怪談「牡丹灯籠」のほんとうの怖さ
盆が過ぎれば初秋の趣きとなるべきが常なれど、この陽射しの強さ、ぶり返しの暑さはなにごとならん。とは思えども、日落ちればすだく虫の音は涼やかに、ようよう夏も間もなくいぬめりとの気配。
この夏は何をなせるかと問われれば、うろたえて何もなさずとこたえるのみ。なにもせぬわけはあるまいと重ねて問われれば、怪談に耳を傾けりと、小声でつぶやくよりほかなし。
旅にも出ず、山にも海にも出かけるでなく、この夏になせることは、仕事場に座して書面をつくることのほかは、わずかに怪談「牡丹燈籠」を聞くために、隼町の国立演芸場に、三晩足を運びしことのみ。
演者は人も知る蜃気楼龍玉。「《噺小屋 納涼スペシャル》葉月の独り看板 蜃気楼龍玉 怪談「牡丹燈籠」 三夜連続口演」なる演し物。
けっこうな木戸銭に身銭を切ろうという客の面々、その大方は圓生の「牡丹燈籠」を耳に焼き付けているはず。あの凄みのある圓生の語りに張り合おうというのは、龍玉の若さゆえの無謀な企て。
圓生百席での「牡丹燈籠」はCD4枚からなる。
1 お霧と新三郎
2 御札はがし(芸談付き)
3 粟橋宿・おみね殺し
4 粟橋宿・関口屋強請
これが怪談話としての「牡丹燈籠」の定番となりしは圓生が手柄。圓朝口演の速記本として残されたるものは、22章の長ながしい噺。これをCD4枚に収めたるは、噺の贅肉を削ぎ落としての圓生独自の構成。関口屋強請で締めて余韻を残しての終わりは、その余の筋書きは語って面白いものではないとの、肯んずべき圓生の判断。
龍玉の噺は、落語作家本田久作が脚色したるものという。圓生を意識しつつ、圓生とは異なる三夜六席への再構成。以下のとおり客の目を惹き気を惹いて、謎解きの趣向を凝らしたもの。
<第一夜>お露の香箱・供蔵の裏切り
<第二夜>お国の不義・お峰殺し
<第三夜>新三郎殺しの下手人・お露の前世
謎解きは次の如し。
第一夜、幽霊はどうやって百両を手に入れたのか?
第二夜、牡丹燈籠の本当の主人公は誰か?
第三夜、新三郎殺しの真犯人は?
そして、お露と新三郎の前世での因縁とは?
稀代のストーリーテラー、龍玉がその謎を解き明かす、納涼お盆興行!
この演し物の勧進元が、こんな惹句を謳っている。
「出演は、文化庁芸術祭新人賞(2014年)、平成27年度国立演芸場「花形演芸大賞」(2016年)を受賞している若手実力派の蜃気楼龍玉。積極的に三遊亭圓朝の作品に取組んでいることで知られ、一部のファンの間では「殺しの龍玉」と異名がつくほど、圓朝物の陰惨な殺しの噺をやらせたら右に出る者はいないのではと言われている。」
龍玉と本田久作は、圓朝と格闘したというよりは、圓生のCDでの語りと格闘したというべきならん。その無謀ともいうべき試みは、大成功とは言えずとも、上々の首尾をあげて報われたというべし。客皆満足げなる様子。
打ち出しの後に狭いエレベータに乗り合わせたる女性が、他に聞こえるような独り言。「素晴らしかった。ホントに聞きに来てよかった」。かかる聴き手を得しは、演者の知らぬことなれど、噺家としてこれに勝る至福はなからん。
さて、圓朝の「牡丹灯籠」は二つの物語りが同時進行し、両話の複雑な絡み合いが因縁として説明されてあり。その筋の一つは、忠義な家来が主人の仇を討つという勧善懲悪のまことにつまらぬ噺。もう一つは人の情や欲得にまつわる怪談噺なるが、圓朝の原作がネタを割っており、見方によっては興趣が冷める。夜な夜なお露の幽霊がカランコロンと下駄の音を響かせて新三郎のもとに通うのも、お札を剥がして幽霊の手引きをするのも、幽霊が新三郎をとり殺すのも、実は全部作り話で犯人は伴蔵(ともぞう)なのだという。「圓生百席」の解説で、宇野信夫と圓生が次のように語っている。
宇野「あれは幽霊が殺したのか、伴蔵が殺したのか、どっちだろうかと聞き手に想像させて底を割らない方が余韻があっていいのですがね。」
圓生「あれは先生、ナンでしょうね。文明開化の時代だし、あまり幽霊幽霊というのも、と考えて圓朝師がああいう風にしたのかも知れませんね」「あすこがどうもねえ…。ここはしかし、仕方がありませんから原作通りにやって私の工夫はありません」
このネタ割れの部分、速記本ではこうなっている。
伴「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原(新三郎)様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろいろ訳があってみんなわっちがこしらえた事、というのは私が萩原様のあばらを蹴って殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、しゃりこつを取出し、持ち帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しい死にざまに見せかけて白翁堂のおやじをばいっぺいはめこみ、また海音如来の御守もまんまと首尾よく盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々とほらを吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引越したをよいしおにして、己もまたおみねを連れ、百両の金をつかんで此の土地へ引込んで今の身の上、ところが己がわきの女に掛り合った所から、かゝアが悋気を起し、以前の悪事をガアガアと呶鳴り立てられ仕方なく、旨くだまして土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人を騙かし、弔いをも済まして仕舞った訳なんだ」
リアリスト圓朝は、幽霊話で客を恐がらせておいて、どんでん返しで再び客を恐がらせる。私が聞いた龍玉は、概ねこう言っている。「因縁だって? それは違うね。幽霊が人間を殺すなんてあるはずはないでしょう。あれは、わっちが萩原様のあばらを蹴殺したんだ。」 ここで、客はぞっとする。幽霊ではなく、人の仕業だったことに恐怖をおぼえるのだ。
新三郎の世話になっている下男同然の小心者の伴蔵、幽霊に怯えて震えていたはずの伴蔵が、実は百両盗んで新三郎を殺していたという仕掛け。伴蔵は、さらに妻のお峰を殺し、その殺しを打ち明けて仲間になったはずのお幇間医者・山本志丈をも殺害する。龍玉の殺しの場面の描写は、圓生とちがって凄惨である。なるほど、たしかに「殺しの龍玉」。
謎解きの答はこう。恐いものは、幽霊ではなく生身の人なのだ。人の心の中にひそむ悪。世の不条理が人に悪事をなさしめる。お露と新三郎の前世での因縁などは、どうでもよいことだ。
納涼の三夜。演芸場を出れば娑婆。不条理が充ち満ちた人の世。いや、気がつけばそこは魑魅魍魎が跋扈するという永田町だった。百鬼が夜行し、幽霊ならぬ人が悪事を重ねる恐ろしい界隈。わけても、権力を私物化する愚かで薄汚い政治家の所業に首筋が寒くなる。現実世界の方が、怪談噺を遙かに超えた納涼効果を持っているという、お粗末の一席。
(2018年8月21日)