(2021年10月5日)
本日から、「ノーベル賞週間」だとか。ノーベル賞とオリンピック、なんとなくよく似ている。「ノーベル賞」の権威を認めるべきだろうか。受賞者に敬意を払うべきだろうか。オリンピックの権威や、メダリストへの敬意とよく似た設問。当然のことだが、すべて、「NO!」である。
私には、特に傾倒する人物もないし、座右の書もない。しかし、なんとなく身近にゴロゴロして何度となく手にする書物がないわけではない。そのうちの一冊が、山田風太郎の「人間臨終図鑑」。これが面白い。多くの人の死を描くことで、その人の生きかたを浮かび上がらせようという、相当にねじれた人物論の集積。
その中に、63歳で亡くなったアルフレッド・ノーベルの有名な逸話が載っている。彼の死の数年前、兄リュドビックが急死したとき、新聞は兄弟を取り違えて、アルフレッドの死亡記事を出す。「死の商人、死す。可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物」
毎日新聞の記事によれば、「石油業を営んだ兄ルドビグとノーベル本人を取り違えた訃報記事が、フランスの国立図書館に残っている。フィガロ紙は88年4月15日付で『人類に貢献した人だとは伝えにくい人物が(仏南部)カンヌで死亡した。ダイナマイトの発明者、スウェーデン人のノーベル氏』と報じた。同紙は翌日、『パリ在住のノーベル氏は健在』との訂正記事も掲載した。」という。
細部のことはともかく、彼は、生前に自分の死亡記事を読むという稀有な経験をし、しかも『死の商人』と自分の人生を総括されたことにショックを受けた。死後の汚名を嫌ったノーベルが、平和に貢献したと評価されたい思いから、ノーベル賞を創設する。これが定説となっている。
「死の商人」という記事にショックを受けたのが本当かどうかは知らない。ノーベルは父の代からの根っからの武器製造業者であった。ノーベルの父は、爆発物、機雷の製造で大成功し、クリミア戦争で兵器を増産して大儲けをした人物。戦争終結後にはかたむいた兵器工場を兄が再建し、さらにアルフレッドが若くしてダイナマイトを発明して巨万の富を手にする。果たして、ノーベルに、死の商人と呼ばれることに後ろめたさを感じるだけの感性があっただろうか。
ダイナマイトは鉱物採掘や建設・土木工事にも多用されるようになるが、元はと言えば兵器工場で開発され生産を始められたもの。ノーベル賞の財源は、まぎれもなく「死の商人」による「死の商売」が築いた財産によるものなのだ。
ノーベル賞基金の由来だけでなく、あの授賞式に象徴されるスノビッシュな雰囲気が気に入らない。スェーデンの王室が、したり顔でしゃしゃり出てくるのも面白くない。何よりも、ノーベル賞が科学や科学者の業績をランク付け権威付けしているそのこと自体が受け容れがたい。
本日(5日)、岸田文雄首相は、真鍋淑郎・米プリンストン大上席気象研究員のノーベル物理学賞の受賞決定に関し「日本国民として誇りに思う」とする談話を発表した。「受賞を心からお喜び申し上げるとともに、真鍋氏の業績に心から敬意を表する」と祝意を示したという。政権の権威付けやら人気取りにも、愛国心の高揚にも、ノーベル賞は利用されているのだ。
泉下のノーベルは、きっとこう呟いているに違いない。
「私なんぞ、とてもとても『死の商人』と呼ばれるほどの者ではございません。核爆弾の発明や、ICBMの開発、AI戦闘ロボットや戦闘ドローンの大量製造、コンピューター技術の兵器化、化学兵器の増産化など、各国の総力を挙げての大量殺戮兵器開発競争を見せつけられては、まことにお恥ずかしい限り」と。
(2021年10月4日)
新政権が発足しましたね。甘利明新内閣。先ほど総理代行の岸田文雄が、記者会見をやっていましたよ。けどね、代行が主役を気取ってはいけない。やはり、代行は代行でしかないね。アマリに格が違う。アキラかに存在感の差。
なんたって、甘利明こそは、生まれ変わることのできない自民党の象徴ですものね。安倍政権の数々の不祥事を断ち切れない腐れ縁グループの代表格のお一人。利権にまみれた薄汚い保守政治の残りかす。本来、政治家として生き残っていられるはずのない御仁。何を間違って、また、表舞台に出てきたのでしょうかね。
甘利明と言えば、「政治とカネ」疑惑の最右翼。そして、丁寧に説明しますと言ってせず、そのことを追及されると、「もう、しました」とウソをつく。このやり方が、安倍晋三にそっくり。安倍亜流の甘利。類は友を呼ぶとも、邪は悪を呼ぶ、ともいうのは本当なのですね。
今日、甘利明が岸田文雄について言ってたそうですね。「心優しい思いやりのある人」だって。そうでしょう。あっせん利得罪のあの甘利をですよ、説明するするでスルリと逃げた人物をですよ、説明責任は果たしたなんてウソをつく政治家をですよ、よくも思いきって登用したのですから、心優しいのですよ。岸田は安倍や麻生・甘利の言うことは耳を傾けてよく聞くんですよ。そして、甘利や萩生田や高市らに心優しい思いやりを見せてポストに就ける人。どっちを向いているんでしょうね。誰のために何をしようというのでしょうかね。
岸田によると総選挙は前倒し、化けの皮の剥がれない内、身体検査の不備が見えないうちにやってしまおうということですね。当然のことながら、ボロを見せざるを得ない予算委員会などやらないで、逃げるが勝ちという作戦。甘利の参考人招致なんかやられたらたいへん。ボロ隠し解散ですよ。野党との論戦から逃げたということ。
それにしても驚きましたね、毎日の記事。見出しが、「『事実上の甘利内閣』 歓喜する電力業界」というものですからね。電力業界は、「エネルギー政策に通じた人が多く登用されている。やりやすい」と歓迎の声が上がっているんだとか。
業界の歓迎は、まずは甘利明の復権だとか。何しろ、甘利といえば、「原子力ムラのドン」なのだそうですね。この4月に結成された、「原発の建て替えや新増設を訴える自民党の議員連盟」でも最高顧問に就いているんですね。そして、「甘利氏の一番弟子」と言われる山際大志も経済再生担当相で入閣。さらに、政調会長に就任の高市早苗ですよ。これも原発推進派として知られるひと。だから、
ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
