澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

スラップ訴訟をなくするためにー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第26弾

お招きいただき、ジャーナリストの皆様にお話をする機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。

私は現役の弁護士なのですが、二つの「副業」をしています。一つはブロガーで、もう一つは「被告」という仕事です。この二つの副業が密接に関連していることは当然として、実は本業とも一体のものだというのが、私の認識です。

私は、「澤藤統一郎の憲法日記」というブログを毎日書き続けています。盆も正月も日曜祝日もなく、文字どおり毎日書き続けています。安倍政権が成立して改憲の危機を感じ、自分なりにできることをしなければという思いからの発信です。改憲阻止は、私なりの弁護士の使命に照らしての思いでもあります。

憲法は紙に書いてあるだけでは何の値打ちもありません。憲法の理念をもって社会の現実と切り結ぶとき、初めて憲法は生きたものとなります。そのような視点から、ブログでは多くの問題を取り上げてきました。そのテーマの一つに、政治とカネの問題があります。「政治に注ぎこむカネは見返りの大きな投資」「少なくとも、商売の環境を整えるための保険料の支払い」「結局は政治は金目」というのが、有産階級とその利益を代弁する保守政治家の本音なのです。健全な民主主義過程の攪乱要素の最大のものは、政治に注ぎこまれるカネ。私はそう信じて疑いません。

「カネで政治は買える」「カネなくして、人は動かず票も動かない」という認識のもと、大企業や大金持ちは政治にカネを注ぎこみたくてならない。一方、政治家はカネにたかりたくてならない。この癒着の構造を断ち切って、富裕者による富裕者のための政治から脱却しなければならない。

カネで政治を動かすことが悪だというのが、私の信念。カネを出す方、配る方が「主犯」で罪が深く、カネにたかる汚い政治家は「従犯」だと考えています。だから、カジノで儲けようとして石原宏高に便宜を図ったUE社、医療行政の手心を狙って猪瀬にカネを出した徳洲会を批判しました。同様に、みんなの党・渡辺喜美に巨額の金を注ぎこんだDHCも批判しました。

メディアの多くが「渡辺喜美の問題」ととらえていましたが、私は「DHC・渡辺」問題ではないか、と考えていました。どうして、メデイアは渡辺を叩いて、DHCの側を叩かないのか、不思議でしょうがない。で、私は、3度このことをブログに書きました。そうしたところ、DHCと吉田嘉明から、私を被告とする2000万円の損害賠償請求の訴状が届きました。以来、二つ目の副業が始まりました。

2000万円の提訴には不愉快でもあり驚きもしましたが、要するに「俺を批判すればやっかいなことになるぞ」「だから、黙っておれ」という意思表示だと理解しました。人を黙らせるためには、相手によっては脅かして「黙れ」ということが効果的なこともあります。私の場合は、「黙れ」と言われたら黙ってはおられない。「DHCと吉田は、こんな不当な提訴をしている」「これが、批判を封じることを目的とした典型的なスラップ訴訟」と、提訴後繰りかえしブログに記事を書きました。これまで25回に及んでいます。

黙らない私に対して、DHCと吉田は2000万円の損害賠償請求額を、増額してきました。今のところ、6000万円の請求になっています。もちろん、私は、口をつぐんで批判の言論を止めるつもりはない。もしかしたら、請求金額はもっともっと増えるかも知れません。

私は、DHCと吉田の提訴は、日本のジャーナリズムにとって看過し得ない大きな問題だと考えています。メデイアも、ジャーナリストも、傍観していてよいはずはありません。本日はそのことを訴えたいのです。

DHCと吉田の提訴は、明らかに言論の封殺を意図した提訴です。高額の損害賠償請求訴訟の濫発という手段で、自分に対する批判の言論を封じようというのです。弁護士の私でさえ、提訴されたことへの煩わしさには辟易の思いです。フリーのジャーナリストなどで同様の目に遭えばさぞかしたいへんだろうと、身に沁みて理解できます。金に飽かしての濫訴を許していては、強者を批判するジャーナリズム本来の機能が失われかねません。

しかも、DHC・吉田が封じようとしたものは、政治とカネの問題をめぐる優れて政治的な言論です。やや具体的には、典型的な「金持ちと政治家とのカネを介在しての癒着」を批判する言論なのです。明らかに、DHC・吉田は、自分を批判する政治的言論の萎縮をねらっています。問題はすでに私一人のものではありません。政治的言論の自由が萎縮してしまうのか否かの問題となっているのです。メディアが、あるいはジャーナリストが、私を被告にするDHC側の提訴を批判しないことが、また私には不思議でならない。

いま、吉田清治証言紹介記事の取消をきっかけに、朝日バッシングの異様な事態が展開されています。首相の座にいる安倍晋三が河野談話見直し派の尖兵であったことは、誰もが知っているとおりです。歴史修正主義者が大手を振う時代の空気に悪乗りした右翼が、「従軍慰安婦」報道に携わった元朝日の記者に脅迫状を送ったり、脅迫電話を掛けたりしています。

靖国派と言われる閣僚や政治家たち、そして匿名のネット記事で悪罵を投げ続けている右翼たち。こういう連中に、悪罵や脅迫は効果がないのだということを分からせなければなりません。大学に対して、「朝日の元記者を、教員として採用することをやめろ」という脅迫があれば、大学も市民も元記者を守り抜いて脅迫をしても効果がないもの、徒労に終わると分からせなければなりません。万が一にも、「脅かせば脅かしただけの効果がある」「退職強要が成功する」などいう「実績」を作らせてはならないと思うのです。

DHC・吉田の提訴にも、ジャーナリズムが挙って批判の声を上げることが大切だと思います。DHCは私の件を含め10件の訴訟を起こしました。異常というしかありません。これを機に、わが国でもスラップ訴訟防止のための法制度や制裁措置を定めるべきことを検討しなければならないと思います。

それと並んで、本件のようなスラップ訴訟提起を、それ自体がみっともなく恥ずかしい行為だという社会の合意を作らねばなりません。健全な民主的良識を備えた者、多少なりとも憲法感覚や常識的な法意識を持った者には、決してスラップ訴訟などというみっともないことはせぬものだ。仮に、黙っておられない言論があれば、言論には言論をもって対抗すべきという文化を育てなければならないと思うのです。それには、あらゆるメデイアが、ジャーナリストが、本件スラップ訴訟を傍観することなく、批判を重ねていただくことに尽きると思います。そうしなければ、日本のメディアは危ういのではないか、本気で心配せざるを得ません。

はからずも、私はその事件当事者の立場にあります。ぜひ、皆様のご支援をよろしくお願いします。
(2014年10月24日)

「10・23通達」発出からの11年

本日は、10月23日。東京都の教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出してから11年目となる。11年で舞台の役者はすっかり変わった。石原慎太郎は都知事の座を去り、米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員で残っている者は内舘牧子を最後にいなくなった。教育庁の幹部職員も入れ替わっている。しかし、「10・23通達」はいまだに、その存在を誇示し続け、教育現場を支配し続けている。

入学式卒業式に「日の丸・君が代」など、かつての都立高校にはなかった。それが、「都立の自由」の象徴であり、誇りでもあった。ところが、学習指導要領の国旗国歌条項の改訂(1989年)あたりから締め付けが強まり、国旗国歌法の制定(1999年)後には国旗の掲揚と国歌斉唱のプログラム化は次第に都立校全体に浸透していく。それでも、強制はなかった。多くの教師・生徒は国歌斉唱時の起立を拒否したが、それが卒業式の雰囲気を壊すものとの認識も指摘もなく、不起立不斉唱に何の制裁も行われなかった。単なる不起立を懲戒の対象とするなどは当時の非常識であった。

