(2021年9月25日)
コロナ禍がもたらした思いがけない福音に、オンライン会議の普及がある。これまでは東京周辺の人としかできなかった会合が、オンラインなら全国の誰とでも可能となった。交通の時間も費用もかからずに。
50年前に、司法修習と修習生運動を共にした23期の弁護士の気の合った仲間が、「23期弁護士ネットワーク」というグループを名乗って、今年の4月、まず「司法はこれでいいのか」という本を出版し、4月24日には出版記念の集会を開催した。その準備はZoom(ズーム)での会議がなければできなかったこと。
その後も頻繁にZoom(ズーム)会議を開いて、意見交換をしている。札幌、東京、名古屋、京都、大阪などの参加者が、簡単に顔を合わせ、話し合うことができるのだから、これは便利だ。
23期共通の関心事は司法問題。どうすれば、《憲法が想定する、真に独立した人権の砦としての裁判所》をつくることができるだろうか、という問題意識。
そのような観点からの活動の第一歩として、本日は、オンライン学習会を開催した。『原発訴訟から司法を考える』とタイトルした企画。
企画書は次のように述べている。
「今回は、3・11の福島原発事故以後の原発差止訴訟を取り上げます。ご存じの通り、全国各地で差止訴訟が提起されていますが、勝訴判決はわずかですし、勝っても上級審では全て覆されています。あれだけの被害を出し、史上最大最悪の公害と言われる原発被害を経験したのにもかかわらず、この結果は何を意味するのでしょうか、また何が原因となっているのでしょうか。さらには、どうすれば裁判所を変えていけるのでしょうか。それらを探りながら、前回の集会に引き続き、再度、ハードケースで勝訴判決が出ない司法の問題点、現状を議論し、今後の裁判に役立てたいと思い、今回の企画を準備しました。」
パネリストは次のお二人。
*島田広弁護士50期
大飯原発福井訴訟団長として、いわゆる樋口判決を得るも控訴審等で最高裁シフトを経験。
*井戸謙一弁護士(元裁判官)31期
裁判官時代志賀原発2号機の運転差止を認める判決を下す(当時全敗の中)。差止訴訟に限らず、「ふくしま集団疎開裁判」等の団長も。
メインの講師、井戸さんのお話は、明晰で興味深いものだった。司会をお願いした北村栄弁護士が、周到な準備を経た質問をしてくれたおかげもある。いくつか、印象に残ったことを、私なりの理解で書き残しておきたい。
?刑事訴訟とは実体的真実を見極めるための手続ではない。「ギルティ」と証明できない限りは、「ノットギルティ」なのであって、被告人が真に潔白であるか否かは問題にならない。
?実は、民事訴訟も同様に挙証責任の配分というルールに従っての判断に至る手続で、本来は安全性具備の挙証責任は被告の電力会社側にある。ところが、多くの原発差し止め事件判決が、先例とされている行政訴訟の伊方原発事件の法理に従って、挙証責任を逆転させて住民を敗訴させてきた。私は、民事訴訟のルールの通りに判決したまでのこと。
?それでも、初めての差し止め判決を出すには緊張感が伴ったし、その後も変わった裁判官という目で見られた印象を拭えない。自分の裁判官としてのキャリアに影響あることは予てから覚悟していた。だから、ローンなどは、早めに完済するよう、心がけていた。
?裁判官を説得するには、争点を絞り、書面は短く、記録は薄く、主張は簡潔に、専門的なことを噛み砕いて文系の裁判官に分かり易くということが望ましい。現実にはなかなか困難だが。
?原告の主張を実現するには法廷外の運動も大切だと思う。傍聴席が満員であれば、国民が注視している事件だという緊張が生まれる。公正判決要請などの署名は、書記官限りで裁判官にまで上がってこない扱いが多いが、なんとなくたくさんの署名があったということは話題になるもの。
?いま大切だと思っていることは、科学的知見を裁判所に納得してもらうために、良心的な科学者集団の叡智を結集すること。具体的には、これまで余り注目されなかった地盤工学に関する研究者たちの助力を得ている。
?原発関連訴訟に関しては、3・11事故による被害の確認は重要だと思う。事故直後のあの緊迫感は時とともに風化しつつあると思わなければならない。
?国を被告にする事件だからといって、裁判官が国におもねることはないと思う。しかし、国策の根幹に関わるような事件では、話は別。たとえば、沖縄の問題ではそれが顕著に表れていると思う。
?かつては、結論では棄却の判決でも、その理由中の傍論で原告の望む事実認定をし、あるいは違憲違法を語った例が多かった。最近ではそれが少ない。安保法制違憲素諸判決には一件もない。裁判官の意識の変化かも知れない。
?裁判官は、組織に隠れた存在になってはならない。評価すべき判決も批判すべき判決も、裁判官・裁判長の固有名詞を冠して特定すべきだ。だから、ネットで実名を挙げての裁判批判もあって当然だと思う。
(2021年9月24日)
NHKを行政のくびきから解放して、真に独立したジャーナリズムに育てようという壮大な市民運動。その一環としてのNHK情報公開請求訴訟にご注目とご支援をお願いいたします。
その第1回期日が目前です。当日のスケジュールは以下のとおり。
日時 9月28日(火)午前10時40分から約1時間
法廷 東京地裁103号(1階の「大法廷」)
(傍聴には、10時20分からの抽選が予定されています。しかしコロナ禍のさなか、おそらく満席にはならないと思われます)
法廷では、下記の原告と原告代理人(計4名)の口頭意見陳述が行われます。
(1) 西川幸さん(視聴者の立場から)
(2) 長井暁さん(副原告団長・元NHKチーフプロデューサー)
(3) 醍醐聰さん(原告団長・東大名誉教授)
(4) 澤藤大河弁護士(原告ら訴訟代理人)
その後、下記のとおり報告集会を行います。こちらにもぜひご参加を。
時間 13:00 ?
