本日は、樋口陽一講演会。「心も命も奪う戦争国家は許さない11・15集会」において、「『戦後からの脱却』の中の教育・個人ー「日の丸・君が代」の何が問題か」と題する中身の濃い講演を聴くことができた。
安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というフレーズの重大性と、自民党改憲草案の非立憲主義的性格のひどさについての講演も貴重な内容だったが、教育問題に限って、内容を要約して紹介する。
レジメはない。録音もしていない。飽くまで私の理解した範囲で、再構成したものとご理解いただきたい。いずれ、録音反訳したものが公開されるだろうと思う。
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大きく分類して教育観には対極的な2種がある。一つが、教育を私事と見る「私事性の教育観」。そしてもう一つが教育を公共の役割に位置づける「公共性の教育観」。
伝統的には教育は私事であった。宗教団体や部分社会が教育を担当し、子の親は自分が属する団体に子の教育を託した。宗教的価値観を含んでの教育が行われることになる。この伝統はアメリカによく生きている。教育の公共性を強調する制度の典型が19世紀以来のフランスで、親から子を引き離しても公共が子らの教育に責任を持つという考え方。今でも、学校は公共の空間であって、フランスの学校は校門の中に親を入れない。政教分離が徹底し、私的な価値観は教育から切り離される。宗教的な象徴を校内に入れないという原則の徹底から、ムスリムの子らのスカーフ着用禁止問題が起きているほど。
この両者それぞれの教育観は、具体的な制度においては混在することになるが、国民の教育を受ける権利の保障や教育の機会均等の視点からは、教育の公共性を無視することはできない。
日本では、国民の教育権と国家の教育権との教育権論争が続けられてきたが、両者ともに「公共性の教育観」を前提にしたその枠内での議論であったといってよい。国民の教育権論における「国民の」とは、日本国憲法下でのあるべき真っ当な国民を想定して、あるべき国民を主体としたあるべき民主的教育論であった。
教育における公共性の重視は、教員に公共的な専門職としての義務を要求することにつながる。教員個々人に、その職務の遂行過程で個人的な思想良心に従った教育を行うことの自由が保障されているわけではない。従って、「日の丸・君が代」強制を違憲と主張する訴訟において、このまま教員たる個人の思想良心侵害の問題を主戦場としてよいのか疑問なしとしない。
それぞれの教員が自分史を積み上げて現に有している思想・良心を対象に、その侵害を許さないとする主張の仕方では、違憲判決獲得に限界があると考えざるをえない。現実にそれぞれの教員がもっている思想・良心ではなく、公共的な役割の担い手としての教員が有すべき職責としての思想・良心を想定して、そこからの逸脱があるか否かを考察しなければならない。そのような枠組みから新たな裁判勝利への道が開けるのではないか。
よるべき憲法条文上の根拠は、教員の思想・良心の自由を保障する憲法19条ではなく、子どもの教育を受ける権利を保障した憲法26条ということになるだろう。子どもの教育を受ける権利が飽くまで主軸となって、子どもの権利を全うするために教員のなし得ること、なさねばならぬことの範囲が決まる。ここで問題となるのは、教員の権利というよりはむしろ教師としての職業倫理に裏付けされた義務ではないか。
人が人を貶めてはならず、人が人を貶めていることを平然と傍観していてもならない。「日の丸・君が代」強制の可否をめぐる局面における教員の義務とは、そのような意味で、傍観者となることなく子どもに寄り添うべき義務であろうと思う。
(2015年11月15日・連続第960回)
恐るべし。日本中を「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊している。虎視眈々とあらゆる言論を視野に狙いを定め、猛然と襲いかかっては噛みついて餌食とする。この怪獣は常に、右から左へ一方向だけに突進するのだ。
真に恐るべきは、この怪獣の毒液がもたらす萎縮効果である。噛みつかれるかもしれないと怯える惰弱な精神が、攻撃されてもいないのに過剰に反応して政権批判を自粛する。このような言論の自己規制が怪獣をのさばらせ太らせることになる。
この怪獣を直接に操っているのは知性なき付和雷同の輩であるが、これを生み、育て、陰の司令塔となっているのは、明らかに現政権とその一味である。この怪獣は、政権の後ろ盾でぬくぬくと育って、政権の意向を忖度しつつ成長し、政権の望むように攻撃目標を設定している。
かつてこの怪獣は漫画「はだしのゲン」を攻撃し、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句にまで噛みついた。また、放送大学も立教大学も、噛みつかれる以前に萎縮し自主規制して、闘わずしてこの怪獣の餌食となった。
そして本日(11月14日)の毎日新聞に、「ジュンク堂:民主主義フェア、選書を入れ替え再開」の記事。同書店が9月下旬からはじめた「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアが「偏向」の攻撃で10月下旬に中断され、企画の書棚撤去が話題となっていた。このフェアが、形を変えて再開されたというニュース、なのだが…。
「大手書店『MARUZEN&ジュンク堂書店』渋谷店は13日、先月から中断していたフェア『自由と民主主義のための必読書50』を『今、民主主義について考える49冊』に改めて再開した。店員の書き込みをきっかけに、インターネット上で『偏向している』と批判されたのを受けた措置。中断前から約3分の2の本を入れ替え、『誤解される余地のないようにした』と説明している。
フェアは安全保障関連法成立後の9月下旬に始まり、10月末まで実施する予定だった。しかし、10月中旬に店員がツイッターで『ジュンク堂渋谷店非公式』と題して『年明けからは選挙キャンペーンをやります!夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!』『一緒に闘ってください』と書き込んだところ、ネット上に『書店が特定の思想・信条を支持するのはどうなのか』といった投稿を含め、反対、賛成両論があふれた。渋谷店は10月21日に棚を撤去し、書店のホームページで『本来のフェアタイトルの趣旨にそぐわない選書内容だった』とコメントしていた。
再開したフェアは、安保法反対の活動をした学生団体SEALDsと高橋源一郎さんの共著や、五野井郁夫・高千穂大准教授の本を引き続き選んだが、小熊英二・慶応大教授、中野晃一・上智大教授、映画監督の想田和弘さんらの本を外した。
一方、長谷川三千子・埼玉大名誉教授、佐伯啓思・京都大名誉教授ら保守派の論客や、ジャーナリストの池上彰さんの本を加えた。SEALDsの本は最下段に陳列した。
入れ替えについて広報担当者は『個別の本が良いとか悪いとかではなく、フェアタイトルに合っているかを考えた』と話した。フェアは来月12日まで。今回フェアから外した本も多くは店内で陳列している。」
恐るべき「偏向攻撃」の毒牙は、私企業に過ぎない書店のブックフェアにまで及んでいるのだ。「自由と民主主義のための必読書50」を「今、民主主義について考える49冊」に変えた。「3分の2の本を入れ替え」、「誤解される余地のないようにした」というのだ。小熊英二・中野晃一・想田和弘を消した。そして、「民主主義を考える」コーナーに、なんとも不似合いな長谷川三千子・佐伯啓思を並べたのだ。ついでに、安全パイとして池上彰を右翼の長谷川・佐伯と同列の光栄に浴せしめた。さらに、「SEALDsの本は最下段に」なのだ。
結局のところは、現体制や現政権に不都合な言論は除かれ、政権のお友だち言論に差し替えられただけなのだ。「自由と民主主義のため」が、偏向していると攻撃を受ける時代であることを深刻に受け止めざるを得ない。この「偏向攻撃」という名の怪獣をのさばらせておいては、あたり一面死屍累々たる政権批判言論の墓場となりかねない。そして、この恐るべき怪獣が、政権批判の言論を食い散らかしたそのあとには、茶色の朝がまっているのだ。
