当ブログでの記述が名誉毀損とされ、私を被告として6000万円の損害賠償請求がなされている。これが、「DHCスラップ訴訟」。
本年9月2日、その一審判決の言い渡しがあって、請求は全部棄却された。被告の私が勝訴し、原告のDHC吉田は完敗となった。DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。控訴審の事件番号は平成27年(ネ)第5147号。
その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時に指定された。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。地裁庁舎と同じ建物の上階8階に法廷がある。なんの手続も不要で傍聴が可能だ。ぜひ傍聴にお越し願いたい。表現の自由をめぐる闘いの現場で訴訟の推移を見守っていただきたい。表現の自由を守ろうとする被控訴人側の弁護団に心の内での声援をお願いしたいし、DHC・吉田側で代理人として出廷する弁護士の顔などをよく見てやってもいただきたい。
恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
被控訴人弁護団の会議では、この口頭弁論期日で結審を求める方針。一回結審で来春に判決期日を迎えるということになるだろう。たった一回の口頭弁論期日である。この貴重な機会に、光前弁護団長と被控訴人本人の私の二人が法廷意見陳述ができるよう裁判所に要請している。支援の傍聴が満席であれば、心強いことこの上ない。
「DHCスラップ訴訟」とは、DHC(会長吉田嘉明)によるスラップ訴訟である。DHCは、サプリメント・化粧品販売の大手企業。その企業とそのオーナー会長である吉田嘉明の両者が、私の言論を封じようとして訴訟を提起している。提訴の狙いは、単に私の言論を封じることだけにあるのではない。むしろ、私を被告に訴訟の脅しをかけることで、社会全体に「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と恫喝して萎縮の効果を狙っているのだ。このような提訴をスラップ訴訟という。はからずも私は、典型的なスラップ訴訟の被告とされた。
スラップというこの言葉が、少しずつ社会に認知され浸透されてきた。このような形での訴権の行使は、形式的には裁判を利用する国民の権利の行使だが、実質において法が想定している権利擁護のための提訴ではなく、濫用として違法なものではないのか。金持ちが、カネに飽かせて汚いことをやる、というイメージも次第に形成されつつある。
「スラップ」という言葉の存在が有益だ。DHCがやっているこの訴訟を「スラップ」と呼称することによって、その表現の自由に対する挑戦としての性格と狙いを的確に伝えることができる。そして、スラップと言えばDHCであり、DHCといえばスラップなのだ。何ゆえ企業イメージをかくも貶める愚策を採ったのか理解に苦しむところだが、企業体質が冷静に衆知を集めるという作用機序の働く余地がないのだろうと考えざるをえない。
「スラップ訴訟」とは、「自分に不都合な言論を妨害し萎縮させることを狙った訴訟」と定義して差し支えない。ここで「妨害の対象となる言論」は、一般人の政治的・社会的強者に対する言論が想定されている。政権批判、政治家批判、政策批判、大企業批判、有産者批判、社会的影響力を行使しうる立場にある者への批判、そして政治と金にまつわる厳格な批判である。
無色の抽象的な言論一般は現実には存在しない。現実に存在する言論は、具体的な対象と内容とをもっている。表現の自由として保障(憲法21条)を受けるべきは言論一般ではなく、この世の政治的社会的強者を批判する具体的言論である。スラップ訴訟が嫌悪し封殺の対象とする言論は、このような政治的社会的強者に対する批判の言論にほかならない。したがって、スラップ訴訟の主体は、必然的に政治的権力か、社会的権力そのものである。
当然のことながら、表現の自由は無制限ではあり得ない。その表現が社会的な影響力を持つ以上は、誰かの名誉や信用、名誉感情を必ず侵害する。誰の権利も侵害しない表現について権利性を論じる実益はなく、表現の自由とは侵害される他者の権利を想定したうえでの、表現者の権利の原則的優越を宣言したものである。それでもなお、表現による被侵害権利を無視してよいことにはならない。
問題は、批判の言論の自由と、その言論によって侵害される批判対象の人格的利益との、二つの法的価値の調整である。言論の自由に原則的優越が認められるとしても、それは当該言論の社会的有益性を前提とする。もっぱら他人の人格的利益を侵害するだけの言論に、自由も権利も論じる必要はない。
この調整原理は、シチュエーションによって変わってくる。言論のテーマと、言論が批判の対象とする人の属性が、基本的なファクターと言うべきであろう。当該言論の影響力を加味してもよいかも知れない。
市井のできごとをテーマに、一般人を批判する言論には、相手を傷つけないような相応の配慮が必要である。そのような言論を格別に権利として保障をすべき必要は乏しい。さらに、匿名の「ネトウヨ言論」やヘイトスピーチのごとき弱者に対する差別的言論からは、原則的に権利性を剥ぎ取ってしかるべきである。
しかし、政治的テーマや社会的なテーマに関して、政治権力や社会的権力を持つ者に対する批判の言論は、最大限に保障されなければならない。それこそが、憲法21条「表現の自由」の真骨頂である。そして、この真骨頂としての表現の自由に、真っ向から挑戦するものが、スラップ訴訟なのである。
いま、スラップに対応策が考えられ始めているが、緊急に制度的な対応策の策定はなかなかに難しい。最も現実的な対応策は、スラップに対する社会的非難の世論形成である。スラップ提起を汚いことという社会的な批判を定着させることにより、スラップ訴訟提起者のイメージに傷がつき、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することである。
その場合、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げることが重要である。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。
そのような責務に照らして、私のブログはどうか。私の批判はまだ足りない、生温い。質的にも量的にも、もっと批判を徹底し、もっと多くの人々にDHCと吉田嘉明の不当・違法を知ってもらい、天下に周知させなければならない。世の中の隅々にまで、「DHCといえば、あのスラップ訴訟の常習者」という常識を広げたい。連想ゲームで、「DHC」といえば、条件反射的にまずは「スラップ」と言わしめなければならない。続いて、「巨額政治資金提供」「裏金」「スラップ」「言論封殺」「厚生行政規制も消費者行政規制大嫌い」「社会的規制の緩和」「敗訴に次ぐ敗訴」などと誰もが口を突いて負のイメージの言葉を発するまでにさせたい。「スラップ訴訟とは天に唾するもの、結局は自らに報いを招くもの」と身に沁みさせて、今後の戒めになるようにである。
