甲子園に流れた韓国語校歌の感動
(2021年3月25日)
自分でも現金なものと呆れるが、かつては「春はセンバツから」が身体に染みついていた。母校が甲子園の常連校で常勝校でもあった頃のこと。今は、高校野球になんの興味もない。母校の野球部は廃部になってしまっている。だから、どこの高校が勝とうが負けようがどうでもよいことで、随分と紙幅をとっている毎日新聞のスポーツ欄は目障りなのだ。
ところが、昨日の一戦だけは別。京都国際高校対柴田高校(宮城)の初出場対決。延長戦の末、5―4で京都国際が勝利した。その試合後に流れた校歌が「韓国語」だったという。同校は、現在はいわゆる「1条学校」だが、その前身は在日韓国人の学校。校歌は、昔のとおりのハングルの歌詞。球場の大型スクリーンには、ハングルの歌詞と日本語訳の両方が映し出されたと報道されている。これは、すてきなニュースではないか。
私は、ナショナリズム一般の価値を認めない。ナショナリズムとは全体主義的統合機能をもつものとして危険であり、反価値でしかないと思う。しかし、特定の状況において、虐げられている人たちを鼓舞する抵抗のエネルギーの源泉としてであれば、その限りで評価を惜しまない。
在日の人々が置かれている立場では、そのナショナリズムは尊重に値すると思うし、敬意を禁じえない。その在日のナショナリズムに寛容な日本社会であって欲しい。今、京都国際の野球部員は全員が日本人であるというが、彼らが抵抗なく韓国語の校歌を唱う図には、日本社会の寛容度を見直させるものがある。
この校歌の歌詞を直訳すれば、「東海を渡りし大和の地は 偉大なわが祖先の昔の夢の場所」で始まるものという。「東海(トンへ)」とは、韓国でいう日本海のこと。韓民族が日本海を渡ってやって来た「ここ大和の地は、偉大なわが祖先の昔の夢の場所」という。「夢の場所」とまで言われた「大和」側の一人としては、気恥ずかしいほどの親日の歌詞。
この校歌についての報道は概ね好意的である。「校歌が韓国語で何の問題があるのか」という主調。主催者も、メディアも、学校も、そして選手も、大らかに韓国語校歌を容認したのだ。その寛容さに拍手を送りたい。
朝日が、同校野球部のOBを取材してこんな記事を書いている。
「OBの李良剛(イヤンガン)さん(35)=東京都品川区=は手拍子をし、マスクを着けたまま小さく口を動かした。「韓国とか日本とかではなく、グローバルの時代。野球を通じて国境を超えて感動を与えてほしい」
18年前の夏、京都大会の開会式で日本語と韓国語の両方で選手宣誓した。「魂(オル)・感謝(カムサ)・感動(カムドン)」。拍手が送られた。「高校野球に民族や国籍は関係ないと感じた。高校野球はいいなと思った」と振り返る。
とは言え、まったく問題がなかったわけではない。非寛容な右派勢力が、「東海(トンへ)」に噛みついたのだ。地名は国際的に「日本海」が正しい。これを「東海(トンへ)」とはなにごとか。学校も怪しからんが、こんな歌を唱わせた主催者もおかしい、というわけだ。
もっとも、このような事態は予想されたところで、球場の大型スクリーンに映された日本語訳は、「東海」ではなく「東の海」となっていた。「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」とした妥協を思い出させる。
おそらくは、学校は一定の譲歩をしたのだろうが、状況をよく見ての知恵と言ってよいだろう。無理なく、甲子園に、そして中継を通じて全国に、たくさんの祝福の笑顔に包まれて韓国語の校歌が流れたことの意味は大きい。こんなときだけは、日本人もなかなかのものだと思う。
その折も折、米インド太平洋軍は24日、北朝鮮による弾道ミサイル発射に関する声明の中で、日本海を韓国式名称である「東海」と表記した。米政府はこれまで、日本海の表記を使用してきた。
インド太平洋軍報道官のマイク・カフカ大佐は声明で「米国は北朝鮮による今朝の東海へのミサイル発射を認識している」と説明した。
米地名委員会は、日本海を「通常」表記、東海などを「変異」表記と区別している。【時事】
日・韓・朝、そして米。各国のナショナリズムの交錯が複雑で緊張感も高まっているる。日韓のナショナリズムの対峙は深刻にもなっている。しかし、在日の人々のナショナリズムを象徴する韓国語の校歌を、甲子園は笑顔で包んだ。私の母校とは無縁となった甲子園だが、たまにはよい風景も見せてくれるのだ。