澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

DHC・吉田嘉明との法廷闘争は私の完勝で確定した。しかし、闘いはまだ終わらない。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第179弾

(2021年1月15日)

本日午後、最高裁(第1小法廷)から、私(澤藤)宛の特別送達を受領した。内容は下記のとおり、DHC・吉田嘉明の私に対する上告を棄却し、上告受理申立を不受理とする決定。これで、私はDHC・吉田嘉明に対して、裁判6連勝である。6年9か月に及ぶDHC・吉田嘉明と私との法廷闘争は、最終決着がついた。これ以上はない私の完勝である。つまりは、これ以下はないDHC・吉田嘉明の完敗という決着なのだ。

調     書  (決定)

事件の表示  令和2年(オ)第995号
       令和2年(受)第1245号
決 定 日  令和3年1月14日
裁 判 所  最高裁判所第一小法廷
裁判長裁判官 山口 厚
   裁判官 池上政幸
   裁判官 小池 裕
   裁判官 木澤克之
   裁判官 深山卓也

当事者等   別紙当事者目録記載のとおり
原判決の表示 東京高等裁判所令和元年(ネ)第4710号,
       同2年(ネ)第134号(令和2年3月18日判決)

裁判官全員一致の意見で,次のとおり決定。
第1 主文
 1 本件上告を棄却する。
 2 本件を上告審として受理しない。
 3 上告費用及び中立費用は上告人兼申立人らの負担とする。
第2 理由
 1 上告について
   民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ,本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって,明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
 2 上告受理申立てについて
   本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。

        令和3年1月14日
最高裁判所第一小法廷
裁判所書記官 長谷川和秀 印

当事者目録

上告人兼申立人      吉田嘉明
上告人兼申立人       株式会社ディーエイチシー
同代表者代表取締役    高橋芳枝
上記両名訴訟代理人弁護士 今村 憲
被上告人兼相手方     澤藤統一郎

**************************************************************************

DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として、無礼かつ無謀極まるスラップ訴訟を敢えて提起したのは、2014年4月のこと。訴状の日付は同月16日となっている。このスラップ常習企業の代理人弁護士の名を特に記しておきたい。今村憲(第二東京弁護士会)という。彼が、法律専門職の立場において、また弁護士の職業倫理の観点から、依頼者であるDHC・吉田嘉明に対して「勝ち目はないから提訴はおやめなさい」「この提訴は違法と認定されて、あなたに損害賠償責任が生じる恐れがありますよ」と、アドバイスした形跡はない。漫然と素人であるスラップ常習の依頼者に違法提訴を行わせ、損害賠償責任を負担させるに至ったこの弁護士の責任は決して軽いものではない。

この典型的なスラップ訴訟の訴状が私に届いたのが2014年5月16日である。私のブログの3本の記事を、DHC・吉田嘉明に対する名誉毀損に当たるとして、記事の削除と謝罪文の掲載を求めるとともに、2000万円の慰謝料を支払えという過大な請求であった。

こうして、DHC・吉田嘉明と私との法廷での熾烈な争いが始まった。この提訴の目的は、明らかに私に対する恫喝であった。「DHC・吉田嘉明の批判をするな」「黙れ」と、高額請求訴訟がメッセージを発していた。私だけでなく、広く社会に「DHC・吉田嘉明を批判すると、面倒なことになるぞ」「だから、そういう批判はやめておくのが賢い」と思わせることを狙っての提訴でもあった。

私は、弁護士として決してこの恫喝に屈してはならないと、自分に言い聞かせた。そして、猛然と当ブログに《「DHCスラップ訴訟」を許さない》シリーズを書き始めた。そしたらどうだ。慰謝料請求額は、2000万円から6000万円に跳ね上がった。どう見ても、スラップを自白した請求拡張ではないか。

その後、当然のことながら、東京地裁一審判決は、DHC・吉田嘉明の請求を全部棄却した。これを不服としてDHC・吉田嘉明は何の成算もないまま東京高裁に控訴したが1回結審で控訴棄却の判決となり、さらに最高裁に上告受理申立をして不受理の決定となった。DHC・吉田嘉明の3連敗である。全て今村憲が代理人となっていた。

こうして、DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として訴えた「DHCスラップ訴訟」はDHC・吉田嘉明側の完敗で終わった。しかし、DHC・吉田嘉明にも代理人にも、敗訴するような訴訟を提起したことを謝罪する姿勢は毫もなかった。こうして、DHC・吉田嘉明も代理人も、スラップ訴訟の所期の目的は幾分なりとも果たしたのだ。DHC・吉田嘉明を批判すると面倒なことになるという社会に蔓延した通念は、払拭されないまま残ったことになる。

そこで私は、DHC・吉田嘉明によるスラップ提訴そのもの違法の確認が不可欠と考えた。こうして、第2ラウンドが始まることになる。DHC・吉田嘉明に違法な提訴を理由とする損害を賠償せよと通知をしたところ、DHC・吉田嘉明から私を被告とする債務不存在確認請求訴訟の提起があった。信じがたいことに、DHC・吉田嘉明の方から、飛んで火に入ってきたのだ。これを受けて立って、損害賠償請求の反訴を提起し、この反訴を「反撃訴訟」と名付けた。

言うまでもないことだが、スラップ訴訟から身を守って請求棄却判決を得ることと、スラップを違法とする反撃訴訟で、損害賠償判決を勝ち取ることとの間には、その困難さにおいて大きな落差がある。私の弁護団は、表現の自由の顕現のために、この課題に挑戦し、みごとな判決を勝ち取った。

