澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

太平洋戦争開戦の日から74年。再びの戦争を起こさない決意を込めて。

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、こちらは「本郷・湯島9条の会」です。東京母親大会連絡会の方もご一緒に、昼休み時間に平和を守るための訴えをさせていただいています。少しの時間、耳をお貸しください。

今日は12月8日、私たちがけっして忘れてはならない日です。74年前の今日の午前7時、NHKは突然臨時ニュースを開始しました。このときが、NHKの代名詞ともなった初めての「大本営陸海軍部発表」。「帝国陸海軍が本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という、このニュースで国民は日本が米英と戦争に突入したことを知らされたのです。

日曜日の真珠湾に、日本は奇襲をかけました。向こうから見れば、宣戦布告のない卑怯千万なだまし討ち。その戦果は、戦艦2隻を轟沈、戦艦4隻・大型巡洋艦4隻大破、そして2600人の死者でした。この報に日本は沸き返りました。戦争は確実に国民の支持を得たのです。

戦後東大総長になった南原繁は、開戦の報を聞いたときに、こんな愚かな「和歌」を詠んでいます。
  人間の常識を超え学識を超えて おこれり日本世界と闘ふ
この人の学問とは、いったい何だったのでしょうか。政治学者である彼は、何を学んでいたのでしょうか。

1931年の「満州事変」から始まった日中戦争は当時膠着状態に陥っていました。中国を相手に勝てない戦争を続けていた日本は、新たな戦争を始めたのです。今でこそ、誰が考えても無謀な戦争。これを、南原だけでない多くの国民が熱狂的に支持しました。

戦争は、すべてに優先しすべてを犠牲にします。この日から灯火管制が始まりました。気象も災害も、軍機保護法によって秘密とされました。治安維持法が共産党の活動を非合法とし、平和を求める声や侵略戦争を批判する言論を徹底して弾圧しました。大本営発表だけに情報が統制され、スパイ摘発のためとして、国民の相互監視体制が徹底されていきます。

ご通行中の皆さまに、赤いチラシと白いチラシを撒いています。赤いチラシは「赤紙」といわれた召集令状の写です。本物を写し取ったもの。世が世であれば、これがあなたの家に配達されることになるのです。イヤも応もなく、これが来れば戦地に送られることを拒めません。それが徴兵制というもの。

赤いチラシが74年前の社会を思い出すためのもので、白いチラシは現在の問題についてのものです。安倍内閣が憲法を曲げて、無理矢理通した「戦争法」についての解説で、中身は以下のとおりです。

戦争法(安保法制)とは何か
戦争法とは何でしょうか。日本が海外で戦争する=武力行使をするための法律です。地球上のどこでも米軍の戦争に参戦し、自衛隊が武力行使する仕掛けが何重にも施されています。1945年以来世界の紛争犠牲者は数千万人に上り、第二次世界大戦の死者に匹敵します。そのなかで自衛隊は1954年の創設以来、敵との交戦で一発の弾丸を撃つこともなく、一人の戦死者も出さず、一人の外国人も殺してきませんでした。これこそ憲法9条があったおかげです。

来年の3月に戦争法(安保法制)が施行(実施)されます
 戦争法の実施で、真っ先に戦場に行くのは若い自衛隊員です。放置すれば、現在の子どもが大人になるころ、海外での戦闘態勢はすっかり整ってしまいます。ドイツは侵略戦争を禁じた憲法解釈を1990年に変え、2002年アフガニスタンに派兵して55人の戦死者を出し、多くの民間人を殺傷しました。そのドイツが今、対ISの後方支援という名で1,200人派兵することを決定しました。
 そして、憲法9条を無視して戦争法(安保法制)を成立させ実行に移そうとしているのが今のわたしたちの国、日本なのです。

戦争法でテロはなくせません
 ISは、2003年に始まったイラク侵略戦争と2011年からのシリア内戦で生まれ、勢力を拡大してきました。イラク戦争の当事者であるブレア元英国首相は「イラク戦争がISの台頭につながった」と認めています。このことを認めながら英国は、パリ同時多発テロを契機に今シリアの空爆を始めました。わが国においても、戦争法によってISに空爆をおこなう米軍などへの兵站支援が可能になりました。

日本が米国から空爆支援を要請されたら、「法律がない」と言って拒否することはもうできません。今こそわたしたちが戦争法(安保法制)に反対し平和な日本、そしてアジア・世界に 向かって日本国憲法第9条を旗印に平和な日本・世界を実現しようではありませんか

今日12月8日は、なぜ日本は戦争を始めたのか、なぜあの無謀な戦争を止められなかったのか。そのことを真剣に考え、語り合うべき日だと思います。日本人の戦没者数は310万人。そして、日本は2000万人を超える近隣諸国の人々を殺害したのです。戦争が終わって、国民はあまりに大きな惨禍をもたらしたこの戦争を深く反省し、再び戦争をするまいと決意しました。まさしく、今日はそのことを再確認すべき日ではありませんか。

戦争は教育から始まる、とはよく言われます。戦争は秘密から始まる。戦争は言論の弾圧から始まる。戦争は排外主義から始まる。新しい戦争は、過去の戦争の教訓を忘れたところから始まる。「日の丸・君が代」を強制する教育、特定秘密保護法による外交・防衛の秘密保護法制、そしてヘイトスピーチの横行、歴史修正者の跋扈は、新たな戦争への準備と重なります。さらに戦争法による集団的自衛権行使容認は、平和憲法に風穴を開ける蛮行なのです。再びの戦争が起こりかねない時代の空気ではありませんか。

これ、すべてアベ政権のやって来たこと、やっていることです。先ほど、本郷・湯島九条の会の会長が初めて、ここでの演説をおこない、憲法と平和を守るために、アベ政治を許してはならないという訴えをされ、大きな拍手が起こりました。

地元9条の会は、今年一年間、毎月第2火曜日のこの場での宣伝活動を続けてきました。今年は今回で終了です。しかし、年が明けたらまた続けます。「戦争法廃止、立憲主義・民主主義を取り戻す」たたかいは、安倍政権を退陣させ、わが国が9条を復権させるまで、続けざるを得ません。そして来年こそは、しっかりと平和な日本を確立する大きな一歩を踏み出す年にしようではありませんか。ご静聴ありがとうございました。
(2014年12月8日・連続第982回) 

敢えて「皇室タブー」に切り込む心意気ー「靖国・天皇制問題 情報センター通信」

月刊「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の通算507号が届いた。
文字どおり、「靖国・天皇制問題」についてのミニコミ誌。得てしてタブー視されるこの種情報の発信源として貴重な存在である。しかも、内容なかなかに充実して、読ませる。

[巻頭言]は、毎号「偏見録」と題したシリーズの横田耕一(憲法学者)論稿。回を重ねて第52回目である。長い論文ではないが、いつもピリッと辛口。今回は「なんか変だよ『安保法制』反対運動」というタイトルで、特別に辛い。

論稿の趣旨は、「本来自衛隊の存在自体が違憲のはず。武力を行使しての個別的自衛権も解釈改憲ではないか。」「にもかかわらず、集団的自衛権行使容認だけを解釈改憲というのが、『なんだか変だよ』」というわけだ。表だってはリベラル派が言わないことをズバリという。天皇・靖國問題ではないが、タブーを作らない、という点ではこの通信の巻頭言にふさわしい。

