澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

アメリカはむちゃくちゃだ。中国はもっとひどい。なんという世界だ。

(2021年1月7日)
かつて、アメリカは、日本にとっての民主主義の師であった。そのアメリカが、今尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限の基本ルールが、この国では当たり前ではなくなった。

1月6日、バイデン勝利の大統領選結果を公式に集計する連邦議会の上下両院合同会議に、トランプの勝利を高唱する暴徒が乱入して、議事を妨害した。議事堂が大規模な侵入被害に遭うのは、米英戦争時に英国軍により建物が放火された1814年以来のこと。アメリカ合衆国の歴史の汚点というべきだろう。その汚点を作り出した、恥ずべき人物をドナルド・トランプという。彼が、暴徒を煽動したのだ。この汚名は、歴史に語り継がれることになるだろう。

バイデンは同日夕、テレビ演説で「これは米国の姿ではない。今、私たちの民主主義はかつてない攻撃にさらされている」と非難したという。だが、悲しいかな。「これが米国の姿なのだ。」

このトランプをツイッター社が叱った。同社は、投稿ルールに抵触したとして、トランプのアカウントを凍結したという。たいしたものだ、というべきか。恐るべき出来事というべきか。

一方中国では事情大いに異なる。中国電子商取引最大手アリババ集団の創業者、馬雲(ジャック・マー)が「姿を消した」と話題となっている。同人の政権批判に反応した当局が拘束したとの報道もある。

かつて中国は、世界の人民解放運動の先頭に立っていた。その輝ける中国が今輝いていない。尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限のルールが、この国では長く当たり前ではなくなっている。法の支配という考え方もない。剥き出しの権力が闊歩しているのだ。恐るべき野蛮というほかはない。

香港は一国二制度のはずだった。二制度とは、「野蛮と文明」を意味する。つまり、中国本土は野蛮でも、香港には文明の存在を許容するという約束。昨年来の一国二制度の崩壊とは、香港の文明が中国の野蛮に蹂躙されるということなのだ。

昨日(1月6日)朝の香港で、立法会の民主派の前議員や区議会議員など50人余が逮捕された。被疑事実は、香港国家安全維持法上の「政権転覆罪だという。これは、おどろおどろしい。

去年6月末に施行された「香港国家安全維持法」は、
(1) 国の分裂
(2) 政権の転覆
(3) テロ活動
(4) 外国勢力と結託して、国家の安全に危害を加える行為
の4つを取締りの対象としているという。今回は、初めて「政権の転覆」条項での取締りだという。

昨年7月、民主派が共倒れを防ぐために候補者絞り込みの予備選を実施した。これが政権の転覆を狙った犯罪だというのだ。さすがに野蛮国というしかない。戦前、治安維持法をふりかざした天皇制政府もひどかったが、中国当局も決して引けは取らない。

バイデン次期政権の国務長官に指名されているブリンケンは、ツイッターに投稿し「香港民主派の大がかりな逮捕は、普遍的な権利を主張する勇敢な人たちへの攻撃だ」と批判したという。そのうえで「バイデン・ハリス政権は香港の人たちを支持し、中国政府による民主主義の取締りに反対する」と書き込み、中国政府に強い姿勢で臨む立場を示したと報道されている。

米国内でも対中関係でも、アメリカのデモクラシーは蘇生するだろうか。中国の野蛮はどこまで続くことになるのだろうか。日本もひどいが、アメリカもひどい。中国はもっともっとひどい。

暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、香港にも、中国国内にも、最も厳しい場で苛酷な弾圧にめげずに、自由や人権を求めて闘い続けている人たちがいる。その心意気を学ばねばならないと思う。

「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)拾い読み

(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。

取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。

が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。

南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。

「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」

これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。

「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」

 また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。

「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」

 津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。

また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。

南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。

 『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

 確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。

戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。

太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。

そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。

翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。

何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。

なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。

古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。

あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。

「ノーベル賞・本庶佑教授 『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。

僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。

(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。

少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。

崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。

本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。

毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。

「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。

中国問題に言及した、菅首相仕事始めの年頭記者会見

(2021年1月4日)
正月三が日の明けには、三余という言葉を思い出す。冬(年の余り)と、夜(日の余り)と、陰雨(時の余)を指して、このときにこそ書を読み思索して学問をせよということらしい。「余」という語感が面白い。原義とは離れるかも知れないが、はみ出した自由なひととき、というニュアンスがある。ならば、昨日までの正月三が日が、まさしく「三余」であった。その三が日がなすこともなく終わって、せわしい日常が戻ってきた。しかも今日は月曜日。

