(2021年10月28日)
本日、総選挙の期日前投票を済ませた。小選挙区選挙では普段は支持しない政党の候補者に投票し、比例代表選挙では支持する政党の名を明記して投票した。
さて、最高裁裁判官の国民審査をどうするか。審査対象11人の裁判官の誰に、どのような理由で「×」をつけるべきか。
日本民主法律家協会のプロジェクトチームと23期弁護士ネットワーク合同での議論の結論は、下記のとおりである。
★選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、岡村和美、長嶺安政各裁判官)に「×」を!
★正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に「×」を!
★冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山卓也裁判官)に「×」を!
★一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、草野耕一、岡村和美各裁判官)に「×」を!
★裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、「×」を!
以上が真っ当な判断なのだが、これをまとめて微修正を加味して個人的には以下の3案を考えた。
(1) 国民審査を、司法のあり方に対する国民の批判結集の機会として生かすために、全11裁判官に「×」を付けよう!
そもそも、安倍・菅政権が任命した裁判官である。その人選・任命の経過もまことに不透明。安倍菅政権への批判と裏腹の問題として全11裁判官を不信任とすべきではないか。
(2) この間の判決内容を見れば、宇賀克也裁判官だけが憲法に忠実な真っ当な姿勢を貫いているではないか。宇賀克也裁判官までを他と一緒に「×」をつけてはならない。宇賀克也裁判官を除いて、他の10裁判官に「×」を付けよう!
(3) 制度の趣旨から見て、容認できない少数の裁判官に的を絞って「×」を集中すべきだ。それがインパクト強く、国民が三権の一角である最高裁を監視していると印象付けることができる。その意味で、林道晴裁判官に「×」を集中しよう!
(2)案には、原爆症認定訴訟弁護団から無視し得ない反論がある。
「原爆症認定集団訴訟で、昨年(2020年)2月、第三小法廷(裁判長宇賀克也、戸倉三郎、宮崎裕子、林道晴、林景一)から最低・最悪の判決を受けました。原爆症認定は、被爆者の疾病が放射線に起因すること(放射線起因性)、当該疾病が現に医療を要する状態にあること(要医療性)という2つの要件があります。主な争点は放射線起因性で、この間行政訴訟としては異例の9割の勝訴率で勝ち抜いてきました。そこで厚労省は、従来柔軟に対応してきた要医療性を厳格に審査するという戦術で対抗してきました。それも下級審では突破してきたのですが、最高裁で丸っきり厚労省の言いなりの判決を受けてしまったのです。
具体的には、経過観察をしているだけでは要医療性を満たさない、として、手術後の経過観察を受けている被爆者の原爆症認定を否定してしまったのです。これによって原爆症認定集団訴訟の全面解決は極めて困難な状況に追い込まれました。この判決を主導したのは宇賀克也に間違いありません。宇賀は裁判長であり教科書にそれを示唆する記述もあるからです。以上の次第で私は宇賀克也に×を付けたい気持ちで一杯です(以下略)」
この反論で私は大いに迷わざるを得なかったが、結局は(2) 案で投票した。やはり、裁判官を差別化した評価があってしかるべきだと考えてのことである。
なお、先輩弁護士から以下の意見のメールをいただいた。
「殆どの人は、分からないまま、投票用紙を受け取って、そのまま投票箱に入れています。投票用紙を受け取らないという選択肢があることを知りません。私個人では、投票依頼の電話をするときに、必ずそのことを話しています。『分からない人は、投票用紙を受け取らないで良いです』ということを、選管に徹底するように申し入れした方が良いのではないでしょうか。私は、いつも投票所に行ったとき、そこにいる職員に、そうして下さいと申し入れているのですが、まるで意味が分かっていないのか、無視されます。」
本日、同じ経験をした。確かに、「殆どの人は、分からないまま投票用紙を受け取ってそのまま投票箱に入れて」いる。これは看過しがたい。
現場の職員に、「これでは棄権の権利が無視されるのではないか」と語りかけたら、上司と思しき人が出てきた。あらためて、「どの裁判官に×を付けるべきか分からない人は、どうすれば良いの?」と聞くと、「『投票したくない』と申し出ていただけたら、投票用紙を預からせていただきます」という答だった。
「そういう投票棄権の選択肢があると言うことは、予めお知らせしないんですか。以前は、そういう掲示もあったはずですが。」と聞くと、「そういうお知らせをするように指示は受けていません。過去のことは存じません」とのこと。
「とすると、現実には投票棄権の選択は難しいのじゃありませんか?」
「私たちは棄権の選択あることを想定していません」
「それがおかしい。あなただって、11人の裁判官の一人ひとりについて、信任すべきかすべきでないか、自信をもって判断できますか。判断に自信のない人に、結局裁判官信任の結果となる投票をさせるのはまちがっていませんか」
「結局あなたは、棄権したいと言うことですか」
「いや、私は棄権しません。でもこのような投票者の意思がゆがめられる国民審査のあり方がおかしいと思う」
「では、そういうご意見があったということは、選管に報告しておきます」
