東京「君が代」裁判・最高裁要請行動
弁護士の澤藤と申します。1審原告らの代理人の一人です。「10・23通達」発出以来の15年、この問題に携わってまいりました。本件の当事者や支援者と一緒に、要請を申し上げます。
東京「君が代」裁判4次訴訟は、今、3件に分かれて最高裁に係属しています。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。
懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえ憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の価値に優越していると言うことです。
教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。
原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消せと主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と命じるのは、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値とすべきでしょうか。
多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。
いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、緩やかな必要性・合理性さえあれば、制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、私たちは何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。
一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、という点です。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのこと懲戒処分とするほどのことではない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。
現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。是非、この判決を重く受けとめていただきたいのです。
この高裁判決を受けての最高裁判決が2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。
つまり、不起立に対する処分は違憲とは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での判例の立場です。
私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張しています。最高裁には、是非とも再考願いたいのです。
そして、都教委が教員の一人を相手にして上告受理申立をした事件。その理由が、相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。
しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数で思想や良心に対する制裁強化が許されるはずはないのです。これを思想を変えるまで処分を重くする、などという企みは転向を強要するものとして、明らかな違法と言わざるを得ません。
実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。
結論は自ずから、明らかです。都教委の上告受理申立はすみやかに不受理とすべきです。いま、都教委の識見が問われています。しかし、問われているのは都教委だけではありません。実は、最高裁もその識見を、ありかたを問われています。憲法が想定する、憲法の番人、人権の砦の役割を果たされるよう、切に要望いたします。
(2019年2月8日)