天皇崇拝の「信仰」と「マインドコントロール」からの脱却、それが歴史の進化だ。
天皇が生前退位の希望をつぶやいて以来、「ヘイカおいたわしや」の類の反響に驚いてばかり。つくづく、この国はおかしいと思う。この国には主権者マインドが育っていない。いまだに多くの国民が臣民根性から抜け出せないままなのだ。なるほど、どうりでアベ政権が安泰で、小池百合子が当選もするわけだ。
日本の近代においては、個人の自立も民主主義も、天皇制と拮抗して生まれ天皇制と対峙して育った。その天皇制が、今日に至るも、かくも強固に根を張っていることに衝撃を覚える。
日本において「国民主権」とは、天皇主権の対語であり、歴史的に天皇主権否定という意味にほかならない。主権者意識の成熟度は、天皇制の呪縛からの解放度によって測られる。
近代天皇制とは、「信仰」と「マインドコントロール」と「社会的同調圧力」とそして「法的強制」とから成り立っていた。いま、象徴天皇制下に「法的強制」はなくなっている。「信仰」も「マインドコントロール」もなくなったはずだったが、実はしぶとく生き残っているのだ。象徴天皇への敬意を強制する「社会的同調圧力」の強さは、戦前と変わらないのではないか。一皮むけば、この国は、戦前と戦後を通じてさほどの違いがない。いまだに、何ともおかしな世の中なのだ。
近代天皇制は、明治維新期に国民統治の道具として国家が作り上げたものだ。神の子孫であり現人神であることが、天皇の統治権正当性の根拠とされた。2000年昔の話ではない。ヨーロッパでは市民革命も産業革命も経た19世紀後半に、神話を国家の礎に据えるという、マンガみたいなことができたのだ。こんなリアリティを欠いた「宗教国家」が、現実に20世紀の半ばまで持ちこたえた。
天皇を神とする「信仰」が国家神道である。これは天皇を教祖とし神とするのだから天皇教と言ってよい。信仰だから理屈は通じない。しかも、精神の内奥の話だ。一人ひとりの国民の精神生活が、神なる天皇に乗っ取られたのだ。その天皇が、信仰の世界だけでなく、世俗の政治権力を総覧し軍事大権を掌握して大元帥ともなった。天皇主権と天皇崇拝を受容する精神状態を作りだしたものが、天皇制国家の国民に対する「マインドコントロール」である。マインドコントロールは全国の学校と軍隊で組織的に徹底して行われた。それに、家父長制の家庭も地域も参加した。NHKも朝日も毎日も、メディアがこれを補強した。
しかし、世の中には、天皇を神と認めない人も、マインドコントロールを意識的に拒絶する人もいた。自分は自分でなければならないと自覚する人びと。しかし、この人たちも「社会的同調圧力」に敢然と抗することは難しかった。内心はともかく、誰もが忠君愛国・滅私奉公を実践するフリをせざるを得なかった。社会的同調圧力による面従腹背の強制である。
さらに積極的に天皇制に抵抗を試みる不逞の輩には、予防検束や刑事罰が待ち受けていた。「國体を変革することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は死刑又は無期もしくは5年以上の懲役もしくは禁錮に処す」という治安維持法が過酷に弾圧のムチを振るった。
蛇足だが、治安維持法にいう「國体」とは天皇制のことである。「『天皇制を否定して民主主義国家を作ろう』などという不届きな運動の首謀者は死刑」というわけだ。
こうして、誰もが天皇には逆らいがたい状況がつくられ、その状況が戦争を準備した。多くの国民がマインドコントロール下に率先して「大君の醜の御楯と出で立っ」て、戦地から還ることがなかった。少なからぬ若者が、内心では出征などマッピラご免と思っていたが、社会的同調圧力はこのホンネを口に出すことを封じた。心ならずも子も母も、「感涙にむせんで」戦争に協力した。
おびただしい死者を出して戦争が終わって、国民はマインドコントロールから覚醒した。神なる天皇に支配されていた精神を解放した…、はずだった。教育勅語も修身も軍人勅諭も戦陣訓もなくなった。治安維持法もなくなり、大逆罪も、不敬罪も廃止された。これで、国民は主権者として自立するはずだった。
ところが、神権天皇制は廃止されたものの、その残滓が象徴天皇制として生き残った。同時に臣民根性も根絶されずに生き残った。生き残った臣民根性は、社会的同調圧力を栄養素として増殖を開始し、今肥大化している。天皇に過剰な敬語を要求する同調圧力は年々強まっている。主権者が、天皇について率直に語りにくいこの空気は、危険この上ない。
8月15日がもうすぐだ。日本が神国などではなく、神風は祈っても吹かず、天皇も一人の人間でしかないことを国民が悟ったその日。その日を思い出して、もう一度、天皇制からの呪縛を意識的に断ち切らねばならない。かつて教場で子どもたちに刷り込まれた天皇崇拝の信仰とマインドコントロールから脱却し、社会的同調圧力に抗おう。
日本国憲法は不磨の大典ではない。天皇制という憲法体系の中の夾雑物は、次第にその役割と存在感を縮小して、やがてなくすることが歴史の進化の方向である。皇族を減らし、皇室予算を減らし、天皇の公的行為などは全廃してよいのだ。(象徴)天皇への敬意強制への同調圧力に迎合した発言は、歴史に抗する愚行というほかはない。
(2016年8月13日)