これで、私の「抗議」は打ち切り。しょうがないから、その場の人に呼びかけた。
「皆さん、最高裁裁判官の国民審査で誰に×を付けてよいか分からない方は、棄権ができます。投票用紙の受け取りを拒否するか、投票用紙を職員に返還してください。なんにも書かない投票用紙を投票箱に入れると、全部の裁判官を信任したことになってしまいますから気を付けてください。むしろ、よく分からなければ、最高裁を監視しているという意味を込めて全部×を付けてください」
かつて「司法の独立を守る国民会議」の一員として、鷲野忠雄さんにくっついて中央選管に申し入れに行ったことがある。「国民審査の投票については、せめて棄権の方法を表示していただきたい」という趣旨。どれだけ実行できたかはともかく、中央選管はノーとは言わなかった。その後のフォローを疎かにしていたことを反省しなければならない。
(2021年10月27日)
「法と民主主義」の今月号(21年10月号【通算562号】)が、本日発行となった。
特集の表題は、「アジアの各地で闘う民衆ーそれぞれの課題と法律家の役割」というもの。本号の編集専任者は私である。
下記のURLをご覧いただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
そして、お申し込みは下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
香港・中国・ミャンマー・タイ・フィリピン・アフガンなどの緊迫した情勢を、それぞれの国に深く関わっている方にご報告いただいた。総選挙を間近にしての今この各国の深刻な報告に目を通すと、不満だらけの日本ではあるが、それでも不十分ながらもこの日本に根付いている民主主義を貴重なものと思わざるを得ない。
各国の闘いが問うている課題はこの上なく重い。人権や自由を獲得するための権力との苦闘の歴史は、アジアの各地で今まさに進行中なのだ。そして、各国の状況の報告のあとに、各国個別の枠を越えた民衆の闘いの連帯や法律家の課題についての論稿を寄稿いただいた。特集全体で、「法と民主主義」らしい構成になったと思う。
「法と民主主義」・10月号の特集企画 リード
いま、アジアの各地で、多様な「民衆の闘い」が展開されている。闘いの背景も要因もその態様も一様ではないが、それぞれの人権課題・民主主義課題が、どの国にあっても凶暴な権力との深刻な対立によって、熾烈な民衆の闘いを余儀なくされている。そして、一国での闘いはいずれも困難な局面にあって、国際的な連帯と支援を求めている。
また、それぞれの闘いに法律家が関わり、一定の役割を果たしながらも、法律家自身も苦境の現状にある。現実は苛酷であり、人権や民主主義を獲得するための歴史の苦悩は、今なお進行中であることを実感せざるを得ない。
本特集は、この各国の実状をご紹介するとともに、国際法の課題や、国境を越えた法律家の連帯や支援の可能性についての問題提起とし、われわれが何をなしうるかを考える契機としたい。
今号の特集は、各論からの順序となる。まず、読者に関心の深い香港の民主主義の苦境と、その背後にある中国の立憲主義についての2論稿。併せて読むことで、顕在化した現実の厳しさと、さらにその奥にある厳しさの源泉を理解することになろう。
◆死にゆく「一国二制度」──香港で何が起きているか………鈴木 賢
◆「憲法あって憲政なし」の国で………石塚 迅
以下は、さらに苛酷で深刻な各国の民衆の闘いの現状の報告である。ミャンマー、タイ、フィリピン、アフガニスタン、それぞれの歴史的な背景事情の中での闘いの厳しさと、解決の難しさにたじろがざるを得ない。が、その困難な状況下で闘っている人々の崇高さに打たれる。
◆ミャンマー軍事政権との闘いの現状と日本における連帯・支援の課題………渡 辺彰悟
◆岐路に立つ「タイ式民主主義」………今泉慎也
◆フィリピンの超法規的殺人EJK(Extrajudicial Killing)………井上 啓
◆アフガン女性の闘う〈勇気〉を生み出したもの──長期的視野で築いてきた闘争 の歴史………清末愛砂
そして、以下の論稿が、各国の具体的な現状を考察するための総論となる。稲論文はアジアにおける人権課題を網羅的に俯瞰し、申論稿は国際法の枠組みを提供するもの、新倉論文は闘う民衆の国際連帯の可能性について論じ、笹本論文は、朝鮮半島の平和を素材に法律家の国際連帯の実践を報告する。それぞれ、有益なものとなっている。
◆アジア各地における「民衆の闘い」の現状と課題………稲 正樹
◆人権と民主主義を求める民衆の危機と国際社会─大国のエゴを超えて………申惠丰
◆アジア各地での民衆の闘いと国際連帯………新倉 修
◆朝鮮半島の平和プロセス実現のための、法律家の国際連帯………笹本 潤
ミャンマーの軍事政権との闘いについての、渡辺彰悟弁護士の報告の最後に、こうある。「ミャンマーの詩人KT氏は「彼ら(権力)は頭を打つが、革命は心にあることを分かっていない」と詠んだ(彼は拘束され尋問され死亡した)。この詩に込められた思いに連帯し、私達は日本がなすべきことを積み重ねたい。」
この一文を重く受けとめたい。
(編集委員・澤藤統一郎)
法と民主主義2021年10月号【562号】(目次と記事)
特集●アジアの各地で闘う民衆 ―― それぞれの課題と法律家の役割
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆死にゆく「一国二制度」 ── 香港で何が起きているか … 鈴木 賢
◆「憲法あって憲政なし」の国で … 石塚 迅