だから私は、経過を詳細に当ブログで報告して、多くの人に知ってもらい、言論弾圧の一手段たるスラップ訴訟に対する闘いの一典型を示そうとしている。何よりも、DHC吉田のごときスラップ提訴の常習者に対しても批判の言論の萎縮があってはならないことを示さなければならない。そして、社会悪としてのスラップ訴訟をどうしたらなくすることができるのか、スラップ訴訟提起者や加担者の責任と制裁はどうあるべきか考えていただくよう、問題提起し材料を提供しなければならない。
当ブログに掲載すべきテーマは種々あるが、何よりも「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズの充実が第一である。
(2015年11月25日・連続第969回)
「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)は、本日ホームページを正式に起ち上げ、活動を開始した。
下記URLを開いてご覧いただきたい。
http://rakusen-sien.com/
その運動の趣旨とご協力を依頼する呼びかけ文は以下のとおり。
2015年9月19日、安倍内閣は安保関連2法を強行採決により「成立」させました。日本国憲法の平和主義を直接に蹂躙するだけでなく、立憲主義や民主主義をも破壊する立法であります。
この法案に反対する国民運動は大きな高揚と広がりを見せましたが、結局のところ国会議員の数の力で衆参両院において賛成多数で「可決」されました。この運動の中から、安保法制賛成議員を落選させようとの声がおこりました。
私たちも、立憲主義、民主主義に違反した議員はそれ自体で国会議員としても失格であると同時に今後の国政に関与することは有害であると考えます。
そこで、この法律に賛成票を投じた議員を次の選挙では落選させようという運動を支援するために「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)を立ち上げます。
この会の具体的な当面の活動は
?落選対象議員の収支報告書などが総務省や都道府県の選管で公開されているのを一元管理するサイトを立ち上げ、広く有権者が閲覧できるHPを立ち上げることにあります。当面は2016年7月参議院選挙の「選挙区」議員の42名に絞っています。比例区の安保法制賛成議員についても順次公開していきたいと思います。
?上記の落選対象議員の収支報告書の調査の過程で、不透明な収入や支出があれば、その情報をHPに公開していきます。もし法に違反する場合は刑事告発等の法的手続を会のメンバーや市民と共同で行うこともあり得ます。
?落選対象議員の情報の提供を広く市民に呼びかけ、調査の上で問題事例があれば、HPに公表するとか、公開質問状を出すとか、又は市民が告発などを行うことを支援したりします。
?市民の落選運動の中で具体的な問題が生じたときには法的なアドバイスやサポートをすることも検討中です。
?この会は安保法制に賛成議員の落選運動のみに関与し、特定の政党、特定の候補者などの支援、選挙活動を行うことは一切ありません。
ぜひ皆さま、積極的にご参加くださるようお願いします。
公職選挙法の選挙運動と誤解されないために、賛同者の中で、特定の政党や特定の候補者、野党統一候補者が決まった時に支援、選挙活動を予定されている方はせっかくですが、ご遠慮されたくお願いします。
この会に賛同される方は
弁護士の方は、氏名、期 所属会 事務所、メールアドレス、選挙権がある地区
研究者の方は、氏名、所属大学、メールアドレス、選挙権がある地区
お書き下さり、呼びかけ人にご連絡下さい。
なお、賛同者が一定の人数に達したときは氏名はこの会のHPに公表することを予定しています。賛同するが氏名の公表が不味い方も参加歓迎です。
2015年11月
呼びかけ人
阪口徳雄(大阪弁護士会)・澤藤統一郎・梓澤和幸・(以上東京弁護士会)
郷路征記(札幌弁護士会)
上脇博之(神戸学院大学法学部教授)
そして本日、告発第1号事件として、カレンダー配布で有名になった、島尻安伊子議員(沖縄県選挙区)を那覇地検に告発した。
告発状は下記URLをご覧いただきたい。
http://rakusen-sien.com/topics/2982.html
告発理由は以下のとおりである。
第1 安保法制に賛成した議員であること(立憲主義を理解していないこと、その反省もないので今後も同様に憲法に違反する可能性が高く今後の日本の政治にとって有害であること)
第2 2010年7月の参議院選挙に際して普天間基地などを国外移転と公約に掲げながら、自民党の石破幹事長から詰められ、公約を踏みにじり国内移転に転換したこと(公約を破る議員は国会議員として失格であること)
第3 政治とカネについて告発状の通り「違法」「不透明」であること
さて、当面の落選運動ターゲットは下記の42名である。サイトでは、次のとおり指摘している。
憲法の最高法規性を否定する安保法制に賛成し、民主主義、立憲主義を蹂躙した国会議員はそれだけで議員として失格で今後の政治家としても有害です。当面は2016年7月の参議院議員選挙における「選挙区」更には「比例区」議員の情報を集め、順次このサイトに掲載予定です。多くの情報の提供を呼びかけます。
北海道 長谷川岳
青森 山崎力
宮城 熊谷大
秋田 石井浩郎
山形 岸宏一
福島 岩城光英
茨城 岡田広
栃木 上野通子
群馬 中曽根弘文
埼玉 関口昌一
西田実仁
千葉 猪口邦子
東京 竹谷とし子
中川雅治
松田公太
神奈川 小泉昭男
新潟 中原八一
富山 野上浩太郎
石川 岡田直樹
長野 若林健太
岐阜 渡辺猛之
静岡 岩井茂樹
愛知 藤川政人
京都 二之湯智
大阪 北川イッセイ
石川博宗
兵庫 末松信介
和歌山 鶴保庸介
鳥取 浜田和幸
島根 青木一彦
岡山 小野田紀美
広島 宮澤洋一
山口 江島潔
徳島 中西祐介
香川 磯崎任彦
愛媛 山本順三
福岡 大家敏志
佐賀 福岡資麿
長崎 金子原二郎
熊本 松村祥史
鹿児島 野村哲郎
沖縄 島尻安伊子
下記のURLを開いていただきたい。
http://rakusen-sien.com/rakusengiin
上記の落選運動対象議員関係団体の政治資金収支報告書がすべて分かるようになっている。公開資料だが、これが武器だ。それぞれの報告書をよくよくお読みいただきたい。その上で、「これはおかしい」という情報を会までご連絡いただきたい。会への連絡方法はサイトに掲載してある。
憲法と民主主義と平和をないがしろにする候補者を、主権者の手で落選させよう。
選挙運動の自由を制限すること厳しい「べからず公職選挙法」も、落選運動を規制対象とはしていない。すばらしい理念に基づいた、すばらしい運動ではないか。
われわれに権力はない。しかし、法を味方につけることは可能だ。情報を寄せ合い、落選運動対象議員の違法を告発し、告発を通して世論を喚起し、本気になって反憲法、反民主主義、そして反平和の候補者を落選させ国会から一掃しよう。
(2015年11月24日・連続第968回)
毎日新聞に毎日掲載の「仲畑流万能川柳」欄。時事ネタ・政治ネタは必ずしも、この川柳欄の得意分野ではないが、世事万端に多様多彩、眺めて楽しいし感心すること頻り。高踏趣味でなく庶民の目線であることが誇らしげである。毎日18句掲載のうち1句を秀逸句として筆頭に挙げるが、「秀逸」句の選定にはおそらく誰も得心しない。ということは、厖大な没句の中に、多くの秀句が隠れているのだろう。この点、人生模様と変わらない。