要約抜粋すれば以下のとおり。
「かつての憲法学者の圧倒的多数の9条解釈は、一切の戦力を持たないが故に自衛隊は違憲であり、したがって個別的自衛権の行使も違憲とするものであった。この立場からすれば、『72年見解』などは政府による典型的な『解釈改憲』であり、『立憲主義の否定』であった。
 ところが、いまや、現在の反対運動のなかでは、共産党や各地の9条の会などに典型的に示されているように反対論の依拠する出発点は『72年内閣法制局見解』にあるようで、それからの逸脱が『立憲主義に反する』として問題視されている。したがって、そこでは自衛隊や日米安保条約は合憲であることが前提とされている。過去の『解釈改憲』は『立憲主義に反しない』ようである。
 自衛隊・安保条約反対が影を潜める一方、国際協力のために自衛隊が出動することまで認める改憲構想がリべラルの側からも提起され、各地の反対運動で小林節教授が『護憲派』であるかのごとく重用されている現在の状態は、果たして私たちが積極的に評価し賛同・容認すべきものだろうか。私の最大の違和感の存するところである。」

このミニコミ誌ならではの情報を二つご紹介しておきたい。
まずは、「新編『平成』右派事情」(佐藤恵実)の「OH! 天皇陛下尊崇医師の会会長」の記事。

東京・六本木の形成外科・皮膚科の開業医が、向精神薬を不正に販売したとして,麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕された。厚生労働省の麻薬取締部は、この医師は中国の富裕層向けに違法販売を繰り返したと考えている模様、というそれだけのニュース。その医師は、「天皇陛下尊崇医師の会」会長なのだそうだ。

そんな団体があることも驚きだが、この医師と医院の〈関連団体一覧〉が掲載されている。「とくとご覧あれ」とされている。。

靖國神社を参拝する医師の会会長・社団法人神社本庁協賛医療機関・日本会議協賛医療機関・宮内庁病院連携医療機関・東京都医師政治連盟会員・自由民主党協賛医療機関・大日本愛国医師連合会長・日本国の領土「竹島」「北方領土」を奪還する愛国医師の会会長・一般財団法人日本遺族会協賛医療機関・毎上自衛隊協賛医療機関・天皇陛下尊崇医師の会会長・アジア太平洋地区米国海軍病院所属米国海兵隊軍医トレイニーOB・麻布警友会協賛医療機関・全日本同和会東京都連合会協賛医療機関・創価学会協賛医療機関・同和問題企業連絡会(同企連)協賛医療機関・警察友の会協賛医療機関・公益財団法人警察協会協賛クリニック・日米安会保障条約賛同医療機関・米国海軍病院連携クリニック・註日アメリカ合衆国大使館連携医療機関・日本の領土を守るため行動する議員連盟協賛クリニック・公益財団法人日本国防協会協賛医療機関・六本木愛国医師関東連合会長・六本木愛国医師ネットワーク事務局日本国体学会。

もう一つは、「今月の天皇報道」(中嶋啓明)。「Xデーも近いのに、何ゆえ天皇夫妻はフィリピンまで行くのか」という内容。
「明仁は、8月15日の全国戦没者追悼式で段取りを間違えた。参加者の『黙祷』を待たずに『お言葉』を読み上げたとされている。富山で行われた『全国豊かな海づくり大会』では、式典の舞台上で列席者を手招きしてスケジュールを確認し、式の進行が一時、ストップする場面があったという。いずれも高齢化が引き起こす一時的な軽度の認知障害なのだろうが、『デリケートな問題』だとして、在京の報道機関は報道を見送ったという。確かに東京でその記事を見ることはなく、地元地方紙の『北日本新聞』と『富山新聞』でほんわずか報じられただけだった。
 Xデーも間近と思わせる中、それでもまだ、支配層にとっての明仁の利用価値は高い。明仁は美智子と共に来年早々、高齢で体調不安を抱えながらフィリピンを訪問することが発表された。最高のパフォーマンスの裏に秘められた『真の狙い』とは。
元朝日新聞記者で軍事ジャーナリストの田岡俊次が月刊誌『マスコミ市民』の15年10月号に『国会審議もなく進むフィリピンとの「同盟関係」の危険性』と題して書いている。ここで田岡は『政府が国会にもかけずにフィリピンとの同盟関係に入りつつあるという重大な異変がほとんど報じられない』と嘆くのだ。田岡の論考などによると、日比間の防衛協力は民主党の野田政権下で始まった。2011年9月、当時の首相野田佳彦がフィリピンのアキノ大統領との会談で『両国の海上保安機関、防衛当局の協力強化』を約束。それを引き継いだ現首相安倍音三は13年7月、マニラでのアキノ大統領との会談で小型航洋巡視船10隻をODAにより無償供与することを表明した。そして今年6月には東京での会談後、中国が南シナ海で進める人工島建設に『深刻な懸念を共有する』共同宣言を発表した。日本が供与する巡視船は、政府自身も『武器に当たる』ことを認めており、共同宣言には『安全保障に開する政策の調整』や『共同演習・訓練の拡充を通じ相互運用能力の向上』を図ることが表明されている。災害時の救援を口実に派遣される自衛隊の法的地位についての検討を開始することも盛り込まれ、田岡は、日比関係が限りなく同盟関係に近づきつつあると指摘する。
日本は、中国包囲網を築く上での重要なパートナーの一国として、フィリピンとの軍事的な関係の強化に勤しんでいるのだ。明仁、美智子の訪問計画の裏には、日比間のこうした関係を権威付けたいとの安倍政権の狙いがあることは明らかだ。」

最後に、もう一つ。「歌に刻まれた歴史の痕跡」(菅孝行)が、毎回面白い。
今回は、「ラマルセイエーズ」について、歌詞の殺伐と、集団を団結させる魔力に溢れた名曲とのアンバランスを論じたあと、こう言っている。

「君が代と違っていい曲に聴こえるのは、他所の国の国歌であるために気楽に歌えるからともいえるが、やはり音楽性の質の高さによるものだろう。革命が生んだ国歌は、革命がその質を失い堕落した後でも、困ったことに歌だけは美しい。アメリカ国歌もその例に洩れない。ラフマニノフがピアノ曲にしたという。ダミー・ヘンドリクスがウッドストックで演奏して評判になった。名曲といえば、旧ソ連の国歌も心に染みる名曲である。ただ、こうした曲の〈美しさ〉は、保守的な感性に受け入れやすいということと結びついていることを忘れてはならない。」
「ダサイ国歌『君が代』は大いに問題だが、同時に美しい国歌が『国民』を動員する『高級な』装置であることに警戒を怠るべきでない。『ラ・マルセイエーズ』はナショナリズムだけでなく、『高級で文明的な』有志連合国家の団結も組織した。高級で文明的なものほど野蛮だというのは、軍事力だけの話ではない。動員力のある音楽もまた同じである。そういえば『世界に冠たるドイツ』なんていう歌もあった。」

なるほど、君が代は、ダサイ国歌であるがゆえに、集団を鼓舞し団結させる魔力に乏しいという美点を持っているというわけだ。このような指摘も含めて、「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の記事はまことに有益である。
(2015年12月7日・連続第980回)

「フードファディズム」とサプリメント広告規制ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第56弾

先日、私の母校である私立の高等学校が創立60周年を迎え、記念の同窓会を催した。久しぶりに懐かしい友人たちと旧交を温め、それぞれが近況を報告することになった。私はもっぱらDHCスラップ訴訟の経過を話題にした。もちろん、私の旧友は私の味方だ、口を揃えて「吉田嘉明とはひどい奴だ」「DHCがそんな会社とは知らなかった」と大いに憤慨してくれた。この友たちが、またどこかでDHCの所業を口コミで伝えてくれるに違いない。

その場に居合わせたなかに、国立大学で食品科学を教えていた旧友がいた。「調理を科学する」という幸せな研究生活を送って今は名誉教授になっている。私は彼に、「DHC・吉田が私を提訴したのは、健康食品・サプリメント販売の規制緩和問題が絡んでいる」ことを説明した。「吉田嘉明が渡辺喜美に対して、8億円ものカネを提供したのは、DHCのサプリメントを規制なく売って儲けを拡大したいからだ」と私はブログに書いた。そのことが吉田の疳に障って、6000万円の慰謝料請求の原因にされていることを話した。

