天皇の靖国神社参拝を許してはならない。
下記は、昨日(8月13日)配信の共同記事(但し、過剰な敬語は省いている)。
靖国神社が昨秋、当時の天皇(現上皇)に2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める極めて異例の「行幸請願」を宮内庁に行い、断られていたことが13日、靖国神社や宮内庁への取材で分かった。靖国側は再要請しない方針で、天皇が参拝した創立50年、100年に続く節目での参拝は行われず、不参拝がさらに続く見通しだ。
天皇の参拝は創立から50年ごとの節目以外でも行われていたが、1975年の昭和天皇が最後。78年のA級戦犯合祀が「不参拝」の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている。
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「行幸請願」とは、天皇の公式参拝要請以外のなにものでもない。天皇の公式参拝を違憲と名言したのが、岩手靖国訴訟控訴審判決(仙台高等裁判所・1991年1月10日)である。同判決は、詳細な理由を付して、「天皇、内閣総理大臣等による靖國神社公式参拝が実現されるように要望する旨の岩手県議会議会の議決」を違憲違法とした。靖国神社による天皇参拝要請と軌を一にするもの。
靖国神社が天皇に「違憲の公式参拝」を求めたというのだから、これは大きな事件なのだが、実は内容がよく分からない、いらいらさせる記事となっている。
「昨秋」の請願と拒否が、なぜ今頃報じられるに至ったのか。このニュースは、誰がどのようにリークしたのか。なぜこれまで伏せられていたのか。何よりも知りたいのは、宮内庁ないしは内閣がどのように関わり、どのような理由で拒否をしたのか。閣議にかけられたのか、宮内庁ではいかなる稟議書が作成されたのか。決裁の文書にはどう記載されているのか。宮内庁長官宛と思われる「行幸請願書」は誰も情報公開請求をしていないのか。
いったい、「昨秋」とはいつのことなのか。小堀邦夫前宮司が、「陛下は靖国神社を潰そうとしていらっしゃる」発言で物議を醸し、退任したのが2018年10月末日。山口建史現宮司就任が11月1日付である。「行幸請願」と「拒否回答」とは、宮司交代時期とどう関わっているのか。
今朝(8月14日)の東京新聞は、こう報じている。(敬称は略)
上皇は在位中に参拝しておらず、平成は天皇参拝のない初の時代となった。関係者によると、靖国神社は昨年九月、平成中の参拝を促すため、宮中祭祀を担う宮内庁掌典職に過去の天皇の参拝例を示し、参拝を求める行幸請願をした。
掌典職は代替わりを控えた多忙などを理由に、宮内庁長官や天皇側近部局の侍従職への取り次ぎも「できない」と回答したという。共同通信の取材に対し、掌典職は「参拝について判断やコメントをする立場にない」としている。
靖国側は「断られた」と判断、創立二百年の参拝も確約されないことから「将来も参拝は難しくなった」と受け止めた。代替わり後の再要請について取材に「(陛下の参拝を)お待ち申し上げる立場」と回答し、行わない方針だ。
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?國神社は、1969(明治2)年6月29日の東京招魂社鎮座・第1回合祀祭の日をもって創建の日としている。函館戦争終結(5月18日)直後のこと。周知のとおり、幕末の騒乱から戊辰戦争にかけての官軍側の戦死者だけを合祀している。日本国民を、天皇に服属する者としからざる者とに分断する思想にもとづいてのことであるが、死者をも未来永劫に差別しようという天皇制の苛烈な一面をよく表している。怨親平等という、古くから日本人に馴染んだ感性とはまったく異質なもの。日本の伝統的死生観とは、およそ相容れない。
以来、150年。靖国神社は、敗戦を挟んで天皇のために戦死したものを祀る天皇の神社であり、軍国の神社であり続けた。その神社が、天皇に行幸を請願して断られたという。まことに皮肉な話ではある。泉下の《英霊》たちも、さぞかし戸惑っているのではないか。
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問題は幾重にもあるが、前掲の岩手靖国訴訟控訴審判決から、関係する判示の一部を抜粋引用しておきたい。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=16653
《戦前における天皇の靖国参拝》
戦前における天皇の参拝は、国の公式儀礼としての参拝であり、内閣総理大臣の参拝は、いわば天皇の随臣としての性格を有するものであった。
《戦後における天皇の靖国参拝》
☆戦前における天皇、内閣総理大臣の靖國神社参拝は、国の機関として行われたものであるが、戦後における参拝については、新憲法が定めた信教の自由、政教分離との関係で、さまざまな問題が生じた。
☆昭和二七(1952)年四月二七日、日本国との平和条約の発効により、連合国の占領が終了して我が国が独立を回復し、神道指令が効力を失った後、現在の日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟を中心に、国民の間に、靖國神社を再び国営化ないし国家護持すべきであるとの運動が起こった。
☆昭和五〇(1975)年頃からは、右運動に代わり、従来、天皇及び内閣総理大臣その他の国務大臣が靖國神社に私的資格で参拝していたことについて、公的資格で参拝すべきであるとの運動が展開されるに至った。しかし、天皇の靖國神社参拝に関する質問主意書に対する昭和五〇年一一月二八日付け政府答弁書で、従来行われた天皇の靖國神社参拝はいずれも私的参拝にとどまることが確認されて以後、公式参拝の働きかけは、内閣総理大臣その他の国務大臣に対し集中的に行われるようになった。
《天皇の参拝の法的性格について》
天皇の公的行為は私的行為ではないから、原則として自由に委ねられているものではなく、政治的な意味のない儀礼的行為といわれるものについても、それが宗教とのかかわり合いが問題とされる場合には、政教分離原則の適用を受けるものと解するのが相当である。したがって、…天皇の公式参拝については、その公的行為性をひとまず是認したうえで、それが憲法二〇条三項によって禁止される宗教的活動に当たるかどうかについて判断するのが相当である。なお、同法条の規定する「国及びその機関」の概念は、必ずしも明確ではないが、その立法の趣旨にかんがみれは、天皇もその機関に含まれると解される。
《天皇参拝の違憲性》
☆靖國神社が宗教法人になってからの天皇の公式参拝はなされていないから、その方式及び規模がどうなるかは定かでないが、天皇の公式参拝が行われるとすれば、天皇の公式儀礼としてふさわしい方式と規模を考えなければならず、また、天皇が皇室における祭祀の継承者でもある点をも視野にいれなくではならないであろう。右のような点を考え合わせると、天皇の公式参拝は、内閣総理大臣のそれとは比べられないほど、政教分離の原則との関係において国家社会に計りしれない影響を及ぼすであろうことが容易に推測されるところである。
☆以上、認定、判断したところを総合すれば、天皇、内閣総理大臣の靖國神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖國神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えろものと断定せざるをえない、したがって、右公式参拝は、憲法二〇条三項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。
以上のとおり、天皇の靖国参拝は、首相の参拝以上の大きな違憲問題なのだ。けっして、天皇を靖国に「行幸」させてはならない。
(2019年8月14日)