(2015年11月14日・連続第959回)
「ヤメ検」とは、元は検事だった弁護士をさす。何とも微妙な伝えがたいニュアンスをもった業界用語。その「ヤメ検」のニュアンスに、また一つ影響を与える事件の報道がなされた。
本日の毎日新聞朝刊が、「容疑者の妻連れ 検事総長に面会 弁護士を処分」という記事を掲載した。デジタル版の見出しは、「元最高検総務部長:容疑者妻連れ検事総長面会…戒告」というさして長くない記事なので、全文を引用する。
「元最高検総務部長で横浜弁護士会に所属する中津川彰弁護士(80)が、弁護を担当した強制わいせつ事件の容疑者の妻を連れ、検察トップの検事総長らに面会していたことが分かった。横浜弁護士会は刑事処分の公正さに疑念を抱かせたなどとして、中津川弁護士を戒告の懲戒処分とした。処分は7月8日付。弁護士会によると、弁護士側からの異議申し立てはないという。
日弁連の資料などによると、中津川弁護士は2013年6月に容疑者の弁護人に選任された後、勾留中に容疑者の妻を連れて捜査担当検事や上司、当時の検事総長と面会。「元検察官としてのキャリアや人脈などを強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせた」としている。担当検事には本人の意思を確認しないまま「罪を認めて深く反省」などと記した誓約書を提出していたという。
横浜弁護士会の佐藤正幸副会長は「検察幹部との面会で手心が加わったかどうかは不明だが、『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」と話した。
中津川弁護士は札幌地検検事正や最高検総務部長などを歴任。退職後の05年に弁護士登録した。」
この記事でも分かるとおり、懲戒事由ありとされた同弁護士の非行は2013年6月のこと。2015年7月に横浜弁護士会が戒告処分とし、同年10月1日付で日弁連が公告した。日弁連機関誌「自由と正義」同月(2015年10月)号に、この広告は掲載されている。言わば旧聞に属することなのだが、毎日の記者が、たまたま何かのきっかけでこの懲戒事由を知ったのだろう。看過できない事件と判断して記事にし、社もこれを全国版に掲載した。指摘されてみれば、なるほど、これは司法に対する社会の信頼に関わる事件であり、法曹の閉鎖性に関わる深刻な問題でもある。
中津川元検事の経歴は下記の如くである。
昭和36年4月 検事任官
昭和49年12月 最高裁判所司法研修所教官
昭和61年4月 公安調査庁 調査第2部長
昭和63年12月 同庁 総務部長
平成2年8月 東京法務局長
平成5年7月 最高検察庁 総務部長検事
平成17年10月 弁護士登録
申し分のない立派な経歴と言ってよい。多くの部下に指揮命令の権限をもっていたはず。その多くの部下が、今検察の中枢にいることは想像に難くない。その元部下のなかに検事総長もいたのかも知れない。しかし、弁護士として野に下った途端に、その権力も影響力もなくなるのだ。事実上の社会的影響力は、努めて排除しなければならない。弁護士は無位無冠、なんの権力とも、また特権とも無縁なのだから。
「自由と正義」10月号に掲載の「処分の理由の要旨」は以下のとおりである。
(1) 被懲戒者は2013年6月30日に懲戒請求者に接見しその強制わいせつ被疑事件を受任したが、その際委任契約書を作成せず弁護士報酬についての説明も十分しなかった。
(2) 被懲戒者は上記(1)の事件に際し「自己の罪を認めて深く反省し」などと記載した2013年7月18日付けの懲戒請求者名義の誓約書を担当検察官に提出すたが、誓約書の提出に当たり懲戒請求者の意思を確認しなかった。
(3) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し懲戒請求者が勾留されている間に懲戒請求者の妻を帯同して担当検察官やその上司である検察官、更に検事総長や検察幹部と面会し、被懲戒者の元検察官としてのキャリアや人脈等を強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせる行為を行った
(4) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し被害者との示談交渉の席に懲戒請求者の姉の内縁の夫であったAを同席させ、その後の示談交渉及び書面の作成に関して懲戒請求者の意思を確認し内容を確定して起案するなどの行為を中心となって行わなかった。
(5) 被懲戒者は上記示談交渉に際しAが懲戒請求者から相当額の示談金を受領する可能性を予見できたにもかかわらずこれを回避する措置を採らず、結果として被懲戒者が関与しないまま、Aが懲戒請求者から示談金名目の700万円を受領し保管した。
(6) 被懲戒者は2013年9月7日に上記(1)の事件の弁護人を辞任したが懲戒請求者から弁護士報酬の返還請求に対し脅迫的な意味合いを有し、返還請求をちゅうちょさせるような文言が記載された同年10月11日付けの書面に署名押印した。
(7) 被懲戒者の上記(1)の行為は弁護士職務基本規定第29条及び第30条に上記(2)(4)及び(5)の行為は同規定第46条に違反し上記各行為は弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。
刑事事件の一人の依頼者からの懲戒請求があって、6個の非行が認定されたことになるが、報道に値するとされたのは「『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」という点である。
いくつかのことを連想する。もう、15年ほども以前のことだが、中国司法制度調査団を組んで訪中し、現地の弁護士と交流したことがある。そのときの話しを聞いて驚いた。有力な弁護士は、ウイークエンドには、判事との夕食会に忙しいのだという。むしろ誇らしげに聞かされた。依頼者には、そのように自分が判事と親しいことをアピールする。あるいは自分が手がけている事件の担当裁判官と同姓であることがアピールの材料となるのだともいう。
裁判も、法治ではなく人治となっていた事情を垣間見た。近代化進む中国のこと。今は、そのようなことはないだろう。むしろ、日本に「顔が利く」ことを誇示する弊風が残っていたのだ。
2012年4月、日民協が韓国司法制度調査団をつくって憲法裁判所などを訪問した。その際、韓国の司法改革が進んでいることを知って驚いたが、李京柱・仁荷大学教授の話しで、同地の「前官礼遇」という悪しき慣行を耳にした。元「官」にいた者が、現在「官」にある者から手厚く遇されるということ。裁判官、検察官の任官経験者が退官後に弁護士となり、後輩として在職している裁判官や検察官から、事件で有利な取り計らいをうけるという悪習。しかも、根深く歴代順繰りに行われてきたのだという。この「『前官礼遇』に象徴される裁判所と在野法曹との癒着や腐敗を一掃すべきという国民の声が司法改革を牽引する力になった」という説明だった。裁判官や検事の座にあった者にとっては、当然に受けるべき既得権と考えられていたのだ。
さて、中津川元検事は、現役時代に、先輩ヤメ検から「前官礼遇」の依頼や要求を受けていたのだろうか。そのような習慣が、実は広く残っているということはないのだろうか。法に携わる者、襟を正さねばならない。
なお、権力を持っていた人物は、その地位を去っても権力を持っていた時代の懐かしさが忘れられない。往々にして、自分にはもともと人に命令する権能が備わっているのだと誤解する。そんな話しは、古今東西ありふれている。権力は魔力を持っている。心して取り扱わねばならない。
(2015年11月13日・連続第958回)
霊長類ヒト科ヒトの舌は1枚であって、2枚はない。ところが、永田町類保守科自民党には、二枚の舌がある。いや、もしかしたら3枚も4枚もあるのかも知れない。