この反撃訴訟での東京地裁一審の判決の認容額は110万円であった。これに双方が控訴しての東京高裁判決が165万円の認容額となった。昨年(2020年)3月18日のことである。これで、裁判は私の5連勝となった。

この判決を不服として、DHC・吉田嘉明から上告・上告受理申立があって、最高裁(一小)への記録到着が同年9月14日。それからちょうど4か月を経て、昨日の棄却・不受理決定となった。これで6連勝。この結論に最高裁がいささかの迷いも見せた形跡はない。

こうして、2014年4月のDHC・吉田嘉明によるスラップ提訴の違法が確定した。私は、スラップ常習企業DHCとそのオーナーである吉田嘉明の、表現の自由を蹂躙しようという姿勢を罪深いものと思う。のみならず、DHC・吉田嘉明はその右翼的体質からデマ・ヘイトを繰り返し、消費者に対する欺しやブラック企業としての体質も露わにしている。DHCは、民主主義社会の異物である。その治療が必要なのだ。

この6年余の間に、当ブログではおよそ200回、DHCの問題を抉り訴え続け、DHC製品の不買を呼びかけてきた。

https://article9.jp/wordpress/?cat=12

そして、反撃訴訟判決の1・2審の判決理由は、この種訴訟のリーディングケースたりうるものとなった。その意味では、DHC・吉田嘉明の愚行に向き合って、厖大な時間と労力を注ぎ込んだことが、決して無駄ではなかったと胸を張ることができる。同時に、献身的に訴訟を追行して立派な判決を勝ち取った、光前幸一団長を先頭とする弁護団の皆様に敬意と感謝の意を表する。

法廷での争いは、これで終わる。しかし、私はなお、このブログでDHC製品の不買を訴え続ける。DHCと吉田嘉明の体質が、真っ当なものへと変容するに至るその日まで。

「本郷・湯島九条の会」の街頭宣伝行動で。

(2021年1月14日)
一昨日(1月12日)お昼休み時間の「本郷・湯島九条の会」月例街宣行動について、報告しておきたい。

この日はあいにくの霙まじりの冷雨の日、しかも2度目の緊急事態宣言が出たばかり。常連の何人かがお休みをされた。活動参加者は、これまでにない少数の9名。

それでも、賑々しい手作りプラスターは十分に人目を惹いた。
「会食パーティ閉めて、国会開け」
「ダンマリスガ首相「お答えを差し控える」111回」
「それは当たらない。壊れたレコード。棒読み。支離滅裂。答弁不能
「学術会議は軍事研究のご意見番、任命拒否は許さない」
「保健所の増設・拡充を」
「選挙に行こう。冷たい自助の人はいらない」

いつも、トップにマイクを握るのは、地域の活動家・石井彰さん、本郷3丁目の株式会社国際書院という出版社の社長さんである。仲間内では「社長」と呼ばれている方。「社長」はコロナ禍を気遣うお話しから、今年が憲法公布75年になることを述べて、何よりも平和が大切であり、この長期間の平和を守った「平和憲法」の擁護を呼びかけた。そして、今年は総選挙と都議会議員選挙の年、憲法を守り生かす政治勢力を大きくしようと、滑舌のよいハリのある声で訴えられた。

その演説の中で、「私ももうすぐ80に手が届く歳に」と聞かされて驚いた。そんなお歳にはとても見えない。「だから、子や孫に平和な時代を残したい」とおっしゃる、その心意気が若さの秘訣であろうか。そして、もう一つ、「月に一度の活動を始めて、既に8年になります」と言う。ウーン、そんなにもなるか。この間、行動を中止にしたのは、台風に見舞われたたった一度だけ。

事後に、石井さんから、みんなにメールがきた。

「9名の方々が参集し演説の途中から小雪がちらつく新年初の昼街宣になりました。
コロナのせいか人影は多くありませんでしたが、それでも参加者はそれぞれプラスターを持ち、マイクはコロナ災厄は菅義偉政権による人災だと訴えました。さらに都立・公社病院の「独法化」を進める東京都は、この期に及んでなお都立病院独法化推進をやめようとはせず、1月都議会では独法化へ向けての定款採択を狙っていることを糾弾しました。そして国家は国民によって成立し、政府は選挙で国民によって選ばれた議員によってつくられている、国民一人ひとりの声、行動によって新しい私たちの政府をつくることができる、このことを力強く訴えました。

わたしたちの訴えにじっと聴き入っていた白髪のご婦人の方がおられ、聴き終わると、小さく頭を下げて信号を渡って行きました。こうしたお一人おひとりの力こそが歴史を変えていくことに確信を持ちました。

今年こそ、本当に憲法を護り活かす、わたしたちの政府をつくる明るい記念すべき年にしようではありませんか。

街宣をやっていると、何かしらの反応に出会う。じっと訴えを聞いてくれるありがたい方もいるが、何かしらの悪罵を投げつける「ヘンな人」もいる。また、ヘンなのかヘンではないのか、よく分からない人もいる。

先月の訴えのとき、突然に話しかけてきた初老の男性がいた。ヘンな感じではなく、とても落ちついた雰囲気の人。「あなた方は、9条だけを守ろうとお考えなのですか」と聞いてきたのだ。
「日本国憲法は平和憲法です。9条が大切なのはもちろんですが、前文を含む憲法の全条文が平和のための歯止めですから、憲法の全体を守ろうというのが9条の会のメンバーの考え方だと思います」

