澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

何を今さら、「高校生のデモ参加容認」

昨日(10月5日)、文部科学省は「『高等学校における政治的教養と政治的活動について』(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)の見直しに係る関係団体ヒアリング」を実施した。

一部のメディアが「高校生のデモ参加容認」と見出しを打っているが、多くの高校生が、「えっ? いままでデモ参加はいけなかったの?」と怪訝な思いだろう。「文科省が18歳選挙権の実施に向けて、高校生の政治的活動を全面禁止してきた1969年通知を廃止し、新通知案を発表した。」「全面禁止は見直したものの、禁止・制限を強調する内容」「ヒアリングのあと、今月中にも正式に通知することになる」と報じられている。ところが、新通知案の全文を掲載するメディアが見つからない。

総じての「新通知案」に対するメディアの評価は、「校外での政治活動は一定条件下で容認する」「校内では引き続き高校側に抑制的な対応を求める内容」(毎日)という代物。高校生を未成熟な保護対象としてのみ見る基本姿勢に変更はない。「現政権を支持する票は欲しいが、政治的な意見表明は抑制して、秩序に従順な態度を訓育する」ことに必死なのだ。

いつの世にも、政権は批判を嫌う。主権者からの権限委託が政権の正当性の根拠なのだが、政治批判をするような主権者は大嫌い。温和しく批判精神のない、従順な主権者を育てたくてしょうがない、そのホンネが窺える。

69年通達(「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)は、いまよく読んでおくべきだ。政府というもののホンネがよく分かる、政治教育の資料として恰好なものではないか。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19691031001/t19691031001.html

「文部省初等中等教育局長通達」として、宛先は「各都道府県教育委員会教育長・各都道府県知事・付属高等学校をおく各国立大学長・各国立高等学校長」となっている。発出の日付は、1969年10月31日。大学紛争影響下の時代、「70年安保」の前年でもあって、「最近、一部の高等学校生徒の間に違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生しているのは遺憾なことであります」と当時の状況が述べられ、長期的には「このようなことを未然に防止するとともに問題に適切に対処するためには、政治的教養を豊かにする教育のいっそうの改善充実を図る」こと、短期的には「政治的活動に対する学校の適切な指導が必要」と、この通達の動機や趣旨が冒頭に述べられている。

かなりの長文である。「高校生の政治的教養の涵養」について言及しなければならないタテマエと「政治的活動の抑制」のホンネとの結びつけについての苦心の作である。もちろん、ホンネの部分が分厚く語られている。

同通達は「高等学校教育と政治的教養」を教育基本法から説き起こす。
「教育基本法第8条第1項(現行教基法14条1項)に規定する『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。』ということは、国家・社会の有為な形成者として必要な資質の育成を目的とする学校教育においても、当然要請されていることであり、日本国憲法のもとにおける議会制民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するにあたつて欠くことのできないものである。」

ここで、「良識ある公民=議会制民主主義の尊重・推進」と矮小化し短絡していることなどは措くとして、国(文科省)も、タテマエとしては高校段階での政治教育を認めざるを得ないことを確認しておく必要がある。

問題は、その政治教育の中身である。ここにホンネが表れる。
「政治的教養の教育は、教育基本法第8条第2項(現行教基法14条2項)で禁止している『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動』、いわゆる党派教育やその他の政治的活動とは峻別すること。」

「政治的教養教育」と「党派教育・政治活動」との峻別の要求である。おそらく、ここがポイント。教育が、現実の政治を素材とし、生徒の主体性を尊重すれば、「党派教育・政治活動」とレッテルを貼られて非難される。生の素材をことごとく排除し、他人事として授業をすれば、「政治的教養教育」の実践と称賛される。その間に、無限のグラデーションがあることになろう。

同通達は、「高等学校における政治的教養の教育のねらい」を述べている。歯に衣を着せた文章。ホンネの翻訳が必要だ。

「将来、良識ある公民となるため、政治的教養を高めていく自主的な努力が必要なことを自覚させること。」
(将来、従順な被統治者に育つよう、「出る釘は当たれる」「長いものには巻かれろ」と自覚する生徒を育てる)

「日本国憲法のもとでの議会制民主主義についての理解を深め、これを尊重し、推進する意義をじゆうぶん認識させること。」
(直接民主主義的契機の重要性を教えてはならない。選挙の投票日だけが国民が主権者で、そのほかは議員や内閣にお任せしておくのが、議会制民主主義だと叩き込むこと)

「国家・社会の秩序の維持や国民の福祉の増進等のために不可欠な国家や政治の公共的な役割等についてじゆうぶん認識させること。」
(「憲法は権利の体系だ」などと生意気なことは言わせない。大事なのは「秩序の維持」「公共性の尊重」、これが政治教育の核心なのだ)

また、同通達は、「現実の具体的な政治的事象の取り扱いについての留意事項」の項を設けて「特定の政党やその他の政治的団体の政策・主義主張や活動等にかかわる現実の具体的な政治的事象については、特に次のような点に留意する必要がある」と言っている。ここが彼らのホンネのホンネ。ここだけは、全文を掲載しておこう。ホンネ丸見えではないか。

