「野宿者に居宅保護を!弁護団」に、最大限の敬意を!
(2021年10月31日)
日弁連の機関誌「自由と正義」の冒頭に、「ひと筆」というコラムがある。毎回、一人の会員(弁護士)のエッセイが掲載される。面白いこともあれば面白くもないこともあるが、その最近号(2021年10月号)の大阪弁護士会・小久保哲郎さんの「一筆」をご紹介したい。
小久保さんは、労働弁護士としても生存権弁護士としても知られる人。その「ひと筆」のタイトルは「裁判所は生きていた」、生活保護基準引き下げを違法と断じた大阪地裁判決についてのエッセイである。ここには、自分を叱咤激励した先輩弁護士として、木村達也さんと尾藤廣喜さんの名が出てくるが割愛せぜるを得ない。全3節の内の第1節「1997年10月?申請書は”落とし物”?」だけを引用させていただく。
弁護士になって3年目の1997年10月のことだった。先輩弁護士から振られて、日本最大の日雇い労働者の街であった釜ケ崎の支援団体の相談を受けた。当時、大阪の街では、駅舎、公園、道路と至るところにホームレスの人がいて、裁判所と弁護士会前の河川敷にもブルーシートのテント小屋がぎっしりと立ち並んでいた。
「家がないんだから生活保護が受けられて当然」と思うのだが、当時は役所に行っても「家を借りてから来い」と理不尽なことを言われて追い返されていた。路上で行き倒れれば救急搬送されて入院中だけ生活保護が適用されるが、退院すればまた路上に放逐。後で知ったことだが、大阪だけで路上で死ぬ人が年間400人いると言われていた。
「昔のようにアパートで暮らしたい」。退院を控えたホームレスのおばあさんの願いを聴いた支援団体の人が、生活保護法の条文を読み込み、手書きの「居宅保護変更申請書」をつくって一緒に役所に持っていった。すると、職員が受け取りを拒否し、押し問答のすえ、「どうしても置いて行くなら、落とし物として扱いますっ!」と宣言したという。ウソでしょ?と思ったか、録音を聞いたら本当にそう言っていた。
当時の私は、生活保護法の「せ」の字も知らなかったので、社会保障に詳しい同期(47期)の友人に相談し、連名で代理人として抗議の内容証明を出した。慌ててとりなす電話か来ると思ったが来ない。こちらからかけてみたら、「先生は知らんと思うけど、生活保護は本人との話し合い。代理人とか言われても話すつもりはない」と言われた。弁護士にこの対応なら、「ホームレスのおっちゃんが一人で役所に行くと虫ケラのように扱われる」と支援者の人が言っていたのは本当だと思った。
とんでもない「無法地帯」を発見してしまった。おっちゃんたちが声をあげられないのをいいことに、ヤクザや悪質業者ではない、公務員による権利侵害がまかり通っている。“戦闘モード”のスイッチが入った私は、毎日のように担当者や上司に電話をかけまくった。そのうち、大阪市本庁にプロジェクトチームかできて、そのおばあさんは病院からアパートへの転宅(敷金支給)が認められる弟1号になった。
支援団体から次々と相談が持ちかけられるようになり、同期の友人ら5人で「野宿者に居宅保護を!弁護団」をたち上げた。皆で手分けをして、生活保護の申請に同行したり、代理人として審査請求を申し立てたり、野宿者から直接の居宅保護(敷金支給)を求める佐藤訴訟に取り組んだりした。そして、2000年12月の近畿弁護士会連合会人権擁護大会シンポジウム「ホームレス問題と人権」を皮切りに、弁護士会もホームレス問題や生活保護の問題に取り組むようになった。
この不合理な世の中の底辺で苦しんでいる人々に手を差し伸べる仕事が本来の弁護士の業務である。だが、ホームレスや生活保護受給申請者の権利を求める訴訟の法廷には、原告側だけでなく、被告の側にも弁護士が付いているのだ。労働問題でも消費者問題でも同様だ。もちろん、人権擁護派弁護士の報酬は薄く、人権切り捨て派の弁護士には厚い。これは、経済社会の合理性がしからしむるところ。
その献身性、その意欲、その行動力に脱帽するしかない。とうてい私には真似ができない。ここに出て来る《同期の友人でたち上げた「野宿者に居宅保護を!弁護団」》の5人こそが、弁護士の鑑である。こういう人々が、社会の弁護士に対する信頼をつなぎ止めている。私もその恩恵に与っている者の一人だ。
この小久保さんの「ひと筆」には、人権切り捨て派弁護士には味わいがたい、人権派弁護士ならではの生き甲斐や「弁護士冥利」が語られていて実に清々しい。ニューヨークのローファームでビジネス法務に携わりたいなどという俗物根性とはひと味もふた味も違うのだ。