だと言いますね。こと原発、エネルギー政策では、菅政権の方がまだマシだった、グリーン重視の菅政権が懐かしい。ということだそうですよ。
この歌のように、もしかしたら、「甘利・岸田の時代はまだマシだった、あの頃が懐かしい」なんてことにならないように、しっかりと政治を見つめ直そうではありませんか。
(2021年10月3日)
真贋の判断は難しい。「偽版画事件」の摘発が話題となっている。逮捕された容疑者は「プロ中のプロ」で、出回った贋作は真作と遜色のない精巧な作りという報道が関心を呼んでいる。そもそも版画の真贋とは何だろうか。
9月28日に逮捕され送検されたのは、業界で信頼が厚い「次世代のエース」とまで言われる画商(大阪)と、40年を超えるキャリアを持つ腕利きの作家(奈良)であるという。2人は2017年1月から19年1月の間、東山魁夷の偽の版画を計7点作って親族らが持つ著作権者の権利を侵害した疑いがあるとされる。被疑事実は詐欺ではないのだ。これは意味深。
警視庁は、東山魁夷のほか、平山郁夫、片岡球子らの版画を約80点押収し、このうち約30点を贋作と確認したという。業界団体も専門機関に鑑定を依頼し、2人が流通させたとみられる日本画家3人の贋作を約130点確認したと報じられている。
逮捕された作家は有能で知られ、画家や遺族からの依頼を受けて版画を制作してきたという。業界団体の幹部は「真作と同じやり方で作るのだから、画商でも判別は難しい」と言ってるそうだ。実は、この作家がつくった10枚の作品の内、6枚は真作として捌かれ、残りの4枚は摘発されれば贋作となる運命におかれる。真作と贋作、作品の出来具合に差異はないようなのだ。
昔、松本清張の「真贋の森」を興味深く読んだ。古美術の鑑定という営みが権威主義の上に成り立っている愚劣がテーマだと理解した。美術品だけではなく、この世には権威主義の上に成り立っている偽物が横溢しているのだという寓話とも読める。今回の版画の真贋判定も、権威の判定に委ねられてのこと。
真作であることは、「お墨付き」や「折り紙」「箱書き」で担保されるタテマエだが、「お墨付き」や「折り紙」の真贋の判定がさらに難しい。昨今は、美術品にICタグを付け、デジタル証明書を作ったりスマートフォンで内容を確認したりすることが始まっているそうだが、ICタグの偽物も、デジタル証明書の偽造も必ず出回る。それ以上の難問として、いま、真贋とはなんぞやという根本的な定義が問われている。
岸田新政権が、明日に発足する。その真贋も話題となっている。一皮めくれば、実は「第3次安倍政権」だというわけだ。新しい岸田の顔で国民の関心を引いてはいるが、経済政策も、外交・安保も、政治姿勢も、何のことはない、安倍政権の旧態に変わらない。あの悪夢の安倍政権時代の度重なる不祥事を検証しようともせず、むしろ隠蔽し温存しようというのが岸田新政権である。
主権者国民は、政権の真贋を見抜く目をもたねばならない。いつまでも政治家に欺されていてはならない。また、政治の真贋を判定するという鑑定人の権威に欺されてもならない。愚劣な権威主義を捨てて、政権の偽物ぶりを見据えよう。
(2021年10月2日)
総選挙が間近である。10月26日公示・11月7日投開票の日程が最有力視されている。その総選挙に併せて、最高裁判所裁判官国民審査が行われる。総選挙の投票所では、衆議院議員の小選挙区と比例代表の投票と、そして最高裁判所裁判官国民審査と、3枚の投票用紙を交付され3回の投票を行うことになる。
とかく影が薄いと言われる最高裁裁判官の国民審査だが、最高裁に民意を反映させるおそらくは唯一の貴重な機会。最高裁裁判官に国民の監視の目が光っていることを意識させなくてはならない。この国民審査にご注目いただきたい。無意識のうちに、すべての裁判官を信任するようなことは避けていただきたい。できれば、周りの人にも注意喚起をお願いしたい。
戦前の「天皇の裁判官」には、国民審査という発想はなかった。現行日本国憲法下で始まった国民審査は、今度が25回目。2017年10月22日の前回国民審査後現在までに就任した下記現職最高裁裁判官11名が審査対象となる。
深山卓也(裁判官)、三浦守 (検察官) 、草野耕一(弁護士)、宇賀克也(学者)、林道晴 (裁判官) 、岡村和美(行政官)、長嶺安政(外交官)、安浪亮介 (裁判官) 、渡邉惠理子 (弁護士) 、岡正晶 (弁護士) 、堺徹(検察官)
どんな経歴のどんな人物が最高裁裁判官になって、どんな裁判をしてきたのか。有権者によく知ってもらうことが必要である。日本民主法律家協会は、国民審査の都度、その努力を重ねてきた。今回もそのような情報を提供するとともに、誰を罷免すべき裁判官として「×」の対象とするか、呼びかけることになる。当ブログも、その旨を発信してお知らせしたい。
最高裁判所は判例統一のための全国唯一の裁判所だが、裁判体としての機能をもつだけでなく、司法行政の主体でもある。全国すべての下級裁判所裁判官の人事を掌握する組織として、独立しているはずの裁判官を統制する存在となっている。
司法権は、立法権・行政権から独立していなければならない。また、実際に裁判を行う裁判官には司法行政からの独立が求められる。にもかかわらず、現実の裁判官には司法行政からの独立は困難であり、司法部は権力中枢からの独立が困難というほかはない。政権の思惑は、最高裁の中枢に伝わり、最高裁の意向は全国の裁判官に伝播する。上からの思惑の伝播は、それに呼応する忖度の連鎖となって、政権に親和性の高い判決群が形成される。憲法に忠実な裁判所は幻想というしかなく、憲法理念を顕現する判決は稀少なものとなっている。
この現実を批判すべき国民審査だが、その投票は罷免を可とする裁判官に「×」を付けるだけの制度となっている。うっかり立派な裁判官に「○」を付けると無効票になってしまう。では、誰に「×」を付けるべきか。
最も望ましいのは、裁判官の来歴や関与判決を知ってご自分で判断することだが、実はなかなか難しい。よく分からない場合に、何の印も付けずにそのまま投票してしまえば、全裁判官を信任したことになる。よく分からない場合には、躊躇なく全員に×をつけることをお勧めする。裁判所全体に批判をもっているという国民の意思の表明として意義のある全裁判官「×」である。