その彼から、このことに関連した基礎的概念として「フードファディズム」という用語と、その提唱者である高橋久仁子群馬大学教授の存在を教えられた。不明にも、私はこの言葉自体を知らなかった。不思議なもので、教えられると「フードファディズム」なる用語にはその後たびたびお目にかかるようになっている。

「フードファディズム」とは、特定の食べ物や栄養が、健康や病気に与える影響を過大に評価したり信じたりする社会心理現象を言うようだ。巷に溢れる「あやしい食の情報」に消費者の食生活が振り回されている現象を否定的に捉えて、こんなことのないようにと警告を発するために提唱された概念と考えられる。

「納豆を食べるとやせられる」「ココアが高血圧や貧血に効く」「ニガウリが血糖値を下げる」「バナナがよい」「○○が△△に効く」という類の過剰な似非科学情報に踊らされる消費者に、しっかりした消費者マインドと広告リテラシーを持てと警告を発する際に、これは「フードファディズム」だ、という言葉が用意されていることはたいへんに説明に便利なのだ。ちょうど、DHC・吉田嘉明の私に対する提訴を「スラップ訴訟」と表現することで、説明の手間が省け明確なイメージが浮かぶようにである。

「フードファディズム」という概念提唱の前提には、「適当な量を守り適切な食事法を行っていれば、ある特定の食品を摂取した結果、急激に体によい状態、あるいは悪い状態になることはない」という経験科学の知見がある。

高橋久仁子・群馬大学教授によれば、フードファディズムとはアメリカで育った概念なのだそうだが、日本の社会には、フードファディズムが容易に蔓延する土壌が調っているという。まったく同感だ。

当然のことであるが、多くの人の健康志向や美容願望に付け込んでフードファディズムを煽るのは、これを売って儲けようという輩である。そして、一部のメディアがその提灯を持つ。企業の利益のために消費者の食生活に無用無益の混乱をもたらすもの、それがフードファディズムという現象なのだ。

これも当然のことながら、フードファディズムは、狭義の食品だけを問題にしているのではない。健康食品・栄養補助食品・サプリメントと言われる食品関連商品をも警告の対象としている。もしかしたら、こちらの方が弊害が大きく、それゆえメインターゲットなのかも知れない。

健康食品・サプリメントなるものが、気休め以上の効果のないことは常識と言ってよいだろう。少なくとも、科学的検証に堪える効果が確認できて、金を払っても摂取すべきほどの効果はあり得ない。

下記は、手近で手頃な情報源としてのウイキペディアからの引用である。
「健康食品は、健康の保持増進に役立つものであると機能が宣伝され販売・利用されることで、学術的な認識とは独立して社会的な認識においては他の食品と区別される一群の食品の呼称である。健康食品の一部は行政による機能の認定を受け『保健機能食品』と呼ばれるが、それ以外では効果の確認及び保証はなされない。また業界団体である日本健康・栄養食品協会は(旧)厚生省の指導により規格基準を設定し、1986年より『健康補助食品』の認定マーク(JHFAマーク)を発行している。『いわゆる健康食品』や『健康志向食品』などの用語も使用される。『サプリメント』も健康食品に含まれるが、2013年12月にはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授をはじめとする医師らが医学誌アナルズ・オブ・インターナル・メディシン誌上にビタミンやミネラルなどのサプリメントは健康効果がなく、十分な栄養を取っている人にはむしろ害になる可能性があるという研究結果を発表した。」

要するに、健康食品には、限定された「行政による機能の認定を受けた保健機能食品」以外に健康によいというエビデンスはない。むしろ、「サプリメントは健康効果がなく、十分な栄養を取っている人には害になる可能性がある」とエビデンスがあるというのだ。

そのエビデンスとは、下記のとおりである。
「2013年12月にはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授をはじめとする医師らが医学誌アナルズ・オブ・インターナル・メディシン誌上に栄養不足のない人にはビタミンやミネラルのサプリメントをとっても慢性疾患の予防や死亡リスクの低減効果はなく、一部の疾患リスクを高める可能性があるという研究結果を発表した。論文によれば、栄養が十分な人においては、心臓血管疾患、心筋梗塞、ガン、認知症、言語記憶、そのいずれに対してもビタミンやミネラルのサプリメントは予防効果はなく、ベータカロチンが肺がんリスクをむしろ高める可能性や、ビタミンEや高容量のビタミンAの摂取が死亡率を高める可能性などを示唆し、それらのサプリメントに明確な利益はなく、有害であるかもしれないとした。ビタミンDに関しては、不足している人にとっては有意な効果がある可能性もあるが、現在は利益が害を上回るという確かな根拠に基づかずに使用されているとした」

以上のとおりサプリメントに効能のエビデンスはない。むしろ害になる可能性さえある。にもかかわらず、あたかも大きな効能ある如き誇大な宣伝がメディアに満ち満ちているのが現実であることは周知の事実。

どの宣伝も、まずは「具体例の効能」を写真入りで大書する。そして、小さな字で、「※コメントは個人の感想です。効果・実感には個人差があります。」(DHCのホームページより)と書き加えるのが定番の手法。

さらに、こんなことも、小さな字で書き加えられる。
「※お名前はご本人の希望により仮名にしてあります。」(DHCのホームページより)

このような宣伝手法にどう対処すべきか。消費者の立場から規制を強化すべきか、あるいは企業の立場に立って規制を緩和すべきなのか。これは優れて消費者問題なのだ。

発達した大量消費社会においては、個々の消費者は大企業に欲望までもが操られた存在となる。高度な企業戦略によって洗練された広告の手法は、消費者の消費意欲を喚起し、不要な商品まで買わされる。場合によっては害になる可能性さえある商品までもなのだ。健康食品・サプリメントはその典型といえよう。

薬事行政・食品行政、そして消費者行政は、恣意に流れると危険であるがゆえに、健康食品・サプリメント企業の行為を規制しなければならない。それは経済的規制とは区別された、弱い立場にある国民の生命・健康や財産を護るために必要な社会的規制である。規制は悪、官僚と闘う、などとして、この必要な規制を緩和してはならないのだ。

DHCスラップ訴訟は、企業の利潤追求の立場から、私のような消費者サイドに立つ意見を封殺しようという側面を持っている。消費者問題としても、私はDHCスラップ訴訟に負けてはならないのだ。
(2015年12月6日・連続第979回)

「再び教え子を戦場に送らない決意宣言」としての『君が代』裁判

昨日(12月4日)、東京「君が代」裁判・第3次訴訟での控訴審判決があった。
この控訴事件は、本年(15年)1月16日東京地裁判決(佐々木宗啓裁判長)を不服として、原告教員側と被告都教委側の双方が控訴していたもの。東京高裁第21民事部(中西茂裁判長)は、一審原告一審被告双方の控訴を棄却した。つまりは一審判決のとおりとしたのだ。その内容と、獲得した成果・問題点を確認しておきたい。

石原慎太郎都政第2期の2003年、悪名高い「10・23通達」が発令された。以来、都内の都立校・区立校では、卒業式・入学式などの学校儀式において、起立しての「君が代」斉唱職務命令が発せられ、これに違反すると懲戒処分となる。既に、その処分件数は474件に達している。

懲戒処分を受けた都立高校・都立特別支援学校の教職員が、東京都教育委員会を被告として処分の取り消しを求めた一連の訴訟が、東京「君が代」裁判。その第3次訴訟は、2007?09年の処分取り消しを求めて10年3月に提訴。都立校教職員50人の集団訴訟で、処分の取り消しと精神的苦痛に対する慰謝料(各55万円)の支払いを求めたもの。

一審判決は、最も軽い戒告処分については取消請求を棄却したが、26人31件の減給(29件)・停職(2件)の処分をいずれも重きに失するとして懲戒権を逸脱・濫用した違法を認め、これを取り消した。但し、慰謝料請求はすべて棄却となっている。