事情は下々だけでなく首相も同様のごとくである。本日の年頭の記者会見が、彼の仕事始め。予め用意された原稿をまずは読み上げた。下記は、その後半の一節(官邸ホームページから)。

 コロナ危機は、国際社会の連帯の必要性を想起させました。我が国は、多国間主義を重視しながら、「団結した世界」の実現を目指し、ポストコロナの秩序づくりを主導してまいります。

 そして、今年の夏、世界の団結の象徴となる東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催いたします。安全・安心な大会を実現すべく、しっかりと準備を進めてまいります。

 本年も、国民の皆様にとって何が「当たり前のこと」なのかをしっかりと見極め、「国民のために働く内閣」として、全力を尽くしてまいります。国民の皆様の御理解と御協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 客観的に見て、頗る出来の悪い文章というほかない。何を言いたいのか、言っているのか、皆目分からない。言質を取られないように、ことさら何を言っているのか分からない、具体性のない言葉を連ねているだけなのだろう。聴く人の心に響くところがない。訴える力もない。

伝わってきたのは、「東京オリパラはやりたい」という願望のみ。それも「やれたらいいな」という程度のもの。コロナ対策とどう折り合いを付けるのかという、具体策は語られない。何よりも、情熱に欠ける。

わずか15分間だが、記者からの質問に答弁した。幹事社からの質問には答弁の原稿が準備されているものの、それ以外の記者との質疑は首相にとっての恐るべき試練であり、避くべき鬼門である。

その鬼門に待ち構えていたのが、フリーランスの江川紹子。質問が聴かせた。

 「外交関係になるんですが、中国の問題です。リンゴ日報の創業者の人が勾留されたり、あるいは周庭さんが重大犯罪を収容する刑務所に移送されたというような報道がありました。天安門事件の時の日本政府の融和的な方針も明らかになって、議論も招いているところであります。菅首相はこの一連の問題についてどのように考えるのかお聞かせください」

 これに対する菅答弁は以下のとおり。

 「中国問題については、多くの日本国民が同じ思いだと思っています。民主国家であって欲しい。そうしたことについて日本政府としても折あるところに、しっかり発信をしていきたいと思ってます」

 率直で、悪くない答弁ではないか。スガ君、原稿見ないでもしゃべれるじゃないか。おっしゃるとおりだよ。中国に民主主義が根付くことは、日本国民圧倒的多数の共通の願いだ。世界の良識が「当たり前のこと」とする、人権尊重も中国に望みたいところ。

まずは、このことを口に出したことについて評価したい。その上で、今後はその言葉のとおり、「そうしたことについて、日本政府としては折あるごとに、しっかりと明瞭に発信をしていくよう」期待したい。

香港に「平和」はあるだろうか。中国にはどうだろうか。

(2021年1月3日)
昨日の毎日新聞デジタルに、「『へいわって…?』 激動の香港で日本の絵本が読まれている理由」という記事がある。

https://mainichi.jp/articles/20210101/k00/00m/030/175000c

「中国政府による締めつけが続く香港で、日本の絵本『へいわって どんなこと?』が読まれ続けている。日中韓の3カ国で出版された後、2019年12月に新たに「香港版」が刊行され、現地の出版賞も受賞した。」という内容。

浜田桂子さんが執筆した、この絵本には「へいわって どんなこと?」の問いかけに、考え抜かれたこんな答が連ねられている。
「きっとね、へいわってこんなこと。
 せんそうをしない。
 ばくだんなんかおとさない。
 いえやまちをはかいしない。

 おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる
 おもいっきり あそべる
 あさまで ぐっすり ねむれる」

それだけでなく、
 「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。」

そしておしまいが、
「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと
 きみがうまれて よかったっていうこと
 そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」
と結ばれているという。

浜田さんは「平和絵本は戦争の悲惨さを伝えるものが中心で、これが平和だよと伝えるような作品がないと感じていました。自分にとって平和とは何かを考えられるようなものを作りたいという思いが、ずっとありました」と語っている。

この絵本の制作は中国・韓国・日本の3カ国12人の作家によるプロジェクトによって生まれた。「悲惨な戦争ない状態の平和」にとどまらず、積極的に平和とその価値を語ろうという試み。その結論は、「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」と収斂する。なるほど、と頷かざるを得ない。

