澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

本郷三丁目の街角で ー 憲法9条の理念を訴える。

(2021年3月9日)
皆さま、明日が3月10日です。あの東京大空襲の日。76年前の3月10日、東京下町は252機のB29による空襲で一面の火の海となりました。一夜にして10万の人々が殺戮され、100万人が焼け出されたのです。私たちは、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下とならぶ東京大空襲の被害を忘れることができません。また、けっして忘れてはならないと思います。

この日の未明、わずか3時間の間にB29の大編隊は低高度から1665トンに及ぶ大量の焼夷弾を投下しました。折からの強風に煽られた火は、たちまち大火災となって、東京の半分を焼き尽くしたのです。

この日、空襲が始まるまで空襲警報は鳴りませんでした。防空法という法律が、人々を逃げずに現場で消火にあたれと足を止めて被害を広げました。何よりも、首都の防空態勢は無力でした。グアム・サイパン・テニアンの各基地から飛び立った機の、長距離爆撃を防ぐ手立ては日本にはなかったのです。

1945年3月、首都を焼かれ100万の被災者を出して、日本の敗戦は誰の目にも明らかとなりました。それでも、この国は戦争をやめようとはしませんでした。今では知られているとおり、政権が国体の護持にこだわってのことです。国民の命よりも、天皇制の存続が大事と本気になって考えていたからなのです。

国民の戦争犠牲は、東京大空襲被害のあともとどまることなく、日本の都市のほとんどが焼け野原となり、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの悲劇と続きます。敗戦は8月となりましたが、国民は文字通り、塗炭の苦しみにあえいだのです。

でも、戦争の被害は日本国内だけのものではありませんでした。日本が仕掛けた戦争でしたから、主たる戦場となったのはアジア・太平洋の各地でした。そこでは、戦闘員でない一般市民が、天皇の軍隊によって理不尽な殺戮の対象となりました。

たとえば、重慶大空襲。1938年末から1941年にかけて、日本軍は当時中国蔣介石政権の臨時首都とされた重慶市に無差別爆撃をくり返し多くの人々を殺傷しました。中国側の資料によると、その爆撃回数は218次に及び、死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸の被害を出しています。戦争末期に、日本はそれ以上の規模での報復を受けたことになります。

日本国憲法は戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという日本国民の切実な願いを結実したものとして生まれました。その第9条は、再び戦争をしないという不戦の誓いを条文にしたものです。

戦争の惨禍は、加害によるものと、被害としてのものと両者があります。日本は近隣諸国の人々に筆舌に尽くせない、甚大な被害を与えました。その死者の数だけでも2000万人を下らないと考えられています。そして、自国民の被害も310万人に上っています。

二度と愚かな戦争を繰り返してはなりません。平和憲法を守り9条を守り、この9条を活かして崩れぬ平和を守り抜こうではありませんか。近隣の諸国を敵視し、あるいは威嚇するのではなく、お互いに敬意をもって接し友好を深め、民間交流も活発化して、国際紛争は誠実で真摯な外交交渉によって解決すべきです。それが、日本国憲法の示すところです。

以上で、「本郷湯島9条の会」からの今月の訴えを終わります。耳をお貸しくださりありがとうございました。

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