26人31件の処分取消という被告都教委の敗訴は大失態であるが、都教委が控訴したのは敗訴した29件の敗訴処分の内の5件についてのみ。残る24件の処分については控訴しても勝ち目ないとして一審の取消判決を確定させた。都教委は、都教委の目から見て特に職務命令違反の態様が悪いとする5件について未練がましく控訴をしてみたということなのだ。

昨日の判決は、その5件全部について控訴の理由なしとして一蹴した。この都教委の控訴がすべて棄却されたことの意味は大きい。都教委は足掻いて恥の上塗りをしたのだ。都教委よ、大いに反省をせよ。そして、責任の所在を明確にせよ。敗訴について謝罪せよ。同様の誤りを繰り返さぬよう再発防止策を講じよ。

一方、一審原告教職員側は戒告処分も違憲・違法だと控訴をしたのだが、これは斥けられた。国家賠償法に基づく慰謝料の請求棄却を不服とした控訴も棄却された。

3次訴訟では、一審判決と控訴審判決ともに、結論は1次訴訟(12年1月)、2次訴訟(13年9月)の最高裁判決を踏襲する形となった。建前として経済的不利益を伴わない(現実には不利益が伴う)戒告の限度で懲戒を合法とし、経済的不利益を伴う減給以上の処分は原則として違法という線引き。予想されたところではあるが、大いに不満が残る。

まずは、合違憲の判断についてである。原告側は、本件では憲法19条、20条、23条、26条を根拠とした違憲論、教育基本法違反を主とする違法論を展開したが、判決の容れるところとはならなかった。最高裁判決の枠組みに忠実であろうとするに性急で、違憲論の主張に真摯に耳を傾ける姿勢に乏しいと言わざるを得ない。

次いで、裁量権濫用と慰謝料の問題。
東京「君が代」裁判・第1次訴訟の控訴審判決(11年3月10日)は、裁判長の名をとって「大橋寛明判決」と呼ばれている。この判決は、戒告処分を含めて173人全員の処分を懲戒権の逸脱濫用として取り消したのだ。

この判決は、教職員の不起立・不斉唱の動機を、自己の思想と教員としての良心に忠実であろうとした真摯なものと認め、やむにやまれずの行為と評価した。ところが、3次訴訟の、佐々木判決も中西判決も、「不起立行為が軽微な非違行為とは言えない」との立場をとっている。これでは、最高裁の判断を乗り越えようがない。憲法が想定する裁判官像に照らして、頼りないこと甚だしい。

裁判官は公権力の立場から意識的に離れ、社会の多数派の常識からも自由に、憲法の理念に忠実でなくてはならない。何よりも、真摯に苦悶し憲法に期待した原告に共感する資質を持ってもらいたい。少なくとも、原告ら教員の苦悩や煩悶を理解しようとする姿勢をもたねばならない。

本日の赤旗に、原告団事務局長の近藤徹さんのコメントが載っている。「都教委は思想・良心の自由を生徒に説明したなどと減給・停職を(正当化する理由として)主張したが、それが間違っていたことがはっきりした」というもの。裁判で勝ち取った成果は、着実に教育現場に生きることになるだろう。

国旗・国歌、「日の丸・君が代」に不服従を貫く人の思いはさまざまである。もちろん、弁護団員も思想はさまざまだ。統一する必要などさらさらない。私個人は、ナショナリズムを正当化する教育の統制が、再びの軍国主義や戦時の時代を準備することを恐れる気持ちが強い。集団的自衛権行使容認決議に続く、戦争法の成立は、私の危惧を杞憂ではないものとしているのではないか。

ことあるごとに、想い起こしたい。戦後教育を担った教師集団の原点は、「再び教え子を戦場には送らない」という決意だった。

 逝いて還らぬ教え子よ
 私のこの手は血まみれだ   
 君を縊ったその綱の
 端を私も持っていた
 しかも人の子の師の名において
 
 嗚呼!

 「お互いにだまされていた」の言訳が
 なんでできよう
 慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
 それがなんの償いになろう
 逝った君はもう還らない

 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
 涙をはらって君の墓標に誓う
 「繰り返さぬぞ絶対に!」

「東京『日の丸・君が代』処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団」の声明の末尾は次のとおりとなっている。

「私たちは、今後も「国旗・国歌」の強制を許さず、学校現場での思想統制や教育支配を撤廃させて、児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための取組を続ける決意であることを改めてここに宣言する」

「学校現場での思想統制や教育支配」それ自身も恐ろしいが、その先にあるものこそが真に恐ろしい。「日の丸・君が代」強制はその象徴である。これに抗して闘っている教員集団は、実は歴史的な大事業を担っているのかも知れない。
(2015年12月5日・978回)

問題は、「権力からの圧力を感じる能力」の欠如だ

本日の毎日朝刊に、次の見出しの記事。
「籾井・NHK会長:与党聴取『圧力と捉えず』 やらせ疑惑巡り」
「NHKの籾井勝人会長は3日の定例記者会見で、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を巡り自民党が局幹部から事情聴取したことについて、『圧力と捉えるのは考えすぎだ』と述べた。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は11月6日、自民党の聴取を『政権党による圧力』と批判する意見書を出している。
籾井会長は意見書の指摘には『コメントを控える』としたうえで、『(クローズアップ現代の報道に関する)我々の中間報告書が出た時点の話だから、説明に行っただけ』と主張。さらに『自民であろうが野党であろうが、説明に来いと言われれば行くが、そこで《この番組はどうだ》と(内容について)言われても、我々は《聞けません》という話だ』と述べた。」

読売もほぼ同じ内容で、見出しは「自民の事情聴取『圧力は考えすぎ』…NHK会長」。

産経(デジタル)が籾井の言葉を詳しく報道している。その一部。

「自民党の聴取については、あのとき、NHKの中間報告が出ていた。それを説明に行ったということだ。番組について、NHKがプレッシャーを受けたということはない。こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれないが、そういうことではない。NHKの中間報告が出た時点で、それを説明に行ったということ。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。こう言うと反発を食らうかもしれないが、事実はそういうことだ」

「??BPOの意見書などは、政権与党がテレビ局を呼んだことを「圧力」と指摘していた。だが、籾井会長自身は圧力ではないと受け止めているというか
はい。(そう考えてもらって?澤藤補足)結構です。言い過ぎかもしれないが。われわれは不偏不党でやっているので、自民党であろうが、野党であろうが、『説明に来い』と言われたら、説明には行く。そこで『この番組はどうだ』と(注文を)言われたら、NHKとしては聴けません、という話だ。われわれとしてはそういう認識で(説明に)行った」

「??BPOとは考え方が違うということか
BPOと考え方が違うとか、そういうことではなく、NHKとしてはそう思っているということだ」

籾井記者会見の発言は、実は大きな問題を露呈しているのだ。NHKはBPOの指摘をまったく理解していない。理解する能力をもっていない。だから、当然のことながら、BPOの指摘を真摯に受け止める姿勢に欠けている。

BPOはNHK自体の問題として、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を指摘した。さすがに籾井もこの点は理解しているようだ。しかし、BPOの指摘はこれだけでなく、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めている。これが真骨頂。

BPO意見書は、「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、BPOは、NHKの側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促したのだ。

籾井には、BPOから指摘のこの問題点の重要性が理解できない。だから自覚など生じようがないのだ。
「NHKがプレッシャーを受けたということはない。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。」というのは、おそらく彼のホンネなのだろう。

籾井は、自ら「こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれない」としている。自分では「自民党寄り」という程度の自覚なのかも知れないが、実態はとんでもない、そんなレベルではない。「寄り」ではなく安倍自民党と一体の存在なのだ。圧力とは、異質のものからの働きかけについてだけ感じられるもの。籾井は、高市や自民党から何と言われても、身内からの助言としか感じない。これを圧力と感じる能力を欠いているのだ。