この非常識に挑戦して、敢えて「10・23通達」を発出したのは、石原慎太郎という右翼政治家の意向によるものだが、より根源的には2期目の石原に308万票を投じた都民の責任というべきであろう。

「10・23通達」発出直後、石原は、「今は、首をすくめて様子を見ている各県も、10年後には東京都の例にならうだろう。それが、東京から日本を変えるということだ」と発言している。今振り返ってみて、当たっているようでもあり、外れているようでもある。けっして、石原の思惑のとおりにことが運んだわけではない。しかし、「10・23通達」を梃子とした教育行政の教育支配は着実に進んでいる。かつての、公教育における自由闊達の雰囲気は大きく損なわれたと、現場の教員は口を揃えて言う。このような教育で、憲法が想定する、明日の主権者が育つのか、心配せざるを得ない。

ところで、「10・23通達」を発出した直接の責任者は、石原に抜擢され、その走狗となった教育長・横山洋吉である。およそ、教育とは無縁の人物。教育長をステップに、その後副知事になっている。この横山と、一度だけ顔を合わせたことがある。「君が代解雇訴訟」一審で、彼が証人として証言したときのこと。私も、尋問を担当している。記録では、2005年10月12日水曜日。この訴訟は、定年後の再雇用が既に決まっていた教員について、卒業式の「君が代・不起立」を理由に、再雇用を取り消したことを違法・無効として、その地位の回復を求めた訴訟である。当時の私たちは、これを解雇と同様の労働訴訟だと考えていた。

当の首切役人である横山の証言について、当時のブログが残っている。参考になろうかと思うので、お読みいただきたい。

「この男が横山洋吉(前・都教育長)か。「10・23通達」を発し、都下の全校長に「日の丸・君が代」強制の職務命令を出させた男。300人余の教員を懲戒処分し、本件原告10名の首を切った男。石原慎太郎(知事)の意を受けて、公教育に国家主義的イデオロギーと管理主義教育体制を持ち込んだ男。

君が代解雇訴訟で、この男が地裁103号法廷の証言席に座った。庁内最大の法廷も、今日は傍聴席の抽選倍率が3倍となった。原告側の反対尋問時間の持ち時間は2時間。私も30分余担当した。

主尋問への証言は無内容、粗雑なものであった。こんな粗雑なだけの証言をする人間に、教育行政を預け、教員の首を預けていることへの恐ろしさを禁じ得なかった。とんでもない人物に権力を握らせる恐怖である。

しかし、反対尋問では、意外に証人は挑戦的ではなかった。そして、証言の切れ味もなかった。ただただ粗雑に、首切り役人の役割を買って出たその姿を露わにした。憲法の理念に理解なく、なすべき検討を怠り、慎重さを欠いて、ひたすら蛮勇をふるった姿。

彼が語ることは、極めて単純。

『学習指導要領が法的拘束力を持っている。それに従って適正に国旗国歌の指導が必要だ。ところが、都立校では適正な指導がなされておらず、積年の課題として正常化が必要だった。だから、「10・23通達」が必要だった。「10・23通達」に基づいて、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」との職務命令を発したのは校長の裁量だが、職務命令が出た以上は、その違反を理由とする懲戒処分は当然』これだけである。

この道筋以外のことは彼の頭に入らない。検討もしていない。この彼の「論理」の道筋を辿った反対尋問がなされた。学習指導要領の性格について、旭川学テ訴訟最高裁大法廷判決の理解について。「大綱的基準」の意味について。創意工夫の余地が残っているかについて。学習指導要領と「10・23通達」の乖離について。教員への強制の根拠について。児童生徒の内心への介入について。強制と指導の差異について。内心の自由説明を禁止した根拠について。処分の量定の根拠について。比例原則違反について‥。

およそ、憲法上の検討などはしていないことが明らかとなった。彼は、「憲法19条の思想良心の自由は、純粋に内心の思想だけを保護するもの」という。では、「内心の思想良心が外部に表出されれば、21条の問題となる。21条についてはどのような検討をしたのか」と聞いたところ、「21条とは何でしょうか。私は法律家ではないから分からない」と言った。これには、本当に驚いた。21条は、9条と並ぶ憲法の看板ではないか。憲法のエッセンスである。本件でも、不起立を、象徴的表現行為との主張もしている。

突然に尋問が空しくなった。もっともまじめな教育者たちが、その真摯さゆえに、こんな程度の人物にクビを切られたのだ。およそ何の配慮も検討もなく。」

なお、10月25日(土)18時30分から、
お茶の水の連合会館(旧総評会館)大会議室で
「学校に自由と人権を!10・25集会」が開催される。

集会の趣旨は以下のとおり。
「都教委の10・23通達による463名もの教職員の大量処分。こんな異常な教育行政に屈せず闘い続けて11年。この闘いを通して学校での「日の丸・君が代」強制は、「戦争する国」のための人つくりの「道具」となっていることを実感しています。

都教委は、10・23通達を契機に学校現場を「屈服」させ、都立高校での自衛隊との連携に名を借りた宿泊防災訓練(自衛隊への「体験入隊」)、「学力スタンダード」など都教委の各学校の教育課程への介入、「生活指導統一基準」という名の「処罰主義」による画一的生徒指導の押しつけ、「国旗・国歌法」に関する記述を理由とした実教出版の日本史教科書の排除など、「戦争する国への暴走の先兵となっています。

私たちは、都教委と正面から対決して闘い続けてきました。その原点の1つが「子どもたちをを再び戦場に送らない」決意です。」

メインの講演は池田香代子さん「子どもとおとな 平和でつながろう」
私も特別報告で「『君が代』訴訟の現段階と今後の展望」を語る。 
ぜひ、集会にご参加を。
(2014年10月23日)

「ノルウェー漁業」に学ぶー経済競争は果たして善だろうか

昨日(10月21日)の毎日新聞第11面。「地球INGー進行形の現場から」という月に1度の連載ルポが、「ノルウェー管理漁業」を取り上げた。ノルウェー漁業政策の成功譚である。「浜の一揆」衆に加担している私には、ノルウェー漁業が話題となること自体が欣快の至り。

調査の行き届いた内容の濃い記事を読んで、改めて考えさせられることが多い。漁業関係者ならずとも、興味をそそられる内容ではないか。長文の記事なので、私の関心にしたがって要点だけを紹介する。

まず、見出しをご覧いただきたい。これだけで、あらかた内容を理解していただけよう。
◇船ごとに漁獲量割り当て
 過当競争をやめ資源回復
 漁業者の生活も安定
◇危機直面 科学的助言を重視

何よりも、目を惹くのは、ノルウェーの漁民が経済的に豊かだということだ。後継者問題での悩みが深い日本の漁民の目からは羨ましい限り。
「ノルウェーの漁業は最近、高収入が期待でき、漁師の年収は600万〜1000万円にもなる。子が漁師を継ぐケースも多い」「管理漁業で漁業者の生活は安定した。20億円前後の大型漁船を購入して10年でローンを返済することも珍しくない。冷凍工場の社員が耳打ちしてくれた。『漁師は今、高級車を買って、大きな家を新築している』」

もう一つは、ノルウェー漁民の余裕である。
「『漁師仲間と電話で情報を交換する‥』と船長は言う。漁師同士はライバルではなく仲間なのだ」「船長は言う。『過当競争は水産資源を傷つけ、最終的に自分たちの首を絞める』」ここが最も印象に深い。