場所 参議院議員会館 B108会議室
この訴訟の原告は104名の受信契約者(視聴者)、被告はNHKと森下俊三(経営委員長)の2名。被告NHKに対しては「文書の開示」を請求し、被告森下には文書開示を懈怠した責任者として損害賠償をせよという内容。
被告NHKに対して開示を求める最重要の文書が、「2018年10月23日のNHK経営委員会議事録」。放送法41条は、「委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない」と、経営委員会委員長の任にある者に経営委員会の会議議事録の作成と公表を義務付けている。しかも、「遅滞なく」である。
ところが、法律で明確に定められたこの義務は、履行されていない。なぜか。経営委員会にとって都合が悪いものだから出せない、と考えざるを得ない。
この日の経営委員会で何が行われたのか。森下主導で経営委員会は、当時の上田良一NHK会長に「厳重注意」を言い渡した。これは、NHKの良心的番組「クローズアップ現代+」が取りあげた「日本郵政のかんぽ生命不正販売問題」の制作妨害の意図によるものである。
つまり、NHKの最高意思決定機関である経営委員会が、外部勢力(日本郵政)の意を受けて、NHKの番組潰しを画策したのだ。経営委員会は具体的な番組の制作に干渉してはならない、とする放送法32条に違反する、明らかな違法行為。
この文書については、これまで5件の開示請求(NHKの手続では「開示の求め」という)があり、NHKが委嘱した「情報公開審議委員会」は5度に渡って、NHKに公開すべしと答申したが、NHK(実質的には経営委員会)が答申を拒否した。
そこで、原告らが、「仮に今度も開示を拒否されたら提訴する」ことを宣言して、開示の求めを行い、所定の期限までに開示に至らなかったことで、提訴に及んだのがこの訴訟なのだ。
原告らは今年の4月7日に「開示の求め」を行い、提訴は6月14日となった。その後、7月9日になって、『議事録』が開示された。提訴の効果として、一定の前進あったことの評価はやぶさかではない。
しかし、実は問題が解決したわけではない。もし、この『議事録』が放送法の定める議事録だとすれば、当然に公表されなければならないところ、この議事録は文書開示の求めをした当事者には写しが交付されているが、誰もが見ることができるように「公表」されていない。通常、公表はNHKのホームページに掲載されるが、今に至るもその掲載はない。
しかも、この議事録には「別紙」が付されて、「これは経営委員会の確認を経ていない」旨が明記されている。果たして、7月9日交付を受けた文書が、原告らが開示を求めた文書であるかについては、いまだ納得しえない。そんな経緯の中で、第1回法廷を迎える。
なお、被告森下の答弁書は、9月21日の夕方ファクス送信されてきた。請求の趣旨に対する答弁だけで、何の内容もないもの。被告NHKの答弁書は9月22日の夕刻だった。こちらは、さすがに内容のあるものだった。
そのNHKの答弁は、「既に請求された情報開示は実行されている」というものだが、原告が納得できるようにはなっていない。原告は、文意必ずしも明確とは言えないとして翌23日付の求釈明書を提出している。28日の法廷は、この点のやり取りが中心となる。
NHKの答弁書を一瞥して、それなりの真摯さを印象づけられた。いたずらに論点をはぐらかしたり、挑発的な、あるいは居丈高な姿勢はない。認めるところは認めるという穏当な答弁。
この訴訟にはメディアの関心が集中しており、メディアの背後にはNHKのあり方を憂慮する広範な国民が存在している。私は、NHKがそのことを意識してこその、この答弁書の姿勢だと思う。
そしてもう1点。原告は、決してNHKを非難し追及しているわけではない。むしろ、励ましているのだ。この件では、元総務次官の日本郵政上級副社長・鈴木康雄と、当時は経営委員長代行だった森下俊三との二人が、良心的番組潰しの両悪役である。NHK執行部は、番組制作の現場を守ろうとして力が足りなかったと言ってよい。原告らは、森下とNHK執行部との責任の強弱を明確に区分して認識している。NHKには、そのような原告の思いが伝わっているのだとも思う。
(2021年9月23日)
DHCスラップ訴訟・「反撃」訴訟の経緯を一冊の本にまとめようと悪戦苦闘している。何とか、今年中にでも出版に漕ぎつけたい。が、なかなか筆が進まない。そして、書いたものを読み返しては、読者に面白いだろうか、有益だろうか。と反問せざるを得ない。
未定稿だが、その冒頭の一部と、末尾の一部を抜き出してみよう。こんな具合なのだが、果たして読者に読んでもらえるものになるだろうか。
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?えっ? 私が被告?