「ということは、天皇の存在も認めるということですね」。ああ、そうか。そういう人なのか。
「私たちは政党ではありませんから、みな思想が同じということではありません。天皇制についての考え方もいろいろです。私個人としては、常々あんなものはないに越したことはないと考えています。」

「でも、憲法には天皇の存在が書き込まれていますね。憲法を改正しようということですか」
「将来の課題としては憲法から天皇制をなくしたいところです。でも、そのことは今危急の課題ではない。いまはむしろ、天皇の元首化や天皇の権威を高めるためのあらゆる方策を阻止することが大切だと考えています」

「どうしてそんなに、天皇制を否定するのですか。理解できませんね」
「天皇は人間平等の対立物でしょう。あらゆる差別の根源ですよ。そして、国民を見下す権威として主権者の自立を損なう。為政者にとっては国民を操作するための便利な魔法の杖で、かつての戦争に天皇は徹底して利用されたではないですか。また、同じことがおきかねない。」

「驚きました。天皇があって日本がまとまっているのでありませんか」
「天皇なければ国民がまとまれないなんていうのは、国民をバカにした話。天皇を中心とした国民のまとまりなんて、まっぴらご免ですね」

「あなた方、市民と野党の共闘で新しい政府をと言ってましたね。天皇に対する考えがこんなに違うのでは、野党の共闘なんてできっこないでしょう」
「そんなことはないでしょう。共闘とは、思想を統一することではありません。天皇制についての考え方を統一しなければ、当面の共同の行動ができないわけではない。もっと大事なことでの意見の一致があればよい」

「憲法を守ろうというのなら、天皇制も守ってもらわなければ…」
「天皇制なんて、憲法の隅っこですよ。天皇の存在感を限りなく希薄にして、もっと大事な人権や民主主義や平和をこそ守らなければ…」

公権力は「正統」を強要してはならない。民主主義には「異論」こそが死活的に重要なのだ。

(2021年1月13日)
「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」(ティモシー・ジック著 田島泰彦監訳 日本評論社2020.09.30)という翻訳書を読んでいる。決して読みやすい本ではないが、紹介に値すると思う。

この本、原題は『THE FIRST AMENDMENT IN THE TRUMP ERA』、直訳すれば「トランプ時代における修正第1条」である。これを意訳した「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」という邦題の付け方はみごとである。

アメリカ合衆国憲法の修正第1条は、以下のとおり。

「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

ここに記載されているのは、政教分離原則、言論(Speech)・出版(Press)・集会の自由、そして請願権である。この書では、言論(Speech)・出版(Press)の自由に焦点を当てて、トランプという人物による、候補者時代からのアメリカの「プレスの自由」に対する挑戦と、「組織プレスとの戦争」よる大きな負の遺産を描いた。興味を惹くのは、この書は、トランプの負の遺産を、「異論排除」という視点で、詳細に論じていることである。

「修正第1条」の核心的価値は「反正統性原理」であるという。これは、バーネット判決を引用して次のように定式化されている。

 「我々の憲法という星座において動かぬ恒星があるとすれば、その恒星とは、地位の高低にかかわらず、いかなる役人も政治、ナショナリズム、宗教やその他の理念に関する事柄に関して、何が正統なものであるべきかを命ずることはできないということである。」

つまり、公権力は何が正統かを決めることはできない。政治・宗教・愛国心等々について特定の立場を正統として強要してはならない。にもかかわらず、権力者は「正統」を強制しようとする衝動を払拭し得ない。とりわけトランプの時代には、国旗の焼却や国歌演奏時の敬礼、忠誠の誓いにかかわる論争を中心として、大統領が国民に正統を強制した。たとえば、次のように。

トランプ時代の修正一条への挑戦では、人々の異論が攻撃され、公式の正統性や服従が強要されてきた。かくして、アメリカ合衆国国旗を焼却した個人は投獄され、合衆国の市民権を失うべきだとトランプ大統領は提案した。これは、国旗の焼却を保護する修正一条のあからさまな侵害となる制裁だろう。
 トランプ大統領はまた、広く知られているようにナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の選手たちと熾烈な争いをしてきた。警察による虐待と考えているものに抗議するため、選手たちは国歌演奏のあいだ静かにひざまずいたからである。大統領はこうした異論者を不忠で愛国的でないと言った。確かに、国歌が演奏されるときすべてのアメリカ人は、できれば胸に手を添え気をつけの姿勢をとるべきだと、大統領は自ら考えていることを明らかにした。トランプ大統領はNFLチームのオーナーに対して、国歌演奏中うやうやしく起立しなかった選手を解雇ないし罰金を科すよう勧めた。
試合前のセレモニーのあいだどんな形の抗議をも認めてしまったという理由で、大統領はNFLを公然と非難した。かくして、トランプ大統領は、そのような抗議が続いている場合には反トラスト法上のNFLの免除が「調査される」べきだと提案してきた。この声明が出て間もなく、驚くべきことではないが、NFLはその抗議方針の変更を発表した。

