菅義偉、こんな人物を我が国の首相にしておいてよいものだろうか。
(2020年10月29日)
本日の衆議院本会議。共産党の志位和夫が代表質問に立った。日本学術会議会員任命拒否問題での切り込みは実にみごとだった。誰が起案するのかは知らないが、分かり易く具体的に問題点を浮かび上がらせた質問内容は秀逸。志位の気合いも十分だった。
これに対して、スガ答弁のお粗末はこの上ない。誰が起案するのかは知らないが、よくもまあ、こんな支離滅裂な情けない原稿を作るものだと呆れる。その説得力のなさが志位質問における任命拒否違法の指摘を際立たせることとなった。もしかしたら、スガ答弁の起案者はスガに、ひそかな怨みをもつ人物ではないかとさえ思わせる。
国民の誰もが、この質疑答弁をじっくりと視聴すべきだと思う。スガの言い分の破綻は、誰の目にも明白ではないか。こんな、いいかげんな人物に国政を任せておくことはできない。そう、みんなが思うだろう。
お粗末な原稿を棒読みして恥じないことで、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と言ってよい。川勝平太静岡県知事が言ったとおりだ。
もっとも、「教養」も「教養のレベル」も、突き詰めて考えればその定義は難しい。もちろん、教養とは学歴でも知識の量でもない。人間の生き方や精神の在り方の問題である。人類が積み上げてきた叡智に謙虚な態度とでもいうべきであろうか。
「思想・良心の自由」、「表現の自由」や「学問の自由」が、どのように個人や社会に必要なもので、どのような運動を経て獲得されてきたのか。学術会議の独立や自由がなぜかくも重要なのか、スガ答弁にはその理解が欠けているのだ。これをもって、「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見した」と私も思う。川勝平太はこの言を撤回したようだが、本日のスガ答弁はあらためて、スガの教養のレベルを露わにした。
昨日の衆院本会議では、スガに対して「独裁者」という野次が飛んだ。「独裁」「強権」「説明拒否」「支離滅裂」「答弁原稿棒読み」は、教養とは正反対の姿勢であり評価である。また、川勝は、こうも言っている。
「ともかく、おかしなことをしたと思うが、周りにアドバイザーはいるはず、こういうことをすると、自らの教養が露見しますと、教養の無さが、ということについて、言う人がいなかったのも、本当に残念です」
「本当に残念です」を除いて、まったく同感である。まずは任命拒否が「やってはならない、おかしなこと」なのだ。その認識を欠いたスガに、「周りにいるはずのアドバイザー」たちは、なぜ適切なアドバイスをしなかったのだろう。そして、本日のお粗末なスガ答弁の原稿。これが、「優秀な官僚」たちが鳩首相談して練り上げたものだろうか。結果として、国民にはスガの、精神的自由に関する理解の欠如、「教養の無さ」が強く印象づけられた。
早くも、「菅義偉という人物像」が露呈している。菅義偉、こんな人物を我が国の首相にしておいてよいものだろうか。