「天安門事件犠牲者追悼集会」弾圧に国際的な批判の声を。
(2020年9月21日)
天安門事件は、1989年6月4日の出来事である。この日、当時昂揚した民衆の民主化運動を、中国政府(共産党)が人民解放軍の武力をもって弾圧した。中国の現代史における恥辱の日として記憶されなければならない。
この武力弾圧による犠牲者の数はよく分からない。中国共産党の公式発表では、「319人」となっているが、信用されていない。「1000人超」説もあれば、「1万人余」説まである。
この事件は、以後中国国内では情報統制の対象となって、あたかもなかったかのごとき扱いだという。これを香港の民主主義は、黙過出来ないとした。毎年6月4日、香港島ヴィクトリアパークにおいて事件で犠牲になった学生たちを追悼する大規模な集会が開催されてきた。2012年にはその参加者が18万人にも達したという。
今年(2020年)の6月4日にも、例年のとおり、香港島ヴィクトリアパークで天安門事件追悼集会が開催された。しかし、今年の集会に警察の許可は下りなかった。理由は、新型コロナウイルスの感染防止のためとされた。この不許可を不当として、会場の公園には数千人の市民が参集した。
香港当局は、不許可の集会に参加の民主活動家24人を起訴した。罪名は「違法な集会に参加した罪」なのだという。香港国家安全維持法が6月末に施行され、民主的活動家らの逮捕や起訴が相次いだ時期のことである。中国共産党の意向による香港民主派への締めつけと捉えられている。
当然に、民主派からの反発は強い。今回の起訴について、主催団体は「集会やデモは香港で認められた市民の権利で、警察は感染防止策を悪用して追悼集会の火を消そうとしている。私たちは弾圧を恐れない」とコメントしている。
その民主派活動家24人の裁判が始まっている。9月15日が第1回の法廷であった。被告人のひとり、李卓人氏はこう述べたという。
「天安門事件を追悼することは私たちの権利だ。天安門事件の追悼は無罪だ」
ところで、天安門事件の責任を追及することは、ひとり香港のみならず国際社会の責務ではないか。天安門事件の追悼を犯罪視している中国の現状に接すると、その思いは一入である。31年前、国際社会は、民主主義と人権を蹂躙した野蛮な中国政府(共産党)を厳しく批判すべきだったのだ。しかし、現実はそうならなかった。日本の対応について、今外交文書が公開されて明らかになっている。
時事通信の「『人権軽視外交』検証を=天安門事件外交文書」という記事が配信されている。記者の秘めた怒りがほとばしるような文章となっている。
「外務省が時事通信の開示請求に対し天安門事件外交文書ファイル9冊(計3123枚)を公開した。西側諸国が対中制裁を強化する中、日本政府はいち早く政府開発援助(ODA)再開に動いたが、当時の詳細な外交方針が判明したのは初めて。」
「(89年6月)22日に作成された極秘文書「わが国の今後の対中政策」には、「わが国が有する価値観(民主・人権)」より「長期的、大局的見地」を重視し、中国の改革・開放政策を支持すべきだと明記。その上で「今次事態の衝撃がなるべく小さくなるよう対処」するとともに、「西側が一致して対中非難等を行うことにより中国を孤立化」することは「得策でない」と基本的考えを記していた。」
「日本政府は1989年の天安門事件を受け、犠牲となった市民の人権よりも、国際的孤立に陥った中国共産党に手を差し伸べる外交を優先していた。31年がたち、強大になった中国が、自由を謳歌(おうか)した香港への統制を強化するなど、中国が絡む人権問題が深刻さを増す中、当時の日本の対中外交について徹底した検証が必要だ。
改革・開放が進めばいずれ自由化・民主化する国なのか、市民に銃口を向けることをためらわない強権国家なのか。国際社会は流血の惨事を目の当たりにし、対中関係で難しい決断を迫られた。
結局、前者の見方を選択し、国際社会の中に取り込むことで中国の変化を促す「関与政策」が主流となった。日本はその先頭に立ち、軍事拡張路線を続ける中国の経済発展のため政府開発援助(ODA)をつぎ込んだ。天安門事件後の日中外交は、「内政不干渉」の下で中国の政治体制や人権問題に異を唱えず、経済的な実利を追求することで両国関係の安定を目指したものと言えた。
しかし強国路線を掲げる習近平政権に入り、民主化はますます「幻想」と化した。人権や台湾・香港、南シナ海、尖閣諸島などの問題で、日米欧への対抗を強める中、ポンペオ米国務長官は今年7月、関与政策の失敗を宣言した。
天安門事件後の日本外交文書によると、日本政府は当時の「弱い中国」を国際的に孤立させれば、「冒険主義的対外政策に走らせる」と懸念した。この分析は共産党の本質を見極めたものだが、孤立させない道を選択したのに、なぜ民主化へと進まなかったのか。
日本をはじめ各国が、巨大市場に目を奪われ、人権問題などで妥協した関与政策を進めた結果、巨額資金が中国に流れ込み、独裁体制をパワーアップさせてしまったという歴史的側面を忘れてはならない。[時事通信社]
この度明らかになった当時の外交方針のもと、1990年に日本は世界に先駆けて対中円借款凍結を解除して経済的関係を修復し、91年8月には海部俊樹首相が訪中、翌92年4月には江沢民総書記が来日、その年の10月には天皇夫妻に訪中させて、日本は民主・人権問題よりは、経済関係の安定を選択し実行した。その結果が、今日の香港・台湾・内モンゴル・ウィグル、チベットの問題ではないか。
遅きに失してはいようが、日本は、「天安門事件犠牲者の追悼を犯罪として起訴する」中国・香港当局に、「民主・人権」擁護の立場から、厳しい批判をするべきであろう。