澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

吉田博徳さん、満100歳お目出度うございます。

(2021年6月23日・毎日更新連続第3004回)
 6月23日。1945年沖縄地上戦終結の「慰霊の日」であり、1960年1月19日署名の現行日米安保条約発効の日でもある。バカバカしいかぎりだがオリンピック・デーでもあるという。
 そして、この日が敬愛する吉田博徳さんの誕生日。本日、吉田さんは、満100歳となった。しかも、頗るお元気である。健康で長寿は古今東西誰もが望むところ。コロナ禍のさなかではあるが、まことに目出度い。

 吉田さんは、笑顔を絶やさない。ときに得意の歌を唱って、周囲をなごませる。今日もお電話して、「100歳になったら、周りの景色が変わって見えませんか」と聞いてみたら、「何にも変わりませんよ。別に頑張って長生きしているわけでもないんですから」と淡々としたもの。最近は、コロナを警戒して外出は控えているそうだが、近い再会を約束した。会えば、楽しいし得るものがある。

 吉田さんは、1921年6月23日の生まれ。来月7月1日に中国共産党が党創立100周年の記念式典を行うというから、吉田さんの方が中国共産党よりも少しだけ年嵩なのだ。そして、沖縄戦終結の日が24歳の誕生日だったことになる。

 大分県で生まれ、6歳のとき一家で植民地時代の朝鮮(全羅北道金堤邑)に移住している。地元の金提尋常高等小学校を経て京城師範学校を卒業、1941年長安国民学校教師となった。世が世であれば教師としての人生を送るはずが、翌年招集されて都城の部隊に入営。次いで、ノモンハン事件直後の満州ハイラル(現内モンゴル自治区)に配属となる。そして1945年大分陸軍少年飛行兵学校の教官で終戦を迎えた。

 戦後は福岡地方裁判所に書記官として就職し、労働運動に身を入れる。全司法労働組合中央執行委員として専従活動家となった。全司法労働組合中央本部書記長から,伝説の解雇撤回闘争を担った委員長となる。その後、日朝協会、原水協、平和委員会で活躍。小平市長選挙にも立候補している。私とは、日本民主法律家協会でのお付き合い。

その多忙な活動の人生で、齢をとることを忘れてしまったのかも知れない。とても100歳の人とは思えない。姿勢も、足取りも、発声もしっかりしたもの。お話しの論理に破綻がない。矍鑠という言葉はこの人にためにつくられたとさえ思わせる。一部では「怪物」ともささやかれている。

 吉田博徳さんは、どんな小さな会議でも大集会でも、背筋を伸ばしてはっきりと発言される。声量豊かで滑舌にくぐもりがない。常に正論で、論旨明快でもある。だから、吉田さんが話を始めると、自ずと聞く姿勢になる。私も、襟をただして聞く。
 
 吉田さんに近づいたところで、経済的利益にはつながらない。政治的に威勢を振るうことにもならない。それでも、「徳は孤ならず 必ず隣有り」なのだ。このように齢をとりたいというお手本であり、私にとっての師匠である。

 お師匠さん、いつまでもお元気で。 

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Published in 水曜日, 6月 23rd, 2021, at 18:33, and filed under 未分類.

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