なるほど、天皇は「戦没者の位牌」なのか。
本日の毎日新聞夕刊、「あした元気になあれ」という連続コラム欄に、「憲法を実行せよ」という、なんとも直截な、しかも大きな活字のタイトル。小国綾子記者の執筆で、「憲法を実行せよ」は中村哲医師の言葉。
「憲法を実行せよ」。アフガニスタンで亡くなった医師、中村哲さん(73)が6年前、茨城県土浦市の講演で聴衆に向けて力強く放った言葉が忘れられない。憲法を「守れ」ではなく「実行せよ」。耳慣れない表現が心に刺さった。
彼の講演はこんなふうだった。「この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし。それが正常な国家だ、と政治家は言う」。そう苦言を呈したあと、中村さんは冒頭の言葉を口にしたのだ。
パソコンに残るその日の私の取材メモ。<講演でまず心を動かされたのは、スライドに大きく映し出されたまぶしいほどの緑の大地の写真だった。干ばつで砂漠化したアフガニスタンの大地を、緑豊かな耕作地へと変えてきた中村さんの力強さ。この人のすごさは「実行」してきたことだ。「100の診療所より1本の用水路を」と。そんな「実行の人」が壇上で言う。「憲法は守るのではない、実行すべきものだ」>
「…他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条はリアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている」
「リアル」という言葉にも、はっとさせられた。日本で平和憲法を「ただの理想」「非現実的」と言う人が増えていたあの頃、アフガニスタンで命の危険と背中合わせの中村さんは逆に「リアル」という言葉を使ったのだ。」
小国記者のいう「6年前」とは、2013年6月のこと。6月6日の毎日夕刊「憲法よーこの国はどこへ行こうとしているのか」に、中村哲さんのインタビュー記事が載った。優れた記者によるインタビュー記事として出色。
私は、翌6月7日の当ブログにこの記事を引用して、「憲法9条の神髄と天皇の戦争責任」というタイトルをつけた。
https://article9.jp/wordpress/?p=506? (2013年6月7日)
憲法9条の神髄と天皇の戦争責任
小国記者の本日の記事。6年前と同じ中村医師の言葉が、以下のとおりに引用されている。
最後に「あなたにとって9条とは?」と尋ねた時の、中村さんの答えをここに書き残しておきたい。忘れてしまわないために。
「天皇陛下と同様に、これがなくては日本だと言えないもの。日本に一時帰国し、戦争で亡くなった親戚の墓参りをするたび、僕は思うのです。平和憲法とは、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌(いはい)』だと」
この言葉をもう二度とご本人の口から聞けないことが悔しい。「憲法を実行せよ」という言葉の意味を今、改めて考える。
私は繰り返し、中村哲医師を尊敬に値する人と述べてきた。今も、その気持は変わらない。だが、この小国記者が引用するこの中村医師の言葉に限っては、どうしても違和感を禁じえない。疑問をもって問い質すことをせずインタビューを終えた小国記者の姿勢にも納得しかねる。
「憲法9条とは、これがなくては日本だと言えないもの。平和憲法とは、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」。やや舌足らずだが、このことは分かる。中村医師は、憲法9条を戦争の惨禍か生んだ不戦の誓いと理解している。厖大な悲劇を象徴する位牌の前で、この悲劇を生んだ戦争を拒否することが、「憲法を実行」することだというのだ。
しかし、「天皇陛下と同様に、」というのは、理解不能である。文脈では、「天皇陛下も、これがなくては日本だと言えないもの。戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」ということになるが、これでは意味不明ではないか。
あるいは、「天皇陛下も、これがなくては日本だと言えないもの。」というだけの意味なのかも知れない。しかし、「天皇がなくては、この国は日本だと言えない」というのは、愚にもつかない戯言。いうまでもないことだが、主権者国民なくしてはこの国は成り立たない。しかし、天皇がなくてもこの国は立派に日本として成り立つのだ。「国破れて山河あり、天皇なくとも日本あり」なのだ。
現行憲法を改正して、天皇のない日本を構想することは極めて容易である。実は,天皇をなくして国民生活になんの不便もない。国費の節約にはなるし、国民主権の実質化と、権威主義的国民性の矯正に資することにもなろう。もちろん、天皇とは政治的な利用の道具としてあるのだから、危険を除去することでもある。
「天皇陛下は、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」と、中村医師が言ったとすれば、天皇に対するこれ以上ない痛烈な皮肉ではないか。
皇軍の兵士は、天皇の名による戦争に駆りだされた。天皇の命令によって徴兵され、天皇の命令によって殺人を強要され、天皇のためとして犠牲の死を賜った。その数200万人。また、天皇が開戦し天皇が国体護持にこだわって終戦を遅らせたために犠牲となった非戦闘員が100万人。天皇が300万人の位牌だというのは、なるほど言われてみればそのとおりなのだ。死者一人に一個、その人の死を記録し具象化するものとしての位牌。天皇は、戦没者300万人の死に責めを負うものとして、永劫に死者から離れることのできない位牌なのだ。
6年前のインタビュー記事の最後は、次のとおり。そして、私の感想も。
窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」。長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。
「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。
未熟な論評の必要はない。日本国憲法の国際協調主義、平和主義を体現している人の声に、精一杯研ぎ澄ました感性で耳を傾けたい。こういう言葉を引き出した記者にも敬意を表したい。
(2019年12月17日)