 「正統」の対語が「異論」である。異論とは「既存の風習や習慣、伝統、制度、権威を批判する言論」のこと。民主主義にとって、異論こそが死活的に重要な存在とされる。修正1条がこの異論を保護していることはもちろんだが、本書は、異論に対して憲法上の保護があるだけでは不十分であるという。よく機能する民主主義は、異論を促進し、異論を尊重する文化をもっていなければならない。トランプの時代、欠けていたものはまさしく異論尊重の文化であった。トランプの異論の封じ込めは、法律や規制ではなく、主として社会的な攻撃として行われた。

本書における、愛国心や、国旗・国歌への忠誠などという正統の押しつけを排除するための異論の保障の徹底ぶりは、次のようにラジカルでさえある。

「国家は国旗の焼却を処罰することができない。もしアメリカが自由な言論を象徴し、自由な言論が異論を象徴するのであれば、国旗は異論を象徴する。国旗を焼却した者を処罰することは、この観点からはアメリカの意味と矛盾することになる」

「アメリカ」と「言論の自由」とはお互いを象徴する関係にあり、「言論の自由」とは「異論の尊重」にほかならない。つまり、「アメリカ=異論」と言ってよいのだ。国旗焼却者を処罰することは、正統に反する「異論」を排除することで、「アメリカ」の存在意義を否定することになるというのだ。

訳者もあとがきで述べているが、異論排除はトランプ政権だけの、あるいはアメリカだけの特殊な現象ではない。我が国においても、特定の国家観を正統とする価値観の強制や、その裏返しとしての異論排除が広範囲に横行している。しかも、我が国においては、正統への服従を求める社会的同調圧力は格段に強い。しかも、学術会議の任命拒否という、これまでにない露骨な権力的異論排除も顕在化している。とうてい、海の向こうの他人事ではない。

**************************************************************************

「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」(日本評論社2020.09.30)
ティモシー・ジック著 田島泰彦監訳 森口千弘 望月穂貴 清水潤 城野一憲訳
定価:税込 2,640円(本体価格 2,400円)

仏教者としての信念から、死刑執行をしなかった法務大臣がいた。

(2021年1月12日)
左藤恵さんが亡くなった。享年96と報じられている。保守の政治家ではあったが、私にとっては気になる人だった。

この人、もとは郵政官僚だったが、1969年に中選挙区時代の旧大阪6区から自民党公認で立候補して当選。以来10期連続して当選を続けた。地盤が、私に土地勘のある天王寺・阿倍野・住吉という大阪市南部であったことから、手強い保守陣営の敵という思い込みだった。が、この人が法務大臣となって印象が変わった。

周知のとおり法務大臣は死刑執行を命じる。法務大臣の執行命令なしには、死刑執行はない。ところが、この人は真宗大谷派の僧侶でもあった。仏の戒め給ふ殺生戒という戒律を守るべき宗教者なのだ。山川草木悉皆仏性、この世に生を受けたもの全ての命は尊ばれるべきが当然で、その命を奪ってはならない。ましてや死刑という名の殺人は、仏教者としての戒律に反する。

言わば、ここに義務の衝突が生じた。法務大臣としての職務上の死刑執行義務と、自らが信じる宗教的信念が命じる不殺生の戒律との葛藤である。

この人が、第2次海部改造内閣で法相を務めたのが、1990年12月?91年11月のおよそ1年間。その在任期間中に死刑執行命令書への署名をせず、この間死刑は行われなかった。「人が人の命を絶つことは許されない」との宗教的信念によるものと報じられていた。

「そのような信念を持つ者に、法務大臣の任はふさわしくない。辞令を受けるべきではなかった」という意見は、当然にあるだろう。しかし、この人は死刑制度存続の是非を問いたいと、問題提起の意図をもって敢えて法務大臣職を拝命したのだ。そして、自らの宗教的信念を貫いた。

この人の信仰を理由とする死刑不執行は、神戸高専剣道実技拒否事件を想起させる。エホバの証人信者であった高専生は、宗教上の信念から剣道実技の授業を拒否し、遂には退学処分となった。最高裁は、真摯な宗教的動機による剣道実技授業の拒否を理由とする退学処分を違法と判断した。一定の条件あることは当然として、信仰の自由という人格的利益を擁護した。

また、この法務大臣の信仰を理由とする死刑不執行は、ピアノ伴奏命令拒否事件を想起させる。戦前の歴史において、軍国主義教育に「日の丸・君が代」が果たした役割に鑑み、自分の思想と良心に懸けて「君が代」伴奏はできないとした音楽科教員がいた。この思想・良心に基づいた君が代斉唱の伴奏命令拒否を理由とする戒告処分の違憲・違法が争われた事件で、この教員は敗訴している。これは、大きな憲法課題である。

思想・良心・信仰を理由とする義務不履行の制裁を甘受せざるを得ない立場の者には、かつて、宗教上の信念からその期間中死刑不執行を貫いた法務大臣がいたことを心に留めておきたい。

左藤恵は、法務大臣退任後は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を務めるなどして、死刑廃止を訴えた。政界引退後は、大阪弁護士会に登録した弁護士だったが、年が明けた1月9日、慢性心不全のため逝去。合掌。

最新世論調査にみる、民意の菅政権離れ。

(2021年1月11日)
一朝有事の際には、一国の政治的指導者の求心力が格段に強まる。典型的には戦時の国民が、強力なリーダーシップを求めるからだ。指導者と国民とは、一丸とならなければ敗戦の憂き目をみることになるという共通の心理のもと、蜜月の関係となる。

