澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

森友文書改ざん再調査 ー 前言撤回の岸田もおかしいが、再調査に怒った安倍はもっとおかしい。

(2021年9月8日)
 私、岸田文雄です。自民党総裁選に立候補いたします。よろしくお願いしま?す。

 安倍晋三さんの政権が7年8か月、そして後継の菅義偉さんがほぼ1年。右寄り政権には国民が飽き飽きしている頃ではありませんか。保守的政権に危機が来れば、リベラル派のバネを利かせるのが自民党の伝統。そろそろ、私の出番なのですよ。菅さん相手の勝負には、アベ・スガの痛いところを衝かなきゃ勝てない。だから、少し思い切ったことを言ってみた。

 キーワードは、「国民への丁寧な説明」。安倍政権にも菅政権にも決定的に不足していたもの。そこで、森友問題での財務省の決裁文書改ざん問題について『国民が納得するまで説明を続けることが政府の姿勢として大事』と踏み込んだ発言をしちゃったんだ。こうすれば、国民からの喝采を受けることができる。そうなれば、選挙の顔として申し分がない。

 菅退陣表明は9月3日だった。まだ、その前兆もつかめなかった前日の9月2日。菅さんと闘うことだけを想定して、BSーTBSの番組で言っちゃったんだ。いや、自分から言ったわけではない。森友事件の再調査の必要性を問われたからだ。

 「調査が十分かどうかは国民が判断する話だ。国民は足りないと言っているわけだから、さらなる説明をしないといけない。国民が納得するまで努力することが大事だ」とね。誰が聞いても、徹底的な再調査を尽くして、政府の説明責任を果たし、国民誰もが納得するまで努力を継続する覚悟、と思うよね。

 ところが驚いたことに、これが裏目に出た。翌日、菅さんは退陣を表明。私の相手は、突然に菅さんじゃなくなった。それなら、キーワードもキャッチフレーズも変わってくる。それだけではない。安倍晋三さんがエラくご立腹だとのこと。私ではなく、あの保守も保守、夫婦別姓も絶対に認めようとしない高市早苗さんを応援すると伝えられた。これは、たいへんだ。安倍さんに反省の情を見せなくてはならない。

 そこで、7日の前言撤回記者会見となったわけだ。今度はこう言い訳をした。
 「行政において調査が行われ、報告がなされた。裁判が続いており、これから判決が出る。必要であれば国民に説明すると申し上げている。従来のスタンスと全く変わっていない」
 実のところは、変わっていないどころではない。もちろん、「再調査はやっぱりや?めた」宣言だ。これで安倍さん、少しは気分を直してくれるよね。そして、最後は私を支援してくれるんじゃないのかな。

 だけど安倍さん、なぜ怒ったんだろう。わたしは、安倍さんの責任を追及するとも、安倍さんに忖度した官僚の実態を暴くとも言ってないじゃないか。「国民が納得するまで調査する」と言っただけ。安倍さん常々言っていたよね。「自分も妻も、一切関与していない」って。調査の結果、国民誰もが、安倍さんの関与はないって、納得してもらえるはずなんだから、怒るのは筋違いじゃないのかな。

 それともなにかな。徹底して調査されると、政治家生命を断たれるような不都合な真実が出てくるのを心配しているのだろうか。

 スホーツ紙の見出しに、「岸田文雄氏、森友問題への態度一変『再調査考えてない』安倍晋三前首相に忖度?…自民党総裁選」「安倍晋三前首相に配慮した変節とも取られかねない軌道修正」なんて書かれちゃって、国民世論的には痛手だけど、それだけ、長老政治家には「岸田は安全パイだ」って、考え直してもらえたんじゃないだろうか。

 それにしてもだ。あ?あ、ヘマやっちゃったな。優柔不断で芯のない政治家だと国民に思われちゃったな。でも、安倍さん、モリ・カケ・桜に触れられるとあんなに怒るんだ。凄いな。やっぱり、触れられては困るんだ。でも、それでいいのかね。

秋元司有罪は、アベ・スガ政権への断罪でもある。

(2021年9月7日)
 ことあるごとに思い起こそう。忘れぬように繰り返そう。

 モリ・カケ・桜・クロカワイ・アベノマスクにIR

 ウソとゴマカシをもっぱらとし、政治を私物化した安倍晋三という人物と、その政権を忘れてはならない。度しがたい歴史修正主義者で改憲論者の安倍、しかも無能・無責任のこの人物の長期政権をわれわれは許してしまった。さらに1年、その付録であり、事実上の延長政権である菅義偉後継政権がようやく終わった。

 次期総裁選などというコップの中の嵐に興味を惹き寄せようという策謀に乗せられてはならない。アベ・スガ政権を清算して、そのアンチテーゼとしての新政権を樹立する議論こそ、今なすべきもの。