言論人は、権力との距離を十分に意識し、自分が権力とは異質であることを自覚しなければならない。権力の行使のあり方には常に敏感でなくてはならない。自分に対するものだけでなく、他者に対するものについても、権力からの圧力は鋭敏なアンテナで覚知して、声を上げ抵抗する覚悟がなければならない。

籾井勝人には、そのような資質が決定的に欠けている。どっぷり浸かった権力との同質感がその妨げとなっている。戦前のメディアの多くは権力からの弾圧を感じていなかった。NHKは大本営発表に汲々とし、新聞は戦意高揚を煽って部数を伸ばした。自らを権力と同質のものとし、権力からの独立や対峙の気概をもたなかったからだ。

籾井勝人は、戦前のNHKとまったく同じ感覚ではないか。BPOの指摘をないがしろにするNHK会長は、やはり不適任。辞めてもらわねばならない。日本の民主主義のために。
(2015年12月4日・連続977回)

けっして、「魂の飢餓感」と「澄み切った法律論」の対決ではないー辺野古代執行訴訟法廷

昨日(12月2日)が、辺野古代執行訴訟の第1回口頭弁論。冒頭、翁長知事自身が被告本人として意見陳述を行った。覚悟のほどを見せたわけである。

翁長さんは、那覇市議から、沖縄県議、そして那覇市長の経歴を保守の陣営で過ごし、その後に「オール沖縄」の支援を得て知事になった人。県民の意を体して、国と対峙して一歩も引かないその姿勢はみごとというほかはない。

もともとは保守の陣営に属しながら、辺野古新基地建設反対のスローガンで当選した翁長知事。就任の当初には、行く行くはぶれるのではないか、県民を裏切りはしまいかという心配がつきまとっていた。知事の耳にもはいるこのような懸念に対して、知事は当選直後に「裏切るなら死ぬ」と述べている。

「ボクは裏切る前に自分が死にますよ。それくらいの気持ちを言わないとね、沖縄の政治はできないですよ。今、予測不可能ななかでね、こんな言い方をされるとね。その時は死んでみせますというね、そのくらいの決意」(「荻上チキSession-22」TBSラジオ、2014年11月17日)

さらに、知事の妻・樹子さんの存在も大きい。琉球新報が、本年11月9日付で報道するところでは、
「新基地建設に反対する市民らが座り込みを続ける名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に7日、翁長雄志知事の妻・樹子さんが訪れ、基地建設に反対する市民らを激励した。
 樹子さんは…市民らの歓迎を受けてマイクを握り、翁長知事との当選時の約束を披露した。『(夫は)何が何でも辺野古に基地は造らせない。万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している』と語り掛けると、市民からは拍手と歓声が沸き上がった。『まだまだ万策は尽きていない』とも付け加えた樹子さん。『世界の人も支援してくれている。これからも諦めず、心を一つに頑張ろう』と訴えた。座り込みにも参加し、市民らと握手をしながら現場の戦いにエールを送っていた。」

たとえ敗れても、県民とともに抵抗の姿勢を示そうという知事夫妻。県民世論からの絶大な支持を集めて当然であろう。県民世論だけでなく、国民全体の世論の支持も高まっている。政治的には、完全に国に勝っていると言ってよい。国が原告になって裁判に打って出たのは、傲慢なイジメの構図としか見えない。あとは、法廷での勝利を切に期待したい。

その知事が覚悟のほどを見せた法廷の模様は、本日各紙のトップを飾っている。
県と国の双方の主張を手際よくまとめた本日の東京新聞報道を引用したい。
「翁長氏は、住民を巻き込んだ沖縄戦や、米軍に土地を強制接収され、戦後七十年続く基地負担の実態を説明した。『政府は辺野古移設反対の民意にもかかわらず移設を強行している。米軍施政権下と何ら変わりない』と批判し『(争点は)承認取り消しの是非だけではない。日本に地方自治や民主主義はあるのか。沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常か。国民に問いたい』と訴えかけた。」

「国側は主張の要旨を読み上げ、まず『基地のありようにはさまざまな意見があるが、(法廷は)議論の場ではない』と指摘。『行政処分の安定性は保護する必要があり、例外的な場合しか取り消せない』と強調した。移設が実現しなければ普天間飛行場の危険性が除去されず、日米関係が崩壊しかねないなどの大きな不利益が生じるため、取り消しは違法と訴えた。」

朝日も同様に、県と国との主張を要約している。
「翁長氏は陳述で、琉球王国の時代からの歴史をひもとき、沖縄戦後に強制的に土地が奪われて米軍基地が建設された経緯を説明。『問われているのは、埋め立ての承認取り消しの是非だけではない』と指摘。『日本に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄県にのみ負担を強いる日米安保体制は正常と言えるのか。国民すべてに問いかけたい』と訴えた。」

「一方、原告の国は法務省の定塚誠訟務局長が出席し、『澄み切った法律論を議論すべきで、沖縄の基地のありようを議論すべきではない』などと主張。埋め立て承認などの行政処分は「例外的な場合を除いて取り消せない」とし、公共の福祉に照らして著しく不当である時に限って取り消せる、と述べた。」

各紙がほぼ同様の調子で、これに翁長意見陳述の全文を掲載している。「歴史的にも、現在においても、沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされてきた」として、「魂の飢餓感」を訴えた格調の高いものだ。だがなんとなく、原告国側が法的論点を絞り込み、被告県側は論点を拡散させて背景事情ばかりを述べている、そんな報道の雰囲気がなくもない。そのことが気になる。

しかし、その気がかりは不要なのだ。朝日が要約する訴状請求原因の骨子は以下のようなもの。
(1) 公有水面埋立法の埋め立て承認は、承認を受けた者に権利が生じる『受益的処分』だ。処分した行政庁が自らの違法や不当を認めて取り消すには、維持することが公共の福祉に照らして著しく不当だと認められるときに限られる。
(2) 取り消しによって普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になるなど計り知れない不利益が生じる。埋め立てによって辺野古地区の騒音被害や自然環境の破壊などが生じるが、その不利益は極めて小さい。
(3) そもそも承認に法的瑕疵はなく取り消せない。また、米軍施設の配置場所など国の存立や安全保障に関わる国の重要事項について、知事に適否を判断する権限はない。

えっ、これが「澄み切った法律論」? ちっとも澄み切ってはいない。公共性は我にあり、という濁りきった傲慢な姿勢。

こうした国側の主張に対し、県側は「『(埋立て承認を国が知事に求めた根拠の)公有水面埋立法には、国防に関する事業を除外する規定はない』とし、知事が埋め立て承認を審査するのは当然だと訴えた」(東京)。

実はここが重大だ。裁判所がこの争点をどうとらえるかで、訴訟の様相はがらりと変わる。そもそも日本国憲法の平和主義の理念からは、軍事や国防の「公共性」を認めることができない。国は、そのホンネにおいて、「県知事の公有水面埋立承認の取消処分」(要するに、辺野古新基地建設阻止)は、「国防上重大な利益を損なう」と主張しているのだ。しかし、憲法訴訟となることを避けて、あからさまにはホンネを語れない。慎重に「普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になる」としか言えない。

本来は、軍備による平和や、軍事同盟(安保条約)の公共性を問う議論に発展しうるこの訴訟。その点では、砂川事件と同質のものをもっているのだ。「澄み切った法律論」とは、9条や安保の論議を避けた法律論を指しているのだろう。その思惑のとおりとなるかどうか、予断を許さない。

また、沖縄県側は、けっして「魂の飢餓感」を中心に、「背景事情」ばかりを主張しているのではない。原告国の方から、「公共の福祉」論や利益・不利益の「衡量論」をもちだされたのだ。背景としての歴史的経過は単なる事情にとどまらない。小さくない法的な意味をもちうる。