◆ミャンマー軍事政権との闘いの現状と
日本における連帯・支援の課題 … 渡邉彰悟
◆岐路に立つ「タイ式民主主義」 … 今泉慎也
◆フィリピンの超法規的殺人EJK(Extrajudicial Killing) … 井上 啓
◆アフガン女性の闘う〈勇気〉を生み出したもの
── 長期的視野で築いてきた闘争の歴史 … 清末愛砂
◆アジア各地における「民衆の闘い」の現状と課題 … 稲 正樹
◆人権と民主主義を求める民衆の危機と国際社会
── 大国のエゴを超えて … 申 惠丰
◆アジア各地での民衆の闘いと国際連帯 … 新倉 修
◆朝鮮半島の平和プロセス実現のための、法律家の国際連帯 … 笹本 潤
◆特別寄稿 フランスにおける衛生パス … 植野妙実子
◆連続企画・学術会議問題を考える〈3〉
学術会議任命拒否情報不開示決定に対する審査請求のゆくえ … 三宅 弘
◆司法をめぐる動き〈69〉
・岡口判事に対する弾劾裁判について … 野間 啓
・9月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2021●《政権選択選挙》
選挙で問われる変節と政治姿勢 問われる「メディアの主体性」
ウソで情報操作する会社、政党? … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№8〉
人が裁かれる時 … 村井敏邦先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№35〉
本質は何も変わらない岸田自公政権 … 飯島滋明
◆インフォメーション
自公政権に終止符をうち、命と平和を守る憲法に基づく政治への転換を!
立憲野党は共同し、市民連合との合意を踏まえ、
政権交代に向けて全力を尽くすことを求める法律家団体のアピール
◆時評●大企業、軽すぎる税負担 ── 巨額増益の一方で優遇税制拡大 … 菅 隆徳
◆ひろば●今日の危機の内容と、打開する力としての民主主義 … 豊川義明
(2021年10月26日)
秋篠宮の長女が本日婚姻届を提出した。本来結婚は私事でしかない。当事者の周囲だけが祝意を表すれば良いだけのこと。にもかかわらずの、なんという大騒ぎ。そして、目出度い様子はない。
婚姻当日の新婦が、記者の質問に対して、「一番大きな不安を挙げるのであれば、私や私の家族、圭さん(夫)や圭さんのご家族に対する誹謗中傷がこれからも続くのではないかということ」とコメントをせざるを得ない事態。これは穏やかではない。意地の悪い大衆の非情さの所為か、あるいは愚かな天皇制のしからしむるところなのか。
いずれにせよ、竹の園生に生まれた出自が、決して幸福にはつながらないのだ。なんの苦労もなく「特権を享受する立場にある人物」にも、宿命的にデメリットがつきまとう。楽あれば苦あり。良いとこ取りは許されない。
身分差別の残滓としての象徴天皇制である。天皇や皇族は、生まれながらにしてその地位に縛られ、『その立場からの脱出の自由』はない。天皇制とは誰をも幸せにしないシステムである。一刻も早くなくするに越したことはない。
旧憲法は天皇の正統性の根拠を神の末裔であることに求めた。いい大人たちが、本気でそう考えていたとしたら噴飯物で滑稽至極というほかはない。日本国憲法が国民主権原理を宣明したとき、天皇制を廃棄すべきが至当であったが、いくつもの思惑が重なって、天皇制は生き延び戦犯裕仁も天皇位を保持した。
日本国憲法は、天皇の地位を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」とし、その根拠を「主権の存する日本国民の総意に基づく」とした。が、天皇の人権に関する規程はない。
天皇の具体的な人権の保障とその制約のあり方は、可能な限り国民と同一のものとすべきであろう。「象徴」とは特別の権限も権能もないことを表現するための用語で、「象徴」から演繹される特権も不利益もない。
なにせ、神であることを否定した「生身の人間」を無理やりに象徴としたのだ。天皇の私的生活の領域を認めざるを得ない。その私的領域においては、天皇も私人として当然に権利義務の主体となり得る。
裁判所も、できるだけ天皇の私人としての権利を認めてやればよいのにと思うが、現実には、その逆の立場をとっている。その典型が、前回の天皇交代の際に、天皇を被告として起こされた「不当利得返還代位請求訴訟」(住民訴訟)の判決。天皇は民事訴訟の被告たり得ないと判断された。論理の必然として、天皇は原告として民事訴訟を提起する資格もないとされたことになる。事件は、次のようなもの。
昭和天皇(裕仁)は1988年9月に吐血して重体に陥った。このとき千葉県知事沼田武は1988年9月23日から1989年1月6日までの間、昭和天皇の病気快癒のために県民記帳所を設けた。当然そのための公費の支出を要し、その支出の合法性が争われた。天皇(裕仁)は1989年1月7日に死亡し、その地位は長男である明仁が継承した。
千葉県民である原告は当該公費支出は違法であり、明仁(第125代天皇)は記帳所設置費用相当額を不当に利得したとして、地方自治法第242条の2第1項第4号に基づいて、千葉県に代位して裕仁の相続人である明仁に対して損害賠償請求の住民訴訟を提起した(現在は少し制度が変わっている)。曲折はあったが、結局天皇の裁判を受ける権利が否定された。