 本日の秋元司のIR汚職と証人買収での有罪判決。あらためて、安倍政権とは何であったかを思い出させる。この秋元という男、なんとも汚い。政治を金儲けの手段としただけでなく、金で無罪も買えると考えたのだ。本日の判決言い渡しで、裁判長に、「公人としての倫理観はおろか、最低限の順法精神すら欠如している」と言わしめたとおりである。この汚い人物が安倍政権IR担当の内閣府副大臣だった。そのイスと人物とよく似合う。釣り合いまことにピッタリではないか。

 しかも、IRは安倍政権の観光振興策の目玉であり、安倍はカジノ議連の最高顧問を務めたこともある。菅とともにカジノの旗振り役だった。成長戦略の目玉として「カジノ解禁法案」採決を強行した当時、「カジノ事業者らによる議連関係者へのロビー活動がすごかった」と報道されている。

 業者にとっても政治家にとっても、おいしい事業であり、法案だった。それだけに、危険が見え見えの代物である。案の定、安倍政権の薄汚さを象徴する収賄事件が発覚して秋元は逮捕され、不要な尻尾として切られた。

 秋元は無罪を争ったが、本日の判決は懲役4年の実刑で、追徴金約760万円(求刑懲役5年、追徴金約760万円)が言い渡された。

 判決言い渡しにおいて、裁判長は「特定の企業と癒着し、職務の公正や社会の信頼を大きく損なった。証人買収は前代未聞の司法妨害だ」と厳しく非難し、刑事責任は重く、長期の実刑は免れないと述べたという。

 この事件の贈賄側は、日本でのIR事業参入を目指していた中国企業「500ドットコム」。この企業から、議員会館事務所で300万円を受け取るなど、総額約760万円相当の賄賂を受領。保釈中だった昨年6?7月、同社元顧問2人に報酬を示し、公判で自分に有利な証言をするよう持ち掛けたが、これが裏目に出た。

 カジノもIRも、こんな汚いものはまっぴらだ。アベ・スガ政権の残滓とともに、日本中から一掃しなければならない。アベ・スガも秋元も、その身を恥じて、もう政界から身を引いてもらいたい。

ところが、秋元は十分に懲りては居ないようだ。判決前のメディアの取材に対して、今秋に予定されている衆院選について「やましいことはないので有罪判決でも出馬する」と答えているという。嗚呼、おそらくは、安倍も菅もなのだ。

西暦表記を求める企業の合理性 ー 「西暦表記を求める会」にて

(2021年9月6日)
 本日、衆議院議員会館の一室を借りての「西暦表記を求める会」世話人会。私も、この会の世話人の一人として、リアルに出席。肩の凝る会議ではない。半分は雑談が楽しい。

 「西暦表記を求める会」は小さな市民団体だが、「変えるのは私たち! 全ての公文書に西暦表記を入れさせましょう」と、意気は高い。その会の趣旨とや活動については、下記のURLを開いてご覧いただきたい。
https://seirekiheiyo.blogspot.com/

 本日の議題は、生保会社に対するアンケート調査の件。
 国内には42社の生保会社があるという。その全社と、幾つかの共済事業体を対象に、西暦と元号との使用状況についてアンケートをしようということなのだ。そのきっかけが、下記のとおり会のホームページに掲載されている。《長期契約になることもある生命保険》というのが、ミソなのだ。将来の長期期間を元号では表記できないじゃないか、との含意がある。

「元号」は原理として「未来の年」を表示できません。
 ところが、人生の全期にわたる長期契約になることもある生命保険において、元号のみの表記をいまだ続けている会社もあります。

 日本生命保険相互会社の保険契約をお持ちの方から、契約者(相互会社という仕組みでは社員でもあるそうです)として、契約情報は元号表記でなく、西暦にして欲しいと要請したところ、順次西暦化していくとの回答が直ちにきました、という情報をいただきましたので、紹介します。

 生命保険会社では年に1回、契約者に対して、契約内容や請求漏れがないか契約者情報の変更がないか、などの確認を行っています。2021年現在、日本生命保険相互会社の場合、契約確認書類の年表記は元号のみでした。(被保険者の生年月日・契約日・確認書類作成日がすべて元号表記)

そして、以下が連絡フォームから送付した要請文だそうです。
 
契約内容の確認を致しましたが、契約者の生年月日、保険の契約年月日などすべて元号表示のみになっていますが、なぜですか。
何年前の契約か、何年経過したか、何年後終了する契約か、どう考えてみても西暦でなければいちいち換算しなくてはならず、なぜあえてわかりにくい表示を御社がしているのか、理由を教えてください。
どうか、顧客満足の立場に立つのであれば、西暦表記に変更してください。よろしくお願いします。

 以下が、それに対する回答文だったそうです。

いつも格別のお引立てをいただき厚くお礼申しあげます。
当社ホームページからお問合せいただきました件につきまして、
以下のとおりご回答申しあげます。
このたびは、契約内容の画面の年号表記につきまして、
ご不便をおかけいたしまして申し訳ございません。
当社といたしましては、将来的には西暦表記でご案内する予定でございます。
※順次変更していく予定でございます。
すぐにご案内できず申し訳ございませんが、何卒ご了承ください。