全員「×」に抵抗ある人には、「分からないから棄権」することにしていただきたい。少なくも信任しているのではないという、積極的な意思表示になる。これまで、私たちは選挙管理委員会に「棄権」の行使がし易いように環境を調えるよう何度も申し入れをしてきた。必ずしも徹底しない場合もあるから、現場で棄権の意思表示をしっかりしていただきたい。
「全員「×」は能がない。一人くらい真っ当な裁判官はいないのか」と言われれば、間違いなく宇賀克弥裁判官(元東京大学大学院教授。行政法専攻)は立派な裁判官。だから、「宇賀克弥(うがかつや)」をメモしておいて、この人を除く10人に「×」の投票をお勧めする。宇賀裁判官は主要な判決の姿勢すべてが素晴らしい。
10人の「×」は面倒だ。一人だけ「×」を付けるとしたら誰だろうか、と言われたら、躊躇なく林道晴裁判官(元、東京高裁長官)に「×」をお勧めする。司法行政を担う典型的な司法官僚。国民が最高裁の姿勢を批判する場合に、その代表として「×」を受けるべき立場の人。
2020年10月13日(第三小法廷)のメトロコマース事件(有期労働契約労働者の待遇格差問題)判決、2020年11月18日(大法廷)2019年参院選の一票の格差判決、2020年12月22日(第三小法廷)袴田事件再審請求特別抗告審決定、2021年6月23日(大法廷)「夫婦別姓」に係る特別抗告審決定などで、すべて宇賀裁判官と林裁判官とは相反する結論に至っている。
今後何度か、この問題についての情報を提供したい。国民審査に関する広報に目を通しても、不都合なことは書いていない。くれぐれもご用心を。
(2021年10月1日)
短命であった菅政権がやってのけた愚行の最たるものが、学術会議の推薦者6名に対する「任命拒否」である。あの衝撃からちょうど1年が経過した。事態は基本的に動いていない。
この国の政治の土壌には、少しはマシな民主主義が根付いていたと思ったのが、甘い幻想に過ぎなかった。それを思い知らされたことが、1年前の「衝撃」だった。この国の国民は、権力というものを制御しえていない。この国の権力は、国民の意思とは無関係に、自らの意思を強権的に問答無用で貫徹しているのだ。
憲法の理念を無視し、行政の透明性も説明責任もどこ吹く風。まったく別の論理で、権力の専断が行われている。これに対する司法的手続による対抗はなかなかに困難である。本来は、国民こぞって政権に対する批判の嵐がなくてはならないが、菅の首をすげ替えるだけで、権力の連続性は保持されようとしている。
菅に代わる新政権の評価における試金石が、宙に浮いたままになっている学術会議の推薦者6名を任命できるかにかかっている。岸田政権でも良い、連立野党による新政権ならなおさら良い。不透明で恣意的な任命差別をやめ、直ちに学術会議による推薦者を任命して欠員のない学術会議の構成を実現すべきである。
学術会議は、昨年の10月2日には、形式上の任命権者である内閣総理大臣宛に、簡潔な下記要望書を提出している。
第25期新規会員任命に関する要望書
令和2年10月2日
内閣総理大臣 菅 義偉 殿
日本学術会議第181回総会第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。
1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。
2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。
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この学術会議の立場は、現在もまったく揺るぎがない。
昨日(9月30日)、日本学術会議の梶田隆章会長は、25期の活動開始から1年にあたっての談話を発表し、このことを確認した。
同日、オンラインで開いた記者会見で、梶田会長は「文字通り試練の1年だった」「一刻も早く解決したい」と振り返った上、改めて、同会議が一貫して6人の即時任命と拒否した理由の説明を求めると同時に、首相には任命の責務があると指摘してきたことを強調した。
さらに感染症や気候変動の危機に触れ、「科学的知見を尊重した政策的意思決定がこれまでにも増して求められる現状にあって、日本の科学者の代表機関としての本会議が科学者としての専門性に基づいて推薦した会員候補者が任命されず、その理由さえ説明されない状態が長期化していることは、残念ながら、科学と政治との信頼醸成と対話を困難にする」と指摘し、「相互の信頼にもとづく対話の深化を通じて現在の危機を乗り越える努力が重ねられることを強く希求」すると結んだ。
まったく異議のあろうはずはない。この事件は、国民の菅政権に対する呪詛となって短命に終わらせた。菅に代わる新政権を誰が担うことになろうとも、この問題を解決せずに、国民からの信頼を獲得することはできない。
(2021年9月30日)
類は友を呼ぶ。安倍晋三のお友達は、どうしてこうも汚い連中ばかりなのだろうか。汚い連中を外すと、組閣はできなくなるということなのだろうか。アベ・スガ政権のダーティーブランドを、クリーンに衣替えのための岸田の登場のはずだった。が、どうもそうはならない様子だ。情けなや、岸田新総裁。
本日の夕刊各紙には、「岸田新総裁、幹事長に甘利明氏で最終調整」「甘利明氏を幹事長起用へ最終調整」という。よりによって、注目人事の幹事長職に甘利明を起用とは。そりゃ、あまりにもひどい、あんまりだ。自民党は、国民を舐めている。もう、甘利の謹慎など国民は忘れちまっているに違いないとの思い込み。
下記は、2016年6月3日の当ブログの再掲。《甘利不起訴ー検察審査員諸君、今君たちに正義の実現が委ねられている》というタイトル。
上脇博之政治資金オンブズマン共同代表(神戸学院大学教授)らが、被疑者甘利明らを告発したのが本(16年)年4月8日。同告発に対して東京地検特捜部は、5月31日付けで不起訴処分とした。その処分通知は下記のとおりまことに素っ気ないもの。
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処 分 通 知 書
平成28年5月31日
上脇博之 殿
東京地方検察庁 検察官検事 井上一朗 職
貴殿から平成28年4月8日付けで告発のあった次の被疑事件は,下記のとおり処分したので通知します。
記
1 被疑者 甘利明,清島健一,鈴木陵允