1989年7月19日に東京高裁は「仮に天皇に対しても民事裁判権が及ぶとするなら、民事及び行政の訴訟において天皇と言えども被告適格を有し、また証人となる義務を負担することになるが、このようなことは日本国の象徴であるという天皇の憲法上の地位とは全くそぐわないものである。そして、このように解されることが天皇は刑事訴訟において訴追されるようなことはないし、また公職選挙法上選挙権及び被選挙権を有しないと一般に理解されていることと整合する」として控訴を棄却した。説得力のない相当に無理な説示である。
1989年11月20日に最高裁判所はこれを基本的に是認して、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることに鑑み、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものであるが、本件訴えを不適法とした第一審判決を維持した原判決はこれを違法として破棄するまでもない」として上告を棄却した。
「象徴」という言葉からこのような結論を引き出したことにおいて、この判決は学説から頗る評判が悪い。評判は悪いが、この「記帳所事件」判決は、天皇に民事裁判権がないとした判例として語られている。
天皇予備軍としての皇族の立場は天皇とは違ったものではある。が、その私的な領域を狭められ否定されることによって、非人間的な境遇を強いられることにおいては同様である。国民の人権意識の成熟までは、同じような皇族バッシングが続くことにならざるを得ない。
(2021年10月25日)
今は昔のこと。中国司法制度調査団などというツァーに参加して、何度か彼の地の法律家と交流したことがある。
そのとき、裁判官の独立も、弁護士の在野性も、検察官の罪刑法定主義もほとんど感じることはできなかった。日本の司法には大いに不満をもっていたが、彼の地の司法はとうていその比ではなかった。
改革開放政策に踏み切った中国が経済発展を遂げるには、近代的な法制度をつくり、その法制度を運用する厖大な法律家の創出が必要になるという時期。みごとな通訳を介して、私は遠慮なくものを言った。
「中国共産党の専横を抑制するには、法の支配を徹底するしかない。厖大な数の法律家が育てばその役割を果たしてくれるのではないか」「とりわけ、人権意識の鋭い弁護士が多数輩出することが中国の社会を民主化するきっかけになるのではないか」「権力の横暴が被害者を生み、その被害者が弁護士を頼らざるを得ないのだから、反権力の弁護士が育たないはずがない」「そのような弁護士の輩出による中国共産党の一党独裁の弊害への歯止めを期待したい」
私の言葉は、ほとんど無視された。せいぜいが、「あなたは中国共産党のなんたるかを知らない」「そんな甘いものじゃない」「まったくの部外者だから、勝手なことを言える」という言葉が返ってきた程度。
今、中国の人権派弁護士が孤立して、中国共産党の暴虐に蹂躙されている模様が報道されている。「中国で人権派弁護士は、権力の監視役として一定の役割を果たしてきた。習近平指導部は、党の一党独裁体制を脅かす存在として抑圧を続けている」と共同記事。昔中国で聞かされた「中国共産党はそんな甘いものではない」という言葉を思い出す。なるほど、これが現実なのだ。
かつての天皇制権力の暴虐も、弁護士の人権活動を蹂躙した。はなはだしきは、国賊共産党員の弁護活動従事を治安維持法違反に当たるとして検挙した。当時司法の独立はなく、当然の如く有罪が宣告され、弁護士資格は剥奪された。当時弁護士の自治はなく、弁護士会も天皇制権力に毅然とした姿勢をとることはできなかった。同じことが、いま中国で起こっているのだ。
2015年7月9日、約300人の弁護士・人権活動家が一斉拘束された。「709事件」としてよく知られている。しかも、拘束された人権派弁護士たちは苛酷な拷問を受けたとされる。多くの弁護士が、この弾圧で投獄され資格を失った。それだけではなく、この事件で起訴された弁護士の弁護を務めた弁護士が弾圧されている。
「709事件」の被害者として著名な人権派弁護士王全璋は、服役して刑期を終えた。ところが、王全璋の弁護を担当した余文生弁護士は18年1月からの拘束が続いているという。その余弁護士の弁護を引き受けたのが、盧思位弁護士。余弁護士は苛酷な拷問のうえ有罪判決を受けて下獄し、廬弁護士は香港の事件受任で資格剥奪の通告を受けているという。
余弁護士の妻、許艶氏は夫の拷問を告発するとともに、「(一斉拘束事件では)弁護士の弁護士の弁護士まで圧力を受けた」と憤っていると報じられている。ああ、中国には人権はなく、刑事司法もない。あるのは、お白州レベルの糾問手続だけなのだ。
これは、社会主義とも共産主義とも無縁な現象。野蛮な権力の容認は、未開社会の文化度・文明度を物語るものである。
(2021年10月24日)
第49回総選挙まで、あと1週間。選挙情勢は混沌としてよく見えない。各政党の政策もよく見えてこない。最大の論争テーマして、岸田さんが設定した「新しい資本主義」「いわゆる新しい日本型資本主義」なるものがよく分からない。正確には、さっぱり分からない。
「ネオリベ」も「ネオコン」も、頗るイメージは悪い。「新自由主義経済」ではなく、「新しい資本主義」とは、いったい何なのだ。これまでのどのような資本主義に比較して、どこがどう「新しい」と言うのだろうか。分かりにくさの原因はいくつもあるが、何よりも、岸田さん自身がはっきりものを言えない立場にあることが根本原因と言ってよいのだろう。
アベノミクスの9年は、成長重視で格差貧困をほったらかしの「新自由主義経済政策」であり、その惨憺たる失敗であった。結局、成長もできず格差貧困を大きく拡大しただけ。一方に極端な富裕層を更に肥大化させ、他方で実質賃金を減じてしまった。安倍や麻生の失政に対して、国民的な怨嗟の声が巻きおこらないのが不思議でならない。