今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申しあげます。

 いずれ、システム改修の時にでも、西暦にするから、それまで待てや、という風に読めなくもない、やる気の無い印象も受けてしまいましたが、それぞれの会社の顧客に対する思想が良く現れる事柄だと思いますので、今後も注視していきます。


 この日本生命の件をきっかけにして、本日の会議では、アンケートの文案を検討し確定した。併せて、この生保各社に対するアンケートの意義について意見が交わされた。
 ・大事なのは、西暦表記が人々の予想を超えて広がっているのを示すことだ。
 ・生保業界だけでなく、銀行でも鉄道でも食品流通でも、民間には着実に西暦表記が主流となっている。
 ・そして、民間の潮流を官庁の公文書にまで押し及ぼすこと。
 ・どう考えてもビジネスには元号表記は不合理で高コストではないか。
 ・それでも、一部企業では元号表記を継続している理由を知りたい。
 ・おそらくは、「企業合理性の要請」と、「顧客の意識状況」とのズレの中で揺れているのだろうが、やがては「企業合理性」に収束することになるのだろう。

 誰が考えても、元号は不合理だ。まずは連続性に欠ける。将来を表記することができない。元号は煩瑣で面倒。一人の人間の死という偶然で連続性が断たれる。いつ変わるのか予想ができない。元号では国外に通じない。元号では一貫した過去の記述もできない。元号は、紀年の手段としては欠陥品なのだ。この不便な欠陥品が国民に押し付けられている。ひとえに天皇制という不合理とセットになってのこと。

 国民に元号使用を事実上強制しているのが、自民党政権である。自民党政権とは、一面民族の歴史を重んじるという保守層に支えられている。元号使用に馴染み、元号を民族の文化として受容する勢力。しかし、もう一面、自民党政権は大資本を中心とする財界に支えられてもいる。企業ともビジネス界とも言い換えることができよう。

 合理性を追求する企業は元号使用を望まない。元号使用を妥協せざるを得ないときには、これを高いコストの負担ととらえる。元号を駆逐して、西暦使用を求めるに当たっては、保守政権を支えている半分の勢力が味方なのだ。企業に対する西暦使用のアンケート結果は、そのことを示すに違いない。

たった一人の反対票を投じ、「凛として筋を通した」バーバラ・リー。

(2021年9月5日)
 市民団体「日本平和委員会」の機関紙が、旬刊の「平和新聞」。その「9月5日」号が、間近に迫った20年目の「9・11」に関連して、アフガン問題の特集で充実している。

 が、敢えて「ジャーナリスト・伊藤千尋のプーラ・ビーダ」を紹介したい。ここに、バーバラ・リーに触れた記事があるからだ。(なお、「プーラ・ビーダ」とは、「純粋な人生」の意味で、平和憲法持つ国コスタリカのあいさつ言葉と説明されている)

バーバラ・リーについては、私なりにコメントしておきたい。

 2001年9月14日、9・11同時多発テロの3日後のこと。米連邦議会の上下院は、ブッシュ大統領に対しテロへの報復戦争について全面的な権限を与える決議を成立させた。これに対し、上下両院を通じてただ一人反対票を投じたのが、カリフォルニア選出のバーバラ・リー(Barbara Lee)民主党下院議員だった(下院賛成票420・反対票1)。私は、この一票を、議会制民主主義に生命を吹き込んだものとして高く評価する。その「ただ一人反対を貫いた下院議員」の議会での発言の一節がこうであったという。下院でただ一人反対票を投じ

私は確信しています。軍事行動でアメリカに対する更なる国際的なテロを防ぐことは決して出来ないことを。この軍事力行使決議は採択されることになるでしょう。(それでも、)…誰かが抑制を利かせなければならないのです。誰かが、しばし落ち着いて我々が取ろうとしている行動の意味をじっくり考えなければならないのです。皆さん、この決議の結果をもっと良く考えて見ませんか?

 良心に従い、良心を貫いた、たった一人の反対票。そのおかげで、狂気の時代のアメリカは、全体主義の烙印から救われたのだと思う。以下、伊藤千尋の記事の抜粋である。【「9・11」から20年】「凛として筋を通す」と表題されている。そして、「一挙に愛国社会へ」「ぶれない政治家が」と小見出しが打たれている。

 「世界を驚かせた「9・11」のテロから20年。私は10日前の2001年9月1日付けで朝日新聞のロサンゼルス支局長に就任しました。テロの日の米国を今もよく覚えています。

(略)2日後の新聞は一変しました。「われわは被害者だ。報復あるのみ。今は大統領のもとに団結しよう」という主張ばかり。テレビは一日中、愛国歌「神よアメリカを祝福したまえ」を流します。街の建物の窓は星条旗だらけ。車もすべてか国旗をつけて走っるように見えます。

 3日後、戦争する権限を大統領に一任する法が連邦議会で可決されました。反対したのは上下院でたった一人だけ。黒人女性のバーバラ・リー議員です。彼女はたちまち全米から「裏切者」と非難されました。