この成功をもたらしたのは、「船ごとに漁獲量を割り当て、漁業者同士で漁獲枠の貸し借りや、売買ができることを柱にした『漁船別漁獲割り当て(IVQ)』と呼ばれる管理漁業」の導入である。ノルウェーやニュージーランドでは、この制度の導入が成果をあげているのだ。

海洋資源は本来誰のものでもない。所有権が設定された農地に生産された農産物とは、根本的に性格が異なる。我れ勝ちに乱獲することの不合理は誰の目にも明らかではないか。まずは、資源保護のために漁獲可能の総量を科学的に算定する。これをTAC(Total Allowable Catch)制度と呼んでいる。この総量(TAC)は、多くの国において漁業経営の単位ごとに割り当てられている。この個別の漁獲高割り当て制度をIQ(Individual Quota)という。漁船単位の割り当てを(IVQ)というようだ。

IQが定められれば、漁民間の競争はなくなる。抜け駆けは不要、無理をすることもない。漁師それぞれが、自分にとって一番都合のよい時期に稼働すればよい。「ヨーイ、ドン」で解禁された漁場に出向いて、限られた時間で他人より多くの漁獲高を上げようとする不毛な努力は不要となる。そのような「オリンピック方式」がもたらす無駄もなくなる。

イカ釣漁業の集魚灯は、最初は小光量・小電力で十分な漁獲があった。それが、大光量化・大消費電力化の歴史をたどって、燃料依存度の高い産業となり、燃油高騰を背景に厳しい経営を余儀なくされている。大光量化・大消費電力化は、主としては漁船間の競争によって余儀なくされたものだという。一斉に漁場に出て、他の漁船に負けまいとする競争がこのような、不合理な結果をもたらしている。

日本では、何種類かの魚種にTACの制度が導入されているが、IQの導入はない。IQなしのTACは、漁民をさらなる競争に駆りたてることになる。「IQ制度は漁業経営単位ごとにあらかじめ期間中の漁獲枠が与えられているので,その枠をいかに効率的,経済的に利用していくかは,漁業経営単位の裁量に任されている。このことは漁業経営に安定性をもたらすほか,資源を持続的に利用できるという資源管理上の効果を期待できる点に特徴がある」と研究者は解説している。

漁民の漁獲高に個別の制限が設けられれば、漁民がコストの削減に意を用いることになるのは理の当然。漁船単位でも漁業界全体でも、省エネ省資源に資することが必定となる。

漁業政策の基本理念は、「水産資源の維持」と「漁業者間の利益の公平」の2点に尽きる。TACとIQの制度は、これを二つながら満足させることになる。この政策を採用するよう、強く要求しているのが「浜の一揆」の主体となっている岩手県漁民組合なのだ。ところが、岩手県の水産行政がいっこうにこれに応える姿勢がない。本来、行政が主導して、漁民のための政策を実行すべきなのだが、実態は真逆なのだ。漁民組合の有志は、ノルウェーまで出かけて行って、彼の地の制度の成功を学んでいる。弘化や嘉永の三閉伊一揆においても、一揆衆は周到に学習を積み上げていた。「浜の一揆」も同じなのだ。

毎日の記事によれば、ノルウェーも昔からこうだったのではないという。
「ノルウェーは1960〜80年代にかけ、乱獲で水産資源を枯渇させた。ニシンは69年からの約10年間、ほとんど漁獲量がなく、マダラは80年代後半に漁獲量が激減した。
 漁業関係者には『繰り返すな(ネバー・アゲイン)4月18日』という合言葉がある。89年のその日、海からマダラがいなくなり漁師は沿岸漁の停止に追い込まれた。この『事件』が危機感を呼び、政府は水産資源保護に本腰を入れた」

こうして、「漁船別漁獲割り当て(IVQ)」と呼ばれる管理漁業が導入された。複合的な政策が効果を上げ、水産資源は90年代から回復した。結果的に漁業者の生活も安定する。「81年に13億4500万クローネ(当時のレートで約516億円)だった漁業補助金は現在、ほぼ0だ」という。

 水産会社「極洋」(本社・東京都港区)の房田幹雄さんの話でルポは締めくくられている。「房田さんは34年間、この時期、現地で品質をチェックしている。房田さんは『しっかりと漁獲量を管理することで漁師は船を大きくし、冷凍会社は倉庫を広げた。日本にないほどの大きな船や倉庫がノルウェーにある。将来を見据えた水産政策が実を結んだ。日本が見習うべきことは多い』と語った」

「取材後記」として、記者の感想が述べられている。
「(両国の漁業事情の)違いを理解しながらも、水産資源を保護しながら、漁業者の生活を安定させたノルウェーから学ぶことは多い。水産資源が枯渇してしまっては文化や地域コミュニティーも維持できないからだ」

我々は、経済社会においては競争の存在こそが善で、優勝劣敗あることは当然との思想を刷り込まれてはいないだろうか。資源の有限性が誰の目にも明らかな時代に、力によるその分捕り競争を認めることは、実は全体の利益に反することとなるまったく愚かなことではないだろうか。

漁業という場において、限りある資源の合理的な配分を通じて資源の維持に成功すれば、これは文明史的な大事件ではないか。そのとき「浜の一揆」は大仕事を成し遂げることになる。もちろんその時点では、県の水産行政は一揆衆の味方になっているはずだ。
(2014年10月22日)

小渕優子議員の出直しは議員辞職から

朝日の「かたえくぼ」欄に、
 「『復活』 お久しぶり ?政治とカネ」 とある。

なるほど、昭電事件・造船疑獄・ロッキード事件・リクルート事件・佐川急便事件等々の政権の中枢を揺るがす超弩級事件はしばらくなかった。その意味では、小渕優子事件は「政治とカネ」の大型話題提供事件として「お久しぶり」の「復活」なのかも知れない。しかし、政治とカネとの問題は、政権中枢を揺るがすほどのものではないにせよ、常に話題となり続けてきた。保守政権が続く我が国の政治史に通有というだけでなく、民主主義が成熟するまでの半永久的なテーマなのかも知れない。しかも、このマグマはくすぶっていただけではない。ごく最近に限っても、いくつか火を噴く事件も起こしている。「UE・石原宏高事件」、「徳洲会・猪瀬直樹事件」、「DHC・渡辺喜美事件」など、いずれも政治をゆがめることにおいて悪質性は高い。

ところで、資本主義とはカネがものをいう社会である。利潤の追求を容認し、カネの力を率直に認め合うことがお約束。労働力すら売買の対象となって誰も怪しまない。その資本主義の社会において、なぜカネで票を買ってはならない(投票買収の禁止)のだろうか。なぜ、カネで人を雇って選挙運動をさせてはならない(運動員買収の禁止)のだろうか。選挙運動や政治活動までも規制して、政治献金の量的規制や透明性確保などという、あきらかに自由主義の原則に反するルール設定が何故に合理性を持つものとされているのだろうか。

政治活動も選挙運動も本来は自由のはず。憲法21条によって保障される表現の自由の範疇の行為として、その制約は必要最小限にとどめられるべきが大原則である。原則における「自由」が、「公正」という別の法価値からの規制を受けるという局面。どこまでの制約が合理的なものとして許されるか。そこが問題だ。

