子どもの教育を受ける権利を全うすべき教師の義務の視点から「日の丸・君が代」不起立・不斉唱を考えるー樋口陽一講演から
本日は、樋口陽一講演会。「心も命も奪う戦争国家は許さない11・15集会」において、「『戦後からの脱却』の中の教育・個人ー「日の丸・君が代」の何が問題か」と題する中身の濃い講演を聴くことができた。
安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というフレーズの重大性と、自民党改憲草案の非立憲主義的性格のひどさについての講演も貴重な内容だったが、教育問題に限って、内容を要約して紹介する。
レジメはない。録音もしていない。飽くまで私の理解した範囲で、再構成したものとご理解いただきたい。いずれ、録音反訳したものが公開されるだろうと思う。
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大きく分類して教育観には対極的な2種がある。一つが、教育を私事と見る「私事性の教育観」。そしてもう一つが教育を公共の役割に位置づける「公共性の教育観」。
伝統的には教育は私事であった。宗教団体や部分社会が教育を担当し、子の親は自分が属する団体に子の教育を託した。宗教的価値観を含んでの教育が行われることになる。この伝統はアメリカによく生きている。教育の公共性を強調する制度の典型が19世紀以来のフランスで、親から子を引き離しても公共が子らの教育に責任を持つという考え方。今でも、学校は公共の空間であって、フランスの学校は校門の中に親を入れない。政教分離が徹底し、私的な価値観は教育から切り離される。宗教的な象徴を校内に入れないという原則の徹底から、ムスリムの子らのスカーフ着用禁止問題が起きているほど。
この両者それぞれの教育観は、具体的な制度においては混在することになるが、国民の教育を受ける権利の保障や教育の機会均等の視点からは、教育の公共性を無視することはできない。
日本では、国民の教育権と国家の教育権との教育権論争が続けられてきたが、両者ともに「公共性の教育観」を前提にしたその枠内での議論であったといってよい。国民の教育権論における「国民の」とは、日本国憲法下でのあるべき真っ当な国民を想定して、あるべき国民を主体としたあるべき民主的教育論であった。
教育における公共性の重視は、教員に公共的な専門職としての義務を要求することにつながる。教員個々人に、その職務の遂行過程で個人的な思想良心に従った教育を行うことの自由が保障されているわけではない。従って、「日の丸・君が代」強制を違憲と主張する訴訟において、このまま教員たる個人の思想良心侵害の問題を主戦場としてよいのか疑問なしとしない。
それぞれの教員が自分史を積み上げて現に有している思想・良心を対象に、その侵害を許さないとする主張の仕方では、違憲判決獲得に限界があると考えざるをえない。現実にそれぞれの教員がもっている思想・良心ではなく、公共的な役割の担い手としての教員が有すべき職責としての思想・良心を想定して、そこからの逸脱があるか否かを考察しなければならない。そのような枠組みから新たな裁判勝利への道が開けるのではないか。
よるべき憲法条文上の根拠は、教員の思想・良心の自由を保障する憲法19条ではなく、子どもの教育を受ける権利を保障した憲法26条ということになるだろう。子どもの教育を受ける権利が飽くまで主軸となって、子どもの権利を全うするために教員のなし得ること、なさねばならぬことの範囲が決まる。ここで問題となるのは、教員の権利というよりはむしろ教師としての職業倫理に裏付けされた義務ではないか。
人が人を貶めてはならず、人が人を貶めていることを平然と傍観していてもならない。「日の丸・君が代」強制の可否をめぐる局面における教員の義務とは、そのような意味で、傍観者となることなく子どもに寄り添うべき義務であろうと思う。
(2015年11月15日・連続第960回)