澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

何のために、子どもたちをオリンピック観戦に動員しようというのか。

(2021年6月8日)
 明治天皇(睦仁)以来、天皇は精力的に全国の各地を行脚した。
 その天皇の行脚には「巡幸」という特別の言葉が使われた。天皇の外出を行幸といい、外出先が複数あれば巡幸というのだという。天皇の身体は玉体、天皇の顔は竜顔、天皇が見物すれば天覧、天皇が死ねば崩御。天皇の神聖性を演出するために、特別の言葉まで動員されてきたのだ。

 その天皇の行脚には、出迎えに子どもたちが動員された。どこの世界でも子どもたちの歓迎は絵になる。心優しき為政者を演出するためにはもってこいなの図柄なのだ。子どもたちは、整列して天皇を待ち受け、教えられたとおりに深く礼をし、通り過ぎる天皇の気配に少国民なりの光栄を意識し感動した。整列と敬礼と感動の押し売りである。こうして、忠良なる臣民が育った。

 問題は、戦後もこの事情にさしたる変化がなかったことである。戦後の戦犯天皇の行脚を、その行く先々で主権者となった国民多数が歓呼して迎えた。これが、臣民から主権者になったはずの国民の意識レベルであった。日本が独立してからも、日の丸の小旗を持たされた子どもたちの動員が行われた。飽くまでも、自主的な参加というかたちにおいて、である。

 天皇の送迎に子どもたちを動員した学校や教師は、子どものためによい教育をしているという思い込みがあったろう。世界に比類ない国体を体現する天皇への賛美というのみならず、世の大勢に順応して世間の風潮に逆らわない生き方を教えるという意識もあったろう。これを「天皇制教育」と名付けてよかろう。

 いま、「オリンピック教育」が話題となっている。その中身は「天皇制教育」とよく似ている。東京都教育委員会も、オリンピック・パラリンピック教育の重要性に鑑みて、猛暑とコロナ禍の夏休み中のオリパラに、児童生徒を動員するという。

 スポーツ庁ホームページによると、次のようなものであるらしい。

※ 「オリンピック・パラリンピック教育」とは、大別して、
?「オリンピック・パラリンピックそのものについての学び」と、
?「オリンピック・パラリンピックを通じた学び」から構成されると考えられ、

※ こうした学習を通じて、社会の課題の発見や解決に向けて他者と協働しつつ主体的に取り組む態度や、多様性の尊重(人間としての共通性、他者への共感、思いやり等)、公徳心(マナー、フェアプレー精神、ボランティア精神、おもてなし精神等)の育成・向上を図ることが求められる。こうした力を身につけることは、これからのグローバル化が進み、変化の激しい時代を生き抜いていくために、今後ますます重要になる。

 オリンピックほど、タテマエとホンネが乖離し、上辺と内実、理念と現実に齟齬のあるイベントや組織も珍しい。オリンピック憲章の崇高な理念とバッハら一味徒党の商業主義や傲慢さの現実との目の眩むような落差。これも天皇制とよく似ている。

 皇軍の兵は、けっして強要されることなく、志願して死地に赴いたとされる。もちろんタテマエだけのこと。東京都教育委員会の担当者も、児童・生徒のオリパラ観戦は、けっして強制ではないと言う。では、子どもや親が断れるかというと、現実はなかなか難しいのだ。そんなことは、計算済み。

 では、本音のオリンピック教育とはなんだろうか。これまで、「日の丸・君が代」強制に狂奔してきた都教委である。いったい、何をたくらんでいるのだろうか。もちろん、チケットの売れない空席を埋めるための生徒動員という目的はあろう。絵になる、子どもたちの感動に包まれたオリンピックという演出も目的のひとつではあろう。しかし、その目的の最も中心に位置するものは、ナショナリズムの涵養である。それ以外には考えがたい。

 オリンピックの中核をなすスポーツ競技は、敵味方に分かれて勝敗を競う。団体競技だけでなく個人競技も、多数観客を二分して応援者集団を構成する。当然のことながら、応援者集団の一体感が醸成される。他国チームとの競技を通じての日本人応援集団の一体感の醸成の場として、オリンピックに優るものはない。この恰好の舞台において、熱く日本選手を応援することで培われる連帯意識。このボルテージが、ナショナリズムを高揚する。これに、「君が代」と「日の丸」が加われば、理想的なのだ。

 かつて天皇の全国行脚で、これに接した国民の一体感や連帯意識が、ナショナリズムを涵養したごとく、今、オリンピックがその代役を果たそうとしている。オリンピックとは、ナショナリズム涵養の舞台だ。オリンピック教育とは、子どもたちを整列させて観客席に着け、自国の選手に応援させて、日本人としてのアイデンティテイを涵養することが狙いなのだ。

 こうして、子どもたちは、この夏の酷暑の中、パンデミックの危険に曝されながらも、健気にオリンピック会場に整列し観客席を埋めて日本の選手団を応する。教えられたとおりに「日の丸」や「君が代」に威儀を正して感動する。やはり、整列と敬礼と感動の押し売りなのだ。こうして、日本国民としてのナショナリズムが育っていく。

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