句の感想や解説など野暮は承知で、11月19日から本日(23日)まで最近5日の掲載句から、各日1句を牽強付会に引用して紹介する。はからずも、常連ばかりの作となった。
19日 絶対に票入れぬよう名をメモる 愛知 舞蹴釈尊
これは、落選運動支援句である。戦争法に賛成し、我が国の立憲主義・民主主義・平和主義をないがしろにした、自民・公明両党を中心とする国会議員を落選させなければならない。安倍政権との親密さを隠さず改憲勢力の一端をなす大阪維新の候補者も「絶対に票入れぬよう、名をメモって」おかなければならない。
「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する・弁護士・研究者の会」(略称 落選運動を支援する会)は、満を持して明日(11月24日)活動を開始する。ホームページも正式に起ち上がる。もちろん、落選運動対象議員を具体的に特定して、「絶対に票入れぬよう」呼びかける。票入れぬよう呼びかけるだけでなく、それぞれの予定候補者について、徹底した「身体検査」の実施に参加するよう呼びかける。違法を確認できたものから、順次告発を続けていく。
ぜひご注目いただきたいし、積極的に運動にご参加いただきたい。最低限、票を入れてはならない議員・候補者を、会のホームページからメモしていただきたい。そして、大いに拡散していただきたい。
20日 見るからに社会の縮図組体操 和歌山 破夢劣徒
運動会での組み体操は、昔もあった。が、規模は小さいもので、崩れることは滅多になく、仮に崩れたところで、やり直せば済むだけのものだった。それが今組み体操は、観客からの見映えよろしき大規模なものに進化し、それ故に危険なものになっているという。この句は、これを「社会の縮図」と着眼している。
段数を増し規模を拡大することによって、下層にあって上層を支える者の重圧は増すことになる。上層に位置する者は高みにあって安定感に乏しく、落下したときの被害は大きくなる。何よりも組み体操全体が、規模の拡大に伴ってリスクも増大する。崩壊の危険が増し、崩壊時のダメージが修復不能なものとなる。これこそ、社会の縮図ではないか。言い得てまことに妙である。
21日 抑止力最後は核に辿りつく 矢板 次男坊
この句は限りなく替句の応用範囲が広い。抑止力というものの本質が、実にファジーだからなのだ。
抑止力最後は憎悪に辿りつく
抑止力最後は増税に辿りつく
抑止力最後は徴兵に辿りつく
抑止力最後は国家総動員に辿りつく
抑止力最後は密告社会に辿りつく
抑止力最後はファシズムに辿りつく
抑止力最後は戦争に辿りつく
抑止力はなから戦争狙ってる
22日 桃太郎鬼のいる島侵略し 取手 崩彦
桃の実伝承はともかく、鬼ヶ島征伐説話は戦前日本の対外進出と符節を合わせたものなのだろう。1930(昭和5)年初版発行の柳田国男「日本の昔話」(108話)の中には桃太郎話しは採話されていない。昔から不思議に思っていた。鬼はどんな悪事を働いたというのだろうか。鬼の宝物を奪ってくれば、明らかに強盗ではないか。桃太郎が押し入ったのは、本当に「鬼」の住む島だったのだろうか。
川柳子は、桃太郎一味を一国になぞらえて「侵略」と喝破した。軍事大国とその目下の同盟国による、集団的自衛権行使を名目とする侵略行為。その侵略行為が、侵略する側の国民には、童話や説話として抵抗感なく子どもたちにも語られるのだ。鬼の子どもたちには、恐るべき侵略者へのジハードが語られているかも知れない。
23日 経験が邪魔な上司と足りぬ部下 八尾 立地Z骨炎
本日の秀逸句である。面白い句であるような、ないような。
作者は常連中の常連。大阪府八尾の人。大阪なればのパロディいくつか。
経験が邪魔な橋下と足りぬ吉村
経験が邪魔な維新の衣替え
大阪人欺される経験まだ足りぬ
経験が邪魔して進まぬ都構想
(2015年11月23日・連続967回)
借り物でない、自分の言葉を語れる人は少ない。実体験から滲み出た、そのような人の言葉は重く、聞く人の心に響く。張本勲の言葉などはその実例であろう。
彼の本名は張勲(チャン・フン)、在日2世である。幼少の大火傷と右手の後遺症、被爆体験、父の死と貧困、そして差別。それを乗り越える原動力となった家族愛、あまりに重い体験の数々。
その人が、昨日(11月21日)の毎日夕刊「レジェンドインタビュー」で、実に率直にこう語っている。
「野球で有名になろうというのには、二つ大きな目的があった。一つはおいしいものを腹いっぱい食べたい。もう一つは、お袋をトタン屋根の6畳一間から連れ出して、小さな家でも作ってあげたい。僕はお袋の寝た顔を見たことがないんだ。朝早く起きて、夜遅くまで働いているから。お袋を楽にしたいと思えば、人の2倍、3倍、練習せざるを得ない。」
また、やはり毎日新聞の「夕刊ワイド」(2015年5月)でこうも語っていた。
「私が野球を通して学んだのは『いい時ほど自分を疑え』です。
今日、ホームランも打ったとなれば、誰だって有頂天になる。だが、ちょっと待てよ。たまたま打てただけで明日は分からない、と自分を疑うから、私は人より努力しないとダメだと思っていた。人間、誰でも間違いますから。自分を疑うくらいでちょうど良いんです。最近は、自分を疑うことのできない人が増えているように感じます。」
「(インタビュアー)最近の政治家などもそうですね。
その政治家を選んだのは有権者ですから。自分の選択が本当に正しいのか、疑う必要がありますね。政治家といえば国を左右する船頭です。それなのに、『テレビで見たことがある有名人だから』などの理由で投票する人がいる。政治家が国会で歌を歌うんですか? 野球するんですか? 有名人を政治家に選ばないでください。この国をダメにする。選挙は、政治をちゃんと学んだ人を選ばないと。」
「私は広島生まれの広島育ちです。韓国籍ですが、外国人だというような感覚は一切ありません。僕はね、もう、モンゴルあたりから日本まで全部同じ民族だと思っているんです。日本は島国だし、多くの人はどこかしら『渡来人』です。だから日本人を語る時、私は同じ日本人の立場で語っているつもりです。」
私が膝を打ったのは、昨日のインタビューでの次の彼の言葉。
「例えば戦争ね。(戦没者は)犠牲者じゃない、身代わりなんだよ。たまたま(原爆の落ちた)長崎におった、広島におった。私たちの身代わりになってくれたんだ。それでこんな裕福な国になったと思えばね、後ろめたいことはできませんよ。」
彼は、原爆で姉を失っている。自身も被爆者健康手帳を持つ身。「身代わり」という言葉には、実感がこもっている。彼のいう「戦没者は、生き残った者の身代わり」という表現と感覚。実に的確でよく分かる。
戦没者の死をどう見るか。対極的な二つの立論がある。一つは「国の礎」論であり、もう一つは「犬死」論である。
「国の礎」論は、「戦没者の尊い犠牲の上に、今日の我が国の平和と繁栄があります。その国の礎となられた御霊に心からの感謝と尊崇の誠をささげます」、あるいは「先の大戦では、多くの方々が、祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後遠い異国の地に亡くなられました。この尊い犠牲の上に、今日の平和は成り立っていることに思いを致し、衷心からの感謝と敬意を捧げます」などという、政府定番の言い廻し。軍人軍属については「英霊」と置き換えられる。遺族会は「国の礎となられた英霊」という言葉遣いをしている。
