10・23通達関連訴訟を概観する
「訴訟と判決の推移」
※ 学校行事において国旗国歌への敬意表明を強制する教職員への職務命令は、日本国憲法の「思想良心の自由保障」規定(憲法19条)に反し、また「教師の教育の自由」(憲法23条)を侵害し、教育行政による教育への不当な支配を禁じた教育基本法10条1項(2006年改正後は16条)に違反するものである。また、懲戒権の濫用とされれば、懲戒処分は違法となり取消されなければならない。処分後の違憲・違法・懲戒権濫用を根拠とした処分取消請求が、一般的な訴訟の形態である。
※ ところが、本件では必ずしも一般的ではない形態の訴訟が先行した。国旗国歌強制を予防しようという意図から、職務命令や処分が出される前に予め「起立・斉唱・伴奏の義務のないことの確認」と「処分の差し止め」の判決を求める訴訟である。
「日の丸・君が代強制反対予防訴訟」と名付けたこの訴訟が、もっとも大型の集団訴訟(一審判決時原告数401名)となり、その後の訴訟運動の中核を担った。そして、一審では全面勝訴の判決を得て大きな社会的反響をもたらした。
※ 予防訴訟の第一陣の提起が2004年1月30日、判決言い渡しが2006年9月21日であった。東京地裁民事第36部の裁判長の名称を冠して、「難波孝一判決」と呼ばれるこの判決は、「日の丸・君が代」の果たした歴史的役割を重視し、これを受容しがたいとする者への強制は、憲法19条に違反することを明言した。最初の提訴における、しかも最大規模の集団訴訟での全面勝訴は、原告団を勇気づけ確信を与えるに十分なものであった。反面、石原教育行政に与えた衝撃ははかりしれない。
※ この勝訴判決が関連訴訟全体の流れを形作ることになるかと思われたが、事態は暗転した。10・23通達以前のピアノ伴奏命令拒否に対する懲戒処分事件の最高裁判決が2007年2月27日に言い渡された。「ピアノ伴奏という外部行為の強制と、その教員の内面の思想良心の侵害とは、一般的客観的に不可分に結びつくとは言えない」として19条違反には当たらないとし、懲戒処分(戒告)違憲・違法の主張を斥けた。
※ 奇妙な理屈の判決でも最高裁判決には下級審裁判官を拘束する現実的な力がある。この判決のあと、多くの処分取消請求訴訟が、この最高裁の論理を踏襲した。その結果、敗訴判決が続いた。これに一石を投じたのが、2011年3月10日の東京高裁・大橋寛明判決である。同判決は、「最高裁が処分を違憲ではないと言っている以上これに従わざるを得ない」としながら、すべての被処分者について、「自らの思想・良心に忠実であろうという、やむにやまれぬ動機による不起立・不伴奏」であることを認めて、戒告を含む全処分を懲戒権濫用として取消し、教員の人権を救済した。
※ このような経過の後、2011年5月から7月にかけて一連の最高裁判決が言い渡しとなった。ピアノ判決の論理とはやや異なって、「外部行為と内心との切り離し論」だけに終始するのではなく、国旗国歌への敬意表明の強制が思想良心の間接的な制約となることは認めた。しかし、間接的制約に過ぎないから、公権力に厳格な違憲審査の必要はなく、緩やかな審査基準の適用で制約の合理性・必要性が認められるから合憲とされた。
※ そして、今のところ最新の、処分取消を求める第一次集団訴訟の最高裁判決(2012年1月16日)が、裁量権濫用論において「原則として戒告程度は違法といえないが、減給以上は処分量定重きに失して裁量権濫用にあたり違法」と、戒告と減給との間で線引きをした。我々にも不満ではあるが、都教委にはそれ以上の痛打となった。最高裁から、「東京都の教育行政は健全な社会通念のうえからは、とんでもない非常識。到底法秩序が容認できないこと」と叱責を受けたのだから。
※ ここまでが現状だが、しかし、まだ思想弾圧は終わらない。訴訟という形での抵抗も続いている。いま、10・23通達関連訴訟で、最高裁に係属中のものは6件を数える。処分が続く限り新訴が提起される。東京地裁にも6件が係属している。