アベノミクスの失敗を素直に認めて、「アベノミクス=新自由主義政策」からの脱却を目指すとすれば、岸田政策はとても分かり易いものになる。アベノミクスの成長重視政策から、格差貧困をなくす経済政策に転換するのだと明言すればよいだけのことだ。だが、ご存知の事情あって、それができない。
「成長と分配」にかかわる論争を「卵が先かニワトリが先か」論争と同視して、どっちもどっちなどとしてはならない。また、「生産と分配」の論争と混同させてもならない。「成長と分配の好循環」と言っても、あるいは「官民協働で成長も分配も」と唱えても、具体的なイメージは湧かず、何を言っているのか、さっぱり分からない。
アベノミクスを転換して、「まず配分」を重視の政策でなくてはならない。所得の再分配も、富の再分配も必要なのだ。具体的には、消費税を撤廃ないし半減する。金融所得の分離課税方式を撤廃する。所得税の累進化率を高める。新たな富裕税を創設する。そして、最低賃金を底上げする。具体的にやるべきことはいくつもある。野党が政権を取れば、その格差と貧困の解消が現実化される。
しかし、岸田さんは、そんなことは言えないのだ。本日(10月24日)の毎日朝刊に、興味深い記事がある。「岸田氏演説、消えた『分配』 野党と差別化『成長』重視」というタイトル。
「岸田文雄首相が衆院選の街頭演説で「経済成長」に軸足を置いた訴えを続けている。一方で、自身が掲げる「新しい資本主義」で重視する「分配」への言及は抑制気味だ。野党との差別化を狙う自民党が「成長」を前面に出すよう要請したためだが、野党は「アベノミクスと何ら変わらない」などと批判している。
首相は23日、佐賀県武雄市の街頭演説で「成長」という表現を7回使いつつ、…「分配」の文言は、現地での第一声としては選挙戦5日目にして初めて消え、力点の違いは明らかだった。
首相は9月の自民党総裁選で格差是正に取り組む考えを強調し、成長重視のアベノミクスの修正とも受け取れる「新しい資本主義」を掲げた。8日に衆参の本会議で行われた所信表明演説では「新しい資本主義」への言及は7回に達した。「成長」(15回)と「分配」(12回)をほぼ同じ回数使った。
だが衆院選に入りこのバランスが崩れている。19日の福島市の街頭演説で「成長」は8回に対し、「分配」は3回にとどまった。20日以降は「成長」への偏重が加速し、「分配」の文言を使わない演説も増えた。「新しい資本主義」に触れるのも0回か1回が続いている。」
「首相周辺は「首相の主張が変わったわけではない。自民党側から選挙戦術の進言があった」と明かす。
やっぱり、「岸田自民党」ではなく、「安倍・麻生・甘利・高市 自民党」なのだ。来週日曜(10月31日)の投票日には、「安倍・甘利 自民党」に大敗北の審判を下さなければならない。
(2021年10月23日)
「3・11」「1・17」「3・10」「6・23」「8・6」「9・1」…。人は、それぞれに、月と日を記憶する。私にとっては「10・23」が忘れてはならぬ日となっている。2003年以来、今日まで。
18年前のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いではない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明、つまり「国旗(「日の丸」)に向かって起立し国歌(「君が代」)を斉唱せよ」という職務命令を全教職員に徹底せよと強制する内容。
形式は、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令だが、各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというもののだ。実質的に知事が、校長を介して、都内の全公立校の教職員に、起立斉唱命令を発したに等しい。教育法体系が想定するところではない。
あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。
しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。
この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。
最高裁が、
秩序ではなく人権の側に立っていれば、
国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、
「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気あるのになっていたはずでなのだ。
10月31日、総選挙の投票日には、公立校に国家主義を持ち込もうという現政権を批判して、立憲野党4党(立民・共産・社民・れいわ)の候補に投票しよう。そして、最高裁裁判官の国民審査においては、最高裁を総体として批判する意味において、遠慮なく審査対象11人の全員に「×」をつけていただきたい。
全裁判官に「×」はやや無責任に思える、比較的マシな裁判官には、「×」をつけたくない、とおっしゃる方は、宇賀克也裁判官にだけは「×」を付けずに投票されたい。
その理由については、下記のURLを参照願いたい。
国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf
第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html