戦時に限らず、災害の克服が一国の重要課題となるとき、同じことが起きる。無用な足の引っ張り合いや内部抗争はやめて、政府と国民一体となって効率的に課題を克服しなければならないとする圧力が生じる。こういうときの政府批判者や非協力者は、「非国民」と非難される。

だから、戦時も有事も自然災害も、為政者にとっては、権力拡大のチャンスとしてほくそ笑むべき事態である。新型コロナ蔓延も、その恰好のチャンス。安倍晋三の国政私物化政権を見限った国民の支持を再構築するために、なんと美味しいお膳立て。そう、菅義偉はほくそ笑んだに違いない。実際、台湾やニュージーランドを筆頭に、多くの国の有能な指導者が政治的求心力の高揚に成功している。

ところが、どうだ。菅義偉、このチャンスを生かせていない。いや、こんなチャンスに大きな失敗をやらかしている。政治指導者にとっての「チャンス」は、実は国民にとっては、生きるか死ぬか、生活や生業を継続できるか否かの切実な瀬戸際である。リーダーの舵取りの失敗は、厳しい批判とならざるを得ない。

最新(1月9・10日調査)のJNN(TBS系)世論調査において、「内閣支持と不支持が逆転 コロナ対応で軒並み厳しい評価」との結論が出た。菅内閣、政権支持率を浮揚して、求心力高揚のチャンスに大失態である。この政権の前途は多難だ。国民からの強い批判がもう始まっている。

 菅内閣の支持率は先月より14.3ポイント下落して41.0%となり、支持と不支持が逆転しました。政府の新型コロナ対応にも厳しい評価が出ています。

 菅内閣を支持できるという人は、先月の調査結果より14.3ポイント減って41.0%でした。一方、支持できないという人は14.8ポイント増加し55.9%と、支持と不支持が初めて逆転しました。

 新型コロナウイルスの感染防止に向けた政府のこれまでの取り組みについて聞いたところ「評価しない」が63%と、「評価する」を上回っています。

 政府が1都3県に緊急事態宣言を出したことについて聞きました。
 宣言発表を「評価する」人は65%、「評価しない」人は30%でしたが、タイミングについて尋ねたところ、「遅すぎる」が83%に達しました。

 新型コロナ特措法の改正について聞きました。
 飲食店などが時短要請に応じない場合に罰則を設けることの是非を尋ねたところ、「賛成」は35%、「反対」は55%でした。

 今年夏に予定される東京オリンピック・パラリンピックについて、「開催できると思う」と答えた人は13%、「開催できると思わない」と答えた人は81%でした。

 「桜を見る会」の前夜祭をめぐる事件で、これまでの安倍前総理の説明に「納得できる」と答えた人は12%にとどまり、「納得できない」が80%にのぼりました。

最後の3問が興味深い。コロナの蔓延を押さえ込むために特措法の緊急事態宣言に罰則を盛り込むことは、憲法を改正して政権の恣意を許す緊急事態条項創設への地ならしにほかならない。油断はできないが、反対世論が過半数であることに安堵の思いである。

東京五輪について「開催できると思わない」が81%(!)。これは、衝撃の数字だ。「金食い虫の五輪は早々とやめて、コロナ対策に専念せよ」が世論なのだ。政権がこれを軽視すると、取り返しのつかないことになる。

そして、世論は安倍晋三の旧悪について手厳しい。安倍晋三の「桜・前夜祭」のカネの流れについての認識如何は「総理の犯罪」の成否に関わる。その説明「納得できない」が80%(!)。これまた、世論の健全さを物語っている。なお、共同通信の同時期の調査も、ほぼ同じ傾向となっている。

衆院解散・総選挙の日程を間近にした今の時期、コロナの渦中でのアベ・スガ政権への国民の審判の厳しさは想像以上である。

日本政府は慰安婦訴訟判決控訴審を受けて立ち、被害者と事件に向き合うべきである。

(2021年1月10日)
衝撃的な一昨日(1月8日)のソウル中央地裁慰安婦訴訟判決。その判決文の全訳が読みたいものと思っているが、まだ入手できていない。同地裁は、判決言い渡しと同時に判決の要旨を記載した「報道資料」(4頁)をメディアに配布している。各紙は、これをもとに報道したようだが、その信頼に足りる全訳を昨日(1月9日)読売が配信した。これを引用させていただく。読売の判決評価の姿勢はともかく、この判決要約の全訳配信はジャーナリズムとして立派なものだ。

これを一読、さすがに良くできた判決理由である。焦点は「主権免除」適用の是非だが、例外的に適用はないとした理由について説得力は十分だと思う。「日本の国家が非道徳的な加害行為を組織的に行った」と一国の裁判所が認定して、仮に、このような場合にまで主権免除を認めれば、「(日本に)人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない」と、指摘して被害者救済の判決を言い渡したのだ。

その理由(要旨)の中で、こうまで述べられている。

 「被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。

 主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。」

この指摘に対して逃げているだけでは解決しない。日本国政府は、控訴審を受けて立つべきだろう。主張は、そこで尽くせばよい。そして、重ねて言いたい。65年日韓請求権協定も、2015年慰安婦問題日韓合意も、その文言如何にかかわらず、対日個人請求権消滅の理由にはなりようがないのだ。それは、被害者個人を抜きにした国家間合意の限界と知るべきなのだ。日本政府は、旧天皇制日本帝国が犯した犯罪の被害者個人に直接謝罪し賠償しなければならない。国家無答責や主権免除で問題をはぐらかそうという姿勢が、真の解決を妨げているのだ。この訴訟の控訴審は、日本政府が被害者と向き合う、絶好の機会ではないか。