今、香港に、せんそうはない。ばくだんなんかおとされていない。いえやまちがはかいされているわけでもない。しかし、明らかに「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはない。「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」とは、ほど遠いものと言わざるを得ない。

だから今、「香港にはこの絵本が必要」とされているのだという。香港で絵本は増刷され、2020年末までの1年間で6000部発行された。2020年7月には、この絵本が公共放送局「香港電台(RTHK)」が主催する出版賞「香港書奨」(Hong Kong Bookprize)の9作品に選ばれた。30年以上続く伝統ある賞で、作品は「子どもの視点から、平和とは何かを伝えている。人間性の真善美を示している」と評されたと、毎日は伝えている。

この記事の示唆するとおり、香港は「平和」ではない。そのとおりだと思う。だとすれば、中国本土にも「平和」はない。香港以上に、「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはないからだ。言論が抑圧され、平和なデモ参加者が逮捕され有罪とされる社会は「平和」とは言えない。その地に、「ぼくがうまれてよかったって。きみがうまれてよかった」という安心が得られないからだ。

日本国憲法は、人権と民主主義と平和を3本の柱として成り立っており、それぞれの柱は互いに緊密に支えあっている。日本国憲法だけではない。いずれの国や社会においても、人権と民主主義を欠いた、「平和」はあり得ない。専制が人権を蹂躙するところ、たとえ隣国との交戦はなくとも「平和」ではない。

コロナが突きつける問 ?「国家は何のためにあるのか」

(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。

暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。

コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。

国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。

しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。

また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。

ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。

本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。

生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。

この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)

結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。

今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。

石田和外、睦仁の教えを守り抜いた守旧の人。

(2021年1月1日)
年が変わった。しかし、「おめでとう」などという気分にはなれない2021年の年頭である。

去年今年を貫いているものは、内外ともに猖獗収まらぬコロナ禍、そして安倍から菅へと続く邪悪な政権。加えて、東京五輪強行という愚策というところ。

とはいうものの、今日の東京はこの上ない好天。空は飽くまでも青く澄み、風はない。散り敷いた落ち葉の黄や赤の色が鮮やかである。コロナ禍がウソのよう。

不忍池には氷が張り、遊歩道には霜が降りていた。インバウンドはなく、行き交う人は少ない。静かな中に、雀の群がかしましい。東京の風景も捨てたものではない。

例のごとく、五條天神で今月の「生命の言葉」を見る。新たに掲示されているのは、明治天皇(睦仁)の次の歌。

 あらし吹く世にも動くな人ごころ いはほに根ざす松のごとくに

御製というものは、御製であるというそのことだけで感興を殺ぐつまらぬものだが、とりわけこういう「上から目線教訓歌」には、虫酸が走る。どうせ不愉快に決まっているのだから、わざわざ掲示を読みに行くこともないのだが、「恐いもの見たさ」「つまらぬもの見たさ」という、不条理な誘惑に勝てない。

さて、いったい何だ? この歌は?

一見すれば、「たとえ、どのように嵐が吹きすさぶ、はげしい世の中の変動に会っても、巌の上に、どっしりと根を張っている松の木のように、しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません。」という、昔あちこちにいた偏屈なじいさまのタワゴトのごとくではある。

しかし、これが「明治天皇御製(明治37年)」となると偏屈なじいさまのタワゴトでは済まない。明治37年とは1904年、日露開戦の年である。この歌が詠まれたのが、その年の何月であるかは知らないが、戦争と無関係ではあり得ない。

睦仁は、上から目線で臣民に対して教訓を垂れているのだ。「動くな 人ごころ」とは、決して「しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません」などと、一般論を述べているのではない。「臣民たちよ。朕に対する忠誠の気持を揺るがせてはならない。その忠誠心をもって、この危急の時にロシアに対する闘争心を研ぎ澄ませ続けなければならない」と煽っている。そう、読むべきであろう。でなければ、気の抜けたサイダーのごとき、詠むにも聴くにも値しない意味のない駄歌・駄文に過ぎない。

もう一つ、思い出すことがある。1969年1月、かの石田和外が、5代目の最高裁長官になったときのメッセージ。彼は、こう言ったのだ。

 「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」

睦仁の歌での「吹く嵐に動かない、巖に根ざす松」が、「激流のなかに毅然とたつ、巌」となっているが、案外、和外の言葉は、この睦仁の歌を下敷きにしたものではなかったか。石田和外は、戦前だけでなく戦後も、時代錯誤の天皇崇拝者であったことで知られる。