 4ヵ月後の講演会で彼女は反対した理由を語りました。「議会の投票前に憲法を読みなおして、思い出したのはベトナム戦争です。大統領が虚偽の口実で戦争を始めました。大統領に全権を任せればまた同じことが起きる。今こそ私たちは過去に学ぶべきです。行政を監視する議会の役割を放棄すべきではない」と。

 後ろで聴いていた私は思わず最前列に走り、壇上の彼女に質問しました。「たった一人でも反対するには勇気が必要です。あなたの勇気の源は何ですか」と。
 リー議員は「勇気を出したのではありません。憲法を考え、憲法に沿って行動したまでです」と微笑んで答えました。自分は憲法を背負っているという自信が支えだったのです。彼女はその主張を貫きました。

 1年後、議会の改選が行われ、リー議員は再び立候補しました。まだ愛国社会のさなかで、彼女は惨敗すると言われました。ところが逆に、対立候補の4倍の票を得て圧勝したのです。ぶれない政治家こそが人々の信頼を勝ち得るのです。
 20年後の今、米国はベトナムの轍を踏み、アフガンから撤退しています。リー議員を非難した人々がこの間、彼女を訪ねて涙を浮かべて謝罪しています。

人間だれしも周囲から孤立することがあります。正しいと信じていても同調圧力に耐えられず、つい妥協しがちです。そんなときは彼女を思い出しましょう。
 凛として筋を通す生き方こそ、尊敬に値するのです。」

 付け加えるべきことはない。バーバラ・リーのように、凛として筋を通した生き方に共感あるのみ。

デマとヘイトのDHC商品を買ってはいけません ー 韓国のDHC商品不買運動の成果に学ぼう

(2021年9月4日)
 9月1日、DHCが韓国撤退を公表した。各メディアが、以下のように報道している。これは、民主主義にとっての朗報である。

「DHC韓国法人が撤退表明 会長のコリアン差別発言で不買運動」(毎日新聞)、「DHCが韓国撤退表明 差別問題で反発高まり」(産経)、「DHCが韓国撤退表明 嫌韓発言で不買運動も」(日経)、「DHCが韓国から撤退 相次ぐ嫌韓発言で物議」(聯合ニュース)、「『後頭部の絶壁で韓国系を見分けられる』 嫌韓発言のDHC、韓国から撤退」(朝鮮日報日本語版)、「『つき出たあご、後頭部の絶壁はコリアン系』嫌韓発言のDHC、結局韓国から撤退」(中央日報)

毎日の記事が、以下のとおり簡明に事態をよく伝えている。

 「化粧品会社ディーエイチシー(DHC)が、韓国からの撤退を決めた。同社の韓国法人「DHCコリア」が1日、「良い製品とサービスでお客様に満足していただくように努力したが、残念ながら、韓国国内での営業を終了することとなった」と公式ホームページ(HP)で表明した。DHCは2002年に韓国市場に進出していた。

 DHCは、創業者の吉田嘉明会長の声明として、在日コリアンを差別する内容の文章をHPに複数回掲載。批判の高まりを受けて、今年5月末までにすべての文章を削除した経緯がある。韓国国内では吉田氏の発言への反発から、DHC商品に対する不買運動が起きていた。」

 DHC会長・吉田嘉明の在日コリアンに対する差別発言を契機に、韓国にDHC商品に対する不買運動が起き、不買運動の成果としてDHCは韓国撤退を余儀なくされたというのだ。愚かな経営者の愚かな差別発言が、不買運動という形で制裁を受けたのだ。韓国だけでなく日本でも、DHCに反省を促すために、既に始まっているDHC商品の不買運動を盛り上げたい。

 私は、人前で話をする機会あるたびに、このことを語りかけてきた。たとえばこんな風に。

 「この場をお借りして、皆様に三つのお願いを申しあげます。
  一つ、DHCという会社の商品をけっして買わないこと。
  二つ、DHCという会社の商品をけっして買うことのないよう、できるだけ多くのお知り合いにお勧めしていただくこと。
  そして三つ目が、DHCという会社の商品をうっかり買ってはならない理由をことあるごとに話題にしていただくこと。

  DHCとは、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」との評判ですが、それだけではありません。消費者を欺すステルスマーケティングでも、表現の自由を圧殺するスラップ訴訟の常習者としても悪名高い企業です。
  あなたが何気なしにDHCの商品を買えば、あなたの財布から出たお金の一部が資金となって、DHCの「デマ」と「ヘイト」と「ステマ」と「スラップ」を増長します。被害が拡大します。この社会はそれだけ悪くなる。

  その反対に、あなたが意識的にDHCの商品を買うのをやめれば、DHCの違法行為の規模はその分だけ小さくなります。DHCに反省を求め、不当な行為をやめさせることも可能となります。被害は減り、社会がそれだけよくなります。
  是非とも、より良い社会を作るために、DHC商品の不買にご協力ください。」