さらに、県側の積極的な法的主張がある。東京新聞の要約では以下のとおり。
? 辺野古移設強行は自治権の侵害で違憲
? 埋め立て承認は環境への配慮が不十分で瑕疵がある
? 代執行は他に手段がない場合の措置で、国は一方で取り消し処分の効力を停止しているため、代執行手続きを取れない

いずれも重い論点だ。裁判所は真摯に向き合わねばならない。
?は、法が知事の権限としたものを、国が軽々に取り上げてよいのか。県民の圧倒的世論を無視しての辺野古建設強行が許されるのか、という問題。

?は、訴訟の中心となる争点だが、法は「都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」として「国土利用上適正且合理的ナルコト」「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」を挙げている。つまり、「環境保全等に十分配慮されたものであることが確認されるまでは、知事は許可(国に対する場合は「承認」という)してはならないのだ。

そして?。これが一番分かり易い。国が代執行という強権手段をとることができるのは、他にとるべき手段がない場合に限られる。知事が承認を取り消して、「工事を続行するためには、代執行を申し立てる以外に他の手段がない」ことが必要なのだ。ところが、国は行政不服審査法に基づく審査請求申立をし、お手盛りで執行停止まで実現してしまった。現に工事は続行している。結局は、「他に手段がない場合に限る」という要件を欠いている、という指摘なのだ。

これだけの争点があって、証人尋問なしで結論を出せるはずはなかろう。被告の言い分を汲んで、原告の請求を棄却あるいは却下する判決なら証人尋問なしで書ける。しかし、実のある判決を書くためには、証人調べは不可欠だろう。裁判所は、真摯に対応しなければならない。国民はこの訴訟を見守っているのだから。しかも、ぶれない知事と県民の気迫に、エールをおくりつつである。
(2015年12月3日・連続第976回)

スラップ訴訟とは何か。どうしたらスラップ訴訟を根絶できるか。ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第55弾

最近、「スラップ訴訟とは何でしょうか」「スラップの実害はどんなものなのでしょうか」「どうしたらスラップ訴訟を防止できると思いますか」などと、メデイアから聞かれるようになってきた。いくつかの原稿依頼もある。ようやくにして、スラップ訴訟の害悪が世に知られ、問題化してきたという実感がある。

☆スラップ訴訟とは何か
私はスラップ訴訟を、「政治的・経済的な強者による、目障りな運動や言論の弾圧あるいはその萎縮効果を狙っての不当な提訴」と定義している。スラップを、「運動弾圧型」と「言論抑制型」に分類することが有益だと思う。

「運動弾圧型」は政策や企業活動に反対する運動の中心人物を狙い撃ちする訴訟であり、「言論抑制型」は自分に対する批判を嫌忌しての高額損害賠償提訴。どちらも提訴を手段として、強者の意思を貫徹しようとするもの。いやがらせと恫喝、そして萎縮効果を狙う点で共通している。

かつて、同時代社出版の「武富士の闇」の記事が名誉と信用を毀損するとして武富士が訴えた。被告にされたのは、執筆担当の消費者弁護士3名と出版社。そのとき、私は被告代理人を買って出て筆頭代理人を務めた。当時、「スラップ訴訟」という言葉がなかった。あったのかも知れないが知られていなかった。この言葉が知られていれば、訴訟実務にも、世論の理解を得るためにも非常に有益だったと思う。同種訴訟が増えてきた現在、その概念の浸透のための努力が一層必要となってきている。

損害賠償請求の形態を取るスラップは、運動や言論への恫喝と萎縮効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。

DHC・吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起した。言論封殺を目的とした高額請求訴訟、これが言論抑圧型スラップの本質である。DHC・吉田は、同じ時期に、同じ「8億円授受問題」批判で、私の事件を含めて10件の同種事件を提訴している。莫大な訴訟費用・弁護士費用の支出をまったく問題にせずに、である。被告とされたのは、私のようなブロガーや評論家、出版社など。最低請求額は2000万円から最高は2億円の巨額である。

直接に口封じをねらわれ、応訴を余儀なくされたのはこの10件の被告である。しかし、恫喝の対象はこの被告らだけではない。広く社会に、「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と警告を発して、批判の言論についての萎縮効果を狙ったのである。

このような訴権の濫用には、歯止めが必要だ。この間、スラップの被害者の何人かの経験を直接に聞いた。皆が、高額請求訴訟の被告となる心理的な負担の大きさについて異口同音に語っている。高額請求訴訟の被告とされた者に、萎縮するなと言うのが無理な話なのだ。弁護士の私でさえ自分の体験を通じて、そのことがよく理解できる。

☆スラップを防止するために
かつて、司法制度改革審議会が司法制度改革を論議した際、民事訴訟に関しての最大の論争テーマとなったのが、弁護士費用の敗訴者負担問題だった。「紛争解決の費用は、有責者としての敗訴者が負担すべきだ」というシンプルな論理に、人権派は敢然と対抗し、「弱者の提訴を萎縮させてはならない」「司法本来の役割である、弱者の裁判利用にハードルを高くしてはならない」と論陣を張った。

弱者の側が提訴する訴訟は、消費者事件にせよ公害事件にせよ、あるいは医療過誤訴訟にせよ、勝訴確実とはいえないものが多い。敗訴の場合には、自分が依頼した弁護士の費用だけでなく相手方の弁護士費用までも負担させられるという制度では、弱者の提訴に萎縮効果がもたらされる。この制度が実現すれば、最も保護されるべき弱者の権利実現が妨げられることになる、と反対運動が盛りあがり、審議会の原案を葬った。

そのときには、強者や富者が民事訴訟制度を濫用することは考慮の内になかった。いま、スラップはまさしく強者や富者が訴権を濫用している。これには、歯止めが必要だが、敗訴の場合の弁護士費用を負担させることがその歯止めとして有効と考えられる。

アメリカ各州の制度とりわけカリフォルニアの反スラップ法を参考に「スラップの抗弁」の制度を考えたい。スラップ訴訟において、被告がこの提訴はスラップであると抗弁を提出すれば、裁判所は本案審理の進行を停止して、スラップに該当するか否かの判断に専念する。裁判所が、スラップの抗弁を認めれば、その効果の一つとして立証責任の転換が行われる。そして、もう一つの効果が、原告敗訴の場合には、原告は被告側の弁護士費用を支払わねばならないということにする。

この弁護士費用の負担額は、被告の現実の負担額である必要はない。政策的な配慮からもっと高額にすることが考えられる。スラップに限っての弁護士費用の敗訴者負担、それも懲罰的にすこぶる高額のという発想である。

また、制度の策定は先のこととして、当面最も現実的で必要な対応策は、一つ一つのスラップ訴訟を勝ちきって、原告にスラップの成功体験をさせないことである。このことを通じて、スラップに対する社会的非難の世論形成をはからねばならない。スラップという用語と概念を世に知らしめなければならない。スラップ提起を薄汚いこととする社会的な批判を常識として定着させることにより、スラップ提起者のイメージに傷がつき、会社であればブランドイメージや商品イメージが低下して、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することが重要だと思う。

そのためには、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げなければならない。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC・吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。

私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「最も幸福な被告」である。しかし、多くの場合、被告の受ける法的、財政的、精神的な負担ははかりしれない。ありがたいことに恵まれた立場にある私は、そうした被告の分まで、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならない。そう思っている。

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   12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。
恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
 午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月2日・連続第976回)

アベ政権の反知性主義に毒されてはならない

上村達男(元NHK経営委員)著の「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」(東洋経済新報社)が話題となっている。題名がよい。これに「法・ルール・規範なきガバナンスに支配される日本」という副題が付いている。帯には、「NHK経営委員長代行を務めた会社法の権威による、歴史的証言!」。著者は、人も知る「法・ルール・ガバナンス」のプロ中のプロ。その著者が、直接にはNHKのガバナンスについて報告しつつも、「規範なきガバナンスに支配される日本」を論じようというのだ。これは興味津々。