要するに、戦死戦没の美化であり、戦没者への賛美である。もちろん、戦没者や遺族の心情に思いやらぬ者はない。だから、「戦没者は国の礎である」とか、「靖国には英霊が祀られている」などという言い方に、表立っては反対しにくい。
その反対しにくいところを、敢えてズバリと「侵略戦争での侵略軍側の死は無意味な犬死以外の何ものでもない」「戦没者は、天皇制日本に殺されたのだ」と、言い切るのが、「犬死」論である。そして、「戦没死の無意味さを美化することなく認めるところが、反戦平和の思想の立脚点でなければならない」「犬死にをもたらす戦争を再び繰り返してはならない」と論理は明快である。
私は、けっして「国の礎論」「英霊論」には立たない。基本的には「犬死」論の立場だが、戦死を「犬死」と言いきることにためらいを感じる。この微妙な問題で遺族の心情に配慮しなければならないという戦術的配慮としてではなく、犬死論には、決定的な何かが欠けているという感覚を捨てきれないのだ。
戦争の惨禍の上に、ようやく我が国が神権天皇制から脱却し得た。はじめて、理性にもとづく国家の建設が可能となった。将兵が、君のため国のために勇敢に闘ったからではく、厖大な個別の戦死の積み重ねによって敗戦にいたって、敗戦がこの国を真っ当な国としたのだ。そう考えるときの戦没者の死は、犬死にと呼ぶべきなのだろうか。
その二論の中間に、張本の言う「身代わり」論は位置する。
彼が、「(戦没者は)犠牲者じゃない」とつよく否定するのは、国策遂行過程での犠牲者としての英雄視や顕彰への違和感からだろう。また、それを通じての戦争への批判封じを警戒しているものと理解したい。「国のために犠牲になられた立派な方への批判は許せない」「むしろ国の礎を築いた方として感謝申し上げなければならない」。そのような戦没者観は、あの戦争の性格を侵略戦争とは認めがたいし、皇軍の蛮行の批判を許さないことにもなる。
戦没者を国との関係での犠牲と理解するのではなく、「死者は生者の身代わりとなった」と戦没者を自分との関係で考えることに積極的な意味があるのではないだろうか。自分の身代わりとしての戦没者の死は、自ずから自分の死と置き換えて考えることにつながる。自分の問題として、「あんな戦争で死んでもよいのか」と考えることにもなる。けっして戦争を美化することなく、「戦没者の死を我がこととして悼む」ことも、「死を無駄にしない社会を作ろうと決意をする」ことにもつながることになるだろう。
それが、張本自身の「(戦争を生き延びた者は、身代わりとなって亡くなった戦没者に)後ろめたいことはできませんよ。」という言葉になっている。そのように理解して、噛みしめたいと思う。
(2015年11月22日・連続966回)
「疾風に勁草を知る」という。
風が疾い時にこそ勁い草の一本でありたい、強くそう思う。
戦争が近づいてくるほどに、声高く平和を叫ばなければならない。ナショナリズムが世を席巻するときにこそ、近隣諸国との友好を深めねばならない。憲法が攻撃されているときにこそ、これを擁護しなければならない。「テロを許すな」「テロと戦え」の声が満ちているいまであればこそ、自由や人権の価値を頑固に主張し続けねばならない。この事態に乗じようとする不逞の輩の妄動を許してはならない
11月19日と20日、フランス下院と上院は、パリ同時多発テロ直後にオランド大統領が宣言した非常事態の期間を3カ月間延長して来年2月25日までとする法案を可決した。フランスの基本理念である「自由」を犠牲にしてでも「イスラム国」打倒を目指す決意を鮮明にしたもの、と報道されている。
オランドは、今回のテロ直後から、大統領権限強化のための憲法改正を要求しており、バルス首相は20日の上院で「内外でテロとの戦いを強化する。テロの危険に目を閉ざしてはならない」と述べている。
今、バルスのいう「内外でテロとの戦いを強化する。テロの危険に目を閉ざしてはならない」の言は、誰の耳にも入りやすい。場合によっては、憲法改正の糸口ともなりかねない。そのような風が吹くときだけに、これに抗して姿勢を崩さない勁さをもたねばならない。
我が国でも、当然のごとく出てきたのが、どさくさに悪乗りしての「共謀罪」構想。
「自民党の谷垣禎一幹事長は17日、パリの同時多発テロ事件を受けて、テロ撲滅のための資金源遮断などの対策として組織的犯罪処罰法の改正を検討する必要があるとの認識を示した。改正案には、重大な犯罪の謀議に加わっただけで処罰対象となる『共謀罪』の創設を含める見通しだ。」(朝日)
これまで3度廃案になっている共謀罪。自民党には、「好機到来」というわけだ。
自民党憲法改正草案には、「緊急事態」制度の創設も盛り込まれている。この具体的改憲案の必要性をアピールすべきはまさしく今、ということになろう。治安の強化とは、人権を制約すること。テロの脅威は、政権にとっての神風である。政権への神風は、草民には禍々しい凶風なのだ。
思い起こしたい。憲法がなぜ本来的に硬性であって、慎重な改正手続きを要求しているかの理由を。国民の意思は、必ずしも常に理性的とは言えない。一時の激情で、後に振り返って見れば誤ったことになる判断をしかねない危うさをもっている。だから、憲法改正には、落ち着いて、冷静な議論を重ねるための十分な時間が必要なのだ。でなければ、権力を強化し人権を制限する、取り返しのつかない事態を招きかねないことになる。
勁い草になろう。「テロを許すな」の風に翻弄されるだけの存在であってはならない。
(2015年11月21日・連続第965回)
人は生きる本能をもっている。生き続けたいという本能的欲求に忠実であることが自然の姿だ。その生を希求する本能を自ら封じる精神状態は狂気というほかない。
いま、ジハードを叫ぶイスラム教徒の一部にその狂気が渦巻いている。自らの死を覚悟して、敢えてする自爆テロ。西欧世界に対する憎悪の情念が、罪のない市民を標的とし、自死に多くの市民を巻き込む弁明の余地のない狂気の行動。
そのような彼らにも耳を傾けるべき言い分はある。
「アメリカもフランスも、アフガニスタンからイラク・シリアにまたがる広範な地域を仮借なき空爆の対象として、無辜の人々を殺し続けてきた」「ずっと以前から戦争は始まって継続しているのだ」「われわれの攻撃は、均衡のとれないごく些細な反撃に過ぎない」と。
彼らに狂気を強いたものは、報復を正当化する憎悪の感情と暗澹たる絶望感であろう。
石川啄木の『ココアのひと匙』の一節を想い起こさずにはおられない。
われは知る、テロリストの
かなしき心を―
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を―
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
自爆テロ犯人の狂気の底にも、かなしき心が宿っていたに違いないのだ。
この狂気は、かつて我が国にもあった。先の戦争で、神風特攻隊となることを強いられた若者たちのうちにである。戦況の不利を、死をもっての戦闘で挽回するよう求められた彼ら。その絶望感と悲しき心。
「パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現している」という。欧米の目には両者はまったく同質のものと映っている。
自分の命と引き換えに、可能な限り敵に最大の打撃を与える戦法として両者になんの違いもない。味方陣営からは祖国や神に殉じる崇高な行為と称賛されるが、相手方や第三者の醒めた目からは狂気以外のなにものでもない。
