石川逸子さんの「風」が問いかけるもの
(2020年9月30日)
戦争を語らねばならない8月が過ぎ、差別を語る9月も今日で終わる。この月の半ばに、7年8か月差別政策を積み重ねてきたアベ政権は終わった。が、アベなきアベ承継政権が既に始まっている。そのような時代の初秋の月の替わり目。
一昨日(9月28日)、自由法曹団の金竜介弁護士から、メールをいただいた。金さんは、かのマルセ太郎を父とする人。金さんの発言は、いつも貴重である。
もうお読みかもしれませんが昨日の朝日のコラム。
石川逸子さんの詩が正しく使われています
ご参考までに送ります。
ここで引用されている
遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
に続くのが
近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
添付されていたのは、「抗議のマスクと一編の詩」(福島申二)という、大坂なおみ選手の活躍に対する世評の在り方をテーマにしたコラム。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14637184.html
その中に、こういう一節がある。
思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。
遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。
金さんは、もう一歩踏み込んで、
近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
を問題としている。改めて、石川逸子さんの「風」を抜粋して紹介しよう。
風 石川逸子
遠くのできごとに
人はやさしい
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)
近くのできごとに
人はだまりこむ
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)
遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)
近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)
遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち
「遠くのできごとに うつくしく怒る」その人が、「近くのできごとには だまりこむ」のは、「遠くのできごとに立ち向かうのは遠くの人」だが、「近くのできごとに立ち向かうのは、自分自身」だからだというのだ。自分自身の問題として立ち向かうには、覚悟が必要なのだ。
黒人差別、アパルトヘイト、イスラム排斥、シリアの難民問題、ロヒンギャ、そして香港等々の「遠くのできごと」には、「美しく怒る」人々の多くが、在日差別、部落差別、朝鮮学校差別、ヘイトデモ、ジェンダーギャップ、天皇賛美等々の身近な出来事にはだまりこんでしまう。それでよいのか。そう問われているのだ。もちろん、私も。