軍政のミャンマーで蹂躙されている人権と民主主義
(2021年3月16日)
昨日(3月15日)の記者会見で、国連のドゥジャリク事務総長報道官は、クーデターへの抗議デモが続くミャンマーで治安部隊の弾圧により「これまでに女性や子どもを含む少なくとも138人の平和的なデモ参加者が殺害された」と述べた。グテレス事務総長は同日の声明で、国軍による弾圧激化について「がくぜんとしている」「デモ参加者の殺害や恣意的な拘束は基本的人権を侵害しており、自制や対話を求める国連安全保障理事会の呼び掛けにも反している」と批判した。
ミャンマーの人口は5000万人余。その9割が仏教徒だという。仏教徒の戒律として、出家には十戒、在家信者にも五戒が課せられる。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒。その筆頭が《不殺生戒》。生きとし生けるものの命を奪ってはならないとする戒めだというが、もちろん「人を殺してはならない」がメインである。
漢の高祖は、法は三章のみと言った。「人を殺す」「人を傷つる」「人の物を盗む」を罪とする。モーゼの十戒も、「汝、人を殺す勿れ」と言う。古今東西を通じて、「殺人」は社会が許さない違法な行為であり、「殺してはならない」という規範は、人の倫理として深く心に刻まれている。
ミャンマーの治安部隊や国軍の兵士とて、人である。その多くは、仏教徒でもあろう。どうして、平和なデモ隊に銃を向け、実弾を発射できるのだろうか。命じられたからとしても、どうして人殺しができるのだろうか。どうして、圧倒的な民衆の側に敵対し、殺人までできるのだろうか。
今、ヤンゴンで、マンダレーで、白昼路上での大規模な集団殺人が行われている。殺す側と殺される側が対峙しているとき、「その等距離の位置を堅持する」「両者の言い分を聞こう」などと
人権を語るべき国も個人も、ともかく「殺人をやめよ」と声を発しなければならない。
ヤンゴン市内在住のジャーナリストからのこんな報道に接すると胸が痛む。
SNS上には、国軍が民間人に発砲する「蛮行」の様子を示すさまざまな動画がアップされている。中でもひどいのは「発砲を嫌がる警官を軍人が脅して、民間人を撃つよう命令する」様子を映したものだ。BBCが3月15日に伝えたところによると、抗議デモ開始以降、ミャンマー全土で少なくとも120人以上が死亡したという。
見せしめ的な殺害行為もある。かねて「何体の遺体が集まったら国連は行動を起こすんですか?」と書いた紙を持ち、孤軍奮闘している姿が各国のニュースサイトに報じられた男性、ニーニーアウンテッナインさん(23)は2月28日、ヤンゴン市内のデモの主要スポット・レーダンで当局により射殺された。国際社会に向け、メディアに発信する人間は消される状況にある。(さかい もとみ)
軍政は戒厳令を発している。ミャンマーでは、法の支配が停止され、軍が権力を掌握しているということである。軍政の最高意思決定機関「国家統治評議会」は、昨日(3月16日)付の国営紙で、ヤンゴン6地区に発令した戒厳令の詳細を公表した。軍法会議を設置し、政府や国民の不信、恐怖をあおる行為や政府職員の規律に悪影響を与える行為、偽情報の流布など23項目を犯罪とした。最高刑は死刑、上訴は認めないなどとする内容。デモ参加者らへの弾圧をさらに強める可能性が高いと報じられている。
人権と民主主義とはセットになっている。目的的な価値である人権を擁護するために手段的な価値としての民主主義が重要なのだ。民主主義が崩壊するとき、人権も失われる。民主主義の崩壊を象徴するものが戒厳令にほかならない。自民党改憲案(2012年)は、戒厳令と紙一重の詳細な緊急事態条項が提案されている。ミャンマーの出来事は、けっして対岸の火事ではない。