恐るべきは、個人の生き抜こうとする本能を価値なきものと否定し、何らかの大義のために命を捨てよと説く洗脳者たちである。神風特攻隊の場合には、靖國神社がその役割を果たした。下記それぞれの小学唱歌の歌詞は、ことの本質をよく表している。
ことあるをりは 誰も皆
命を捨てよ 君のため
同じく神と 祀られて
御代をぞ安く 守るべき
命は軽く義は重し。
その義を践みて大君に
命ささげし大丈夫よ。
銅の鳥居の奥ふかく
神垣高くまつられて、
誉は世々に残るなり。
君のため国のために命を軽んじるこを大義と洗脳したのだ。その罪深さを指摘しなければならない。戦後レジームとは、この洗脳による狂気からの覚醒にほかならない。
では、現に続いているジハードの狂気にどう向かい合うか。いま、その一つの回答が世界を感動させている。憎悪に対するに憎悪をもってし、暴力に暴力で報いるのでは、報復の連鎖が拡大し深まるばかりではないか。この連鎖を断ちきろうという明確なメッセージが、テロ犠牲者の遺族から発せられている。「安全のために自由を犠牲にしない」決意まで述べられている。
「私は君たちに憎しみの贈り物をあげない。君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が恐れ、周囲に疑いの目を向けるのを望んでいるのだろう。安全のために自由を犠牲にすることを望んでいるのだろう。それなら、君たちの負けだ。私はこれまでと変わらない。」(アントワーヌ・レリス)
このような遺族の対応に、心からの敬意を捧げたい。そして、狂気の自爆テロに走った若者たちの悲しき心にも思いをはせたい。事態をここまでにした真の原因を見据えたいと思う。
(2015年11月20日・連続第964回)
本日の夕刊を見て驚いた。「韓国のソウル東部地検は18日、慰安婦問題を扱った学術書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』の著者、世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授を名誉毀損罪で在宅起訴した。」(毎日)という。
同教授は同書で「日本軍従軍慰安婦」を、「売春婦」「日本軍と同志的関係にあった」などと記述したことから、元慰安婦から刑事告訴されていた。起訴は、この告訴を受けてのもののようだ。
毎日の記事によると、「検察は、河野官房長官談話や、2007年に米下院が日本に慰安婦問題で謝罪を求めた決議などを基に『元慰安婦は性奴隷に他ならない被害者であることが認められている』と指摘。著書の内容は『虚偽』と判断した。」という。これでは、表現の自由の幅は極端に狭くなる。
共同通信の配信記事では、「地検は『虚偽事実で被害者らの人格権と名誉権を侵害し、学問の自由を逸脱している』と指摘した。」「同書は韓国で、日本を擁護する主張だとして激しい非難を浴び、元慰安婦の女性ら約10人が14年6月に朴氏を告訴。ソウル東部地裁は今年2月、女性らが同書の出版や広告を禁じるよう求めた仮処分申し立ての一部を認める決定を出し、出版社は問題とされた部分の文字を伏せ、出版した。」という。表現の自由は、既にここまで制約されているのだ。
私は、民主化運動後の韓国を好もしい隣国であり国民と感じてきた。2年前の5月に訪問したソウルは、穏やかで落ちついたたたずまいの美しい街という印象だった。
憲法裁判所の見学や民主的な弁護士らのと交流で垣間見た、この国の民主化の進み方に目を瞠った。そして、これからは韓国社会に学ぶべきところが大きい。掛け値なしにそう思った。
ところが、その後いくつかの違和感あるニュースに接することになる。その筆頭は、産経新聞ソウル支局長の起訴である。同支局長のコラムが、「大統領を誹謗する目的で書かれた」として、名誉毀損罪で起訴され懲役1年6月の求刑を受けている。判決期日は11月26日、大いに注目せざるを得ない。韓国の司法は、大統領府からどれほど独立し得ているのだろうか。
私は、産経は大嫌いだ。ジャーナリズムとして認めない。常々、そう広言してきた。産経にコメントを求められたことが何度かある。そのたびに、「自分の名が産経紙上に載ると考えただけで、身の毛がよだつ」と断ってきた。その私が、産経支局長の起訴には納得し得ない。元来、権力や権威や社会的影響力の大きさに比例して、あるいはその2乗に比例して、批判の言論に対する受忍の程度も高くなるのだ。大統領ともなれば、批判されることが商売といってもよい。中には、愚劣な批判もあるだろうが、権力的な押さえ込みはいけない。
これに続いての朴裕河起訴である。寛容さを欠いた社会の息苦しさを感じざるを得ない。朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。不愉快ではあったが、このような書物を取り締まるべきだとか、著者を処罰せよとはまったく思わなかった。よもや起訴に至るとは。学ぶべきものが多くあるとの印象が深かった韓国社会の非寛容の一面を見せられて残念でならない。
もちろん、私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったこととことさらに一般化して旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。当然のことながら、私が反対する内容の言論にも、表現の自由を認めねばならない。
産経ソウル支局長も朴裕河も、情熱溢れる弁護活動と、人権感覚十分な裁判官によって無罪となって欲しいと思う。念のため、もう一度繰り返す。私は産経は大嫌いだ。朴裕河も好きではない。「大嫌い」「好きではない」と広言する自由を奪われたくない。そのためには、嫌いな人の嫌いな内容の言論にも、表現の自由という重要な普遍的価値を認め、これを保障せざるを得ないのだ。
(2015年11月19日・連続第963回)
辺野古新基地建設に関連して翁長知事が名護市辺野古沿岸海面の埋め立て承認を取り消し、国(国交相)はこの承認取り消しを違法として、福岡高裁那覇支部に「承認処分取消の撤回を求める」訴訟(辺野古代執行訴訟)を提起した。地方自治法に定められた特例の代執行手続としての一環の行政訴訟である。
国交相の沖縄県知事に対する提訴(辺野古代執行訴訟)に関して、本日(11月18日)の東京新聞社説がこう述べている。
「翁長知事が埋め立て承認を取り消したのは、直近の国政、地方両方の選挙を通じて県内移設反対を示した沖縄県民の民意に基づく。安全保障は国の責務だが、政府が国家権力を振りかざして一地域に過重な米軍基地負担を強いるのは、民主主義の手続きを無視する傲慢だ。憲法が保障する法の下の平等に反し、地方の運営は住民が行うという、憲法に定める『地方自治の本旨』にもそぐわない。」
また、同社説は「菅義偉官房長官はきのう記者会見で『わが国は法治国家』と提訴を正当化したが、法治国家だからこそ、最高法規である憲法を蔑ろにする安倍内閣の振る舞いを看過するわけにはいかない。」と手厳しい。
毎日社説は、端的に「国は安全保障という『公益』を強調し、沖縄は人権、地方自治、民主主義のあるべき姿を問いかける。その対立がこの問題の本質だろう。」という。なるほど、このあたりが、衆目の一致するところであろうか。