2014年5月のとある日。初夏の雨上りの心地よい日だった。世はなべてこともなく、穏やかであったその日の夕刻。とんでもないものが舞い込んできた。
玄関のチャイムが鳴って郵便局の青年が愛想よく声をかけてきた。「澤藤さん、トクベツソウタツですよ。印鑑をお願いします」
「ああ特別送達ね。ハイ、了解」と受領印を押して、東京地裁から私宛の特別送達の封書を受け取る。法律事務所に裁判所からの特別送達。特に珍しくはないが、日常的にあることでもない。さて、受任している誰の件だろうか。封を開けて当事者の表示を見て驚いた。私が受任している事件ではない。私自身が被告として明記されていたのだ。私は、代理人としてではなく、被告本人として私宛に送達された訴状を受領したのだ。初めての妙な体験。いったいこれは何のことだ。
訴状を一瞥してさらに驚いた。サプリメント販売大手のDHCとそのオーナーである吉田嘉明の両者が原告となって、私に対する2000万円の名誉毀損損害賠償請求訴訟を起こしたのだ。私のネット上のブログ記事を削除せよとも請求し、屈辱的な謝罪文の掲載も求めている。
なんの前触れもないその唐突さに最初は呆れ、次いでこの上ない不愉快と怒りの感情に襲われた。爽やかな初夏の夕刻の景色が、禍々しい一通の訴状で一変した。その日に始まったDHC・吉田嘉明との闘い。2021年1月に、訴訟が最終的に確定するまで6年8か月である。
当時私は弁護士になって45年目。訴訟の当事者となる依頼者の代理人として、多くの訴訟に携わってきた。しかし、自分が事件の当事者となるのはまったく初めての経験。訴えられるなどとは思いもよらないことだった。しかも、この訴訟は私に違法な行為があって、2000万円を損害賠償せよという。2000万円は私にとっては大金である。とうてい鼻先で笑える金額ではない。私は、猛烈に怒った。
あれから7年余である。おそらくは何年経っても、あのときの怒りは治まらない。DHCと吉田嘉明と、そしてその代理人となった弁護士を決して許さない。私は執念深いのだ。
あらためて考える。当時、私はいったい何に怒ったのだろうか。明らかに、この提訴は私の言論に対する「黙れ」という恫喝であった。私は恫喝されたことにも怒ったが、むしろ恫喝すれば黙るだろうと見くびられたことに腹を立てた。また、どんなめちゃくちゃな裁判であろうとも、これに応訴する面倒をよく知っている。確実に労力を割かねばならない。手間暇がかかるのだ。このことにも苛立った。
そして、思った。弁護士の私が、「黙れ」「口を慎め」と脅かされているのだ。弁護士としての矜持にかけて決して黙ってはならない。絶対に、一歩も退くものか。全力をあげて闘うことを決意した。闘う相手は、直接は原告となった吉田とDHCとその代理人弁護士であるが、決してそれだけではない。自由な言論を封じようとする社会的圧力との闘いと意識した。
大袈裟ではあるが大真面目に思った。これは、正義のための悪の権化との戦いである。
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?反撃訴訟判決の確定
そして、2021年1月15日コロナ禍の年明け。若い郵便局員がチャイムを鳴らして、「澤藤さん、トクベツソウタツですよ」とマスク越しに声をかけた。「はい、特別送達ね」と既視感のある応対。今度は最高裁(第1小法廷)から特別送達。反撃訴訟についてDHC・吉田嘉明の「上告棄却・上告受理申立不受理」の決定通知である。薄っぺらい三つ折りの書面。俗にいう、三下り半の決定通知。これですべてが終わった。
東京地裁からの訴状特別送達で始まって、最高裁からの上告棄却決定の特別送達で終了。この間6年8か月である。本当に長かった、ようやく終わったという実感。
提訴から数えれば6年9か月に及んだ、DHC・吉田嘉明と私(澤藤)との典型的なスラップ訴訟をめぐる法廷闘争だった。繰り返し確認しておくことになるが、私の完勝である。ということは、DHC・吉田嘉明完敗の確定である。裁判は、都合6回あった。私の6戦全勝、DHC・吉田嘉明の6戦全敗である。DHC・吉田には何の策もなく負けるべくして負けた。この経過と判決内容とは、私の勝利というだけではなく、基本権である表現の自由の勝利である。この社会には、まだDHC・吉田のごとき者を批判する自由は保障されているのだ。
判決によってその権利性が保障された私の言論は、無内容なものではない。DHC・吉田嘉明が、カネの力でこの国の政治を歪めようとすることへの批判の言論にほかならない。DHC・吉田嘉明が政治家渡辺喜美に対する8億円の裏金提供が目論んだ政治の歪みとは、規制緩和の「美名」のもと、企業の利潤追求に障害となる行政規制をなくして消費者利益を奪いとろうとしたものであった。そのことを批判した私の言論は、民主主義政治にとっても消費者利益にとっても、極めて有益な、真っ当な言論であった。DHC・吉田嘉明が、私を恫喝して妨害しようとした言論とは、そのようなものである。
結論を明確にしておきたい。今回のDHC・吉田嘉明完敗の最大の教訓は、「DHC・吉田嘉明ごときに恫喝されて、批判に臆してはならない」ということである。デマ・ヘイト・スラップ・ステマ・ブラック体質、極右の言論…、何とも多くの病巣を抱え込んだ問題企業・問題人物としてのDHC・吉田嘉明である。これに対する言論での批判は、事実に基づくものである限り、果敢に行わねばならない。スラップの提訴を恐れるが故のいささかの怯みもあってはならないのだ。また、言論によるものではなく、消費者運動としてのDHC製品不買運動にも積極的に取り組むべきである。少しでも、この社会をよりよりものとするために。
この序章と終章との間に、エピソードはいくつもある。
?えっ? 請求額が6000万円に?
?えっ? 私がまた被告に?