舌の枚数問題は、臨時国会の開催をめぐる論争において生じている。去る10月21日、民主、維新、共産、社民、生活の野党5党が、憲法53条にもとづいて、臨時国会召集を要求する手続きを衆参両院で行った。あれから、既に20日を経過した。しかし、政府・与党に、臨時国会を開催しようという意欲はまったく見られない。憲法に規定されている内閣の義務だから「ノー」と明確には言えない。「時期の定めがないから」と、のらりくらり「日程調整中」を決めこんでの20日間。自民党と政権の思惑は、「国会開催しても、なんの得にもならない。『3本の矢』どころではなく、無数の槍衾の餌食になりかねない。それなら、36計逃ぐるに如かず」というところ。
朝日新聞が痺れを切らして、本日(11月12日)の社説に「国会召集要求 逃げ切りは許されない」と書いた。「逃げ切り許さず」は言い得て妙。明らかに自民党は逃げまくっている。今のままなら、逃げたことによる世論の風当たりを甘受しても、逃げ切った方が得だ。国会を開いて野党の追及を受けてつく傷よりも、浅い傷で済む。そう、読んでいるわけだ。
昨日の毎日新聞社説は、「閉会中の予算委 たった2日の論戦では」と標題し、「2日間で「野党のガスを抜いた」とばかりに済ませるわけにはいかない。TPP、沖縄基地問題など議論を急ぐべき課題は多い。国会召集に政府が応じざるを得なくなるような活発な提言を野党にも求めたい。」と述べている。
私が20日間にこだわるのは、自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)の53条改正案に「20日以内の招集」と期限が明記されているからだ。
改めて、現行53条と、自民党草案を比較してみよう。
《日本国憲法》
第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
《自民党改憲草案》
第53条 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない。
この改憲案の公式解説である「Q&A」は、次のとおりに述べている。
「53条は、臨時国会についての規定です。現行憲法では、いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣はその召集を決定しなければならないことになっていますが、臨時国会の召集期限については規定がなかったので、今回の草案では、『要求があった日から20日以内に臨時国会が召集されなければならない』と、規定しました。
党内議論の中では、『少数会派の乱用が心配ではないか』との意見もありましたが、『臨時国会の召集要求権を少数者の権利として定めた以上、きちんと召集されるのは当然である』という意見が、大勢でした。」
とある。
「臨時国会の召集要求権を少数者の権利として定めた以上、きちんと召集されるのは当然」「だから、野党の請求があれば、20日以内に臨時国会を召集する」。全体としては、メチャメチャに評判の悪い改憲愚案だが、ここだけは立派な見識ではないか。ところが、これは自民党の「1枚目の舌」に過ぎないのだ。
2枚目の舌が、安倍晋三のいう、「外交日程、予算の策定、税制についての議論を勘案しつつ、様々な検討を行っている」としゃべる舌。様々な検討を行っているうちに、既に20日は過ぎた。なんとか逃げ切れそうだというもの。
残念だったね自民党。やせ我慢で、自ら提案の20日ルールを遵守していれば、世の中から見直されたのに。やっぱり、自民党は自民党、安倍は安倍。自民党感じ悪いよねー。
立派な舌を看板に、看板に偽りありの二枚目の舌。こんな使い分けをしているうちは、自民党さん、あなたの言うこと、到底信用できません。
(2015年11月12日・連続第957回)
昨日(11月10日)の毎日新聞に、興味深い記事。
見出しは、「住民訴訟:骨抜き回避 首長ら免責、係争中議決を禁止 総務省見直し案」というもの。
「総務省は9日、違法な公金支出をした自治体首長や職員に賠償を求める住民訴訟制度の見直し案を公表した。地方議会が首長らの賠償免除を議決し、裁判所が違法性の有無を判断しないまま住民の訴えを退ける例が目立つことから、係争中の議決を禁止する。
判決で行政側の責任が明確になることで、訴訟が『骨抜き』になるのを防止し税金の使い道の監視機能を高める効果がありそうだ。」というのが大意。
制度見直しの必要性について、現行制度「骨抜き」の実態をこう説明している。
「与党が多数を占める議会では、…自治体の賠償請求権を放棄し、支払いを免除する条例を係争中に議決。裁判所が公金支出の違法性を判断しないまま、住民が敗訴する例が相次ぎ、問題視されている。
係争中の議決を禁止すれば、裁判所は公金支出が違法か適法かの判断を示すことになる。判決確定後、議会が監査委員の意見を聞いた上で、賠償金の支払いを免除することは認めるが、違法性が明確になれば、住民の批判を押し切って賠償免除を議決するのは難しくなる。免除となるのは、当事者の首長らが死去するなど限定的なケースを想定している。」
政府は来年の通常国会でこの内容の地方自治法改正案提出を目指すとしている。共同通信も同内容の短い記事を配信している。この制度の趣旨の「骨抜き」許さない法改正に賛成だ。ぜひ早期に実現してもらいたい。そして、住民訴訟制度が使い勝手のよいものとなって大いに活用されることを望んでいる。
この「住民訴訟制度」は、たいへんに有益なもの。地方自治体といえども、立派な権力である。権力の行使は厳格に適法でなくてはならず、その適法性を住民が監視し、違法あれば声を上げて是正しなければならない。自治体の財務会計上の行為に違法の疑いがある場合、住民であればたった一人でも裁判所に訴えることができる。
例えば、市長に違法な行為があってそのために市が、被害者に損害を賠償すると、市長が市にその賠償支払の金額について違法に損害を与えたことになる。本来は市が市長個人に対して、この穴を埋めるよう請求することがスジではあるが、現実にはなかなか実行されない。こんなとき、住民がたった一人でも、市に代わって「市長(個人)は、市に与えた損害を賠償せよ」と訴訟を提起することができる。このとき、「住民一人の言い分よりも、多くの市民の代表である市長の言い分を聞け。それが民主主義ではないか」という言い訳は通用しない。
地方権力の違法行為の抑止、市民による地方権力監視の実効性確保の手段として有効なこの制度だが、賠償請求権は飽くまで自治体が持っており、原告となる市民は自治体を代位して請求する構造なのだから、自治体が権利を放棄すると裁判が成立しなくなる。
ここに目をつけて、地方議会が首長らの賠償免除を議決し、裁判所が違法性の有無を判断しないまま住民の訴えを退ける例が目立つのだという。まさしく、「制度の趣旨の骨抜き」だ。これを防止するために、係争中の債権放棄議決を禁止するという。けっこうなことだ。
当ブログは、この問題を何度か取り上げている。「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟」の実例を素材にしてのもの。
経過の概要は次のとおりだ。先行する住民訴訟において、東京地裁判決(2010年12月22日)が上原公子元市長の国立市に対する賠償責任を認容し、この判決は確定した。上原元市長は国立市に対する任意の支払いを拒んだので、同市は元市長を被告として同額の支払いを求めた訴訟を提起した。
ところが、その判決の直前に新たな事態が出来した。市議会が、11対9の票差で、裁判にかかっている国立市の債権を放棄する決議をしたのだ。東京地裁判決は、この決議の効果をめぐっての解釈を争点としたものとなり、結論として国立市の請求を棄却した。
「増田稔裁判長は請求を棄却した。同裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)と報じられている。
これこそ、制度骨抜きの典型事例であろう。元市長の行為の違法性の判断ではなく、債権放棄決議の法的効果が争点では、国立市民にとっても不本意な判決であろう。問題は、たった一人でも行政の違法を質すことができるはずの制度が、議会の多数決で、その機能が無に帰すことになる点にある。