(1) 現実の具体的な政治的事象は、内容が複雑であり、評価の定まつていないものも多く、現実の利害の関連等もあつて国民の中に種々の見解があるので、指導にあたつては、客観的かつ公正な指導資料に基づくとともに、教師の個人的な主義主張を避けて公正な態度で指導するよう留意すること。
 なお、現実の具体的な政治的事象には、教師自身も教材としてじゆうぶん理解し、消化して客観的に取り扱うことに困難なものがあり、ともすれば教師の個人的な見解や主義主張がはいりこむおそれがあるので、慎重に取り扱うこと。
(2) 上述したように現実の具体的な政治的事象については、種々の見解があり、一つの見解が絶対的に正しく、他のものは誤りであると断定することは困難であるばかりでなく、また議会制民主主義のもとにおいては、国民のひとりひとりが種々の政策の中から自ら適当と思うものを選択するところに政治の原理があるので、学校における政治的事象の指導においては、一つの結論をだすよりも結論に至るまでの過程の理解がたいせつであることを生徒に納得させること。
 なお、教師の見解そのものも種々の見解の中の一つであることをじゆうぶん認識して教師の見解が生徒に特定の影響を与えてしまうことのないよう注意すること。
(3) 現実の具体的な政治的事象は、取り扱い上慎重を期さなければならない性格のものであるので、必要がある場合には、校長を中心に学校としての指導方針を確立すること。
(4) 教師は、その言動が生徒の人格形成に与える影響がきわめて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立つて生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること。
 なお、国立および公立学校の教師については、特に法令でその政治的行為が禁止されている。
(5) 教師は、国立・公立および私立のいずれの学校を問わず、それぞれ個人としての意見をもち立場をとることは自由であるが、教育基本法第六条に規定されているように全体の奉仕者であるので、いやしくも教師としては中立かつ公正な立場で生徒を指導すること。

さらに、同通達は、「生徒の政治的活動が望ましくない理由」を述べている。おそらくは、当局側が生徒や現場教師との「論戦」を想定して、理論付をしたものと思われる。

「生徒は未成年者であり、民事上、刑事上などにおいて成年者と異なつた扱いをされるとともに選挙権等の参政権が与えられていないことなどからも明らかであるように、国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請しているともいえること。」

「心身ともに発達の過程にある生徒が政治的活動を行なうことは、じゆうぶんな判断力や社会的経験をもたない時点で特定の政治的な立場の影響を受けることとなり、将来広い視野に立つて判断することが困難となるおそれがある。したがつて教育的立場からは、生徒が特定の政治的影響を受けることのないよう保護する必要があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なつている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくないこと。」

「生徒の政治的活動は、学校外での活動であつても何らかの形で学校内に持ちこまれ、現実には学校の外と内との区別なく行なわれ、他の生徒に好ましくない影響を与えること。」

「現在一部の生徒が行なつている政治的活動の中には、違法なもの、暴力的なもの、あるいはそのような活動になる可能性の強いものがあり、このような行為は許されないことはいうまでもないが、このような活動に参加することは非理性的な衝動に押し流され不測の事態を招くことにもなりやすいので生徒の心身の安全に危険があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことにより、学校や家庭での学習がおろそかになるとともに、それに没頭して勉学への意欲を失なつてしまうおそれがあること。」

これを翻訳すれば、(高校生は子どもじゃないか。そこのところをよく弁えて、おとなしく、役所や校長の言うとおりにお勉強だけをしていればよいのだよ。いま、政治に関心をもつと碌な大人にならないよ)。翻訳するまでもないか。

追い打ちをかけて通達は次のように言う。
「生徒の政治的活動の規制」については、「基本的人権といえども、公共の福祉の観点からの制約が認められるものである」から問題ない。

「教科・科目の授業はいうまでもなく、クラブ活動、生徒会活動等の教科以外の教育活動も学校の教育活動の一環であるから、生徒がその本来の目的を逸脱して、政治的活動の手段としてこれらの場を利用することは許されないことであり、学校が禁止するのは当然であること。なお、学校がこれらの活動を黙認することは、教育基本法第8条第2項(現行14条2項)の趣旨に反することとなる。」

「生徒が学校内に政治的な団体や組織を結成することや、放課後、休日等においても学校の構内で政治的な文書の掲示や配布、集会の開催などの政治的活動を行なうことは、教育上望ましくないばかりでなく、特に、教育の場が政治的に中立であることが要請されていること、他の生徒に与える影響および学校施設の管理の面等から、教育に支障があるので学校がこれを制限、禁止するのは当然であること。」

「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動は、一般人にとつては自由である政治的活動であつても、前述したように生徒が心身ともに発達の過程にあつて、学校の指導のもとに政治的教養の基礎をつちかつている段階であることなどにかんがみ、学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然であること。特に違法なもの、暴力的なものを禁止することはいうまでもないことであるが、そのような活動になるおそれのある政治的活動についても制限、禁止することが必要である。」

この最後がすさまじい。「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動」まで、違法・暴力的でなくても、そのおそれがあれば、「制限、禁止することが必要である」という。無茶苦茶と言うほかはない。さすがにここだけは、18歳選挙権の実施の情勢にふさわしくないと、見直されることになるようだ。それで、「高校生のデモ参加容認」ということになる。

こんな通達が、今どき現実にあることに一驚するしかない。日本ははたして、民主主義国家なのだろうか。欧米諸国から、「価値観を同じくする国」と見てもらえるのだろうか。そして、今回、この通達の全体が、どのように見直されるのだろうか。基本的な理念が見直されるのか否か、しっかりと見極めたい。子どもの権利条約や、国際人権規約など国際水準から見て、日本の民主化度や人権確立の程度が測られ試されている。
(2015年10月6日・連続919回)

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