「集団的自衛権限定行使容認論」は容認し得ない
陽光燦々の4月。東京周辺は花満開。ここにもあそこにも、桜、桜、桜。気がつかなかったが、こんなにも桜が多かったのか。桜だけではなく、辛夷も桃も椿も、春の花が咲き誇っている。
美しい季節とは裏腹に、一夜明けて今日からは消費税8%の世界に。そして「武器輸出3原則」から「防衛装備移転3原則」へ変更の閣議決定。地教行法改正に自・公の合意成立と、政治は美しくない。
当ブログは、2年目の始まり。また、連続更新を目指して書き続けていくことになる。
「憲法」のキーワードでグーグル検索をすると、検索ページに700万件がヒットする。「澤藤統一郎の憲法日記」はトップページ(12件)に位置して現在11位のランク。すぐ目の前に、「憲法会議」と「キーワード・憲法-(赤旗)日本共産党中央委員会」の背中が見える。当面はこの両者に、追いつき追い越すことが目標。来年の4月1日に再度のご報告をしたい。
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さて、集団的自衛権行使容認の問題。
安倍政権の解釈改憲路線に自民党内の反発が強かった。その反発を吸収するために、総裁の直属機関として「安全保障法制整備推進本部」が立ち上げられ、昨日(31日)その第1回会合が開かれた。衆参156人の議員が参加したという。
この席で、高村正彦副総裁が講師を務めて、「限定的な集団的自衛権行使容認論」の線を出し、その理由づけとして「砂川事件最高裁大法廷判決(1959年)」を持ち出し、判決の論理を根拠として政府の限定的な憲法解釈変更が可能だと説明したとのこと。
この「論理」は、近々予定されている安保法制懇の答申の内容として報道されており、安倍首相も国会答弁で口にしている。おそらくは、これが着地点と予定されたところなのだろう。出席した議員からは目立った異論は出なかったという。
今後は、高村解説の「『必要最小限度の範囲』には、集団的自衛権行使の一部が入りうる」という、「集団的自衛権行使限定容認論」をめぐって議論がかわされることになる。
高村解説はいかにも苦しい説明。砂川事件最高裁判決からそこまでを読み取ることは困難だろう。同訴訟で争われたのは、旧安保条約に基づいて日本に駐留する米軍が、憲法9条2項で「保持しない」とされた戦力に当たるか否かである。原審東京地方裁判所の伊達判決はこれを肯定して違憲判断をし、跳躍上告審の最高裁はこれを逆転した。その説示部分の中心は以下のとおりである。
「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」
これを素直に読めば、「9条2項の法意が自衛のための戦力の保持をも禁じたか否かについては判断しない」「外国軍隊の駐留は日本の侵略戦争の火種にはならないから禁じられた戦力に当たらない」というもの。ヘンな理屈ではあるが、集団的自衛権行使容認とは無縁である。そもそも、安保条約は集団的自衛権の行使を前提に締結されたものではない。
また、判決に、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」との一節がある。これが、個別的自衛権の論拠とされることはあり得ても、集団的自衛権の論拠とはなしえない。経過は、訴訟における争点の射程距離も、裁判所を含む当時の訴訟関係者すべての認識も、集団的自衛権論とは無縁であったことをものがたっている。これを、あとからの解釈としてこじつけることがどだい無理なのだ。
むしろ、心強いのは、世論調査での国民の意思は冷静で、最近の毎日の調査では以下のとおりである。
憲法解釈変更 反対64% 賛成30%
集団的自衛権行使 反対57% 容認37%
安倍政権は、実は政権自身にとっても極めて危ない橋を渡っているといわざるを得ない。
(2014年4月1日)