仮に債権放棄決議が単なる内部的行為にとどまらず、有効に債権を消滅させる行為であるとすれば、訴訟上確定した国立市の債権3100万円(と遅延損害金分)の放棄決議は、市の財産を消滅させる行為である。当然に賛成票を投じた議員11人の法的責任が生ずることになる。その場合は、経過や動機等の諸事情を勘案して投票行動の、違法性と過失の有無が論議されることになる。そして、この責任も監査請求を経て住民訴訟の対象となり得る。本来、債権放棄決議は、そこまでの覚悟がなければできないことなのだ。
なお、最高裁は、古くから「市議会の議決は、法人格を有する市の内部的意思決定に過ぎなく、それだけでは市の行為としての効力を有しない」としてきた。高裁で分かれた住民訴訟中の債権放棄議決の効力について、最近の最高裁判決がこれを再確認している。
2012(平成24)年4月20日と同月23日の第二小法廷判決が、「議決による債権放棄には、長による執行行為としての放棄の意思表示が必要」とし、これに反する高裁判決を破棄して差し戻しているのだ。
なお、2014年9月25日付け当ブログは、総務省の第29次地方制度調査会「今後の基礎自治体及び監査・議会制度のあり方に関する答申」(2009年6月16日)に触れた。
その結論は、「住民に対し裁判所への出訴を認めた住民訴訟制度の趣旨を損なうこととなりかねない。このため、4号訴訟の係属中は、当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権の放棄を制限するような措置を講ずるべきである。」というもの。今回、これが具体的な制度改革案として成案に至ったのだ。
https://article9.jp/wordpress/?p=3589
国立市事件の控訴審判決は間近とのこと。「骨抜き」防止は、法改正だけでなく、法解釈においても貫いていただきたい。
(2015年11月11日・連続第956回)
私が被告とされ、6000万円の損害賠償を請求されているのがDHCスラップ訴訟。
念のためだが、「DHC」とはテレビや新聞・雑誌で宣伝を繰りかえし顧客を通販の会員に抱え込む手法で、健康食品や化粧品を販売している大手の企業。その会長が吉田嘉明で、大儲けして大金持ちを自称する人物。「スラップ訴訟」とは、「自分に不都合な言論を妨害し萎縮させることを狙った訴訟」のこと。DHCと吉田の両者が、私の言論を妨害する訴訟を提起し、それを通して社会全体に「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と恫喝して萎縮効果を狙っているのだ。
そのDHCスラップ訴訟の一審では完敗したDHC・吉田が控訴し、その控訴審が動きはじめた。控訴審第1回口頭弁論期日がクリスマスイブの日に決まった。なんの根拠もないが、何かよいことありそうな日程。12月24日午後2時から。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。地裁庁舎と同じ建物だが、高裁だけに地裁法廷よりは上階の8階に法廷がある。なんの手続も不要なのだからぜひ傍聴にお越し願いたい。表現の自由をめぐる闘いの現場で訴訟の経過を見守っていただきたい。表現の自由を守ろうとする被控訴人側の弁護団に心の内での声援をお願いしたいし、DHC・吉田側で代理人として出廷する弁護士の顔をよく見てやってもいただきたい。
なお、控訴審の係属部は東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))、事件番号は平成27年(ネ)第5147号である。
今日から、口頭弁論期日まで1か月半。その間の控訴審の進行について、その都度逐一ご報告したい。何が論点になっていて、双方がどのような主張をしているのか。吉田嘉明自身が、どんな陳述をしているか。また、DHC・吉田が起こして負けつづけている他のスラップ訴訟についても、差し支えない範囲で公表したい。事件進行の詳細な公表は、自ずからDHC・吉田に対する批判の材料の提供となろう。貴重な資料だと思う。ぜひ、多くの人に転載し拡散していただくようお願いしたい。
当ブログでは、これまでDHCと吉田嘉明に対する辛辣な批判を55回にわたって行ってきた。そのうち3回は、吉田嘉明が「みんなの党」渡辺喜美に巨額の裏金を提供したことについての批判。残る52回は、DHCと吉田が私の言論を封殺する目的でスラップ訴訟を提起したことについての「DHCスラップ訴訟を許さない」という批判である。
読み直して、私の批判はまだ足りない、生温い、と思う。質的にも量的にも、もっと批判を徹底し、もっと多くの人々にDHCと吉田嘉明の、不当・違法を天下に知らしめたい。世の中の隅々まで、「DHCといえば、あのスラップ訴訟の常習者」という常識を広げたい。連想ゲームで、「DHC」といえば、条件反射的に「巨額政治資金提供」「裏金」「スラップ」「言論封殺」「厚生行政規制も消費者行政規制大嫌い」「社会的規制の緩和」「敗訴に次ぐ敗訴」などと誰もが口を突いて負のイメージの言葉を発するまでにさせたい。「スラップ訴訟とは天に唾するもの、結局は自らに報いを招くもの」と身に沁みさせて、今後の戒めになるようにである。
私のDHC・吉田に対する徹底批判の動機の半分は私憤である。私怨と言ってもよい。私は、喧嘩を売られた。しかも、最初は2000万円、後には6000万円の訴訟上の請求を武器にしてのことである。吉田は、その武器を振りかざして、私を「黙れ」と恫喝したのだ。私は、この汚いやり方に心底怒った。徹底的に反撃せずにはおかないと決意をした。以来、どうすれば、この怒りを最も効果的なDHC吉田に対する打撃に転化できるか、それを考え続けている。この憤りと怨みは永久に消えることはない。この私憤あればこそ私は闘うのだし、多くの人の共感を得ることもできるのだ。
もちろん、私のDHC吉田に対する批判の動機のすべてが私憤というわけではない。半分は公憤であり、理念に基づくものなのだ。私は自らの信念に従った政治的な言論によって、まったく思いがけなくもスラップ訴訟の被告となった。はからずも、憲法上の表現の自由を盾に闘わざるを得ない立場に立たされたのだ。私は、憲法21条の旗を立て、いささかでもこの旗の立つ位置を進めなければならない。
だから、経過を詳細に当ブログで報告して、多くの人に知ってもらい、言論弾圧の一手段たるスラップ訴訟に対する闘いの一典型を示そうとしているのだ。スラップの原告となったDHC・吉田には、結局はスラップの提起が己の不見識を天下に曝す結果となることを自覚してもらわねばならない。社会には、DHC吉田のごときスラップ提訴の常習者に対しても批判の言論の萎縮があってはならないことを示さなければならない。そして、社会悪としてのスラップ訴訟をどうしたらなくすることができるのか、スラップ訴訟提起者や加担者の責任と制裁はどうあるべきか考えていただくよう、問題提起し材料を提供しなければならない。
具体的には、これから当ブログで、改めてDHC・吉田が何をしたのか。それを私が、どのように批判したのか。それに対して、どのようなスラップ訴訟が提起され、原審ではどのような主張の応酬があったのか。そして、一審判決はどのような内容で、これにDHC吉田はどのような控訴理由を書き、控訴審の争点の内容はどのようなもので、双方がどのような主張をしているのか。あと一か月半。細大漏らさず、ご報告したい。ご期待を乞う次第。
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なお、前回ブログの一部を再掲する。経過をご理解いただきたい。
一連の事件の構造は単純なものだ。一方に、政治家に金を出して政治を動かそうとするスポンサー(吉田嘉明)がいて、他方に金をもらって政治活動をしようという政治家(渡辺喜美)がいる。双方の思惑が噛み合って、巨額のカネの授受がなされた。その額8億円。
もちろん、日の当たるところでの金の授受ではない。政治資金規正法上の政治資金収支報告書にも、公職選挙法上の選挙運動費用収支報告書にも記載がない。政治資金や選挙運動資金の流れを可能な限り可視化して国民の批判に曝すことが両法の理念なのだから、もともとは表に出なかったこの8億円は「裏金」といって不都合はない。
この裏金、政治資金あるいは選挙運動資金であることに疑いはない。政治への影響力を意図して、吉田から渡辺に渡されたこの巨額の裏金はいったい何を狙ってのものか。どのような政治を求めてのものであろうか。