私はこの本をまだ読んでいない。11月29日(日)の赤旗と朝日の両書評を見た限りで触発されての本日のブログである。

NHKの反知性が話題になっているのは、およそ知性とかけ離れた会長のキャラクターによる。元NHKディレクターの戸崎賢二による赤旗の書評の表題が、「衝撃の告発 根源的な危機問う」と刺激的だ。NHK会長の反知性ぶりが並みではなく衝撃的だというのだ。その籾井勝人の「反知性」の言動を間近に見た著者の「衝撃の告発」「歴史的証言」にまず注目しなければならない。

「上村氏は2012年から3年間NHK経営委員を務め、籾井会長時代は経営委員長代行の職にあった。この時期に氏が体験した籾井会長の言動の記録は衝撃的である。自分に批判的な理事は更迭し、閑職に追いやる、気に入らないとすぐ怒鳴り出す、理事に対しても『お前なー』という言葉遣い、など、巨大組織のトップにふさわしい教養と知見が備わっていない人物像が描かれている。」

これは分かり易い。しかし、問題はその先にある。「反知性」の人物をNHKに送り込んだ「反知性主義者」の思惑が厳しく問われなければならない。
「著者は、こうした(籾井会長の)言動を『反知性主義』と断じているが、会長批判に終始しているわけではない。安倍政権が、謙抑的なシステムを破壊しながら、国民の反対を押し切って突き進む姿も『反知性主義』であり、政権のNHKへの介入の中で起こった会長問題もその表れであるという。」「NHK問題の底流には日本社会の根源的な危機が存在している、という主張に本書の視野の広さがある。」

朝日の方は、「著者に会いたい」というインタビュー記事。「揺らぐ『公正らしさ』への信頼」というタイトルでのものだが、さしたるインパクトはない。それでも、著者の次の指摘に目が留まった。

「公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。『健全な民主主義の発展』に支障が生じるのではないか、と懸念する。」

民主主義は「討議の政治」と位置づけられる。討議における各自の「意見」は各自が把握した「事実」に基づいて形成される。各自が「事実」とするものは、主としてメディアが提供する「情報」によって形づくられる。公共放送の使命を、国民の議論のよりどころとなる公正で正確な情報の提供と考えての上村発言である。

おそらく誰もが、「あのNHKに、何を今さら途方もない過大の期待」との感をもつだろう。政権と結びつき政権の御用放送の色濃い現実のNHKである。そのNHKに、「議論の基盤」としての公正な報道を期待しようというのだ。それを通じての「健全な民主主義の発展を」とまで。

一瞬馬鹿げた妄想と思い、直ぐに考え直した。反知性のNHKではなく、憲法の理念や放送法が想定する公共放送NHKとは、上村見解が示すとおりの役割を期待されたものではないか。その意味では、反知性主義に乗っ取られたNHKは、民主主義の危機の象徴でもあるのだ。到底このままでよいはずがない。

さて、「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」という問について考えたい。この書名を選んだ著者には、「乗っ取られた」という思いが強いのだろう。では、NHKは本来誰のもので、乗っ取ったのは誰なのだろうか。

公共放送たるNHKは、本来国民のものである。国家と対峙する意味での国民のものである以上、NHKは国家の介入を厳格に排した独立性を確立した存在でなくてはならない。しかし、安倍政権はその反知性主義の蛮勇をもってNHK支配を試みた。乱暴きわまりない手口で、まずは右翼アベトモ連中を経営委員会に順次送り込み、その上で反知性の象徴たる籾井勝人を会長として押し込んだ。NHK乗っ取り作戦である。

NHKを乗っ取った直接の加害者は、明らかに安倍政権である。解釈改憲を目指しての内閣法制局長人事乗っ取りとまったく同じ手法。そして、乗っ取られた被害者が国民である。政権が、反知性主義の立場から反知性の権化たる人物を会長に送り込む人事を通じて、国民からNHKを乗っ取った。一応、そのような図式を描くことができよう。

しかし、安倍政権はどうしてこんなだいそれたことができてしまうのか。政権を支えているのは、けっして極右勢力や軍国主義者ばかりではない。小選挙区制というマジックはあるにせよ、政権が比較多数の国民に支えられていることは否定し得ない。自・公に投票しなかった国民も、この間の政権によるNHK会長人事を傍観することで、消極的あるいは間接的に乗っ取りに加担したと言えなくもない。

とすれば、国民が国民からNHKを乗っ取ったことになる。加害者も被害者も国民という奇妙な図。両者は同一の「国民」なのか、それとも異なる国民なのか。

「反知性主義」とは、国民の知的成熟を憎悪し、無知・無関心を歓迎する政権の姿勢である。自らものを考えようとしない統治しやすい国民を意識的にはぐくみ利用しようという政権の思惑といってもよい。反知性主義者安倍晋三がNHKに送り込んだ反知性の権化は、政権の意を体して「政府が右を向けというからいつまでも右」という報道姿勢をとり続けている。今のところ、反知性主義者の思惑のとおりではないか。

ヒトラー・ナチス政権も旧天皇制政府も、実は「反知性の国民」からの熱狂的な支持によって存立し行動しえたのだ。国民は被害者であるとともに、加害者・共犯者でもあるという側面を否定できない。再びの過ちを繰り返してはならない。反知性主義に毒されてはならず、反知性に負けてはならない。

厚顔と蛮勇の前に知性は脆弱である。が、必ずしも厚顔と蛮勇に直接対峙しなければならないことはない。大きな声を出す必要もない。心の内だけででも、政権の不当を記憶に刻んで忘れないとすることで対抗できるのだ。ただ粘り強さだけは必要である。少なくとも、反知性の徒となって、安倍政権を支える愚行に加わってはならない。それは、いつか、自らが悲惨な被害者に転落する道に通じているのだから。
(2015年12月1日・連続第975回)

「戦争は平和」「自由は隷従」「無知は力」ーアベ反知性政権スローガン

一昨日の土曜日(11月28日)に、明治大学の集会で西川伸一さん(政治学・明大政経学部教授)のレポートを聞いた。レポートというよりはレクチャーを受けた印象。「『安保法制=戦争法』の採決は正当に行われたのか? メディア報道の在り方を問う」というタイトル。これが滅法面白かった。これに続いて、私も「採決の不存在」について法的視点からのレポートをしたのだが、こちらは面白い報告とはならなくて残念。

西川さんのレポートは、事実にまつわる「記憶」と「記録」の関係についてのもの。民主主義社会における討議の前提となる事実は、「記録」によって確認するしかない。正確な「記録」こそが民主主義成立の前提として重要であることを公文書管理法などを引用して強調し、最後は「記憶に頼るな、記録に残せ」という野村克也(生涯一捕手)の言葉で締めくくられた。

その重要な「記録」が、今回の戦争法案審議ではいかに杜撰な扱いをされたか。参議院規則に照らしていかに大きな違反をし、ねじ曲げられたか。具体的で興味深いレクチャーとなった。

最も印象的だったのは、記録の改ざんをジョージ・オーウェル「1984年」の次の一文を引いて批判したこと。
「すべての記録が同じ作り話を記すことになればーーその嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンはいう。『過去をコントロールするものは、未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする』と」

西川さんのレクチャーの導入は、「1984年」の「真理省」のスローガンの紹介から。記憶を正確に記録しようとしない安倍政権とその膝下の議会とを「真理省的状況」と憂いてのことである。

「真理省」のスローガンを想い起こそう(高橋和久訳)。
 戦争は平和なり
 自由は隷従なり
 無知は力なり

この3つのスローガンの解釈はいく通りにも可能だろう。
全体主義が完成した社会における支配者にとっては、矛盾した命題を何の疑問を提示することなく、素直に受容する国民の精神構造こそが不可欠なのだ。このスローガンは、そのような国民意識の操作道具として読むことができるだろう。その点では、旧天皇制政府やナチスのスローガンと酷似している。