 ときにこんな質問を受けることがある。「それって営業妨害になりませんか」と。私は続ける、「そのとおりです。みんなで、DHC・吉田嘉明の営業を徹底して妨害しましょう。私は、そう呼びかけているのです」。「もし、『営業妨害』という言葉に抵抗感があるとおっしゃる方は、少し品良く『業務阻害』という言葉に置き換えてご理解ください」「私の呼びかける営業の妨害は、実力を行使したり、人を脅したり、デマを流したりするものではありません。飽くまで正当な言論と『不買』という消費者に許された当然の選択を呼びかけるだけ。これが、消費者の主張を貫徹するための、消費者の武器である不買運動なのです」

 「DHC・吉田嘉明には、『デマやヘイトやステマやスラップは、社会から反撃を受けることになって、商売上まずい』と考えてもらいたい。『やっぱり、真っ当な商売に立ちもどらないと売り上げに響く』と反省してもらいたいのです。そうなるまで、DHCの営業を徹底して妨害する必要があると思うのです」

 消費者には、良質で安全で安価な商品を選択する「賢い消費者」を脱皮して、消費者としての選択権を武器により良い社会づくりをする「主権者」としての自覚が求められている。その自覚にもとづき、企業の反社会的な行為に反省を迫り、制裁を課す強力な手段が、特定企業に対する商品ボイコットであり、不買運動なのだ。DHC商品に対する不買運動は、その典型である。

 ぜひ、皆様も、DHC商品のボイコットを。

また、目先を変えて、国民を目眩ましさせようというのか。

(2021年9月3日)
 当ブログは「日記」だから、菅義偉の突然の政権投げ出しを記録しておこう。ここ数日、「菅では戦えない」「党内の菅下ろし」「菅離れ」という見出しの報道が目立っていた。当人は、悪評芬々の幹事長交代や、先手をとっての解散などという、小器用なシナリオを描いてはみたが、実現できなかった。追い詰められて、矢尽き刀折れ、万策尽きての、表面的には唐突な政権投げ出し。

 この事態まことに残念ではないか。人気低迷の菅義偉。もっと総裁・首相の地位に連綿としがみつき、菅自民の歴史的惨敗を見せていただきたかった。これまで、この人が率いた選挙は全敗ではなかったか。最後を歴的大敗で締め括ってこその菅政権であったはず。

 結局は最後の敗北が地元横浜の市長選となつた。ここでの身内同然の候補の惨敗は、地元県連の明確な菅離れを印象づけた。国政選挙を率いるどころか、次の選挙での自分の地位も危うい。

 菅政権とは何であったか。その出自を訪ねれば、完全な安倍政権の亜流であった。安倍の官房長官だった菅ではないか。国政を私物化した邪悪な安倍よりは、朴訥でマシかと思われたが、1年間で馬脚が顕れた。要するに愚鈍なだけの首相だったのだ。

 就任直後の学術会議任命拒否問題で、これはダメだと見切りを付けた。「Go Toキャンペーン」でもミソをつけた。国民の命よりも自分への支持がほしい人なのだ。オリ・パラも同じ。そしてその後は、何をやってもダメだった。無為無策と原稿棒読みが、印象に残るこの人のトレードマークだった。それ以外はなにもない。

 またまた自民党お得意の、目先変更目眩まし大作戦が始まった。菅義偉だって、就任直後は支持率60%を超えていたのだ。今、立候補予定者6人とも報じられている。誰が総裁・総理になっても、ご祝儀人気で次の選挙は闘えそうだ、との思惑。もう自民党から化かされるのも、欺されるのもよしにしよう。

DHCテレビのデマとヘイトを断罪 ー 辛淑玉さんおめでとう

(2021年9月2日)
 DHCは、デマとヘイトとスラップとステマで名高い悪質な企業である。そのデマとヘイトを象徴する事件が、「DHCテレビジョン」制作の「ニュース女子」沖縄基地問題放映。高江の米軍ヘリパッド反対運動を取りあげて事実に基づかない中傷をし、その背後に在日3世の辛淑玉さんがいるとして、名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起された。昨日(9月1日)その一審判決となったが、原告の辛さん側が「画期的な判決をいただいた」と表明する認容判決となった。慰謝料と弁護士費用を合計した認容額は550万円。異例の高額である。しかも、謝罪文の掲載命令まで言い渡されている。

 「DHCテレビジョン」はDHCの子会社。親会社のDHCと同様に、その代表取締役会長が、差別主義者として知られる吉田嘉明。メディアも官僚も法曹も裁判所も在日が支配していると妄想している人。この人の体質がヘイト番組の制作に関わっている。吉田は、今回の東京地裁(大嶋洋志裁判長)の判決をも、在日の裁判官による在日のための判決などと強弁するのだろうか。

 番組は、基地建設反対派の人たちを「テロリスト」「犯罪者」と表現したほか、「黒幕」として辛さんを名指ししていた。「在日韓国・朝鮮人の差別に関して戦ってきた中ではカリスマ。お金がガンガンガンガン集まってくる」などという発言もあったという。