?逃げるな吉田嘉明
など思い出してみれば盛り沢山なのだ。
そして、あらためて思う。私個人としては、いささかも怯むところなく徹底して闘うことで自分のプライドを守り得たのだ。そして、社会的にはとてもよい判決を得た。これをもっと世に広めたい。
そして、この成果を得るために力を尽くしていただいた弁護団の皆様に感謝の気持ちでいっぱいである。
だから、執筆を急がねばと思いつつ気持ちは揺れる。自分では、有益で面白いと思ってみたり、独りよがりに過ぎないと思ったり。その日の気分次第で、自評も毎日くるくる変わっている。が、何とか書かねばならない。
(2021年9月22日)
ワタシがブロック太郎だ。ワタシの突破力を疑う人もないではないが、ワタシのブロック力を疑う人とてこの世にはない。誰もが認める、六十余州に隠れもない史上最強のブロック太郎…だぁ。
あれもヤメレ、これもヤメレ。見たくないものには目をふさぐ、聞きたくない言葉には耳をふさぐ。ブロックに何の遠慮が要るものか。聞いてほしけりゃ、ワタシの喜ぶ意見をもってこい。
ナニ? 「自民党総裁選候補者及び各党代表への『桜を見る会・前夜祭』に関する公開質問状」だと? いったい誰がそんな公開質問状を出しているんだ? 「『桜を見る会』を追及する法律家の会」だと。そんなもの、どう答えたって、総裁選に有利になるはずはない。ヤメレ、ブロックだ。受領拒否で送り返せ。また来たら、また送り返せ。ブロック太郎のブロック力の見せどころだ。
「news23」で、「首相になってもブロックはするのか」と質問されたから、「ワタシのやりたいようにやる」と答えてやった。ブロックは、ブロック太郎のレーゾンデートルだ。ブロックやめたら、ワタシがワタシでなくなる。誰の意見も聞きましょうなんて、面倒なことはやってられない。できっこない。
記者会見なら、「次の質問どうぞ」「次の質問者どうぞ」だ。あなたの質問には答えない。気にいらない記者には答えない。耳に痛い質問には答えたくない。だって、ワタシはいつも正しく忙しい。つまらぬ記者やその質問に、時間をとられるのはまっぴらだ。
ワタシもそれほどバカではない。作戦というものが二つある。一つは公私の区別曖昧化作戦。もう一つが、中傷・批判混交作戦。意図的にやっている。マ、安倍さんのご飯論法みたいなもんだ。
こういうことだ。まずツイッターはワタシの「暇つぶし」と私的な言論であることを強調する。こうしておいて、公的情報をどんどん入れてフォロアー数を稼ぐ。何か批判があれば、すぐにブロックして「私的な言論にとやかく言われる筋合いはない」と開き直る。私と公との行ったり来たり。境界曖昧にしておくことが、何よりのブロック術の秘訣。
もう一つが、意識的な誹謗と批判の曖昧化。卑劣な誹謗は許せない、なんて言いながら政治的批判の言論をブロックしようというずる賢い高等戦術。「ツイッター上の会話も普通のリアルの会話のように礼節をもってやってもらえればいいんだが」などと言いつつ、面白くない批判者の言論はブロックなんだ。
ワタシのや目指すところはトランプの流儀。ワタシにとって大切なのは、熱狂的な支持者の一群を作ることであって、満遍なく説明責任を全うすることではない。なんで、自分を批判する「あんな人たち」の言い分を聞かなきゃならないんだ。ブロックしたって何が悪い。
「『桜を見る会・前夜祭』に関する公開質問状」なんて、どうせ前首相や自民党を誹謗中傷する法律家の集まりだろう。ワタシはまだ私人だ。ブロック力を発揮して、受領拒否をしても、ちっとも問題はないだろう。これからも、「ワタシのやりたいようにやる」だけさ。
(参照) https://article9.jp/wordpress/?p=17589
(2021年9月21日)
国会議員とは辛い仕事だ。共産党の議員ともなれば格別に辛い。楽しい弁護士稼業に専念せずに、辛さ覚悟で議員になってる山添拓には、ご苦労様というほかはない。
この辛さには二面ある。一つは、一般人ならなんでもないことをことさらにあげつらわれ、悪意ある輩から過剰に叩かれること。もう一つは、積極的な弁明をしがたいことだ。「大したことをやったわけではない」と自ら言えば、反省が足りないとさらに深みにはまる恐れがある。
自己弁護をしがたい辛い境遇なのだから、周囲が弁護を買って出なければならない。私も、一言申し上げておきたい。
彼のツィッターでの発言によれば、「2020年11月3日、休日を利用して趣味の鉄道写真を撮りに行った際に、長瀞町の秩父鉄道の線路を横断したことが、埼玉県警秩父警察署から軽犯罪法違反であるとの指摘を受け、本年9月16日付で送検した旨の連絡を受けました。」という。
送検の被疑罪名が必ずしも明らかではないが、軽犯罪法とすれば、「第1条第32号 入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた」しか考えられない。
鉄道の線路は、「入ることを禁じた場所」に当たるのだろうが、実生活においては線路を渡るのも、線路を歩くのも、必要あれば誰でもすることだ。右を見左を見て安全を確かめたうえ、線路を渡る。私もこれまでの人生でおそらくは何百回もやってきたことだ。普通、これを犯罪と意識することはない。ましてや送検されるなど思いもよらないこと。
このような、法益侵害の極限までに軽微な行為に対しては法の適用の公平性を厳格に確保し、厳しく濫用を警戒しなければならない。軽犯罪法自身が、その4条で、「この法律の適用にあたつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあつてはならない。」と、司法警察や検察官を戒めているとおりである。
よもや立件はあり得ないだろうが、送検されただけで悪意ある中傷にさらされている現実がある。山添拓弁護の材料を提供しておきたい。
まずは、「一厘事件」大審院判例を淵源とする可罰的違法性論である。形式的には構成要件に該当する行為も、刑罰法規が刑事罰に値するとして予定する違法性の質・量を欠く行為は処罰に値せず、罪とならない。