訴訟では、本案前の問題として、まず訴えの適法性が争われることになるだろう。国は、地方自治法が定めた特別の訴訟類型の訴訟として高裁に提訴している。その訴訟類型該当の要件を充足していなければ、本案の審理に入ることなく却下を免れない。
このことに関連して本日の毎日の解説記事が次のように紹介している。
「承認取り消しについて行政不服審査を請求する一方で代執行を求めて提訴する手法を『強権的』と批判する専門家も多い。不服審査には行政法学者93人が「国が『私人』になりすまして国民を救済する制度を利用している」と声明を出したが、国土交通相は承認取り消しの一時執行停止を決めた。
この対応について、声明の呼び掛け人の一人、名古屋大の紙野健二法学部教授は『代執行を定めた地方自治法は、判決が出るまで執行停止を想定していない。不服審査請求は、先回りして承認取り消しの効力を止め、工事を継続したまま代執行に入るための手段だった』と推測する。専修大の白藤博行法学部長(地方自治法)は『代執行は他に是正する手段がないときに認められた例外的手段。不服審査と代執行訴訟との両立は地方自治の精神を骨抜きにする』と批判した。」
一方で私人になりすまして審査請求・執行停止の甘い汁を吸っておきながら、今度は国の立場で代執行訴訟の提起。こういうご都合主義が許されるのか、それとも「手続における法の正義は国にこそ厳格に求められる」と、本案の審理に入ることなく、訴えは不適法で、それ故の却下の判決(または決定)となるのか。注目したいところ。
報道されている「訴状の要旨」は以下のとおりである。
「請求の趣旨」は、「被告は、平成27年10月13日付の公有水面埋め立て承認処分の取り消しを撤回せよ」というもの。
請求原因中の「法的な争点」は次の2点とされている。
(1) 不利益の比較(「処分の取り消しによって生じる不利益」と、「取り消しをしないことによる不利益」の比較)
(2) 知事の権限(知事には、国政の重大事項について適否を審査・判断する権限はない)
「翁長承認取消処分」は、「仲井眞承認」に法的瑕疵があることを根拠にしてのものである。つまりは、本来承認してはならない沖縄防衛局の公有水面埋め立て承認申請を、前知事が真面目な調査もせずに間違って承認してしまった、しかも、法には、厳格な条件が満たされない限り「承認してはならない」とされている。事後的にではあるが、本来承認してはならないことが明らかになったから取り消した、と丁寧に理由を述べている。けっして、理由なく「仲井眞承認」を撤回したのではない。
だから常識的には、今回の提訴では「仲井眞承認」の瑕疵として指摘された一項目ずつが吟味されるのであろうと思っていた。しかし、様相は明らかに異なっている。いかにも大上段なのだ。「国家権力を振りかざして」の形容がぴったりの上から目線の主張となっている。東京社説が言うとおりの傲慢に満ちている。メディアに紹介された「要旨」を見ての限りだが、安倍や菅らのこれまでの姿勢を反映した訴状の記載となっいるという印象なのだ。
翁長承認取消処分を取り消すことなく放置した場合の不利益として強調されているものは、「約19年にわたって日米両国が積み上げてきた努力が、わが国の一方的な行為で無に帰し、両国の信頼関係に亀裂が入り崩壊しかねないことがもたらす日米間の外交上、政治上、経済上の計り知れない不利益」である。
そして、知事の権限については、次のとおり。
「(被告翁長知事は)取り消し処分の理由として、普天聞飛行場の代替施設を、沖縄県内や辺野古沿岸域に建設することは適正かつ合理的とする根拠が乏しいと主張するが、しかし、法定受託事務として一定範囲の権限を与えられた知事が、米軍施設・区域の配置といった、国の存立や安全保障に影響を及ぼし国の将来を決するような国政の重大事項について、その適否を審査・判断する権限はない。」
公有水面埋立法の条文や承認要件の一々の吟味などは問題ではない。天下国家の問題なのだから、国家の承認申請を、知事風情が承認取消などトンデモナイと、居丈高に言っているのだ。それは、国(国交相)側が、訴訟上の主張としては無意味な政治的主張を述べているのではない。
おそらくは、担当裁判官にプレッシャーを与えることを意識しているのだ。「これだけの政治的、軍事的、外交的重要案件なのだ。このような重さのある事件で、国側を敗訴させるような判決をおまえは書けるのか」という一種の恫喝を感じる。
砂川事件最高裁判決では、大法廷の裁判体が、事案の重さを司法は受け止めがたいとして裁判所自身の合違憲判断をせずに逃げた。逃げ込んだ先が、統治行為論という判断回避の手法だった。しかも、全裁判官一致の判断だった。辺野古代執行訴訟でも、国は同じことを考えているのだ。
さて、今回の訴訟で、はたして司法は躊躇することなく淡々と公有水面埋立法の承認要件の具備如何を判断できるだろうか。それとも、国の意向に逆らう判決を出すことに躊躇せざるを得ないとするであろうか。
憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めている。「憲法が想定するとおりの地方自治であるか」だけではなく、「憲法が想定するとおりの裁判所であり裁判官であるか」も問われているのだ。
(2015年11月18日・連続第963回)
昨日(11月16日)の毎日新聞「みんなの広場」に、「A級戦犯の分祀を考えよう」と投稿されたMさん(東京都町田市・68歳)。私の感想を申し上げますから聞いてください。問題は、手段としての「A級戦犯の分祀」にではなく、その先の目的とされている「天皇の靖國神社参拝実現」にあります。私は、天皇の靖國神社参拝はあってはならない危険なことと考えています。お気を悪くなさらずに、最後までお読みいただけたらありがたいと思います。
「10日の本紙朝刊に東条英機元首相らA級戦犯の靖国神社からの分祀を提案している福岡県遺族連合会の調査結果が紹介されていた。これによると都道府県遺族会15支部がA級戦犯の分祀に賛成、4支部が反対したとのことです。」
おっしゃるとおり、毎日の報道が注目を集めています。今年2月の共同通信配信記事が、「A級戦犯分祀、容認は2県 遺族会調査、大半は静観」という見出しで、「共同通信が各都道府県の遺族会に賛否を聞いた結果、賛同する意向を示したのは神奈川県遺族会だけで、分祀容認は2県にとどまった。41都府県の遺族会は見解を明らかにしなかった。北海道連合遺族会と兵庫県遺族会は『反対』とした。」としていますから、福岡県連の「共感が広がっている」とのコメントはそのとおりなのでしょう。遺族会の全国組織に、この共感が広がったときに何が起こるのか、具体的な課題として考えねばならない時期にさしかかっていると思います。
「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されています。ずっと繰り返しているこの状態を見て思うことは、靖国神社は誰のためのものか、ということです。私は、靖国神社は日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのものだと思っています。」