DHC・吉田は、企業経営者として労働行政や公正取引ルールなどの一般的行政規制に服するだけでなく、薬事行政や健康食品行政上の規制、消費者行政上の厳格な規制を受ける立場にある。いずれも、主として消費者の健康を守るための、典型的な社会的規制である。まさかDHC吉田が、消費者の健康や労働者の利益のために、規制を強化し厳格化するための政治を求めてカネを出すことなどおよそ考えられない。「行政規制の緩和」のために「官僚と闘う」政治を目指して、吉田と渡辺の思惑は一致し裏金が動いた。こう見るのが、社会の常識というものだ。
いったんは思惑噛み合った両者に、たまたま齟齬が生じて、吉田が週刊新潮誌上に暴露記事を書いた。このことから、裏の金が表に出た。つまりはたまたまの事情で8億の裏金の存在が世に知られた。おそらくはこれが氷山の一角で、政治の裏面には、もっと口の固い連中同士の表に出ない類似の金がうごめいているのではないだろうか。
さらに強調したいことは、この裏で行われた吉田から渡辺への金の授受が、実際には政治資金あるいは選挙運動資金ではあっても、政治家個人に貸したという形式をとりさえすればお咎めなしとするなら、政治資金規正法も公職選挙法も、役立たずのザル法である。本件金銭授受の当事者である両者の行為が、透明性を徹底し量的規正を設けた法の趣旨に反していることは明らかである。こんなやり方の脱法を許してはならない。カネを出した方も、受けとった方も、厳格に処罰できる法の整備が必要だ。そうでなければ、いつまでも金にまみれた薄汚い政治の浄化はできない。
私は、予てから政治とカネの問題に関心をもっていたが、この事件でメディアが渡辺だけを叩いて、スポンサー側のDHC・吉田の行為を弾劾しないことを強く不満に思った。そこで、週刊新潮に吉田の手記が発表された直後に、DHC・吉田の側を批判するブログを3本書いた。下記のとおりである。これが、損害賠償の根拠とされた。
どんな「罵詈雑言」が2000万円の賠償の根拠とされたのか、興味のある方もおられよう。ぜひ下記3本のブログをご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
https://article9.jp/wordpress/?p=2386
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2426
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」とする批判を内容とするものである。
何を血迷ったか、DHC吉田は、この私のブログが名誉毀損に当たる違法な記事だとして、いきなり2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私だけでなく、同様の批判をした10人に対しても一斉の提訴だった。カネに飽かせた乱暴極まる提訴。敗訴してもともと、「DHC吉田を批判するとこのような面倒になるぞ」という恫喝の実績を狙った、典型的なスラップ訴訟である。
私は、この提訴自体が怪しからんと「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを書き始めた。そしたらどうだ、2000万円の請求金額は6000万円に跳ね上がった。この請求拡張の経過自体が、スラップであることを自ら証明している。ところで、このシリーズは以下のとおり、既に52回にわたっている。下記のURLを開いてたどれば、すべて読める。読み物としてもなかなか面白いのではなかろうか。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12
2014年7月13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
2015年9月2日
第51弾「全面勝訴・ご支援に感謝 表現の自由が輝いた」
さて、DHC吉田は9月2日東京地裁での全面敗訴判決を得て控訴した。これから、東京高裁での控訴審が始まる。
私は、スラップ常習のDHC吉田の恫喝に屈してはならないと覚悟を決めている。私は理不尽に黙れと言われれば、精一杯の大声を出さねばならないと思うタチなのだ。けっして、DHC吉田に対する批判に、萎縮や遠慮があってはならない。言うべきことを軋轢を恐れて自主規制してはならない。むしろ、もっともっと声を大きく、その不当を糾弾し続けなくてはならない。
ぜひ、ご支援をお願いしたい。そして、政治とカネの問題。消費者利益と行政規制の問題。さらに、政治的言論の重要性と、これを封殺しようとするスラップ訴訟の不当性を重大なこととしてお考えいただきたい。
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『DHCスラップ訴訟』控訴審にご支援を
このブログに目をとめた弁護士の方で、『DHCスラップ訴訟』被控訴人弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697号)までご連絡をお願いします。
また、控訴審の訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。量的規制は設けませんが、くれぐれも多額に過ぎることのございませぬように。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
(2015年11月10日・連続955回)
放射能とはやっかいなものだ。
放射性物質を、
叩こうが砕こうが、
粉々にしてローラーで押し潰しても、
ダイナマイトで吹き飛ばしても…、
煮ても焼いても、
バーナーで熱処理しても…、
酸をかけてもアルカリでも、
いかなる化学処理も…、
放射能の毒性を稀薄化することは、
寸毫もできない。
除染とは、
散らばっている放射線物質の分布を、
多少拡散したり、位置を動かしたりする
それだけのことなのだ。
かつて地上に充満していた自然放射線が、
万年・億年単位の半減期を繰り返して、
ようやく生物の生存に適するまでに低減してきたのに、
なんと愚かな人間たちよ、
今またこの放射線値を上げているのだ。
放射能とはやっかいなものだ。
放射性物質を管理する職場では労働災害をもたらす。
外に漏洩すれば、環境を汚染して深刻な公害を引き起こす。
汚染された環境下の材料が加工されて商品となれば消費者被害だ。
いや、並みの労災、並みの公害、並みの消費者被害ではない。
生物の生存環境を根こそぎ奪いかねない被害の質と知るべきなのだ。
その放射能の恐怖を骨身に沁みて味わったのが、
1945年の8月6日と9日の以後のこと。
1954年3月1日にこれを繰り返し、
さらに2011年3月11日、3度目のこととしてしまった。
その福島第1原発事故による放射線被曝の恐怖が癒えぬうちに、
各地の原発は次々と再稼働される勢いだ。
核廃棄物の捨て場さえないのに
プルトニウムの増殖さえたくらんでいる。
人類が安全に生存する環境を破壊してまで、
目先の経済的な豊かさを追求しようという、
これも愚かな人間の性。
しかも、である。
本来廃棄しなければならない戦争のための武器として
放射性物質を大量にため込んで、
その暴発と漏洩の恐怖の中に人類が生存している。
これこそ人間の愚劣愚昧の象徴。
東京にもっとも近い放射線物質漏洩危険の場所は、
東海村でも、浜岡でもない。横須賀なのだ。
空母ロナルドレーガンが登載した原子炉2基の出力は120万キロワット。
津波がきたら、この原子炉がトーキョーとヨコハマをフクシマと化す。
原爆と水爆と、そして原発事故の三重苦を味わった日本。
4度目こそは、絶対にご免。ご免なのだが…。
核廃絶を求める国民世論は、かつて3000万筆の署名に結実した。
その核廃絶を願う国民が作ったはずの日本の政府は、何をしている。
国連総会は11月2日、
核兵器の非人道性を強調し、核廃絶への法的枠組みの強化を求める「人道の誓約」決議を、加盟193か国中の賛成128で採択した。
「唯一の被爆国」を称する日本は、どうしたか。