政治活動は、最終的に選挙結果に結実する。選挙は言論による有権者の支持獲得の競争と位置づけられる。競争の勝敗は有権者の支持の表明としての得票数によって決せられる。有権者が自ら競争に参加し、あるいは競争者間の言論に耳を傾ける過程をへて、有権者団が多数決をもって審判を下す。ここには、最大多数の支持獲得が暫定的にせよ最大幸福の実現につながるという理念がある。

「純粋な言論による競争」が選挙の基本理念なのだ。どのような政治が最大多数の利益になるのか、どのような政策がそれぞれの有権者の利益・不利益にどう関係するのか。政策の表明を中心に、有権者の支持獲得が競われることになる。

このような競争の武器は可及的に自由な言論に純化すべきことが要求され、それ以外のものはあるべき選挙の攪乱要素として排斥される。自由な言論戦を攪乱する要素の最たるものがカネである。カネの力によって獲得された支持や票は、けっして最大多数の最大幸福をもたらさないからだ。金持ちが選挙に投入するカネは、そのカネを出した少数金持ちの利益以外にもたらすものはない。けっして社会全体の利益にはならないのだ。従って、「カネがものを言って当然」という資本主義社会の経済原則は、ここでは意識的に排除されることになる。社会全体の利益を最大化する見地から、「票は金で買えない」とされるのだ。

「票は金で買えない」「票を金で買ってはならない」ことは、経済力の格差が言論戦に反映することも公正を欠くものとして容認しえないことになる。選挙を繰り返す中で、民主々義はそのような「常識」に到達したのだ。こうして、「選挙の公正」は次第に「選挙の自由」を浸蝕しつつある。

資金力の不公平を是正する限りにおいて、「選挙の公正」による「選挙の自由」の抑制は肯定されてしかるべきである。金権選挙・企業ぐるみ選挙は、徹底して排撃されなければならない。他方、言論戦それ自体の自由は最大限に保障されなければならない。だから、選挙運動の自由の規制は不当なものとして撤廃すべきであるが、選挙運動費用収支の量的質的規制や、収支報告の透明性の確保に関する規制は遵守すべきなのだ。

もっとも、「『選挙運動は無償を原則とする』などということは一方的な澤藤の思い込みで、間違った解釈である」という見解をネットで堂々と公開している「革新陣営」の弁護士もいる。多分、いまだにこの水準が多くの候補者や選挙運動参加者のホンネなのだろう。しかし、法は意識水準よりも先を行っている。「選挙運動は無償を原則とするものではない」などと信じ込まされるとたいへんな目に遭うことになる。

選挙に立候補する人、選挙運動に携わる人に申し上げたい。とりわけ、革新陣営の候補者に。「潔白に身を処すように心がけさえしておれば、問題を起こすようなことはあるまい」などと精神論だけで悠長に構えておられる時代ではない。選挙の公正を確保するための規制は、繰り返される脱法を防止するために複雑化している。もはや政治家自らが制度に精通していないではたいへんなことになりかねない。既に、「秘書にお任せ」「政党指導部にお任せ」では、政治家たる資格のない時代なのだ。

また、候補者の掲げる政策に賛同して選挙運動に参加する人、後援会活動に参加する人に申し上げたい。選挙運動は無償に徹すべきものなのだ。選挙をアルバイトと考えてはならない。選挙で飲み食いして、足りない分を補填してもらうなどしてもらってはならない。選挙に絡んでカネをもらうことは、実は犯罪に巻き込まれる危険にさらされることなのだ。

保守政界のプリンセスであった小渕優子も、結局は「秘書にお任せ」の実態を露呈して、政治家としての資格のないことを天下にさらけ出した。この人、けっして右翼でも靖国派でもないだけに、残念な気持ちは残るが、出直しするしかない。問題はどこまで出直しが必要になるのかということ。閣僚辞任だけでは済まない。議員辞職も必要ではないか。

この間、小渕優子後援会の政治資金収支報告書における「明治座観劇会」の収支報告のでたらめさが明白となった。数字の辻褄の合わないことから、客観的に不実の記載であることが明らかなこの報告の作成行為は、収支報告書の作成者である会計責任者において、政治資金規正法第25条第1項3号の虚偽記載罪(最高刑禁固5年)が成立することになる。

この虚偽記載罪の構成要件は本来故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識しながら記載した場合」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものとなっている。

本件の場合、故意犯の可能性も高いが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」として重過失でも有罪となるのだから、会計責任者が処罰される可能性は限りなく高い。

問題はその場合の、小渕優子自身の責任である。政治資金規正法第25条第2項は、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合の政治団体の責任者である政治家本人の罪を定める。こちらは重過失を要せず、「会計責任者の選任及び監督についての相当の注意を怠る」という軽過失で犯罪が成立する。

法25条2項の「選任及び監督」を厳密に、会計責任者に対する「選任」と「監督」の両者についての過失を必要とするとの見解もあるようだが、些事にこだわる必要はあるまい。憲法7条の「助言と承認」、憲法19条の「思想及び良心」のいずれも、語を分けて論じる実益はないものとされている。会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に政治団体の責任者の「選任及び監督」に過失があったものと推定されなければならない。政治団体を主宰する政治家が自らの政治活動の資金の正確な収支報告に責任をもつべきは当然だからである。

この場合の責任は、政治的・道義的な責任にとどまらない法的責任である。しかも、最高刑が罰金50万円ではあっても、刑事制裁を伴う犯罪が成立するのだ。現実に罰金刑が確定すれば、公民権停止にもなる。その場合には議員としての地位を失わざるを得ない。

もっとも、今のところは明確な虚偽記載は「小渕優子後援会」の収支報告に限られ、小渕優子自身が責任者となっている資金管理団体の「未来産業研究会」については、必ずしも明確な虚偽記載があったと断定できるまでには至っていない。その意味では、小渕自身の法的責任を断定的に述べるのは尚早ではある。

しかし、自ら真摯に政治家としての出直しをするというのなら、この両者を分けて論じることに合理性を見出しがたい。真摯な反省は、国会議員を辞すところから始めるべきではないか。なお、公民権停止期間は5年間が原則である。
(2014年10月21日)

女性閣僚二人の辞任に安倍政権崩壊の予感

どうやら、潮目が変わってきたようだ。安倍二次内閣の終わりの始まりが見えてきた印象。改造内閣の看板とされた5人の女性閣僚がいずれも看板倒れなのが躓きの石。とりわけ、最も目立つ立場にあった小渕優子の火だるま辞任は政権にとっての大きな痛手。これに続く松島みどりの「団扇辞任」もドミノ劇を予感させるものとして政権を震撼させるに十分なインパクト。

本日の「朝日川柳」に、「親分の代わりに子分が参拝し」と並んで、「この際は皆で辞めるか五人組」とある。本日辞任の二人だけでなく、「親分の代わりに参拝した」三人の子分の地位も危うい。辞任ドミノ、大いにあり得ることではないか。

本日発売の「週刊ポスト」の広告が各紙を麗々しく飾っている。
巻頭特集のメインタイトルが大活字で、「女を食い物にした安倍内閣が 女性閣僚トラブルで万事休す」。サブタイトルの方が内容あってなかなかのもの。「『女性活躍社会』の正体は主婦増税と『ブラックパート』量産だ」「小渕優子、松島みどり、山谷えり子は『秒読み』段階?まじめに働く女性たちの怒り爆発」。保守的傾向強い小学館の辛辣な政権批判である。

「週刊現代」も負けてはいない。巻頭特集メインタイトルの仰々しい大活字は、「安倍官邸と大新聞『景気は順調』詐欺の全手口」。サブタイトルは、「全国民必読・日本経済『隠された真実』 ゴマかす、誇張する、知らんぷりする」「『消費税10%』のために、そこまでやるか!」こちら講談社の安倍政権批判の辛辣度も相当なもの。