「一厘事件」は、葉煙草専売法(不納付)違反での起訴事件。被告の農民が、大蔵省専売局に納入することを怠った乾燥葉煙草の相当価格は、1厘(1円の千分の1)であった。この起訴が、一審無罪、控訴審有罪となり、注目された大審院は、無罪とした。処罰に値するほどの違法性を欠くということなのだ。
刑事弾圧には、常にこの可罰的違法論が問題となる。山添拓弁護はまずここから始まる。そして、故意の欠如、公訴権濫用論等々。
もう一つ。新訳聖書(ヨハネ伝)を引用しておきたい。
イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
これも、示唆に富んでいる。誰もが自信をもって処罰すべきと言える行為でなければ、犯罪として扱ってはならない。恣意的な捜査や起訴の危うさを忘れてはならない。
山添拓よ。怖じけるな、たじろぐな、動じるな。この一件、大成に至る一里塚とせよ。
(2021年9月20日)
9月17日のテレビ番組で、司会者から「靖国の参拝ですけれども、内閣総理大臣になられましても続けられますか?」と聞かれて、高市早苗は、下記のように答えている。事実上内閣総理大臣になっても靖国参拝を継続する宣言と聞こえる。右翼・右派には喝采だろうが危険な発言。こんな政治家が、与党の総裁選に出てくる時代状況なのだ。
まだ、自由民主党の総裁選挙、これから戦おうということですけれども、靖国神社への参拝はわたくしは一人の日本人として、信教の自由に基づいて続けております。
それで、ま、なんでか、これを外交問題にしようという報道、まあ海外からの反応もあったり、日本の中でも「これ外交問題になりませんか?」とよくマイクを向けられるたりするんですけれども
わたくしはそれぞれの国の為に、ま、国の為に命をかけられた方、国策に殉じられた方の御霊をいかに、こう、お祀りするのかっていうのはそれぞれの国の中の問題であると思っています。外交問題であっちゃいけないと思っています。
わたしも閣僚として、また別の議員外交の一員として海外に出た時にですね、相手国の首相や大臣と会談をする前にその国の為に命を捧げられた方の、ま、慰霊施設に、あの、先に参拝するようにさせて頂いてます。
過去の戦争の歴史というのは本当に不幸な物であって誰が悪い、どっちが悪いと言い出したらきりがないんですけれども、それぞれの国の為に命をかけられた方にお互いに敬意を表しあう、そういう関係を作っていければいいなと思ってます。
この発言に、逐語で批判しておきたい。
「まだ、自由民主党の総裁選挙、これから戦おうということですけれども、靖国神社への参拝はわたくしは一人の日本人として、信教の自由に基づいて続けております。」
高市さん、お分かりだと思いますが、《一人の日本人としての信教の自由にもとづく参拝》と、《内閣総理大臣としての公的資格における参拝》とは、違うのです。もし、あなたが内閣総理大臣になったとしたら、あなたの靖国参拝は《一人の日本人としての参拝》ではなく、《内閣総理大臣としての参拝》とならざるを得ません。この両者は厳格に区分しなければならない。分からないフリをしてはならないし、ごまかしてもならないのです。
「それで、ま、なんでか、これを外交問題にしようという報道、まあ海外からの反応もあったり、日本の中でも「これ外交問題になりませんか?」とよくマイクを向けられるたりするんですけれども」
高市さん、問題は《外交問題》だから、ではないんですよ。中国や韓国やアメリカが問題にしなければよいということでもない。中国や韓国やアメリカが外交上問題にしなくても、日本国憲法における政教分離原則が許さないのです。そこは、内閣総理大臣となろうという人には、お分かりいただかなくてはなりません。
「わたくしはそれぞれの国の為に、ま、国の為に命をかけられた方、国策に殉じられた方の御霊をいかに、こう、お祀りするのかっていうのはそれぞれの国の中の問題であると思っています。外交問題であっちゃいけないと思っています。」
《国の為に命をかけられた方、国策に殉じられた方の御霊》が靖国に祭神として合祀されているという信仰を、国家は肯定も否定もしてはなりません。国家が、靖国神社やその信仰を特別の存在としてはいけません。その宗教施設にも信仰にも一切関わってはならないのです。それが、外交上の要請ではなく、我が国の憲法の決まりなのです。信仰をもつ人がお祀りし、お詣りすることは自由です。でも、国家を代表する人は決して参拝してはならないというのが、国内のルールなのです。
「わたしも閣僚として、また別の議員外交の一員として海外に出た時にですね、相手国の首相や大臣と会談をする前にその国の為に命を捧げられた方の、ま、慰霊施設に、あの、先に参拝するようにさせて頂いてます。」
高市さん、それは素晴らしいことだと思います。中国に行けば南京の「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館」、旧満州の「平頂山・惨案遺跡紀念館」、韓国なら「西大門刑務所歴史館」、そしてシンガポールなら「日本占領時期死難人民記念碑」など、こういう場所で尊い命を失った人の追悼をされることが、その国の人々との友好の第一歩だと思われます。
「過去の戦争の歴史というのは本当に不幸な物であって誰が悪い、どっちが悪いと言い出したらきりがないんですけれども、それぞれの国の為に命をかけられた方にお互いに敬意を表しあう、そういう関係を作っていければいいなと思ってます。」
「過去の戦争、誰が悪いどっちが悪いと言い出したらきりがない」には同意できません。国際法や人道に照らして、誰が悪いどっちが悪いはきちんと言うべきだし、謝罪も必要ではありませんか。 歴史を曖昧にしたり美化したりしてはいけません。
結局あなたが首相になっても続けると言わんばかりの靖国参拝は、侵略戦争であったあの戦争を美化し曖昧にするもの、あの戦争を聖戦とし天皇のために命を落とした兵士を英霊と礼賛する危険なものとして、憲法20条の政教分離原則違反と言わざるを得ません。