2 罪 名 公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律違反,政治資金規正法違反,公職選挙法違反
3 事件番号 平成28年検第14913? 14915号
4 処分年月日 平成28年5月31日
5 処分区分不起訴
これに対して、本日(6月3日)付で東京検察審査会宛に、下記のとおりの審査申立がなされ、甘利の起訴の有無は、検察審会の判断に委ねられた。
この申立の代理人弁護士は49名。その代表者が大阪弁護士の阪口徳雄君。私も、その49人の内の一人。
審 査 申 立 書
2016年6月3日
東京検察審査会 御中
別紙代理人目録記載の弁護士49名
被疑者 甘 利 明
被疑者 清 島 健 一
被疑者 鈴 木 陵 允
申 立 の 趣 旨
被疑者甘利明、清島健一および鈴木陵允らの下記被疑事実の要旨記載の各行為についてのあっせん利得処罰法および政治資金規正法に違反する告発事件について、「起訴相当」の議決を求める。
申 立 の 理 由
第1 審査申立人及び申立代理人
審査申立人:上脇博之(別紙審査申立人目録記載の通り)
申立代理人:別紙代理人目録記載のとおり
第2 罪名
あっせん利得処罰法違反及び政治資金規正法違反
第3 被疑者
甘利明、清島健一および鈴木陵允
第4 処分年月日
2016(平成28)年5月31日
第5 不起訴処分をした検察官
東京地方検察庁 検事 井上一朗
第6 被疑事実の要旨
別紙告発状記載の通り
第7 検察官の処分
不起訴処分。理由は嫌疑不十分。なお理由は処分した検察官からの電話で、代理人代表弁護士が「嫌疑不十分」と聞いただけであり、どの事実についてどのように証拠がなく、嫌疑不十分となったかの質問をしたが、それは答えられないと拒否された。従って、報道されているように「権限に基づく影響力の行使」を『いうことを聞かないと国会で取り上げる』などという違法・不当な強い圧力を行使した場合に限定した解釈をした結果不起訴になったか否かは不明である。
第8 不起訴処分の不当性
1 本件は政権の有力政治家の介入事件である
本件告発事件は、閣僚として政権の中枢にある有力政治家(被疑者甘利明)事務所が、民間建設会社の担当者からURへの口利きを依頼されて、URとのトラブルに介入して、その報酬を受領したという、あっせん利得処罰法が典型的に想定したとおりの犯罪である。同時に、口利きによる報酬であることを隠蔽するために、政治資金規正法にも違反し、不記載罪を犯した事件である。
2 あっせん利得処罰法の保護法益
あっせん利得処罰法の保護法益は、「公職にある者(衆議院議員等の政治家)の政治活動の廉潔性ならびに、その廉潔性に姑する国民の信頼」とされている。政治の廉潔性に対する国民の信頼と言い換えてもよい。本件の被疑者甘利明の行為は、政治の廉潔性に対する国民の信頼を著しく毀損したことは明白である。
しかも、通例共犯者間の秘密の掟に隠されて表面化することのない犯罪が、対抗犯側から覚悟の「メディアヘの告発」がなされ、しかも告発者側が克明に経過を記録し証拠を保存しているという稀有の事案である。世上に多くの論者が指摘しているとおり、この事件を立件できなければ、あっせん利得処罰法の適用例は永遠になく、立法が無意味だったことになろう。
被疑者らが、請託を受けたこと、したこと、URの職員にその職務上の行為をさせるようにあっせんをしたこと、さらにその報酬として財産上の利益を収受に疑問の余地はないと思われる。
3 検察の不起訴処分は政権政党の有力大臣であった者への「恣意的」で「政治的」な不起訴処分である
検察は国民の常識から見て起訴すべき事案を、もし報道されているように検察官が「権限に基づく影響力の行使」を『言うことを聞かないと国会で取り上げる』などという違法・不当な強い圧力を行使した場合に限定した解釈をしたというのであれば、その解釈は被疑者が政権政党の有力大臣であったことによる『恣意的』で『政治的』な限定解釈であると断じざるを得ない。
第1に「権限に基づく影響力の行使」を『言うことを聞かないと国会で取り上げる』などのような一般的な制限的解釈は正しくはない。条文に「その権限に基づき不当に影響力を行使」したとか言う「行為態様」に関して一切の制限をしていない。
権限に基づくという影響力の行使とは、行為態様が強いとか弱いとかいうのではなく、国会議員が有する客観的地位、権限に基づき影響力の行使を言うのであって、その影響力の行使の「態様」を制限していないのである。それをあたかも「影響力の行使」の「態様」について『言うことを聞かないと国会で取り上げる』などという制限的な態様を解釈で補充することは検察の極めて恣意的な解釈であると同時に検察の「立法」に該当する。あっせん利得処罰法の保護法益は前記に述べたように政治家はカネを貰って斡旋行為をすることを禁じた法律であり、政治家などの政治活動の廉潔性ならびに、その廉潔性に対する国民の信頼が毀損された場合は処罰する法律であって、その権限の行使態様には一切の制限がないのである。確かに一般の国会議員等が関係機関に要請した場合または口利きのみの行為を罰することは正しくない。しかし、国会議員等の要求、口利きであつてもその「行為」の報酬としてカネを貰うという「議員等とのカネでの癒着による権限に基づく影響力の行使」行為を罰するのであつて、通常の政治家の要請行為を罰するものではない。
第2に本件の場合は安倍政権の有力大臣であり政治家の「要請」行為であったからこそ、UR側は当初は補償の意思がなかったのに2億2000万円まで大幅に補償額を上乗せして支払っているのである。この結果=社会的事実は甘利大臣側がどのような言葉で要請したかではなく、安倍政権の有力政治家が有する「権限に基づく影響力の行使」という客観的な地位、権限があったからこそ、UR側は飛躍的に補償額を上乗せしたのである。『言うことを聞かないと国会で取り上げる』と言ったとか、言わなかったかの問題でなく、当時の甘利大臣の飛ぶ鳥を落とす「地位」「威力」「権限」があったからこそ、UR側も要求に応じたのである。例えが悪いが巨大な指定暴力団の有力幹部が横に座つているだけで一言も発しなくてもその「威力」に負けて要求に応じるのと同一の構造である。