なお、「主権免除」については、朝日がこう報道している。朝日らしく客観的で分かり易い。

 日本政府は訴状を受け取らないなど一貫して裁判への参加を拒否する一方で、外交当局間では韓国側に対し、主権免除を理由に訴訟の不当性を訴えてきた。裁判で焦点になったのも主権免除の適否だった。

 戦争や統治で生じた被害への賠償と主権免除をめぐり、地裁が注目したのは、イタリアの判例だった。第2次大戦末期にナチスドイツに捕らえられ、ドイツで強制労働を強いられたとするイタリア人男性がドイツに賠償を求めた訴訟だ。

 04年にイタリア最高裁は「訴えられた行為が国際犯罪であれば主権免除は適用されない」とドイツに賠償を命じた。ドイツの提訴を受けた国際司法裁判所(ICJ)は12年、「当時のナチスドイツの行為は国際法上の犯罪だが、主権免除は?奪(はくだつ)されない」とした。

 地裁はICJ判決を検討しつつも、慰安婦制度について、
?逸脱が許されない国際法の強行規範に違反する反人道的な犯罪
?現場は日本が不法占領する朝鮮半島だった、
などの理由を挙げて例外的に韓国が裁判権を行使できると判断した。

 その上で、「主権免除は主権国家を尊重し、みだりに他国の裁判権に服従しないようにするためのもので、強行規範に違反して他国の個人に大きな損害を与えた国に賠償逃れの機会を与えるためのものではない」として、日本政府に主権免除を認めなかった。また、主権免除の考え方は「恒久的ではなく、国際秩序の変動に応じて修正される」とも言及した。

 国際法に詳しい名古屋大大学院の水島朋則教授によると、主権免除の原則は、戦時行為などにおける賠償の問題は政府間で解決すべきだとの考えから、国際法として広まった。主権免除を認めなかったのはイタリアの判例など数例で、一般的ではないという。ただ、主権免除は不変の原則とも言えず、新しい判例が重なると、変化していく可能性もあるという。

**************************************************************************

「報道資料」読売新聞訳

■主文
原告の請求をすべて認め、被告・日本国に対し、原告に1億ウォンずつを支払えとの判決を宣告する。

■主権免除の是非
主権免除は、国内の裁判所は外国国家に対する訴訟について裁判権を持たない、とする国際慣習法だ。19世紀後半からは、例外事由を認める相対的主権免除の理論が台頭した。

我が国の大法院(最高裁)の判決によっても、外国の私法的行為については、裁判権の行使が外国の主権的活動への不当な干渉となる懸念があるなど特別な事情がない限り、当該国家を被告として我が国の裁判所が裁判権を行使することができる。しかし、本事件の行為は、私法的行為ではなく主権的行為だ。

国際司法裁判所は2012年2月3日、ドイツとイタリアの事件で、「主権免除に関する国際慣習法は、武力衝突の状況における国家の武装兵力及び関連機関による個人の生命、健康、財産の侵害に関する民事訴訟手続きにも適用される」との趣旨の判決を宣告したことがある。

しかし、本事件の行為は、日本帝国による計画的・組織的で広範囲な反人道的犯罪行為として、国際強行規範に違反するものであり、当時日本帝国によって不法占領中だった朝鮮半島内で、我が国民である原告に対して行われたものとして、たとえ本事件の行為が国家の主権的行為だとしても、主権免除を適用することはできず、例外的に大韓民国の裁判所に被告に対する裁判権がある。

その根拠として、韓国憲法、国連の世界人権宣言でも、裁判を受ける権利をうたっている。権利救済の実効性が保障されなければ、憲法上の裁判請求権を空文化させることになる。裁判を受ける権利は、ほかの実体的な基本権とともに十分に保護・保障されるべき基本権だ。

主権免除は、手続き的要件に関するものではあるが、手続き法が不十分なことによって実体法上の権利や秩序が形骸化したり歪(ゆが)められたりしてはならない。

主権免除の理論は、恒久的で固定的な価値ではなく、国際秩序の変動によって修正され続けている。

1969年に締結された条約法条約53条によると、国際法規にも上位規範たる「絶対規範」と下位規範との間に区別があり、下位規範は絶対規範を外れてはならないと言える。この絶対規範の例として、国連国際法委員会の2001年の「国際違法行為に関する国家責任協約草案」の解説で挙げられた奴隷制及び奴隷貿易禁止などを挙げることができる。

被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙(じゅうりん)された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪(はくだつ)され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。「慰安婦」被害者たちは日本、米国などの裁判所に何度も民事訴訟を提起したが、すべて棄却・却下された。(日韓)請求権協定と2015年の慰安婦合意もまた、被害を受けた個人に対する賠償を含むことはできなかった。交渉力、政治的な権力を持ち得ない個人に過ぎない原告としては、本事件の訴訟以外に具体的な損害賠償を受ける方法がない。

主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。

■国際裁判管轄権の有無
不法行為の一部が朝鮮半島内で行われ、原告が大韓民国の国民として現在韓国に居住している点、物的証拠は大部分が消失し、基礎的な証拠資料は大部分が収集されており、日本での現地調査が必ずしも必要ではない点、国際裁判管轄権は排他的なものではなく併存可能である点などに照らすと、大韓民国は本事件の当事者及び紛争となった事案と実質的な関連性があると言え、大韓民国の裁判所は本事件について国際裁判管轄権を有する。

