澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「学校に自由と人権を! 10・20集会」にご参集の皆様に、東京「君が代」裁判弁護団から報告を申しあげます。

(2024年10月20日)

東京「君が代」裁判第5次訴訟は、12月16日(月)に、最終準備書面を陳述して結審となります。原告側の最終準備書面は、15人の原告に対する26件の懲戒処分の違法性について、憲法・公務員法・教育法・行政訴訟法・行政手続法・国際条約の国内法上の効力などの様々な観点から論ずるものとなっています。

 この準備書面を作成する過程で、あらためて「10・23通達」の衝撃を思い起こします。あれから21年になります。予防訴訟提起からも20年。当時は、石原慎太郎という極右の政治家が、右翼の仲間を語らって東京都の教育委員に送り込んでたくらんだ、右翼グループの思いつき的な暴走だと思いました。だから、石原さえいなくなれば、都立の教育現場は正常に戻るだろう。
 ところが、石原が知事を退いた後も、「10・23通達」体制は変わらなかった。石原後も、危険なナショナリズム鼓吹の象徴としての「日の丸・君が代」強制が続いています。

 この間の一連の訴訟では、当初の石原や都教委の思惑に歯止めを掛け得た点では、一定の成果があったことは確かです。しかし、目標であった通達や処分の違憲性を勝ち取ることはできていません。まだ、道は半ばです。我々は、挑戦を続ける覚悟です。

 私たちが取り組んでいる、訴訟の性格と意義について、以下のとおり確認して、共通の認識にしていただきたいと思います。

 まず、本件は憲法訴訟です。しかも、個別の条文解釈のあり方を超えて、憲法ないしは立憲主義の根幹に関わる理念を問う訴えと言ってよいと思います。
 「国旗に対して起立し国歌を斉唱せよ」とは、「国家の象徴と位置づけられた旗」に正対して起立し、「国家の象徴と位置づけられた歌」を他の起立者とともに唱えという命令です。結局のところ、国家に対する敬意表明の強制にほかなりません。いったい、このような強制が許されるのか、この強制に服さなかったことをもっての制裁が許されるかが問われています。この問いが、憲法ないしは立憲主義の理念の根幹に関わるものです。

 「国旗・国歌」の強制において、敬意を表明すべき対象となっているのは、紛れもなく「日本」という国号を付せられた国家です。
 国家は複雑な多面性を有する存在ではありますが、国家の本質は権力の主体であることです。本件における強制は、直接には被告東京都・教育委員会によるものですが、その法的強制力の源泉は国家であり、被告が行使する公権力は国家が有する権力の一分枝です。
 結局のところ、本件起立斉唱の強制は、権力主体として国家が、主権者の一人であり、かつ基本的人権の主体である個人に対して、「我に敬意を表明せよ」「我を崇めよ」と権力を行使している構図なのです。

 国家象徴への敬意表明の強制は、この《権力主体としての国家》と《人権主体としての個人》の対立構造を浮かびあがらせています。明らかに、国家を個人に優越する法的価値としているのです。これは、一世紀前の、大日本帝国憲法の時代の遺物、残滓でしかありません。日本国憲法は、明らかに個人の尊厳を根源的な、国家に優越する価値の源泉としています。国家あっての個人ではなく、個人の尊厳を擁護する必要な限りで国家が存在しているのです。都教委やこれを許容する最高裁の立場は、国家至上主義と言うほかはありません。

 また、本件は教育訴訟です。国旗・国歌ないしは、日の丸・君が代に対する敬意表明の強制は、都立学校において教育の一端として行われました。ことは、職務命令を受けた原告らの個人としての問題を越えて、教育の場における公権力の行使のあり方を問う訴訟になっています。
 教育は権力の僕ではありません。権力の統制を排した自由な場において行われねばならず、原告らの教育公務員としての専門性が、最大限尊重されなければなりません。都教委の言い分は、「子どもの将来に大きな影響力をもつ教師であるから、職務命令には従うべきだ」と言います。まったく逆で、子どもの将来に大きな影響力をもつことを自覚する真面目で良心的な教員であればこそ、「子どもに寄り添う立場から、職務命令には従えない」のです。
 原告ら教育公務員は、子どもたちの教育に携わる専門職従事者として有する裁量を最大限尊重されなければなりません。

 また本件訴訟は、行政に法の支配を徹底するための行政訴訟です。既に、岡田正則教授の意見書と学者証人としての証言が詳細に明らかにしているとおり、本件各懲戒処分は、いずれもその内容と手続の両面において、不備、杜撰なものとして、懲戒権濫用ゆえに、処分取消とならざるを得ません。

 さらに、本件訴訟では、二つの国際機関からの「国旗・国歌」強制に疑念を表明する勧告の効力が争われています。日本は、ジェンダー平等においても、子どもの人権においても、死刑問題についても、刑事司法手続においても、国際的には人権後進国になってしまった感を拭えません。担当裁判官には国際的な人権水準を理解してもらい、その擁護を訴えたいと思います。

 最後に、私たちが訴えている場である裁判所の体質の問題があります。
 行政が人権を侵害し教育を歪めているとき、これを正すのが司法の役割です。公正な裁判のためには、司法の独立が必要です。司法の独立とは、結局のところ、一人ひとりの裁判官が、権力や社会的圧力に屈することなく「法と良心」に基づいて裁判ができるということです。行政や最高裁の意向を忖度する裁判官は失格です。
 担当裁判官には、「憲法の番人・人権の砦」たらんと裁判官を志した初心を思い起こしていただきたい。裁判官の使命とは、安易に先例を穿鑿しこれを踏襲することではありません。あるべき憲法理念、憲法秩序、憲法が要請する人権や教育を見極めて、ぜひとも、血の通った道理のある判決をお願いしたい。そう訴えるつもりです。

 そして皆さん、私たち主権者がが最高裁裁判官に点を付けて、成績表を渡す機会が近づいています。
 10月27日の総選挙の際には、最高裁裁判官の国民審査が行われます。審査対象の裁判官は、6名ですが、私はそのうちの今崎幸彦・中村愼・宮川美津子の3氏に×を付けます。
 詳細は、ぜひ日本民主法律家協会のホームページをご覧いただき、最高裁裁判官に批判の×を付けて、主権者からの成績表としてください。
 https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa24_6.pdf

 なお付言すれば、今回注目していただきたいのは弁護士出身の最高裁裁判官です。以前は弁護士出身判事は比較的マシだった。今は様変わりです。安倍晋三第2次政権が発足して、彼が最初に任命した弁護士出身の最高裁判事は、あの木澤克之です。弁護士として何か活躍をしたわけではない。加計孝太郎の同級生で加計学園の監事だっただけの人物。安倍晋三の恣意的な人事の典型の一つです。

 その後は、安倍から菅・岸田まで、一弁出身者ばかり。「一弁一弁また一弁」。宮川美津子は連続6人目の一弁出身者。もちろん、人権派とは無縁。典型的な大ローファームの代表で、企業法務の専門家。在野・反権力を真骨頂とする本来の弁護士とは思えません。

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