連の経過について「来年手記の出版を目指している」とのこと、また北星学園は、「再発防止のために経験を検証総括し、広く社会に問いたい」としておられるとのこと。いずれも大事なこととして、完成を期待いたします。
もう一つ、植村さんの札幌地裁提訴事件移送問題での緒戦の勝利おめでとうございます。たまたま、記者会見の11月26日のマケルナ会事務局からの連絡ですと、「植村さんが桜井良子氏などを名誉毀損で札幌地裁に訴え、桜井氏ら被告が東京地裁で審理するよう最高裁に不服を申し立てていた移送問題は、26日、最高裁から被告らの抗告をすべて棄却するとの連絡がありました。これで札幌地裁での審理が確定しました。」とのこと。
櫻井良子(本名)被告らは訴訟を東京地裁へ移送するよう申立をし、札幌地裁は東京に在住する被告らの応訴の都合を重視する立場から、いったんは移送を認めました。これを札幌高裁の抗告審が逆転して札幌地裁での審理を認めました。その高裁の決定がこれで確定したということ。
この種の事件遂行は、意気に感じて集まる弁護士集団によって担われます。せっかく、札幌の若手弁護士諸君が情熱をもってやる気になっているのに、訴訟を東京に移すことになれば、弁護士たちの腰を折ることになってしまいます。それに、もしこの手の事件が、被告の都合を優先して原告の居住地でできないことになるとしたら、同種の被害者が裁判を起こせず、泣き寝入りを強いられることにもなりかねません。
ともかく、これで張り切って、札幌訴訟が動き出すことになります。幸先のよい裁判のスタートに、良い結果が期待されるところです。
(2015年11月27日・連続第971回)
神社新報(週刊・毎月曜日発行)は、株式会社神社新報の発刊だが、まぎれもなく神社本庁の広報紙。「神社界唯一の全国的メディア」を称し公称発行部数5万部という。全国の神職の数は2万人余とのことだが、神職を読者とした業界紙でもある。
その「神社新報」11月23日号の第2面に、「一万人大会を終へ 一千万署名と参院選に集中を」という表題の論説が掲載されている。部外者には、「何をスローガンとした一万人大会」であるか、「何を求めての一千万署名」であるか、また、なにゆえの「参院選に集中」であるか分かりにくいが、読者にはそんなことは言うまでもなく分かりきっているというタイトルの付け方。これすべて、日本国憲法改正を目指してのことなのだ。「安倍政権任期のあと3年が憲法改正のチャンスだ」、「今のうちになんとか憲法改正の実現に漕ぎつけなければならない」という、彼らなりの必死さが伝わってくる。
以下その抜粋である。論説だけでなく、記事全体が歴史的仮名遣いで統一されている。
「『今こそ憲法改正を!一万人大会』が十一月十日、東京・九段の日本武道館で開催された。当日は衆参両院の国会議員や全国の地方議会議員なども含め一万一千人以上の改憲運動推進派の人々が参集し、憲法改正を求める国民の声を真摯に受け止めてすみやかに国会発議をおこなひ、国民投票を実施することを各党に要望する決議をおこなった。
昨年十月一日に『美しい日本の憲法をつくる国民の会』が設立されて以来、日本会議や神道政治連盟が中心となって国民運動を推進してきたが、すでに賛同署名は四百四十五万人に達し、国会議員署名も超党派で四百二十二人を獲得するに至ってゐる。これは大きな運動の成果であるが、今後なほ一千万の賛同署名の達成と、国会議員署名及び地方議会決議の獲得を目指して邁進していかねばならない。」
改憲署名運動が445万筆に達しているとは知らなかった。もっとも、署名簿にどのような改憲案に賛成なのかは記載されてなく、かなりいい加減なものという印象は否めない。とはいうものの、今後の目標が「1000万人署名」「国会議員署名」そして「地方議会の決議獲得」と、具体的に提案されている。護憲の運動は、確実に彼らの「この目標」と衝突することになる。
彼らなりの情勢分析は下記のとおりで、なかなかに興味深い。
「自由民主党は立党六十年を迎へた。…国会の憲法審査会での早期の審議促進を誓ひ、立党以来、変はらぬ党是としてきた『現行憲法の自主的改正』を再確認し、安倍晋三総裁のもとで必ず憲法改正を実現することの決意表明をぜひともおこなってもらひたい。
先の国会における憲法審査会では、こともあらうに自ら選んだ参考人の憲法学者に安保関連法案は憲法違反と言はせる大失態を演じた。緊張感の欠如と言はざるを得ない。一連の安保法制は何とか成立を見たが、これは憲法九条改正までの、現在の厳しい国際情勢下におけるいはば緊急避難的措置に過ぎない。一方、これに反対してきた市民団体などが、『総がかり実行委員会』をつくって『戦争法』の廃止を求め、憲法を守る二千万人署名の活動を開始してゐる。勢ひを増してきた共産党がこれを応援し、同党で半分の一千万人署名を集めると表明してゐるのである。来年夏の参議院議員選挙が、改憲の大きな勝負時となってくるであらう。」