■損害賠償責任の発生
日本帝国は、侵略戦争の遂行過程で軍人の士気高揚や効率的な統率のため、いわゆる「慰安婦」を管理する方法を考案し、これを制度化して法令を整備し、軍と国家機関が組織的に計画を立て、人員を動員・確保し、歴史上前例を見いだしがたい「慰安所」を運営した。10代から20代の、未成年または成年になったばかりの原告らは、「慰安婦」として動員された後、日本帝国の組織的で直接・間接的な統制の下、強制的に、1日何十回も、日本の軍人たちの性的行為の対象となった。原告らは、過酷な性行為による傷害、性病、望まぬ妊娠などを甘受しなければならず、常時、暴力にさらされ、まともに衣食住を保障されなかった。原告らは最小限の自由も制圧され、監視下で生活した。終戦後も、「慰安婦」だったという前歴は被害を受けた当事者にとって不名誉な記憶として残り、精神的に大きな傷となり、これによって原告らは社会に適応するのに困難を抱えた。

これは、当時日本帝国が批准した条約および国際法規に違反するだけでなく、第2次世界大戦後、東京裁判で処罰することとした「人道に対する罪」に該当する。

従って、本事件の行為は、反人道的な不法行為に該当し、被告は、これにより原告が負った精神的な苦痛に対して賠償する義務がある。被告が支給しなければならない慰謝料は少なくとも1億ウォン以上とみるのが妥当である。ただし、原告が1人あたり1億ウォンを請求しているため、それを超える部分については判断しない。

■損害賠償請求権の消滅の是非
原告の損害賠償請求権は、(日韓)請求権協定や、2015年の慰安婦合意の適用対象に含まれておらず、請求権が消滅したと言うことはできない。

権力者は軽々に「象を撃っ」てはならない。民衆は撃たせてはならない。

(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c

「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。

銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、

 「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」

 こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。

 「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」

 トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。

トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。

「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」

もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。

「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」

《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。

《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。

さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。

ソウル中央地裁慰安婦判決 ー 被害者と向き合う好機にせよ

(2021年1月8日)
「韓国裁判所が慰安婦被害者勝訴判決…『計画的、組織的…国際強行規範を違反』」こういうタイトルで、韓国メディア・中央日報(日本語版)が、以下のとおり伝えている。

旧日本軍慰安婦被害者が日本政府を相手に損害賠償訴訟を提起し、1審で勝訴した。日本側の慰謝料支払い拒否で2016年にこの事件が法廷に持ち込まれてから5年ぶりに出てきた裁判所の判断だ。

ソウル中央地裁は8日、故ペ・チュンヒさんら慰安婦被害者12人が日本政府を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告1人あたり1億ウォン(約948万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を出した。

裁判所は「この事件の行為は合法的と見なしがたく、計画的、組織的に行われた反人道的行為で、国際強行規範に違反した」とし「特別な制限がない限り『国家免除』は適用されない」と明らかにした。

また「各種資料と弁論の趣旨を総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい深刻な精神的、肉体的苦痛に苦しんだとみられる」とし「被告から国際的な謝罪を受けられず、慰謝料は原告が請求した1億ウォン以上と見るのが妥当」とした。

さらに「この事件で被告は直接主張していないが、1965年の韓日請求権協定や2015年の(韓日慰安婦)合意をみると、この事件の損害賠償請求権が含まれているとは見なしがたい」とし「請求権の消滅はないとみる」と判断した。

この判決の影響は大きい。被告は日本企業ではなく、日本という国家である。日本は、国際慣習法上の「主権免除」を理由に一切訴訟にかかわらなかった。いまさら、日本がこの判決の送達を受領して、適法な控訴をするとは考え難い。とすれば、この地裁判決は公示送達(韓国では、裁判所が書類を一定期間ホームページに掲示することで送達完了とみなすという)手続後の控訴期間徒過によって確定する公算が高い。またまた、韓国内の日本の国有財産差押えの問題が生じてくる。

菅首相がさっそく反応した。政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとする立場で、「断じて受け入れられない。訴訟は却下されるべきだ」と記者団に語っている。加藤官房長官も、「極めて遺憾で、断じて受け入れることはできない」と述べ、日本政府として強く抗議したことを明らかにしている。

あ?あ、このようにしか言いようはないのだろうか。原告となった女性に対する、いたわりやつぐないの心根はまったく窺うことができない。せめて、「原告となられた方々の御苦労はお察ししますし、我が国がご迷惑をおかけしたことには忸怩たる思いはありますが、当方としては、こういう立場です…」くらいのことが言えないのだろうか。そうすれば、韓国国民の気持ちを逆撫ですることもあるまいに。

韓国外務省の報道官は、8日の判決を受けて「裁判所の判断を尊重し、慰安婦被害者たちの名誉と尊厳を回復するために努力を尽くしていく」と論評したという。両国政府の落差は大きい。

この訴訟の原告は12人。日本政府の「反人道的な犯罪行為で精神的な苦痛を受けた」として、日本国を被告とする慰謝料の賠償請求訴訟だが、5年に及ぶ訴訟の期間に、半数の6人が亡くなったという。

「1965年日韓請求権協定で解決済み」が私的な請求権については通らない理屈であることは、実は日本政府もよく分かっている。徴用工訴訟判決で明確になってもいるし、日本の最高裁の立場も私的な請求権までが全て解決済みとは言っていない。