憲法を厳格に遵守しようとしない人物に、内閣総理大臣となる資格はありませんよ、高市さん。
(2021年9月19日)
私も参加している「『桜を見る会』を追及する法律家の会」という団体がある。もっぱら「桜を見る会前夜祭」にまつわる安倍晋三元首相の犯罪を刑事告発するために結成された。
昨年(2020年)2月13日、126名の原始呼びかけ人の訴えに応えて5月21日の第1次告発状提出時の参加者は622名だった。第2次告発時には941名となつている。いま、第3次告発まで行い、果敢に首相の犯罪に切り込んで、既に具体的な成果を上げている。
その「『桜を見る会』を追及する法律家の会」が、自民党総裁選と総選挙を目前に、自民党総裁選の候補者4人と7政党の代表に下記の公開質問状を送付した。一昨日(9月17日)のことで、公表は昨日(9月18日)。質問は、桜を見る会本体についてのものと前夜祭に関するものと、併せて5問である。回答期限は9月24日。
ほかにも、いくつもあるが、安倍・菅政権の最大のネックは、「モリ・カケ・桜」疑惑であり、その説明責任の欠如である。
まずは、自民党総裁選4候補の、そして与野党を問わず、各政党の明瞭な回答を聞かせてもらいたい。
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自民党総裁選候補者及び各党代表への
「桜を見る会・前夜祭」に関する公開質問状
自民党総裁選候補者
岸 田 文 雄 殿
高 市 早 苗 殿
河 野 太 郎 殿
野 田 聖 子 殿
立憲民主党代表
枝 野 幸 男 殿
公明党代表
山 口 那津男 殿
日本維新の会代表
松 井 一 郎 殿
日本共産党委員長
志 位 和 夫 殿
社会民主党党首
福 島 みずほ 殿
国民民主党代表
玉 木 雄一郎 殿
れいわ新選組代表
山 本 太 郎 殿
安倍政権では、森友・加計学園問題や「桜を見る会」問題にみられる政治の私物化が国民的な批判を受け、真相究明と責任追及が求められましたが、菅政権は、これらの課題に全く向き合うことなく、退陣することになりました。
このような中で、本日、自民党総裁選挙が告示され、遅くとも11月には総選挙が行われると言われています。
私たち「桜を見る会」を追及する法律家の会(以下「法律家の会」)は、昨年2月13日結成以来、「桜を見る会」の私物化問題と「前夜祭」の政治資金問題を追及してきました。私たちが取り組んだ「前夜祭」に関する刑事告発では、本年7月、東京検察審査会が、被疑者安倍晋三らに対する不起訴を不当とする議決(別紙参照)を行いました。
「桜を見る会・前夜祭」問題は、現在も未解決の問題であり、国民は政治に対する強い不信感をいだくとともに、疑惑の真相究明と責任追及を強く求めています。
このような問題意識から、自民党総裁選候補者と各党党首の方々に、下記の公開質問を行わせていただきますので、9月24日(金)正午までに上記回答先(弁護士泉澤章宛て)にFAXにてご回答頂きたくお願い致します。短い回答期限で恐縮ですが、宜しくお願い致します。
また、回答内容は、回答の有無も含め、マスコミ等への公開を予定しております。
記
第1 「桜を見る会」について
総理主催の「桜を見る会」に、約800名の安倍晋三後援会員が招待され、また、深刻な消費者被害を引き起こしたジャパンライフ及び48(よつば)ホールディングスの経営者並びに反社会的勢力の人物が招待されたと報じられました。安倍内閣は、招待者名簿を破棄して実態を明らかにせず、菅内閣も、「桜を見る会」問題は決着済みとして、真相究明や責任追及を行いませんでした。
第1問 検察審査会は、「桜を見る会」について、「税金を使用した公的な行事であるにもかかわらず、本来招待されるべき資格のない後援会の人達が多数参加しているのは事実であって、今後は、候補者の選定に当たっては、国民からの疑念が持たれないように、選定基準に則って厳格かつ透明性の高いものにしてもらいたい。」と指摘しています。この検察審査会の指摘に対する貴殿のお考えをお示し下さい。
第2問 貴殿が首相になった場合ないしは貴党が政権与党となった場合、「桜を見る会」問題についてどのような対応をするか、ご回答下さい。
何らかの対応をとる場合、どのような体制でどのような真相究明・責任追及の取組みを行うのか、具体的にご説明下さい。
第2 「前夜祭」について
安倍晋三後援会主催の「前夜祭」では、参加した選挙区内の後援会員に対して寄附(飲食代不足分の補填)がなされたのではないか、その補填金の原資は何かが問題となっており、安倍被疑者は補填は秘書が行ったことで自分は知らなかったと弁明しています。
第1問 検察審査会は、安倍被疑者の不起訴不当議決の中で、「総理大臣であった者が、秘書がやったことだと言って関知しない姿勢は国民感情として納得できない。」と指摘しています。この検察審査会の指摘に対する貴殿のお考えをお示し下さい。
第2問 検察審査会は、安倍被疑者の不起訴不当議決の中で、「国民の代表である自覚を持ち、清廉潔癖な政治活動を行い、疑義が生じた際には、きちんと説明責任を果たすべきである。」と指摘しています。
この検察審査会の指摘に対する貴殿のお考えをお示し下さい。
第3問 貴殿は、安倍前首相が「前夜祭」問題について説明責任を果たしているとお考えですか。説明責任を果たしていないとお考えの場合、今後、国会及び内閣はどのような対応をとるべきだとお考えでしょうか。具体的にご説明下さい。
以上
(2021年9月18日)
私が生まれたころ、日本は長い長い戦争をしていた。いま「15年戦争」と呼ばれるその戦争の始まりが、ちょうど90年前の今日。
1931年9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、至近の張学良軍の拠点である北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。この事件が、1945年8月15日敗戦までの足かけ15年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。