(2021年10月22日)
本日、自由法曹団の創立100周年記念集会が開催された。
団の結成は、1921年。大戦前における最大規模と言われる、神戸の川崎・三菱両造船所争議をきっかけにするものだった。当時、友愛会神戸連合会の指導のもとに、神戸の川崎・三菱の全工場がストライキにはいったが、軍隊の出動にまで及んだ弾圧によって争議は鎮圧された。このときに、調査にはいった弁護士団を核に自由法曹団は結成されている。その出自から、「闘う弁護士」の組織であった。
広辞苑に、「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張を旗じるしとする」と解説されているが、これでは不十分な紹介でしかない。何よりも、法的手段を駆使して権力と大資本に真っ向から闘うことをもって真骨頂としてきたのが自由法曹団なのだ。
団は、戦前においては、天皇制権力の暴虐と闘った。多くの団員が治安維持法で弾圧された共産党員を弁護し、そのゆえに自らも治安維持法の弾圧に遭い、弁護士資格を剥奪されてもいる。この困難な、戦前の先輩団員弁護士として、山崎今朝弥・布施辰治・上村進・古屋貞雄・小岩井浄・近内金光・神道寛次・天野末治・桜井紀などの名を挙げることができる。
大戦の進行とともに団は活動の逼塞を余儀なくされたが、戦後直ちに新生自由法曹団として復活した。以来、団は「あらゆる悪法とたたかい、人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」(規約2条)ことをスローガンとし実践してきた。
戦後の団は、平和、民主主義と人民の生活と権利を守るため、憲法改悪、自衛隊の海外派兵、有事法制、教育基本法改悪、小選挙区制、労働法制改悪などに反対する活動を行ってきた。
現代的な課題として、戦争法制(安保法制)など戦争する国づくりに反対する活動、秘密保護法に反対する活動、米軍普天間基地撤去を求め、辺野古新基地建設に反対する活動、議員定数削減に反対し、民意の反映する選挙制度を目指す活動、労働法制改悪に反対する活動、盗聴法の拡大と司法取引の導入に反対する活動、裁判員制度の改善と捜査の全面可視化を実現する活動、政教分離を確立する運動、思想・良心の自由を擁護する取り組み、東日本大震災と福島第一原発事故による被害者支援の取り組み、脱原発へ向けたとりくみなどを行っている。
さらに団と団員は、松川事件を典型とする刑事弾圧事件とも闘ってきた。その流れは、布川事件、足利事件、袴田事件などのえん罪裁判に及んで成果を挙げている。
そして今、団員の派遣労働者の派遣先企業への正社員化を求める裁判などの数々の労働裁判、生活保護受給を援助する取組、嘉手納爆音裁判などの基地訴訟、環境・公害裁判、税金裁判、消費者裁判などの様々な権利擁護闘争に取り組んでいる。日の丸・君が代強制反対のまた、国際的な法律家の連帯と交流の活動も行っている。
現在、団員弁護士数は約2100名。全国すべての都道府県で活動しており、全国に41の団支部がある。現在の役員は、団長・吉田健一(32期)、幹事長・小賀坂徹(43期)、事務局長・平松真二郎(59期)である。
青年法律家協会結成が戦後の1954年。日本民主法律家協会は1961年。当然のことだが、それぞれに結成の由来があり、それぞれに構成メンバーの属性も違う。一番老舗で、しかも闘う弁護士集団を標榜する自由法曹団の結成100年を祝したい。
なお、日本民主法律家協会も今年が結成60周年となる。こちらは来月、祝賀集会を開催し、「法と民主主義」の特別号を発行する。
(2021年10月21日)
ご隠居、これさっぱり分からねえ。なんだか教えてくんないかな。
おや八つぁん、どれ見せてみな。ああ老子だな。
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
おれにゃチンプンカンブンだね。いったいどう読むんだい。
たやすいことだ。普通はこう読む。
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り万物の母には。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じく出でて名を異にし、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。
なおのことさっぱり分からん。老子ってお人は、いったい何についてしゃべくっているのかね。
これはな、八つぁん。実はだな、自民党岸田文雄総裁の総選挙における姿勢を厳しく批判しておる。
ムチャを言っちゃいけねぇ。ここには、岸田も、選挙も、一言もこざいませんぜ。
そこが、素人のあさはかさ。読む人が読めば、自ずからこの裏に隠された意味が浮かび上がってくるな。
へ?、読む人はいったいどう読むんですかね。
たとえば、こう読む。
岸田の岸田たるは、常の岸田に非ず。政権の政権たるは、常の政権に非ず。岸田無きは天地の始め、政権有るは万物の母。故に常にその自説を放棄してその地位を保ち、自説にこだわれば破滅を観る。岸田と政権と、この両者は同く出でて、しかもハトとタカと名を異にす。この両者同じきを保守と謂い、保守も自民も玄にしてさらに玄、衆妙の門なり。
ご隠居、相当に無理をしちぁいませんかね。それでも、やっぱりわからない。私にも分かるように、噛み砕いてくださいな。
噛み砕くと面白みはなくなるが、まずは、こんなところだ。
岸田さんてのはそれなりのイメージを持った政治家だろう。保守本流の宏池会の主宰者で、決して改憲派でもなければ、安倍晋三のような好戦派でもないし、歴史修正主義とも政治の私物化とも無縁だ。話しぶりだって、安倍や菅と較べれば、ずっと穏やかで品がよい。