もう少し、意味のあるものとしても理解できそうだ。
「戦争は平和なり」とは、あまりにも長く継続する戦争を国民に納得させるためのスローガンと読むことができる。「戦争に慣れよ。慣れ切ってしまえば、これが正常な事態で、平和と変わらない平穏な状態なのだ。戦争継続のこの状態こそを日常であり平和であると受容せよ」という思考回路の押しつけ。

「自由は隷従なり」も同様。国民が権力に抵抗するから弾圧を受けて自由でないと感じることになるのだ。国民が自由でありたいと願うなら、権力に自発的に隷従する精神を形成すればよい。そうすれば、隷従することこそ自由であって、自由は隷従となる。

「無知は力なり」は分かり易い。なまじ国民個人が知をもてば、主体を確立した個人が形成される。そうすれば、権力を批判することにもなる。それは国家の力を弱めることにほかならない。国家が欲するものは無条件に絶対服従する国民であって、それこそがつよい国家形成の礎なのだ。

一般論を離れて、この3本のスローガン。まさしく、非立憲・反知性アベ政権のスローガンそのものではないか。

「戦争は平和なり」とは、アベ政権の積極的平和主義のことである。
消極的に平和を望むことでは平和は実現できない。平和の実現のためには武力による抑止力が必要であり、その武力は想定される敵国を制圧するに足りる強力なものでなくては役立たない。しかも、抑止力としての武力は保持しているだけでは不十分。武力による威嚇も武力の行使も辞さない姿勢あって初めて平和のための抑止力となる。いや、戦争を辞さない覚悟があって、初めて平和が実現する。だから、我が国は平和の実現のための戦争をいとわない。戦争こそ平和のためのために必要なのだ。これが、積極的平和主義の真骨頂。

「自由は隷従なり」における自由の一は、権力からの自由。自由の要諦は徹底して権力に隷従することである。「日の丸・君が代」を内心において受容せよ。さすれば、その内心に従って起立し斉唱する自由が認められているではないか。なまじ権力に抵抗する精神をもつものだから、沖縄県や名護市やその支援者の如く、自由ではいられないのだ。仮にの話しだが、「久辺三区」が隷従すれば、ムチではなくアメにありつく自由を獲得することになるのだ。

もう一つの自由は、資本からの自由。企業には世界一の経営環境を確保するのが、政権の方針。実質的に企業の側には、解雇の自由も、雇い止めの自由も、サービス残業を命じる自由も保障する。ひるがえって、労働者の権利は可及的に切り捨てる。労働者の人間性の確保や労働条件の改善などを求める自由は、企業に隷従する者についてだけ、隷従の範囲において認められる。

そして、何よりも「無知は力なり」である。現政権・与党の開き直った反知性主義を象徴するスローガン。無知蒙昧で自主性自立性を欠いた操縦しやすい国民の育成こそが政権の大方針。「国民の無知」が政権の支えであり「国家の力」の源泉なのだ。このアベ政権の大方針は、教育政策とメディア政策に反映している。

小学校から大学まで、自分の頭で批判的にものを考えようとしない国民をどう作り上げるか。これが教育政策の根幹である。政府批判の世論を押さえ込む報道の姿勢をどう作り上げるか、これがメデイア政策の根幹である。教育基本法の改悪から、教育委員会制度改悪、大学の自治への介入、教科書採択介入や道徳教育の強行まで、教育政策全般が「無知は力なり」の大原則に則って進められている。そして、メディア対策の基本は、特定秘密保護法の制定とNHKの政権支配とによく表れている。

そのアベ政権の支持率が今、持ち直しているという。「無知は力なり」「自由は隷従なり」を支える国民が一定程度存在する現実があるのだ。無念の気持で、ジョージ・オーエルの慧眼と警鐘にあらためて敬意を表しなければならない。嗚呼。
(2015年11月30日・連続第974回)

「岸井成格」に声援を送る。TBSは不当な圧力に屈するな。

「札付き」という言葉がある。「折り紙付き」の「折り紙」とはちがう、よからぬ「札」が付いている連中のこと。その札付き連中が、TBSの看板番組『NEWS 23』でアンカーを務めている岸井成格を攻撃している。これは看過できない。この攻撃を成功させてはならない。

私は本日の赤旗「潮流」で初めて知った。11月14日産経と翌15日読売に、「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した異様な全面意見広告が掲載されている。岸井成格を攻撃して、その報道姿勢を変えようというのだ。その攻撃の理由が、「番組で岸井氏が『メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ』と発言したのは、放送法4条『政治的公平』に違反すると言うのです」。この真っ当な発言が攻撃対象とされているとは穏やかでない。戦戦争法廃止運動をつぶそうという動きの一環だ。舞台は国会の場から、平和と戦争をテーマとしたメディアの自由をめぐる論争に移された。

この異様な広告の「広告主は“視聴者の会”なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常です」

この7人とは、以下のとおり。
 すぎやまこういち/代表(作曲家)
 渡部昇一(上智大学名誉教授)
 渡辺利夫(拓殖大学総長)
 鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)
 ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)
 上念司(経済評論家)
 小川榮太郎(文芸評論家)

この7人に付いているのは、「極右」という札だけではなく、「安倍応援団」という札だ。代表となっている、すぎやまこういち(作曲家)とは、安倍晋三の政治団体である晋和会に毎年150万円の法が許容する最高額を寄附し続けている人物。安倍晋三に、「我々日本人が直面している難局を乗り切るリーダーは安倍晋三氏しか考えられません。私達の子孫にこの素晴らしい日本国をしっかりと残して行く責任は重大です。音楽家のひとりとしても、氏の“美しい国を目指す”という宣言にも感動しております」とエールを送ってもいる。

この「安倍応援団」の札付きが、あからさまに「メデイアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という岸井の発言を攻撃のターゲットに定めている。ここが問題の核心だ。

政権と与党には目の上のコブの反戦争法(案)運動の盛り上がり。できることなら、これを弾圧し制圧したいところだが、民衆の反作用も恐ろしい。官邸や自民党が前面には出にくいところ。そこで、官邸主導で使いっ走りを集めたか、パシリの方からその役目を買って出たか、あるいはアウンの呼吸でのことであったか、その辺は定かでない。定かではないものの、官邸の言いたいこと、やりたいことを、この札付き連中が代わってやっているのだ。権力に奉仕の重宝なパシリたち。

いま、TBSという有力な電波メディアの表現の自由が攻撃を受けている。攻撃の尖兵になっているのは社会的勢力としての右翼だが、その背後には明らかにアベ政権の存在がある。さらに重大なことは、攻撃の対象とされているものが、けっしてTBS一社ではなく、我が国の表現の自由そのものであることだ。平和・戦争・安全保障・立憲主義等々のシビアなテーマにおいて、時の政権に批判の立場の言論は許さない、というシグナルが送られているのだ。事態は深刻である。

表現の自由とは、何よりも権力に対峙するものとしてその存在が保障されなければならない。権力を賛美し同調し、あるいは迎合する表現や言論に権力による制約はあり得ない。だからその自由や権利性を論じる意味はない。意味があるのは権力を批判し、権力を攻撃することによって、権力から憎まれる表現についての自由や権利だけである。

すぎやまこういち以下「権力の手先7人衆」が求めているものは、偏向のレッテルを貼り付けることでの、政権批判の自重・自制・自粛にほかならない。この攻撃に屈して、TBSに萎縮があってはならない。そのようなことがないように、全メディアが、いま、こぞって岸井成格とTBSを擁護し支援しなければならない。むしろ、局・各メディアが、より政権批判を強めることで、「権力の手先7人衆」とその背後の政権の意図を挫かなければならない。

読売と産経も同様だ。広告料収入に頬を緩めて傍観していたのでは、明日は我が身のこととなりかねないのだから。
(2015年11月29日・連続第973回)

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