第3に、本件は決して軽微な事案ではない。「週刊文春」などの報道によれば、被疑者甘利らが、本件補償交渉に介入する以前には、UR側は「補償の意思はなかった」(週刊文春)、あるいは「1600万円に過ぎなかった」とされている。ところが、被疑者らが介入して以来、その金額は1億8000万円となり、さらに2億円となり、最終的には2億2000万円となつた巨額の事件であり、甘利側が貰った金額も巨額である。今回の事件は、有力政治家の口利きが有効であることを如実に示すものであり、これを放置すると多くの業者などが、政権政党の有力大臣や有力政治家に多額のカネを払い、関係機関に「口利き」を要請する事態が跋扈することになろう。これを払拭するために、本件については厳正な捜査と処罰が必要とされている。
4 告発事実の事実関係、政治資金規正法違反について
別紙告発状記載の通り
5 結語
本件のような、政権政党の有力大臣や有力政治家による口利きがあったことが明白な事件においてあっせん利得処罰法の適用ができないということになれば、「公職にある者(国会議員等の政治家)の政治活動の廉潔性ならびに、その廉潔性に対する国民の信頼」を保護することなど到底できないことになる。そして、今後政治家による「適法な口利き」が野放しとなり、国民は政治活動の廉潔性を信頼することがなくなり、政治不信が増大することとなる。
口利きによる利益誘導型の政治が政治不信を招き、それを防止するために制定されたあっせん利得処罰法の趣旨を十分理解したうえで、検察官の不起訴処分に対して法と市民の目線の立場で「起訴相当」決議をしていただきたく審査請求をする次第である。ちなみにあっせん利得処罰法違反で500万円を受領した事件の時効は本年8月20日に満了する。早急に審査の上、起訴相当の議決をして頂きたい。
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不起訴処分と同時に、甘利の政治活動への復帰が報じられている。甘利本人にとっても、起訴は覚悟のこと、不起訴は望外の僥倖と検察に感謝しているのではないか。不起訴処分は、限りなくブラックな政治家を甦らせ、元気を与えるカンフル剤となる。それだけではない。政治家の口利きは利用するに値するもので、しかも立件されるリスクがほぼゼロに近いと世間に周知することにもなる。
これでは、あっせん利得処罰法はザル法というにとどまらない。あっせん利得容認法、ないしはあっせん利得奨励法というべきものになる。
こんなことを許してはならない。巨額のカネが動いたのは事実だ。甘利自身、薩摩興業の総務担当者から、大臣室で現金50万円、地元神奈川県大和市の甘利事務所で50万円を直接受けとっている。この金が口利き料としてはたらいたことも明らかではないか。薩摩興業は、最終的にはURから2億2000万円の補償金を得ている。この現金授受と口利きの事実、口利きの効果が立証困難ということはありえない。「知らぬ存ぜぬ」は通らない。「秘書が」の抗弁もあり得ない。
有罪判決のハードルが、もっぱら構成要件の解釈にあるのなら、当然に起訴して裁判所の判断を仰ぐべきである。有罪判決となれば、立法の趣旨が生かされる。仮に法の不備から無罪となれば、そのときには法の不備を修正する改正が必要になる。いずれにせよ、検察審査会は単に不起訴不当というだけではなく、国民目線で、起訴相当の議決をすべきである。そうでなければ、政治とカネにまつわる不祥事が永久に絶えることはないだろう。
検察審査員諸君、あなたの活躍の舞台ができた。せっかくの機会だ。このたびは、あなたが法であり、正義となる。政治の浄化のために、民主主義のために、勇躍して主権者の任務を果たしていただきたい。
(以上・2016年6月3日)
ご存じのとおり、最終結論は、秘書は起訴されたが甘利は逃げおおせた。
同年7月29日、東京第四検察審査会から連絡があって足を運び、被疑者甘利明外2名に対するあっせん利得処罰法違反告発事件の審査申立に対する議決書を受領した。
被疑者甘利明は「不起訴相当」となった。この結果、甘利に対する訴追の道は断ちきられたことになる。到底納得できない。
清島と鈴木の秘書2名は、「不起訴不当」。検察は捜査をやり直すことになるが、強制起訴の道は断たれている。
政治家秘書は「トカゲの尻尾」。これを切り離すことで政治家は生き延びることができる。そのような見本となった検察審査会議決であった。
(2021年9月29日)
コップの中の嵐がおさまり、落ちつくところに落ちついたようだ。安倍・菅と、あまりにひどいこの国のトップが9年も続いた。あまりに長かった、国民の声に聞く耳を持たない政治の9年。ウソとゴマカシ、国政私物化の9年でもある。高市早苗以外の人物なら、誰が総裁になっても、少しはマシというべきだろう。ようやく、政権与党に、自らの特技を「人の話をよく聞くこと」というトップリーダーが誕生した。
岸田文雄は、本日の自民党総裁選開票直後の両院議員総会で新総裁としてあいさつに立ち、こう述べたという。
「多くの国民が政治に声が届かない、政治が信じられないといった切実な声を上げていた。私は、我が国の民主主義の危機にあると強い危機感を感じ、我が身を顧みず、誰よりも早く総裁選に立候補を表明した」「私たちは『生まれ変わった自民党』をしっかりと国民に示さなければなりません。」
この言葉は、その後の就任記者会見の冒頭挨拶のなかでも、次のように繰り返されている。
「国民のみなさまの中に、『国民の声が政治に届かない』、あるいは『この政治の説明が心に響かない』、こうした厳しい切実な声があふれていました。」「今まさに我が国の民主主義そのものが危機にある強い危機感を持ち、私は我が身を顧みずこの総裁選挙、真っ先に手を上げた次第です。」
これを言葉の通りに聞けば、誰しも岸田の認識を真っ当なものと思うに違いない。「安倍・菅のウソとゴマカシ、国政私物化の9年が、我が国の民主主義そのものの危機」をもたらしたというのだ。だから、この事態を反省し清算する真っ当な政治を行う決意だと思うことだろう。私も、そうであって欲しいと思う。
ところが記者会見での記者からの質問への回答で、期待は打ち砕かれた。こりゃダメだ。アベ・スガ政権への批判も反省もない。批判も反省もないから、言葉が上滑りして具体性がない。言質を取られまいという物言いだから、国民の胸に響く言葉にならない。これから何をしようというのか、漠然としてつかみようがない。