そりゃ違えねえ。なんたって、安倍晋三というのが、あんまりひどかったからね。ようやく、ちゃんとした人が自民党のトップになった。
そこが、素人のあさましさ。そういうふうに簡単に騙されてはいけないというのが、老子の教えだな。
あら、今度は「あさましさ」。どう騙されてはならないってんですかね。
これまでの岸田が総裁になったと思ってはならない、今、総選挙に臨んでいる岸田はイメージどおりのいつもの岸田ではない、とまあ警告を発しておる。
実は、あっしもそういう了見なんだ。新聞で、「ブレブレ岸田」と言ってるとおりだ。「自民党の政権公約で鮮明なのはアベ後継の甘利と高市のカラーばかり」って、あれだろう。
そうさぁ、そのとおり。そして、老子は続けている。
安倍菅政権というものは、民主主義の常識に照らせば政権の名に値するものではない。しかし、岸田は実力で今あるわけではなく、安倍菅政権を母体として自民党総裁になった。だから、自分のカラーを消して初めてその地位を保つことができるが、反対に自説にこだわればあっさりと破滅してしまう。
少し分かったよ。普通の政権なら、政権投げ出しゃそれでお終いだ。とこが、安倍菅政権って代物は、いつまでも裏で糸を引こうという魂胆なんだ。岸田は、実力ないから安倍菅とその一味に、糸で引かれっぱなしというわけなんだ。
よくお分かりじゃないか。まったくそのとおりだ。老子は、最後をこう締め括っておるな。
岸田と安倍と、この両者は出所は同じだが、ハト派とタカ派に名を分けた。この同じ出所を保守と言い自民党とも言うが、ハトもタカも一緒というごちゃごちゃはコマッタもんだ、とな。
へ?え、「衆妙の門」というのが、「自民党はごちゃごちゃでこまったモンだ」という意味ですかね。
あんまり細かいことにまでこだわらんでもよい。要は、岸田をハトのイメージで見ていては間違える。ありゃあ、実は安倍晋三そのままのタカだという教えなんじゃ。
見かけはハトで中身はタカ、看板は岸田で売ってる品物は安倍製品、表紙は岸田で中身は安倍、顔は岸田で身体は安倍ってわけか。
もっとも、鳩は軍記物では戦での勝運を呼ぶ鳥じゃ。軍神である八幡神の使いとしても知られておる。そもそもの岸田のハト派イメージも、そのホンモノ度を、よく吟味しなければならん。
なるほど、言われてみればそのとおりだ。ハトの目タカの目でね。
(2021年10月20日)
弁護士の澤藤です。
弁護士生活50年、憲法を携えて仕事ができることを誇りにしていますが、必ずしも憲法に忠実ではない裁判所に不満を持ち続けて来ました。ですから、国民審査の際には、厳しい目で審判を、と訴えてきました。
これまでも、国民審査のたびごとにリーフレットは作成されてきましたが、今回のリーフはよく出来ていると思います。よくできているの意味は、どの裁判官に、どんな理由で「×」をつけるべきかを明示していることです。読む人に親切な内容とも言えると思います。
国民審査は、個々の裁判官の適不適を審査する制度となっています。しかし、私はむしろ、これを最高裁のあり方を問う制度として活用すべきだと思っています。
日本国憲法には、美しい理想が掲げられています。その理想を実現する役割を担うのが裁判所であり裁判官です。その頂点に位置する最高裁の裁判官に限って国民審査の対象になります。主権者である私たち国民は、国民審査の機会に最高裁のあり方を可とするか不可とするかの審判を行うことで、最高裁だけでなく、全国の裁判所をより良い方向に変えていくことができます。
まずは、最高裁はその判決や決定において、憲法に忠実に人権を擁護してきたか。結論から言えば、判決内容に関しては、以下のとおり不十分と言わねばなりません。
?選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、岡村和美、長嶺安政の各裁判官)に「×」を!
?正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に「×」を!
?冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山卓也裁判官)に「×」を!
?一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、草野耕一岡村和美各裁判官)に「×」を!
最高裁は二面の性格をもっています。その一面は、全国唯一の最上級審として判決や決定を統一する裁判体としての性格ですが、実はもう一つ、司法行政の主体としての性格も併せ持っています。
国民審査においては、最高裁の判決の内容が国民の目からみて、憲法の番人にふさわしいか、というだけでなく、司法行政の主体として憲法が想定している裁判所を構成しているかという視点をもつべきだと思うのです。
すべての裁判官にとって、その独立こそが生命です。政治権力にも、いかなる社会的な権力や権威にも揺らぐことなく、自らの良心と法にのみに従った裁判をすることによってこそ、法の正義を貫き国民の人権を擁護することが可能となります。
ところが最高裁で司法行政を司る「司法官僚」はその人事権を梃子に、全国の裁判官を内部的に統制し、この50年にわたって裁判官の独立をないがしろにしてきたと指摘せざるを得ません。判決内容だけでなく、この点についての国民的批判も重大だと考え、その観点から
?裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、「?」を!
