人は「日の丸・君が代」を押しつけられて生くべきものにあらず
「人はパンのみにて生くるものにあらず」は、古今を通じての出色の名言。
マタイ伝の文語訳では、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」となっているそうだが、これは凡人の一文。後半を切り捨てることによって、名言となった。
「人」の対語は、禽獣である。禽獣にとっては、生きるための糧を得ることが、生きることのすべてである。しかし、人はパンを糧にした肉体の維持でこと足れりとはならない。人が人たるには、そして自分が自分たるには、固有の精神生活が不可欠なのだ。
人の精神生活は本来的に極めて多様である。極めて多様な精神生活のあり方が、人の多様な個性を形作る。人それぞれに関心の対象も趣味も嗜好も異なる。思想も信仰も感性もさまざまである。歴史の知恵は、社会も国家も、可能な限り人の精神生活の多様性に寛容でなくてはならないことを教えている。
おそらく、「奴隷とはパンのみにて生くることを余儀なくされた者」である。奴隷には、パンを糧にした肉体の維持のみが保障され、精神生活の自由の保障がない。この点において、禽獣ないしは獣畜と同様の扱いである。したがって、奴隷は人でありながら人でない。人として扱われない人ということになる。
人の精神生活の基礎には自尊の心情がある。また、極めて多様な他人の精神生活に寛容であるためには、他の人の人格の尊厳を認めなくてはならない。寛容とは、人を差別せず、すべての人の人格の尊厳を認めるということである。
すべての人は、等しく人格の尊厳を有しているのだ。これが、この社会の公理である。人格の尊厳を否定する最も極端な行為が殺人である。他人を傷害し欺し盗むことも他人の人格の尊厳を損なう罪悪である。同様に人を差別することは、差別された人の人格の尊厳を損なう点において罪悪にほかならない。
人種・民族・性・心身の障害によって、また出自によって人を差別することは、人の先天的な属性によって、人格の尊厳を傷つける罪悪である。信仰や思想による差別も、深刻に人格の尊厳を損なう罪悪である。
差別の痛みは、常に差別される少数派にある。多数派の同調圧力が少数派の人権をないがしろにする。多数派には、少数派の思想や信仰を侵害することのないよう配慮が求められる。
さて、ここから具体的な問題について触れておきたい。
少数派に対する思想差別とは、多くの場合多数派の社会的同調圧力が少数派の人格を侵害するものであるが、社会的同調圧力が政治権力と結びつくときには、深刻な事態となる。ナショナリズムに関する思想問題がその典型といえよう。
最も警戒すべきは、愛国心の押しつけである。国民国家の多数派は、社会的同調圧力によって全国民に愛国心を強要するだけでなく、政治権力をもって愛国の行動を強制する衝動をもっている。愛国派は、無邪気ににも「愛国こそ正義」と信じて疑わないからである。
「日の丸・君が代」の強制は、そのようなナショナリズムの負の側面が強く表れたものである。これは、愚かというだけではなく、文明に反する野蛮な権力の行為というほかはない。
「人はパンのみにて生くるものにあらず」とは、すべての人に侵しがたい精神生活の尊厳が必要であることを喝破している。それゆえに名言なのだ。「日の丸・君が代」を受容しがたいという思想信条や信仰を有する人に、「起立せよ・斉唱せよ」と強制する為政者は、この名言を肝に銘じて反省しなければならない。
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明日(2018年10月21日(日))は、日本軍国主義による「学徒出陣」の日。また、「国際反戦デー」の日。「子どもたちを再び戦場に送らない」決意を新たにする日。この日に、「学校に自由と人権を!10・21集会」が開催される。
時 13時15分開場 13時30分開会
所 千代田区立日比谷図書文化館(日比谷公園内 日比谷野外音楽堂隣)
講演「経済を壊死させる下心政治?さらば闇軍団?」
浜矩子(同志社大学教授・経済学・アベノミクス批判)
講談「三面記事の由来」(明治の反戦ジャーナリストの物語)
甲斐淳二さん(社会人講談師・香織倶楽部所属)
特別報告「『君が代』訴訟と憲法」
加藤文也弁護士(東京「君が代」裁判弁護団)
(2018年10月20日)