「判決についての見解」
※ 日本の裁判所は、憲法の規定のうえでは、立法に対しても行政に対しても、憲法適合性を審査し合違憲を判断する権限をもっている。しかし、伝統的にその権限の行使には極めて臆病で、立法府に対しても行政庁に対しても過度に慎重である。このことは、「司法謙抑主義」あるいは「司法消極主義」という用語で表現される。
その根底には、民主々義的な基盤を持たない司法は、国民多数の支持によって構成されている国会や内閣、あるいは自治体の判断をできるだけ尊重すべきだという、三権分立についての基本的な理解がある。
※ しかし、人権とは本来公権力との対峙において擁護されなければならない。公権力が多数派によって構成される以上、宿命的に多数派から疎まれる人権のみが擁護を必要とする。民主々義尊重という司法消極主義は、必然的に人権切り捨てにつながる。憲法の番人であり人権の砦であるべき裁判所は、その職責を果たし得ていない。
日の丸・君が代強制問題においても、司法消極主義がわざわいして、憲法学界の通説的見解を採用することなく、公権力側におもねった偏頗な判決となっている。明らかに秩序を優先して人権を軽視した、その論理において説得力をもたない。
※ その司法が、「戒告にとどまる限り処分違法とは言えない」が、「減給処分以上は原則裁量権の逸脱濫用に当たる」として、処分量定には一定の歯止めをかけたことの意味は大きい。また、合憲と判断した多くの裁判官が異例の補足意見を付して、各教員の思想・良心に忠実であろうとする真摯な動機を認め、その心理的葛藤に思いを寄せていることも特筆に値する。さらに、「紛争を解決して自由闊達な教育が実践されていくことが切に望まれる」と提言していることは重く受け止めねばならない。
※ また、堂々たる反対意見を述べた宮川光治裁判官は、憲法学の定説の立場から、揺るぎのない違憲論を貫いている。さらに注目すべきは、「教育をつかさどる教員であるからこそ、一般行政に携わる者とは異なって、自由が保障されなければならない側面がある」と、19条論にとどまらず、教育の自由(23条)にも踏み込んだ見解を述べていることが注目に値する。
※ 私たちは、司法への批判はあるが絶望はしない。裁判所への説得を継続し、判例を変更して違憲判決を獲得するための営々たる努力の積み重ねが課題となっている。
そのための正面作戦としては、宮川裁判官反対意見の判断枠組み自体を多数意見に転化することではあるが、それだけではたりない。
まずは、間接制約論の枠組みを維持しつつ必要性・合理性の判断においてこれを否定する事実を積み上げることが必要であろう。また、最高裁がまだ判断していない論点、たとえば「国民に対する国旗国歌強制は、立憲主義の原則上国家の権限を踰越するものとしてなしえない」という主張、教育の自由の侵害、国際人権論での新判断を求める主張などが考えられる。
※ とりわけ、教育の自由侵害の主張は重要である。
公権力の正当性の根拠となる多数決原理は教育内容には及ばない。国民多数の代表をもって正当とされる公権力も教育内容への介入はなしえない。公権力としての教育行政のなしうることは、厳格に教育条件整備に限定されるのが原則で、教育の機会均等や教育水準確保という要請からの例外が認められる場合においても、大綱的基準のレベルを逸脱してはならない。これを逸脱しての教育行政の教育内容への介入は、教育基本法が禁じる不当な支配に当たる。この理は、旭川学テ大法廷判決が確認しているところである。
10・23通達は、卒入学式という学校の教育活動において、国家主義の立場から国家の象徴に対する国民の敬意の表明を望ましい徳目として受容すべきとする内容の教育として、教基法16条の不当な支配に当たり違法である。
この点についての応答なく沈黙を続けている最高裁に、新たな判断を迫る努力と工夫が必要となっている。
(2013年4月17日)