提案国にもならず、賛成票を投じることもなく、
棄権したのだ。なんたることか。
やっかいなのは放射能ではなく、
実は、人間の愚昧と、
政権の愚劣なのかも知れない。
嗚呼。
(2015年11月9日・連続第953回)
昨日(11月7日)の琉球新報が、辺野古埋め立て問題に関する、沖縄県対政権対立構造の最新状況を要領よく報道している。見出しは、「知事、是正勧告を拒否 『取り消しは適法』 国交相に公開質問状」というもの。「是正勧告拒否」と「公開質問状」の2点がメイン。それに、予想される「代執行訴訟」や「沖縄防衛局と一部業者の癒着」、「警視庁機動隊投入問題」などにも言及されている。
是正勧告とは、国から知事に対する、「辺野古海面の埋立承認の取消を、違法だから取り消せ」というもの。「取り消しを取り消せ」という面倒に至った経過の概要を説明すれば、以下のとおり。
☆国の機関である沖縄防衛局が辺野古新基地建設のために辺野古沿岸海域の埋立を企画して、公有水面埋立法に基づいて沖縄県に法が必要としている承認を求めた
☆この承認申請に、県民世論は圧倒的に反対だったが、2013年12月任期切れ直前に仲井眞弘多前知事が世論を裏切って突如承認した
☆辺野古新基地建設反対の県民世論に押されて、仲井眞を破って新知事に当選した翁長現知事は、前知事の承認には瑕疵があったとして、承認を取り消した
☆地方自治法の規定では、県の行為に違法がある場合、国はこれを是正する権限があり、是正勧告⇒是正指示⇒代執行 と踏むべき手続が定められている。
☆国は、沖縄県知事に対して、「承認取り消しを取り消すよう勧告した」
新報の記事は、翁長知事が敢然とこの勧告を拒否したこと、併せて公開質問状を発したことを報じている。再度経過を要約すれば以下のとおり。
沖縄防衛局埋立申請→仲井眞・承認→着手→翁長・承認取り消し→国交相・取消を取消すよう勧告→知事拒否・併せて公開質問状
(新報の是正勧告拒否関連記事)
「米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画をめぐり、石井啓一国土交通相が翁長雄志知事の埋め立て承認取り消しを取り消すよう求めた是正勧告について、県は6日、拒否する文書を石井国交相宛てに送付した。翁長知事は同日開いた会見で「取り消しは適法と考えていて勧告に従うことはできない」と述べた。翁長知事が勧告の次の段階で出される是正指示にも従わない方針を示したことから、石井国交相が今月中にも翁長知事の承認取り消し処分を国が代わりに取り消す代執行を求めて高裁に提訴する公算が大きくなった。」
(新報の公開質問状記事)
「県は同日、石井国交相が、審査請求と執行停止を申し立てた沖縄防衛局を「私人」と認める一方で、代執行手続きでは防衛局を「行政機関」と位置付けていることの整合性など5項目を問う公開質問状も国交相宛てに送付した。13日までに回答するよう求めている。県が大臣に公開質問状を送るのは異例。」
(新報の代執行訴訟関連記事)
「県弁護団は同日の翁長知事の会見の席で、来月にも開かれる代執行訴訟の口頭弁論に翁長知事が出廷し、意見陳述することを検討していると明らかにした。」
(新報の政府への不信表明関連記事)
「公開質問状を送付したことについて、翁長知事は『沖縄防衛局長のみならず国交相までもが自らの都合に応じて立場を使い分けている。さらに警視庁の機動隊員を大量投入するなど、なりふり構わず移設を強行しようとしている。政府は通り一遍の言葉ではなく、国民、県民に対し明確に説明責任を果たすべきだ』と述べた。
沖縄防衛局が設置した環境監視等委員会の一部委員が辺野古移設工事の受注業者から寄付などを受けていた問題に関し、翁長知事は『県の質問に対する防衛局の回答は既存の議事要旨などを基に指導助言機能は適切に果たされていると主張するのみだ。国民、県民の疑念は払拭されるどころかますます深まっていく』と指摘し、十分な内容の報告をするよう再度求めていく姿勢を示した。」
なお、沖縄県のホームページが、この記者会見の「知事読み上げ文」を掲載している。
「本日は、国土交通大臣が行った辺野古新基地建設に係る公有水面埋立承認取消処分を取り消せとの勧告等について、私から報告申し上げます。
1点目に是正の勧告の拒否についてですが、本日、去る10月28日付けで国土交通大臣が地方自治法第245条の8第1項の規定により行った、「辺野古新基地建設に係る公有水面埋立承認取消処分を取り消せ」との勧告について、勧告には従わない旨の文書を同大臣あて発送いたしました。
県は、本年7月の第三者委員会の検討結果を受けてこれを精査した結果、承認には取り消し得べき瑕疵があるものと認め、取消しを行ったものです。したがいまして、本件取消しは適法と考えており、勧告に従うことはできません。
2点目に公開質問状についてですが、承認取消しに対する審査請求、審査請求手続における執行停止決定及び代執行手続への移行といった一連の政府の対応において、沖縄防衛局長のみならず、国土交通大臣までが、自らの都合に応じて立場を使い分け、さらに警視庁の機動隊員を大量投入するなど、まさしくなりふり構わず移設を強行しようとしております。
政府は、これらの対応について、通り一遍の言葉ではなく、国民、県民に対して明確に説明責任を果たすべきであると考えます。
そこで県では、本日、国土交通大臣に対して、この点についての公開質問を行うこととし、公開質問状を送付いたしましたので、報告します。
3点目に環境監視等委員会の寄付等についてですが、昨日、本県から沖縄防衛局長に照会した環境監視等委員会への寄付及び報酬に対する回答がありました。既存の議事要旨等を基に委員会の指導助言機能は適切に果たされていると主張するのみで、委員就任後に寄付金が大幅に増額された委員がいるにもかかわらず、議事録の公表もありません。
国民、県民の疑念は払拭されるどころか、ますます深まっていくのではないでしょうか。
改めて、十分な内容の調査結果の報告や、議事録の公開等を強く求めてまいります。
今後も、辺野古に新基地は造らせないという公約の実現に向け、全力で取り組む考えであります。」
さて、11月13日までにと回答期限を切った、沖縄県知事から国交相宛の公開質問状である。その全文はやはり県のホームページに掲載されている。この公開質問状は関心をもつ者に必読と思われるので、全文を掲載しておきたい。((審査請求に関し)(関与の制度に関し)の小見出しは、澤藤が補った)
公開質問状の送付について
平成27年10月27日、国土交通大臣は、沖縄防衛局長の審査請求手続における執行停止の申立てを受けて、審査庁として沖縄県知事が行った埋立承認取消処分の執行停止を決定しております。
その一方で、同日、政府は本件取消処分について是正を図るため、地方自治法に基づく代執行等の手続に着手することを閣議了解し、これを受けて、翌28日には、国土交通大臣が沖縄県知事に対し、勧告を行っております。
これらの承認取消しに対する審査請求、審査請求手続における執行停止決定及び代執行手続への移行との判断といった一連の政府の判断は、都合に応じて自らの立場を使い分けるものであり、強く非難されるべきものであります。
本県では、政府がこのような対応を取っていることについて、国民や県民に対して明確に説明責任を果たすべきであると考え、別紙のとおり公開質問を行うものです。
つきましては、平成27年11月13目(金)までにご回答いただくようよろしくお願い致します。
(審査請求に関し)
質問1 辺野古沿岸部の埋立事業は、日本政府が日米両政府の合意の履行として、閣議決定に基づき実施されている「国家の事業」であることは、明らかだと考えますが、いかがでしょうか。
質問2 上記埋立事業が「国家の事業」であるとしますと、沖縄防衛局の埋立申請は、必然的に「国」(固有の資格)としての埋立申請と解されるのが自然であるかと考えますが、何ゆえに、同申請が「私人」としての申請と解されることになるのでしょうか。
質問3 公有水面埋立法が、埋立申請につき、「私人」の申請と「国」の申請を区別していないということであれば、同法で、「国以外の者」の申請と「国」の申請を区別して定めている理由をどのように考えればよいのでしょうか、貴職の見解を明らかにしていただきたい。