 この番組をめぐっては、既にBPO(番組倫理向上機構)の2つの委員会が審査の上、取材の欠如や事実確認の不足、人権や民族を取り扱う際に必要な配慮を欠いたことなどを指摘のうえ、「重大な放送倫理違反」「名誉毀損」などと結論づけている。このDHC子会社の番組は、沖縄の平和運動に対するヘイトでもあり、在日に対する偏見の発露でもある。

 判決は、番組で「(辛さんの)社会的評価が著しく低下し、重大な精神的損害を受けた」とまずは名誉毀損を認めた。その違法性を阻却する事由があるかに関して、「重要な部分の真実性が証明されているとは到底いえない」「真実と信じるについての相当な理由があったともいえない」と結論した。裏付け取材ないままの、デマ報道であったと認めたことになる。

判決を受けての記者会見で、辛さんは、次のように述べたという。

「この番組は私を利用して沖縄の平和運動を愚弄する、もっとも悪質なフェイクニュースでした。」「日本人ではない私が、反戦運動に声をあげること、沖縄のことに思いを馳せることを巧みに利用された。そして、そのことで2017年から受けた私への仕打ちは、酷いものでした」

「今回の判決は、番組が問題であったということを明確に示した。私への名誉毀損の部分でしか戦うことはできませんでしたが、あの番組が問われているのは、まごうことなきフェイクです。沖縄の人たちを愚弄し続けたのです。そこの部分はこれから次のステージで戦っていかなければいけない」

またこうも語ったという。
 「多くの人に支えられ、持ちこたえられた。在日3世の私が日本の良心とタッグを組んで、道が開けるということを思い起こさせてくれた。第1ラウンドが終わった」

 「差別を禁止する法律があれば、と感じました。1行でも良いので、これは人種差別だったと記載してほしかった。そういうものがダメなんだと活字になって出ていくことは、私たちマイノリティにとって大きな力になると思っています」

 第1ラウドは終わったが、第2ラウンドがすぐに始まる。訴訟は終わっても、民族差別のない社会への歩みは続くことになる。この社会の歪みを直す道のりは、まだ険しい。  

本日「国恥の日」に、あらためて虐殺された朝鮮人犠牲者を悼む。

(2021年9月1日)
 8月か終わって本日より秋9月。冷たい雨のそぼ降る肌寒い日となった。9月1日の「国恥の日」にふさわしい陰鬱な天候。

 1923年の関東大震災の勃発から98年となる本日、震災の被害を象徴する場所である旧陸軍被服廠跡地に建立された横網町公園(墨田区)の都慰霊堂で、都慰霊協会主催の犠牲者追悼法要が営まれた。同時に同公園で「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」(日朝協会都連などで作る実行委員会が主催)も開かれた。

 都慰霊協会主催の犠牲者追悼法要では、都知事小池百合子の追悼の辞を武市敬副知事が代読した。「私たちには災害や戦争の記憶を風化させることのないよう次の世代に語り継いでいく重要な使命がある」との趣旨だったという。小池に聞きたい。「災害の何を、戦争の何を、なんのために、どう次の世代に語り継いでいくべきというのか」と。

 まずは戦争である。まさか侵略の栄光や国威発揚、軍人の勇敢さや国に殉じた勲功を語り継ごうということではなかろう。全国民の体験であった戦争の悲惨さを語り合い語り継ぐことこそが、どうしたら再びの戦争とその惨禍を防止することができるかの真剣な議論の出発点である。戦争は人間が起こしたことだ、戦争の悲惨さを全国民が共有することで、戦争を防ぐことが不可能なはずはない。

 そして、人間が起こした戦争には反省と責任が論じられなければならない。戦争は国家の意思として準備され、遂行され、絶望的な戦況に至ってもなお国民多数の犠牲が強いられた。戦争を語り継ぐことは、戦争を準備し起こし長引かせた者についての反省と責任を語り継ぐことでもある。

 災害はどうだろうか。自然災害の悲惨な記憶を風化さずに次の世代に語り継いでいくことは、災害への備えについての教訓を忘れずに伝えることである。自然の動きを止めることはできないが、その被害を軽減することは可能なのだ。

 では、1923年9月1日の震災に端を発した、軍と警察と民衆が数千人規模の朝鮮人(中国人も犠牲になっている)を虐殺した「国恥」というべき事件についてはどうだろうか。これは自然災害ではない。明らかな犯罪である。被害者と加害者が存在するのだ。被害者を追悼するだけでなく、加害の側の反省と責任を明確にしなければならない。殺害された朝鮮人被害者を震災の被害者と同列に置くことは、反省を忘れ加害者を免責することになる。

 小池は、「私たちには震災の際に、無辜の朝鮮の人々を虐殺した傷ましい過去と向き合わねばなりません。その加害の事実から目を逸らさず、加害の記憶を風化させることのないよう次の世代に語り継いでいく重要な使命があります」というべきであった。

