澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「善人なおもて人権をもつ いわんや悪人においてをや」

(2022年11月12日)
 安倍晋三が選挙演説中に銃撃されて亡くなったのが本年7月8日のできごと。あれから、参院選挙があり、安倍国葬が行われ、統一教会批判の世論が澎湃として起こり、岸田内閣の支持率が大きく低下した。臨時国会は、「統一教会問題国会」となって政権は防戦一方の体である。岸田が手にしたかに見えた、「黄金の3年間」は完全に潰えた。

 山上徹也の一発の銃弾が時代の状況を転換したと言えなくもない。が、実のところ、マグマは十分にたまっていたのだ。小さな一穴は、噴火を引き起こすきっかけに過ぎなかった。まさしく、蟻の一穴が堤防を崩して洪水をもたらした。

 政権はカルトとの癒着によって腐敗し悪臭を放ってはいた。が、薄皮一枚の「臭いものへの蓋」で人目に触れなかった。鋭敏な人を例外として、その悪臭の漏れには気付かなかった。

 安倍晋三の死は、当初政治的テロによるものと疑われたが、間もなくそうではないことが明らかとなった。統一教会と癒着し一体化していた政治家として、安倍晋三は「統一教会二世」の憎悪の標的とされたのだ。ようやく薄皮一枚の蓋が取れ、政権腐敗の実態が明らかにされた。そのことの報道は、世の人々を驚かせただけでなく、安倍晋三批判、自民党批判の高いボルテージとなった。にもかかわらず、敢えてした安倍国葬が岸田政権への批判となった。

 今なお、アベ政治の虚飾を剥ぎ取り、腐敗にまみれたその実態を明らかにする作業が進行中である。その徹底のために、なおメディアの奮闘に期待したい。が、もう一つ注目すべきは、山上徹也の刑事公判である。カルトが人を不幸にする典型例を語る彼の肉声のインパクトはこの上なく強い。公開の法廷での彼の言い分に耳を傾けたい。

 殺人事件である。その弁護方針は、徹底して動機を解明することを主軸とする。その動機は、統一教会がもたらした彼の生育歴における悲惨さと、彼に不幸をもたらした統一教会と安倍晋三の一体性の立証を柱とすることになるだろう。弁護団の活動に期待したい。

 また、被疑者段階では3名に制約された弁護人が、被疑者本人と十分な意思疎通に怠りないことと思う。しかるべき時期に、被疑者本人を代弁した社会に対しての発信があってしかるべきだと思う。そのことも、弁護人の任務の一端ではないか。

 その被疑者山上徹也は、今鑑定留置とされている。事情を知らない我々には、鑑定留置とすべき理由の存否について軽々に言及しがたい。その期間は7月25日から始まって、11月29日までと報じられている。彼が犯行直前まで発信してきたとされる1147件のツィート分析によれば、彼が精神的な疾患を有していることはほぼあり得ない。鑑定留置期間満了後、間もなくして彼は起訴となるだろう。

 その頃、また世の中が安倍の死を思い起こし、安倍の死の意味を考えさせられることになる。またあらためて、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と三代続いたお騒がせ政治家家系と統一教会との関わりを突きつけられて、底の浅い日本の民主主義の成熟度を嘆くことにもなる。

 一時は、山上の行為が連鎖するのではないかと恐れたが、幸いに杞憂に過ぎなかったようだ。人権を語る者は、死刑囚の人権にも配慮しなければならない。安倍晋三についても同様である。「善人なおもて人権をもつ いわんや悪人においてをや」なのである。

 それだけではない。今の世に、政治的テロはけっして成功し得ない。テロの標的とされた人物を美化し、神格化さえすることになって、テロの目的に反する政治的な効果をもたらすからだ。山上の安倍晋三襲撃の動機が政治的イデオロギーにもとづくものであったとすれば、殉教者安倍晋三は死して大きな政治的影響力をもつ存在となったであろう。たまたまそうではなかったが、けっして暴力による政治活動を許してはならない。迂遠に見えても、政治は言論によって変えていくしかない。山上の銃撃に賛意を表してはならない。

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