と訴えます。
なお、このリーフレットの作成には、「日本民主法律家協会」の会員とともに、「23期弁護士有志ネットワーク」の弁護士が参加しました。23期弁護士は、50年前の1971年4月「司法の嵐」と言われた時代に、弁護士となりました。当時、石田和外最高裁長官(退官後、「英霊にこたえる会」の初代会長)を典型とする司法官僚と鋭く対峙してきました。そのテーマは、裁判官の思想・良心の自由であり、裁判官と司法の独立をめぐってのものでした。
憲法や司法の独立を大切にする法律家としての立場から、国民の皆様に、最高裁裁判官国民審査を大切な機会として生かしていただくよう訴えます。
以上の件に関して、詳しくは、下記URLをご参照ください。
国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf
第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html
(2021年10月19日)
いよいよ総選挙だ。
本日、第49回衆議院選挙の公示。選挙区に857人、比例代表に194人(重複立候補者を除く)の計1051人が立候補を届け出、各党の党首がそれぞれの第一声を上げた。この選挙で求められているのは、9年間に及ぶ腐りきった安倍・菅政権への主権者からの審判であり、その継続を断ち切っての政権の転換である。
主権者のはずの国民だが、普段はなかなかその実感をもちにくい。安倍菅政権下ではなおさらのことだった。今こそ、すべての国民が主権者としての自覚に目覚めなければならない。でなければ、また、これまでと同じような、腐敗した政権の支配に屈し続けなければならない。
理想的とは言えないにせよ、野党の共闘態勢は大きく前進している。289の小選挙区のうち、213選挙区で立民、共産、れ新、社民の野党共闘候補が自公の候補者と対決する。議会制民主主義の基本の通りに、選挙を通じての民意を反映した政治の前進を期待したい。そして、望むべくは、政権の転換である。
「1強」とも、「官邸支配」とも、「国会軽視」とも、「官僚の私兵化」とも呼ばれた安倍・菅政権であった。官僚に忖度を余儀なくさせ、国政を私物化し、公文書を隠匿し改竄し廃棄する官僚文化を醸成し、嘘とゴマカシの羅列で、国民の信頼を喪失してきたこの腐敗の政権。それが、いまだに実質的に継続しているのだ。これに「NO!」を突きつけなければならない。
具体的な政策の問題点は、野党間共通政策となった「6本の柱・20項目」に網羅されているが、私は、強調すべきは以下の3点だと思う。
第1は、経済政策である。アベノミクスの評価と絡んで、「成長と分配」の論争。
岸田文雄は、自民党総裁選では明らかに分配重視の見解を述べていたのに、ブレて後退し「まず成長、その果実を配分にまわす」に立ち位置を変えた。これでは、アベノミクスと変わらない、9年間の格差拡大と停滞とを継続するだけのことになる。
適切な所得と富の再分配あってこその国民の福利である。社会の極端な経済格差と貧困を解決するための政権交代が必要なのだ。そのために、消費税の撤廃ないし半減、法人税の増税・累進化、富裕税の創設、所得税の累進性の強化、金融所得への課税強化が不可欠である。
「新自由主義」を否定しつつ、「新しい資本主義」を唱える岸田だが、だんだんと自分でも何を言っているのか分からなくなってしまっているのではないか。
第2は、政治姿勢の抜本的転換である。嘘とゴマカシのない、説明責任と透明性を確保した政治と行政が行われなければならない。そのために、安倍菅政権下の、モリ・カケ・サクラ・河井等々の徹底調査を選挙の争点としなければならない。
そして第3点は多様な生き方を保障する人権の確立である。端的には、ジェンダーがテーマとなっている。中でも、選択的夫婦別姓制度採択への賛否が分水嶺になろう。今や、頑固な家族制度墨守派に占拠されている自民党だけが少数反対派となってミジメな孤立をしている状況ではないか。
ところで、本日午前10時15分と16分、総選挙の第一声に国民が湧いている時刻に、北朝鮮が弾道ミサイルを「東の方向に発射し、日本海上に落下したものと推定される」との政府発表があった。これが、騒ぐほどの規模や態様のものであるか否かはまだ分からない。が、たいへん不愉快な北朝鮮の行動である。
このような一国のパフォーマンスが、各国にどのような影響を与えるかの分析なしに行われるはずはない。このミサイル発射は、明らかに、日本の総選挙を意識した挑発であると考えざるを得ない。日本を挑発して北朝鮮の存在を誇示して、軍事的な緊張を高めようとしているのだ。
言うまでもなく、この北朝鮮の狙いは自民党の好戦勢力の歓迎するところ。そのことがよく分かったうえでの、選挙に際しての毎度の礼砲なのだ。
自己目的化している北朝鮮の先軍政治を堅持し、引き締めるためには、常時の軍事緊張が必要なのだ。折々に、ミサイルも発射しなくてはならない。事情は、日本の軍産複合体や自民党の鷹派にとっても同じことだ。お互いに、相手を敵視し挑発し合うことで、持ちつ持たれつ軍備の増強をはかっているのだ。