戦争も原発事故も、「過ちの忘却とのたたかい」を怠ってはならない。
(2023年3月11日)
すでに、「名のみの春」ではない。マンサクも、ボケも、アンズもツバキも、モクレンも満開となった。チンチョウゲやミツマタの香りが鼻をつく。道行く人々の動きも伸びやかである。
しかし、毎年この頃は気が重い。昨日3月10日は東京大空襲の日、本日3月11日は、東日本大震災の日である。戦争の被害と自然災害による被害。その警告を正確に受けとめなければならない。戦争被害は避けることができたはずのものであり、津波の被害ももっと小さくできたかも知れない。何よりも、津波にともなう最悪の原発事故の教訓を学び、生かさねばならない。
災害の被害の規模は、死者数で表現される。「東京大空襲では、一晩で10万人の死者を出した」「東日本大震災での死者・行方不明はほぼ2万、そしていまだに避難を余儀なくされている人が3万人」と。一人ひとりの、一つひとつの悲劇が積み上げられての膨大な数なのだが、数の大きさに圧倒されて具体的な悲劇の内容を見過ごしてしまいかねない。数だけからは、人の痛みも、熱さも、苦しさも、恐怖も伝わりにくい。どのように被害が生じたのか、生存者の記憶を語り継がねばならない。
昨日そして今日、多くのメデイアが、1945年3月10日における数々の悲劇と、2011年3月11日の生々しい被災者の記憶を伝えている。そして、「忘れてはならない」「風化させてはならない」「記憶と記録の集積を」と声を上げている。日本のジャーナリズム、健在というべきであろう。
私は生来気が弱い。具体的な悲劇を掘り起こす報道に胸が痛む。涙も滲む。それでも、目を通さねばならない。
昨日の赤旗「潮流」が、公開中のドキュメンタリー映画「ペーパーシティ」を紹介している。その一部を引用しておきたい。
「78年前のきょう、一夜にして10万人もの命を奪った無差別爆撃。おびただしい市民が犠牲となりました。…しかし政府は空襲被害者の調査も謝罪も救済もしていません。元軍人や軍属には補償があるのに▼老いてなお国の責任を問う被害者たち。命あるかぎりの運動には、二度と戦争を起こさせないという固い誓いがあります▼過ちの忘却とのたたかい。江東区の戦災資料センターでは今年も犠牲者の名を読み上げる集いが開かれ、東京大空襲の体験記をまとめた『戦災誌』刊行50周年の企画展も行われています▼都民が編んだ惨禍の記録集。それを支援した当時の美濃部亮吉都知事は一文を寄せました。『底知れぬ戦争への憎しみとおかしたあやまちを頬冠(かぶ)りしようとするものへの憤りにみちた告発は、そのまま、日本戦後の初心そのものである』
そして、本日の沖縄タイムスの社説が、「東日本大震災12年 経験の継承で風化防げ」という表題。原発事故の教訓をテーマとしたもの。これも、抜粋して引用しておきたい。
「世界最悪レベルの福島第1原発事故によって周辺住民の多くが今も避難生活を余儀なくされている。復興庁が発表した2月現在の全国の避難者数は3万884人。原発事故は今も被災地を翻弄(ほんろう)している。
ところが岸田政権は原発依存をやめようとしない。12年前、制御困難の原発事故の恐怖と直面した私たちはエネルギー政策の転換を迫られた。政府は2012年、「原発に依存しない社会」という理念を掲げ、30年代に「原発ゼロ」とする目標を国民に示したはずである。ところが岸田政権はそれとは逆の方向に進んでいる。この目標を放棄すべきではない。
岸田政権はロシアのウクライナ侵攻を背景とした「エネルギー危機」を理由に、原発の運転期間を「原則40年、最長60年」とする現行の規制制度を改め、「60年超運転」を可能とする方針を決めたのである。現在ある原発を最大限活用する方針への転換を図ったのだ。
「原発回帰」へと突き進む岸田政権に対する国民の目は厳しい。多くの国民は岸田政権のエネルギー政策転換を拒否している。私たちは大震災で得た教訓から巨大地震や大津波に耐えうるまちづくりとともに、原発に代わるエネルギーの確保を追求したのだ。政府はその教訓を忘れたのか。目指すべきは「原発回帰」ではなく「原発ゼロ」である。
看過できない岸田政権の方針は他にもある。増額する防衛費の財源として大震災の復興特別所得税の一部を転用するというのである。被災地は今も復興への重い足取りを続けている。それを支えるのが政府の責務ではないのか。復興費を防衛費に回すなど、もってのほかである。ただちに撤回すべきだ。」
戦争も津波も原発事故も、その被害の悲惨さ深刻さを、リアルに語り継がなければ、なにもかにも風化してしまいかねない。意識的に「過ちの忘却とのたたかい」を継続しなければならない。そうしなければ、またまた「御国を護るために戦いの準備が必要」とか、「豊かな暮らしのためのベースロード電源として原発が必要」などとなりかねない。今、国民の記憶力が試されているのだ。