関東軍自作自演の「柳条湖事件」は、満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。こうして、事件は、満州事変となり、翌32年3月には傀儡国家「満州国」の建国が強行される。
一方、中華民国政府はこの事件を9月19日国際連盟に報告し、21日には正式に提訴して理事会に事実関係の調査を求めた。連盟理事会は、「国際連盟日支紛争調査委員会」(通称リットン調査団)を設置し、同調査団は32年10月最終報告書を連盟に提出し、世界に公表する。翌33年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。
いったん収束した満州事変は、宣戦布告ないままの日中全面戦争に拡大し、さらに戦線の膠着を打破するためとして太平洋戦争に突入して、軍国日本が敗戦によって壊滅する。その長い長い戦争のきっかけとなった日が、今日「9・18」である。
もう、何年前になるだろうか、柳条湖事件の現場を訪れたことがある。事件を記念する歴史博物館の建物の構造が、日めくりカレンダーをかたどったものになっており、「九・一八」の日付の巨大な日めくりに、「勿忘国恥」(国恥を忘れるな)と刻まれていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。
「9・18」を、中国語で発音すると、「チュー・イーパー」となる。何とも悲しげな響き。その博物館で、「チュー・イーパー」という歌を聴いた。もの悲しい曲調に聞こえた。中国の国歌は、抗日戦争のさなかに作られた「義勇軍進行曲」。作詞田漢、作曲聶耳として名高く、「起来!起来!起来!」(チライ・チライ・チライ=立ち上がれ)と繰り返される勇猛な曲。「チュー・イーパー」の曲は、およそ正反対のメロディだった。
柳条湖事件は、石原・板垣ら関東軍幹部の自作自演の周到な謀略であった。国民の目の届かぬところで戦争のシナリオを作り、実行したのだ。が、留意すべきは満州侵略を熱狂的に支持する「民意」があればこその「成功」であった。世論は、幣原喜重郎外相の軟弱外交非難の一色となった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは、当時既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「満州の権益を日本の手に」「これで景気が上向く」という圧倒的な世論。真実の報道と冷静な評論が禁圧されるなかで、軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そのような、巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。
学ばねばならないことは、軍という組織の危険な本質であり、国家機関が国民の目の届かぬところで暴走する危険であり、煽動される民意が必ずしも肯定されるべきではないということであり、国際世論に耳を傾けることのない孤立の危険…等々である。
90年前の教訓は今にどれだけ生かされているだろうか。民主主義は、常に危うい。自由も、平和もである。
(2021年9月17日)
本日、自民党総裁選の告示、4人が立候補した。この総裁選、アベスガ政権を見限った国民の批判をどう受け止め、自民党をどう立て直すかがテーマのはず。本来は、アベスガ政権の政治姿勢、政治理念、各分野の政策の不備を徹底して洗い出し、その反省を今後にどう生かすべきかという議論の場でなければならない。
党外の人間にとって党内の権力闘争などには何の関心もない。来たるべき総選挙に与党として望む自民党が、アベ・スガ路線から変わるのか変わらないのか。変わるとしたら、何がどのようにどの程度変わるのか。その点を国民に示すものでなくてはならない。
9年に及ぶアベ・スガ政権とは何であったか。何よりも、「モリ・カケ・桜・クロカワイ・卵にカジノ」に表れた、ウソとゴマカシ、国政私物化の政権であった。また、アベノミクスで富裕層を富ませる一方、大量の非正規労働者を創出して格差貧困を拡大した「自助・自己責任」政策の政権でもあった。そして、改憲に血道を上げ、人種や民族の差別を煽った政権でもあった。
岸田・河野・高市の3候補は、どれもこれも似たり寄ったり。アベ・スガ政権を批判するのではなく、アベ・スガ政権に擦り寄りおもねってばかり。アべ・アソウ・ニカイなどに睨まれような発言はできない。後世、アベ・スガ・キシダ政権時代とか、アベ・スガ・コーノ路線と評されることになるしかない。まさしく、コップの中の嵐の総裁選の模様、…と思われた。
ところが、ギリギリで野田聖子が4人目の候補者として名乗りを上げ、少し様相が変った。野田の立候補支援は河野追い落とし派の策謀という見方もあるようだが、そんなことはどうでもよい。この4人の中で、他の3人とは一線を画した野田発言の真っ当さに、どれだけ世論の注目が集まるか。そのことを見守りたい。
本日の4候補共同記者会見では、アベ・スガ政権に対する世論の批判を象徴する問題として、森友学園をめぐる公文書改ざん問題について「再調査をするかどうか」が問われた。この質問はこれまでも話題となってきた。どの候補も予想していた質問で、想定問答の回答を練ってきたはず。
アベ・アソウ忖度派3候補は、再調査の実行を否定した。
河野太郎は「すでに様々な司法まであがっているものですから、再調査の必要はない」と明確に述べた。「安倍さん、よく聞いてね」と言わんばかり。
高市早苗は「現在、ご遺族が国などを相手取って提訴しているので、この点についてはコメントができない、するべきではない」と回答を避けた。