「閣僚の靖国参拝が、国の内外から問題視されて」いることは、おっしゃるとおりです。どのように問題視されているのかと言えば、何よりも憲法違反としてなのですが、現行憲法が厳格な政教分離規定を置いた理由を正確に理解しなければなりません。ことは、近隣諸国に対する侵略戦争の責任や歴史認識に深く関わりますし、天皇を神とした権力の国民に対する精神の支配や、軍国主義植民地主義への国民の反省の有無とも関わります。閣僚らの参拝によって、合祀されているA級戦犯の責任を糊塗することは、歴史認識の欠如を象徴する大きな問題ではありますが、けっしてすべての問題ではなく、本質的な問題でもありません。ですから、けっしてA級戦犯の分祀実現で「閣僚の靖国参拝の問題視」が解決されることにはなりません。
また、「靖国神社は誰のためのものか」とは、靖國神社が現に「誰か」のために存在するもの、あるいは「誰かのためには有益なもの」という前提をおいた発問のように聞こえます。実は、そのような問の発し方自体に大きな問題が含まれているように思われます。靖國神社とは、もともとは内戦における天皇軍の士気を鼓舞する軍事的宗教施設として作られ、日本が対外戦争をするようになってからは国民精神を総力戦に動員する施設となって、日本の軍国主義を支えた軍国神社でした。国民のものではなく、徹底して、天皇軍の天皇軍による天皇軍のための施設にほかならず、基本的にその思想は現在の宗教法人靖國神社に受け継がれています。
「靖國神社とは誰がどのような意図のもとに創建し、侵略戦争と植民地支配の歴史においてどのような役割を果たしてきたのか」このことを厳しく問うことなしに、「日本のために戦って命を落とした軍人・軍属やそのご遺族のためのもの」などという安易な結論を出してはならないと思います。もっと端的に申しあげれば、あの神社に戦没者の霊魂が存在するとか、あの施設を戦争犠牲者の追悼施設として認めること自体が、危険なワナに絡めとられていると思うのです。
戦前靖國神社は、軍の一部であって、国民思想を軍国主義に動員するために、きわめて大きな役割を果たしました。これは争いがたい事実といわねばなりません。その靖國神社は敗戦によって、どのように変化したのでしょうか、あるいは変化してしていないのでしょうか。そしていま、靖國神社は、政治や社会、そして外交や日本人の精神構造などにどのように関わっているのでしょうか。避けることのできない深刻な問題として考え続けなければならないと思います。
「その英霊やご遺族が、政治家の靖国参拝よりも待ち望んでおられるのは天皇陛下のご親拝ではないでしょうか。」
本当にそうでしょうか。「英霊」という用語は、天皇への忠誠死を顕彰する目的の造語ですから仲間内の議論以外ではその使用を避けるべきだと思います。戦没者が天皇の参拝を待ち望んでいるかどうか、これは確認のしようもない水掛け論でしかありません。そもそも、戦没者は「靖国に私を訪ねてこないでください。わたしはそこにいません」と言っているのかも知れません。
遺族の意見も複雑です。遺族会がその意見を集約できるとも思えません。もちろん、「天皇の参拝を望む」遺族の意見もあるでしょう。天皇であろうと首相であろうと政治家であろうと、戦没者を忘れないという行為として歓迎するお気持ちはよく分かります。
しかし、厳しく天皇の参拝に反対する立場を明確にしている遺族もいらっしゃいます。ことは、天皇の戦争責任に関わってきます。A級戦犯の合祀に不快感をもつ遺族が、天皇にはより大きな責任があるではないかと、天皇の慰霊や追悼を拒絶する心情は、自然なものとして理解に容易なことではないでしょうか。
天皇の名で戦争が起され、天皇の名で兵は招集され、上官の命令は天皇の命令だと軍隊内での理不尽を強いられ、天皇のためとして兵士は死んでいったのです。将兵の死にも、原爆や空襲による一般人の死にも、その責任を最も深く重く負うべきが天皇その人であることはあまりに明らかです。東条は戦争に責任があるが、天皇にはない、というねじれた理屈は分かりにくいものではありませんか。しかし、靖國は天皇の戦争責任などけっして認めようとはしません。
世の常識として、会社が労災を起こして社員を死に至らしめたら、あるいは公害を起こしたり消費者被害を起こせば、社長が責任をとるべきが当然のこととされています。「自分は知らなかった」だの、「地位は名目だけのもの」などという言い訳は通用しません。社長は被害者に、心からの謝罪をしなければなりません。しかし、天皇(裕仁)は、ついぞ誰にも謝罪することのないまま亡くなりました。
また、政治家が政治資金がらみの不祥事で検挙されて、「秘書の責任」「妻がやったこと」などというのがみっともないのは常識です。どうしてこの常識が、天皇(裕仁)の場合には共有されないのか不思議でなりません。東条英樹以下の部下に戦犯の汚名を着せて責任をとらせておいて、自らは責任をとらなかったその人を、どうして戦没者の遺族たちが許せるのでしょうか。そんな人に、あるいはそんな人の後継者に参拝してもらってどうして気持が慰謝されるというのでしょうか。
「そして、天皇陛下もそれが実現できる日を心待ちにしておられるのではないでしょうか。」
あたかも、天皇が心の内に望んでいるのだから靖國神社参拝を実現すべきだと言っているように聞こえます。天皇を信仰の対象としている人には理解可能な「論拠」なのかも知れませんが、私には、天皇が心の内で何を考えいるかの忖度にいささかも意味があるとは思えません。天皇の靖國神社参拝が、法的に、政治的に、外交的に、社会心理的に、いったいどのような問題を引き起こすのかが問われなければなりません。
「政治家のやるべきことは自分の歴史認識を確認するための自己満足などではなく、天皇陛下も含めて、全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる環境をつくることではないでしょうか。」
これは恐るべき没論理の結論と言わねばなりません。「全ての日本人がなんのわだかまりもなく靖国神社に参拝できる」ことが、なにかすばらしいこととお考えのようですが、けっしてそんなことはありません。ナチスがドイツを席巻したような、あるいは戦前が完全復活したような、世の中が茶色一色に塗りつぶされた恐るべき全体主義の時代の到来と考えざるをえないのです。ぜひお考え直しください。
もちろん、宗教法人靖國神社の信者が祭神に崇敬の念を表すことに他者が容喙する筋合いはありません。しかし、「すべての人にわだかまりなく参拝せよ」とおっしゃるのは他者の思想・良心や信仰の自由に配慮を欠いた、尊大で押しつけがましい態度ではありませんか。ましてや、天皇や首相や閣僚の参拝を求めることは、国家と宗教との結びつきを禁じた憲法の規定に違反する、違憲違法の行為を求めるものとして、あってはならないものと考えざるをえません。また、天皇の参拝は、侵略戦争や植民地政策への反省を欠くことの象徴的できごとととして、いやむしろ侵略戦争への反省を積極的に否定する挑戦的な日本の国事行為として、首相の参拝とは比較にならない外交上の非難と軋轢を生じることになるでしょう。韓国・中国らの近隣諸国だけでなく、米・英を含む第二次大戦の連合国を刺激することも覚悟しなければなりません。
戦争がもたらした内外の無数の人の死は、それぞれに悲惨なものとして悼むべきは当然のことです。敵味方の区別なく、兵であるか一般人であるかの差別もなく、生者は死者に寄り添ってそれぞれの方法で悼むしかありません。靖國神社のように、味方だけ、軍人だけ、天皇への忠死者だけ、という死を差別する思想はけっして国民全体の支持を得ることはできないのです。