この石田和外の言葉の表面を読んで、彼を「司法の独立」の擁護者と誤解してはならない。当時、戦後民主主義の結実として澎湃たる労働運動・平和運動・市民運動・学生運動等々が昂揚していた。この運動を押さえ込んで旧来の秩序を守ろうとする陣営との熾烈な軋轢が事件化し、種々の裁判闘争を生んでいた。そして、時代の潮流は裁判官をも巻き込みつつあった。これに歯止めを掛けたのが、骨の髄までの旧秩序派であり、天皇主義者でもあった、反動石田和外である。

彼の言葉は、こう読まねばならない。「日本の裁判官は今、日本国憲法の理念に忠実に人権や民主主義を守れという国民の声の激流のなかにある。しかし、それに押し流されてはならない。裁判官は、民主主義昂揚の潮流の中に毅然とたつ巌のような姿勢で、それを押しとどめ、これまでどおり自民党や財界や皇室などの厚い信頼をつながねばならない」

そして、彼はその言のとおり、司法の内部をパージしたのだ。石田和外、戦前の治安維持法裁判官であったが、戦後も実は何も変わらなかった。大日本帝国憲法下から日本国憲法に変わった世にあっても、睦仁の「あらし吹く世にも動くな人ごころ」という教えを守り抜いたのだ。「いはほに根ざす松のごとく」である。

今年も、多難な年になりそうだが、また1年このブログを書き続けたいと思う。

暮れに思う ー 改憲は、ウソつき晋三にできることではなかったのだ。

(2020年12月31日)
大晦日の今日、東京の新規コロナ陽性者数は1337人だという。気の滅入るようなコロナ禍の中2020年が暮れてゆく。明日の希望が見えるような年の瀬ではない。とは言え、日本国憲法を大切に思う者にとっては、特別の感慨がある今年の終わりである。

思い出す。2017年5月3日、憲法施行70周年となる憲法記念日の右翼の集会に、安倍晋三はビデオメッセージを送った。かれは自分の支持基盤に対して、あらためての改憲の誓約をした。そして、「2020年を新憲法施行に年にしよう」と、決意を述べたのだ。

「私は、かねがね、半世紀ぶりに夏季のオリンピック、パラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけにすべきだと申し上げてきました。かつて、1964年の東京五輪を目指して、日本は大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。」「2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと強く願っています。私は、こうした形で国の未来を切り拓いていきたいと考えています。」

その2020年が終わろうとしている。憲法は健在である。そして、今年安倍晋三が利用しようとした東京オリンピックはなく、安倍晋三は退陣して桜疑惑追及の醜態をさらしている。もちろん、菅義偉承継政権が信をおくに足りるものではない。学術会議任命拒否問題だけで正体見たりとの感はあるが、相対的に改憲意欲が高いとは見えない。

今年幕を引いた安倍政権とは何であったか。その国民の印象を12月19日毎日朝刊「仲畑万能川柳」蘭の掲載句がよくまとめている。

 リズムよし「モリカケ桜クロカワイ」 日南 たかの紀凜

安倍内閣とは、改憲勢力の与望を担って登場した改憲指向政権であった。保守内右翼が作った長期政権として、民族差別・歴史修正主義・対米従属の政権として、左派・リベラル陣営との強い緊張関係が絶えなかった。もしや、安倍晋三やその取り巻きが、廉潔な政治姿勢を維持していたとしたら、7年8か月の間に何らかの改憲ができていたかも知れない。

しかし、安倍晋三の国政私物化体質と、ウソとごまかしの政治姿勢は抜きがたいものとして、国民の反発を招き、数々の悪法を残しながらも、憲法に手を付けることはできないまま、政権の座を去った。言わば、ウソつき晋三のウソつき体質が、改憲世論の興隆を阻害したのだ。あらためて思う。憲法改正は真に国民の信頼を重ねてでなくては、なしえない事業なのだ。