記者の質問に答えて、「今のさまざまな政治課題は、国民の協力なく結果を実現することができない時代だと認識している。そういった点から、国民の皆さんにしっかりと政治の説明責任を果たしていきたい」と述べたと報道されている。その言や良し。この人総論を語らせたら、立派にしゃべることができるのだ。採点すれば文句なく合格点。『可』以上は確実。
ところが、「森友学園」をめぐる再調査をしないのか、という具体的な質問に対する回答は、まったくおかしいものとなる。
「行政で調査が行われ、報告書が出されている。また司法において裁判が行われ、民事の裁判も続けられており、その判断を見ていかなければならない。こうした行政や司法の取り組みが行われ、それでもいろいろなご意見や思いがあるならば、今度は政治の立場からしっかり説明していかなければいけない」と述べたという。そりゃおかしい。それじゃ旧態依然の自民党、生まれ変われない。完全に不合格だ。『不可』しかやれない。その理由を整理しておきたい。
1 国民のなかに渦巻く政治不信を、まったく理解していない。「行政や司法の取り組みにご意見や思いがあるならば」などと、将来の、あるいは仮定の問題として語る姿勢が不合格。本気でそう思っているなら、決定的な無能力。そう思っているフリをしているのなら、とてつもない不誠実。
2 「行政の調査」への国民の反発を知るべきだ。身内の調査で、多少の尻尾を切ったが膿を出し切っていない。何よりも、安倍晋三の責任に切り込んでいない。然るべき信頼できる第三者による再調査チームの編成が必要なのだ。仮に、安倍晋三が潔白だったとしても、今、それを信じる理性ある人はない。
3 「司法において裁判が行われ、民事の裁判も続けられており」というこの人の言葉づかいは、経過を良く認識していないこと、自信のないことの表れである。「司法において裁判が行われ」は、あたかも刑事裁判が行われたごとき印象の言葉づかいだが、実は刑事の立件はすべて起訴猶予となり立件されていない。もう一度、きちんと経過を把握して、明瞭に見解を述べ直さねばならない。
4 「民事の裁判も続けられて」いることが、再調査を拒否する理由にはなりようがない。自死した赤木さんの遺族が提起した民事訴訟において、国は無責であ類語と言い続けている。果たして、そのような姿勢で良いのかが問われているのだ。第三者による再調査にすべてを委ねることが求められている。それができないのは、安倍晋三に不都合だからと考えざるを得ない。
行政にも司法にも信用を措けない、不十分だということだから、新総裁に期待が大きいのだ。直ちに再調査の態勢を整えていただきたい。それができなきゃ、アベ・スガと、同じ穴のムジナでしかない。少しだけ穏やかなムジナ。
ああそうか。岸田の言う「危機にある日本の民主主義」とは、「日本の保守政治」のことなんだ。彼は、民主主義の旗手ではなく、自民党保守政治救済の旗手なのだ。そう考えると辻褄が合う。
(2021年9月28日)
NHKを、真に独立したジャーナリズムに育てようという壮大な市民運動。その一環としてのNHK情報公開請求訴訟。本日、東京地裁103号法廷で、その第1回期日が開かれた。
コロナ禍のさなか、おそらく傍聴希望者は少数に留まるという予想ははずれた。傍聴券は抽選となった。漏れた方にはお詫びするしかない。午後1時からの議員会館での報告集会も盛会だった。
法廷では、予定の通り、下記の原告と原告代理人(計4名)の口頭意見陳述が行われた。
(1) 西川幸さん(視聴者の立場から)
(2) 長井暁さん(副原告団長・元NHKチーフプロデューサー)
(3) 醍醐聰さん(原告団長・東大名誉教授)
(4) 澤藤大河弁護士(原告ら訴訟代理人)
代理人意見陳述要旨を掲載して、報告としたい。
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原告ら代理人意見陳述要旨
原告ら代理人弁護士澤藤大河
先に 3 名の原告がお話しした通り、この訴訟の目的はNHKに正しく情報公開制度を運用させ、それを確立することにあります。
組織は往々にして、腐敗します。腐敗した自らの組織とその幹部を守るために、あらゆる手段を使い、その責任の所在を隠そうとします。
このような腐敗を許さず、民主的な運営をさせる要諦は、運営の透明化にあります。その透明化の切り札が情報公開です。民主的であることを標榜する組織は、積極的に内部情報を公開するとともに、要求あれば特定された文書の開示請求に応じなければなりません。説明責任遂行に伴う情報公開の全うこそが、あらゆる組織の民主的運営の土台というべきです。
今、情報公開請求裁判は数多く起こされています。その訴訟の形式は、多くは行政機関・あるいは独立行政法人を対象とした行政訴訟です。
「行政機関情報公開法」、あるいは「独立行政法人等情報公開法」に基づいて文書開示を請求し、不開示決定を得た場合に、その「不開示という行政処分」の取り消しを求める訴訟なのです。
しかし、NHKには、どちらの法律の適用もありません。「独立行政法人等情報公開法」は、192にも上る独立行政法人あるいは特殊法人を対象としていますが、NHKは意識的に適用外とされています。
これは、決してNHKについて情報公開する必要がないからではありません。NHK自らが組織した「NHK情報公開研究会」は 2000 年 11 月に、「NHKの情報公開のあり方に関する提言」を発表しています。NHKの情報公開制度を基礎づけた重要な文書です。
ここには、以下のような格調高い文章で、NHKが社会的に大きな意義を持った存在であるべき事が高らかに唱われています。
「放送や新聞などのマスメディアは、いわゆる社会の公器として公的な役割を担っており、とりわけNHKには、国民共有の財産である電波を利用し、視聴者が直接負担する受信料によって運営される公共放送であることから、より高い公共性とそれに伴う説明責務(アカウンタビリティ)が求められる。」「NHKの持つ説明責務は、政府や行政機関のそれとは異なり、NHK自身が視聴者に対して負っている「視聴者に対するNHKの説明責務」であることを、NHKはまず深く認識することが重要である。」