「現代」はこれまで政権を支えてきたアベノミクスを「詐欺」呼ばわりし、「ポスト」は安倍内閣の「女性が輝く社会」(ウィメノミクス)というこれからの目玉政策と看板人事の「正体を暴く」としたのだ。政権の核心への攻撃となっている。あたかも両誌が示し合わせて分担したごとくにである。

加えて、世論調査での安倍内閣支持率の着実な低下である。50%割れも目につくようになってきた。

最新の共同通信の調査(10月18・19両日)結果は、内閣支持率は48・1%となって、9月の前回調査に比べて6・8ポイント下落した。「小渕優子経済産業相の関連政治団体をめぐる『政治とカネ』問題などが影響した可能性がある。安倍政権の経済政策による景気回復を『実感していない』との回答が84・8%に上った」と解説されている。

同日の毎日新聞の調査結果(10月18・19日)では、「安倍内閣の支持率は47%で、内閣改造直後の前回調査(9月3、4日実施)と同じだったが、不支持率は4ポイント増えて36%」。

小渕問題発覚以前だが、時事通信調査(10月10?13日)では、「支持率47.9%、前回比2.3%減」。

同じ時期のNHK調査(10月10?13日)では、「支持率52%(前月比6%減)、不支持率34%(前回比6%増)」である。

アベノミクスの馬脚が表れてきた。いつまでたっても庶民の生活実感がよくならない。それでいて、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、ガイドライン、オスプレイ導入、辺野古基地建設強行、武器輸出、原発再稼働、原発プラント輸出、労働法制と福祉の大改悪。そして庶民大増税とその財源捻出のための大企業優遇税制である。

庶民の生活苦に配慮しようとしないこんな政権が、いつまでも持つはずはないのだ。これからの地方選が楽しみになってきた。
(2014年10月20日)

醜悪なり。靖国参拝女性3閣僚。

「靖国神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭です。秋の例大祭は10月17日から20日までの4日間で、期間中、清祓・当日祭・第二日祭・第三日祭・直会の諸儀が斎行されます」「当日祭には天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます」(靖国神社ホームページから)

靖国神社は、戊辰戦争における官軍の戦死者を祀った東京招魂社(1869年創建)がその前身。「靖国」との改称(1879年)の後も、天皇制を支えた陸海軍と深く結びついた軍国神社であった。天皇の軍隊の戦死者を祭神とし、英霊と美称して顕彰する神社である。単に、追悼して慰霊するだけではない、戦死者の最大限顕彰を通じて天皇が唱導する侵略戦争を美化する宗教的軍事装置であった。天皇制との結びつきはこの神社の本質。だから、いまだに勅使が出向いて来るのだ。

戦死者を英霊とし祭神として最大限に賛美するとき、その戦死をもたらした戦争への否定的評価は拒絶されることになる。靖国神社をめぐる論争の根源は、明治維新以来天皇制政府が繰り返してきた戦争の侵略性を冷静に検証するのか、無批判に美化するのかをめぐってのもの。従って、宗教法人靖国神社は、一貫して歴史修正主義の一大拠点となってきた。

敗戦とともに、陸海軍は消滅した。しかし、軍と運命共同体であったはずの靖国との軍事的宗教施設であった靖国神社は、軍と切り離されて宗教法人として生き残った。形式上国家との関係を断ち切って、天皇とも軍とも一切無縁の存在になるはずだった。しかし、その実態はそうなっていない。靖国神社自身がかつてと変わらぬ権力との結びつきを強く希望し、国家主義・軍国主義推進勢力がこれを利用している。しかも、靖国の強みは民衆と結びつき、民衆がこれを支えていることにある。

かつては靖国国営化法案、その後は首相と天皇の公式参拝推進運動。自民党憲法改正草案でも、政教分離条項の骨抜き案‥。靖国問題は「戦後民主々義の理念を擁護」するか、「戦後レジームからの脱却」を志向するか。その象徴的なテーマとなってきた。靖国が軍や戦争と深く結びついた過去を持ち、その過去の心性をそのままに現在に生き残ったことからの必然と言えよう。ことは、何よりも戦争と平和に深く関わり、歴史認識や天皇制、民族主義等々での見解のせめぎ合いの焦点となっている。歴史修正主義派や軍国主義的傾向の強い保守派をさして、「靖国派」という言葉が生まれることにも必然性があるのだ。

その靖国神社の今年の秋期例大祭。話題は多い。
まず、安倍首相は参拝こそ見送ったが、参拝に代えて真榊を奉納した。「内閣総理大臣 安倍晋三」と肩書きを付しての奉納である。単なる記帳ではなく、これ見よがしに「内閣総理大臣」と明記した名札を誇示した真榊の写真が公開されている。

真榊とは神道において神の依り代となる常緑樹を祭具にしつらえたもの。その奉納が宗教性を帯びた行為であることに疑問の余地はない。県知事から靖国神社に対する玉串料の奉納が、憲法20条3項にいう「国及びその機関はいかなる宗教的活動もしてはならない」に違反することは、愛媛玉串料訴訟の大法廷判決が確認しているところ。内閣総理大臣から靖国神社に対する真榊の奉納も違憲であることは明確というべきである。

憲法20条は、政教分離原則を定める。「政」とは政治権力のこと、「教」とは宗教のこと。この両者は厚く高い壁で遮られなければならない。お互いの利用は醜悪なものとして許されないのだ。形式的には、政治権力と厚い壁で隔てられるべき「教」とは宗教一般とされてはいるが、実は、憲法が警戒するのは国家神道の復活であり、分けてもその軍国主義的側面を象徴する靖国神社にほかならない。

国家を代表する立場にある首相が、特定の宗教団体を特別の存在として、「内閣総理大臣」と肩書きを付したうえ首相補佐官を使者として、宗教祭具を宗教施設に奉納することは、紛れもなく違憲である。首相が靖国神社参拝を見送ったことを評価する向きもあるが、真榊の奉納も違憲違法な行為であることを確認し強調しなければならない。

首相だけが問題なのではない。相変わらず、保守派議員の集団での靖国神社参拝が絶えない。秋季大祭の初日(10月17日)には、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の111人が参拝した。この議員の数が、憲法の危機的状況をよく物語っている。この議員たちには、靖国神社参拝の集団に加わることが選挙民の支持獲得に有利だという計算がある。そのような計算をさせる「主権者」の意識状況であることを肝に銘じなければならない。もっとも、昨年春の例大祭時(2013年4月23日)には、衆参合計168議員が集団参拝(衆議院議員139人、参議院議員29人)と報じられていたから、やや少なくはなっている。

ハイライトは、高市早苗総務相、山谷えり子国家公安委員長、有村治子女性活躍担当相の女性3閣僚が、18日相次ぎ靖国を参拝したこと。安倍内閣右翼3シスターズのそろい踏み。この女性たちが、靖国派閣僚の急先鋒なのだ。

参拝後の各閣僚のコメントが、下記の通り右派に通有の決まり文句。
「国のために尊い命をささげられたご英霊に感謝の誠をささげた。平和な国づくりをお誓い、お約束した」「1人の日本人が国策に殉じられた方々を思い、尊崇の念を持って感謝の誠をささげるという行為は、私たちが自由にみずからの心に従って行うものであり、外交関係になるものではない」「国難に際し命をささげられたみ霊に対し、心を込めてお参りをした。国難のとき、戦地に赴き命をささげられた方々にどのように向き合うか、どのように追悼するかは国民が決める話であり、他国に『参拝せよ』とか『参拝するな』と言われる話ではないと認識している」