 しかし、小池はそうは言わない。ならば、せめては「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に歴代知事が寄せていた追悼文を送るべきであったが、ことさらにそれもしない。今年で5年連続となる。歴史修正主義者と面罵されて返す言葉もあるまい。

 「国恥」の一面は、この冷厳な歴史的事実を認めようとせず、歴史からこれを抹消しようという策動が続いていることだ。そして、今日に至るまでその策動を克服し得ていない。あれから98年経った今なお、この歴史の隠蔽・修正という「国恥」は続いている。その現在の「国恥」を象徴する人物が小池百合子(都知事)である。小池は「朝鮮人虐殺の事実などは風化させ、できることなら忘れてしまおう」と言っているに等しい。このような人物を首都の知事にしていることこそが、現在の国民の恥辱という意味での「国恥」にほかならない。

ムーミンとDHC、まったく似合わない、釣り合わない。

(2021年8月31日)
 富士には、月見草がよく似合う。ムーミンにDHCは似合わない。ムーミンの穏やかな雰囲気と、吉田嘉明の野蛮なヘイト体質。両者のコラボは、心あるムーミンファンには幻滅の極み、うまくいくはずもなかろう。

 トーベ・ヤンソンはスウェーデン語系フィンランド人だったという。言語的マイノリティーだった。そして、レスビアンとして人生を過ごした。性的マイノリティーでもあった。デマとヘイトとステマとスラップというDHC・吉田嘉明とは、所詮住む世界が異なるのだ。
 
 そのトーベ・ヤンソンがその生き方において、また作品で示した価値観とはまったく相容れないDHCとのコラボのたくらみ、発表されるやムーミンファンの声がこれを阻止した。

 8月27日付で、下記の「ムーミン公式サイトより重要なお知らせ」がネットに掲載されている。掲載したのは、ムーミンのライセンスを日本で管理するライツ・アンド・ブランズ社。

ムーミンを大切にしてくださる皆様へ
平素より、ムーミンをご愛顧いただきありがとうございます。
この度、当社がライセンス管理をする一部製品に関しまして、皆様へ不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。

本国フィンランドのムーミンキャラクターズ社は、“いかなる差別も、助長ないし許容するものではない”との強い見解を持っており、当社も同一認識を持っております。これは、お互いを認め合い、共存することを尊重していた原作者トーベ・ヤンソンの思想が包摂されています。

今後は、ライセンス許諾時点において、反社会勢力に対する確認に加えて、人権関連についても厳しく審査をし、仮に認識がなく契約された場合においても、それらが判明した時点において、速やかに契約更新停止や生産終了等の働きかけをしていきます。
ムーミン公式サイトを通じ、様々なお声をいただきましたこと、真摯に受け止めております。
ムーミンとムーミンを愛する方々の気持ちを大切に、皆様とともにムーミンの世界観を伝えるために邁進してまいります。
今後とも何卒皆様の温かいサポートをよろしくお願い申し上げます。」

 このネットの「お知らせ」で経過についてはあらかたの理解が可能である。今後ムーミンキャラクターの使用を認めるに際しては、「反社会勢力(=暴力団)だけでなく、DHCのごとき反人権企業も厳しくチェックをしていく」と言っているのだ。

 問題視されたのは、DHCが8月23日に発売を告知した商品。ムーミンなどの絵柄があしらわれた「薬用リップクリーム」「薬用ハンドクリーム」「オリーブホイップハンドクリーム」の3商品。ムーミンの公式サイトとツイッターでこのことが告知されると、「ブランドにそぐわない」「ショック」などの声が相次ぎ、24日までに告知文は削除されたと報じられている。上記のネットでの「お知らせ」は、「皆様へ不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」というとおり、ムーミンファンへの謝罪なのだ。

 ムーミンキャラクターズ社では「いかなる差別も、助長ないし許容するものではない」「これは、お互いを認め合い、共存することを尊重していた原作者トーベ・ヤンソンの思想が包摂されています」と説明しているという。DHCの企業体質については、今さら繰り返すまでもない。ムーミンとDHCとは、水と油、氷と炭、月とスッポンなのだ。

 ムーミン社側は、「公式サイトを通じ、様々なお声をいただきましたこと、真摯に受け止めております。ムーミンとムーミンを愛する方々の気持ちを大切に、皆様とともにムーミンの世界観を伝えるために邁進してまいります。」と言っているが、DHC広報部は、取材の各社に「本件に関するコメントは差し控えさせていただきます」と、いつものとおりだ。

 DHCという企業は、オーナー会長吉田嘉明の迂闊なヘイトコメントを中心に、デマとステマとスラップで、企業イメージを著しく損ねて、経営的には大きなダメージを受けている。

 これを回復するために最も望ましいことは、吉田嘉明が全面的に非を認め、悔い改めることである。まずは自社の公式サイトで在日差別に謝罪し、スラップ被害者にも反省と謝罪文を送ることだ。従業員のためにそのくらいのことをしてみてはどうだ。

