沖縄県民大集会の日に、沖縄の怒りの根源を想う
本日(6月19日)那覇で、米軍属(元海兵隊員)女性暴行殺人事件に抗議する県民大集会が開催された。集会名は、「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)。参加者数は6万5千人。県民の怒りと悲しみの思いの強さを示すこの集会。集会参加者の訴えは直接には日米両政府に向けられた形だが、本土の私たちにも鋭く「沖縄をこのままにしておいてよいのか」と問いかけている。
1995年の複数米兵による少女暴行事件を受けて開かれた県民総決起大会は、8万5千人規模の大集会だった。今回は、自民・公明・おおさか維新の3党は参加していない。その意味では、文字通りの「オール沖縄」の集会とは言えないかも知れない。
しかし、今圧倒的な県民世論は、仲井眞前知事の辺野古埋立承認に怒り、翁長県政を支えて政府と対峙している。県議選では、自民・公明・維新の3党を相手に翁長県政支持を確認した。そして、いよいよ参議院選挙の闘いが間近だ。自・公・維まで参加の「オール沖縄」では闘う相手方を見失わせることになるのではないか。
政府与党の下部組織であり、改憲勢力でもある自・公と、それに擦り寄る維新の大会不参加は、自らの孤立化を際立たせたもの。この3党不参加での、6万5千人の集会規模は、あらためて大きな意味のあるものと思う。
集会では、被害女性の死を悼んで黙祷のあと、被害女性の父親が寄せたメッセージが読み上げられた。
「米軍人、軍属による事件・事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。次の被害者を出さないためにも、全基地撤去、辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています」
あいさつに立った翁長知事は「(95年の大会の際に)二度と繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えることができなかった。知事として痛恨の極みであり、大変申し訳ない」と述べた、と報じられている。
若者たちも登壇し、「米軍基地を取り除くことでしか問題は解決しない」などと主張した。最後に採択された大会決議は、繰り返される米軍関係の犯罪や事故に対する県民の怒りと悲しみは限界を超えていると指摘。日米両政府が事件のたびに繰り返す「綱紀粛正」「再発防止」には実効性がないと反発し、県民の人権と命を守るためには、在沖海兵隊の撤退のほか、県内移設によらない米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、遺族らへの謝罪や補償、日米地位協定の抜本的改定、を求める決議が採択された。
先に(5月26日)、県議会でも「在沖海兵隊の撤退を求める抗議決議」が「全会一致」で可決された際にも、自民党議員は議場から退席して採決に加わらなかった。今回の県民集会でも同じことが繰り返されたことになり、自・公はさらに孤立と矛盾を深めたといえよう。
沖縄の怒りと悲しみが渦巻く大集会が行われている頃、東京で「思想史の会」というグループの研究会が開かれ、誘われて参加した。
報告は次のタイトルの2題。
「明仁天皇と昭和天皇」
「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」
各1時間余の報告のあとに、原武史放送大学教授のコメントがあって、質疑と意見交換があった。
最初の報告の中で、昭和天皇(裕仁)の日本国憲法や(旧)安保条約制定過程への積極関与の経過が語られ、とりわけ昭和天皇の超憲法的行動として「沖縄メッセージ」が次のように紹介された。
☆昭和天皇は新憲法施行後も、閣僚の上奏など非公開の場では政治的発言を続けてきた。いくつかの例を挙げれば…。
・1947年5月、マッカーサーとの第4回会見。「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表であるアメリカが、そのイニシアティブを執ることを要する」。
・1947年7月、芦田均外相に、「日本としては結局アメリカと同調すべきで、ソ連との協力は難しい」
・1948年3月、芦田首相に、「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」
☆時には、政府を介さずにアメリカにメッセージを送ることも。1947年9月にはGHQの政治顧問に対し、共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか、と申し入れた。
私見だが、当時の天皇(裕仁)には、既に施行(47年5月)されていた新憲法に従わねばならないという規範意識は希薄で、皇統と皇位の維持しか脳裏になかった。そのために、言わば保身を動機として、沖縄を売り渡すという身勝手なことを敢えてしたのだ。その裕仁の保身が、69年後の今日の沖縄県民の大集会につながっている。
おそらくは、そのような負い目からだろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を巡幸したが沖縄だけには足を運ばなかった。「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」のレポートで、彼の「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」(1987年)という歌があることを知った。気にはしていたのだ。
父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから5回、計10回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。
この天皇の沖縄へのメッセージを在沖の歌人たちはどう受け止めたか。報告者は11首の歌を披露している。たとえば、次のような激しさの歌。
・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)
・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)
・おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)
今日6月19日県民大集会も、根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、異民族支配が今も続く沖縄。
傍観者としてではなく、今日の集会の人びとの怒りを受け止めねばならないと思う。
(2016年6月19日)