これらのコメントには、侵略戦争への反省のかけらもない。そもそも、軍国神社は平和を語り願うためにふさわしい場ではない。「ご英霊に尊崇の念を捧げる」行為が自由にできるのは私人に限ってのこと、「国またはその機関」としての資格においては違憲違法な行為である。「外交関係になるものではない」は、現実を見ようとしない勝手な思い込み。「他国に『参拝せよ』とか『参拝するな』と言われる話ではない」は、被侵略国、被植民地の民衆の神経をことさらに逆なでする傲慢な暴言。右派閣僚3シスターズ。その無神経な参拝も、その後のコメントの内容も醜悪というほかはない。

ところで、朝日が10月17日付社説で、次のように「靖国参拝―高市さん、自重すべきだ」と呼びかけている。

「高市さん、ここは(靖国神社参拝を)自重すべきではないか。
そもそも、首相をはじめ政治指導者は、A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝すべきではない。政教分離の原則に反するとの指摘もある。
しかも、北京で来月開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)での日中首脳会談の実現に向けて、関係者が努力を重ねているときである。それに水を差しかねない行為を慎むのは、閣僚として当然だ。」
というもの。参拝反対の立場は結構だが、何とも生ぬるい指摘ではないか。

「A級戦犯の合祀」は靖国神社の立場をわかりやすく象徴するものだが、合祀以前に問題がなかったわけではなく、分祀が実現すれば問題がなくなるわけでもない。「A級戦犯以外の英霊の合祀」なら問題なしと解されかねない危険も秘めている。
「A級戦犯合祀」の問題性指摘は欠かせないものではあるが、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝すべきではない」との書きぶりは、「靖国問題」を「A級戦犯合祀問題」へと矮小化する誤解を生じかねない。

「政教分離の原則に反するとの指摘もある」とは、自分の見解としてではなく他人事として触れている姿勢。迫力を欠くことこの上ない。あとは、「国益にマイナス」論だ。

朝日は、どうして真っ向から靖国神社のなんたるかを語らないのか。遊就館の偏頗な歴史認識を語らないのか。天皇制や、軍国主義や、侵略戦争、植民地支配の国策がもたらした惨禍から日本国憲法が成立し、政教分離原則もできていることをなぜ敢えて文章にしないのか。本質論を避けて通ろうとするごとくで、歯がゆさを禁じ得ない。
(2014年10月19日)

「浜の一揆」に集う皆様へ(集会メッセージ)

本日(10月18日)三陸沿岸・山田町で開催される「フォーラム 復興と漁業の展望を探る」は、事実上サケ刺し網漁の許可を求める集団申請運動の決起集会であろうと思います。それは、とりもなおさず「浜の一揆」の旗挙げの集会でもありましょう。
残念ですが私は出席できませんので、「浜の一揆」に寄せる思いをメッセージとしてお届けいたします。

今から160年ほど前のこと。世は幕末の動乱が始まる直前。ちょうどアメリカの提督ペリーが軍艦4隻を引き連れて、浦賀沖に投錨していた頃。南部藩では、藩を揺るがす大事件が起こっていました。もしかしたら、ペリー来航よりももっと大きくその後の歴史に影響したと考えられる大事件。ご存じ、南部三閉伊大一揆です。

嘉永6(1853)年6月3日、野田通(どおり)の田野畑村から一揆は押し出しました。「小〇」と大書した幟旗(のぼりばた)を先頭に、槍隊・棒隊、あるいはマタギの鉄砲隊など、それぞれの隊列を組んで浜通りを南下しました。一揆勢はどんどん膨らんで田老・宮古・山田の各村を通過するにつれ大群衆となり、大槌通りから釜石に集合した一揆の人数は1万6千余人に達したと歴史書に記されています。当時の三閉伊の総人口が6万人ほどでしたから、総人口の4分の1が、文字どおり立ち上がって行動を起こしたのです。一揆勢は篠倉峠の藩境を越えて、仙台領気仙郡唐丹村へ越訴(おっそ)しました。そして、仙台藩当局に政治的要求3ヵ条と、「百姓共一統、迷惑の事」についての具体的改善要求49ヵ条を提出しました。仙台藩を仲立ちとした南部藩との粘り強い交渉の結果、基本的にその全部を勝ち取ったと伝えられています。しかも、一人の弾圧犠牲者も出さないことまで南部藩に約束させ、その「安堵(あんど)状」まで書かせています。一揆は大成功でした。

一揆とは、難しい字を書きますが、元々の意味は、物事を成し遂げるためにみんなが心をひとつにすることだそうです。今の言葉を当てはめれば、「協力」・「協同」あるいは「団結」・「連帯」ということになるのでしょう。三閉伊の一揆では、農民だけでなく漁民も猟師も、鍛冶屋や大工も商人も、支配階級だった武士以外は、心を一つにして団結固く押し出したのです。しかも、周到に準備を重ね作戦を練って要求を勝ち取った、見事な勝利でした。

幕末期の南部藩では大規模な一揆が繰り返されています。農民や漁民を団結させたのは、バカ殿とその取り巻きの無能さでした。藩は、その財政逼迫(ひっぱく)の対策として領民から過酷に年貢・税金を取り立てました。まず、農民・漁民の生活を安定させ、そのあとに無理なく税金を課して藩財政を潤すという発想はなかったのです。だから、農民・漁民は果敢に藩政と闘わざるを得なかったのです。

160年を経た今、国政を見、県政を見るとき、基本的な構図に変わりのないことに驚かざるを得ません。政治や行政は、一人一人の労働者・農民・漁民の生活の安定にきめ細かな目配りをしているでしょうか。南部藩のバカ殿や無能な取り巻きとの違いがどこにあるでしょうか。

沿岸の漁民が東日本大震災・大津波による深刻な打撃にあえいでいるこのときに、「漁民が秋サケを獲ることはまかりならぬ」とは、血も涙もない何たる過酷さ。南部のバカ殿の無能なお触れとまったく同じではないでしょうか。私たちは、この県の水産行政の理不尽に対して、今一度「小〇」の幟旗を立てて、浜の一揆を起こして勝ちぬかねばならないと思うのです。

もちろん、今の時代。力だけでは勝てません。理屈でも勝ち、世論の支持の獲得でも勝たねばなりません。

まずは、「漁民がサケを獲ってはならない」という行政側の理屈の2点をつぶすことです。第1点は、「漁民にサケを獲らせると乱獲となってサケの資源が枯渇する」ということのウソを徹底して暴くことです。宮城でも青森でも漁民が固定式刺し網でサケを獲っていて枯渇などしていないではないか。むしろ、宮城は岩手よりもはるかに成魚の回帰率がよいではないか。定置網漁に比重を置きすぎている岩手の現状にこそ問題があることを立証していく努力を重ねたいと思います。

さらに、資源保護のために「各漁民に漁獲高を割当る制度」(IQ)創設の提案をしてきたのが、県ではなく漁民組合であることを声を大にして強調しましょう。

もう1点は、漁民にサケの採捕を許可すれば、漁民間の公平を崩すことになるという県側の「理屈」です。これはあきらかにおかしい。今の県の水産行政が、浜の有力者にばかり目を向けた不公平になっているのです。一方では岩手の漁民に秋サケを獲るなといって生活苦を押しつけ、一方で一握りの有力者の巨大な利益を擁護しているではありませんか。