香港の「法治(法の支配)」と「司法の独立」を揺るがせにしてはならない。

(2021年8月30日)
 香港の事態にこだわり続けざるを得ない。1989年に天安門で起きたことが、今形を変えて香港で進行しつつあるのだ。民主主義崩壊の現実は、とうてい他人ごとではない。目をそらしてはならないと思う。

 伝えられているとおり、8月24日、香港弁護士会(ソリシター(事務弁護士)の団体)は年次総会を開催して、新理事を選任した。理事会は20人で構成されており、今回はそのうち5人が改選となった。

 この小さな選挙が注目されたのは、香港政府の露骨な介入があったからである。もちろん、香港政府の背後には中国共産党の存在がある。中国共産党の恫喝に屈しない「リベラル派」が、どれだけ健在で勢力を維持できるかに関心が集まった。

 林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、香港弁護士会に対して「政治に関与すれば関係を絶つ可能性がある」と警告していた。「関係を絶つ」の具体的な内容は理解し難いが、これが脅し文句になるのだ。「弁護士会は政治に関与せぬのが利口だ」と脅されたのだ。この局面で「政治に関与」と言えば、中国共産党の支配に対する批判の言動意外にはあり得ない。

 本来、弁護士とは反権力・在野の存在、こんな脅しに屈するはずもない、という見方は甘い。「リベラル派」の中心と目されていた現職の候補者ジョナサン・ロスは、「自身や家族の安全を守るため」として立候補を辞退した。「リベラル派」を堅持することは、「自身や家族の安全への危害をも覚悟せざるを得ない」ほどに、厳しいことなのだ。こうして、理事改選は、「親中派」が5議席全部を獲得する結果になった。

 しかし、香港弁護士会、決して抵抗の姿勢を失ったわけではない。同じ総会で、法曹界の大物・馬道立氏(香港最高裁判所の前首席判事)を招聘して記念講演をさせている。

 この人、2010年から21年1月まで最高裁首席判事を務めた人だという。日本で言えば、最高裁長官を10年続けたという稀有な経歴の人。かつての田中耕太郎並みなのだ。これまで、「司法の独立」こそが香港の法制度の肝で、香港の「一国二制度」の核心は「司法の独立」にあると説いてきたのだという。この人の講演が素晴らしい。

 林鄭月娥行政長官とその背後の中国共産党は、「香港弁護士会の政治への関与」を牽制し、「弁護士会は、政治的行動をするな」と恫喝した。馬講演は、これを意識して、《法治や司法の独立は「政治的概念ではない」》という内容だったという。

赤旗(北京=小林拓也)によれば、講演の要旨は以下のとおりである。

「馬氏は「法治は政治的概念ではない。司法の独立も法治の一つに含まれ、これも政治的概念ではない」と強調。また、「法治の側面として、法律の前では公平と平等が求められる」と訴えました。その上で、「香港の法治を支持する発言をすることは、正しいことであり、公共の利益にかなう」と指摘。弁護士会や法律に携わる者は「公共の利益のために活動すべきだ」と述べ、法治や司法の独立のために発言するよう呼びかけました。」

 これを、私流に解釈してみたい。

 「法治」(法の支配)は、合理的な法に従って権力の行使が行われなければならないという大原則である。国家も、党も、党幹部も、法を逸脱することも法を恣意的に枉げることも許されない。司法は、その「法治」の最後の砦である。権力の横暴に毅然として対処しうる「独立した司法部」あればこそ、法治は貫徹される。

 権力にあるものが、「法治」や「司法の独立」を嫌うことは当然である。が、司法の職責にある者の使命は、権力に疎まれることを覚悟して、「法治」や「司法の独立」を全うすることにある。司法が、権力の横暴を許してはならない。弁護士会も司法の一翼を担っている。自らの使命を自覚していただきたい。

 司法の崇高な使命を快く思わぬ権力者は、「法治」や「司法の独立」を、「政治的」として攻撃する。しかし、「法治」や「司法の独立」の原則を敢えて放棄することこそ、まさしく「政治的偏向」なのだ。権力者の言に一歩譲歩すれば、際限なく権力の横暴を許し、人民の権利や自由の抑圧を看過することになる。「法治」も「司法の独立」も、断じて「政治的概念」ではない。権力者の詭弁を許してはならない。

 また当然のことながら、「法治」は、法律の前での公平と平等を求める。権力をもつ者にももたざる者にも同じように法を適用することを形式的平等という。権力をもつ者には厳格に、もたざる者には寛容に法を適用することを実質的平等と言い、公正という。権力者に寛容に、非権力者に厳格に法を適用することは、権力者には望ましいことではあろうが、法律家としては恥ずべきことである。

 あらためて確認しよう。法とは正義である。正義の本質は、多数人民の権利と自由と尊厳を擁護することにあり、その正義は権力の横暴を抑制することによって貫徹される。

 今、世界が注視する中で香港の「法治(法の支配)」や「司法の独立」の原則を守ることは、歴史的な課題となっている。崇高な法律家の使命として、今こそ勇気をもって声を上げよう。「法治」も「司法の独立」も揺るがせにしてはならない。

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