質問4 平成11年の地方分権一括法により、地方自治法の中に国が地方自治体の判断に介入する「関与の制度」(第11章 国と地方公共団体との関係及び普通地方公共団体相互間の関係)が新設されています。国と地方公共団体との紛争は、同手続きを利用して解決されるべきであるというのが同制度の趣旨と思われますが、貴職は、何ゆえに同制度の利用にとどめず、敢えて行政不服審査法に基づく審査請求制度を利用して、行政内部で「執行停止」の決定をしたのか、その意図を明らかにしていただきたい。
(「関与の制度」に関し)
質問5 地方自治法245条の8第1項は、国による代執行等の手続について、「本項から第8項までに規定する措置以外の方法によってその是正を図ることが困難」な場合に限って勧告、指示を行うことができ、同指示に知事が従わないときに高等裁判所に訴えを提起できると規定されています。
今回、国土交通大臣は勧告書において「貴職が行った取消処分について、法その他の法令には他の機関がこれを取り消す規程はなく」と述べ、代執行等の手続によらなければ「その是正を図ることが困難」であるとしています。
その一方、勧告に先立ち、国土交通大臣は沖縄防衛局の行った審査請求を適法な申請と認めて執行停止決定を行っています。この決定は、国土苦痛大臣が自らには本件審査請求における裁決によって沖縄県知事の行った埋立承認取消処分を取り消す権限を有すると判断したことを意味するものと考えます。
すなわち、国土交通大臣は、当該埋立承認取消しに関して、一方では審査請求での解決が可能と考えており、他方では、代執行等の手続によらなければその解決をはかることが困難として、勧告を行っていることになります。
何ゆえに、このような矛盾した判断がなされているのか、分かりやすいご説明をいただきたい。
これは、相当なものだ。おそるおそるの「お伺い書」でも、「上申書」でもない。まったく対等な立場であることを前提として、地方自治体からの国(実は政権)への果たし状のようなものではないか。堂々と、「あなたの方が間違っている」と言ってのけ、「そのことを県民や国民に分かっていただくための公開質問」だというのである。前代未聞の痛快事ではないか。
国交大臣に代わって、この公開質問状の各質問事項に回答を起案してみよう。思っていることを飾らずホンネでだ。
(はじめに)
まず、このような公開質問状をいただいたことを大変遺憾に存じます。ことは、法的なことがらなのですから、当職と貴職との間で、粛々と意見の交換を行うべきが筋であって、敢えて公開での意見を求める必要は毫もないと言わざるを得ません。
貴職の立場は、冷静に法を踏まえた意見を交換しようとの真摯さに欠け、本件を政治的闘争の具とされているものと評されても反論の余地がないものと考えます。普天間基地の周辺にあって同基地の移転を強く求めている住民の願いや、条件の整備次第では辺野古への基地移転を承諾することを表明している久辺3区の人々の立場にも、配慮をされた姿勢を保持されますよう、一言申しあげておきます。
また、法は明らかに、国に地方自治体に優越する地位と権限を付与しています。これは、各地方の住民の利益のために法の下の平等を貫き、統一した法の支配を貫徹するための必然的な要求と考えられるところです。
そのような立場にある国が、国民の安全保障という最高の憲法的価値の実現と沖縄県民の負担軽減の両者を実現する方策として、腐心の結果の辺野古移転であることに、十分の理解をしていただくようお願いいたします。
これまでも繰り返し申しあげてきましたとおり、これが唯一の現実的手段なのですから、貴県において受容できないとしても、辺野古移転は強行せざるを得ません。この内閣の方針は、実は内閣の母体となっている国会の意思でもあり、砂川大法廷判決で示された統治行為論から、消極的にもせよ司法も容認することが明白と考えられるところです。このことは貴職もよくご存じのとおりではありませんか。政治的パフォーマンスが無駄であることは明白なのですから、ぜひとも自治体のあるべき立場として、国の政策にご協力いただくよう、敢えて苦言を呈する次第です。
(審査請求に関する、質問1?4への回答)
質問1及び2に対して
辺野古沿岸部の海面埋立事業は、閣議決定に基づき実施されている「国家の事業」であることは言うまでもなく、ご指摘のとおりです。しかし、承認権を有している県知事との関係においては、その決定の可否によって権利の行使の可否が左右されるという意味で、私人の立場と変わらないものと考え、審査請求が可能と考えております。ひとつの行為が、法的に多面的な性格をもつことは珍しいことではなく、海面埋立事業が、「国家の事業としての性格」と「知事の承認に服する私人と変わらない性格」の両面をもつものと考えて、不都合はないと思料するものです。
質問3に対して
公有水面埋立法が、埋立申請について「国以外の者」の申請と「国」の申請を区別して定めていることはご指摘のとおりですが、本件のようにひとつの事業が両様の性格を持つと評価される場合には、選択的に「国以外の者」の申請手続と「国」の申請手続のどちらをも選択することが可能と考えてなんの差し支えもありません。
また、仮に最終的に裁判所が法上競合と解釈して、「国以外の者」の申請は不可と判断するとなればそれはそのときのこと。それまでは、当職としては、両者の任意の選択が可能だと考える次第です。
質問4に対して
法の解釈に幅があれば、可能な限り自己に好都合の解釈を選択することは許容されてしかるべきです。とりわけ、国は主権者国民の全体を代表する立場にありますから、国すなわち国民全体の利益のための法解釈の選択は積極的に肯定されるべきだと考えます。ですから、本件について、私人と同等の立場で行政不服審査法に基づく審査請求制度を利用すると同時に、地方自治体の判断に介入する「関与の制度」を活用することの両者を選択して不都合はないと判断しました。けっして明らかに明文規定に反するわけではないうえに、安全保障に関わる重要事として紛争の早期解決に至ることが許容されると考えたからです。それ以外の「意図」はありません。
(「関与の制度」に関する問に対する回答)
質問5に対して
上述のとおり、本件埋立事業に2面の性格がある以上、両様の対応が可能で、「矛盾した判断」との指摘は当たりません。
また、仮に最終的な司法の法解釈が「矛盾」との判断に至れば、それに従うだけのこと。実務的な法的主張が、予備的な主張であったり、選択的な主張であったりすることになんの奇異もありません。
むしろ、「何ゆえに、このような矛盾した判断がなされているのか、分かりやすいご説明をいただきたい」という貴職の居丈高な態度について、何ゆえにそこまで言わねばならないのか分かりやすいご説明をいただきたく存じます。
おそらくは、この程度の屁理屈しか言えないだろう。ならば、公開質問への回答は、逃げるに如かずということにならざるをえまい。
(2015年11月8日・連続第952回)
このごろ巷に流行るもの、「不祥事に、第三者委員会」である。
第三者とは「当事者以外の者、その事柄に直接関係していない人を言う」と辞書は解説しているが、どうも身内のお手盛り委員会と疑われるものが多い。どうやら、「第三者委員会まがい」、ないしは「第三者委員会もどき」である。
不祥事の当事者は、記者会見で神妙に頭を下げ、「第三者委員会を設置して厳重に調査してもらいます」と呪文をとなえる。この呪文が案外に効くのだ。社会からの風圧を遮断し、その調査結果を待ってみようという気分にさせるのだ。そして、学識経験者や弁護士らから成る委員会(もどき)が、世間の記憶が薄れたころに、気の抜けたサイダーのごとき調査結果を発表をする。これが通例、これが通り相場の定番となりつつある。
ところが、昨日(11月5日)、NHKと日本民間放送連盟による第三者機関であるBPO(「放送倫理・番組向上機構」)がNHKの報道番組「クローズアップ現代」のやらせ問題で珍しく立派な意見書を発表した。これこそ、第三者委員会のお手本ではないか。
政権にも、与党にも、有力政治にも、そしてNHK当局に対しても、怯むことなく臆することなく、指摘すべきを指摘し、批判すべきを批判しているこの姿勢は十分な評価に値する。多くのメディアの論調がこの度のBPO意見書を肯定的に紹介していることは、この社会の健全さを示すものとして爽やかさを感じさせる。