退陣した安倍政権にレガシーというべきほどのものはなく、負のレガシーが「モリカケ桜クロカワイ」に代表される、国政の私物化と腐敗であった。このことを凝縮したのがこの句だが、いかんせんアベ政治の腐敗は「森友・加計・桜を見る会・黒川・河井」の5事件だけでは収まらない。IR汚職で起訴され、証人買収までして保釈を取り消された秋元司事件は欠かせない。今話題の農水大臣吉川貴盛の事件も。起訴は免れたが、大臣室で陳情に来た業者から現金を受け取った甘利明・元経済再生相。後援会の観劇ツアーの疑惑を追及されて、証拠隠滅のためにドリルでハードディスクを破壊した小渕優子・元経産相。そして下着泥棒疑惑で“パンツ大臣”と呼ばれた高木毅・元復興相。下村博文は、その「博友会」が政治団体の届け出をせずに政治活動を行ったという疑惑を追及された。まだまだ書き切れない。

これだけの不祥事の固有名詞を川柳に読み込むのは無理なのだ。狂歌でも都々逸でも不可能。長歌なら可能だろうが、覚えきれない。「スキャンダルいっぱいの」「ウソとゴマカシと違法だらけの」安倍政権というしかない。

「モリカケ桜クロカワイ」の中核に位置している「桜疑惑」。その一部である「前夜祭の収支疑惑」追及の告発がこの暮れに「安倍不起訴」となった。その安倍の記者会見と国会(閉会中審査における議運)での答弁が、また新たな疑惑を生んでいる。ウソを上塗りすると、新たなウソが生じるのだ。こうしてウソの追及をされ続けるのが、ウソつき晋三の宿命である。

明くる年もまた、ウソつき晋三に対する追及をゆるめることはできない。日本国憲法を擁護するためにも。

《デマ(D)と、ヘイト(H)と、チート(C)のDHC》 その社会的制裁が必要だ。

(2020年12月30日)
一昨日(12月28日)の夕刻、DHCの内部事情の取材にもとづいて、文春オンラインが下記の長大な記事をアップした。

【DHC現役社員が告発】ヘイト炎上の源泉は会長のヤバすぎる“差別通達”《タレントの出自に関する記述も》
DHC現役社員が告発 #1
https://bunshun.jp/articles/-/42628

DHC会長が全社員に口コミサイトへ“サクラ投稿”奨励「ゴールド社員の称号を与える」《消費者庁は「非常にグレー」》
DHC現役社員が告発 #2
https://bunshun.jp/articles/-/42629

【内部文書入手】DHCのヤバすぎる勤務実態「産休取得で降格、査定基準に“愛社精神指数”、ボーナスのお礼を会長にファクス」
DHC現役社員が告発 #3
https://bunshun.jp/articles/-/42630

これは読み応え十分である。産業社会学の基礎文献になり得る貴重なドキュメント。「#1」の記事が主としてヘイトを、「#2」が全社を挙げての消費者に対するダマシを、そして「#3」がこの会社のオーナー吉田嘉明の恐るべき独善的なブラック体質を語っている。安倍政権が「ウソとゴマカシのデパート」と揶揄されたが、DHCも負けてはいない。デマとヘイトにとどまらず、消費者へのウソとゴマカシ、自社従業員に対するイジメと締め付けのデパートにほかならない。

私は、これまで繰り返し、DHCを
D デマと
H ヘイトの
C カンパニー と呼び、
デマとヘイトとスラップ常習企業として、3拍子揃った反社会的企業と言ってきた。が、文春オンラインのこの記事を読んで考え直した。DHCとは、3拍子では足りない。少なくとも、6拍子を揃えた稀有なトンデモ企業なのだ。

D は、デマ。沖縄の平和運動を貶めるデマ。
H は、ヘイト。在日に対する、いわれなき偏見。
C は、チートのC。悪質な消費者ダマシ。
S スラップ常習企業。表現の自由の敵対者。
O オーナーのブラック体質。労働者保護の敵対者。
S 政治家への裏金提供企業。民主主義の敵対者。

つまりDHCとは、平和と真実と友愛と民主主義に敵対し、消費者をダマシ、労働者の人格を貶め、法令遵守の精神に欠けた反社会的企業である。

とりわけ、「DHC現役社員が告発 #2」の、「DHC会長が全社員に口コミサイトへ“サクラ投稿”奨励」「ゴールド社員の称号を与える」《消費者庁は「非常にグレー」》は、貴重で有益な記事だ。この会社のステマ(ステルスマーケティング)の悪質ぶりは本当にひどい。

結局DHCは、消費者を欺して商品を売り付けてきたのだ。欺されてきたDHC製品の購買者よ、怒らねばならない。消費者からのDHCに対する制裁がどうしても必要である。もう、金輪際、DHC製品を購入するのはやめようではないか。

