めでたさも中くらいなり憲法の喜寿
(2024年5月3日)
本日、77回目の憲法記念日。擬人化すれば、日本国憲法は77歳となった。この間、部分的にも明文改憲はなかった。誕生以来本日まで、1字の損傷もなく、憲法は擁護された。これは、主権者である国民の憲法を支える強い意思が保守勢力の改憲策動を阻止したことを意味する。その意味では日本国憲法の喜寿を祝い喜ぶべきではあろう。本日は、めでたい日である。
とは言うものの、手放しで喜んでよい憲法状況ではない。確実に解釈改憲の策動が進行している。憲法の空洞化といってもよい。とりわけ、憲法の平和主義への攻撃と侵蝕は看過しがたい。9条は危殆に瀕している。安倍政権の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更以来今日まで、政府の憲法無視は甚だしい。就任前はハトと思われていた岸田が今はタカの本領を発揮している。安保3文書の閣議決定、敵基地攻撃能力保有、軍事費倍増、戦闘機まで含む殺傷兵器の輸出解禁、日米軍事同盟の質的強化等々、明らかに憲法の平和主義をないがしろにする大軍拡路線が進行中である。
憲法とは、主権者から為政者に対する命令である。権力行使を有効に制約しなければ憲法の存在意義はない。いま、政権には憲法遵守の誠実さはなく、邪魔な存在として解釈を変更して違憲な権力行使を行い、さらには明文改憲の意図を隠そうともしていない。
かくして、憲法に従うべき義務を負う権力者が、憲法改正を唱える異常事態が常態化するに至っている。さらに憂うべきは、自・公の与党勢力だけでなく、維新や国民という一部野党までもが、改憲勢力の一翼を担っている。喜寿の憲法は必ずしも安泰ではない。
喜寿を迎えた日本国憲法について、もう一つの感想がある。今日まで明文改憲を阻止し得たと言うことは、その反面、より良い憲法改正をなし得なかったということでもある。憲法は保守勢力と進歩勢力との、暫定休戦協定という政治的意味をもっている。進歩の勢力が強くなれば、憲法は大いに改正を重ねてしかるべきものなのだ。
日本国憲法は立派な憲法ではあるが理想の憲法ではない。当然のことながら、不磨の大典でもあり得ない。人権・民主主義・平和という理念を充実し実質化する方向に、真の意味での「憲法改正」を進展させなくてはならない。にもかかわらず、日本国憲法は、人権にも民主主義にも敵対し平和主義にも危険な「天皇制という異物」を抱えたまま喜寿を迎えた。憲法制定以来今日までの長きにわたって、日本の主権者はこの憲法上の異物を摘出できていない。
日本国憲法の喜寿は、まずはその無事を確認して祝したいが、それだけでは足りない。明文改憲と解釈改憲の両者を最大限警戒するとともに、より良い憲法へ向けての「真の改正」の必要を確認する日としたい。異物を摘出し、部分的な治療を重ねることによって、日本国憲法は大いに若返り活性化するに違いない。