私たちの要求は、道理に基づく切実なものです。とりわけ、震災・津波による生業と生計が破壊された現在、この状態からの自力での再生を果たすための切迫した要求なのです。この要求が、生存権を保障し、権利の平等を掲げている日本国憲法のもとにおいて、通らないはずはありません。

まさしく、「秋サケ捕獲禁止のお触れは漁民ども一統まことに迷惑の事」なのです。嘉永の三閉伊一揆に負けずに、現代の「浜の一揆」を押し出しましょう。
私も、勝利を手にするまで、皆様と一緒に隊列を組んで歩き続ける覚悟です。
(2014年10月18日)

東京都教育委員会の「再発防止研修」強行に抗議する

東京君が代裁判弁護団の澤藤です。本日服務事故再発防止研修受講命令を受け、これからセンターに入構する教員を代理して、教職員研修センターの担当課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。

まず、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、不必要というのは不正確。正確には、本日予定されている研修はけっして許されないもの、行ってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。

教育の本質における自由や人格の尊重、日本国憲法が保障する思想・良心の自由、権力からの干渉を厳格に排除した教育を受ける国民の権利、教員の学問教授の自由、そして教育基本法が定める教育への不当な支配の禁止。そのすべてが、教員の思想に介入し、教育者の良心を蹂躙する本日の服務事故再発防止研修を違憲・違法なものとしています。

研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。反対に、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。彼らこそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。

本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行為に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念としての行為の「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による制裁は、教員の思想・良心を侵害するものとしてけっして許されることではありません。

日本国憲法には「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という比較憲法的には稀な1か条を創設しました。内心の自由という目に見えないものを保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、日本国憲法には「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。

また、大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、もちろん天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。

国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。本来当然なこととして、国民が主人で国家はその僕。国家とは国民が使い勝手がよいように作り上げた道具に過ぎません。にもかかわらず、主人である国民が、僕である国を象徴する国旗国歌に敬意の表明を強制されるなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。

その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。

本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。

おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはなかろう、そうは思います。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。

しかし、お考えいただきたい。本日の受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。

懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。

本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。

あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、決して侮蔑的な態度をとってはならない。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2014年10月17日)

輝かない女性閣僚たち

本日発売の週刊新潮の広告に、「小渕優子経産相のデタラメすぎる『政治資金』」という大きな活字が踊る。これに小さく、「松島みどり法相の団扇どころの話じゃない」と副題が添えられている。

あとは記事のタイトルが5本。
▽50万円で後援者御一行の「巨人戦観戦」が政治活動?
▽「下仁田ネギ」400本60万円を交際費で計上。
▽秘書に買ってあげた「スーツ」は『制服代』だって?
▽姉夫婦のブティックに3年で330万円の売り上げ貢献
▽報告書とおりなら有権者の買収!?
 年1300万円の赤字が出た元後援者の「明治座貸切」
以上のタイトルだけで内容は十分に分かる。だから、新潮を買う必要は無い。

この記事は、事前に内容が話題となっていた。注目は、これだけの指摘をされた小渕が、「事実無根」と否定するのか認めるのか。そこが問題だったが、朝日の報道では、「小渕経産相は16日の参院経産委員会で『大変お騒がせし、心からおわび申し上げる』と陳謝した。一方で『観劇に関しては、私自身は出席したおひとりおひとりから実費を頂いていると承知している』と発言。関係団体にその点の確認を依頼したことを明らかにした」という。歯切れが悪く言い訳はしているが、「私は知らない。秘書が‥」ということだ。結局はアウト。

かつて、通産大臣といえば、大蔵・外務と並ぶ重要ポスト。首相へのステップとされる大物があてがわれるとされていた。女性5閣僚の中で、さすがに小渕優子は他と別格、との印象があった。なるほど、さすがに大物のやること。みみっちい「松島みどり法相の団扇」とは比較にならない。

通常、この種の記事はたれ込みがきっかけとなる。しかし、この5本のタイトルを見る限り、政治資金収支報告書を閲覧するだけで書けそう。少なくも、きっかけはつかめる。なかなかたいへんな作業ではあるが、丹念にインターネット検索をするだけで、これだけの「事件」を探り当てることができるのだ。

小渕優子の資金管理団体名は、「未来産業研究会」という。総務省のホームページで公開されている「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」欄を開けばよい。

下記の各サイトの「未来産業研究会」欄をクリックすれば、各年の報告書(PDF)が閲覧できる。もちろんダウンロードも可能。ただし2009年以前のものは情報公開手続きを経なければ閲覧できず、2013年分の公開は今年(2014年)の11月末まで待たねばならない。

2010年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220111130.html
2011年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220121130.html
2012年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220131129.html

怪しい支出項目を見つけたら領収証のコピーがほしいところだが、これはネットに公開されてはいない。情報公開の手続きを経なければならない。

ところで、今朝の毎日はすごい。1面と社会面両方の報道。
社会面は、「小渕氏資金管理団体:不透明支出、5年間で1000万円超」「事務所費でベビー用品/組織活動費でネギ」の見出しでの報道だが、「小渕氏の資金管理団体の領収書には『ベビートドラー』や『ストール』、『売場 ハンドバッグ・雑貨』などの記載がある」と大きく領収証の写真を掲載している。情報公開請求で09年?12年の領収証を入手済みなのだ。

記事の大要は「経済産業相の資金管理団体は政治活動との関係が薄いとみられる領収書を添付し、政治資金として計上していた。不適切・不透明な支出は、実姉の夫が経営する服飾雑貨店への支出分を含めると、2012年までの5年間で1000万円を超えている。」というもの。

さらに、「毎日新聞が情報公開請求で入手した小渕氏の資金管理団体『未来産業研究会』の領収書や政治資金収支報告書などによると、同団体は09年、本来は事務所の維持に充てる『事務所費』として、ベビートドラー(乳幼児向け用品)3点と化粧品、ストールの計約4万5000円を支出していた。
また、政治活動に充てる『組織活動費』として、著名デザイナーズブランドへの支払い計3件119万円余▽下仁田ネギの送料や品代計4件261万円余−−などを計上。銀座の百貨店の『子供・玩具売り場』への支出計5件15万円余(うち1件1万円余は事務所費に計上)のうち4万1580円は、11年12月24日のクリスマスイブに支払われていた」など。

毎日の夕刊が続報で、「後援会『観劇会』費用を負担」と報道している。
「群馬県内の『小渕優子後援会』の政治資金収支報告書によると、同団体は10年と11年、東京都中央区の「明治座」で支援者向けの観劇会を開き、計約1700万円を支出し、観劇料として計約740万円の収入を記載。差額を団体が負担した可能性があり、有権者への利益供与を禁じる公職選挙法に抵触する疑いがある」

こちらは、群馬県選挙管理委員会のホームページ。下記URLの「小渕優子後援会」をクリックすれば明治座関係の収支の記載を確認できる。
2010年分 http://www.pref.gunma.jp/07/u0100119.html
2011年分 http://www.pref.gunma.jp/07/u0100223.html

毎日では、次のような弁明が報道されている。
「小渕氏は観劇会について経産委で『(有権者への)寄付行為ではないが、実費をいただいているかについて私自身は確認していないので調査している』と述べた。」という。辻褄の合わない話だが、開き直ってはいない。この人正直な人柄なのだろう。しかし、政治家は正直なだけでは務まらない。