第三者と銘打つ機関の調査結果が辛口であって当たり前なのだが、新聞には「異例の意見書」という大見出しが踊った。「やらせはなかった」というNHKの自己調査を「深刻な問題を演出や編集の不適切さに矮小化している」と批判し、「重大な放送倫理違反があった」「事実と異なることを視聴者に伝えた」と指摘した。(東京新聞)
このまっとうな結論に、NHK当局は「真摯に受けとめる。事実に基づき正確に報道するという原点を再確認し、再発防止策を着実に実行していく」と答えている。(東京新聞)
BPO意見書の異例はこれだけではない。つけ加えて、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めたのである。これが真骨頂。久方ぶりにまっとうな意見を聞くことができ、清々しい気分で朝を迎えることができた。
各紙が「NHKに自民圧力」「BPO 政府の介入を批判」「番組介入許されない」と報じた。「自民党国会議員らの6月の例会で『マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい』との発言があったことなどを『圧力』の例として列挙。高市早苗総務相が4月末、NHKを厳重注意したことも問題視した」「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、放送局側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促した。(毎日新聞)
この日は、タイミングよく「アベチャンネルはゴメンだ!」「怒りのNHK包囲行動」予定の日。包囲行動のボルテージは自ずから高揚した。NHK西門における、従軍慰安婦問題を追及してきた池田恵理子さん、沖縄辺野古から果敢に報道を続けている景山あさ子さんなど各界からのNHKの偏向報道に対する不満や叱咤激励のリレートークも自ずと力のこもったものとなった。出入りするNHK職員もさぞ肩身が狭かろう。
その後、宮下公園から渋谷ハチ公広場前をコースとしたデモ行進が行われた。コールも曇り空に負けまいと大きく響いた。「アベ政権は報道への介入をやめろ」「NHKをアベちゃんねるにするな」「NHKは政権の介入に屈するな」というコールはBPO意見書のとおりである。「籾井会長はやめろ」「NHKは国民の声を伝えろ」は当然の要求である。
「マイナンバーで受信料を徴収するな」は沿道の若い人々の大きな共感を呼んだ。携帯でシャメを撮る人が多いのも渋谷をデモする醍醐味。ちょっと長丁場の包囲行動は参加者や世話人の方には負担かとも思われたが、解散場所の宮下公園へ着いても快い興奮が充満してさりがたい気分が満ちていた。このような人々の声が、BPO意見に反映しているのだ。
(2015年11月7日・連続第951回)
以下は、本ブログ(2013年5月26日)の再掲である。
「私が、盛岡で若さに任せて活動していたころ、たいへんお世話になった先輩弁護士が菅原一郎さん。菅原さんは、労働事件をやるために弁護士になったという人で、岩手弁護士会の中心に位置して、危なっかしい私を支えてくれた恩人。惜しいことに、昨年(2012年11月)鬼籍に入られた。
その一郎さんは、ご夫婦ともに弁護士。旧姓坂根一郎さんと菅原瞳さんとが結婚して、婚氏を菅原にしたのだ。しかも、一郎さんは母の手一つで育てられた長男。姓を変えることに抵抗がなかったはずはない。それでも、自分の姓を捨てて妻の姓をとられたことが語りぐさだった。愛着ある旧姓に固執せず、妻の姓を名乗られたことは、口先ばかりの男女同権を語る男性が多い中で異彩を放つものとして、たいへんな尊敬を受けていた。
後輩には伝説となっていた。真偽のほどは定かでないが、どちらの姓を名乗るかで、夫婦は世紀のじゃんけんを5回戦して瞳さんが勝ったのだ、などとまことしやかに伝承されていた。私はといえば、じゃんけんもせず籤も引かず、私の姓を名乗ってしまった。ずっと、そのことの負い目を感じ続けている。
民法750条が、夫婦は同一の姓を名乗らなければならないとしている。法文上は、「夫または妻の姓を称する」としているが、96%が夫の姓という現実がある。
これについて法制審議会は、1996年2月採択の婚姻法改正要綱の中で、選択的夫婦別姓を導入するとの提案を行った。これに対するパプコメは、圧倒的に賛成が多かったという。しかし、家族制度の崩壊につながるとして、保守派の抵抗は強く、いまだに法改正に手は付けられていない。
世に事実上の夫婦でありながら、別姓にこだわって法律婚を回避している人もいれば、法律婚によって姓を変えられたことにこだわりを持ち続けている人も少なくない。そのような人たち5人が民法750条を違憲だとする裁判を起こしている。「別姓訴訟」という。その判決が間もなく今月29日に東京地裁民事第3部で言い渡される。注目に値する。
立法不作為を違法として、国家賠償を請求する訴訟である。憲法論としては、13条違反(姓の保持の喪失が個人の尊厳を侵害する)、24条違反(両性の本質的平等に違反。婚姻は両性の合意のみで成立しなければならない)。そして、女性差別撤廃条約違反でもあって、国会で750条改正をしなければならない具体的な作為義務があるのに、これを違法に怠っている、という構成である。
現在の裁判所のあり方から見て、困難な訴訟であることは否めない。しかし、当事者の願いの「寛容な社会」の実現に寄与する判決を期待したい。夫婦同姓が愛情に不可欠だと思っている人は、そちらを選択すればよい。しかし、結婚によって夫か妻のどちらかが姓を変えなければならないことに抵抗ある人にまで同姓を強要することはない。それぞれのライフスタイルを尊重する、柔らかい社会が望ましいと思う。」
この訴訟、一審で敗訴し東京高裁控訴審でも控訴棄却となった。しかし、あきらめず上告して、一昨日(11月4日)、最高裁大法廷が夫婦別姓の憲法問題で弁論を開いた。上告審で大法廷の弁論が開かれたからには、新判断を下すことになるのは間違いない。おそらくは同姓強制の制度を違憲と判断することになるだろう。年内にも歴史的な判決に至るだろうと報道されている。期待して待ちたい。
ところで、先日、私の息子が突然つぶやいた。「実は、婚姻届を提出するとき、婚氏をどちらにするか、ジャンケンで決めたんだ。たまたまボクが勝ったから、澤藤姓を名乗ることとなった」と。私は絶句して、冷や汗をかいた。
後日、息子の配偶者に確認したところ、「私はどちらでもよかったんですけど、『公平にジャンケンで決めよう』って言われたんです。『お父さんやお母さんには、お話ししているの?』って聞いたら、『全然そんなこと気にしないから、大丈夫』と言われて、それでジャンケンしたんです」ということだった。
その場に居合わせた息子は、「普段から、人権だの平等だの言っているんだから、ボクがジャンケンに負けて姓を変えても、文句を言う筋合いはないだろう」「それに、間もなく改姓配偶者には旧姓に戻ることができる制度が整えられるという確信もある」と言った。
それはそのとおりだ。一言もない。が、そのことを最初に聞いたときの、私の冷や汗。あれはいったい何だったのだろう。ここは、冷や汗を隠して、息子を褒めるしかない。「息子よ、おまえは立派だ。少なくも、私よりずっとスジが通っている」と。
ちなみに、ふたりとも弁護士志望で、夫婦揃って今年の司法試験に合格した。きっと二人とも、人権問題に敏感な良い弁護士になることだろう。
さて、現行の夫婦同姓強制の制度。これが、私に妻への負い目をつくり、息子のジャンケンに冷や汗をかかせる元凶となっている。最高裁大法廷の明確な違憲判断を経て、すみやかな別姓制度への変更を願う。
妻は、制度が変って旧姓に戻ることができるようになれば、「あらゆる面倒をいとわず、旧姓に戻りたい」と言っている。「80歳の原告が闘って勝ち取った成果をチャッカリいただくのは心苦しいが、残り少ない人生、余福にあやかりたい」そうだ。私も、ついでに妻の旧姓にくっついていきたいような…。罪滅ぼしのために…。
(2015年11月6日・連続第950回)