戦争を忌むべきものとし、再び戦争を繰り返さない永遠の平和は国民の願いです。しかし、歴史的経過からも、靖國が現に発信する「ヤスクニの思想」からも、平和を願い祈る場として靖國神社はふさわしからぬところと断じざるを得ません。むしろここは、戦争を賛美し軍事を肯定する思想の発信の場としての「軍国神社」にほかなりません。
遺族会がこぞって望めば、戦犯分祀が実現する可能性は高いというべきでしょう。今、靖國神社は公式には「教理上分祀はあり得ない」と言っていますが、これはご都合主義でのこと。神道に確たる教理などあり得ませんから、どうにでもなることなのです。A級戦犯分祀の実現のあとの天皇の参拝を現実的な問題として警戒せざるをえません。
戦前、臨時大祭のたびに天皇は靖國神社に親拝しました。新たな事変や戦争によって、新たな戦死者が生まれるときが、天皇親拝の時だったのです。いま、再び日本が海外での戦争を可能にする法律を作り上げたそのときです。天皇の軍国神社への参拝の実現は、実は、戦後初めての海外の軍事行動による戦死者を弔うためのものとなりはしないか。戦争法と連動した天皇の靖國神社参拝という恐るべき悪夢の現実化を心配せざるを得ません。
(2015年11月17日・連続第962回)
昨日(11月15日)が、自由民主党の誕生日。1955年11月15日、自由党と民主党が保守合同して、自民党が誕生した。以来60年、自民党は還暦を迎えた。自民党とて、議会制民主主義を是とする政党である。悪役ではあるが、民主主義社会の主要なアクターの一つ。小選挙区制実施以後、とりわけ安倍総裁時代の最近は、すこぶる姿勢がよくないが、必ずしも以前からこうだったわけではない。還暦とは、干支が一巡りして元に戻るということ。安倍自民党を脱皮して。60年前の初心に戻ってもらいたいと思う。
昨日(11月15日)の中央各紙のうち、毎日、読売、東京の3紙が社説で自民党を論じていた。毎日と、東京の社説は読み応え十分。読売は、歯ごたえがないスカスカの社説。東京社説の一節を引用しておきたい。
「昨年の衆院選で全有権者数に占める自民党の得票数、いわゆる絶対得票率は小選挙区で24%、比例代表では17%にすぎない。投票率低下があるにせよ、全有権者の2割程度の支持では、幅広く支持を集める国民政党とは言い難い。
自民党が安倍政権下での重圧感から脱するには、立党の原点に返る必要がある。党内の多様性を尊重し、よりよい政策決定に向けて衆知を集める。国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として再生するための王道である。」
ところで、60年前の結党時に採択されたいくつかの文書の中に、初心を示す「党の性格」がある。その6項目の自己規定が興味を惹く。結党時のありようと、60年後の現実とを対比してみよう。(一?六が結党時の「党の性格」、1?6が澤藤の見た現状)
一、わが党は、国民政党である
わが党は、特定の階級、階層のみの利益を代表し、国内分裂を招く階級政党ではなく、信義と同胞愛に立って、国民全般の利益と幸福のために奉仕し、国民大衆とともに民族の繁栄をもたらそうとする政党である。
1. わが党は大企業本位政党である。
わが党は、国際的グローバル資本と、金融・製造・流通の国内大企業との利益を代表し、その他の階級・階層にはトリクルダウン効果を期待せしめる政党である。すべての部門で市場原理を貫徹し、農林水産業は積極的に切り捨てる。このことこそが、国民全般の利益と幸福のために奉仕する所以であり、民族の繁栄をもたらすものと確信する。なお、我が党の政策には、「三本の矢」「新三本の矢」「一億総活躍」など、検証不可能な曖昧模糊たるスローガンを並べ、国民の目を眩ます努力を惜しまない。
二、わが党は、平和主義政党である
わが党は、国際連合憲章の精神に則り、国民の熱願である世界の平和と正義の確保及び人類の進歩発展に最善の努力を傾けようとする政党である。
2. わが党は、抑止力至上主義政党である
わが党は、近隣諸国との信頼関係の構築という生温い手段ではなく、戦争辞せずの覚悟をもって抑止力の整備に全力を尽くすことで国民の安全をはかる。アメリカの核の傘のもと軍備を整え、集団的自衛権行使を容認して、積極的平和主義の名による武力の行使を躊躇しない方針を堅持する。
三、わが党は、真の民主主義政党である
わが党は、個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する。
3. わが党は、非立憲主義政党である
わが党は、立憲主義を排撃する。内閣の意によって何時にても憲法解釈を自由に変更することを認める。何となれば、政権こそが直近の民意を反映するものだからであり、その民意の反映を活かすことこそが民主主義だからである。
経済活動の自由こそが国民の豊さの根源であることから、人類進歩の原動力たる経済活動の自由を神聖なものとして、これを掣肘する労働運動や共産主義、社会主義勢力を強く排撃する。
四、わが党は、議会主義政党である
わが党は、主権者たる国民の自由な意思の表明による議会政治を身をもって堅持し発展せしめ、反対党の存在を否定して一国一党の永久政治体制を目ざす極左、極右の全体主義と対決する。
4. わが党は、小選挙区制依存主義政党である
わが党は、民意を正確に議席に反映しない小選挙区制のマジックに依存して政権を維持していることを深く自覚し、小選挙区制を奉戴してその改正を許さない。また、小選挙区制こそが党内を統制して政権の求心力を高める唯一の制度的源泉である。これを最有効に活用して党内反対勢力を一掃し、現執行部の永久支配体制を目ざすものである。そのような多様性排除のプロセスを経て、わが党は、既に極右の全体主義政党になりつつある。
五、わが党は、進歩的政党である。
わが党は、闘争や破壊を事とする政治理念を排し、協同と建設の精神に基づき、正しい伝統と秩序はこれを保持しつつ常に時代の要求に即応して前進し、現状を改革して悪を除去するに積極的な進歩的政党である。
5. わが党は、小児的精神年齢政党である。
わが党は、「ニッキョウソどうすんだ!ニッキョウソ」「早く質問しろよ」などと、答弁席から野次を飛ばす総理を総裁と仰ぐ、小児的精神年齢政党である。ナチスの手口を学びつつ、右翼的ファシズムの伝統と政治資金タカリの構造はこれを保持し、常にアメリカと財界の要求に即応して前進する。農家・漁民・小規模商店・中小零細企業、福祉・教育・文化などの、非効率不採算部門を除去するに積極的な進歩的政党である。
六、わが党は、福祉国家の実現をはかる政党である
わが党は、土地及び生産手段の国有国営と官僚統制を主体とする社会主義経済を否定するとともに、独占資本主義をも排し、自由企業の基本として、個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる。
6. わが党は、福祉国家理念を放擲した新自由主義政党である
わが党は、新自由企業と新保守主義の担い手であることを宣言して、企業活動の完全な自由を擁護することを宣言する。福祉国家理念とは、怠け者再生産主義でしかないことが、この60年で明瞭になった。徹底した競争こそが進歩と豊かさの原動力である。競争には敗者がつきもので、勝者と敗者のコントラストの強調こそがよりよい社会を作る。そのゆえ、社会保障政策や完全雇用、さらには福祉国家などの時代遅れの理念や政策は敢然とこれを放棄し、労働者は非正規をもって旨とする。
(2015年11月16日・連続第961回)