さて、この小渕優子後援会の収支の記載が間違いだったとしよう。「単純な記載ミスだった」「記載を訂正しさえすれば済むこと」などという話はあちこちで聞かされている。その場合は、会計責任者が政治資金規正法上の収支報告の虚偽記載罪(最高刑禁固5年)を犯したことになる。

政治資金規正法第25条第1項3号の収支報告書虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。

その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものとなる。

本件の場合には、過失での間違いは苦しい言い訳だが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」として、有罪となる可能性は限りなく高い。

問題はその場合の、小渕優子自身の責任である。政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、会計責任者の選任及び監督についての相当の注意を怠る軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。政治団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。

つまり、この場合の小渕優子の責任は、政治的・道義的な責任にとどまらず、最高刑が罰金50万円ではあるが、刑事制裁を伴う犯罪が成立するのだ。現実に罰金刑が確定すれば、公民権停止にもなる。国会議員としての地位を失わざるを得ない。

さて、この小渕優子後援会の収支の記載に間違いがないものとしよう。そのときには、公職選挙法違反となる。根拠条文は、同法199条の5第1項(後援団体に関する寄付の禁止)である。読みにくい条文だが、読みやすくすれば、「特定の公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者(公職にある者を含む)の政治上の主義若しくは施策を支持し推薦する政治活動を行う「後援団体」は、当該選挙区内にある者に対し、いかなる名義をもつてするを問わず、寄附をしてはならない」というもの。違反は、50万円以下の罰金である(249条の5第1項)。

どちらにしても、処罰対象になる。
5人の女性閣僚と自民党の政調会長のうち、4人はどうしようもない極右。小渕優子と松島みどりは、普通の保守政治家。そう思っていたのだが、マシな方がぼろを出した。せっかくの登用だが、輝く女性閣僚たちとはならないようだ。
(2014年10月16日)

「従軍慰安婦」報道の元朝日記者を応援する

朝日バッシングは、時代を画しかねない大きな問題である。朝日の「誤報」が責められているのではない。「誤報」は朝日を叩く恰好のきっかけ提供に過ぎず、叩かれているのはリ朝日が象徴するリベラリズムそのものなのだ。戦後民主々義が攻撃されていると言ってもよい。

その意味では、「従軍慰安婦」問題と、福島第1原発事故対応の「誤報」二部門の重みは格段に異なる。「従軍慰安婦」問題での「誤報・取り消し」は、歴史修正主義派を大いに勢いづかせるものとなった。吉田清治証言の虚偽性はとっくの昔に周知の事実になっていたにかかわらず、である。

故人となっている吉田清治叩きだけでは迫力がないからか、右派メディアは、当時の「従軍慰安婦」報道担当記者をバッシングの対象にしている。その標的の一人とされたU元記者は、吉田清治証言の紹介記事とは何の関係もない。

にもかかわらず、新聞・週刊誌だけではなく、ネットでの匿名に隠れた卑劣な記事の罵詈雑言がはなはだしい。元朝日記者本人だけでなく、高校生の娘さんを含め、家族みんなが標的とされている。右派「言論」のおぞましさをよく表す事態である。

そして、元記者が非常勤講師として勤務する札幌の北星学園大学に脅迫状が二度にわたって届いた。文面の一部は以下のようなものだという。

「U(元記者)をなぶり殺しにしてやる。」「(Uを)すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を傷めつけてやる」「あの頭の程度で講義がこなせるというのか。できるというのならその程度の学校か、ほほう朝鮮系か」「これをやるーガスボンベ爆発、サビ釘混ぜて」
あきらかな脅迫であり威力業務妨害である。リベラルな言論への萎縮効果を狙った表現の自由の封殺であり、大学の自治への挑戦でもある。そして、差別意識むき出しののヘイトスピーチでもある。

このような新聞・週刊誌・ネット・脅迫状などの総掛かりの「言論の暴力」に、私たちの社会はどれほどの耐性をもっているだろうか。健全な良識が復元力を発揮しうるだろうか。社会が試されている。

幸い、北星学園大学は毅然とした態度を堅持している。「負けるな北星!の会」の市民運動も動き出している。その意味では、けっして押されっぱなしではない。しかし、学校の警備を厳重にせざるを得ず、そのための費用負担は確実に大学の重荷になっていると漏れ聞こえてくる。仮に、右派言論の暴力に屈するような事態となれば、これは一大事だ。大学にもU記者とその家族にも、「負けるな」「がんばれ」と声援を送りたい。そして、精一杯支えなければならないと思う。

ネットや脅迫状のネタは、すべて新聞・週刊誌記事からの借り物である。新聞・週刊誌がすべてのネタ元となっており、しかも、ごく少数の右翼言論人がその中心に位置している。そこから、すべてが発せられ拡散されているという構図がある。U記者の記事を捏造という、その大ネタ元の内容が、あきらかにおかしい。とうてい、U記者の記事を捏造だなどと決めつけることはできない。

U記者の最初の「従軍慰安婦」記事は朝日の1991年8月11日付。後に実名を公表して訴訟に踏み切る金学順さんを取材したもの。その記事のリードの冒頭が以下のとおり。
「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した」

これが、右派の大ネタ元から攻撃されている。この記事のうち、
?「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」の部分が「経歴詐称」であり「捏造」だというのだ。そもそも、「挺身隊」とは勤労動員組織なのだから慰安婦とは関係がない、という。

しかし、この記事は『女子挺身隊』は、個別事例としての金さんの経歴を指しているのではなく、「女子挺身隊の名で日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦」という一般例を指している。また、当時は韓国内でも「女子挺身隊」は「従軍慰安婦」を意味するものとされていたと反論されている。この点は、検証可能であろう。

ちなみに、ウィキペディアの「韓国挺身隊問題対策協議会」の解説記事では、「団体名に『挺身隊』とあるが、これは日本統治時代の慰安婦を指している。挺身隊(女子挺身隊)は日本や韓国などを含めた当時の日本領内の勤労奉仕団体のことを指すが、韓国においては現在も慰安婦を女子挺身隊と混同することが多い」とされている。

何よりも、問題は「狭義の強制性」にあるはずだが、このリードには「強制連行」の言葉はなく、本文には「だまされて慰安婦にさせられた」と明記されている。

また、U記者には、同年12月25日付の記事もある。このときは、「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」という見出しになっている。

この記事について、
?金さんがキーセンであった経歴を意図的に隠した。
?Uさんの義母が戦後補償裁判の原告であることを隠した。の2点が攻撃されている。
以上の3点が、「捏造」指摘のすべてと言ってよいようだ。

しかし、金さんがキーセンの養成学校に通っていたことは、本筋の問題に何の関わりもないこととして、朝日だけでなく、当時他の新聞も記事にしていない。また、Uさんの義母は裁判の原告とはなっていない。朝日の検証記事でも、U記者が義母から記事の内容について提供を受けたことはない、と確認をされている。

私には、まだ右派の批判を「何の根拠もない」ときめつけるだけの資料に接してはいない。しかし、確信を持って言えることは、これらの批判が「従軍慰安婦」問題の本質に関するものではないということである。「従軍慰安婦」とされた女性の悲惨な状況を報じる記事の内容には触れることなく、その周辺の些事についてのこのような批判が、どうして右派勢力総掛かりの大合唱になるのだろうか。

朝日バッシングの意図と、これに対抗する言論の意義は明らかというべきではないか。いずれ、右派の「批判」については、黒白が明らかになるだろう。そのときは、攻守ところを変えることになるだろう。

もちろん、その際にも薄汚い「リベンジ言論」はあり得ない。
(2014年10月15日)

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