鴎外が書き残した、天皇制への嫌悪
直木孝次郎という日本古代史の碩学がいる。1919年1月30日生まれというから、御齢99歳である。著書論文は夥しいが、一昨年4月に「武者小路実篤とその世界」を上梓している。その書の中に、「森鴎外は天皇制をどう見たかー『空車』を中心にー」という論稿がある。
森鴎外の『空車』は、古語で「むなぐるま」と読むのだそうだ。どう読んでも、意味は「乗せるべき荷のない空っぽの車」である。直木の文は、鴎外の原文の全文を掲載しているが、問題の部分だけを抜粋して引用しておこう。
空車はわたくしの往々街上において見るところのものである。この車には定めて名があろう。しかしわたくしは不敏にしてこれを知らない。わたくしの説明によって、指すところの何の車たるを解した人が、もしその名を知っていたなら、幸いに誨(おしへ)てもらいたい。
? わたくしの意中の車は大いなる荷車である。その構造はきわめて原始的で、大八車というものに似ている。ただ大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が挽く。
この車だっていつも空虚でないことは、言を須(ま)たない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を満載して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。
わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股(おおまた)に行く。この男は左顧右眄(さこうべん)することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人(ぼうじゃくぶじん)という語はこの男のために作られたかと疑われる。
この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍(たいご)をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。
この鴎外の文章が何を述べようとしているのか。この文章だけを読んで理解できた人は、よほどに感性が鋭い。唐木順三も松本清張も分からなかった。むろん、私にはさっぱり分からない。
直木は、この文章を次のように要約している。
馬の口を取る男はわき目もふらず、旁若無人に大道を行く。この車に逢えば、徒歩の人も、騎馬の人も、貴人の馬車も、富豪の自動車も、隊伍を整えた軍人も、葬送の列もこれを避ける。この車に逢えば、軌道を走る電車も止まる。鴎外自身も、「目迎えてこれを送る」ー敬意を表して見送るー。
これでも、何のことだか分からない。いったい、「大いなる空の車」とはなんであるのか。「馬の口を取っている背の直い大男」とは誰のことか。そして、思わせぶりな、「貴き物」とは。
結論を原武史の書評(抜粋)で、語っていただこう。原がこう言っているのだから、直木の解釈は間違いなかろう。
本書は著者と付き合いのあった武者小路実篤の作品や思い出、あるいは実篤をめぐる人びとなどに関する文章を集めたものだが、最後の「余論」で森鴎外に触れている。鴎外が陸軍省を辞めた直後に書いた「空車(むなぐるま)」という小品に着目し、当時の鴎外は天皇制をどう考えていたかを論じた「余論」の文章こそ、本書の白眉(はくび)というべきだろう。
ここで著者は、唐木順三や松本清張らの説を批判しつつ、「空車」を牽(ひ)く大男を山県有朋と推定し、「空車」には本来、大正天皇が乗っていたとする。鴎外は、山県に代表される藩閥官僚によってつくられた天皇制というシステムと天皇個人を区別していた。明治から大正になり、システムはますます大きくなるが、天皇自身は逆に「空虚」になる。それを象徴するのが「空車」だという指摘には思わずうならされた。
著者は触れていないが、鴎外は1900年に勤務先の福岡県小倉で皇太子時代の大正天皇に会っている。そのとき抱いた印象と、著者が触れる大正天皇の即位礼に参列したときの印象は全く違っていたはずだ。鴎外は大正天皇を通して天皇制に対する批判を抱くようになり、細心の注意を払いながら、それを作品として残しておきたかったのではなかろうか。
直木は、お雇い外人教師のベルツの日記の次の一節(1900年5月9日)を引用している。
「一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤(博文、直木註)のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。―こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。」
ベルツの引用に続けて、直木はこう言う。
「皇太子だけではない。天皇もまた藩閥政府の実力者―伊藤や山県有朋など―によっておどらされるかいらい―操り人形なのである。」「この空車もかつては権力を持つ天皇を乗せることがあった。今でも、天皇を乗せることがあるが、天皇は形骸化している。そうした天皇について語るわけにはいかない。」「山県有朋の側近にあった鴎外は、天皇の形骸化・かいらい化を見聞し、実感したに違いない。前述した東宮(皇太子)の操り人形化についての伊藤の所感は、山県と共通するだろう。天皇の操り人形化は、おそらく明治天皇の時代にはじまり、大正天皇の時代に一層すすんだことと思われる。」「このことを鴎外は何らかの形で、書き残しておきたいとかねてから思っていたのだろう。1911年1月に、天皇を暗殺しようとしたという理由で、事件と無関係の人を含めて12人が死刑になった事件が起こるが、それがその契機の一つではなかろうか。」「彼はこのとき、『かのように』など数編の論説を発表し、死刑12人という判決の行き過ぎであることを論ずるとともに、天皇の神聖性に疑問を投じているが、天皇の形骸化にまでは及んでいない。天皇そのものにまでは筆は及んでいないのである」
「退職の前年の1915年11月に京都で行われた大正天皇の即位式に参列したことが、『空車』という形で天皇を論ずる原因となったと思われる。主役の天皇は形骸化し、かいらい化しているのに、即位の大礼の古い儀式は堂々と典雅に行われる。その矛盾の大きさが鴎外の執筆の決意を固めさせたのであろう」
天皇という「貴き物」を乗せる車は天皇制である。しかし、肝腎の「貴き物」が形骸化し、操り人形と化しているから、この車は「空車」なのだ。「空車=天皇制」、「空車を牽く馬=軍隊」、「馬の口を取る男=藩閥政治家」と思って、鴎外の文章を読み直すと、なるほど見えてくるものがある。
空車(天皇制機構)は、すでに大きい。そしてそれが空虚である(天皇は、形骸化して操り人形となっている)がゆえに、人(藩閥政治家や軍の幹部の間近にあった鴎外自身)をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車(天皇制)が大道せましと行く。これにつないである馬(軍や警察機構)は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男(伊藤や山県などの藩閥政治家)は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車(いずれも天皇制のシステム)の霊ででもあるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人という語はこの男(天皇制を利用する者たち)のために作られたかと疑われる。
鴎外の慎重な物言いの中に、天皇制と天皇制を操っている者たちへの嫌悪感が読み取れる。
鴎外が見たという「天皇の即位式での、『主役の天皇の形骸化・かいらい化』と、『即位の大礼の儀式性』との矛盾の大きさ」。我々も、来年(2019年)に、この矛盾をつぶさに見ることになる。もっとも、鴎外ほどの鋭い眼識と感性があればのことなのだが。
(2018年4月8日)