「来年夏の参議院議員選挙が、改憲の大きな勝負時となってくる」のは、まことにそのとおりだ。この勝負、負けてはならない。この点について神社新報のボルテージは高い。
「現在、憲法改正の秋がやうやく到来した。すでに衆議院では改憲派の勢力が三分の二に達してをり、安倍総裁の任期も三年ある。あとは来年七月の参院選で改憲派の勝利を目指して全力を集中することだ。参議院で改憲派が三分の二の議席を確保できれば、いよいよ国民投票に持ちこめる。」
しかし、論説の最後はややしまりなく終わっている。
「神社界の中には未だ、なぜ神職が憲法改正の署名活動までやらなければならないのか、といった疑問を抱く人もゐると聞く。しかし、もしも神職が宮守りだけを務め、国の大本を正す活動に従事しなかったら、この国は一体どうなるのか。心して考へてみなければなるまい。我々自身の熱意と活動努力によって憲法改正はぜひとも実現しなければならないのである。」
「なぜ神職が憲法改正の署名活動までやらなければならないのか」。神社界の中にさえ、疑問はあるようだ。部外者にはなおさら分かりかねる。
この論説では、「神職が国の大本を正す活動に従事しなかったら、この国は一体どうなるのか」「憲法改正はぜひとも実現しなければならない」という。さて、「国の大本」とはなんだろうか。
安倍晋三の言う、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」とよく似たものの言いまわし。漠然としていて、分かる人だけにしか分からない。
神道政治連盟のホームページに次のような組織の解説がある。
「世界に誇る日本の文化・伝統を後世に正しく伝えることを目的に、昭和44年に結成された団体です。戦後の日本は、経済発展によって物質的には豊かになりましたが、その反面、精神的な価値よりも金銭的な価値が優先される風潮や、思い遣りやいたわりの心を欠く個人主義的な傾向が強まり、今日では多くの問題を抱えるようになりました。神政連は、日本らしさ、日本人らしさが忘れられつつある今の時代に、戦後おろそかにされてきた精神的な価値の大切さを訴え、私たちが生まれたこの国に自信と誇りを取り戻すために、さまざまな国民運動に取り組んでいます。」
ここに述べられている「世界に誇る日本の文化・伝統」「精神的な価値」「日本らしさ」「日本人らしさ」とは何なのだろう。この人たちにとって、取り戻すべき「自信と誇り」とはなにを指すのだろうか。
それが、どうも次の5項目らしいのだ。
・世界に誇る皇室と日本の文化伝統を大切にする社会づくりを目指します。
・日本の歴史と国柄を踏まえた、誇りの持てる新憲法の制定を目指します。
・日本のために尊い命を捧げられた、靖国の英霊に対する国家儀礼の確立を目指します。
・日本の未来に希望の持てる、心豊かな子どもたちを育む教育の実現を目指します。
・世界から尊敬される道義国家、世界に貢献できる国家の確立を目指します。
キーワードは、天皇・改憲・靖国・教育・道義の5項目。だが、さっぱり具体的なことは分からない。むしろ、神職たちは次のように言うべきではないだろうか。
・現行憲法は、天皇の公的地位を、政治権力や宗教性から徹底して切り離すことで、天皇制を維持し安定したものとしています。私たち神職は、この象徴天皇制を擁護いたします。
・戦場に散った兵士だけでなく、敵味方を問わぬすべての戦争犠牲者を等しく慰霊することが神職たる私たちの務め。戦没者の慰霊を通して平和な社会の建設を目指します。
・日本の未来に希望の持てる心豊かな子どもたちを育むために、立憲主義・民主主義・平和主義、そして人権尊重の理念に徹した教育の実現を目指します。
・武力に拠らず平和主義の道義に徹することで世界から尊敬される国際的地位を目指すとともに、世界の貧困や差別の解消に貢献できる国家の確立を目指します。
・平和という日本の歴史と国柄をよく踏まえるとともに、世界の文明諸国と価値観を同じくする国家としての誇りを堅持するため、現行憲法を断固として護り抜きます。
そう。神職こそ、命と平和と自然を愛する立場から、断固として日本国憲法を擁護する立場を採るべきなのだ。そういえば、僧侶も同じだ。真摯な宗教者には、なべて護憲の姿勢がよく似合うではないか。
(2015年11月26日・連続第970回)