岸田文雄はやや微妙な言い回しだった。「行政、司法において様々な調査、報告が行われている。その上で国民の納得感で足りないことがあれば、政治の立場から丁寧に説明をしていきたい」。これは、誰に、どのような場で、どのような手続で「説明」するというのかよく分からないが、世論がイメージする再調査はしないことの弁明を述べたと解すべきだろう。
野田聖子は違った。「反省し、アプリオリに調査をする必要がある」と答えたのだ。
「公文書の隠蔽、偽造、改ざん、廃棄。これは絶対にあってはならないこと」「多くの国民が納得していない」「起き得ないことが起きたことは、しっかりと知るべきだ」に続けての調査必要発言である。これは、アベやその取り巻きに忖度しない、という宣言ではないか。
アプリオリを「自明に」「先天的に」などと注をつけている報道が多いが、「理屈抜きで」「無条件で」という意味ととらえるべきだろう。
この点の論争はこれからも続くことになる。野田は、もっと具体的に、再調査の構想を打ち出すべきだろう。財務省内の身内の調査では国民が納得していない。偶然のことから存在が明らかとなり、民事訴訟でようやく開示された赤木ファイルには、財務省調査はまったく言及していない。信頼できる外部の第三者による再調査チームを作ることを具体的に発言するべきだろう。
「民事訴訟中だからコメントできない」「言うべきでない」というのは、まったくおかしい。再調査をしない理由にはならない。
AとBとが訴訟をしているとき、第三者であるCが「どちらの言い分が正しいのかよく分からないので、AB間の訴訟の決着がつくまで見守ろう」ということはあり得る。しかし、問われている局面はまったく異なる。
今、A(自死した赤木さんの遺族)がB(国)に提訴をした。候補者4名は、第三者としての意見を聞かれているわけではない。B(国)のトップになったら、どうするのかの意見を聞かれているのだ。
この訴訟は形の上では国家賠償だが、原告が望んでいるのは「徹底した真相の究明」である。被告国の立場としては、これまで通り責任を否定して真相の究明に背を向けるのか、「徹底した真相の究明」に協力するのか、二つに一つである。それについての、国のトップの意思と責任が問われている。
忖度派3候補は、結局今までの通り財務省の内部調査以上の事実はなく、赤木さんの自死に国は責任はないという立場を貫けという意見。野田聖子だけが、再調査して「徹底した真相の究明」に協力しようというのだ。この姿勢は、アベ・スガ政権の腐敗を反省して再出発するための第一歩として貴重なものと言えよう。
(2021年9月16日)
東京「君が代」裁判・5次訴訟(原告15名)の準備書面を作成中である。直接には、教員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲判断を求める訴訟であるが、教育の本質や教育行政のあるべき姿を追及する訴訟でもあり、教育現場に活力を取り戻そうとする訴訟でもある。
その違憲論争の一部としての憲法20条論(信教の自由の保障違反)の、神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)をめぐる論争をご紹介しておきたい。
原告は訴状請求原因で、「日の丸・君が代」の宗教性の有無に関して、この判決を引用した。
よく知られているとおり、同判決は,「神戸市立高等専門学校の校長が,信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した学生に対し,必修である体育科目の修得認定を受けられないことを理由として2年連続して原級留置処分をし,さらに,それを前提として退学処分をしたという事案」である。
判決は、「本件各処分は,原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと」を認め、このことを理由の一つとして認めて、校長の退学処分を違法と認めた。
「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制されたのは、剣道の授業の受講である。学校の体育で行う剣道が、一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為とは言いにくい。しかし,これを強制される生徒の側から見ると、原告が剣道実技への参加を拒否する理由は,信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったことを認め、剣道の受講は生徒の宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせるもので、その強制の違法を最高裁は認めた。
「日の丸・君が代」強制も同様である。仮に「日の丸・君が代」が宗教性希薄なものであるにせよ、これを強制される教員の側から見ると、自らの宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせ、自分の信仰に抵触する行為として,その強制は違法なのである。
しかも、日の丸・君が代への敬意表明は、この歌と旗の出自からも来歴からも、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。
結局、本件においては,信仰を持つ原告らにとって,「日の丸・君が代」の宗教性は否定できず,それゆえ「日の丸・君が代」の強制が信仰に背馳する行為の強制として、20条2項及び同1項に違反する。
この最高裁判決は,
?少数者の信教の自由を保障することの重要性,
?信教の自由への制約の可否を検討する場合の代替的方法についての検討の必要性,
?信教の自由が内心における信仰の自由の保障にとどまらず,外部からの一定の働きかけに対してその信仰を保護・防衛するために防衛的・受動的に取る拒否の外的行為の保障(最高裁判決の事案では,剣道実技履修の拒否という外的行為の保障)を含むことが明らかにされていること,
などの点でも,大いに参考にされるべきものである。