この訴訟の論点は、もっぱら『主権免除』適用の有無にあった。日本政府の立場は、「主権国家は他国の裁判権に服さない。これが国際法上確立した『主権免除の原則』であって、訴えは当然に却下されるべきだ」というもので、まったく出廷していない。訴状の送達も受け付けないし、当初は調停として申し立てられたこの事件に応じようともしなかった。

しかし、ソウル中央地方裁判所は本日の判決で、原告側の主張を容れて、主権免除の原則について「計画的かつ組織的に行われた反人道的な犯罪行為」には適用外とし、今回の裁判には適用されないとする判断を示した。

また、原告の損害賠償請求権は、1965年「日韓請求権協定」や、2015年の「慰安婦問題をめぐる日韓合意」の適用対象に含まれず、消滅したとは言えないとも判示しているという。

来週の13日(水)には、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている事件での判決が言い渡される。おそらくは、本日と同様に請求認容の判決となるだろう。

これに自民党内からは韓国に対し、激しい怒りの声が上がっているという。佐藤正久外交部会長は「国家間紛争に発展する可能性がある」とツイートしたという。これは穏やかではないし、危険で愚かな対応でもある。

戦後補償問題においては、加害国・加害企業・加害者が、被害者本人と向き合わなければ、いつまでも真の解決にはならない。日本国対戦時性暴力被害者が、直接に向き合う恰好の舞台が設定されているのだ。日本政府は、これを好機として被害者と直接に向き合い真の解決を試みるべきではないか。

アメリカはむちゃくちゃだ。中国はもっとひどい。なんという世界だ。

(2021年1月7日)
かつて、アメリカは、日本にとっての民主主義の師であった。そのアメリカが、今尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限の基本ルールが、この国では当たり前ではなくなった。

1月6日、バイデン勝利の大統領選結果を公式に集計する連邦議会の上下両院合同会議に、トランプの勝利を高唱する暴徒が乱入して、議事を妨害した。議事堂が大規模な侵入被害に遭うのは、米英戦争時に英国軍により建物が放火された1814年以来のこと。アメリカ合衆国の歴史の汚点というべきだろう。その汚点を作り出した、恥ずべき人物をドナルド・トランプという。彼が、暴徒を煽動したのだ。この汚名は、歴史に語り継がれることになるだろう。

バイデンは同日夕、テレビ演説で「これは米国の姿ではない。今、私たちの民主主義はかつてない攻撃にさらされている」と非難したという。だが、悲しいかな。「これが米国の姿なのだ。」

このトランプをツイッター社が叱った。同社は、投稿ルールに抵触したとして、トランプのアカウントを凍結したという。たいしたものだ、というべきか。恐るべき出来事というべきか。

一方中国では事情大いに異なる。中国電子商取引最大手アリババ集団の創業者、馬雲(ジャック・マー)が「姿を消した」と話題となっている。同人の政権批判に反応した当局が拘束したとの報道もある。

かつて中国は、世界の人民解放運動の先頭に立っていた。その輝ける中国が今輝いていない。尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限のルールが、この国では長く当たり前ではなくなっている。法の支配という考え方もない。剥き出しの権力が闊歩しているのだ。恐るべき野蛮というほかはない。

香港は一国二制度のはずだった。二制度とは、「野蛮と文明」を意味する。つまり、中国本土は野蛮でも、香港には文明の存在を許容するという約束。昨年来の一国二制度の崩壊とは、香港の文明が中国の野蛮に蹂躙されるということなのだ。

昨日(1月6日)朝の香港で、立法会の民主派の前議員や区議会議員など50人余が逮捕された。被疑事実は、香港国家安全維持法上の「政権転覆罪だという。これは、おどろおどろしい。

去年6月末に施行された「香港国家安全維持法」は、
(1) 国の分裂
(2) 政権の転覆
(3) テロ活動
(4) 外国勢力と結託して、国家の安全に危害を加える行為
の4つを取締りの対象としているという。今回は、初めて「政権の転覆」条項での取締りだという。

昨年7月、民主派が共倒れを防ぐために候補者絞り込みの予備選を実施した。これが政権の転覆を狙った犯罪だというのだ。さすがに野蛮国というしかない。戦前、治安維持法をふりかざした天皇制政府もひどかったが、中国当局も決して引けは取らない。

バイデン次期政権の国務長官に指名されているブリンケンは、ツイッターに投稿し「香港民主派の大がかりな逮捕は、普遍的な権利を主張する勇敢な人たちへの攻撃だ」と批判したという。そのうえで「バイデン・ハリス政権は香港の人たちを支持し、中国政府による民主主義の取締りに反対する」と書き込み、中国政府に強い姿勢で臨む立場を示したと報道されている。

米国内でも対中関係でも、アメリカのデモクラシーは蘇生するだろうか。中国の野蛮はどこまで続くことになるのだろうか。日本もひどいが、アメリカもひどい。中国はもっともっとひどい。

暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、香港にも、中国国内にも、最も厳しい場で苛酷な弾圧にめげずに、自由や人権を求めて闘い続けている人たちがいる。その心意気を学ばねばならないと思う。

「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)拾い読み

(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。

取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。

が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。

南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。

「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」

これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。

「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」

 また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。

「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」

 津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。

また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。

南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。

 『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

 確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。

戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。

太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。

そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。

翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。

何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。

なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。

古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。

あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.