要するに、NHKは、政府や行政機関とは異なり、マスメディアとして視聴者に対して直接説明責任を負っているということです。情報公開法が制定された際の「特殊法人情報公開検討委員会」では、NHKは、「政府の諸活動としての放送を行わせるために設立させた法人ではない」とされ、特殊法人等情報公開法の対象法人とはしないことが確認されています。
これも、NHKが政府の下請宣伝機関ではなく、独立したマスメディアであり、その独立性が非常に重要であることを確認しているといえます。
情報公開の重要性を自覚したNHKは、視聴者への説明責務を果たすために、内規として独自の情報公開制度を定めました。今回、原告らが情報公開を求めたのは、この制度を利用したものです。ところが、NHKの姿勢は、これらの情報公開制度について、これはあくまでも内規に過ぎず、法的な効果をもつものではないとでも言わんばかりです。「裁判所に持ち込まれることなどあり得ない」というNHKや経営委員会の思い込みが、これまでの開示請求に対する不誠実な対応の原因の一つと考えられます。
これは、法的には、非常に影響の大きな、重要な争点です。ある者が義務を負いそれを認めているのに、義務を負う根拠が自分で決めた内規であるということで、司法判断を免れるということが許されるのでしょうか。司法判断を受けなくて済む領域を自ら勝手に設定することができるものでしょうか。
裁判を受ける権利は憲法上保障されており、勝手に司法判断を拒否できるものではありません。NHKが視聴者に対する情報公開制度を作り、この制度の存在を公表し、実際に運用してきました。そうである以上、この制度を遵守することが、NHKと視聴者との間の受信契約の内容となっている、と私たちは考えています。
また、これら内規は、NHKが行政機関ではなく、政府から高い独立性をもって特別な報道機関としてその任務を果たすために、情報公開諸法の対象から外されたことから制定されたはずのものです。報道の自由を支えるために情報公開諸法の対象から外されたのです。それなのに、この内規が、報道現場を経営陣がコントロールし、政府に迎合する報道をするための手段として使われている奇妙なねじれが生じています。
行政訴訟ではなく、民事訴訟として、受信契約にもとづく文書開示請求権の行使として請求するこれまでに前例のない訴訟が、本件なのです。
さらに、この訴訟は、NHKだけを被告にしているのではありません。NHK経営委員会森下俊三現委員長を、二人目の被告として、個人に対する損害賠償請求もしています。
NHKの最高機関は、「NHK経営委員会」です。経営委員会が、会長の任命権限を持ち、罷免する権限も持っています。その経営委員会委員長が、元総務事務次官からの要請を受けて、明らかに「かんぽ生命不正報道」の番組制作を妨害して、制作現場に土足で踏み込んだのです。明らかな放送法違反であり、民事法上も違法な行為をなしたのです。
この訴訟で開示を求めている中心的な文書は経営委員会議事録です。その議事録が出せない、あるいは議事録の公開が遅延したのは、現委員長森下俊三の番組制作妨害が議事に関わっているからだというのが、私たちの主張です。この点に関しては、被告森下氏の認否にもよりますが、今後の訴訟活動として、被告森下氏の不法行為を十分に主張するつもりです。経営委員長として議事録を作成せず公開しなかったことが不法行為です。
そして、議事録不開示の動機は、森下氏が番組制作・放送妨害に介入したことを隠蔽するためです。本件においては、隠蔽しようとしたという動機も重要です。故意不法行為であることや動機の悪質性は慰謝料の増額事由となるからです。
最後に申し上げますが、私たちはNHKを敵視していません。政府から独立し、民主的で透明な運営がなされる良質のジャーナリズムを支える存在として、その価値を発揮することを望んでいます。本件訴訟はNHKに透明な運営をもたらすために極めて重要な意義があります。
裁判所においては、本件訴訟は、NHKという大きな報道機関の運営を正常化し透明性を確保させるという重大な意義があることを、是非ご理解いただきたいと思います。
(2021年9月27日)
安倍晋三長期政権の権力私物化の象徴が、「モリ・カケ・サクラ」である。そのどれもが、いまだに説明が尽くされていない。安倍晋三の責任が曖昧にごまかされたまま。アベ・スガ政権の後継者を決める総裁選挙も終盤だが、自民党に自浄能力があるのかが問われている。
そのような問題意識で、「『桜を見る会』を追及する法律家の会」が、本年9月17日付けで、自民党総裁候補4人と野党の代表者7名に、公開質問状を送った。
https://article9.jp/wordpress/?p=17589
関心は自ずから、自民党総裁候補4人の回答に絞られる。この質問状には、「回答内容は、回答の有無も含め、マスコミ等への公開を予定しております」と明記されている。公開質問状だから当然といえば当然だが、元首相安倍晋三の不祥事を、どのように深刻に受けとめ、どのように再発の防止に努めるのか、誰もが問い質したいところ。野党各党の回答と比較されるのだから疎かにはできまい、と思ったのが浅はかだった。
自民党総裁選候補者、岸田文雄、高市早苗、河野太郎、野田聖子のうち、河野太郎は積極的な配達証明郵便の受け取り拒否。あからさまな、人の言うことに聞く耳を持たないという積極姿勢を示した。岸田文雄と高市早苗の両名は質問状を受領はしたが無回答。おそらくは、どう答えてよいか、決断できなかったのであろう。
つまり、国民への受けがよいのは「首相の犯罪を厳しく断罪する姿勢」である。しかしそう回答すれば、まだ健在な安倍から睨まれる。それなら、黙して語らぬのが良策という姿勢。これを「疚しき沈黙」という。結局のところ、岸田、高市、河野、このだれが、総裁・総理になっても、自浄の意思も能力もない。
これに対して、野田聖子だけが真っ当な姿勢を見せた。下記のとおり、計5問に手抜きのない丁寧な回答を寄せている。他の3候補とは際だった違い。その全文を掲載しておきたい。
1 桜を見る会について
? 検察審査会の指摘について、これは検察官が専門家として判断したものの上に、国民の代表が意見を反映したものと認識しており、賛同します。