この社会の一隅に、こういう非道で独善的な組織が存在している現実に戦慄せざるを得ない。これ、ひとえにオーナー吉田嘉明の罪業である。なにゆえ、こんな企業がこの現代の日本に存在しうるのだろうか。労働運動も、労働行政も、消費者運動も、消費者行政も、厚生行政も、市場原理も、なにゆえかくも無力なのだろうか。

安倍晋三をのさばらせたのは、山口4区(下関・長門)の有権者だけではない。私を含む日本国民だ。DHC・吉田嘉明を好き放題に増長させたのも、DHC製品購入者だけの責任ではない。メディアにも行政にも大きな責任がある。そして私自身を含む社会の無関心や不正への寛容がもたらしたものと言うべきであろう。DHCという存在は、この社会の歪みから生じているのだ。

DHCのこれからの消長は、日本国民の良識の水準を示すものになるだろう。

安倍晋三よ、もう悪あがきは止めて野党の4項目要求に誠実に応えよ。

(2020年12月29日)
報道によれば、野党4党でつくる「総理主催『桜を見る会』追及本部」は、昨日(12月28日)「桜を見る会」前夜祭疑惑の真相を解明するために、安倍晋三に対して、
(1) ホテルが発行した明細書を提出せよ
(2) 同領収書を提出せよ
(3) 安倍晋三が答弁を訂正したいとする事実と異なる箇所はどこか明確にせよ
(4) ホテルへの支出に見合う費用補てんの原資を明らかにせよ
という4項目の要求書を提出した。回答期限は1月初旬までである。同要求書は、衆参の議院運営委員長にも提出された。

国会内で記者会見した追及本部の黒岩宇洋事務局長(立憲民主党・衆院議員)は、12月25日衆参両院の議院運営委員会で行われた安倍晋三(前首相)への聴取の答弁で、「疑念は晴れるどころか、さらに深まった」「安倍前首相が発言を訂正したいとしている箇所すら具体的にわからない」と指摘。「安倍氏がしらを切るのなら、証人喚問しなければならない」と批判した。

田村智子追求本部事務局長代行(日本共産党・参院議員)は、「要求する4点は、疑惑の焦点である『桜』前夜祭が供応接待にあたるのではないかという核心部分のものだ。安倍氏は資料を示し、まともな説明をすべきだ」と強調。

また、日本共産党の宮本徹衆院議員は、「領収書が出てくれば宛先がわかり、(安倍前首相の資金管理団体である)晋和会の政治資金収支報告書が虚偽記載かどうかがわかる」と述べた。

また、4野党は、真相解明に向け、年明けの通常国会でも追及を続ける方針を明確にしている。

政治資金規正法の主たる立法趣旨は、以下のとおり政治資金の流れの透明化にある。
「議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開…の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もって民主政治の健全な発達に寄与することである(規正法1条より)。」

安倍晋三による国政の私物化、安倍晋三による「カネで政治を買い取ろうという汚い行為」の有無を監視するために、安倍晋三がどこから金を調達し、誰にどのように支払っているか、その資金の流れの透明化の確保を、法は要求しているのだ。

主権者国民は、常にこの透明化された政治資金の収支に関心を寄せて、監視し批判の対象としなければならない。

そのためには、
(1) ホテルが発行した明細書を提出せよ
(2) 同領収書を提出せよ
の2項目はあまりに当然の最低限の要求である。なお、1件当たり5万円以上の領収書等は、提出を義務付けられている書類でもある。

(4) ホテルへの支出に見合う費用補てんの原資を明らかにせよ
も同様である。今に至るも、いったい何を隠そうとしているのか。

(3) 安倍晋三が答弁を訂正したいとする事実と異なる箇所はどこか明確にせよ
は、少し趣が異なる。これは、安倍晋三特有の「ご飯論法」による答弁の不明確さ故の釈明要求である。

田村智子のいう「要求する4点は、疑惑の焦点である『桜』前夜祭が供応接待にあたるのではないかという核心部分のものだ」は、まことにそのとおりであろう。

買収・供応等の「カネで政治をねじ曲げる」実質犯を防ぐために、形式犯としての政治資金の透明化が求められているのだ。倫理にも法規制にも反する透明化要求拒否の姿勢は、当然に買収・供応等の「カネで政治をねじ曲げる」実質犯の存在を疑わしめるものと指摘せざるをえない。

安倍晋三の疑惑の追及は、ようやく本格的に始まった。まずは、4項目の要求に対する態度の誠実さを見極めようではないか。

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