? まず「桜を見る会」そのものを今後どうするかについて、私が首相になったときには、全面的に見直しを行い、(コロナを克服してからの)桜を見る会にはすぺての国民の皆様をど招待したい、と考えております。桜は日本の国花です。桜には罪はありません。日本人はこれまで、春を待ち焦がれ、桜を待ち焦がれ、多くの歌に詠んできました。私は、民主主義政治の原点は、政治家が国民とともにあることだと思っています。内閣総理大臣として、希望するすぺての国民とともに桜を楽しみ、国民から勇気と元気を頂いて、明日からの国家へのエネルギーに変える、そのような会に改革したいと思っています。
次に、安倍総理大臣の行った桜を見る会に関する疑惑についでは、秘書が略式起訴され罰金が確定、安倍議員ど本人が不起訴となりましたが、その後検察審査会で不起訴不当となり、再捜査が行われているものと思います。当面は捜査の行方を見守りたいと思いますが、そもそも民主主義政治における政治家は、あることないこと言われるのが通例ですが、自らの潔白は自らが丁寧に説明すべきものと考えています。
2 前夜祭について
? 検察審査会は専門家である検察官が下した判断の上に、国民の代表が意見を反映したものですので、その指摘を尊重したいと思います。
? これも同様の理由で、検察審査会の指摘を尊重したいと思います。そのうえで、民主主義政治における政治家は、あることないこと言われますし、今はフェイクュュースの脅威にもさらされています。そんな中においても、検察審査会のご指摘の通り、私たちの責務として、自らの潔白は自らが丁寧に説明すべきものと考えています。
? 政治家が説明責任を巣たし終えたかどうかの判断は、極めて難しいものだと思っています、ただし、私たちが民主主義政治における政治家である以上、国民のせめて過半数が納得してくださるまで、私たちは粘り強く説明する責任を負っているものと考えています。
公明党からも回答があったが、「検察の処分を待つ」とするだけのもの。おそらくは、自民党と連立を組む立場においては、それ以上は言えないということなのだろう。これも、自浄能力がない。
さすがに、立民、共産、社民、れいわの4党からは、安倍晋三の責任を明確化することに何の忖度もない回答になっている。これは希望だ。残念なのは、維新と国民からは回答のないこと。
本日(9月27日)、「会」は、記者会見を開いてこの結果を公表した。
そこで述べられたことは、「このまま、与党の政権が続れば、桜を見る会は同じように曖昧にされ続けてしまうだろう」「野党4党の回答には、自党が政権を担うことになれば、真相解明と責任追及、法制度の改善という積極的な行動に出る、という決意の表明が見られた」ということ。
総裁選、自浄能力のない候補者の優勢が報じられている。
(2021年9月26日)
「蟷螂の斧を構えたままの姿です」という一文に目が留まった。81歳の方の文章、「蟷螂の斧を構えた」のが1964年のこと。以来、その姿勢を崩していないというのだ。しかもこの方は元裁判官。この姿勢の維持は、当局の強い圧力に抵抗してのこと、並大抵の覚悟でできることではない。私もそう言えるようになりたい。その心意気に学びたい。
「核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会(略称:日本反核法律家協会)」という団体がある。自らを、《「人類と核は共存できない」との立場から、日本の法律家や法律家団体を幅広く結集し、志を同じくする国際組織や市民社会と連携して、核兵器の廃絶、ヒバクシャ援護、原発に依存しない社会の実現をめざす諸活動にとりくむ団体です。》と紹介している。
「日本反核法律家協会」の機関誌(季刊)の名称が、分かり易い「反核法律家」。その108号(2021年秋号)が本日届いた。巻末(60ページ)に、「NEW FACE」という新入会員の自己紹介欄がある。ここに、「81歳の自己紹介」として、埼玉弁護士会の北澤貞男弁護士が寄稿している。
北澤さんは、定年まで勤め上げた元裁判官。元青年法律家協会裁判官部会の会員で、その後継の如月会にも所属し、その流れを汲む裁判官ネットワークの活動にも携わっておられた。退官後弁護士となって、日民協の活動に参加、人権を守るいくつもの裁判に携わってもいる。首尾一貫、ブレない方なのだ。
その北澤さんが、昨年(2020年)の師走に、誘われて81歳で「日本反核法律家協会」の会員になられたという。その北澤さんの自己紹介記事の一部を抜粋してご紹介したい。
私は、…1966年4月に判事補となり、2004年12月に定年退官するまで裁判官の地位にありました。修習生の前期に青法協に加入し、その姿勢のまま現在に至った感じです。蟷螂の斧を構えたままの姿です。
北澤さんの青法協加入が1964年のことになる。57年余も、蟷螂が斧を構えたままの姿勢を保ち続けて来られたというのだ。これは並大抵のことではない。右翼や自民党と一体化した最高裁が、青法協裁判官に対する脱退攻撃を始めたのが1969年頃からである。大勢いた青法協裁判官が、石田和外ら司法官僚の恫喝や勧奨に屈して崩れていく中で、さまざまな報復や差別に屈せず、筋を通し、信念を貫き、自らの法律家としての矜持を守った少数の裁判官がいた。その一人が北澤さんだ。
2005年2月に弁護士登録をしましたが、先輩等から誘われるまま、中国「残留孤児」国家賠償請求事件、東京大空襲国家賠償請求事件、そして安保法制違憲訴訟に一弁護士として関与することになりました。
これらの訴訟に関与して考えさせられたことは、「国家権力」の正体とそれを担う者たちの意識の在りようについてです。最も感じたことは、国家の「人民」に対する「冷たさ」です。天皇制国家から国民主権の民主政国家に変わっても、国家の冷たさは変わっていません。戦争被害受忍論はそれを象徴する理屈です。国民主権が定着していないことだけでなく、そもそも国家は特定の人間が大勢の「人民」を支配する巧妙なシステムのようです。
平和を希求する民衆が安保法制違憲訴訟を提起して活動していますが、下級審の判決は、保護されるべき権利・利益が認められないとして、安保関連法の憲法判断と立法違法の判断を回避し、門前払いに近い判決が続いています。国家権力の中枢に関わる事件ですから、難しいとはいえ、裁判官の姿勢は「国家権力」の影に隠れ、日本国憲法の威力から身を守っている(保身)かのようです。
ブレることのなかった元裁判が、保身としか見えない現役裁判官の姿勢に切歯扼腕しているのだ。自らを「蟷螂」という北澤さんだが、私も蟷螂だ。先輩蟷螂を見習って、大きく斧を振り上げ続けたい。